織田信重のすべて
藤堂高虎に纏わる史料 『高山公実録』 『公室年譜略』 には興味深い記述が見られる。
毛利輝元の誘いに乗った伊予国人三瀬六兵衛が一揆を起こすが、 三瀬を討ち取った家臣についての記述が面白いのである。
その名は、 芦尾もしくは芦田庄九郎、 諱は昌隆とも昌澄とも。そして驚くべき事に、 なんと其の父の名は、 「織田七兵衛」 と記されているのだ。
織田七兵衛とは、 信長の甥にして光秀の娘婿、 そして高虎の主君四人目として有名な信澄の事である。
さてはて高虎は信澄の待遇 ・ 評価の悪さに、 浪人して羽柴家へ転じた筈なのだが、 何故その妻子をわざわざ匿い養育するに至ったのだろうか。
この疑問が、 長い旅の始まりであった。
七兵衛を探して
そもそも私たちは織田信澄について何も知らないのである。
だから、 この作業というのは先ず 『信長公記』 から七兵衛を抜き出す事や、 件の丹波攻めについて調べる事から始まった。
するとそれまでの通説とは少し異なる部分が浮かぶ
藤堂高虎は天正四年(1576)に羽柴家へ転じたという通説、 違うのでは?
つまり藤堂家の記録にある、 「小山城攻め」 「籾井城攻め」 以上二つの合戦は天正四年(1576)以降に起きているのだ。
これには驚かされた。
ちょっと調べたらわかるような事が長年放置されてきたのは驚きだ。勿論、 明智光秀の丹波攻略について詳しい 『亀岡市史』 も、 ここ二十年で完成したものだから仕方の無いところもある。
家臣を探し信重に出会う
織田信澄は天正十年(1582)六月五日、 本能寺の変に関連して大坂城で討ち死する。
宗及他会記によれば、 その中で共に討たれ晒し首となった家臣が居る。
「堀田弥次左衛門秀勝」 と 「渡辺与右衛門」 の二名である。
特に渡辺与右衛門の娘 ・ 二位局が茶々の重臣であった事から 『大坂の陣豊臣方人物事典』 にて、 「信澄の取次」 として二名は紹介されている。
では 「堀田弥次左衛門秀勝」 は如何なる人物なのか、 それを適当に検索フォームに打ってみると、 その書状が過去に 「安土城考古博物館」 で展示されていたらしい。
思い切って博物館に問い合わせたのが良かった。
学芸員氏から紹介された図録を読むと、 堀田の主について面白い事が記されていた。
- 天正四年信澄 (信重) 文書
- 信重御判
- 堀田書状一
- 信重様江
一次史料では織田信重なのだ
織田信重へ
『織田信長家臣人名辞典』 でも信澄の項に 「信重」 と記されている。
そうやって今回調べてみると、 見つけた書状は 「七兵衛宛」 「差出人信重」 のみであった。
残念ながら一次史料に、 織田信澄 ・ 津田信澄という人間は見る事が出来ない。これが結論となる。
不思議なのはその遺児も、 どうやら 「織田信重」 を名乗っていたと思われる点である。
遺児についての一次史料は現状皆無であるのが惜しい。こうしたところを埋める一次史料が発掘される事を期待すると同時に、 根気強く旗本織田氏の史料を探してみたい。
というわけで本稿の目的は、
織田信澄 ・ 津田信澄から織田信重へ
という啓蒙活動です。
そして織田信重を知ると共に、 戦国時代末期の高島郡と磯野員昌、 信長側近の仕事、 そして藤堂高虎はどのように育ったのかを考えるきっかけになると嬉しい。
目次
七兵衛尉信重書状目録
付録として信重の書状をここに纏める。
『山本家文書』 には信重書状の他に 「堀田秀勝」 の書状も収録されているので、 興味がある方は購入するか図書館と探すが良かろう。
年 | 月日 | 文書 | 名 | 出典 | 番 |
---|---|---|---|---|---|
1576 | 1010 | 船木朽木商人宛信重判物 | 信重 | 山本家文書 | 1 |
1577 | L0703 | 崇善寺宛て信重折紙 | 七兵信重 | 高島郡誌 | 2 |
1581 | 0908 | 今津地下人中宛信重判物 | 信重 | 福井県史 川原林文書 | 3 |
15?? | 0307 | 信重宛善法寺堯清書状 | 織田七兵衛尉殿 | 石清水文書之六 菊大路家文書 | 4 |
15?? | 1101 | 諸寺代大雄房回報宛書状 | 七右兵衛尉信重 | 頂妙寺文書 | 5 |
15?? | ??03 | 七兵衛宛信孝書状 | 七兵衛 | 泰巖歴史美術館所蔵文書 | 6 |
L は閏のこと。
下に解説表。
1 | 材木独占を承認するもの。断片に員昌隠居とあり |
2 | 横江村崇善寺屋敷の領有を承認したという内容 |
3 | 若狭からの塩荷について |
4 | 祝辞と、 横山の寄進地については是迄通り多胡氏へ仰せ付けて欲しいというもの 山崎布美氏は 「織田一族における家中秩序」 で大溝移転の天正六年(1578)と比定するが、 天正四年(1576)頃の員昌隠居後と見ても良いのでは |
6 | 会えない事を詫び、 延寿国村の脇差を贈った旨 |
誉田航平氏の論文を読んで
2024
昨年末に出された 『駒澤史学第 101 号』 にて 「織田七右兵衛尉信重の基礎的研究 (誉田航平)」 )という論文が発表 された。^
私も早速拝読したが、 信長公記に頼らず書状や古記録から信重を明らかにされ、 特に信重が一貫して織田姓であると示されたのは非常に心地が良い。
基本的な事績は私も把握するところで、 そこに相違は無かったものの、 私は特定人物へ近視眼的なところであるのに対し、 誉田氏は織田家全体を見て、 兼見との関わりが信広没後である点、 丹羽が高島にも軍事指揮権があったと指摘した点は、 膝を打たずにはいられない。
ただ養父磯野員昌が吉田兼右 ・ 兼見親子と昵懇であった点や、 伊賀攻めと書状発給の矛盾についての指摘は無く、 この二点が実に惜し哉と思った。
とはいえ今まで 「信澄」 であったのが、 今回遂に 「信重」 としての論考が世に出たので有る。偉業と言わずして何と言おうか。
- 注
- ^:WEB 公開されたのでリンク設置(20240511)