在士村編-中世甲良の景観に関する試行的考察


在士村

甲良の中心部に位置する村で その読みは現代では ざいじ 江戸時代の地誌 近江輿地志略 では ざんじ と振られ1 天正天正十九年(1591)九月二十七日付の 石田三成宛御蔵入目録 豊臣秀吉朱印状 には さいし村 として登場する。2


*歴史的行政区域データセットβ版を使用

藤堂村説

津藩編纂史料や江戸時代の地誌によると藤堂高虎の出身地という。3
古来 広橋家の中原三河守景盛が八幡神社を勧請する際に藤を植えたことに由来して 藤堂村 と呼ばれたと述べられているが この村が 藤堂村 と呼ばれていた史料的裏付けは現状皆無である。

井伊直孝の存在

さる伝承4では井伊直孝が高虎を偲び 在士村 に改めさせたと伝わるが 天正十九年(1591)時点で さいし村 であったことは史料に明らかであり事実とは言い難い。
いや字を 在士 へ改めたことはあり得るかもしれない。ただ井伊直孝という男は津藩にとってみれば 渡辺勘兵衛や伊賀領を巡って因縁があり 高虎没後の仮想敵の一つであったから 果たして高虎を慮ることがあったのか疑問がある。

ただし 高山公実録 所収の 在士村記 に依れば 藩主が永源寺を参詣する道中 村の有力者陌間治左衛門に対して 藤堂の宮は恙無きや と聞くのが常だったようである。ただし永源寺参詣は直孝以降にはじまったので この慮る気持ちというのは直孝以降の藩主よって生まれた話と思われる。

村の名前

さいし村 の名について平凡社の 日本歴史地名大系 第 25 巻 (滋賀県の地名) には 在寺村 慶長高辻帳 在子村 延享二年高辻帳 とある。
井伊直孝没後百年の頃に 在子 であったということは 彦根藩もあまり深く考えていなかったのかもしれない。
ただ後述するように この村に が在ったのは津藩編纂史料を信ずるところ事実のように思えるので 士在りし が由来となるのはあながち間違いではない とも指摘しておく。
なお さいし について私見を述べるならば 扇状地特有の 砂礫 を見て 砂石 が由来するのではないか と確証がないながら思っている。


在士村の地勢

さてこの在士村には不思議なところがある。

まず甲良は今も昔も村がポツポツと在るのだが 在士村は西隣の尼子村に隣接している。特筆すべきは 境目で接しているのが佐々木尼子の本拠地と伝わる 尼子館 である点で あたかも尼子館の城下町のように位置している。この点から考えると在士村は元々尼子村の一つであったのが独立したのかもしれない。

高野道

在士村と尼子村を繋ぐのは一本の道筋で 最近では 高虎の道 などとも呼ばれている。この道は江戸時代に彦根藩主の永源寺参詣道となり 永源寺が高野村にあることから 高野道 として称されていた。5

高野道は在士の中心部から程なく南へ折れ 下之郷と法養寺の間を通る形になる。この道を挟み何度か村同士の相論も発生している。6
この道を直進すると横関村の出郷である 古川 山王とも 北落村 そして金屋村へと通じる。北落村からは長寺村からの 多賀道 と合流し 福寿橋で犬上川を渡れば敏満寺や多賀大社へ行くことができる。
反対に 高野道 を尼子方面へ見ると西の端で 中山道や出町 河瀬方面へ直進する道と 東へ曲がる道に分岐する。ここで東へ曲がると 松宮梵天王社 現甲良神社 に当たり 道なりに進むと犬上川を越えて高宮宿へとショートカットできる。高宮に辿り着くことから 高宮道 とも呼ぶのであろう。7

在士の水路と高虎の生家跡

上図にも見えるが尼子 在士の中心部で 高野道 に沿って流れる水路がある。この水路を地域では 尼子川 と呼ぶ。8

一方で 農業水利及土地調査書第貳輯(1922) によると尼子川ではなく その支流である 里川 とされている。現在と名が異なる理由は定かではないが 推測すると圃場整備事業とそれに伴う用水改良の結果だろうか。
里川などの近世から近代の水路は地下パイプライン化によって失われたが 甲良町の一部地域では景観を守る せせらぎ遊園 として保存された。9その残された水路の一つが 尼子川 ということになるのだろう。

水は東の金屋から西へ流れる。単純な話であるが高低差を利用した灌漑となる。


江戸時代の景観

この水路 里川について 在士村記 宗国史 高山公実録所収 以下在士村記 では 小渠一丈広渠 と表現している。一丈は約三メートルとなり 現在在士地区を流れる水路よりも広い幅となる。往時の里川を示す貴重な記述となるが 確かに明治四年の絵図 以降絵図10では広く描かれている。

菜園

そして 在士村記 南辺一條土障其裏即本村人家並間地菜園在 と述べる。この記述から集落と水路は面して居らず 土の障壁が存在したことがわかる。絵図では東側の数軒で水路と屋敷の境に白い物が見える。これが障壁なのだろうか。ただし 菜園 は絵図上に認めることは出来ない。

集落内の水路

絵図で在士村の集落を見ると数本の水路が巡る。甲良でよく見る景観だ。
ただ在士村に かっとり は無く 水は里川と法養寺村からの水路によって供給されている。
法養寺の絵図11を見ると 東端の横関村との境で下之郷川から分かれる水路が見える。その名前は定かではない
在士村記 はこうした水路の一つを 村西鑿細濠自永源寺道下起 と取り上げている。
絵図では集落の南側 東西に流れる水路が見える。これが法養寺村からの水路であり 在士村記 に見えるように西側で北へ向かうように折れ曲がる。この水路も高低差によるもので 集落は微妙な具合に西へ低くなっていることがわかる。

生家と塹壕

在士村記 によればこうした水路に沿うようにして 高虎の生まれた館に附随し父虎高が築いたらしい 環状の塹壕 が見えるという。

絵図では北に向かって延びる水路に沿った道を進むと 正面に四角形のスペースがあり その向こう正面に更に大きな四角形が見える。
この大きな四角形は北側に水路 西側と南側に道 東側に屋敷地が広がる。
また大きな四角形を凹で囲んでいるように見える。この大きな四角形こそ 環一道塹濠名為城之内是白雲君祖実卜築之所蹤跡歴歴可 という館なのであろう。城之内 とあるが この名称は字としては残らなかった可能性がある。
実際に現在でも 高虎出生地 として案内されるのがこの場所である。

ところで地理院地図で 陰影起伏図 を選択し 在士集落の様子を見ると耕作地の西側に南北に延びる起伏陰影が認められる。これも 塹壕 の名残かもしれないが 詳細なところは定かではない。

集落の宅地

在士村記 を続けよう。
高虎出生地の北側には 江戸時代津藩が編纂事業を行う中で頼みとした 陌間治左衛門 の宅があった。彼は当時村長であったようだ。

陌間宅の西側には 玄蕃 藤堂玄蕃 の宅地があり その北に数軒の家を挟み 更に北には 山岸 玄蕃家士 の宅地があったという。この構造は絵図上に認められない。

そして 城之内 には堀氏の宅地 東南の隅には新七郎の宅地があったと記されている。この位置関係が謎である。
ただ読み進めると 新七郎邸についての記述が見える。

新七郎宅について

新七郎宅地 から右には 永源寺道 高野道 があり その後ろに細い堀があるという。
次に南北約五十歩 東西は半分というから二十五歩といったところか。当時 菜園 だった場所から永源寺道へ入ると ちょうど新七郎宅の前に出られるが どうもここに門が置かれていたようで 東門 という地名であったらしい。
明治初期の絵図では 字東畑 の直ぐ北に字 門ノ上 が見える。これが 東門 の痕跡だろうか。また 字東畑 が江戸時代の 菜園 と同一ならば この辺りが新七郎宅であったのかもしれない。

東門

実は 東門 という名前は現在も残っており 八幡の御旅所 高虎公園の正面に 東門の滝 が存在する。明治の絵図からすると 字門ノ上 とは道を挟んだ向かい側で 居屋敷 の辺りとなる。
門の形態については 在士村記 を読み進めると多少理解が進む。つまり集落の東門を出ると永源寺の道に突き当たるとの記述で ここで東門の形態を示唆している。どうやら東門は永源寺道に接していたことがわかる。

小まとめ

東門から西へ向かい 城之内の東北角で北に三十歩 さらに西へ折れると玄蕃宅がある。そこで右に曲がり北へ進むと 小石橋 があり そこを渡ると再び高宮の大道へ出る。
この位置を右に曲がり十歩進み そこから北に向かうと八幡社の下に入る。
これが大まかな集落のあらましである。
図で表すと次のようになる。

在士の五輪塔

在士村記 はここから承応当時に蒐集された村の逸話を載せている。
例えば 五輪塔 の話である。12

石橋 小石橋か から真北に百歩のところに 墓堂 があって ここの地面は 土面陥処出 しているという。この場には蓋もなく片方欠けている一基の石櫃があった。

承応よりも昔 ここには高さ五尺ほどの五輪の石塔があり 近年は倒壊していまい石が四散。四散した石は 甲良町史 にもあるように 一つは小川に架けた橋 もう一つは村の北にある化人場 やきば に使われ 一つは 浄覚寺 の前にあるものの 他の二つは承応当時既に所在不明であった。

甲良町史 の編纂時点で このうち一つは八幡社務所の踏脱石になっているとの伝承があった。


浄覚寺

五輪塔をめぐって 浄覚寺 が出てきた。ここで浄覚寺に纏わる記述を見ていきたい。

浄覚寺は東門から出る小道の北側にあり その門は南向きで 寺の前の道の左側には松井の宅地がある。また新七郎の宅地と斜めに対面しているという。
寺の東には北へ真っ直ぐに伸びる土塁があり 小川の縁まで続いている。これは昔 村の周囲に巡らされた柵の名残である というのだから古式ゆかしい中世の環濠集落を想起させる。

柵と城

そのように考えると 城之内 を城たらしめている 父虎高が築いた 環状の塹壕 というのも 同じように 村の周囲に巡らされた柵 の一環なのではないか。
とはいえ この土塁も明治時代の絵図には見られない。僅かに中央部から南に下る道が土塁の痕跡であろうか。最も そもそも寺も描かれていないのだが

勇士の墓

寺の左側には 古墳 が二基あり それぞれに五輪塔が安置されているという。これは 二人の勇士 を葬った墓であるらしい。
古墳 というが現在 何かしらの古墳が存在したとの伝承は見受けられずよくわからない。
甲良町史 によると 浄覚寺の五輪塔の時代は嘉元四年(1306)としており大変古い。
ちなみに五輪塔を構成するなかで下から二番目にあたる 水輪 は失われているようだ。13

浄覚寺は昭和の刊本 近江輿地志略 の頭注にて 真宗本願寺派であるが 元々天台宗で寛弘五年(1008)に性覚によって開かれ 天文五年(1536)に真宗へ転じたとある。この寺伝はどのようにして蒐集されたのか不明だが 信ずれば相当な古刹となる。

近江の五輪塔

近江の五輪塔では やはり浄覚寺同様に鎌倉時代のものが多く見受けられるようで 田中利絵氏によれば徳源院の 京極氏歴代墓 というのも石を見れば室町以前鎌倉時代のものが大半という。14
こうした石の文化を伝える五輪塔が浄覚寺に存在したというのは 集落そのものが鎌倉時代には既に成立したことを示唆している。
それは京極高久が尼子に入る以前のことで 藤堂氏の先祖の一つとされる中原氏の存在を想起させるものでもある。

墓の祟り

次のような逸話も述べられている。
寺の住職はある時 自分の家の土地の境界が気に入らず 土塁の下まで広げ 墓が寺の中に入ってしまった。すると ある日 墓の霊が村民に憑いて 住職を厳しく責めた。僧侶たちは恐れおののき すぐに元の状態に復した。が 災いは収まったのに 霊は現れて 寺の住職は地を侵した と言って住職を責め続けた。結局 僧侶たちは 速やかに復旧させたという。

この墓については 先に見た二基の古墳つまり二人の勇士の墓とは別なのだろうか。別だとすれば 先の土塁の下に墓が存在したことを示唆するものであるが これも明治四年の絵図には見られないので今一つ想像が出来ない。

史料に見える浄覚寺

時に 甲良庄興禅寺領年貢帳 大日本古文書 大徳寺文書一二五七 という史料がある。
これは室町時代近江にあって15京極政経の庇護を受けた 興禅寺 に関連する史料の一つで 明応七年十一月に寺領の年貢をまとめたものである。

この年貢帳で頭から池寺南陽坊 積翠寺と続いて その次に 淨覺寺 として見える。これが天台宗時代の浄覚寺を示す記述であり 大変貴重である。また年貢帳全体としても 南陽坊や積翠寺 浄覚寺の次に見える西来寺 池寺円城坊 宝蓮院 欽福寺は現存していないため 浄覚寺の存在は大変貴重である。16

興禅寺の所在

この興禅寺が近江に存在したことは述べたが この所在地について竹貫元勝氏は 甲良庄内の尼子郷 と比定する。17

これを考える上で史料を見ると 延徳三年七月廿八日付の 京極政経寄進状 大徳寺 二三六一 には 江州甲良庄内興禅寺同寺領 とある。
更に 近江尼子郷興禅寺経蔵下地注文案 大徳寺 二三六四 その名の通り 尼子郷興善寺経蔵下地之事 と記されており興禅寺が尼子に存在したことを示唆している。

こうした中で 高山公実録 所収の 秘覚集18に見える次の記述は大変興味深い。

在士村に昔禅寺御座候由其後天台になり又其後門徒宗に成今ハ其寺絶たり
宗国史 では 在池村

このようにある。
少し考えれば 村唯一の寺である浄覚寺は先に見たように元々天台宗であり その後真宗となった。そこだけ切り取ればこの逸話は浄覚寺のことで 元々禅寺であった点と寺が絶えたというのは誤記に見える。

しかしここで見たように尼子郷に地域屈指の禅寺とも言える 興禅寺 が存在した可能性を踏まえると 同じ尼子郷で江戸時代よりも昔に在士に存在した 禅寺 というのが 興禅寺 である可能性は有り得るのでは無いか。
更に言えば京極政経の側近に藤堂備前守が存在するが 在士が代々藤堂家ゆかりの地であったことを考えると興禅寺と政経を結びつけたのが備前守であったのかもしれない。

結局のところ庇護者である京極政経は内訌によって近江だけでなく子息材宗や重臣の多賀経家を失った。藤堂備前の行方も知れず 恐らくは一連の戦いで命を落としたと思われる。
大燈国師の弟子が住んだ興禅寺の存在は忘れ去られてしまった。庇護者を失ったことに依るのか 兵火によって損傷したのか 何れにせよ衰微したのは想像に容易い。
そうした中で 秘覚集 の記述によると 禅寺は天台宗となり 門徒宗つまり真宗の寺院となった旨が記されている。
これもまた推論になってしまうが 衰微によって近隣の浄覚寺の管理下に置かれ 秘覚集が記された頃までに廃絶した。このような考えが浮かんだ。
そういえば津藩藤堂家は 藤堂九郎左衛門 の系統には疎かった。興禅寺が藤堂氏の菩提寺として機能していたのならば その衰微によって過去帳なども失われてしまったとも考えることが出来ようか。

さて興禅寺が在士に存在したとしても具体的な場所は思い浮かばないが 柵や土塁によって区切られた 城之内 は候補となるだろうし 寺の跡と語られる下之郷に近い南側の 永藤 も候補となるだろう。

こうしてみると在士を 在寺 と書くのも これもまた真なのでは無いかとも感じる。

月ノ宮

最後に村記は集落の外れにあるスポットを紹介している。
集落の東門を出ると永源寺の道に突き当たる。そこから左に曲がると多賀口大路に出る。ということは橋を渡ったことになる。
東に二百歩ほど行くと 小さな高台があり道の右側に古い松の木が一本ある。承応年間には既に 老樹 のようであったらしく その名を 月宮 という。昔は小さい祠があったが 承応当時 は朽ちてしまって復興していない。古老たちによると これは昔藤堂候の先祖が 中秋の夜に月を愛でたとことに由来するそうだ。村民たちはこの風習に感動し その故事を記念すべく祠を建て植樹したのだという。

さてこの故事に関する地名を明治四年の絵図に見ることができる。
東門付近の石橋から東へ少し行くと 字月ノ宮 月宮 の田甫が見えるが ここが伝承の地と思われる。
私は 月待講 の文化があったのかと思ったが 津藩の認識のなかでは藤堂家に因む字となっている。ともあれ字 月ノ宮 に祠があったことがわかったのは大きい。


字から考える在士の景観

月ノ宮 に祠があったという点は在士の景観を知る上で重要となる。
例えば八幡社の北東に広がる字 三ツ目堂 同名の が存在したことをを示唆するものと言える
そうした村の字19で気になるものを紹介したい。

二階堂

二階堂は下之郷の項で紹介した寺院の二階堂か中原流甲良一族二階堂氏に纏わる地名である。隣接して 向屋敷 といった字もあるが これも同様だろう。

永藤

下之郷の神社に隣接する字である。境界を挟んで下之郷側には下之郷川の割取が存在するが 地元ではこれを エーフのかつとり と呼ぶ。20そうなるとこの字の読みは えいふ と呼ぶべきなのだろう。
その由縁は 永福寺 に因むとも言われているが これは今一つよくわからない。ただかつて鎌倉に存在した永福寺の本堂は 二階堂 とも称されたこともある。そこから類推した地名なのだろうか。ただし鎌倉の永福寺は ようふくじ と読むので えいふくじ ではない。
すると宝蓮院に関連する施設が存在した可能性も考えられるが 詳しいところはよくわからない。
地元では永藤に対面する地点が 二階堂宝蓮院跡 と考えられている。

寺院の可能性を考えると先に見た興禅寺や 下之郷の稿で触れた 成仏寺 が周辺に存在した可能性も考えられる。

下之郷との境界

二階堂にしろ永藤にしろ 中世の頃は境界が曖昧であったのか もしくは尼子郷よりも下之郷の範囲内であったと思われる。このように さいし との距離の近さが 藤堂氏と多賀氏の深い関係性に繋がったものと思われる。もう一つ考えるなら 士にとっては郷としての共同体認識が低かった可能性もあるかもしれない。

不動堂

集落の南東部で永源寺道の東側に位置する。場所としては法養寺にも近い。その名からして不動明王を祀る堂が存在したと思われる。

下之郷にも 不動橋 が存在するが その関連性はよくわからない。

野神

集落の北側 尼子村との境に位置する字。
滋賀県内では 野神 に纏わる伝承が各地域に残されている。
現代の甲良においては 水田や村の入り口 村はずれの水田にある こんもりとした森 のなかに地域の人々から 野神さん 耕地を守る神 として親しまれ 祈りと共に守られてきた場所があるという。21

北落や正楽寺 池寺に 野神さん は残っており 巨木と祠によって構成されているそうだ。
さいし 野神 も同様であったのだろうか。

松宮と住泉寺

明治四年の絵図や それを元にしたと思われる角川の地名辞典に収まる 小字一覧 に見られる字。住泉寺そのものは尼子に属している。

絵図上で在士は尼子の中心部に入り組んだ形となるが ちょうど住泉寺から尼子館跡の北側付近が住泉寺 甲良の松宮大明神の目の前が 松宮 となる。

松宮

松宮 には現在甲良西小学校が建っている。Google やヤフーなど字が浮かび上がるサービスで調べると 甲良西小学校周辺だけが在士の飛び地となっていることがわかるが 明治四年の絵図と見比べると圃場整備事業によって間の田甫が尼子に組み込まれたものと推察される。なぜ小学校周辺だけが在士のままなのか 大変に興味深い。

松宮は文字通り尼子の氏神に因むと思われるが 因果は逆なのかもしれない。個人情報になってしまうので多くは語らないが 広報紙を読んでいると この字が地域住人の姓氏にもなっていることがわかる。

松宮兄弟

実は津藩草創期にも松宮氏は活躍している。それが松宮大蔵 五郎左衛門兄弟で 彼らは慶長年間に高虎へ仕えると八尾での激戦を戦い抜いた。
彼らの来歴が定かではないため 甲良の松宮氏であるのか判断は出来ない。もしも甲良の松宮氏であれば面白いなと考えているので 便宜上書いた次第だ。

尼子の字「畑藤堂」から考える藤堂氏と尼子氏の関わり

詳しくは尼子の項で触れるが 在士に尼子関連の字があるのと同じように 在士との境目には 畑藤堂 という字が残っている。
これは甲良における数少ない藤堂氏の痕跡である。ここが何故在士ではなく尼子に属するのかは不明であるが 天文初頭には藤堂氏から尼子氏の代官へ宛てた書状22が伝わる点からして一定の関係があったことは事実なのだろう。
そこに主従関係があったのかまでは読み取ることは出来ないが 尼子氏が保有する領地を管理する存在であったのかもしれない。
その名残が在士の住泉寺 松宮であったり 尼子の畑藤堂なのだろう。


*図上 耕作地帯の黒い線は圃場改良以前の耕作地帯に沿った道筋と思われる線をトレースしたもの。明治四年の絵図を参考に地理院地図の機能 年代別の地図 を利用して作成した。


在士まとめ

ここで在士について纏めてみたい。
古く 藤堂村 と呼ばれていたとされるが 天正十九年(1591)時点で さいし村 であった。それ以前の名称は不明である。

浄覚寺が開かれたのが歓喜年で 更に同寺の五輪塔が鎌倉時代であることからすると この地域も奈良時代の灌漑によって開かれたと考えられる。そうなると浄覚寺が拠点の一つか。

鎌倉幕府が倒れ南北朝時代に入ると佐々木道誉が甲良を拠点とし 孫の高久は尼子を拠点として自らも 尼子 と称した。
尼子に存在したと思しき興禅寺に住んだ海岸了義も同時代の人であるので 興禅寺は建武頃には存在したと思われる。

応永初頭には室町幕府にも参画する公家広橋兼宣の侍 中原三河守景盛が この地に八幡社を勧請し同時に藤を植えた。
それが 藤の堂 と名所になったのか 景盛は自らも 藤堂 を称するようになり ここに 公家侍藤堂氏 が誕生した。
なお当地は広橋家の家領としては認められず 何故兼宣の侍である景盛が勧請したのか全く以てわからない。ただ彼らが中原氏である点からすれば 同地に土着していた中原氏から広橋家に仕える侍が輩出されたとも考えられようか。

こうした中で公家侍藤堂氏から派生したのか もしくは土着の侍の中で 藤堂 を称した者が居たのか定かではないが 康正二年(1456)には京極持清配下の有力者として 藤堂九郎左衛門 が登場する。

さて浄覚寺の東側をはじめ 集落を囲むような土塁が築かれてたと津藩の編纂史料は語る。
高虎の生家も その周囲には父白雲によって塹壕が築かれていたというが それ以前つまり浄覚寺東側と同時期に築かれた可能性を見たい。
そうしてみると この集落は水路の南側に土塁を以て囲まれた形態である。そして大きな水路は集落を貫通しない。この形態は甲良に於いて異色である。
この景観をどのように捉えるのか 今現在私の力不足で表現のしようが無い。一応は元々尼子の外れであったのが 何らかのために切り離された説や 在士 が文字通り往古より士の住む場所だった説など胡乱なことを思い浮かべるものだが史料的な制約は大きい。
そして在士はそこまで大きな集落ではない 非常にコンパクトな集落である。こうした規模のなかで住んでいたのは藤堂一族だけではなく 山岸氏や陌間氏といった家もあった。なればこそ全てを養うのが困難であったように思われる。永禄年間時点で藤堂九郎左衛門は蚊野や安食に私領を有していたように 村以外の基盤を持つ者や村を離れた者もいたことだろう。

幼き日の高虎は こうした環濠に包まれ 浄覚寺の五輪塔を仰ぎ見て わんぱくなのでよじ登って遊んだこともあるだろう。東門を出れば八幡社に月ノ宮 三ツ目堂 少し先に野神。法養寺への道を行けば不動堂が点在する環境だ。
周辺の村落を見れば尼子の松宮大明神に住泉寺 下之郷には神社に二階堂宝蓮院など 法養寺にも神社や西方寺が存在し 彼は非常に神仏への崇敬篤い地域に生まれ育ったことがわかる。

ただし 高虎が生まれ育った時代にどれだけが健在であったのか。
問題は室町時代半ばから甲良の地が戦場となった点で 下之郷を本拠とする多賀氏が力を有していたために幾度となく攻め込まれている。
この状況は興禅寺のように神社仏閣を衰微させるに十分であり 高虎が見たそれらは私たちが想像するよりも見窄らしい姿であった可能性もあるだろう。
多賀氏の一族に生まれたとて 見窄らしい神社仏閣 お天道様と犬上川の機嫌一つに左右される水路。
村における藤堂氏の暮らしというのは忍耐力が養われるものであったのかもしれない。

*在士地区に関して甲良町教育委員会の谷先生に幾つかの御教示をいただきました。この場を借りて御礼申し上げます。


  1. 滋賀県の資料でも読み方は さいし ざんじ とある。/ 滋賀県市町村の変遷 : 平成元年 4 1 日現在 ,滋賀県総務部市町村振興課,1990.3.

  2. 岐阜県史 史料編 所収 近江国美濃国御蔵入所々目録

  3. 宗国史 所収の 系統録系図 寛政譜 近江輿地志略

  4. 藤堂高虎公と藤堂式部家/林泉(1982.5) 滋賀県中世城郭分布調査 5 (旧愛知 犬上郡の城)/滋賀県教育委員会(1987.3)

  5. 高山公実録 では 高宮道 と記されている。

  6. 下之郷古文書撰 から。

  7. 広報こうら 2022 10~12 月号 ふるさと再発見 から。No37-38 高野道 No39 多賀道 をそれぞれ取り上げている。

  8. 広報こうら 2021 4 月号 こうら 33 プログラム日誌 から甲良町オススメの散歩コース。

  9. 農村地域における文化的 社会的資本蓄積―甲良町グラウンドワークをモデルとして― 古池嘉和 2008

  10. 滋賀県立図書館近江デジタル歴史街道から 近江国犬上郡百二十八ヶ村之内耕地絵図/近江国犬上郡在士村 犬上郡在士村絵図 近江国各郡町村絵図。何れも明治四年(1871)の発行。

  11. 滋賀県立図書館近江デジタル歴史街道から 近江国犬上郡百二十八ヶ村之内耕地絵図/近江国犬上郡法養寺村 犬上郡法養寺村絵図 近江国各郡町村絵図。具体的な発行年次は記されていないが 在士村同様に明治四年(1871)の発行と思われる。

  12. この話は 甲良町史 に掲載されているが 細かいところで差異が見られる。

  13. 近江の石造五輪塔と無縫塔文化財教室シリーズ 16 滋賀県文化財保護協会,1977.8

  14. 近江の考古と地理(2006) 所収 近江の宝篋印塔について 田中利絵

  15. 移居江之興禪寺 本朝高僧伝 了義。了義は鎌倉末期に大徳寺を開いた大燈国師 宗峰妙超の弟子にあたる。龍宝山志 大日本史料 6 4 建武 4 年正月~暦応元年閏 7 によれば 海岸了義 という。

  16. 二三六四の 近江尼子郷興禅寺経蔵下地注文案 には 寿千寺 宝重院 観福寺に円城寺跡が加わる。観福寺と欽福寺は同一かもしれない。ともかく浄覚寺以外は現存しない。円城寺跡 は甲良の南にある愛荘町の字 円城寺 を指す可能性がある。
    なお 龍宝山志 本朝高僧伝 によると積翠寺を開いた 白翁宗雲 も大燈国師の弟子という。前者に依れば 池寺開山 江州天地山積翠寺俗云池寺 とある。池寺の西明寺は大燈国師の時代よりも前 平安の寺院なので 池寺開山 というのは大げさかもしれないが 臨済宗の言うところの 池寺 が積翠寺なのだろう。
    ついでに記すと積翠寺は近世期はじめ頃まで存在したようだ。中世仏教と真宗 所収 中世近江における大徳寺派の展開 竹貫元勝,1984

  17. 中世仏教と真宗 所収 中世近江における大徳寺派の展開 竹貫元勝,1984

  18. 諸本からの抜粋や引用を江戸時代に纏めたもの

  19. 字によって景観を再現する試みは敏満寺でも行われている。歴史地理学の観点から見た敏満寺―地籍図による考察を中心に― 藤田裕嗣 /第 9 回学術研究助成 平成 21 年度 研究成果報告 近江国敏満寺 滋賀県多賀町 の復原研究―地籍図分析と聞き取り調査を中心に― 平成 22 年多賀町立文化財センター第 2 回企画展 復元 敏満寺~戦国時代の威容 関連事業  シンポジウム 最盛期敏満寺を復元する より。なお成果報告書については多賀町本田洋先生に御教示いただきました。この場を借りて御礼申し上げます。

  20. 古代 中世の下之郷 川並稔男,1989 から

  21. 広報甲良 202110 月ふるさと再発見

  22. 天文元年(1532)九月日付尼子殿御代官宛藤堂家忠請文 革島家文書 資料館紀要 (25),京都府立総合資料館,1997-03. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3437866 (参照 2025-12-20)