二〇二一年十二月の更新履歴とオマケ
一年というものは本当にあっという間ですね。今年のおまけコーナーは大和豊臣家の家臣概覧です。
date: 2021-12-31
更新履歴
十二月七日
『高島郡司磯野員昌の実像』 を公開。着想から執筆まで一ヶ月弱でした。
『信澄 (信重) 生涯目次』 では系図のスタイルを変えました。箇条スタイルだと少し幅を取ってしまうので、 どうにか変えたかったのです。系図の部品は様々な系図を参考にしました。諸先輩方に感謝です。
また生涯記事では、 見出しそれぞれに日付を入れました。さらに少年時代については 「生まれてから天正まで」 としました。同記事には元亀争乱の項に多胡書状を掲載していましたが、 これを削除しました。ただ勿体ないので来年、 何処かのタイミングでこれを利用した記事を書きたいところです。
「天正初期」
杉谷善住坊逮捕、 横山殺害について西島太郎氏 『戦国期室町幕府と在地領主』 の影響を受けた内容になりました。
また茶会と蘭奢待の項にも見出しに日付を入れました。更には信忠の改名について箇条を解除。亀岡市のサイトへのリンクが切れていたので URL を治しました。
「天正中期」
高虎色を薄めました。また大山城攻めの時期を光秀書状から検討。更に安土宗論の見出しに日付を明記。朽木元綱の代官罷免については此方も西島太郎氏の 『戦国期室町幕府と在地領主』 を参考に記述を充実させました。
「天正後半」
川原林文書に見える新庄について、 三方説も入れてみました。結局のところよくわかりません。また最後に付録として信重文書を一部掲載していましたが、 これを表にしました。
「家臣団」
永田左馬助について六角遺文をもとに検討。田屋氏、 井関氏、 吉武氏をシンプルな構成に。また概ね関係性の薄い今井氏と岩脇氏を削除しました。
「家臣団雑感」
創作の家臣に里見小才助を移動、 また林光之兄弟を新規に加筆。動員力についても西島太郎氏の 「戦国期室町幕府と在地領主」 を参考にしてみました。
十二月二十一日
神田沙也加さんについてブログを更新、 またアニメ遍歴のアイプラ項を見直し加筆を行いました。
十二月二十四日
ブログのヘッダーメニューにサイトトップを追加。
雑録
少しずつ元の世界が戻ってきましたね。ただまだまだ国外に出るのはリスクがあるそうです。気が抜けませんね。
さて先にスポーツの話をしましょう。
オリックスはリーグ優勝と日本シリーズ進出。これで来季はマークがより一層キツくなるでしょうね。そこをどうにか勝ち抜きたいところです。
太田涼や両佐野、 西野、 本職外野手内野手、 ルーキーズが活躍すると嬉しい。
グランパスは ACL でベスト 8、 ルヴァンカップで優勝、 リーグでは終盤の停滞で 5 位フィニッシュでした。強化トップの大森氏が退任し、 マッシモ ・ フィッカデンティ監督も揃って退任。
果たして長谷川健太 ・ 山口素弘 ・ 黒部光昭体制がどう転ぶのか。前田が抜け、 仙頭が入って、 この先どんな選手層になるのか。まあね一先ずは残留して頂ければ有り難い。
また前体制では高卒 ・ 大卒選手の獲得が上手くいかなかったところがあるので、 この部分を改善して欲しいですね。そこにユース組を巧いこと活かして欲しいです。
で、 ギラヴァンツ北九州さん。
まずはコーチを固めないといけないし、 復帰濃厚の針谷、 復帰もしくは移籍濃厚の髙橋大悟に替わる選手をどうにか獲得せねばなりません。
とかく強くてデカくて巧い選手を。特に来季の J3 では浦和レッズの遺伝子を得た FC 岐阜、 大嶽監督が就任した鹿児島ユナイテッド FC、 圧倒的フィジカルを誇るいわき FC が要注意ですから、 そうしたところに負けない事を考えると、 三点を持つ選手が来て欲しいところです。
幸い小林伸二さんはクラブに残るので、 選手層構成はそこまで心配ないと考えていますが些か楽観的でしょうか。天野賢一さんも浦和時代にその実力をよく知っているので、 楽しみなんですよ。
とにかく 2025 年の J1 昇格と私は勝手に言っているので、 どうにか先ずは J3 優勝か 3 位以内を目指して欲しいところであります。
大和豊臣家の家臣団概覧
現在製作しているものが片付いたら、 次は大和豊臣家について纏めてみようと考えています。これはその見本で、 どう活かすか年明けゆっくり考えていきたいです。
出典としては基本的に 『和歌山県史』 を参考にしています。これは播磨良紀先生が 1994 年と早い時期に、 多聞院日記や駒井日記を中心に秀長秀保親子時代の通史をわかりやすく纏めて下さったことが大きいです。恐らく播磨先生が記す予定という秀長叢書も、 この和歌山県史の内容が中心になると踏んでいます。
そうなると私なんぞが、 このように書き起こすのもおこがましいものですが、 自分なりに蒐集した家臣も居りますから是非とも紹介したいと思いました。
2023-0211 追記
二年間で史料が集まり、 以下の情報は古い情報ですので御注意ください。
具体的には羽田正親、 桑山重晴については史料蒐集が、 中島政長については前歴が、 渡邊豊前については前歴と 「渡邊豊前で正しいのか?」 という疑問が、 それぞれ集まりました。
また今後記事にしていくのでご期待下さい。
重臣
名前 | 職 |
---|---|
横浜一庵 | 筆頭 |
羽田正親 | 山奉行兼 |
桑山重晴 | 和歌山城主 |
藤堂高虎 | 山奉行取次等兼 |
横浜一庵
横浜一庵こそが秀長 ・ 秀保の筆頭家老である。
その名は天正十七年(1589)九月まで一庵、 また混ざるが二月から大蔵卿法印、 天正十八年(1590)四月から五月に一庵法印、 七月から一晏を名乗ったと和歌山市史研究 14 の 『一晏法印なる人物について (播磨良紀)』 には記されている。
また歴史手帖 19 巻 3 号に収まる 『大和郡山城代横浜一庵について (寺沢光世)』 によると諱は 「良慶」 とある。読みは 「よしちか」 「よしのり」 などと考えられるが、 僧体である事を踏まえると 「りょうけい」 とも考えられる。
史料編纂所データベースで検索すると文禄二年(1593)五月二十九日に 「大蔵卿法印嵐慶」 (紀伊続風土記編纂史料)、 某年六月十四日に 「大蔵法印亮俊」 (法隆寺文書) とそれぞれ小堀新助との連署が見受けられる。このように一庵と小堀新助は一体となって大和豊臣家を運営していたのである。
時に一庵の出自は近江の湖北ではないか。『滋賀県の地名』 で探すと、 どうやら 「今浜 (長浜)」 の近辺には 「横浜」 なる地名が存在ようである。また一庵の妹婿には竹生島奉加帳に名前がある四木甚左衛門が居るらしい (天正二十年没という)。
更に検地奉行として名を馳せた小堀新助とは入魂である点からも、 一庵と近江の関わりを見出す事が出来る。
一庵の妻は藤堂氏が有名だ。これは 『公室年譜略』 の系図を読むと、 但馬で没落した長連久の娘が、 粉河の主藤堂高虎の養女として嫁いだと記される。『藤堂姓諸家等家譜集』 によれば兄の弥次郎も一庵に仕えたそうだが、 妹と共に仕えたのだろうか。また彼女の兄弟と姉は宮部家へ入り、 兄弟は宮部杢之助 (木工) を名乗ったそうだ。また姉は継潤の側室との伝承もあるが定かではない。なおこの姉こそ、 後の高虎側室 「松寿」 である。
後年藤堂家には 「横浜内記」 が仕えているが、 彼は一庵の孫とも弟の子とも伝わる。すなわち横浜氏を語る上で、 藤堂氏の存在は欠かせないのである。また寺沢氏の指摘する小堀氏との関わりでは、 後年 (慶長頃) 藤堂高虎の養女が新助の子 ・ 正次の妻となっている。彼女は秀長の旗本藤堂少兵衛の孫娘で、 その父は秀次に仕えた玄蕃である。系図だけ見ると、 ここで横浜氏と小堀氏は藤堂高虎を介して相婿の間柄となったのである。
また正次の弟 ・ 正春を産んだのは新助の側室とされるが、 一説には一庵の娘らしい。
羽田正親
羽田正親は長門守で知られる。県史に依れば天正十三年(1585)に 「羽田忠右衛門」 「羽田忠兵衛」 が見られる。また 「羽田忠右衛門」 は 『久政茶会記』 に見られるそうで、 正親の通称は何れかと思われる。
彼は出自から年齢まで謎に包まれている。「羽田」 という名前を考えると近江に存在するから、 彼もまた近江から出てきた人間なのだろうか。(羽田はかつて広橋家領で、 藤堂景盛が代官をしていた) また名字の読みは 「はねた」 とする説もある。
妻は不明ながら 『輝元公上洛日記』 には 「羽田傳八 (長門守子)」 が記されている。
吉川平介、 藤堂高虎と共に 「山奉行」 を務め、 赤木城は羽田と藤堂の合作とする向きもある。
桑山重晴
桑山重晴は但馬以来の家臣である。元は丹羽長秀に仕えた男で、 尾張から天正前後まで従っていたが、 あるときに羽柴家の与力へ転身した。秀長との縁は此所から始まり、 以降は軍事から内政まで多岐にわたり秀長のサポートとして活躍した。
巷説、 賤ヶ岳を守った際に 「丹羽家家臣」 と記されることが多いが、 天正十年(1582)六月に杉若氏と共に丹波に禁制を発行している点から誤りと指摘できる。
諱は重晴が知られるが和歌山市史研究 15 の 「再び桑山重晴について (播磨良紀)』 によると 「重勝」 という諱を名乗った事もあるようだ。杉若氏との禁制が 「重勝」 名乗りである。通称は 「修理大夫」、 秀長の没後は 「治部卿法印」 を名乗る。
藤堂家の系図に依れば二男元晴の妻は藤堂高虎正室 「久芳院」 の妹にあたるようで、 後に娘が高虎の養女となっている。すなわち高虎と元晴は相婿の間柄で、 此方でも秀長家中に於ける高虎の存在感が強い。
藤堂高虎
以上のように大和豊臣家は藤堂高虎が中心にあったと考えても良いだろう。高虎の台頭というのは、 ひとえに理解ある上司秀長と本人の才覚という部分で語られることが多いが、 彼が桑山氏と横浜氏に仕掛けた婚姻戦略も興味深いところであるが、 婚姻の時期が不詳であるから如何ともしがたい。
藤堂高虎の仕事は多岐にわたる。
天正六年(1578)頃まで高島大溝の織田信重に仕えていた彼は、 ある時期から羽柴家へ転身すると天正八年(1580)頃に但因国境の警備として大屋警備を任じられるが、 残念ながら但馬での発給書状は見られず、 その実態を家伝以外から見るのは不可能に近い。
最初は武官としての仕事を熟していたが、 高山公実録に収まる 『高山公言行録』 によれば天正十一年(1583)の有子山城普請に関わったようで、 現在積まれている石垣は高虎が積んだとの説が有力視されている。ただ此方も実状は定かではない。
天正十三年(1585)に粉河五千石の主となり、 一説には和歌山城の築城に奉行として携わったとされる。
このようなところで彼は 「普請奉行」 として頭角を現したのだろうか。そういえば家康との縁として聚楽第普請も思い浮かぶ。
同年には四国攻めが行われ、 ここでも武官として武功がある。
四国攻め終結後には戦後処理として長宗我部元親の上洛に尽力。人質の元親三男 ・ 津野親忠とは入魂になったようだ。こうした仕事は 「取次」 に含まれようか。取次の仕事としては他に島津忠豊との関わりも重要である。
また奉行としての仕事も存在する。吉川平介、 羽田正親と共に 「山奉行」 を務め、 材木の切り出しを行う傍らで一揆鎮圧の拠点として赤木城を整備すると北山の住人を殺戮した。
こうした紀伊での活動を見ると、 高虎や桑山重晴を 「紀伊衆」 に数えても良かろう。
藤堂高虎は元来の武勇に加え、 各奉行、 取次役を堅実に熟すことで地位を確立した。横浜氏、 桑山氏との婚姻戦略は時期が不明なので深く語ることはしないが、 高虎の地位上昇に寄与した可能性は考えておくべきだろう。
秀保下では小山助之丞宛の軍役に関する書状、 陰陽師調査などを担当している。また文禄三年(1594)三月二十八日には算用調査の為、 紀州より急ぎ上洛している。このとき秀吉に呼び出されたのは、 高虎の他に秀保当人、 羽田正親、 桑山重晴で、 ここにその地位の高さを見出すことが出来る。
また変わったところでは天正十六年(1588)六月に秀吉の命を受け、 寺沢志摩守と共に長崎へ奉行として派遣されている。先に紹介した寺沢光世氏の論考 「大和郡山城代横浜一庵について」 では、 この長崎派遣を鑑み 「高虎は与力」 と述べられている。確かに一理ある論考であるが、 この長崎奉行の一件のみでは計れないと思うところだ。
ただ与力という立場であれば天正十年(1582)頃までの桑山と高虎は与力ではないかと思うところがある。根拠はない。
奉行
名前 | 職 |
---|---|
井上源五 | 南都奉行 |
小堀新助 | 検地奉行 |
吉川平介 | 山奉行 |
奉行では他に羽田正親、 藤堂高虎も居るが、 既に記しているので割愛している。
井上源五
井上源五は奈良の代官として活躍した。代表的なものとしては奈良の商人に強制的に高利貸し付けた 「奈良貸し」 だろう。彼は過分徴収を私的に行ったと 『落日の豊臣政権 (河内将芳)』 には記される。
奈良貸しにより殺害事件や自害、 一家心中、 一揆の噂など治安は一気に悪化。井上源五は治安を回復させるために、 こうした首謀者を捕らえると牢へ押し込め、 更に不満のある町人を郡山へ送り、 女房衆の身柄を捕らえた。
天正二十年(1592)、 こうした井上の苛烈な圧政は秀吉のもとへ直訴され、 秀吉も奈良町人の訴えを全面的に認め、 郡山へ送られた町人の身柄は解放された。しかし特に井上が処罰されることは無く、 慶長五年(1600)に亡くなるまで奈良を支配したらしい。
さて井上の諱は何であろうか。落日の豊臣政権、 奈良市のホームページでは 「高清」。大日本史料データベースで調べると、 筒井家記を出典として 「源五郎定利」 と記されている。何方が正しいかはわからない。しかし 『久政茶会記』 には 「井上源吾」 と天正十三年(1585)十二月二十二日に出てくる。諱には拘らない方が良いだろう。
また和歌山県史によると、 代官所が 「中坊」 に置かれたことから 「中坊源吾」 とも記されることがあるという。
小堀新助
小堀新助は検地奉行として活躍した秀長無二の腹心である。
近江から出た人物で諱を 「正次」 という。
小堀氏の解説本としては太田浩司先生の 『テクノクラート小堀遠州』 が詳しい。
また小竹文夫氏の論考 『但馬播磨領有期の羽柴秀長』 も参考になる。
二つの文献を紹介したのは新助が大和以前から秀長 (長秀) の側近として活躍していた点を示す為である。
天正八年(1580)から天正十二年(1584)まで、 但馬や播磨で書状発給が見られる。
天正十三年(1585)頃から検地奉行としての活躍が見られる。「田勝介」 なる人物が新助の家臣 (内衆) だろう。
横浜一庵との連署が幾つか見られるのも重要で、 秀長の発病後から秀保への移行が滞りなく行われたのは両人の能力の高さによるものだろう。
吉川平介
吉川平介は山奉行とされる。多聞院日記では 「平介」 とある。吉川姓は当時在京していた島津義弘が国許の家臣に宛てた書状にある 「吉川平助」 が元となる。
山奉行とは要は黄金に変わる紀伊の材木を管理する役柄のようで、 吉川平介はそうしたところで私腹を肥やした。
この時代畿内洛中では大仏造営などで材木需要が高まっており、 秀吉が弟を大和紀伊に配したのは厳密な管理を求めたのだろう。
だからこそ秀長も信頼の置ける羽田、 藤堂、 そして吉川平介を山奉行に据えたのだろう。多聞院日記によると雑賀を拠点にしていたようだ。
しかし吉川平介は天正十六年(1588)に熊野材木二万本の売り上げを過分に着服した。その罪科が秀吉の知るところとなり、 十二月五日西大寺に於いて処刑されたのである。
多聞院日記によると吉川平介はかなりの暮らしをしていたという。普通に考えると着服した金を活用していたのだろう。
多聞院日記には秀長が面目を失い金子七百枚を持って上がったとある。これは釈明のために上洛したのだろうか。そうなると金子七百枚という数字は、 平介の着服額になるのでは無いか。
秀長薨去の折、 多聞院日記には多額の蓄財が記されている。奈良貸しも豊臣政権の事業のように語られるが、 始めたのは生前の秀長である。先に 「信頼の置ける」 と表現したが、 秀長の信頼とは彼自身の都合によるものである。
結局のところ材木不正事件は吉川平介の処刑で済んだ。しかし翌天正十七年(1589)正月、 秀長は大坂城での年賀行事への列席が認められず、 とぼとぼと大和郡山へ帰城したようだ。
取次
名前 | 取次先 |
---|---|
福智三河守 | 大友、 島津 |
疋田九兵衛 | 吉川、 島津 |
疋田右近 | 大友 |
取次は秀長と大名を繋ぐ仕事で、 藤堂高虎は戦後処理で長宗我部元親、 島津忠豊を担当している。
福智三河守
福智三河守は大友氏や島津兵庫を担当した。その諱は長通というらしい。
疋田九兵衛
疋田九兵衛は吉川広家や大友氏を担当した。その諱は就長や就言と言われるが、 黄薇古簡集の正月十七日書状には 「九兵衛就言」 とあるから後者が彼の諱だろう。
疋田右近
疋田右近も大友氏を担当した。彼は他に取次の仕事は見られないが、 変わったところで天正十七年(1589)九月十七日には、 鞍馬百姓中に対する秀長折紙を、 加藤光泰と共に担当している。同書状に 「右近大夫就茂」 とあることから諱は 「就義」 なのだろう。しかし大友義統へ宛てた福智三河守との連署には 「就義」 と記されている。一体何方なのだろう。
疋田右近は史料に乏しいが、 慶長十年(1605)に宗湛日記に現れるほか、 藤堂高虎に家臣を紹介した人物にも名を連ねる。また西嶋八兵衛と共に疋田右近も派遣されたとある。恐らく天正年間に活躍した就茂 ・ 就義の子だろう。
元和三年(1617)に寺町氏を高虎に紹介している事から、 同年以降に自身も高虎の家臣となったのだろうか。
さて輝元公上洛日記には 「福知三河守」 や 「疋田九兵衛」 「疋田九郎兵衛」 を見ることが出来る。また 「疋田半吉」 なる人物は九兵衛の子であるようだ。
諸大夫
名前 | 官名 |
---|---|
福智政直 | 三河守 |
藤堂一高 | 宮内少輔 |
中島政長 | 信濃守 |
渡邊豊前 | 豊前守 |
大和黄門秀保が行った施策の一つが、 有力家臣の 「諸大夫成」 であろう。
桑田忠親翁が戦前に発表した 『羽柴秀保につきて』 では、 某年卯月五日に秀保が藤堂佐渡守に対し 「渡邊須右衛門ら両人を諸太夫になしたく候」 と兄秀次へ取りなすように頼んでいると紹介されている。(この書状には 「直傳八事」 とあるが、 羽田の息だろうか)
こうしたところの裏付けとなるのが 『豊臣期武家口宣案集』 である。
福智政直
まず天正二十年(1592)一月十八日、 福智政直が従五位下三河守に任じられる。このとき政直は豊臣姓を与えられたようで 「豊臣政直」 と表現も出来るだろう。
恐らく政直は福智長通の子息と考えられる。彼が死去もしくは引退したので政直が三河守を継いだのだろう。勿論長通のその後である可能性も残しておこう。
藤堂一高
文禄二年(1593)十二月八日には従五位下宮内少輔に任じられた 「豊臣一高」 なる人物が登場する。その本姓は藤堂氏とあるから、 彼は高虎の養子である 「藤堂高吉」 と見て間違いないだろう。
元々は丹羽長秀と側室杉若氏の間に生まれた仙丸で、 秀吉と丹羽家の 「同盟」 に際し秀長の養子として送り込まれた人物である。その後羽柴秀保が秀長の跡目になると、 彼は高虎の養子へと相成った。それが天正十六年(1588)頃の出来事で、 十五歳となった彼は文禄の役で初陣を迎えた。
文禄二年(1593)のこの時期は役が一段落した頃で、 一種の論功行賞で任官されたと考える事が出来る。父の高虎も島津攻めでの功績から 「佐渡守」 に任じられ、 その諱も使うようになった例がある。
然りとて家譜では藤堂家への養子入りと同時に 「従五位下宮内少輔」 へと任じられたとある。これは如何なる事か、 今の私では断言するには至らない。
また 「一高」 という諱も興味深いが、 口宣案集以外で見られないのが残念である。
現存書状を見ると最低でも慶長十四年(1609)には 「高吉」 という諱に改めているようだ。
中島政長
文禄三年(1594)八月二十二日には中島政長が信濃守に任じられた。ただ翌年四月に去官とあるが秀保薨去の影響だろうか。ただ諸太夫の一覧表には以降も政長が記されている。これは誤植か便宜上、 はたまた隠された真実なのか定かではない。
渡辺豊前守
さて秀保が 「渡邊須右衛門等」 の諸太夫成を秀次に依頼した書状は、 某年卯月五日である。桑田忠親翁はその年代を、 秀保が名護屋に在陣していた文禄三年(1594)と比定した。
こうしたところで口宣案集に渡邊が載っていれば良かったのだが、 残念ながらわからなかった。
ただ秀保没後 『駒井日記』 に載る大和衆牢人には横浜、 羽田、 藤堂等と並び 「渡辺豊前守」 の名前がある。これが 「須右衛門」 が 「諸太夫成」 した姿と見ている。
なお秀保に関わる渡辺氏では、 大和郡山市が著したシリーズ郡山の歴史 『豊臣秀長』 にて、 秀保の書状に 「渡辺彦右衛門」 が見られる。そうなると三者は同一人物とも考える事が出来るが定かではない。
考えるに秀保の諸太夫成というのは、 次世代の重臣、 秀保直属の軍団を育成する目的があったのだろうか。
さて口宣案集に見られる秀保の関係者には 「多賀出雲守 (中原秀家)」 も存在する。しかし彼は天正十六年(1588)に出雲守を任じられているが、 これは秀保の諸太夫成では無く兄 ・ 秀政の影響が強いと見え、 さらにいえば名門多賀氏の復活演出とも言えようか。
大和衆
名前 | 居城等 |
---|---|
本多因幡 | 高取 |
宇多下野 | 不詳 |
多賀出雲守 | 宇陀 |
多賀吉左衛門 | 曽我 |
多羅尾玄蕃 | 不詳 |
羽田正親も一説には宇陀を治めたというがよくわからない。
曽我を得たのは多賀吉左衛門の父とされる新左衛門 (通称常則) の代と 『寛政重脩諸家譜』 には記されている。実状は不明。
多羅尾玄蕃は若江三人衆として名高い男である。そんな彼を久政茶会記にて見ることが出来るようだが、 大和豊臣家における動向は不勉強につき定かではない。
紀伊衆
名前 | 居城等 |
---|---|
杉若無心 | 田辺 |
堀内氏善 | 新宮 |
小山助之丞 | 熊野 |
敢えて除外したが桑山が和歌山、 藤堂が粉河を治めている。
杉若は朝倉遺臣で三男仙丸の外祖父である。羽柴家に至るまで謎に包まれているが、 天正十年(1582)六月には桑山重晴と共に丹波へ禁制を発給している。更に最近では本能寺の変直後に、 杉若が細川重臣松井康之と連絡を取り合っていることが明らかになった。
そうなると元々は桑山と共に丹羽家にあったが、 ある時期から羽柴家に転身したと考える事が出来るが、 実際のところはどうであったのだろう。
ここで列記した三名は何れも水将 ・ 海将である。小山助之丞は高虎より軍役に関する書状を天正十九年(1591)九月十六日に受け取っている。これは 『紀伊続風土記三巻』 に収められているが、 某年六月十日には 「小山式部大夫」 に対しても、 ほぼ同じ内容の書状が送られている。
大和衆、 紀伊衆はこれ以外にも存在する。例えば筒井氏に従っていた岸田氏である。後に藤堂高虎に仕えた面々が何人か居るため、 探すに容易であるから本公開では載せてみるのも面白いだろう。
その他
名前 | 概略 |
---|---|
桜井家一 | 不詳 |
高林寺 | 大和衆か |
曲音 | 茶頭 |
池田伊予守 | 有力家臣 |
小川左馬 | 祐忠か息か |
藤堂内膳 | 高虎族か |
福島兵部少輔 | 福島正則縁者か |
野田半左衛門 | 不詳 |
安芸忠左衛門 | 不詳 |
尾崎喜助 | 不詳 |
堀田弥右衛門 | 不詳 |
富田源左衛門 | 不詳 |
わからない人間が多い。
これらは和歌山県史に載る人物で 『駒井日記』 にて秀保薨去の後、 去就未定となった 「大和衆牢人」 と表現される面々も含まれる。
『輝元公上洛日記』 には更に人名を蒐集できるが、 表現のブレが激しいため少し疑問を抱いている為に除外している。
桜井家一
まず桜井家一は天正八年(1580)但馬に於いて小堀新助ともに内政を担当した人物である。その当時の通称は 「左吉」 で、 後に 「和泉守」 を称す。
彼は賤ヶ岳の戦いで功を上げたようで、 九人目の七本槍として語られることが多い。
しかし大和や紀伊での動向は一切不明で、 僅かに天正十六年(1588)の 『輝元公上洛日記』 にて 「櫻井和泉守」 が見られるのみである。その享年は文禄五年(1596)らしい。
ところで後年藤堂家の重鎮として活躍した藤堂采女に関しては、 藤堂家研究を長くリードしてきた故久保文武翁が著した 『伊賀史叢考』 が詳しい。その中で初代藤堂采女の兄 ・ 保田則宗の妻が桜井家一の娘という。これは 『寛政重脩諸家譜』 にも掲載されている。そういえば則宗の父繁宗は秀長に仕えたと諸家譜には記されている。
伊賀史叢考によれば、 どうやら家一が亡くなった後に妻子は秀吉が引き取ったらしい。また家一の娘が則宗に嫁ぐ際、 藤堂高虎の養女として嫁いだとも記されている。なかなか面白い説である。
二人の間に生まれたのが幕閣として活躍した 「保田宗雪」 である。どうやら宗雪は若狭守であったらしい。公室年譜略に見られる 「保田若州」 とは宗雪のことだろう。
高林寺、曲音
和歌山県史では高林寺を大和衆としているが、 奈良市に同名の寺が存在するため、 其方の関係者と考えている。
曲音は秀長の茶頭と解説されている。
池田伊予守、小川左馬
池田伊予守は 「池田秀雄」 の事で、 小川左馬は 「小川祐忠」 もしくはその子息や縁者との可能性がある。
この二人は本能寺の変で明智に与した人物だが、 池田は天正十五年(1587)頃になると茶会に名を連ねている。また奥村哲氏の 『豊臣期-武将の軌跡–多賀秀種の場合』 には、 某年十一月十九日に池田伊予守、 小川壱岐守、 多賀信濃守の三名が連名で秀長から書状を受け取っている。左馬助は小川壱岐守本人もしくは族、 多賀信濃守は大和衆多賀秀種の養父である。
藤堂内膳
藤堂内膳は高虎の一族とみられるが詳しいところは定かではない。変わったところで後年藤堂家で活躍する 「藤堂三郎兵衛」 なる人物の解説が 「始内膳」 であったり 「某内膳子」 とするものがある。そうなると大和衆牢人に見られる藤堂内膳こそ、 藤堂三郎兵衛の父では無いかと考えている。
残りの人物はお手上げだ。無理です。暇になったら調べていたいが、 探すアテすら見当たらない。至難である。
それでは皆さん、 良いお年を。