元亀争乱下の高島郡(一)

本稿では元亀争乱下の高島の様子を考えていきたい。

浅井長政謀叛前夜

朝倉 浅井と義昭 信長の決裂の前兆は 永禄十三年(1570)の二月に見られた。
それは 二条宴乗記 の永禄十三(1570)二月十五日条で これは信長が禁中修理等のために各国の大名国衆に上洛を求めたものである。その中に朝倉義景は無く また浅井長政も 京極殿 同浅井備前 と京極氏の下であるかのように記される。
近江の方面では他に 七佐々木 同□子 尼子 同□州南諸侍衆 と記される。果たして格の違いは如何にと 他国の事例で見ると 北畠大納言殿 同伊勢諸侍中 徳川三河守殿 同三河遠江諸侍衆 姉小路中納言殿 同飛騨国衆 とある。

また大日本史料データベースで 原本信長記 を辿ると 永禄十二年(1569)八月の大河内城攻めに関わる項目が目に留まる。
ご存じのように高虎の兄源七郎高則と 母の弟藤堂新助 父の義兄弟箕浦作兵衛が討死を遂げた様に 近江からも多くの兵が出陣していた。
二十二日には蒼々たる面々と彼らの配置が紹介されるが 興味深いのは以下の点である。

西 樋口 阿閉淡路守 息孫五郎
北者 浅井備前守人数 磯野丹波守

このように後に織田方となる鎌刃 樋口 山本山 阿閉親子 佐和山 磯野丹波守の名が この時既に記されている。浅井備前守人数 と別に記されることから その当時から織田家は彼らの独立性を認めていたのか はたまた大田牛一が後年に記したのか定かでは無い。
しかしこれらの状況を勘案するに 浅井の独立性は損なわれていたと言わざるを得ないだろう。
思い返せば浅井長政は元の名を 賢政 と名乗っていた。これは六角に従う過程での偏諱であったが 永禄年間に 長政 に改めている。これは織田信長からの偏諱と捉える御仁もおり 彼はあくまでも信長に従う立場であったとも考えられる。そのように考えると 浅井長政にも国人の悲哀を感じるのである。

前置き

以前 織田七兵衛の解説記事で元亀争乱下の高島について解説を試みた。
しかし郷土史などを参考にすると 予想以上に史実とは思えない事柄が多く ゼロベースで高島郡の出来事を漁る必要があった。
本シリーズは七兵衛記事で手一杯になってしまった 元亀争乱下の高島 について大日本史料などをベースに解説を試みるものである。

本稿の執筆は長らく塩漬け状態であったが 多胡宗右衛門研究の過程での 朝倉始末記 解明 織田期大溝城規模研究の過程で生じた高島郡に於ける一向一揆の存在調査によって大きく進展を遂げた。

先に参考とした文献を掲げると 大日本史料 史料編纂所データベース 東浅井郡志 西島太郎 戦国期室町幕府と在地領主 新行紀一 石山合戦期の湖西一向一揆 親鸞聖人と真宗 山田哲也 近世湖西地域における蓮如教団の形成と展開 講座蓮如第五巻 松浦義則 戦国末期若狭支配の動向 佐藤圭 姉川合戦の事実に関する史料的考察 といった具合である。

金ヶ崎の退き口と高島

永禄十三年(1570)四月二十日 織田信長は若狭を平定する名目で京を出た。その名目は 若狭の武藤 を成敗する為であると信長は毛利輝元へ認めている。
その兵は三好義継の配下松永弾正 久秀 摂津守護池田筑後守勝正三千等で 他に義昭の側近明智光秀や信長の同盟相手三河の徳川家康 公家衆に飛鳥井中将 雅敦 日野輝資が居た事を山科言継は記す。更に言継は軍勢がその日のうちに 和邇 に達したと記している。

同時に山科言継は この出兵は 越前 が目的であることを存じていたらしい。他に多聞院英俊 中院通勝と里村紹巴 継芥記 も同様の認識を持っていたことも重要だ。
松浦義則氏は 戦国末期若狭支配の動向 にて永禄十一年(1568)時点で若狭の国衆が義昭 信長政権の支配下に入ったこと 永禄十二年(1569)の本国寺の変で若狭衆が討死している点 信長の奉行人が若狭の三十六人衆に対し 孫犬 元明 への忠節を求めている点を指摘し この出兵も 越前敦賀攻撃のために としている。
同時に政権側が越前に 保護 された武田元明を守護とする体制を認めている事も示している。

高島と若狭

時に近江と若狭 更に高島と若狭は密接な関係にある。
だいたいは地図を見ればわかることだが 保坂の関を越えると若狭へ至り また田屋から北に栗柄を越えても若狭に至る。
若狭は武田氏が守護する国であったが 福井県史通史編 2 中世 やによれば天文七年に武田元光とその子信豊の間で家督相続をめぐる内乱が勃発。弘治二年(1556)頃には信豊と義統の父子間でも争いが発生している。
そうした中で武田信豊は永禄元年(1558)の夏 義兄弟の六角承禎を頼ってか高島へと逃れている。羽賀寺年中行事 若狭武田氏 木下 聡

この中で武田信豊が高島の何処へ逃れたか定かでは無いが 高島郡は守護を務めた程の人間が逃れる先としての側面があったことを留意しておきたい。

信長の動き

大日本史料が引用する原本信長記に依れば 出陣したその日のうちに坂本を過ぎ 和邇へと達した軍勢は 翌二十一日に 田中 の城に宿を取る。

なお 田中の城 に関しては一般的に山城の 田中城 上寺 寺院を元にした規模のため軍勢宿泊の城とされている。しかしこの城は西近江路からは少し外れる。対して 下ノ城 は規模も大きくない平城であるが 西近江路に面する立地から此方を宿に取るのも 悪くはないように感じられるが 何方に泊まったのか定かでは無い。

そして二十二日に若狭街道熊川宿に達すると松宮玄蕃允の城に宿を取る。福井県史に依れば 熊川では武田家臣 逸見 山県 白井等 が信長を出迎えたそうだ。白井氏の子息は後に高虎に仕えるが これはまた別の話である。
永禄から元亀に改元された四月二十三日には 佐柿 国吉 の粟屋越中守勝長のもとに達する。この勝長の孫も後に高虎に仕えるが これもまた別の話である。

そのようにして数日内に丹羽長秀と明智光秀の働きにより 武藤上野 友益 は自らの母を人質に 更に抵抗のために築いた を破却することで降参したのである。

金ヶ崎

四月二十五日 軍勢は敦賀に達し 朝倉方の天筒山を攻略すると金ヶ崎城に迫る。また別働隊は疋田の引壇城を攻め落とした。
引壇城は越前と近江の国境を守る城で 高島からの街道 西近江路 七里半越 塩津や大浦からの街道 新道野越 が通る要衝である。

金ヶ崎城攻めは苛烈を極め 言継卿記に依れば織田方の死者は千人ばかり出たそうだ。それでも四月二十六日には金ヶ崎城の大将朝倉中務大輔景恒は城を開いた。これにて義昭 信長政権は若狭から敦賀を掌握したのである。
そのようにして軍勢はいよいよ木ノ芽峠を越え 越前本国乱入を模索していた様子が 原本信長記 には見られる。

その最中の四月二十九日 六角承禎が近江に出張し方々に火をつけて廻った。そして浅井長政も承禎に同調したのである。
これにより織田信長は 美濃への道を失うこととなった。

私見・なぜ浅井長政は裏切ったのか

浅井長政は父久政に押し切られ 義兄を裏切ったと通説で語られることが多い。しかし最近では正月上洛要請に於ける扱いに原因があると指摘される。また 浅井長政は六角氏との関係を切る上で 対六角のなかで朝倉義景に属した 鞍替え という指摘が長谷川裕子氏 歴史の中の人物像―二人の日本史― によって為されている。非常に刺激的であるが 書状にて義景を 御屋形様 と敬っていること等を挙げて極めて論理的である。そうなると浅井長政は朝倉と織田という二大勢力に 両属 する形で 勢力を拡大し この年の離反に至ったと考えるべきだろうか。
この蹶起に際しては六角承禎の動きも興味深く 結局は朝倉 六角という二大勢力に挟まれることを嫌い 織田信長からの離脱という合理的な判断に至ったのではないかとも考えられよう。
ここで私見を述べてみたい。

否定された独立性、そして高島

長政が抱える懸案の一つが永禄年間に押領した 佐々木七人 河上庄六代官 の領地だ。彼らは幕府との関係が深い為 訴えられると負ける可能性が高い。

そして最大の懸案は浅井長政の 独立性 である。
先に述べたように彼は京極の下に記され 更に 家臣 である筈の名前が浅井とは別に記録されている。永禄以来築いてきた 大名 としての地位が 織田信長によって 一有力国人 にまで落とされてしまった。
更に佐和山以西の中郡 多賀氏をはじめとする旧六角派土豪との関係も曖昧で 永禄期に長政が攻め滅ぼされたとされる 久徳氏 後に信長によって旧領復帰を果たしている。
長政の独立性は損なわれ その存在すらも大きく揺らぎつつあった。

美濃と京の往復多き信長にとって 中郡の佐和山 朝妻筑摩 周辺は利用価値が高いと見え また同じ中郡の久徳も 五僧越 で美濃と繋がる 何れも交通の要衝である。
長政が蹶起に至った要因には こうした交通 商業の権益が奪われること かつての勢力拡大方針が咎められる事を恐れ 信長への 疑心 があったのかもしれない。

浅井長政と物流

近江を 道の国 と山尾幸久氏は 古代近江の早馬道 にて述べたそうだ。
浅井長政の強みは他でもなく を制した事による物流であろう。
この時点で湖上交通 坂本~高島~若狭 越前~湖北~美濃 美濃~中郡 北伊勢~中郡を概ね支配し 更に織田との同盟により南郡から京への道も確保していたと思われる。最も織田が来るまでは 独力で勝ち拡げた権益である

物流と交通を強みとする長政にとって 高島と中郡を失いかねない事態は重大である。更に織田信長も長政同様に経済人の側面があるから なし崩し的に湖上交通をも奪われかねない。
更に隣国越前の軍事力を良く知る長政にとって 政権との対立が長引くことで 越前との交易に差し障りが生じると考えた可能性もあるだろう。

六角承禎

浅井長政の決断に至らせた要因として あまり語られていないのは六角承禎の蹶起だろう。
前述のように境目の中郡には旧六角派の土豪が存在する。越前で戦乱 中郡から南郡にかけて六角派蹶起となれば 浅井は孤立するに等しい。そうした状況に陥った大名は どうにか生き残る道を探す必要がある。元は浅井家だって旧六角派であるから 彼らが承禎に加担するのは不思議では無い。
以上私見を以て仮説を述べたが 実際のところは歴史の謎である。これらを解明する事は 何か新たな史料でも発掘されぬ以上は不可能であろう。
何れにせよ京極高吉の復権 朝倉との関係 六角承禎の決起といった要素は総合 統合的に考えることも出来る。それぞれが積み重なった結果が浅井長政の蹶起となるのだろう。

こうしたところで朝倉義景の側近鳥居景近は五月 林兵衛三郎 に対して その働きへの御礼として太刀 一文字 を贈る旨を認めている。佐藤圭氏は林を高島の人とする。しかし 石山本願寺日記上巻 の証如 天文年間の記録に 天文七年(1538)六月十九日条に 就先日路次之儀 江州中郡林兵衛三郎へ為音信 三種三荷遣之候。其返事只今到来候 とあるが 時代こそ三十二年離れているが義景に賞された林と同一か後裔である可能性はあるだろうか。検討してみると この決起に関して高島国人の動きは記録には見られない。同様に中郡の記録も不明であるが 同地が嘗て六角の影響力にあった事を考えると 林兵衛三郎 の所在は中郡で 言継卿記に見られる出陣や放火で働きがあったのかもしれない。

信長退却路

さて政権軍が窮地に陥ったのは何故だろう。一般的に 浅井長政の裏切りにより と説明されるが どの道が使えないのか といった解説は見たことが無いので せっかく高島郡を見ているのだから解説を試みる。

まず敦賀を脱出するには 小浜へ逃れる道 疋田から海津 七里半越 西近江路 もしくは塩津 五里半越 塩津街道 へ逃れる道 美浜から海津への栗柄越 そして小浜から今津もしくは朽木への若狭街道となる。
この中で塩津は明確に浅井の支配域で 海津は縁戚の田屋氏の里であるから除外される。
今津に出ると西近江路に合流することが出来る。しかし高島の国人というのは 饗庭三坊のうち二坊 多胡氏 が浅井の影響を受けているし かつて彼も六角の影響を受けていたのである。
実際押し通る事は可能なようにも思えるが 情報が乏しい時代はそうもいかないものだろう。何分往路の誼と幕府軍という威光で高島を通り抜けたとしても 志賀郡の土豪層が何方につくか定かでは無い為に通行は不可能に近いのでは無いか。
幕府軍を率い 自身も幕府の重鎮である信長にとって重要なのは洛中の保護である。それは前年正月に発生した 本国寺の変 で急ぎの上洛を見せた事でもわかる。
その中でかつて近江の南部を支配した六角承禎の蹶起は 帰洛を妨害するものとなる。
そうした中で信長たちが唯一の選択肢である朽木を選ぶのは当然のことであり 朽木弥五郎 元綱 もまた祖父以来幕府との付き合いがあるから軍勢の通行を認可するのは当然であろう。
斯くして月末には帰洛を遂げたのであった。

姉川の戦いと足利義昭の高島動座不成立

斯くして元亀元年(1570)五月半ば 信長は六角承禎との和睦に失敗しながら 再びの征伐の為か美濃へ帰国する。その道中で杉谷善祥坊に狙撃されたが これを何とかやり過ごして帰国したのである。

この後 六月になってから織田軍と六角承禎との間で 野洲河原の戦い 六月四日 織田 徳川軍と朝倉 浅井軍との間で 姉川の戦い 六月二十八日 が発生した。野洲河原の戦いで六角勢は主立った将 三雲 高野瀬 水原 を失ったとされる。
また一説に姉川の戦いは藤堂高虎の初陣という話もあるが そもそも織田方として活動していた多賀氏 寛政譜 恐らく野洲河原での敗戦を受けて織田方へ転換したのだろう の一族である高虎が浅井方として参戦することに疑問がある。

だが或る書状群を読むと 姉川の戦いにどうやら高島郡も関わっていた可能性があるようだ。

足利義昭動座に関わる書状

件の書状は次のようなものだ。

史料一
今度至其表令進発候 然者此節可抽軍忠也 近年不沙汰之段無是非次第候 如先々可其覚悟肝要なり 依奉公浅深可有恩賞候 委細申含輝房 三上兵庫頭 差下候 尚藤孝可申也
  六月十七日        判 義昭公ノ
    佐々木下野守殿
史料二
為浅井御退治至其国被成 御動座候 以前之御奉公之筋目ニ可被抽軍忠旨被成 御内書候 御恩賞之儀者随分可令馳走候 委者三上兵庫頭可被申候 恐々謹言
         細川兵部大輔
  六月十七日       藤孝御判
    佐々木下野守殿
史料三 どうやら元の出典は武徳編年集成のようだ
今十八日可御動座之旨 先度雖被仰出候 依有調略之子細来廿日御進発候 其以前参陳肝要之由被仰出候 不可有御油断候 恐々謹言
  六月十八日       三人連判 藤孝 藤英 一色藤長
    畿内御家人中

史料一 史料二から 義昭が浅井退治のために佐々木下野守の其表へ動座する予定であることが分かる。
更に史料三によれば 六月二十日に進発する予定であることが見て取れる。
佐藤圭氏の 姉川合戦の事実に関する史料的考察 という論文には 信長が若狭の守護武田元明の叔父彦五郎信方に宛てた書状が引用されている。信長は若狭の武田家にも出陣を求めたようだ。

 委曲島田ニ相含候 定可申届候
来廿八日江州至北郡可及行候 就其高島郡可為 御動座旨候 此時候条被遂参陣 御馳走簡要候 恐々謹言
   六月六日 信長 朱印
     武田彦五郎殿
尊経閣文庫所蔵文書 増訂信長文書上

この書状から義昭の動座先が高島であることが理解できる。

佐々木下野守は誰だ

さりとてこの 佐々木下野守 とは誰なのであろう。
この時代の佐々木一族で公的に 下野守 を名乗る人物は 残念ながら見られない。
また当時の佐々木氏で名のある家は やはり京極氏であるが ここに下野守を称した人物は確認できない。
しかし高島に動座する以上 高島郡に 佐々木下野守 が居たと考えるべきだ。

実態不明の横山下野守

江戸時代に制作された 近江国輿地志略 によれば 高島郡の 武曽 横山 と呼ばれる地域にある古城は 横山下野守 の居城であったと記される。
横山家は御存知西佐々木七人の一角であるから この記述によれば彼が 佐々木下野守 となるが 具体的な年次は記されていないため実態は不明である。
また同誌には 佐渡守高長 なる人物の記述も見られる。

史実のなかの横山三河守

残念ながら こうした地誌が史実に則っているとは言い難い。
既に西島太郎氏によって 永禄五年(1562)十一月御礼拝講之記に 横山三河守 が存在していることが示されているので 元亀争乱に於ける横山氏も 横山三河守 である可能性が高いと言える。

この時代の西佐々木七人は史料に乏しいが 西島氏によれば横山氏は時代ごとに見ることが出来る。
天文五年(1536)頃の大館常興雑条に よこ山慶千代 が名代で来た旨が見られ どうやら 家の子郎等 ということで足利義晴との対面が叶ったそうだ。
更に天文十二(1543)年七月十日の六角氏奉行 能登忠行 池田高雄 奉書 遺文五三三 の宛名に 越中大蔵大輔 田中四郎兵衛尉 永田左馬助 横山三郎左衛門尉 山崎下総守殿雑掌と 七名のうち五名のなかに 横山三郎左衛門尉 が見える。この奉書は朽木領での柴木伐採を禁じる触をはじめとする内容である。
この慶千代~三郎左衛門~三河守は 一見すると同一人物のように思えるが 定かでは無い。

西島説としての田中下野守

然るに 佐々木下野守 なる人物は 結局よくわからないのである。
それでも西島太郎氏は 応永二十六年(1426)と永享二年(1430)に 下野守 を官途とする人物が田中氏に見られると指摘する。そして その例から一連の書状に於ける宛名の 佐々木下野守 を田中氏であるとの可能性を示した。
確かに田中であれば 若狭越前攻めの際に軍勢は 田中の城 に宿泊している。将軍家とは 不沙汰 であっても 信長たちと昵懇であるのなら義昭の動座に際して連絡を取るのは自然な事だろうか。

動座不成立

しかしこの動座は成立しなかったのである。言継卿記 によれば 十九日条と二十七日条に分けて記されている。

明日武家江州へ御動座延引云々 摂州池田内破云々 其外尚別心之衆出来之由風聞 又阿州讃州之衆 三好三人衆 明日可出張由注進共有之云々 十九日条

今日武家御動座延引云々 二十七日条

つまり義昭の近江動座が発令された直後 摂津守護池田家で内訌が発生。更に阿波讃岐の勢力と三好三人衆が蜂起に及んだのである。

この頃には 小谷城の戦い など 織田と浅井の戦いが始まっていた。
しかし幕府は折からの西方の不安により 二十七日に動座の延引を決めた。織田信長の援護よりも 京の治安を選択したのである。
そうして織田軍は幕府軍の助けなく 徳川軍との連合軍で朝倉 浅井との合戦に及んだのである。
その結果については諸説あるが 個人的にはその後の動静から五分五分とするのが良いように思われる。

志賀の陣における三浦・高島一揆の功績

その後も幕府の戦いは続く。中でも八月の末から始まった野田福島の戦いは 政権の二万を超える大軍勢が三好三人衆方を囲んでいた。

その最中の九月十二日 山科言継は 越州之軍勢八千計堅田迄来云々 京中騒動也 雑説之儀也 京都を襲った偽りの情報を記す。
大坂本願寺が政権に叛旗を翻したのは その日の夜のことであった。

宇佐山城の戦いに於ける高島衆の動向

しかし 雑説 として一蹴された 越州之軍勢 その四日後に現実として姿を現したのである。
恐らく十二日には朝倉の軍勢は北郡もしくは高島 または若狭に達し そこから噂が飛躍していったのだろう。

九月十六日に坂本口へ迫った軍勢は 二十日に下坂本にて織田方を一蹴した。
その軍勢の内訳は 越州衆 朝倉 北郡 浅井 高島衆 一揆を合計し三万に上ると言継は記す。
一説に藤堂高虎が首を穫り その功を浅井長政に賞され太刀を賜ったそうだが これは本筋とは何ら関係が無い。
時に東浅井郡志は朝倉の先駆けは姉川同様に朝倉景健であったとする。確かに九月に京都の寺社へ発給した禁制について浅井長政と共に景健が担当している点から これは正しいように感じられる。

高島衆

この高島衆は誰なのだろうか。
結論としては これもまた定かでは無い。ところで言継卿記の第四にて 高島衆 が現れるのは二度目である。
一度目は永禄十一年(1568)九月二十七日条に 江州北郡衆高島衆八千計神楽岡陣取 足利義昭の上洛に従っていることが記されている。

この軍勢を考える中で 後に登場する 高島の一揆 元亀元年の高島衆 ではないかと思い当たったが やはり言継の書き方から考えると 同一と捉えるのが自然だろうか。
そうなれば西佐々木七人の関わりも考えられようか。

侍として唯一具体名が伝わるのが 打下の林与次左衛門である。
林は後年天正三年(1575)九月二日に北之庄にて生害と 信長公記 に記される。太田牛一は その罪科に打下の林与次左衛門が朝倉 浅井を引き出し 早舟を以て織田方に矢を射かけた旨を挙げる。
その真偽はともかく 林は元亀二年(1571)には織田方に降るので 彼が朝倉 浅井方に加わるのは元亀元年(1570)の志賀の陣以外有り得ないので 妥当性はありそうではある。

また朝倉 浅井方の軍勢に 一揆の軍団も従軍していた事を示したい。
新行紀一氏によれば 願慶寺文書 史料編纂所写真版 の十月二日付慶乗御房宛佐増 滋敬寺証智 感状には 去九月廿日四屋前 被討捕事 と記されるという。この日付から考えると宇佐山城の戦いと同日であり 更に文中の 四屋前 とは激戦地である下阪本の 四ツ谷川 の流域地域であろう。新大津市史別巻 によれば下阪本の 志津若宮神社 の別名は 四屋若宮 であるという。つまり九月二十日の戦闘は同神社の周辺でも繰り広げられ 海津願慶寺の慶乗が武功を挙げた事と相成る。彼は三浦講の一角として一揆を率いる立場であるから 一揆の軍団が本願寺に呼応し朝倉 浅井軍に従軍していたことが理解されよう。

堅田合戦と一揆衆

軍勢は京にまで迫るが 政権側の素早い転戦をうけ九月二十四日 比叡山に布陣した。かねて信長は比叡山延暦寺の領地 山門領 を押領していたたが ここで明確に延暦寺も敵と相成ったのである。

次の史料は この軍勢の中に高島の一揆や 今津 海津 大浦で構成される 三浦講 が参じていたことを明確に示すものだ。

五就此表之儀 言上令披露候 一昨日 阿州衆人数二万余 至中島着岸候 明日は大略京都へ可有手遣候 三人衆 阿州衆 都合基勢三万余可在之候 京都へ相働候は諸牢人 在々所々輩 可討立候間 人数可及四万之由候 先阿州衆先日罷上候処 摂州川原林之要害之輩相支之様に見へ候条 阿州衆罷上候 以其勢彼要害令破却 悉以討捕候 又茨木之城も以調略令合参候 京都へ被討立候は一統に可相働之由候 於様体者 可御安心候 猶其表之儀 切々御申肝要候 恐々謹言
 十月三日                  証念 花押
  志賀
  高島衆中
  三浦
龍谷大学佛教文化研究所紀要十八号 湖西地域における真宗教団の展開 海津願慶寺 大浦本照寺所蔵文書 星野 元貞 高島幸次 首藤善樹

証念はこの頃よく見られる人物 丹後法眼証念で 本願寺の坊官下間証念と思われる。
宛の 高島衆中 というのは 国人 侍としての 高島衆 であるのか 一揆勢としての 高島衆 であるのか判断に迷う。しかし後に 志賀高島三浦御門徒各衆中 に宛てられた証念の書状を踏まえると 後者一揆勢としての 高島衆中 高島門徒衆中 と考えるのが自然だろうか。

福井県史等によれば 朝倉義景が上坂本の陣に加わったのは十月の中旬であるらしい。大日本史料 歴代古案 正月廿二日付山崎吉家書状 また先の松浦義則氏の論文によれば 義景は同時期に若狭に介入したという。その中で武藤友益が政権に反旗を翻した事を聞き及び 武田信方に指示をしたとそうだ。

包囲網打開

膠着状態となった十月の比叡山戦線は 安定した日々であった。

一方で十月二十二日に言継は 若狭にて武田五郎 信実 武藤 友益 粟屋左京亮が敵に成り 山形孫三郎の ガラガラ城 を攻め落としたと記す。若狭について信長は十一月二十四日 政権派の本郷治部少輔 信富 に対し 其国之躰無是非題目 と認めた。

北に朝倉 東に六角浅井 西に本願寺と三好三人衆と阿讃衆に囲まれた政権は ここから政治による打開を図る。
まず十月末に青蓮院門跡尊朝法親王を介して本願寺と和睦を果たす。
更に信長が若狭の本郷信富へ書状を発給する三日前の十一月二十一日には六角承禎 篠原長房や三好三人衆とそれぞれ和睦を果たした。

堅田中入り

政権の外交工作により 残る敵は比叡山に籠もる朝倉 浅井連合軍 高島衆と若狭衆 志賀 高島 三浦講 長島の門徒のみとなった。
然りとて四月末の蹶起にて中心的な役割を果たした六角承禎が矛を収めたことは 共に近江で兵を挙げた浅井にとって 越前攻めの危機を六角によって脱した朝倉にとって どれだけ衝撃的であった事だろうか。

そのような中で十一月二十五日早朝 堅田の侍衆 猪飼甚介 馬場孫次郎 居初又次郎 織田軍の坂井政尚と共に堅田へ兵一千を送り込んだ。これが俗に言う 堅田中入り作戦 である。

そもそも堅田をはじめとする湖西の侍というのは元来六角との繋がりが強いものである。だからこそ六角承禎が政権と和睦した以上 織田方に転じることは当然の成り行きであろうか。彼らは人質を出したと信長公記にあるから 降ったとも考えられる。一方新行氏は 彼らは宇佐山城に森が入った頃からの与力であったとの見解を示している。

湖上権益の要所で補給拠点でもある堅田を抑えることは 政権側 比叡山に籠もる反政権側双方にとって重要であった。
堅田侍衆三人は織田方に人質を出してでも作戦を具申したと言うのだから 相当の覚悟が伝わるものである。

堅田合戦

堅田に限らず 侍衆と地下人衆は両者の思惑が破綻すれば一枚岩で無くなることがある。堅田の利権を狙う侍衆は政権と結んだ。
一方堅田はじめ西近江路沿いの商人をはじめとする地下人というのは 元来経済的側面を持つ一向門徒である。つまり堅田の地下人たちは 堅田本福寺を中心とした 一揆 として反政権側にあった。新行氏によれば 志賀 高島の門徒は 慈敬寺 を首将として居たそうだ。
既に述べたように堅田は比叡山に籠もる反政権側の補給拠点であり 同地を政権側に抑えられてしまうと 文字通りの死活問題となる。これについて山崎吉家は 越州通路可相止造意 大日本史料 歴代古案 正月廿二日付山崎吉家書状 と述べる。

そうして翌朝 朝倉義景は堅田を奪還すべく重臣朝倉景鏡 前波景当を大将とした朝倉 浅井勢を派遣。この軍勢に一揆も加勢した事が 以下に引用する書状群から理解できよう。
結果 朝倉方は前波をはじめ六百から八百の兵を失うも 敵将坂井政尚ら織田方 侍衆のほぼ全てを討ち取る大戦果を挙げたのである。尋憲記 に生き残ったのは 四名であるという。

態以折紙令申候 仍而去廿六日於堅田ニ御合戦 各御高名之由承候 此方迄大慶無申計候 尤罷越見舞可申候へ共 はや〱目出之由申来候条 乍存知無其儀候 委此者可申上候 恐惶謹言
  元亀元    大浦上庄
   霜月廿九日   惣庄
 教紹房
 人々御中
東浅井郡志 願慶寺文書

去月廿六日 於堅田不慮合戦 其方各手前無比類働殊首数多被討捕 即時敵被討果之由注進状懸御目候 尤神妙 寔粉骨無是非被思食候 各高名之衆へ能々可被申達旨被仰出候 越前衆 北郡衆儀 此方被仰聽候筋目 一點不相替 無御別儀候條 彌被得其心 猶以慈敬寺殿被申談 切々可被抽忠節事肝要候 返々今度之働書中難申候 猶重而可申候 恐々謹言
         丹後法眼
  十二月三日    証念 花押
    志賀高島三浦
      御門徒各衆中
三浦講中文書 大日本史料

この一連の書状は一揆衆に関連する書状で 前者は大浦上庄から海津願慶寺の教紹房 慶乗 に宛てられた見舞状 後者は本願寺の下間証念から志賀 高島 三浦の各門徒に宛てられた感状である。
高島郡誌には 願慶寺の 教乗坊 が坂井を討ち取ったとあるが これは定かでは無い。
このように堅田奪還の作戦に於いて 志賀 高島 今津 海津 大浦の一揆勢が活躍した事がよくわかる。

なお最近浅井長政が大浦の 黒山寺 に宛てた書状が発表されたが その日付は十一月二十七日で堅田攻めが行われた翌日である。同じ大浦であるから 彼らも三浦講の一員であったのか思い当たるところであるが その実情は定かでは無い。
この書状に関しての解説は 兵站としての観点である。確かに大浦は海津や塩津と同じく敦賀からの街道が通り 大浦から海津へ通じる万字峠の口に黒山は位置する。そのため 補給路 との見立てはその通りであると感じる。

本願寺と政権が和睦した直後の出来事で 一見この和睦を無視しているように感じる。考えるに彼らは和睦を知らなかった可能性もある。また あくまでも 堅田の自治 を巡る問題であるから 本願寺が無関係であった可能性もあるだろう。
志賀 高島 三浦の門徒たちも和睦を知らなかった可能性があるし 何より彼らは堅田を中心とする西近江路と湖上権益の受益者 構成員であるから参戦するのは自然であるように感じる。

戦いの終結

結局膠着状態を打開したのは将軍の実力 上意 と正親町天皇の勅命であった。
これにより朝倉と信長 政権 浅井と政権 山門 延暦寺 と政権が和睦を果たす。
なお桐野作人氏の 織田信長-戦国最強の軍事カリスマ-(新人物文庫 き-8-1) によれば 和睦に関し朝倉 浅井方の身元を保証すると同時に 佐和山城包囲の解除 横山 肥田両城の破城といった条件も提示されたらしい。佐和山城の包囲は年明けに磯野員昌の降伏という形で実現されたが 横山城と肥田城の破城が履行される事はなかった。

尋憲記 によれば 十三日に朝倉方から青木 魚住の子息 織田方から稲葉 言継卿記では氏家 柴田の子息 将軍方から三淵の子息がそれぞれ人質として交換された 信長公記 によれば人質は高島まで同行していたらしいから この和睦にて一揆から侍に至るまでの高島衆は 浅井方 に含まれた可能性もあろうか。

このようにして皆それぞれ陣所を引き払い 帰国の途についた。
信長公記 は十六日に佐和山に近い磯村に宿を取り 翌十七日に岐阜城に帰城したと記す。時にその気象は 大雪の中であった。

一向一揆の威力

一連の戦いで織田信長は一向一揆の威力を目の当たりにした。
の日前には 長島で弟の信興が敗死。そして無二の重臣二人を一揆が合流した軍勢に喪った。この事実は政権 ひいては織田信長にとって重いものであっただろう。

同時に朝倉義景と浅井長政も 一向一揆を敵に回すことは出来ないと感じただろうし 何と言っても一向門徒自身が 自分たちの実力に驚いたかもしれない。