二〇二〇年十二月の更新履歴とオマケ

2020-12-31

二十八日

信重記事に信忠の諱変化と余部攻め 耶蘇会の日本年報の記述についてを加筆。
また長くなったので記事を分割。これにより catalpa での処理が早くなった。

三十日

多賀氏と藤堂氏の複雑な関係について 佐々木中務少輔を京極勝秀と明記

雑録

大変な一年も ついに終焉。といっても 大変なまま新年を迎えるという まだ我々はトンネルの中にあるんですなあ。
オリンピックも出来るのか心配。やはりスポーツ好きなので開催して欲しいですよ。

スポーツで行けば 名古屋グランパスの ACL が決定。柿谷に長澤が加わり 攻撃陣が厚くなりました。前田の負担軽減 やったね。

ギラヴァンツ北九州 これは本当に後半戦は駄目だった。最終節もアウェイフクアリまで行きましたが 気温同様に寒い試合内容でしてね。推進力の無さは来季への課題だな と思っていたら 町野をはじめ鈴木国友 國分や永井 藤原 レレ 福森が移籍。
更には高橋大悟の清水復帰も噂されるなど二〇一九 二〇二〇ギラヴァンツの解体は もはや避けられない状況。強くなる代償です。
そんな中でも井澤選手 藤谷選手 吉丸選手 加藤選手と各クラブ期待の逸材が来てくれるのは やはり強くなっただけありますね。ありがたい ありがたい。
更には六平選手も来てくれた!
また明治からは狩土名くん 法政大から平井くん 既に発表済みで特別強化指定の東海学園大の前田紘基くんも居る。ありがたいねえ。
去る者追わず 来る者拒まず!

室町時代藤堂氏考察

本当はエアコミケ便乗で公開したかったのだけれど ちょっと壮大になったので間に合わず。
なのでアウトプットも兼ねて 実在するも実態不明の人物を軽く紹介していこうと思います。
主に京極氏に仕えた藤堂氏 在地か 広橋侍の一門衆になりますね。

2023-0211 追記
此方の記事はサイトの藤堂高虎前史に進化しました。是非御覧下さい

藤堂九郎左衛門

康正二年(1456)七月二十六日の足利義政右大将就任の拝賀に於いて 佐々木中務少輔=京極勝秀の被官隊列二番目に藤堂九郎左衛門の名が見える。松江市史史料より
川岡勉氏は 尼子氏による出雲国成敗権の掌握 のなかで 藤堂氏は多賀や下河原 赤田氏と並ぶ京極の有力家臣としている。
そうすると藤堂氏というのは 広橋に仕えた族と京極に仕えた族の二種類に分けることが出来る。
便宜上 後者を 在地藤堂氏 と定めるが この九郎左衛門と景盛一族の関係性は不明だ。

藤堂兵庫助景教

彼は 歴名土代 兵庫助景兼の父親として記される人物だ。
残念ながら 他に彼を知る術は無い。
その出自を考える中で 景兼が藤堂の家督を継いだと 公室年譜略 に記されている点は興味深い。同書にて彼は 景富の子 景持の長男と記されている。
公室年譜略 での藤堂氏は 景盛 景富 景持 景兼と連なっている。なんと景盛の長男景能は抹消されているのである。
これまで景能の実子は 学僧の陽専房興憲のみであるとされてきた。そこで私は興憲の他に子が居たと考える。それが 景教 である。
景能の孫であれば 家を継ぐ資格があるだろう そんな単純な理由である。
景兼は文明十一年(1479)に弱冠十歳で従五位下に叙されている。この若さでの叙任は興味深い。
とにかく 全てがわからないのが景教という男だ。

藤堂筑後守

山科家礼記で文明十二年(1480)十月二十九日 翌文明十三年(1481)九月四日の二度登場するのが藤堂筑後守である。
残念ながら 歴名土代 高山公実録下 公室年譜略 にこの名前を見ることは出来ない為に 彼をこれ以上深掘りすることは出来ない。
想像するに藤堂四兄弟の何れかの子息 系図から外れた者と思いつくが それ以上は何も思い浮かばない。

藤堂備前守

文明十八年(1486)七月二十五日 京極政経 材宗親子に従い室町へ出仕した家臣に 藤堂備前は登場する。備前の他に多賀新左衛門 美作守高房か 今井蔵人の名がある。坂田郡誌より その出典は蔭涼軒目録
京極政経は勝秀の弟にあたり 出雲より上洛したらしい。尼子経久の台頭が同じ頃で 追い出された感もある
そうなると備前守も出雲から入京した男なのだろうか。
また東大史料編纂所の日本古文書ユニオンカタログデータベースには 延徳三年(1491)九月十六日の藤堂備前守宛て室町幕府奉行人連署奉書 飯尾宗勝と松田数秀 が収録されている。
元は 大徳寺文書 読んでみると 犬上郡西今村 の文字が見える。西今村は今の彦根市西今町で 藤堂村の八幡からは北西に約五キロに位置する。残念ながら 高山公実録 公室年譜略 にある 最盛期藤堂氏所領に西今村は含まれて居ない。
彼の生きた時代は 応仁の乱より続く京極家の家督争いで近江が荒れた時代である。結果的に見れば 備前守が仕えたであろう政経 材宗親子は敗死する事となる。
備前守に纏わる史料は上の二件のみであり これ以上彼を知ることは不可能である。
余談であるが高虎の孫で二代目久居藩主の藤堂高堅は元禄十年(1697)の十二月に従五位下 備前守に叙されている。つまり二百年ぶりに 藤堂備前守が復活したのだ。

藤堂九郎兵衛尉

永正七年(1510)二月二十二日 公方義尹 義稙 は近江衆に対し 義澄追討の為に出陣すべしとの御内書を発行した。
その中 十六人中の十四人目に 藤堂九郎兵衛尉 なる人物が登場する。
結局 この義澄追討は失敗に終わる。

さて九郎兵衛尉という人物もまた 謎である。
九郎左衛門 であるならば 当時十三歳の高虎祖父の忠高 良隆など と同一人物である可能性が考慮できるが この人物は九郎兵衛である。

高虎の曾祖父は 兵庫助高信 と伝わるが 彼の没年は 宗国史 で永正六年(1509) ふじの生涯 という藤堂藩家臣の末裔 七里亀之助氏が昭和五十五年(1580)に刊行した書物によると永正十年(1513)との二説がある。
前者では九郎兵衛=高信は成り立たぬが 後者では僅かに成り立つ。
しかし断言する材料が足りない。

藤堂備中

天文三年(1534)八月二十日に行われた小谷城の饗応にて 亮政 VS 高清 進物献上下賜の義 具足の段取次で登場するのが藤堂備中である。浅井氏三代/宮島敬一より
残念ながら これ以外で藤堂備中の名を見ることは出来なかった。
京極高清は京極家の騒乱で唯一勝ち残った男であるが 京極の騒乱は浅井氏の台頭を招いた。
そこから考えると 藤堂備中は京極高清の配下なのだろう。藤堂備前守が高清派に敵対した政経 材宗親子の与党とすれば 備中は高清派であったのか。
同時に在地の藤堂氏が 親子派から高清派に降った可能性や 柔軟に乗り換えた可能性も考えられる。

藤堂九郎左衛門家忠

天文九年(1540)の九月某日 尼子殿御代官へ出された請文の差出人が藤堂九郎左衛門尉家忠なる人物である。
これは日本古文書ユニオンカタログに収録され その出典は革島文書という。
革島文書を調べると 尼子殿について 詮久 との注釈が為されていた。尼子詮久というのは 出雲の王で経久の孫に当たる人物だ。
そうなると この文書は出雲の藤堂氏を指すのだろうか。
しかしながら 近江にも尼子氏が存在する。地味な存在であるが 近江尼子氏は六角の配下として君臨していた様であり そこから考えると藤堂も当時六角の配下に居たのだろうか。
また九郎左衛門という名乗りは 高虎の祖父や父 叔父も名乗った称である。高虎の祖父は没年から逆算するに 当時四十三才であるから可能性は高い。
だが彼の諱は忠高もしくは良隆 嘉隆 と伝わるものの 家忠 の名を藤堂家の二大史料に見ることが出来ない。その為 直に家忠=高虎祖父と結びつけるのは安直ではあるが 頭の片隅には入れておきたいところである。

藤堂九郎左衛門

某年九月二十一日に浅井長政より藤堂九郎左衛門へ発行された書状である。浅井氏三代文書集 養源院文書
内容は 内存を評し知行を宛てがった内容であり その知行は蚊野常学坊跡 安食弾正跡 御内将監入道らの跡職という。
その年代は不明であるが 室町時代の後期だという。実際名義は長政である事を踏まえると 永禄五年(1562)以降だろう。一部で 元亀元年(1570)の書状とされているが 当時は志賀の陣中であるから信じがたい。既に藤堂は浅井に属していたので

東浅井郡志 によると 清渓稿 なる書物に浅井長政が藤堂九郎左衛門私宅で詠んだ詩が収録されていると記されている。
その 清渓稿 には 浅井長政が永禄十一年(1568)の二月十七日に藤堂九郎左衛門の私宅を訪れ 浴室側の梅をみて詠うとある。以下が長政が詠んだという詩である。

池亭梅花戌辰二月十七日於藤堂九郎左私宅浴室側有梅池邊梅發映斜輝。曳履吟遊共忘白反。一朶紅粧何似處。溫泉宮裡浴楊妃。

この詩を信用すると 私宅を訪れるほどの信望があるのならば わざわざ志賀の陣中から知行を宛がう必要は無いと考える。

2021 7 21 日追記
この 清渓稿 について 正しくは
煕春竜喜が藤堂九郎左衛門私宅を訪れ詠んだ
という内容でした。したがって上に記したことは全てが誤った内容となります。

そうなると 養源院文書は永禄五年(1562)から永禄十年(1567)までと考える事も出来よう。

高山公実録 には宗国史からの引用として 伊勢御師 上部家 願祝簿 なる記録が収録されている。この記録は真贋疑問はあるものの 多くの藤堂氏を見ることが出来る素晴らしい記録であり 来年の何処かで纏めてみたいと考えている。
その中で永禄十二年(1569)に 九郎左衛門 という人物を見ることが出来る。
では この九郎左衛門とは誰なのだろう。

家忠の項でも示したように 九郎左衛門を名乗ったのは高虎の祖父と父虎高 公室年譜略 高山公実録 そして叔父の勝兵衛良直 寛政重脩諸家譜 嘉房とも の以上三人である。
公室年譜略 では高虎の祖父について 若年の時は九郎左衛門と号す 後に越後守と号す と記され 虎高については 始九郎左衛門と号す と記されている。源助と記されては居ないが 後に 源助 を名乗ったという理解が良いだろう。残念ながら勝兵衛良直については 彼が九郎左衛門を名乗った史料は見当たらず 数少ない史料での名乗りは 勝兵衛 である。

そこから考えると 虎高の名乗りは逆なのでは無いかと思ってしまう。つまり藤堂家の記録とは逆に 初めが 源助 を名乗り 後に 九郎左衛門 を名乗ったとするのが良いのでは無いか。
その論拠として 願祝簿 に載る 源助 の存在を示したい。つまり天文二十三年(1554)に 藤堂源助 なる人物が記録されているのである。
これは高虎が生まれる二年前の記録であり 既に虎高は藤堂家に婿入りして嫡男源七郎高則が六つの年の記録であるからだ。
勿論 寛政重脩諸家譜にあるように 何れかの九郎左衛門が勝兵衛良直であった可能性も考えられる。
しかし勝兵衛が早くに織田へ与したのに対し 虎高は浅井派であった事を踏まえると ここまで浅井長政と親しい 藤堂九郎左衛門 は虎高である可能性が高い と私は見ている。

藤堂兵庫助

某年八月二十七日 明智光秀から某 宛所不明 に対して出された書状の内容に出てくる男である。
その書状は 藤堂兵庫助の知行が御料所となり その代官に尼子殿が選ばれた という内容だ。
この書状の発行時期は不詳ながら 私は 多賀氏と藤堂氏の関係考察 のなかで永禄十二年(1569)頃かと推測している。
さて 藤堂兵庫助 という人物は 公室年譜略 には二名登場する。
一人が上に記した 兵庫助景兼 であり もう一人が高虎の曾祖父にあたる 兵庫助高信 である。
では永禄年間の 藤堂兵庫助 は誰なのか。
私は先の考察記事で 叙任前の駿河守景久が その幼さから収公の憂き目に遭った と結論付けたものの 今思うとこの説は稚拙である。
このように藤堂氏の広がりを目の当たりにした今考えると この藤堂兵庫助という人物は虎高たち一族とは別に存在した 在地藤堂氏の一人だろうか。

ところで 藤堂駿河守 という人物は 景久以前にも存在する。
大永三年(1523)の願祝簿に 藤堂駿河守 が登場するのだ。
様々な史料を読むに 広橋侍の藤堂氏に駿河守は天正の景久の一人であり そもそも景久が広橋に仕えたという史料も存在しない 高虎より遡る一族にも駿河守を名乗った一族は皆無である 例外的に 公室年譜略 の系図で景久の兄として記される 藤堂景豊 は同系図で 能登守 であるが 歴名土代 にその官途は見られない。
その為に 景豊を 兵庫助 と解釈することも可能ではあるが 景久も同様に官途が記されていない点を踏まえると 今一つな解釈である。
景豊 景久の官途については 公室年譜略 の系図に理があると考えている

今回紹介した人物のまとめ表
西暦名前所属等
1456九郎左衛門京極勝秀
1479兵庫助景教広橋家か?
1480筑後広橋家
1481筑後守広橋家
1486備前守京極政経 材宗
1510九郎兵衛尉近江衆
1534備中京極高清か
1540九郎左衛門尉家忠六角定頼か また高虎祖父か
1554源助虎高か
1562~1569九郎左衛門浅井氏 高虎祖父もしくは虎高か
1569九郎左衛門高虎祖父もしくは虎高か
1569 頃か兵庫助織田になるのか
終わりに

今回の紹介は以上である。
今回出典とした 上部家願祝簿 現在私が調査を行っている 言継卿記 には 更に多くの藤堂氏が登場する。
室町期の藤堂氏は 長享の族滅 で規模が縮小していたように考えていたが むしろ長享以後の方が藤堂氏は活発に活動しているようにも見える。

これらの藤堂氏を網羅することは 藤堂高虎がどのような環境下に生まれたのかを知る手立てとなる。私はこれまでそのように考えてきた。
しかし
藤堂氏を知ることは 戦国近江を知ると同時に 室町時代の公家社会を知る事が出来る
とも言えるのではないかと この師走にしみじみ感じるのである。

浅井氏三代 の中で 著者の宮島敬一氏は 東浅井郡志 からの引用として藤堂氏を 中郡の名家 と評した。
私にとっても 今年視野 世界を拡げるきっかけをくれた藤堂氏は まさに 中郡の名家 なのである。