藤堂高虎の出自は記録が残されている事もあり非常にわかりやすい。
しかし彼の一族を調べてみると、 非常に複雑で曖昧と云う事がよくわかる。
高虎は姓こそ藤堂ではあるが、 彼の出自を見ると藤堂家より多賀家との関わりがとても深い。
ここでは高虎とその一族から多賀氏との関わりを整理すると共に、 その関係多賀氏について考えていきたい。
目次
- 高虎と近い多賀氏
- 多賀新左衛門尉常則について
- 戦国時代初期の多賀新左衛門尉経家と多賀豊後守
- 戦国時代中期の多賀豊後守貞隆
- 多賀信濃守貞能の謎
- 多賀出雲守秀種と藤堂家
- 津藩藤堂家初期史料に見られる多賀氏について
- 多賀豊後守の復活
- あとがきと補遺としての多賀出雲守家
高虎の後ろ盾としての多賀氏
一般的に藤堂高虎は仕官と出奔を繰り返したと思われている。
その都度仕官が出来る事は、 主に彼が重ねてきた武功によるものだ、 とも語られることが多い。
果たして本当にそうなのか。
高虎の浪人伝説に関しては別稿にするが、 私は否定的な立場である。
しかしながら阿閉出奔後、 高島郡に至った経緯は気になるものだ。元々高虎が住まう犬上甲良という地域は、 どちらかと言えば丹羽長秀の支配下にある。そうなれば彼には丹羽家に仕えるという選択肢があった。
更に本稿で紹介する同族の藤堂少兵衛は、 織田家の直臣に取り立てられている。この例を考えると、 高虎もまた直臣取り立てという道があった筈だ。
そこから考えると彼が高島郡に進路を求めたのは、 磯野員昌 ・ 織田信重親子の与力としての側面を考えた方が自然に思える。
高島郡での高虎は一次史料が見られない。しかし藩の編纂史料や丹波の郷土史を見るに、 どうやら部下を従えるほどにまで出世を果たし、 更には母衣衆にも抜擢された。
編纂史料には浅井時代にも騎馬武者であった高虎の姿が記されている。ある意味、 浅井時代と概ね変わらない身分を安堵されたのかもしれない。
前提として彼は天正五年(1577)までには高島に渡った。
郷土史料によれば、 高虎は籾井城攻めの先駆けとして光秀配下部将との連携で天引高山に陣を敷いた。
籾井城攻め以前の武功が定かではない為に、 現状では新参なのに一隊を率いたという厚遇となってしまう。
浅井家では元亀二年(1571)の感状一枚が今に伝わる。他にも当時浅井長政よりの感状を携えていたかもしれないが、 定かではない。
そうなると感状以外に、 高虎が出世を果たす要素が必要となる。
それが 「多賀氏」 である。
当時織田家の旗本部将に多賀新左衛門が存在した。
そして高虎もまた母系が 「多賀氏」 であり、 ここに高虎を担保 ・ 後ろ盾として多賀氏の可能性を見出すことが出来る。
勿論、 人脈に奢ること無く武功を重ねた高虎の器が高島一郡で収まる事は無く、 与力先を対毛利の最前線を戦う羽柴家に転ずる事となる。
そこにも多賀氏の存在があったのではないか。