在士村編-中世甲良の景観に関する試行的考察

下之郷の東に隣接し 在士の南東部に接するのが法養寺村である。
現在集落は甲良神社や在士 下之郷から少し離れた場所に位置しているが 甲良町史 に拠ると江戸時代初頭までは 現在地より北側に位置していたらしい。
この江戸時代以前の法養寺村 以後旧集落 について 具体的な場所を知りたい という動機が 今回このように甲良町を丹念に調べる切っ掛けにもなった。

法養寺村旧集落を探して

さて現在のインターネット地図サービスを見ると 甲良中学校の西側から法養寺地区になる。
中学校と県道 13 号線八日市甲西線 高野道 の間にある区画に一つの社が存在する。これは明治四年の絵図に 神明社 として描かれる社で 現在では 葛城神明社 太神宮 と呼ばれているようだ。
ちなみに下之郷では 桂城 だが 法養寺では 葛城 となるのが興味深い。

旧集落に関する記述

さて法養寺の旧集落については次のような記述が見られる。

在士村の南にあり。この村昔は四町許り西の方今社のある辺にありしを 東へ移て 社とは四町許り離居也 甲良町史より 江左三郡録

元は甲良神社から下之郷へ行く道の曲がり角にある神明神社にかけて 高野道の東側に沿った村であったと思われる 甲良町史

移転前の法養寺は甲良神社の南側にあり 神社前から神明社までの高野道 現在の県道彦根-八日市甲西線 に沿った東側一帯に存在していた。その後 年代は不明 に水害の影響で現在の地に移転した。法養寺誌から要旨意訳

また ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書 10-1 では 旧集落跡地には神明神社が祀られ とある。
つまり甲良中学校の東側から 甲良神社の南側の一帯に存在したと考えるのが妥当であろう。

甲良神社=素盞烏社

法養寺の神社について 江左三郡録 には 素盞烏社 とある。
明治四年の絵図では 甲良上社 と記されているが これは 甲良上郷 の惣社であることを示す。
多賀大社文書 によれば明治十年代には 甲良神社 とあるから それまでに 素盞烏社 から改めたのだろうと思われる。
すなわち中世法養寺の姿を追い求めるのなら甲良神社は 素盞烏社 と書いた方が正確かもしれない。

河川について

江左三郡録 甲良町史 法養寺誌 では犬上川の洪水によって現在の集落に移転したとの説が載る。
甲良町史 によればこの説も実のところ定かではないのだが 明治四年の絵図には既に神明神社の南側を水路 下之郷川が通っているから この下之郷川が溢れたために 高畠 へ移転したのだろうか。

昭和の発掘では下之郷の字橋詰と法養寺の字橋ノ向の境となる地点で河川跡が発掘されており 此方との関連も興味深い。下之郷川の先祖とも言うべき初期灌漑の痕跡だろうか。

手がかりとしての釈門と西方寺の存在

土地に伝わる話として次のようなものがある。

釈門から西の方一帯の田は今も土地が低くなっていて 排水に困るところから田の隅に スイッ という穴を掘って水を吸い込ませるのだという 甲良町史

扇央にある甲良にしては珍しく水捌けの悪い地点があったようで そのために スイッ という吸水 排水口を設けていたようだ。
そしてここで登場する 釈門 が近世以前の法養寺 旧集落を考える上で重要なキーワードとなる。

甲良町史 甲良神社南側の田蒲の中に 釈門 という小高い遺跡がある と述べる。
甲良神社南側地域の字を 宮ノ後 と言うのだが 甲良町に点在する古墳の一つが法養寺の 宮後西古墳 である。その名の通り 同字の西にあったようだ。
そうなると古墳というのは往々にして小高いのだから 釈門 は前史古墳だったものが転じたのではないかと考えることができる。

古墳の場所

宮後西古墳 の正確な場所もまた現在は判然としないのだが ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書 10-1(1983) では 甲良神社と当遺跡 法養寺遺跡 との間にはわずかに墳丘を残す宮後西古墳がある と述べられ 法養寺遺跡発掘調査報告書 : 犬上郡甲良町(1984) では 当該地の北東約 100m には宮後西古墳があり わずかに墳丘の痕跡を残す古墳である とも述べられている。
残念ながら所在地に関する具体的な情報はありつけなかった。

西方寺伽藍跡「グリンサン」

話を 甲良町史 に戻す。
旧集落周辺には昔 村人が グリンサン と呼んだ五輪の塔があったようで 一節には行基菩薩を葬った塚とも言い その跡に出来た天台宗西方寺の伽藍跡ともいう。

甲良町史 によれば グリンサン というのは尼子や在士でも見られたという五輪塔のことで 恐らく 五輪さん が転じた言葉なのだろう。五輪塔は墓であることが多いので 法養寺のそれも西方寺に附随した墓と思われる。
この西方寺はあくまでも伝承であるが かつて甲良神社本殿正面に掛けられていた鰐口には 応永十七年二月十一日 西方寺願主求了観 の銘が彫られてあったようである。戦後に失われたが それ以前に法養寺 正行寺の住職が書き写してくれた図が町史には掲載されている。この正行寺は西方寺後身であるらしい。

どうやら応永年間には西方寺が存在したようである。

つまり釈門と西方寺はイコールであり また 宮後古墳 とも同一であると考えることができる。

釈門の逸話

その正確な場所は判然としないが 法養寺誌 にヒントが記されている。

古老の言い伝え曰く 甲良神社の南に百メートルの田んぼの中に 十坪ほどの円形の塚があり 雑木が森のように茂っている。これが釈門に関する記述だ。逸話として 昔からお盆の十五日と十六日の日暮れには灯明を灯していたり この塚に住む大蛇を見た人は驚いて腰を抜かし さらには病で寝込んだという。
興味深いのは森の木を切ると寒気がする もしくは腹を痛くするともある点で 結局釈門は圃場整備によって消滅するのだが工事関係者の身体に影響がなかったのか気になってしまう。

場所推定

つまり過去の空中写真から甲良神社の南側で田んぼの中に木がある地点を探せば良い。
地理院地図の 年代別の写真 で調べていくと 80 年代までの空中写真と 2011 年の空中写真を見比べることができる。
その中で 35.202932/136.261454 の地点は 田んぼと田んぼの境目に木と思しき植生が見受けられる。解像度の問題もあり 必ずしも円形と断定することは出来ないが 周辺に類似するものは無くこの地点が条件を満たす唯一の場所となる。

ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書 17-4 25 図試掘調査トレンチ配置図 27 図発掘調査トレンチ には当該地点が描かれている。
前者の図では試掘トレンチ 6 が配置されているが 26 図試掘調査トレンチ土層柱状図 には当該地点 試掘トレンチ 6 の柱状図は掲載されていない。
両図には細かく標高が刻まれているのが大変有り難い。当該地は 119.38m なのに対して 取り囲むように配置される田圃の標高は概ね 118m 後半となる。このことから当該地が僅かに小高くなっており 古墳について述べた記述と一致する。
そして図上でも円形であることから 当該地が 宮後西古墳 であり尚且つ 釈門 であり この周囲に 西方寺 があったと推測される。

旧集落の範囲

ここで西方寺の場所が推定されると 自ずと周囲が中世の法養寺村であることが理解できる。
ここ 宮ノ後 から神明社 西良 にかけて 或いは北の甲良神社 素盞烏社 までを集落の範囲としても良さそうである。

明治初期の絵図を絵図を見ると北に在士への水路 南に下之郷川に挟まれた地区である。
これが中世当時如何なる状態であったのか定かではないが 南東の横関と接する地点からは下之郷川の旧河道と見られる痕跡が検出されており 集落の南に同水路が流れていたことには変わらないだろう。

扇状地である甲良にしては大変水に恵まれた集落であるが 折から触れているように水量には限りがあるし 伝承が語るように大水で溢れた際にはそれなりの被害を受けたと思われる。
そうして江戸時代はじめに集落を南部の字高畠に移転したのだろう。
天正期 その石高は五百十石二斗九升であったのが 移転によるのだろうか 高山公実録 では五百三十石から五百二十石程度と若干の増加が見られる。

現在旧集落の範囲には数件の家屋が道路沿いに建っており 近世以前の雰囲気が 再現 されていると言えるかもしれない。


*現集落と旧集落の高低差比較。高畠 の字が示すとおり 微妙に高い。ちなみに高畠は釈門と同じ標高 119m 釈門が若干小高いことがよくわかる。


大工・甲良氏に関して

さて法養寺に縁がある人物に大工 甲良豊後守宗広 がいる。
甲良町史 によれば祖父光広が法養寺の生まれであるらしい。

甲良氏の系譜(一説)

甲良氏略系 大日光 50,1979-03 甲良氏が藤原氏で実は浅井の親戚 としているが少々疑わしい。
しかし祖となる 次郎左衛門尉高重 の代には法養寺に住んでいたとか 高重の孫にあたる 三郎右衛門高清 江州蒲生八幡宮摂社甲良大明神宮社司 であったとする説は興味深い。
ただし法養寺の甲良神社は大明神ではない。尼子の松宮大明神と混同している節がある。
高重からは三郎左衛門時重 次郎左衛門重氏 高清兄弟 そして重氏の子息として三郎左衛門正氏 次郎左衛門光氏 光広となる。

「甲良神社」に関する伝承

法養寺の 甲良神社 素盞烏社 が蒲生郡に因むことは 甲良町史 にも述べられている。
応永三十一年に京極持高が蒲生郡弓削に 男山八幡 石清水八幡 より八幡宮を勧請し 永正十五年(1518)に法養寺に遷座したようだ。
ただし実際の甲良神社は八幡宮では無く スサナオ イザナギ イザナミが祭神の神社で 江戸時代には 素盞烏社 江左三郡録 と呼ばれている。

佐々木氏説・藤原氏説・中原氏説

日本歴史地名大系 によると遷宮した 甲良三郎左衛門 高清か は京極氏の七代末とある。
このように藤原氏として浅井氏に繋げるもの系図と 近江輿地史略 のように京極持高に繋げる系図の二通りがあるらしい。

つまるところ佐々木氏に結びつけるもの 藤原氏に結びつけるものの二説が思い浮かぶ。

他方 続群書類従 の系図には中原氏の流れとして多賀や二階堂 甲良太郎左衛門が登場する。藤堂氏も彼らの親戚であるが 甲良中心部で下之郷に多賀 二階堂 法養寺に甲良 尼子 さいし に藤堂が現れる点からすると この系図は大変興味深い。

藤原姓甲良氏

ただ甲良氏のなかで高名な甲良宗広は 甲良豊後守藤原朝臣宗広1と銘文に記しており どうやら彼以降が藤原姓であることは確からしい。
下之郷古文書撰 所収の 甲良番匠代々相伝 によれば 下之郷の二階堂を建立に携わったことで藤原姓2を賜ったとしている。この 甲良番匠代々相伝 は高名な宗広が記されておらず それどころか 甲良氏略系 とも一切符合する部分が見られないのが興味深い。高名な甲良氏とは同族別家の系図なのだろうか。

法養寺の大工

浅香年木氏3によれば宗広自身も慶長元年(1596)に伏見へ出るまでは法養寺で生活していたようだ。光広の子 氏広の子として生を受けたのが天正二年(1574)であるから 二十年弱暮らしたことになるだろうか。なお 甲良氏略系 では元亀三年(1572)の生まれとしている。

法養寺に住んだ光広は丹羽長秀の工匠に選ばれたことで 一説には安土城の築城に関わったとされる。
丹羽長秀の主である織田信長は前史築城事業の機会が多く 元々お抱えの工人4が居た。そうした中に光広が入り込めたというのは彼の技巧が優れていたのだろう。
技巧の源を探るのが本項の目的である。

登場前夜の検討

甲良町史 は永正十一年(1514)の沙沙貴神社造営に関する棟札 六角遺文一八六 に見られる大工 藤原五郎左衛門宗光 を紹介している。
彼が甲良氏と関連があるのか定かではない。藤原姓で 郎左衛門 が付くのなら甲良氏のように見えなくもないが確証がない。ただ先にも述べたように 甲良番匠代々相伝 下之郷古文書撰 を読むと 彼らの藤原名乗りは平安時代まで遡ることも可能なので そこからすれば大工 藤原五郎左衛門宗光 が甲良氏である可能性はあるのかもしれない。
ただ天文二十三年(1554)に行われた修理の棟札 遺文七六二 には 藤原五郎左衛門吉重 が見えるので 永正の 藤原五郎左衛門宗光 というのは この吉重の先祖 父か祖父だろうか と見るのが自然であり 甲良氏との関わりはよくわからないが 現段階では甲良氏と見なせないのではないかと思われる。

そうした点で下之郷に伝わる延徳二年(1490)の 神輿裏書写 には様々な大工の名前が記載されているが ここに甲良氏と思われる人物は見えない。藤原姓ならば番匠大工の一人 寺川藤原三郎太夫守久 が該当するが 寺川氏であるから甲良氏ではなかろう。

慈恩寺楼門および仁王像の時期検討

下之郷に関連するところで同地 二階堂の阿弥陀如来坐像は天正年間 南郡の安土 浄厳院に移設される。この浄厳院は元々六角氏頼が亡母のために建立した慈恩寺 西大寺末寺 であった。
慈恩寺は織田信長の城下施策の一環で宗教地区を作る際に 浄厳院へと生まれ変わるが楼門など諸設備は再利用された。
その楼門に安置された仁王像の台座には 仁王像が北郡只越田村寺にあったものが 一乱 の関係で買得され 修補されたと墨書されている。年月日は天文二十三年(1554)三月二日の事で 仁王像はこの時期に修理が完了したことになる。5
興味深いのはその造作に関わった番匠大工について 統領甲良左衛門五郎雇□也彼父楼門所造也 とある点だ。
ここで 甲良左衛門五郎 が登場し 尚且つその父が 楼門 の造立に関わったと読める点である。楼門は津田徹英氏によって 桑實寺縁起絵巻 天文元年(1532)までに造立されたと指摘されており そこに 左衛門五郎 の父が関わっのだろう。6

また津田氏は天文元年(1532)八月制作された 桑實寺縁起絵巻 にて 楼門および現浄厳院仁王像と合致する仁王が描かれている点を指摘。仁王像の安置の時期と修理については別の解釈が生じる としている。
滋賀県指定有形文化財浄厳院楼門修理工事報告書(1997) では 北郡只越田村 について現在の長浜市田村町に存在した寺と考え 一乱 については六角定頼の北郡出陣 つまり大永五年(1525) 享禄四年(1531) 天文七年(1538)の戦いを提示し その中で天文七年(1538)の戦いには田村に重臣永原氏が布陣していることを指摘し 暗に仁王像の設置もそれ以降であることを示唆している。
しかし津田氏の指摘を踏まえれば天文七年(1538)の戦い いわゆる 北郡御陣 の頃には楼門および仁王像は慈恩寺に存在したことになる。
そうなると消去法的に仁王像は大永五年(1525)の小谷城攻めや享禄四年(1531)の箕浦の戦いといった戦乱で破損したものと思ってしまい 更に享禄四年(1531)に足利義晴が動座したタイミングから同年の戦いで破損し買得され 慈恩寺の仁王像と相成ったと思ってしまう。だがあの時代の近江北郡は京極氏の内訌で戦乱の時代であったから 特定することは不可能だろう。

修理工事報告書(1997) も津田氏も楼門の建立は享禄四年(1531)の足利義晴滞在との関連を指摘する。絵巻に登場するということは建立時期は遅くとも享禄五年(1532)までで 報告書が指摘する 天文年間 というのは外れてしまう。
ただ 修理工事報告書(1997) には

寺の経営もそれ程 豊かでなかったと予想される。これを裏付けるように 楼門は規模が大きいが使用されていた木材等の質は良くなく 上階柱は皮付きの松を使用しているような状況であり 材料の調達に苦慮した様子がうかがえる。

とあり さらに 仁王像も新造せずよそからもってきている とも指摘されており 慈恩寺の楼門および仁王像の建立が突貫事業であったことが窺える。
そうした状況であれば享禄四年(1531)という推定は強ち間違いでもなさそうである。

まとめると享禄五年(1532)までに建立された慈恩寺楼門の 所造 に甲良氏が関わり 天文二十三年(1554)の仁王像修理には子息が統領を務めていた。
ここから天文の末には 甲良左衛門五郎 が統領を務めるほどであった点 父も享禄年間には名の知れた存在であったことが窺え 大工甲良氏は享禄年間までには成立していたといえる。

油日神社楼門の親子

所変わって永禄九年(1566)五月 甲賀郡油日神社でも楼門の造立された。この際の墨書銘には

同棟梁大工甲良□郎左衛門
御子息
同左衛門□郎 同仙千世代 同岩松
滋賀県指定有形文化財浄厳院楼門修理報告書 1997 □内にそれぞれ五 子息に三を入れている

とある。
この書銘は大正時代に発見されたものであるが 重要文化財油日神社本殿 楼門及び廻廊 拝殿修理工事報告書(1962) に於いてはそれぞれ 五郎左衛門 左衛門五郎 としている。

そこから類推すると慈恩寺楼門の仁王像修補に関わった 甲良左衛門五郎 と油日神社楼門の子息 左衛門□郎 同一で 尚且つ楼門建造に関わった 彼父 甲良五郎左衛門 なのだろうと思う。ここでも甲良親子の足跡が見て取れる。

甲良の系譜

ただし系図上で 甲良五郎左衛門 は見受けられない。
法養寺誌(2004) では何れに関わった人物を光広個人としているが 実のところは定かではない。親子なので一人を光広だとしても その父とされる光氏か 父が光広で子息が氏広なのかもしれない。
ともかく このようにわからないところが多いなかで戦国時代の末に甲良親子が大工としての名を高めた。この親子の流れに江戸時代名を馳せた甲良豊後守は位置付けることは可能であろう。

法養寺の甲良大工

それにしても何故 法養寺に優れた大工が生まれたのだろう。その答えは一つで 法養寺周辺に多くの寺院が存在した地域的特徴による。

甲良周辺には多賀大社や敏満寺といった地域屈指の神社仏閣 甲良には池寺 西明寺 下之郷 二階堂宝蓮院のように寺社が点在する。
他にも長寺の地名は寺院の痕跡を想起させ 伝承として南九条野に池寺 西明寺よりも大きい寺院があったとされる。7
また近年下ノ郷西遺跡の発掘調査では縄目瓦が出土しており 白鳳から奈良時代にかけての寺もしくは有力者の館と推察されている。8

寺院「法養寺」の存在

ところで話を変えて 甲良神社=素盞烏社 に伝わる画像について述べたい。
甲良神社 素盞烏社 には 絹本着色釈迦三尊画像 が伝わるが この裏書きとして 法養寺御宮御本尊也 とある。これは承応二年(1653)の墨書銘のようであるが この他にも長禄二年(1458)に置かれた旨が書かれているようだ。9

法養寺に 西方寺 が存在したらしいことは述べているが この記述を元にすると どうやらもう一つの寺が村に存在した可能性がある。
ただし西方寺同様に史料上確認の出来ない寺となる。その寺名については裏書きの内容からして 村の名前でもある 法養寺 の可能性もあろうか。

法養寺の位置検討

釈迦三尊画像が置かれた 法養寺 仮称 の位置についてだが 昭和の法養寺遺跡発掘では 河川跡 から奈良時代前期の丸瓦が検出されており この周囲に 法養寺 仮称 が存在した可能性が考えられる。

もう一つは釈迦三尊画像を所有する甲良神社そのもので 元々 法養寺 仮称 があった場所に神社が置かれたとする案。
更に行くと西方寺が元々 法養寺 仮称 であったとする案の三つである。

先に触れた昭和の発掘によれば 河川跡 より 奈良時代前期の丸瓦が検出されており周辺に寺院があった可能性が示唆されている。
西方寺の跡とされる場所よりは南側であるので これが西方寺の遺物であるとは現状では断言しづらい。

まとめ

まとめ方としては雑になるが 法養寺の旧集落が甲良神社 素盞烏社 の南部にあり この集落は西方寺を中心としていた点を述べ 神社仏閣に恵まれた同地に於いて優れた大工が生まれたことは自然であると指摘した。

読者諸兄が法養寺を訪れる際の参考にして貰えれば幸いである。
なお近い将来地区には 国道 8 号 彦根東近江バイパス が通ることになる。計画図を見ると 釈門跡 から東側を通ることになるようであるが この事業の中で新たな遺物が発掘されることが期待できるのは計画のポジティブな面であろう。10

謝辞

*法養寺旧集落に関し 甲良町教育委員会の谷先生に様々御教示いただきました。この場を借りて御礼申し上げます。


  1. 国宝東照宮本殿 石之間 拝殿修理工事報告書(1967) から E 献納大工道具箱蓋裏蒔絵銘

  2. 他方藤堂氏も高虎以降藤原姓を称している。

  3. 物質文化 : 考古学民俗学研究 = Material culture : journal of archaeologico-folkloric studies (20) 所収 北陸における建仁寺流大工の展開–棟札を素材にした考察 より 5 代棟利の留書

  4. 中世城館の実像 中井均。安土城の天守を造営した岡部又右衛門は熱田神宮の宮大工とされる。

  5. 滋賀 浄厳院蔵 木造釈迦如来立像― 佐々木氏頼 一三二六~七〇 発願の旧慈恩寺本尊― 津田徹英,美術研究 426 号,2018 より注 28

  6. 津田 2018 では 滋賀県指定有形文化財浄厳院楼門修理工事報告書(1997) が出典となる。この報告書では墨書を 統領甲良 改行二段下げ 左衛門五郎雇之也 改行 彼父 楼門所造也 と翻刻している。

  7. 甲良町史 第二章古代律令国家と甲良

  8. 下之郷西遺跡の発掘調査(甲良町の埋蔵文化財 ; 1,2025)

  9. 法養寺誌 より。

  10. 国道 8 号彦根~東近江 仮称 に係る都市計画道路の決定および変更について 2025-1221 閲覧