藤堂左衛門大夫景敦・右京亮景安兄弟

本稿では藤堂景敦 藤堂景安についての解説を試みる。

藤堂景敦

藤堂景敦は広橋綱光から兼顕の二代で活躍した家司である。
父は永享から嘉吉頃に活動していた痕跡のある藤堂三河守景勝だ。すなわち景盛の孫にして 景持らとはいとこ同士である。

津藩藤堂家編纂史料に見る景敦

景勝 文明十一己年従五位下左衛門大夫に叙任す。足利将軍義尚公に奉仕す。兼顕卿薨去の時。故有て出家し法名明全と号す

年譜略と実録 共通した内容である。ただし年譜略では 太夫 という表記になっているが 官位としては実録の 大夫 が正しい。
また冒頭に 景敦 とあるのも間違いで 景安の内容が続く文脈を踏まえると 兄景敦についての説明と判断できる。

歴名土代に見る景敦

文明八年(1476)

二月二十五日・従五位下

ここでは 藤堂景勝朝臣一男 左衛門如元 十一年五月十六日出家 と記される。
如元 元の如し が語尾に付くので この叙任前から 左衛門尉景敦 であったのだろうか。
ただ翌文明九年二月十六日には 葬礼服を尋ねてきた広橋家の家司として 藤堂左衛門大夫 が登場する。山科家礼記三
こうした 大夫 の区分が不勉強な私には判断するに難しいが やはり景敦が翌年には 藤堂左衛門大夫 と名乗っていたと考えている。

文明十一年(1479)

五月十四日・正五位下

官名は 左衛門大夫 のようだ。
翌十五日 広橋兼顕の薨去に伴い出家すると 明金 歴名 もしくは明全 年譜略 と名乗ったとある。
どちらが正しいのか。その答えが大日本史料 8 40 267 頁にある。この項は延徳二年十二月二十二日の飛鳥井雅親の薨去に関しての記録集となっており 広橋家からは 勅撰和歌集編纂の院宣 が収録されているが その出典が 守光公雜記 であり 次のように記されている。

寛正六二廿二 明金日記

この明金とは やはり藤堂景敦の事だろう。実際に大日本史料では景敦と比定されている。そうなると正しい記述は年譜略ではなく歴名土代という事になろう。

景敦の妻子

景敦には二人の男子がいる。
といっても歴名土代にて藤堂景俊に 景敦二男 とあるだけで 景俊の兄に関する記録は見当たらない。
さて次男の藤堂景俊は系図上で景元の後裔とされる人物であるが ここで景敦の次男である事がわかると藤堂家の系図が一変する。
つまりは景俊の代から 景富系統から景敦系統へ移るのである。
最も景俊と後裔にあたる景任の関係性について 歴名土代には景任を誰の子とも記していないため結論づける事は出来ない。あくまでも 景任が景俊の子であるならばという前提である。

古記録に見る景敦の動向

さて藤堂景敦の動向記録は 同時代の藤堂氏のなかでは屈指の量である。またその活動期間の長さも特筆されるだろう。
なお 兼顕卿記 データベースれきはく より引用した。

文安六年(1449)

正月十七日・藤堂宿所出向、珍重珍重(綱光公記、紀要二十六号)

景敦もしくは景富か。特に比定されていないので此方にも記す。
ただ綱光公記では景富の登場回数が多いこと 翌年には 豊後宿所 へ綱光が向かう様子が記録されている事から 藤堂宿所 というのは景富の宿所と考えるのが自然だろう。

寛正三年(1462)

二月十三日・景敦連歌会頭役(綱光公記、紀要二十二号)

藤堂景敦の初出となるのがこの記録である。

八月二十四日・景敦が放生会の青侍両人の一人(綱光公記・紀要二十二号)

もう一人は速水景益である。
景益は七年前の享徳三年(1455)の六月に 代々家人也 と綱光に評された速水越中入道浄誉を父に持つ。越中入道の諱は信景であるが 彼はその年の七月に六十歳でこの世を去っている。すると信景は(1496)に生まれた計算となる。
地下家伝 によれば速水景益は応永二十九年(1422)に生まれ 某年に従五位下 従五位上と昇進。三十八歳の長禄三年十二月二十九日には正五位下に叙されると 四十一歳の寛正三年十二月二十八日に従四位下となったようだ。また年次は不詳であるが 越中守 を名乗った旨も記されている。残念ながらその没年はわからない。
時に 一本中原系図 の記述を信じると 景益の妻は景敦 景安兄弟の姉妹と相成り つまり景益と景敦は義兄弟の可能性がある。

寛正五年(1464)

十一月二十七日・景敦、安居院坊入室の茶々丸を見送るか(綱光公記、紀要二十四号)

この日綱光の七歳になる茶々丸が安居院に入室した。後の 澄承 と付記されているので 出家を意味するのだろう。広橋家ではこのように家を継がない子息が寺に入るケースが散見される。むしろ広橋家に限らず 当時の公家の習慣であったのだろうか。確かに足利将軍家でも同様のケースが見られる。

慈母 豊子女王 以下御出 雖為産穢中 於女中有来楽 珍重〱 繰り返し 景敦等為共

さて景敦はこのように末尾に記される。これは茶々丸の見送りを示すのだろうか。この前には出家に際しての引き出物が並ぶ。
ここでの 慈母 とは綱光の母 つまり茶々丸の祖母であり 産穢中 とは十一月四日に男児 静兼か を出産した綱光の妻で茶々丸の母の事だろう。

寛正六年(1466)

二月二十日・景敦、飛鳥井雅親へ御教書を届けたか(大日本史料データベース守光雑記「明金日記」・景敦か)

これは大日本史料データベースに収録されている 守光雑記 の中に更に収まる 明金日記 の記述である。元々は大日本史料で延徳二年十二月二十二日条内に収まるが これは同日に薨去した飛鳥井雅親に関する記録を纏めた項目である。
綱光から勅撰和歌集編纂の院宣に関する御教書を飛鳥井雅親へ届けた旨が 明金日記 として記録されている。

此御教書 飛鳥井殿へ御方様爲御使令持向給 飛鳥井殿著狩衣被請取之云〱 仍傳奏此御所樣也

明金 は景敦の出家号と同じであり これは景敦の日記と考えられる。また守光公雜記とは広橋守光が諸々を書写し纏めたものであるが 恐らく景敦の日記もここに所収したのだろう。
広橋侍藤堂氏の記録は 書状を除くそのほとんどが主人や山科家の記録集に依るものなので 明金日記のように藤堂氏自らが記録したものはかなり貴重である。ただ残念ながら 守光公雑記 は全体が翻刻されて居らず 現状読むことの出来る 明金日記 は勅撰和歌集編纂の院宣に関しての部分のみである。

応仁元年(1467)

三月十三日・景敦、大原野祭で内々騎馬に名あり(綱光公記、紀要二十五号)

内々騎馬 景敦有共 と記される。
また現在翻刻されている綱光公記に於いて この記録が藤堂氏全体の終見となる。

文明八年(1476)

二月二十五日・景敦、従五位下(歴名土代)

藤堂景勝朝臣一男 左衛門如元 十一年五月十六日出家

左衛門如元 とは 元の如し左衛門 という事だろうか。すると景勝がこれより前に 左衛門 を名乗っていたと考えられる。

文明九年(1477)

二月十六日・藤堂左衛門大夫、広橋家の家司として葬礼服を尋ねる(山科家礼記三)

景敦が 左衛門 を名乗っていたことがわかると ここに登場する 左衛門大夫 が景敦である事が理解できる。
これは二月十四日に薨去した広橋綱光の葬礼に関する記録と思われ 景敦はこうした分野には疎かったのか不慣れだったのだろうか。さて綱光の跡を継いだのが長男の兼顕である。

六月十七日・兼顕が終日公卿補任を書写するので、景敦も手伝う(データベースれきはく・兼顕卿記)

上嶋康裕氏の 中世後期の 補任 系図 によれば 公卿補任 歴名土代 を総称して 補歴 と呼ぶようだ。こうした書写により情報が確実に整理され いま我々は読むことが出来る。
さて卿記を時系列で読むと 同年分の記録の中で補任の書写についての記述が現れるのが六月五日条である。ここでは

終日公卿補任書写校合。正親町公卿補任先三代分返遣之 後円融 後小松。称光院等也

とある。つまり六月五日以前から 正親町公卿 公兼か より借りた後円融 後小松 称光天皇時代の公卿補任を書写していたらしい。称光天皇の時代というのは藤堂氏が誕生した時代にあたり 足利義満の時代の補歴を書写し この日に校合が終わり正親町家に返却した事となる。

花園院至崇光院五代分借請者也。但取乱間 明旦可持送由有返答

ただ補歴の書写は義満時代のみに留まらず 時代をさかのぼり鎌倉時代末期の花園天皇から北朝の崇光天皇時代公卿補任も書写するべく借りようとした。しかし正親町方で取り乱すこととなり 実際に兼顕のもとに届いたのは翌六日の事である。曰く 自正親町宰相中将許公卿補任到来。対使者謝遣之者也
つまり景敦が書写を手伝った公卿補任とは やはり鎌倉時代末期から北朝時代にかけての公卿補任と考えてよいだろう。
さて実際に兼顕が書写を始めたのは七日の事であるが ここで何やら不足があったようで 同旧院一代之分 について町中納言 光厳院并後醍醐重祚之分一帖 について二条前宰相資冬卿へそれぞれ遣いを出して不足した史料を借りたようである。

しかし八日から集中して書写を始めたわけでは無い。八日は書写の記述は無く 書写の記述が見られるのは九日~十三日が最初の集中期間である。十四日は綱光の月命日にあたり書写は行っていない。

また時系列で読むと この前々日から西院の周辺で足軽による騒乱と放火が発生している事がわかる。この日の記録は特段書写以外の記録は無いため 火は前日で消えたのだろう。

六月十八日・景敦、この日も兼顕の公卿補任書写を手伝う(データベースれきはく・兼顕卿記)

この日も同じように主人を手伝っている。また弟の景安が 自南都景安上洛得業無為無事 上洛した旨が記されている。

六月十九日・景敦、連日の公卿補任書写を補助(データベースれきはく・兼顕卿記)

さて連日の記録は次のようなものである。

0617書写
0618書写
0619書写
0620校合
0621町家へ旧院分返却
0622書写
0623校合
0624校合
0723町家へ後宇多分返却
0725校合
0729書写
1010書写
1014校合
1102順徳分到来
1108柳原量光 後光厳分書写を持来

翌年分

0308師富 後二条分を令書写持来
0811後嵯峨 後深草 亀山分を借りる
0813高倉 安徳分が到来し 早速書写
十二月十五日・景敦、返状の調遣者となる(データベースれきはく・兼顕卿記)

東大寺就世上静謐之儀 賀札事書到来之間 御樽五荷 唐布三合蜜柑二篭進上 以春日局披露仰景敦返状調遣者也

つまり東大寺で行われた 静謐之儀 に関する事らしい。蜜柑などを進上したようだから 春日局からの返状を景敦が受け取ったと解釈するべきなのだろうか。

文明十一年(1479)

五月十四日・景敦、正五位下(歴名土代)

文明八年の叙位では十六日に出家とあるが こちらでは翌十五日とある。
何れにせよ景敦の出家は兼顕の薨去に伴うもので 以後明金と名乗ったようだ。
以上で景敦の動向は終見となる。

五月二十四日・藤堂左衛門大夫の入道・隠居(大乗院寺社雑事記)

大乗院寺社雑事記 には兼顕の薨去について 十五日条 二十四日条 二十八日条に見ることが出来る。その全ては長くなるので割愛するが 尋尊と兼顕は関係が良好ではなかったようで 十五日条にはこのような文字が並ぶ。

近日天下之謀計只此人一人也。希代不思儀之惡行人也

さらに確執を五箇条列記すると次のように結んだ。

以外謀計惡行。無是非蒙神罰了

さて景敦について記されるのは二十四日条と二十八日条である。
まず兼顕の弟で僧籍の光慶が兄の跡目を継ごうと奔走した様子が記され その次に以下のように綴った。

藤堂左衛門大夫ハ。令入道則隠居了

二十八日条には 尋尊の実家一条家の家僕 石左衛門 中井宗弘 が京都で見聞きしたことが記されているが 光慶の家督相続失敗を補強する記述が大半である。景敦の隠居について見ることが出来るのは末尾である。

中隱 ハ竹屋殿 光慶得業兩人也。藤堂ハ令入道隠居也。於私宅中隱沙汰之云々。

中隱 とは 四十九日 の事と思われ 竹屋殿とは広橋家の分家 竹屋家の当主治光だろうか。
ここで石左衛門は 景敦が入道隠居させられ 私宅で中隱の期間を過ごしていた事を記しており非常に興味深い。

文明十三年(1481)

正月五日・大沢久守が年賀に参り、藤堂豊後と左衛門大夫が応対(山科家礼記四)

この日の記録に左衛門大夫なる人物が現れる。実は前年の諸家年賀に関する正月五日条には

廣橋殿 同左衛門大夫

と記されている。両年の左衛門大夫は果たして同一人物なのだろうか。
家礼記では と記されている点から これを 広橋左衛門大夫 としている。

ただここでは念のため 出家後の明金の姿としての藤堂左衛門大夫説も置いておく。

藤堂景敦という侍

藤堂景敦は綱光 兼顕の二代に渡り活躍した この時代を代表する広橋家の侍である。
この時代 藤堂氏では叔父の美作守景長や従兄弟の豊後守らが幅広い活躍を見せている。しかしその中心にあった人物こそが左衛門大夫景敦と私は考えている。

藤堂景安

景勝の次男 兄は左衛門大夫景敦である。生没年や妻は不詳。
公室年譜略の説明には

将軍家に仕え文明十六甲辰年十二月二十六日従五位下に叙し右京亮に任ず

とある。
一方 歴名土代では文明十年(1478)六月十二日に従五位下へ叙されている。年次が間違っているので注意が必要だ。右京亮 という部分は合致している。
景安の動向は兼顕卿記の文明九年(1477)六月十八日条に見ることが出来るが この 南都景安上洛 一件のみである。つまり古記録にて此の時代 藤堂右京亮 を見ることは出来ない。

景安の子孫

子息は一本中原系図に式部丞景親という者が連なるのみ。ただ例によって信憑性に疑いのある系図であるために鵜呑みにする事は出来ず 実在性に欠ける人物である。
なお同系図には景親の子息 つまり景安の孫娘も記されており どうやら山科家に仕える大澤綱家に嫁いだらしい。
歴名土代で調べると 元の名を大澤重敏といい 永正十七年(1520)に従五位下左衛門大夫 大永六年(1526)に従五位上 享禄二年(1529)に長門守綱家へ改名し 享禄四年(1531)に正五位下と叙任されている。
同系図に景安の孫娘は 大澤綱守の母だとも記されている。さらに 尊卑分脈 で大澤氏を調べると 此方にも綱守の母が 式部丞中原景親女 と記される。果たして一本中原系図と尊卑分脈 成立は何方が先なのか気になるところであるが 仮に尊卑分脈が先であれば 一本中原系図は同書を参照したとも考えられよう。

大澤綱守も歴名土代に見ることが出来る。
すなわち天文六年(1537)正月五日に従五位下検非違使如元 翌三月八日に下野權守とある。次に天文十三年(1544)正月十七日もしくは三月十九日 従五位上出雲守に任じられ 天文二十年(1551)の正月六日には正五位下 永禄二年(1559)の二月六日に従四位下へ昇進している。
大澤出雲守は言継卿記にその名を見ることが出来る。

さて 景安と大澤重敏 綱家 では 四十年の開きがある。その期間であれば孫娘が嫁ぐのは容易に想像できそうだが 最大の問題は式部丞景親の存在が現状の史料で確認できない点だ。

しかし存在が確認できないのはあくまでも景安の子息とされる 景親 のみであり 実は 言継卿記 には景安の曾孫と思われる人物が登場する。
それは天文十九年 一五五〇 正月二日条 新年の禮に 藤堂又五郎 なる人物が参加したと記されている部分だ。
彼について 大澤掃部のいとこ者なり と付記されているが 大澤掃部とは言継に仕える大澤重成である。同年八月二十八日条には 掃部いとこ又三郎子 腹中悉本服祝着之由申 禮に來 との記述が見られる。掃部いとこ とは又五郎と思われ この記述をもとにすると 又五郎の父は藤堂又三郎と考えることが出来よう。すると又三郎の姉妹が大澤綱家 重敏 に嫁ぎ綱守 重成兄弟を産んだと考えることが出来る。これは 尊卑分脈や一本中原系図の記述を裏付ける重要な記述となるだろう。
つまり景安の孫には男児がいたと考えるべきだ。同時に言継卿記の記述は 信憑性に難がある 一本中原系図 を裏付ける貴重なものでもある。

古記録に見る景安の動向

文明九年(1477)

六月十八日・景安が南都より上洛(データベースれきはく・兼顕卿記)

この日景安が上洛した。動向記録はこれが最初で最後だ。

文明十年(1478)

六月十二日・景安、従五位下(歴名土代)

藤堂右京亮景勝朝臣二男

残念ながら景安の記録は以上となる。兄の景敦は乱世のなかで活躍した侍であるが 弟の景安はその影に隠れるかのように見ることが出来ない。