藤堂高虎(与右衛門・佐渡守)

藤堂氏は京極被官の家柄で 母は名門多賀氏の血筋である。高虎が生まれた弘治二年(1556)当時は六角氏に従う立場であったと思われる。
その後一族藤堂九郎左衛門は永禄の末に浅井長政に従うが 彼の館を訪ねた僧侶は 浴室 があったことを詠んでおり 高虎もそれなりの家に生まれたと考えてみてもよい。

前歴

高虎没後早くに制作された 藤堂家覚書 以降家譜 をはじめとする家譜では 高虎は姉川で初陣を迎え志賀の陣に従軍し小谷城に籠城。喧嘩を起こし同輩を殺害すると逃亡し山本山城の阿閉家へ転じ そこでも殺害事件を起こすと出奔 後に高島の磯野員昌に八十石で仕え そのまま養子織田七兵衛に転じ 丹波攻めで戦功があるとしている。

しかしこうした記述は史料的裏付けに欠けることも重要で 例えば高虎が生まれた尼子郷(1)の尼子氏は元亀元年(1570) 正確には永禄十三年(1570)時点で信長から独立勢力として目されていたし 母方の多賀一族は姉川合戦の後は織田方であり 同族の高虎が家を分けるような形で浅井に従い続けたとするのには疑問がある。
姉川合戦も織田方として迎え その後一貫して織田方であったとするのが妥当では無いか。無銭餅食の話は近世の講談であるし 討ちとった賀古六郎右衛門の馬を得て 賀古黒 としたと言われるが 別で 加古六郎右衛門 という人物は秀吉に協力した 加古浄秀 という僧の逸話もあるから注意が必要だ。英賀城主三木氏の研究と昭和初期の地字と遺蹟

なお中郡に生まれ育った高虎が高島郡へ転じたことについては 此方は天正四年(1576)と比定される信長朱印状 信長文書下巻 550 にて 丹羽長秀が 江州中郡 同高島 若州人数可罷立之旨 中郡と高島郡の兵を管轄する立場にあったことが示されており こうした接点によって高島郡の磯野員昌 織田信重親子へ転じたのだろう。
その後家譜は小山城の戦いでの武功を述べる。この小山城の戦いが起きた年次について 津藩の編纂史料では天正二年(1574)の項に入れているが 実際に起きたのは天正六年(1578)九月の丹波攻めの一環とするのが妥当である。最も高虎が従軍したことを裏付ける同時代史料は存在しないのであるが ここは家譜の記述を鑑み天正六年(1578)までは高島郡にあったと判断したい。(2)

(1) 尼子→尼子郷/20240629
(2) その後家譜は小山城の戦いでの武功を述べるが 小山城の戦いは天正六年(1578)で 高虎が従軍したことを裏付ける史料に欠けるが 天正六年(1578)までは高島郡にあったと思われる から変更/20240629

編纂史料に見る初見以前の動向

その後天正八年(1580)までに羽柴家へ三百石で転身すると天正八年(1580)頃に但因国境の警備として大屋警備を任じられたようだが 残念ながら但馬での発給書状は見られず その実態を家譜 編纂史料以外から見るのは不可能に近い。
羽柴家に転じた高虎は小代一揆の始末に追われ 高山公実録には夜討ちで敵鑓に突かれたり 敗走した際には落馬して命を危うくしたなど散々な逸話が遺されている。
結局小代一揆を掃討したのは天正九年(1581)第二次鳥取城攻め直前の秀吉本隊で高虎は既に鳥取城包囲網にあった 山県長茂覚書 と言われているため 彼が小代一揆を掃討したわけではない。鳥取県史リーフレット

なお家譜では一揆退治の功で三千石に加増されたと言われているが 一揆以外の部分たとえば鳥取城攻めなどで活躍し その功で加増を受けたと考えるのが自然ではないか。
また但馬ではただ一人の正室一色氏と出会い結ばれているが 彼女の出自はよくわかっていない。

その後編纂史料では天正十年(1582)の対毛利 冠山城での武功 また天王山の戦いでの従軍が載る。ところで本能寺の変では高虎母方多賀氏や 母方祖母が再嫁した梅原氏の主池田孫二郎などが光秀に与している。

天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政軍を追撃する武功で加増を受け五千石となったという。藤堂家覚書

藤堂与右衛門の登場

ここまで高虎の活躍は後年編纂の史料による部分が多いが 天正十二年(1584)の小牧長久手の戦い終結した直後 秀吉側近小野木重勝から信雄と秀吉の参会に伴う御馬納や 家康が人質を出すこと 尾州の城の破却命令を報告されている。宗国史 愛知県史資料編織豊 2

編纂史料では三月に松ヶ島城攻めで武功を挙げ その後小牧で首を獲ったとされ また家来服部竹助の子孫が藩に提出したところによれば楽田 小口 甲田と最前線から木曽川方面へ移動した事が窺える。同じ頃堀家も楽田に堀監物 甲田に堀秀政や弟多賀秀種が在番しており 高虎は番替守兵として巡回していた可能性もあるか。なお服部竹助の子孫に依れば 藤堂家の旗印はこの戦に際して 黒餅 に定まったとある。服部竹助家乗
また戦後には 羽柴孫七郎 秀次 (3)と共に津田宗及の茶会に参じている。宗及自会記

このように(4)高虎が史料に姿を現すのは この天正十二年(1584)が初である。

(3) 秀次と共に→ 羽柴孫七郎 秀次 へ変更/20240629
(4) 文頭 このように 設置/20240629

四国攻めでの動向

天正十三年(1585)の動向では紀州攻めで雑賀 根来 粉河を攻めた後 湯川勢を攻め彼らを熊野へ逃亡させ 四国征伐では一宮城を攻めるなかで敵兵より狙撃されるも生還し 近臣服部竹助の歯を折っている。高山公実録
ところで和歌山城の奉行を横浜や羽田と共に担当したと紀伊続風土記は述べる。しかし高虎は八月までには四国にあったので 和歌山城の作事に専念する時間は然程無かったであろう。寛永年間に成立した家臣玉置氏の覚書では このとき和歌山の城には桑山重晴が残っていたとする。史料的な部分では羽田忠右衛門と一安 すなわち羽田正親と見られる人物と横浜一庵と見られる人物が残っていた。豊臣秀吉文書集
史料的な部分でいけば四国攻めの渦中の八月一日 秀次を支えていたと思われる宮部藤左衛門から主 秀次への執り成しを依頼されており 宗国史 更に同時期の閏七月 八月か には秀次から直々に 御やとめ を指示されている。大日本史料
戦後高虎長宗我部元親の上洛に秀次家臣 白井権大夫と共に尽力。人質の元親三男 津野親忠と入魂になったらしい。こうした仕事は 取次 に含まれようか 宗国史
天正十二年(1584)からの二年の史料的動向を見るに この時の高虎は秀長に従いながら秀次家中にも顔が利く存在であったらしい。秀長家臣と言うよりも 広く羽柴家の部将というところであったのだろう。

熊野攻め

天正十四年(1586)には秀長家中総動員で前年討ち逃した紀州征伐 対熊野国人一揆戦が繰り広げられ 編纂史料は高虎隊の武功を載せ 一揆の首魁山本主膳を高虎が討ち果たしたとの逸話が 玉置覚書 に残る。
史料では 多聞院日記 十一月四日条に 今度紀州ニテ帰参之躰山云ト本人 三千計ノ大将也ト云々 生害サセテ内衆以上十一歟首ヲカウニカケテ 大安寺ノ東ノ道ニアリ と山本の死が記録されている。現状では高虎が 紀伊の峠 で討ち果たしたとするよりも 多聞院日記の方が信憑性が高そうである。(5)
またこうした一揆との対決で 高虎が残酷非道に国人たちを赤木城近くで処刑したとの逸話が残されているが これは慶長の一揆の始末と混同されている部分があるように感じるため留意が必要だ (6)
同じ頃には家康の屋敷普請を担当すると その不備を家康の無許可で断行したという心温まる逸話も残され 関連すると思しき天正十六年(1588)までに発給された家康の書状が編纂史料 高山公実録 に残る。
こうした活躍によるのだろう 高虎は五千石の加増を受け一万石の大名となった。その居城は粉河と言われている。家譜

(5) 討ち果たしたとされる→討ち果たしたとの逸話が残る/20240629,玉置覚書加筆 実は似た記述は 藤堂家覚書 にも見られる 一揆の首魁山本主膳を高虎が討ち果たしたとの逸話が残る。山本の死は 多聞院日記 帰参していたが十一月四日までに内衆十一名と共に殺害され大和大安寺近くに首を晒されたと記録されている から変更。なお 山本氏 最期まで秀吉にはむかった男 市ノ瀬龍松山城主山本主膳正保忠 総集編 上富田文化財増刊号 2 では 高虎が風呂場で謀殺したとする逸話は 湯川記 が元になると解明されている。現段階では寛永十八年(1641)成立の玉置覚書と湯川記の何方が早く成立したのか良く判っていないので このぐらいで留めておく。/20240720
(6) ただ高山公実録 杉井孫左衛門家乗に 天正十三年(1585)に赤木での働きで高麗の耳茶碗を貰った記録が見られる。こうした時期に赤木周辺で何らかの軍事行動は行っていたとみるべきであろう。翌十四年の戦いかもしれない。

対島津・長崎派遣

天正十五年(1587)では九州征伐で根白坂の救援を羽田正親と共に奮闘し島津を撃退。編纂史料では当時参戦した家臣の子孫が津藩に提出した 家乗 にその一端を知る事が出来る。
その後高虎は佐土原城に籠もる島津家久を開城させるが 旧記雑録後編 2 秀吉は家康に対し家久の居城佐土原で戦があり大勝利したと報告しており 豊臣秀吉文書集第三巻 二一六八 高虎の隠れた武功であるのかも知れない。暫くしてから家康は高虎に慰労する書状を発給している。
また島津家久は降伏直後に急死しているが 島津家では秀長による毒殺とされており 毒殺説を鵜呑みにすると家久を説き伏せた高虎の面子は潰されることと相成る。それはともかく秀長は家久の子息又七郎忠豊に対し 其方覚悟次第 向後引立可申候間 として 藤堂の指示を仰ぐよう命じられている。
こうして高虎は佐土原島津中書家を取り次ぐ役へと任じられるが その後島津家の指南は石田三成等秀吉直下の奉行が行うことになっている。
高虎は取次ぎ役を解かれたようだが どうやら高虎は秀吉の上使として長崎へ遣わされたらしく 高虎は宣教師側に対し 長崎 茂木 浦上の没収 教会の破壊 長崎住民一人あたり銀三匁の罰銀の上納と武器の没収 長崎県史対外交渉編 を厳命したらしい。高虎の長崎派遣は切支丹領であった長崎を公領化するという重大な役割でもあった。長崎文献叢書

佐渡守叙任

高虎はその年の末から一年の間に諸大夫となり 佐渡守 に叙されている。ただしその詳しい時期は不明で 次に述べる輝元公上洛日記では始め 与右衛門 七月十七日 であったのが最終的には 佐渡守 九月六日 表記揺れが発生している。
こうした毛利家の認識を如何に捉えるかである。
また同年に高虎と行動を共にした寺沢広高も 同年とされる書状にて志摩守ではなく忠二郎とされている書状 豊臣秀吉文書集 二五九八 もある。こうした事情を解明する史料 口宣案に今のところ当たっておらず如何ともしがたい為 本稿では便宜上天正十六年(1588)までに佐渡守になったとする津藩の認識を踏襲する。羽田正親と共に任じられたのではないか。
高虎の叙位に関しては彼が何姓で叙されたのかという点も重要であり 後年彼は 藤原朝臣藤堂和泉守 予陽叢書 を称しているが そも広橋家に仕える侍藤堂氏は初代景盛以来の中原氏であることは 歴名土代 に明らかで 更に母方多賀氏は代々 中原姓 であった。こうした点から高虎が中原姓で叙された可能性も有り得る。
長崎での高虎の事績をまとめた 上使御目附御勘定普請役等歴代雑記 藤堂佐渡守中原高虎 としている。これは幕末文化年間に制作されたものであるから参考程度ではあるが(7) なかなかの記述である。

(7) 打ち消し線 であるが→ではあるがと表現改/20240512

天正十六年(1588)の動向

天正十六年(1588)の高虎の動向を見ていこう。
高山公実録では同年の二月に畿内を徘徊する盗人を逮捕し 秀吉から感状を賜っている。なお 豊臣秀吉文書集第八巻 では天正十九年(1591)としている。文書 六一四六
そして六月に再び長崎へ代官として派遣されるが 今回は秀吉側近の一人である寺沢広高を伴ってのもので 秀吉は六月二十四日に寺沢志摩守と藤堂佐渡守へ長崎の商人や町人への接し方を仰せつけている。豊臣秀吉文書集巻 六〇七四
その後長崎には正式に鍋島飛騨守が奉行となり 両人は帰国したようだ。長崎文献叢書第 3
帰国後は七月から輝元饗応に活躍 輝元公上洛日記 している。
興味深いのは七月十七日に上陸する輝元を再び秀次家臣白井権太夫と出迎えた点で 白井とは知己であったのかも知れない。

またこの頃に秀長から養子仙丸 後の宮内少輔豊臣一高→高吉 を下賜されたと高山公実録にはあり 仙丸へ宛行された一万石を併せ二万石の大名となった。
更に同年末に北山代官 山奉行を務めていた吉川平介が処刑されると その後任として羽田正親と共に代官 山奉行となり 壬辰戦争へ出兵するまで北山を分割統治した。和州北山一揆次第 赤木城を整備したのはこれ以降かも知れない。

天正十七年(1589)

天正十七年(1588)は恐らく赤木城で羽田と共に材木管理に奔走していたのだろう。
正月十日には羽田との連署で熊野山中へ宛て 山の奉行が決定するまで 勝手に伐採と製材をするなと厳重に申し伝えている。藤堂高虎関係資料集補遺
曽根勇二氏は三月朔日に秀吉が両人へ宛てた書状の中に 大木出兼候分~ 高山公実録 とある点に着目し 秀吉は材木の搬出が難しい場所でも板に製材して搬出しろと指示し こうして 山之奉行 は製材と搬出までの山に関わる職人たちを指揮 監督する立場にあったとの見解を示している。秀吉 家康政権の政治経済構造

またこの時期の書状だろうか 高虎は羽田正親と共に秀長より本宮造営に関する二月十五日付の書状を受け取っている。藤堂高虎関係資料集補遺 本宮大社文書
秀長は本宮造営について 本宮近所の者を動員するように命じている。
高虎にとって秀長からの書状は これが現状ただ唯一のものである。

七月八日には秀長の養子 御虎 侍従殿 が上洛するが 多聞院日記 その上洛に大名衆 御近衆 姓衆歴々が御供したとある。翌日には秀長も上洛しており 高虎は何れかに従い上洛したものと思われる。
十一月には家康より十五日に上洛する旨を告げられている。その際に家康は秀長が煩いで有馬へ湯治した旨を聞いていたらしく その後の様子を気遣っている。高山公実録 秘府蔵書
十二月秀長は湯山 有馬温泉 から帰洛するが そこで重篤な病気となった。多聞院日記

天正十八年(1590)の動向

天正十八年(1590)は正月八日に羽田と共に長浜の山内一豊へ書状 南部文書 を発給しているが 吉川平助が生前長浜の與六なる人物へ生じた料足に関する内容である 天正十六年吉川平助書上申候 とあるから 與六が一豊を通じて秀長側へ問い合わせ それを高虎と羽田が回答したということになるだろうか。
同年の出来事としては小田原攻めが名高いが 家臣の子孫が津藩に提出した 家乗 によれば 高虎は韮山攻めに参じたようだ。
残念ながら一次史料には見られない。
しかし船出として秀長勢が動員されている点は興味深く 後に高虎が水軍を率いて名を挙げる姿を見れば 高虎が当年時点で警固船を率いる将となった可能性が浮かぶのは自然だろう。

七月十一日には京都 聚楽第か にて毛利輝元と宗凡を招いて茶会を催している。宗凡他会記
八月二十三日には 秀吉から見廻り書と服の御礼と 奥州仕置きを仰せつけ遠州掛川まで達した旨を知らされている。
十月十日朝には郡山の屋敷に羽柴藤五郎 長谷川秀一 と宗凡を招き茶会を行っている。宗凡他会記
十月十一日には有馬湯治の秀吉を見舞い 柿三百を献上している。盛本昌広 豊臣政権の贈答儀礼と養生

天正十九年(1591)の動向

秀長が天正十九年(1591)正月二十二日に没すると 以後秀保を支える立場となる。
高山公実録 は秀保の具足始めの儀で 秀長直々に具足親へ指名されたと述べる家譜類を掲示する。しかしこの事は 藤堂家覚書 には見えず 江戸時代半ばに成立した逸話であろう。
藤堂高虎の立場は如何であったのか。
正月二十七日には秀吉の使者長谷川藤五郎が訪れ 秀長の跡目について与力から大名小名の知行は不可無く相続させ 侍従殿を守立て 万事一晏法印次第にせよと 秀保以下に伝達されている。これは秀吉が前年十一月に秀長を見舞った際には決まっていたことでもある。多聞院日記
多聞院日記ではこれを 法印無比類名誉 と賞賛している程である。名実ともに秀保を支える筆頭は横浜一庵であり 高虎が筆頭とは現状言いがたい。
しかし高虎は秀長の養子を賜っているし藤堂家の系図では 高虎は一庵の舅となることから 一庵と同等ぐらいの地位にはあったと言えるかも知れない。

ところで秀長の肖像画は何種類か見られるが 賛文に天正十九年(1591)夏至 六月? 二十二日と記される大徳寺の画像は 同寺 玉仲宗琇の賛文がある。その中に 藤堂佐渡守高信士模写 とある。紛れもなく高虎を指すのだが これは天正十九年(1591)に高虎が玉仲に依頼したことを指すのか 後年大光院を京都大徳寺へ移した際 賛文を模写し新たに創らせたのだろうか。
藤堂佐渡守高信士 ではまるで彼の諱が 高信 に見えてしまうが これは戒名の 信士 なのではあるまいか。後に 藤堂佐渡守高 花押 という書状を出しているので 辻褄は合うような気もする。
だが高虎は当時生の盛りであるから 信士 を付けることに今一つ意味が良くわからない。
では高虎は 高信 であったのか? 
こちらも追って調査が必要だ。
藤堂高虎文書集 : 藤堂高虎公入府四百年記念 2008,伊賀文化産業協会 によれば高虎は 慶長期まで の字のみ花押としていた。つまり 藤堂高 花押 と表記されるのは実態に即していると言え 藤堂佐渡守高信士 虎の花押 信士 ということになるのではないか。(8)

天正十九年(1591)当時であれば 高虎は秀長の肖像画賛を依頼する立場にあり それなりの立場にあったことを示唆する。

(8) 元は 20240429 の注釈だったが 0629 に打ち消し線と加筆化

秀長の死後 秀保は喪中に入る。高虎が秀吉から指示を受けるのは一月後 豊臣秀吉文書集第五巻 三五九七 のことで 高虎も喪中であったと考えられようか。
豊臣秀吉文書集第八巻 の年次比定を信ずれば 高虎はそれから間もなく 方々徘徊仕候盗人共搦取 したことになる。豊臣秀吉文書集第八巻 六一四六
四月二十二日には先に江戸侍従 徳川秀忠 を訪ねたが咳で会えなかった山科言経の訪問を受けた。高虎はキリムキ 切麦 と酒を振る舞ったらしい。言経卿記四巻
どうやらこの時期は入京 聚楽にあったと思われる。言経とはもう一度顔を合わせる機会がある。
八月十二日には再び有馬湯治の秀吉を見舞い 小夜着物を献上している。盛本

この年 翌年春に決まった 壬辰戦争 への支度が始まり 高虎は紀伊の水手確保のために奔走している。
六月には久木の小山式部大夫に 九月には西向の小山助之丞に対して動員の用意を命じているが 後者の書状には 秀長様置目のことくたるへく としている。紀伊続風土記
また十一月十五日には新宮の在庁石垣源之丞に対して 紀州熊野に於いて其方を我等の宿坊と定める と認めているが この文書が諱 高虎 の初見 高+花押ではあるが 更に高虎の書状の初見正文ともされている。三重県史中世 2

さて この頃紀州では幅広く検地が行われたと推測されるが 鵜殿村史通史 伊藤俊治氏は築城で用いる縄張りは元々検地の測量技術で生まれたとし 検地を担当した家臣が築城を担った例を示す。伊藤俊治 築城技術者に関する試論 戦国期城館と西国
現代 高虎は築城の名手として名高いが それは高虎が検地を担っていたことも示唆するのかもしれない。
すると新宮の石垣源之丞方を宿坊と定めたのは そうした検地に関連するのだろうか。

壬辰戦争

天正二十年(1592)正月には聚楽第行幸が執り行われ 羽田等大和衆も参じているが 高虎の名前は見られない。
この年始まる壬辰戦争 文禄の役では紀伊国の衆 水軍 を堀内安房守 桑山小藤太 小伝次 杉若伝三郎等と共に率いて参戦している。ここで高虎が千を率いる将であることがわかる。
五月には玉甫で朝鮮軍に襲撃され損害を蒙った。
戦中 秀吉から何度も指示を受けており 毛利一族などへ宛てた秀吉の書状には 委細藤堂佐渡守被仰含候也 小早川文書 こうした伝達の役割も担っていたし 更に朝鮮での城砦建築に於いては秀吉に絵図を以て選地を報告している。また家康からは慰労の書状が届いている。
城砦が何処か定かでは無いが どうやら文禄二年(1593)五月には釜山加徳島で九鬼 加藤左馬 来島 得居 脇坂組とくじを以て番替勤務の順番を決めたようであるからして 加徳島での築城であろう。村井章介 朝鮮史料から見た 倭城
そうして同年閏九月二十五日には下関まで達したらしく それ以前に帰朝 秀保を伴って十月六日に京都へ上ったらしい。駒井日記
その頃秀保の兄秀次は熱海湯治の帰路にあり 秀次は道中七日に高虎へ帰朝の報告を受け在陣を慰労すると共に自身養生のため熱海へ湯治していた旨を告げ 聚楽での再開を願う朱印状を発給している。駒井日記 宇和島伊達文化保存会所蔵文書
秀次は十一日に帰洛し 十四日に秀保をはじめ家中衆と対面 駒井日記 そうして秀保は十五日に郡山へ帰している。多聞院日記

帰国後

帰国した高虎は家康へ てるま二人 捕虜の朝鮮人 机さすかはいとり を送ったらしく 家康は十一月十二日に礼状を発給している。高山公実録
十一月二十日には秀保により陰陽師改を命じられる。これは秀吉の意向を受けたもので 高虎は桑山と共に紀伊国中の女子供を所司代前田玄以 浅野長吉 石田三成へ急ぎ引き渡すべく 高札を立てるよう命じられた。三鬼清一郎 近世初期における普請について

その後二十七日になり大和衆桑山法印 重晴 一庵法印 横浜 羽田長門 正親 藤堂佐渡が御用として聚楽第に呼び出され 駒井日記はその際の書状の日付は翌二十八日付としている 二十九日に秀保と桑山等大和衆は上洛し 秀保は秀次より村雲の脇差を賜っている。駒井日記
陰陽師改めに上洛せよとは忙しいものである。

文禄三年(1594)の動向

明けて文禄三年(1594) 正月十一日から十八日にかけて 駒井日記 に高虎の動向を探ることが出来る。
十一日に藪九介なる者が肥州にての舟入作事について聞きたいことがあるらしく高虎に尋ねたという。これは名護屋城の作事を命じられた藪が 知見を有するであろう高虎を頼ったのだろう。
十三日には恐らく秀次が高虎の館へ御成し 服を五着下賜している。この辺り場所が定かでは無いが 駒井日記に特段大坂とは記述が無いので洛中聚楽第の事と思われるが問題は十八日条である。
藤堂佐渡 羽田長門大坂ゟ申上
とあり どうやら高虎と正親が大坂に居たように感じられる。
しかし何処に居たかよりも その内容が重要で 次の番替に高虎は渡海させず 桑山兄弟 杉若伝三郎 堀内安房守のみで決まり 高虎は来春働かせることになったという。
大坂から申し上げるということで この決定をしたのは太閤秀吉その人であろう。何故高虎を渡海させないという判断になったのかわかりかねるが 高虎渡海後の大和では奈良町で秀長が生前課した ならかし が原因で町人の訴訟騒動が発生し 更に留守居の森半介が突然狂い死に 千人斬事件も発生するなど 治安が悪化していた。秀吉は高虎を渡海させないことで 秀保の治世を安定化させようとしたのではないか。

二十九日 秀保は大坂城にあり 高虎たちも供したであろう。
二月になると秀保は伏見城普請に加わるが 当然高虎も参加したらしい。高山公実録
二月二十一日 高虎は大蔵卿法印 横浜 正親は聚楽第へ 吉野花見の際に秀次は奈良中坊井上源五館へ滞在するよう申し上げる。駒井日記
吉野花見にも当然大和衆として関わったと思われるが 次に高虎が記録に見えるのは花見後のことで 郡山城での祝宴の翌日三月四日のことだ。この日帰洛する秀次は高虎の館へ御成し それより直に帰洛の途に就いたという。
郡山城には 与右衛門丸 という高虎居館の郭が存在した伝承もあるが 高山公実録 秀次はここで旧知の高虎と様々な話をしたのだろう。
それを匂わすのは駒井日記の六日条で この日高虎方から 高野山の秀吉の様子を報告されたという。秀吉は吉野花見の後に高野山へ渡り 母大政所の法事を執り行っている。しかし秀次 秀保兄弟に金吾秀俊は郡山で 御縁辺 の祝宴をしており 例えそれが 大閤様御意 でも いずれも駒井日記三月二日条注釈 秀次は気にするところがあったのだろう。
また十六日には 翌日に秀吉が宇治を通り上洛する旨を聚楽第に伝えている。
この時期の高虎は秀吉秀保のみならず 秀次の意をも汲む立場であった。

三月十七日なると上洛した秀吉が突然郡山城は悪所であるから 会ヶ峰へ移るようにと発した。
そして同時期に聚楽第に御蔵入地の算用を求め 秀次方は二十一日に提出。
どうやら秀吉は秀保にも大和の算用を求めたらしく 二十九日に桑山法印 重晴 大蔵法印 横浜一庵 羽田長門 正親 へ算用を持ち上洛するよう朱印状が発給される。またこの時期高虎は紀州に居たらしく 三名とは別に急ぎ上洛するように朱印状が発給された。
四月一日には 大和中納言様へ算用の儀を年寄り共に仰せつけ差し上げたところ 中納言様は二日に上洛なさる由と御返書が来たと駒井は記す。
算用の内容は北堀光信氏が明らかにしている。
四月五日には秀保から高虎に宛て

其方隙明次第関白様へ罷出 直傳八事今度之御供可召連候 諸大夫之事可申上候 次ニ渡邊須 史料編纂所版では次 右衛門両人をも諸大夫になしたく候間 此旨申上候 謹言
卯月五日 秀保 花押
桑田忠親著作集 1 歴史の学び方

との書状が発給されている。

高虎の暇が出来次第関白様のもとへ出向き 傳八 羽田の子息 を御供に召し連れ 諸大夫のことを申し上げ 次に渡辺 須右衛門 次右衛門 両人を諸大夫にしたいので 此の旨も申し上げて下さい。

このように訳すのだろうか。
この書状は年次が不明であるが 秀保が発給できるのは天正十九年(1591)以降であるが 同年八月二十二日にはまだ秀保の権限は制限されており 和歌山県史中世 同年以降であると高虎が海上の人であるからして文禄三年(1594)に比定される。
羽田傳八以外の二名に関してはそれぞれ立項しているので そちらを参考のこと。

その後四月二十五日に大坂城へ赴き 御ひろい様 と対面し 長光の太刀と馬代銀十枚を進上している。駒井日記 廿六日条
ここに高虎たちも供したと思われるが定かでは無い。

五月になると多聞城の普請が持ち上がり 大和衆一万人の動員が定められている。豊臣秀吉文書集第六巻 四九二二 恐らく件の 郡山悪所 について 会ヶ峰から嘗て松永久秀が居した多聞城への移転に変更となったのであろうが 現在の通説からするとこの普請案は幻に終わったと見るべきであろう。

八月二十一日の 山科大光明寺再建勧進書立 には大和中納言が五十石を寄進し 高虎は池田伊予や羽田長門とそれぞれ五石を寄進した旨が記されている。
同二十三日には太閤秀吉から秀保へ宛て 多門の古塔が伏見に届いておらず 作事を急ぐようにと命じる書状が発給されているが どうやら 藤堂二被仰付候 委細藤堂佐渡守被仰含候 とあり 高虎は秀吉直々に叱られたとも捉えられよう。豊臣秀吉文書集第六巻 四九六七

十月十六日には秀吉から伊勢国安芸郡今井三郷 現在の津市一身田周辺だろうか の内 千石を加増されている。高山公実録 三重県史 これは伊勢の検地が一段落したことで 家臣へ分け与えられたものである。こうして二万千石 宮内一万石を含む となった。
なお 公室年譜略 では同書状が天正十一年(1583)賤ヶ岳の合戦後のものとされているが 当時伊勢は織田信雄の支配するところであるからして秀吉より加増されることは辻褄が合わない。高山公実録では親筆留書にて秀吉より千石の加増を受けたとしており その辻褄を合わせるためにわざわざ宛名を 与右衛門尉 に改変したのだろう。

その四日後の二十日には秀吉が家康を伴っての 聚楽第御成 を催し 貴賤の郡衆を集めた。言経卿記 6
鹿苑日録 には家康に次いで大和中納言 秀保 金吾中納言 秀俊 岐阜中納言 秀信 が騎馬として見える。
加増された十六日には既に秀吉は京都に在ったため 高虎も同地で加増を受けたと考えたら 彼も御成の列に加わったと思われる。

十二月五日には長束 増田 石田三成から十日以内に京へ上り るそん壺代を支払うよう命じられている。太田浩司 石田三成
当の高虎は十二月六日に屋敷で能を催していた。その頃に青蓮院の門主が郡山を訪れていたので 門主をもてなす能でもあったのだろう。華頂要略

文禄四年(1595)三月までの動向

文禄四年(1595)正月に秀次は年頭祝賀で参内するが その三献の儀 酒宴 に秀保も八条宮智仁親王 秀信や秀家 秀俊と供に相伴している。御湯殿上日記
高虎も後方にあったのか定かでは無い。
郡山へ帰った秀保は十四日から十五日にかけて奈良中坊で能を催した。

二月十七日には聚楽第にあって 高虎が秀次と会ったのか定かでは無いが 秀次との対面を終えた山科言経は 六角玄入 玄雅 義治 藤堂佐渡守 荒木志摩守入道 元清 三蔵入道 鳥養道晣と雑談している。言経卿記六
高虎以外は秀次お抱えの文化人で 高虎は異色の存在である。高虎にも何かしら文化的素養があったのだろうか と考えると古記録に於ける初見が茶会の記録であったり 先に屋敷で能を催すなど文化的な素養があったのは事実であろう。後に高虎は大和猿楽の金春座と親しい姿を見せており 更に小姓に金春座から能を習わせている。一人は切腹 一人は他家へ転出することになるが そうした金春座との関わりというのは この時期に出来たと思うのが自然だろう。
さて列席した中で六角玄入 玄雅 義治 は高虎が幼い頃六角家の当主して君臨し 若き守護と国人の子息という関係であり 元亀争乱では敵対する関係にあった筈だ。どのような会話があったのか興味深い。また荒木志摩守入道は その名の通り荒木村重の臣で 此方も敵同士であった。そうしたかつて敵対した関係も 今は関白秀次を介して雑談する関係にあったのである。

高虎は何のために聚楽第を訪ねたか それが推測できそうなのが二月二十日に吉川侍従 広家 へ宛てた書状である。吉川家文書
この中で朝鮮在番が平穏であること 日本都鄙も無事で目出度きこと 大和中納言殿 秀保 と安芸宰相殿 秀元 の縁辺が調い 来る二十八日に祝言が行われ拙者 高虎 がお供すること 来春渡海の際は九鬼と我等に舟手を仰せつけられたこと等を述べている。

秀保の義妹で秀長息女が輝元養子の毛利秀元へ嫁いだことは周知のことであるが どうやらこの祝言に高虎は奔走したらしいことが窺える。高虎が先に聚楽第を訪ねたのも こうした祝言の日取りが定まったことを報告が目的であったのだろう。
祝言の様子は 北野社家日記 森殿へ大和中納言殿よりよめ入有也 二十八日条 と見える。また秀元の一代記である 毛利秀元記 は後年の軍記だから話半分に捉える必要はあるけれど 興味深い叙述が見える。
秀吉直々に 日本始めて の儀式にしようという発案があり 更に日中に 諸人に見物せさせん として 秀吉もわざわざ側近戸田民部の屋敷の塀の上に櫓をかけて見物した。ただし戸田民部は前年朝鮮で病死している
そうして秀保義妹が乗る輿を藤堂高虎 羽田正親が秀吉の面前まで運び その面前で毛利元康 渡辺長へ受け渡した。

三月十二日に秀保は上洛していたようで 青蓮院を訪ねると(9)終日遊興したという。華頂要略
その後秀保 高虎の動向は途絶える。

(9) 訪ね →訪ねると/20240629

秀保の死

三月二十八日 太閤秀吉は家康邸に御成した。
四月四日 家康は 太和中納言 に対し 湯治に赴いてから見舞書状も送らず音信不通となっていたことを詫び 湯治の話を聞きたい旨 秀吉は機嫌良く無事に御成を終えることが出来たことを報告している。新出史料 徳川家康書状 豊臣秀保宛 および 式御成之次第 について ―文禄四年 豊臣秀吉の徳川邸御成に関する史料的考察― 原史彦
どうやら三月二十八日以前に秀保は湯治に赴き 秀吉の家康邸御成に参加できなかったようだ。秀吉と家康の行事よりも湯治を優先した事は重大で 即ち秀保の体調が芳しくないことを想像させる。
こうしたところで某年三月二十七日に高虎は くわほういんさま 重治 へ書状を出した。護念寺文書
この書状は和歌山県史などでは秀長の書状とされるが 藤堂高虎関係史料集補遺によれば花押 が高虎のものとされる。後年高虎は自筆の際には平仮名を用いることが多く これも平仮名が目立つから自筆のものではないか。

さてその内容は 廿八日あさ一ふく可被下旨 忝存候 必〻参上候て可申上候 如仰候 から始まる。
これは高虎が当時側に居た人物の言葉を伝えるものである。
そして その人物は昨日 二十六日 調子が良く高虎も安堵し 何事もめてたく と報告する。

これが具体的に誰のことであるのか定かでは無いけれど 少なくとも桑山は文禄年間に剃髪するから秀長は除外されることは確かである。
そうなると先の秀吉の御成からして 三月末に秀保は湯治を優先するほどの重大な状態に陥っていることが想像され それはこの書状の日付の時期と合致するのである。

秀保が何処で湯治していたのか これも定かでは無いが 数日後の記録からして十津川であることは確実だ。
三月の末には高虎の看病や桑山の薬もあってか 体調は持ち直したようであるが 四月十日には聚楽第へ 大和中納言様とつ川にて御煩出被成由 を注進し 生母が大和へ赴き 太閤も増田長盛や孝蔵主という重臣を派遣する事態となった。

十二日には興福寺にも 中納言トツ川へ入煩 が伝わり 方々で祈祷が始まった。多聞院日記
同日聚楽第は十津川へ赤尾久助を派遣 また清須の父健性院にも使者が派遣される。
この頃聚楽第周辺では秀保の病状が ほうさう 疱瘡 ではないかと噂があったようだが 十一日申の刻に高虎方から ほうさうにて無之由 が西尾豊後 生駒内膳へ書状によってもたらされ その旨が孝蔵主によって聚楽第へ伝達された。両人は秀保生母大かミ様の御供であるから 実質的に高虎から秀保の母への報告となろう。大かミ様はその後十津川へ向かったという。

どうやらこの頃には十津川に腕の良い医師が到着したのであろう 十三日には聚楽第へ 大和大納言筑紫陣様御煩ほうさうにてハ無之 ゆほろしとやらんとのよし との旨が伝わったが これは去る十一日に十津川よりの注進であったという。駒井日記
ほろし とは発疹を指す言葉であるが 秀保は何らかの感染症により発疹を引き起こしたのか はたまた免疫の不全によって発疹が起きたのか定かでは無い。

十三日には若干症状が軽くなったらしく 御快気の由が聚楽第に伝わった。

だが十五日頃に体調は再び悪化 奈良では 中納言死去必定 との流れたらしい。多聞院日記
実際十六日には疱瘡と聚楽第に伝わる。
同日の記録には八日の朝から十四日までの調剤記録が伝わったようであるが 八日から十二日昼まで薬は聚楽第側が差配したのか高虎たちが差配したのか定かでは無い。駒井日記

十七日には盛芳院 吉田浄慶 と養安 曲直瀬正琳 より秀保の病状が報告される。
すなわち十五日の暁 明け方 より秀保の息が荒くなり 吹き出物が多く出ていたという。聚楽第はさらに名医竹田法印を派遣した。
しかし間に合わなかったのである。

多聞院院日記は秀保が十津川で死去し 遺体が京へ葬送され奈良の僧侶衆も上ったと記す。
つまり十五日の 中納言死去必定 とは 十津川から 秀保危篤 の報せが届いたことに他ならない。
駒井日記十八日条にて 去る十六日の明け方に他界したと記す。
言経に依れば僅か十七歳であった。

秀次は十四日から十八日まで伏見に在ったが これは情報収集のために居たのか はたまた同時期に秀吉夫妻にお拾いも体調を崩しており 見舞いのためかは定かでは無い。秀保の死は伏見で秀吉等と接したのだろう。
その後秀吉は大坂へ戻り 秀保の葬儀について 隠密にするよう申し付けている。その真意は定かでは無いが 親よりも先に薬効かず病で死んだ不忠に依るのか 自身の体調も相まって葬儀に参列することを躊躇したのか その死を信じたくなかったのだろうか。

家康は十九日に高虎へ書状を以て哀悼の意を表している。藤堂高虎関係史料集補遺

秀保の葬儀

二十二日には一庵 羽田正親 藤堂高虎 小堀親子をはじめとする大和衆が生母大上様の館へ詰めた。
大和衆大上様 牢人被詰居候 だが 祐徳文庫版では 六十 となる。高虎たちが牢人となったのか確証は得られず ここは祐徳文庫版の方が実態に即していると思われるが 駒井が列記したのは二十名にも満たない 二十三日には葬儀の日程が二十八日と定まる。駒井日記
そして葬儀の前日 豊臣秀保に 大納言 の位が贈官された。御湯殿上日記

山科言経が記すところ 葬儀は五条室町で執り行われ 引導は本国寺上人 日蓮宗の僧八百人の規模で付近には貴賤群集となった。
ルイスフロイスは十月二十日の報告書に於いて次のように記す。

数ヶ月前に大閤様が 一人の非常に可愛がっていたが最近都において死去した甥に対して 非常に盛大で荘厳な儀式をもって しかも日本国でこれまで例を見なかったほどに正統に葬るよう命じたことである。十六 七世紀イエズス会日本報告集 第 1 期 第 2

これは所司代前田玄以の長子秀則はキリシタンであった為に 焼香で読み上げられる前に席を外したというのが要旨であるが ともかく秀吉が葬儀を指示したというのは史料に見える秀吉の態度とは真逆だ。しかし盛大に執り行ったという点は言経の記述と一致するところもある。

葬儀の後 秀保の骸は荼毘に付された。

高虎引退(説)

葬儀の後 大和衆の処遇がどうなったのか知る術は無い。
しかし四月二十七日には木下吉隆が毛利輝元へ 秀次の二歳になる若君を国主とする旨を昨日秀吉が仰せになり 更に郡山は悪所であるから城は多聞へ移し 若君は大和ではなく伏見に母親と一緒に置いておけとも指示していたらしい。堅田文書一八
結局この案が履行されたのか定かでは無い。

秀保の没後 高虎は高野山に上り 秀保の菩提を弔ったと家譜類 藤堂家覚書 高山公実録 には見られる。
実否は定かではないが どうやら六月までには下山したようで 高山公実録には十九日付けの秀吉朱印状によって伊予の御蔵入代官へ任じられている。高山公実録 豊臣秀吉文書集七巻 五二〇三
多賀秀種や本田因幡 宇多下野などは独立していたのに対し 高虎はそれまでの二万一千石 内一万は一高分(10)ではなく新たに御蔵入代官となった点は やはり高野山へ上ることで 禄を返上した と見るべきだろうか。
時に高虎の所領は何処にあったか これは定かでは無い。わかっているのは粉河周辺 伊勢国安芸郡今井三郷のみである。後に本田因幡守は 紀伊国之内藤堂佐渡守分五千石 を加増されており 豊臣秀吉文書集七巻 五二五五 高虎には少なくとも紀伊国内に五千石があった。

(10) 内一万一高分→内一万は/20240629

秀次事件

それから暫くして秀次事件が勃発し 羽田正親と共に秀次を高野山へ送り届けている。愛知県史資料編 13 六六八
秀次は十四日に切腹して果てたが 谷徹也氏は切腹を唆した可能性のある人物に羽田や高虎を掲げている。谷徹也 秀次事件ノート
ただし高虎にとって秀次は天正十二年(1584)からの付き合いで 切腹した白井備後守も同様である。果たして死に追い込むだろうか。

高虎は処断された羽田正親とは異なり 伊予に知行宛行されている。また高山公実録には解体される聚楽の便庁を賜り これを板島の城中へ 更に安濃津移封の折には重臣藤堂仁右衛門の屋敷の書院へと転じた旨が記されている。
高刑から数えて九代目の高基が文化年間に書院を修復した際には 襖から故紙が多く出てきて それらは 軍中諸将等か簡牘なり と記される。今に読んでみたいものであった。
また 洞津遺聞 によると この襖に描かれるのは 永徳筆 であったようだ。

秀吉は高虎を厚遇し 桐の家紋 唐冠の兜 茜色船幕を下賜したとされ 最近では黄金の茶器も秀吉下賜とまで言われている。(11)

(11) 桐の家紋を拝領した話は 甲子夜話 に依る。なお 宗国史 下.1981 に収まる 累世記事 によれば 桐の花は 茜幕 に描かれていたもので そこから花を除いて とした逸話があるらしい。実際に高虎はこの幕を用いており 小早川隆景をして むらさきの幕 として知られていたようだ。慶長二年の藤堂高虎 山内譲 ソーシアルリサーチ 44 /20240629

高虎の家族

妻は一色氏の娘とされるが二人の子は無く 後に秀長養子仙丸を拝領し 文禄二年(1593)に諸大夫藤堂宮内少輔一高となる。彼はその後諱を 高吉 に改め 藤堂高吉 として名高い。(12)
藤堂家の系図に依れば 一色氏の姉妹を養女として桑山重晴の次男へ嫁がせ さらに宮部継潤側室長氏 但馬国人 の妹も養女として横浜一庵へ嫁がせる。後に一庵の娘が小堀新介の側室となっているが 彼女の母が養女であるかは定かでは無い。
福井健二氏はこうした婚姻戦略によって 高虎が秀保の後見人になることにやっかみはなかった としている。築城の名手 藤堂高虎
私も首肯するところである。

また時期は定かでは無いが長氏のもう一人の妹は新宮の堀内安房守の息へ嫁いでいるし 後年小堀作介には藤堂少兵衛の孫娘を養女として嫁がせている。
更に保田氏の系図に依れば 保田則宗の妻は秀長但馬時代に活躍した桜井佐吉 家一 の娘であるが これも高虎の養女する説もある。
とはいえ系図での間柄は時期が不明瞭で 文禄以前といえるのは横浜一庵へ嫁がせた養女のみである。

高虎は正室との間に子が無かっただけで 文禄年間には侍女武井氏に手をつけ その子が後の高虎近臣石田武清として知られている。

(12) 諸大夫となり藤堂宮内少輔一高 から加筆変更/20240629, 一色氏の娘で その間に子は無く 後に 高吉 から変更/20240720

大和宿老・藤堂高虎

このように藤堂高虎は元来の武勇 あくまでも家譜のみ に加え 羽柴家 豊臣家としての職務を堅実に熟すことで地位を確立した。横浜氏 桑山氏との婚姻戦略は時期が不明なので深く語ることはしないが 高虎の地位上昇に寄与した可能性は考えておくべきだろう。
秀保下では秀保に近い立場であり 高虎を後見人とする説もある。
説はともかくとして 横浜一庵 桑山重晴 羽田正親の三名に並び立つことは その地位の高さを見出すことが出来る。

また巷間高虎は築城の名手として名高いが 史料上だけでも家康屋敷の整備や壬辰戦争の頃には現地城砦の築城場所の選地や 名護屋城舟入作事に助言を求められるなど 大和豊臣家で芽吹いたと容易に考えることが出来る。

そして仕事以上に人脈も見逃すことは出来ない。
豊臣家の重鎮宮部継潤とは但馬国人長氏を結節点に 他に母方一族 もしくは遠縁と思しき多賀氏も仕えている 濃密な関係にあった。高虎が秀次と供に茶会に参じ 秀次より矢留を命じられ 根白坂で宮部を助けたのは 高虎自体が 宮部一家 であったことによるのかもしれない。
また母方の多賀一族に 後継者となった堀秀政弟 多賀秀種 母方祖母が再嫁した梅原氏の主である池田伊予守。仙丸の祖父杉若無心 養女を嫁がせた横浜一庵 徳川家康との昵懇 そして毛利家との縁は慶長五年(1600)までの豊臣家政治にも繋がっていく。
仕事量そして人脈によって藤堂高虎は家中の頂点に立ったと見ても良い。

関連・藤堂一高(仙丸・宮内少輔)

丹羽長秀の三男で秀長の養子。天正七年(1579)生まれ。母は杉若無心 藤七→越後 の娘。
藤堂宮内少輔高吉由緒 松阪市史 藤堂宮内少輔高吉一代之記 名張市史料集第 2 によれば四歳の砌 天正十年(1582)秋に秀吉の望みにより 秀長 長秀 のもとへ養子となり坂本から但馬へ。その際に多賀吉左衛門が迎えとして遣わされた。
天正十三年(1585)に秀長が大和の国主になると仙丸も郡山へ遷る。
そして天正十六年(1588) 仙丸は廃嫡の憂き目となり 藤堂高虎の養子として一万石を与えられ 後に文禄の役で初陣を迎えたらしい。

帰朝後 諸大夫 従五位下宮内少輔豊臣一高 藤堂 豊臣期武家口宣案集 となり ここで彼の初名が 一高 であることを知るのである。
翌年には伏見城築城で秀吉に褒められ 秀吉は木村長門守 これは間違いで木村常陸の息だろう を介して羽織を下賜したという。高山公実録 藤堂宮内年譜

文禄四年(1595)に秀保が亡くなると 養父高虎は高野山に上ったとされるが 事実であれば一月程度は一高が実質的な当主の立場にあったのか定かでは無い。
郡山城主記 郡山藩旧記 には 秀俊 が没した後に 家臣藤堂某の子を家督頼 とあるが 一高が秀保の跡目を継ぐには官位が足りないので 現実的な案とは言えない。

関連・多賀貞能(信濃守)

高虎の母方一族。母の従兄弟の可能性も有り得る。
父は浅井亮政と敵対した豊後守貞隆。貞能の動向は少なく 天正九年(1581)の父の法事と 山崎合戦で堂々光秀を見捨てた独断撤退 老人雑話 程度である。
変後責任を取ったのか堀秀政と婿秀種から隠居領を与えられている。
某年秀長から 出馬をせず普請にのみ専念せよ と池田伊予守と小川壱岐守共々厳命されている。奥村哲 豊臣期武将の軌跡多賀秀種の場合 北陸史学 27
天正十五年(1587)八月 多賀新左衛門を追うように病没。享年は五十代か。
一説に貞能を多賀新左衛門が同一人物であるとする説もある。(1)

(1) 一説に多賀新左衛門と同一人物とする説もある から変更/20240720

関連・多賀秀種(源千代・源介・出雲守、政勝・秀家)

貞能の婿で堀秀政の弟。
豊臣期武将の軌跡多賀秀種の場合/奥村哲 北陸史学 27 多賀氏の系譜と動向/北村圭弘 滋賀県立琵琶湖文化館研究紀要第四十号 が詳しい。(1)
高山公実録には 織田信長が貞能の婿として強引に秀種をねじ込んだという話が載るが(2) 信ずれば本能寺の変の要因の一つとなるか。
初めは兄堀秀政の家臣で 天正十五年(1587)に貞能が没すると秀長の麾下へ転じる。

(1) 関連論文追記/2024720
(2) 貞能の婿を織田信長が強引に から変更。なおこの話は 西島留書 に載る。/20240720

秀長期

早速普請で何か失態を犯し 便宜を求め秀長へ在洛見舞いを送り届けた。
天正十六年(1588)四月十三日に諸大夫となり 口宣案には 中原秀家 宜叙従五位下 宜任出雲守 とある。中原は多賀氏累代の姓で 以後多賀出雲守秀家となる。秀種となったのは文禄頃と奥村氏は述べる。厳密に何時頃か定かでは無い。
九月十八日晩には郡山で松屋久政を招いて茶会を催し 久政会記 なお多賀源介である 十二月には態度や振る舞いから多賀一族の藤堂少兵衛良徳により訴えられている。奥村氏は堀秀政が介入した可能性を示す。
その後大仏造営の材木切り出しなどに注力したらしい。

秀家は郡山に館があったのか天正十七年(1589)九月十四日には 大般若 のために 長得 が郡山多賀源介へ下っている。多聞院日記
天正十八年(1590)二月十四日朝には松屋久政が再び郡山の多賀出雲のもとで茶会を催している。

秀家の特長は兎角秀長や秀吉への貢ぎ物を欠かさなかった点であり 天正十八年(1590)の小田原攻めでは秀家は大坂に残ったとみられ 小田原の秀吉へ兵粮 また京都で静養の秀長に見舞いを贈っている。戦後九月末から十月八日にかけて 有馬湯治の秀吉へ三度も見舞いを行っている。盛本 豊臣政権の贈答儀礼と養生

秀保期

天正十九年(1591)に秀長が没すると 八月二十五日に秀吉は奈良町に対して貸し付けた金銀米銭の破棄を命じる徳政令を発布し 秀長の苛政からの転換を断行しているが この朱印状は多賀家に伝わった。永島福太郎 織豊両氏の都市支配
これは奈良町の一揆蜂起を抑制する目的であったと思われるが 結果的に抑制には至らなかった。

天正二十年(1592)の聚楽第行幸には小河土佐守や羽田正親 横浜民部少輔などと供に列へ加わっている。
その後壬辰戦争のため二月二十六日に池田伊予守と共に山崎へ出立している。多聞院日記
十一月十六日に開かれたと思しき秀吉の茶会に やまと中なこん 秀保 たかのいつも 多賀秀種 はねたなかと 羽田正親 ふくちミかわ 福智政直 おかわ 小川土佐守? が見られ 秀種は羽田や福智と共に秀保の側にあったことが窺える。豊臣秀吉文書集第五巻 四三二四

その後文禄二年(1593)秋に秀保と高虎が帰国すると 文禄三年(1594)正月十五日に聚楽第西丸での茶会に参じる秀保に羽田正親と供している。駒井日記

その後

その後の動向は 秀保没後の九月に宇陀一郡二万石を宛行われる(3)まで定かではない。

ところで秀種の後裔に伝わる 多賀文書 の多くは秀種やその子息が保管してきた書状が中心であるが そのなかで所領曖昧の大和衆のなかで知行目録を二つも遺したのは偉業である。(4)処断された羽田正親遺領宇陀一郡二万石を引き継ぐ以前は 葛上郡 葛下郡 高市郡 山辺郡 十市郡 式下郡 添上郡 添下郡 広瀬郡 式上郡都合一万九千九百九十一石であった。

その後慶長の役に出兵し本田因幡や宇多下野 小川左馬と共に渡海し 秀吉から朱印状を賜っている。豊臣秀吉文書集七巻 五七三二
関ヶ原の戦いでは他の大和衆と西軍に加わり 大津城攻めでの活躍により改易浪人。頼った実家の堀家も御家騒動改易処分で浪人すると 大坂の陣で 縁者藤堂仁右衛門 を頼り幕府に詫び 前田利常陣への参陣し 戦後前田家に六千石で仕官を果たすと(5) 元和二年(1616)に没した。
子孫は加賀藩重臣多賀数馬家と相成り その表門は金沢に現存している。

(3) 宛がわる→宛行われる/20240629
(4) 多賀文書の多くは秀種やその子息が保管してきた書状が中心で 所領曖昧の大和衆のなかで知行目録を二つも遺したのは偉業である から変更/20240720
(5) 仕官を果たし→仕官を果たすと/20240629

藤堂少兵衛(良徳)

高虎のおじ。(1)実は多賀氏で母方の一族でもある。出自は貞隆の子息から新左衛門の子息まで諸説あり判然としない。息子は秀次重臣の玄蕃と忠蔵。
大和衆としての彼の動向は貞能没後 天正十六年(1588)に秀種と相論を起こした程度であるが これは貞能縁者説を示唆する史料となろう。
変わったところで少兵衛の妻は天正十七年(1589)に没し 彼は京都知恩院に 信重院 を開基している。

次男忠蔵は駒井日記に見られ 文禄三年(1594)三月十九日に 藤堂忠蔵に御書已上七拾壱通 とある。

松屋会記 には文禄四年(1595)十一月四日(2)藤堂忠蔵 十二月二十二日には藤堂加兵衛が見られる。後者は少兵衛の可能性は無いか 判然としない。

(1) 高虎祖父は男子がなく数名の婿を取っている。少兵衛はそのうちの一人。他に高虎母の弟新助も婿。高虎母は高虎祖父の養女で 高虎父はその婿となった。/20240720
(2) 誤変換訂正/十月四日ニ→に/20240512

関連・多賀新左衛門

藤堂高虎の母方一族 大おじの可能性も有りうる。近年 本田洋氏が 淡海文化財論叢 に論考を寄せ注目される。拙攻も読んで欲しい。(1)
六角氏の内訌で台頭すると 元亀争乱で隣村の一向道場と何かあったらしく 間接的に(2)浅井家と本願寺を結びつけている。
天正初頭には信長公記に頻出し 武田攻めの折には丹羽長秀等と草津湯治を許可されている。
本能寺の変で明智に加担するが 八月には貞能の隠居料を堀秀政と政勝 秀家 から通知されている。
その後は秀長配下となったらしく(3) 大和高市に二千石の知行地を宛がわれた 寛政譜

秀長配下では従軍もあるが茶人としての姿も興味深い。天正十四年(1586)正月二十日条に長善の兄 松甚太 が新左衛門のもとへ奉公に来ている。多聞院日記
その死は天正十五年(1587)島津攻めの最中で 四月十七日の根白坂での激勝を見届けるようにして二十日に陣没。享年は六十代後半か。

池田伊予文書 の卯月二十八日付池与州様 秀雄 宛北宗書状に 多新左殿之儀 万此分之儀 屬□慮之儀候 以上 多賀新左衛門の様子を報告されている。
信濃守貞能と同一人物とする説もある。
寛政譜は諱を常則で伊予守であったとしているが 史料的裏付けに乏しい。

(1)関連論文追記。この記事を読んで欲しい から拙稿へ変更。/20240720
(2) 間接的に 加筆/20240720
(3) タイプミス誤字/20240429

関連・多賀吉左衛門(常直)

高虎の母方一族で新左衛門の子息。寛政譜 高虎の(1)おじか。
天正十年(1582) 丹羽家から羽柴家へ養子入りする仙丸を出迎えたのが彼であると 藤堂宮内少輔高吉由緒 は述べる。実否はともかくとして 父新左衛門も変後秀長配下となっているから 可能性はあるだろう。
天正十三年(1585)十一月二十六日に秀長が奈良で能を見物した際には その門役を務めている。多聞院日記
天正十六年(1588)の 輝元公上洛日記 にも登場し 薬師寺の中世文書 に横浜から発給された書状が伝わる。
没年齢から推定するに天文十一年(1542)生まれ。

なお 輝元公上洛日記 には 多賀善右衛門 が見られるが 福原家文書上巻 では吉左衛門に統一されている。長周叢書版の翻刻のミスかもしれない。

(1) 寛政譜 高虎の 加筆/20240720

藤堂内膳

秀保没後の生母のもとに詰めた大和衆に名を連ねている。駒井日記
藤堂高虎の一族とみられるが 系図に見られない人物で高山公実録にも伝わらず 詳しいところは定かではない。
変わったところで後年藤堂家で活躍する 藤堂三郎兵衛 なる人物の解説が 始内膳 であったり 某内膳子 とするものがある。そうなると大和衆に見られる藤堂内膳こそ 藤堂三郎兵衛の父では無いかと考えている。