2026甲良巡検記

日々 行ったことのない地域に関して書き連ねてきた。
しかしながら これは 行けていないだけ なのであって ようやく一昨年ぐらいから滋賀を訪問できるようになった。
その中で甲良は最優先地点であったのに 先に高島 多賀を優先したことで 2026 年になってようやく訪ねることが出来た。

甲良を訪ねる理由

これまでに様々調べてきたが 甲良で見てみたいと思っていたのは次のような点である。
まず甲良からの山の見え方。これは天文年間に中郡を敵として京極六郎が 男鬼入谷 に拠点を設けたことについて 甲良から同山地はどのように見えるのかこの目で確かめてみたかった点。
次に厳冬期における甲良の寒さを体験したいという点で これは天文四年正月と比定されている北郡方 京極浅井 の多賀貞隆攻めにおける温度感を数年来気になっていたことに依る。特に 言継卿記 で合戦が起きたとされる日付を見ると 京都では雪が降っていた。このことについて 京都で雪が降った場合 滋賀も降るのか SNS で投げたところ JPCZ であれば有り得るとの助言を戴いた経験を持つ。だから JPCZ が到来している時期に甲良へ行きたい思いを温めてきた。

三つ目は最近興味を持ち始めた甲良の水路である。これは せせらぎ遊園のまちづくり として平成時代に評価された甲良の姿を 自分も見てみたくなった点が大きい。地下パイプラインから以下にして地上に出ているのか どのように流れているのか 割取の姿は 等など。

そのように考えていると公共放送のドラマに高虎がそれなりの扱いが為されることが漏れ伝わってきた。そうなると私は元来人混みは得意でないので それなら話題になる前に行かなあかんなあ となった。

ところで滋賀県方面に寒気が流れた際に雪の多賀大社を写した写真を見たことがある。多賀大社は公式アカウントがあるので 多分それで見たのだろう。
1 22 日の寒波 JPCZ ではやはり多賀にもそれなりのまとまった雪が降った。人間欲張りなもので 24 日に甲良を訪れる際に見られたら最高だよなあと思った。

服装

ここで服装について書き記しておく。
12 月に伊賀へ墓参りした際 昼頃からの寒さによって全身が冷える体験をした。一応のところ当時最も暖かいであろう服装をしていたが やはりアンダーが綿では難があったし 暖かいと評判の裏起毛ジャケットも防風性能と起毛が裏目に出て熱が籠もることで冷えが生じてしまった。
このあたりは 2024 年のクリスマスに購入してから自転車で使用していた際に 器用貧乏だなあと感じていた通りだった。

その後 一番温かいとされるメリノウールのインナーを購入し一ヶ月使用して効果を実感。伊賀でも着ていったメリノウールのカーディガンと組み合わせることで 関東平野の冬でも太陽の下であればこの二枚に学生以来愛用しているメリノウールベストを加えればでも温かさと共に通気性が程よくあり 冷たさもまた快適と感じる上半身装備を構築することができた。
自転車でも上からウィンドブレーカーを羽織れば寒くもなく暑すぎない装備になって良かった。
私が夏以降懇意にしているこのメーカーは メリノウールにそこまで厚くないダウンを推奨していた。それでもダウンにも様々製品があるし 心拍数を高める歩き方をしているので熱くなりすぎない製品ないかなあと メーカーに質問したところアクティブインサレーションが良いとの回答をいただいた。
実は裏起毛を購入した後に調べたところ これよりもアクティブインサレーションの方が良かったとの書き込みを目にしていて気になっていた。

そこで地元校の登山部も頼るらしい石井スポーツで色々聞いた結果 マウンテンハードウェアのアクティブインサレーションを購入した。
ただサイズが難しく 何故かレディースの M を買うことになった。裾はちょうど良いが首は窮屈となっている。まあネックウォーマーを着けるなら完全に閉めなくともよいが。
素材は帝人のオクタというのが良いらしいと目にしていて 選ぶ基準となった。購入したものにはオクタからプリマロフトまで全部入りである。こうした最新素材の恩恵は窮屈だと思った首元にもあって 今回の巡検後に試してみるとネックウォーマーが無くても温かく過ごせている。
少し走れば空気が通過し 脇を広げると更に空気が入る感触がする。
さらに最新素材の恩恵で 中綿が入っていなくとも動けば温かくなる。何より格段に経量化したのが良い。
なお購入して一ヵ月もすれば背面メッシュはバックパックとの擦れで素材表面が荒れてきた。果たして何シーズン使えるのだろうか

下半身防寒

なお下半身については課題が残る。これは石井スポーツで探した登山パンツのサイズのせいでもあるが 股部分はメンズの S が丁度良いもののウエストがぶかぶかで 逆にレディースではウエストは丁度良いのに股がきつかった。
結局これは保留にして 年末に購入した裏起毛のパンツ つまりジャケットのセットアップを履いていくことにした。
しかしこの裏起毛 行動中は特に気にならないが電車など暖房が効いた環境では暑すぎる。
改めてこのシリーズの器用貧乏さを感じる。ベンチレーションの一つでもあれば違うのだろう。

そうしたところで学生時代に購入したのに持て余していたウールのスラックスも候補だった。このスラックスは最近仕事着として使っており どうせなら使い倒してやろうと企んでいた。こいつは通期性があって にわかに暖かくなるのが良い。起毛と違い熱すぎると言うこともない。ただ寒さ対策という点では些か薄く役不足感は否めない。
この辺りは同じアクティブインサレーションが良いのか 研究の余地がある。

靴下・手袋

靴下も悩んだが とりあえずネックウォーマーで実力を発揮しているミズノ ブレスサーモの靴下を買って履いた。とりあえず大きな問題はなかったが 後述するように寒い環境で止まっていると実力通りとはいかなかった。
手袋にも悩んだ。昨冬に 次の冬はブレスサーモにテムレスだな と考えていたが 店で試すと少々カフが長く fitbit が見にくいのではないか と思って躊躇した。普通の青色のテムレスは売っている場所が探す暇が無く冬になってしまった。
とにかくブレスサーモのインナーグローブだけでは寒く モンベルで良さげなクリマプラスの ウインドシェルグローブ を購入したが そこまで温かくもなく正直失敗したと思った。
そうして慌てて旅直前に石井スポーツ適当な手袋を購入した。これでとりあえず何とかなったが 手袋も沼だなあと感じる次第である。

シューズ

そして雪への対策で最も重要なのが足下だ。経験上 関東地方の 3cm 程度までなら手持ちのアシックスウォーキングシューズで十分だが ロードネット滋賀のライブカメラを見てみると歩道の除雪がされていないことがわかり若干の不安があった。
そうなると雪対応シューズが必要となるが 正直財政的余裕はない。さてはてどうしたものかと思案していると 学生時代に折りたたんで持ち運べる バードウォッチング長靴 を購入していたことを思い出した。
そこまで使った頻度は多くないが 取り出してみるとサイズが L サイズであることを除けば 使用に問題は無さそうなのでとりあえずバックパックに入れておいた。
これは膝下まであるので 余程の雪ではない限り乗り越えられると思っていたが 事実その通りだった。
また申し訳程度のソールでクッション性能など皆無であったが そもそも学生時代は薄底派だった自分には大して苦でも無かったので良かった。ただ L サイズは大きいので 何処かのタイミングで野鳥の会のショップを訪ねてみようと思う。

甲良巡検当日

当日 ちょっと早めに家を出て早い電車に乗ると ちょうど名古屋でこだまに接続するのぞみに間に合った。米原までの早特 自由席特急券があるので乗ることができる。幸いにも閑散期だけあって自由席の窓際に座れたので良かった。
さあこれで米原に 彦根に早く着くぞ。これなら多賀大社にも寄り道することができる。やったー。

早く着く

しかし多賀線を利用して折り返し高宮から尼子へ行こうとしても 折り返しの高宮行きには間に合わない。そうなると尼子へ向かう時間が遅くなってしまう。
どうしようかと地図アプリと睨めっこしていると そういえば昔の多賀道というのは甲良から金屋を通り 敏満寺へ抜けるルートがあったなあと思い出す。
現代ではこのルートからちょっとズレながらも国道が整備されており 甲良町観光の拠点となる 道の駅せせらぎの里こうら へ出ることができる。ちょうど昼食にも悩み 当初の計画ではコンビニの肉まんぐらいだったので 少々長い距離を歩くことになるが昼食をアップデートすることができるのは悪くないと考え決行を決意した。

8 39 のぞみ 107 号広島行き(N700A/G27)は名古屋へ到着。到着前に車掌氏に訊ねたところ 米原での乗り換えならちょっと後ろが便利ですね と言われたので 2 号車から 5 号車付近まで急ぐ。そうして 41 こだま 757 号新大阪行き(N700+A/X70)はのぞみを追うように名古屋を出る。
岐阜羽島手前で山並みを見ると鈴鹿山脈には雪が見え 白く染まった山も見えた。最初は御在所か?とも思ったが今にして思うと藤原岳であったかもしれない。
岐阜羽島を出ると難所の関ヶ原。恐らく人生でもこの時期の関ヶ原を越えるのは二度目ぐらいだったので 遅れても良いから動いてくれと念じていたが 寒波の間の晴れ日で通常通りの運行となった。ただ関ヶ原の町は白く そしてトンネルを抜けるとそこは雪国であった。

米原~彦根

米原に降りるとひんやりとした空気が身体を包む。そのなかに柔らな日差しがあってこれぐらいなら 30 分も歩けば温かくなると見た。幸先良さそうに思える。
乗り換えで近江鉄道のホームを見ると既に貴生川行きが止まっていた。これに乗る手もあったが 彦根で緊急用の補給食を買っておきたかったので ちょっと交通費の節約にもなるし まずは先に JR 始発の新快速姫路行きで彦根を目指す。
米原操車場は雪に包まれ そこを大阪からの特急ひだが軽快に通過していく姿が見えた。車窓から見るに車道や住宅街の道は除雪されているようであった。

米原から彦根は JR だとあっという間で ここでしばらく時間が空く。
ここではじめて駅前 北口に出ると まだまだ雪は残っており井伊直政像は寒そうだった。ここでバス停を探すと多賀方面に行くバスと貴生川行きがだいたい同じ時間に出ることを知った。
値段も若干電車が安い程度で変わらないので迷ったが 節約のために電車を選ぶ。バスだと久徳口を通るので 同地の景色を眺めてみたいなあとも思うが流石に欲張りすぎるのも罰が当たると考え次の機会に先延ばしすることとした。
また今回駅の通路から彦根城が見えることを初めて知った。夏に多賀を訪ねた際に こうやって見えるのか と発見していたが 駅から一本位置で行けることを知る。そして改めて 山に建てたんだなあ とも感じた。

手軽なカロリー補給としてドーナツを買って 近江鉄道のホームへ向かうと交通系 IC カード導入に向けた準備が進む。多賀大社前まで と駅員さんに言って切符を購入し 降車駅で運転士へ硬券を出す仕組みも春までらしい。そうなるとこれが最後の硬券購入になるのかもしれない。

多賀大社~福寿橋

高宮で 900 系から古い 800 系に乗り換え多賀大社前に向かう。動き始めは冷えるが 多賀大社に着いた頃には温かくなった。
絵馬通りは昔の街道の名残で歩行者と車は譲り合って歩く。特に道路の端には除雪された雪が積まれており 普段よりも道の中央寄りを歩く必要があって若干難儀した。
雪の多賀大社は見事で 早く出たかいがあった。
実は最寄りから東京駅への路線は当時遅延しており 東京に到着してから一時運転見合わせとなって一本遅ければ影響が出ていた。やはり早く出るのが正解だったのである。
相変わらずコッペパン屋は開いてなかったが 糸切餅はまだ残っていたので家族へのお土産として 10 個入り一箱を購入。ここで縦置きでバックパックに収納しようとしたら店員さんに 横置きしてください と言われて バックパックのメイン収納エリアのジッパーを開き広げ 上手いこと横置きして運ぶことが出来た。なお糸切餅一箱のためにバックパックのメイン収納部ジッパーは上部分を開いたままの移動となった。次のバックパックを選ぶ際は 糸切餅を横置きできるものを選びたいとも思った。
本来であれば手提げが基本なのであろうが これから目的地甲良へ歩くような人間なので手は自由にしておきたかった

サービスエリア(敏満寺跡)まで

多賀大社を後にして甲良を目指す。
実は多賀大社の東側から国道に出るのが効率的なのだが やはりフィールドワークなら古い道を選びたい。
来た道を戻り 駅前の丁字路を直進し 2024 9 月に訪れたように高宮池に沿った坂道を行く。ここは裏街道でサービスエリアを通り過ぎると 胡宮神社 へと出ることができる。2024 年は多賀サービスエリアで敏満寺の痕跡を見たかったのだがよくわからなかった。今回はそのリベンジである。
ところで高宮池からの坂道は車道しか除雪されていない。やはりゴアテックスのシューズのみでは歩道を歩くのは厳しく 後ろを気にしながら車道を歩いた。なのでサービスエリアで長靴に履き替えた。
そして上り線へ渡ったのだが 敏満寺の痕跡はよくわからない。
とりあえず喫煙所の横から少し展望できる場所を見つけたので一枚撮る。ここから見える景色は何処を向いているのかよくわからないが この記事を書きながら写真と地図を睨めっこした結果 甲良に面していたことがわかった。ちなみに敏満寺跡というのは雪に埋もれたドッグランにあるという。では喫煙所手前の雪に埋もれた説明板のような物は何だったのか。再訪しなければならぬ。

敏満寺集落付近まで

手袋を落とすハプニングがありながらも取り戻し サービスエリアを後にして国道へ向かう。
今では名神高速道路が通って崩されているが 本来ここは青龍山の一部。胡宮神社の御神体そのものである。なので急な坂道だ。そして歩道には真っ白な雪―誰も踏んだ痕跡のない― バードウォッチング長靴が早速役に立った。
国道は車が多い。そして雪に埋まる歩道。ここから一本道なのだが 気が遠くなる。正直車道の路面は多少の濡れがあるぐらいで 自転車を持ってきたら良かったかなとも思いながら そしてスキー板が欲しいと思いながら歩く。
程なくして胡宮神社が見えてきた。夏 お世話になっている多賀町の H 先生を訪ねた際 胡宮神社は重源ゆかりの地であると教わった。今日は寄る暇が無く通り過ぎる程度だが 場所がわかったので良かった。地図を見ると胡宮神社から更に上に 敏満寺石仏谷墓跡 があるようだ。
この辺りの字は高宮池のあたりが 西谷 そしてサービスエリアから歩いてきた辺りは 風呂谷 となる。

程なくして高速道路のアンダーパスが見えてくる。ただ数メートル歩道が途切れる区間があったのは困った。アンダーパスには歩道があったが 向かい側 右側通行をした からの車は速度が速いので安全のためにスマホのライトを照らして歩く。
さてアンダーパスを抜けると正面右手に大門池 左手には住宅街が広がる。敏満寺の地域としては この辺りが集落となる。先に越えたサービスエリア は寺坊や城砦の跡地で 集落は門前町といったところだろうか。多賀大社からの街道は谷間ではなく こちらの集落を抜けるのが正しいルートである。
そして大門池は天平年間 水沼池 その周囲は 水沼荘 と呼ばれた東大寺領である。だから非常に歴史が長い。
だから 敏満寺 の別名 みまじ 水沼 みぬま に由来するとも言われている。
川向かいにある勝楽寺は佐々木道誉ゆかりであるが 彼は遺言で尼子郷を みま へ譲るとした。この みま の正体は諸説ある。ただその名前は みまじ から取られたのだろうと推測するのは容易である。

福寿橋と犬上川

大門池を過ぎるとだんだんと橋が近づく。犬上川を越える 福寿橋 だ。
福寿橋は昭和の国道建設によって作られた橋だが 明治から大正期 戦前の地図には若干の上流部分に橋があった。この橋は明治初頭の絵図には見られないものの 江戸時代この辺りも 多賀道 の一部だったことを考えると橋ではないにしろ 渡し はあったのだろう。

何気なく書いているが やはり歩道に人が歩いた痕跡は乏しく 長靴で踏み歩いたり筋肉蹴ってラッセルしながら歩いている。水分が少ないからこういうこともできるのか。また誰にも踏まれていない という意味であれば 処女雪 とは今いる歩道の雪のことなのかもしれない。

橋から見る犬上川の水量は思っていたよりも多く また三之井跡もこの辺りなのかと勉強になった。一番最初の丁字路は直進すると呉竹へ伸びる。この道は昭和に出来た道で ほ場整備よりは古い。

甲良巡検

橋を抜けると視界が開け 銀世界が広がっている。正面 南側 遠くの稜線は観音寺 そして見える集落は横関となる。対して来た道を振り返ると青龍山が少し遠くなった。ここまで 7 キロ弱。
昼飯を食べる道の駅はもう少し。道なりに進むと金屋の交差点に出る。この場所はロードネット滋賀のライブカメラで何度も見た場所だ。そのようにして電柱を見ると あった!カメラと配線と機器だ!
上手くいけば 記念写真 が出来まいかと更新時間を見たが ちょうど渡った直後に更新されており ここから数分待つのはちょっと時間の無駄。大人しく道の駅へと向かった。

道の駅には観光協会が併設されている。今回の巡検ではインターネット上に訪問記録の乏しい 甲良豊後守宗廣記念館 の訪問を企図し 甲良町ホームページの記載に従いこちらの観光協会に見学を申請していた。もともと観光協会には何があるのかも気になっていたので 昼食ついでに御礼を兼ねた訪問となった。まだ藤田先生の高虎評伝は置かれていなかったが 図説は置いてあった。色々眺めているとやはり三大偉人は強いとも感じる。

道の駅は軽食 本格ピザ 食堂と それぞれの予算と摂取カロリー目標に向かって選ぶことができる。奮発して本格ピザも良いかなと思ったが やはり長駆の行程を考えるとボリュームは大事となる。食堂のメニューを見ているとソースカツ丼があったので こちらを選ぶ。ご飯時の正午 食堂は暖かくて良かった。歩いてきた身体にはしみる温かさだ。

金屋

名残惜しく外へ出る。雪に埋もれたドッグランの白と 気持ちの良い青空の交差が気持ちよい。
ここからどうするか?と思う。法養寺には 13 50 分に着けば良いから 今少し時間がある。そうなると行ってみたいのが金屋の 三川分水公園 だ。
ここは地下移設されるまで分水が設置されていた。その起源を探るのは難しいが 奈良時代の水沼荘を描いた絵図には既に 二ノ井 からの水路が描かれていたことから 一ノ井からの分水も同時代までには成立していたと考えられ やはり相当な歴史を持つのだろうと思われる。

道の駅からライブカメラのある交差点を東へ折れる。ここは金屋の集落の北で 集落への入り口となる地点には ヤッサの里 との標識が立つ。この標識を通り過ぎると だんだんと正面左手 北側に犬上川が見えてくる。この犬上川の岸には木が茂るが これを 河畔林 と呼ぶ。眺めているとカラスに混じってトビの姿もあった。食べ物を持っていたら襲われたかもしれないが 人の気配など素知らぬ顔で休んでいた。
さてここまでだいたい 500 メートルほど歩いた。もちろん歩道は除雪されていない。当然人の足跡はないのだが 点々とした跡があり 犬上川や名神の高架下に近づくと明らかに動物の足跡が見える。点々とした跡はよくわからないが 動物の足跡はキツネの足跡のようであった。そういえば キツネ塚 という字も調べていて見たなあ。

公園内は水が張られ 水鳥がのんびりとしている。
明治~大正期の地図を見ると 一ノ井で取水した水を尼子 下之郷 上之郷の三郷へ分水する設備があった。明治初頭の絵図では 三川口 とある。その後昭和の戦前期には頭首工がここから東へ少し歩いたところにある上流部に建設され 今度は頭首工から得た水を分水する設備となった。地下化の後は町民の意思によって 地域の生活 防火用水として活用されている。今回巡るのはそうしたシンボリックでレガシーな水路である。

頭首工からの水が出てきているのか 高低差を利用して音が出るほどの流れがある。これはダムの恩恵で得られた水量だろう。その横には水車が回る。
その先で水鳥がのんびりとしている。ただこの先で どのように水路へ繋がるのかはよくわからない。暗渠となっているのか またパイプラインへと流れるのか曖昧である。
この辺りでバッテリーが切れたので予備と交換しようとし 落ち着いて帰られる場所を探すと 東屋があったのでそちらで交換。ここから西を目指す。

道なりに進むと水路と共に 上之郷川ほたる の看板が見えた。今目の前を流れる川が上之郷川となるらしい。夏に調べて図にしておいてなんだが こうして歩くと実感がある。
上之郷川に沿って歩くと正面左手に鬱蒼とした雑木林が見えるが これが金山神社である。ここは古く石造物を作る工人が祈願していたのか はたまた拠点としていたのだろうか 知る人ぞ知る文化財 金山神社境内未完成石塔群 があるそうだ。

雑木林は道にまでせり出しており たまに雪が落ちてくる音がする。防水防滴仕様ではないカメラを守りながら進むと 折れた竹が目に入った。恐らく今回の寒波で折れたのだろう しばらく進むと道と水路が離れる。極力トレースしたいが なかなか上手くいかない。とりあえず法養寺を目指したいので 水路に別れを告げる。
ここで再び国道と出会う。ここから先は道一本でわかりやすい。

歩いていると雪に埋まった田園風景と そこから眺める山の稜線にうっとりした。同時に山の名前がわからんので家に帰って調べないとなあ と思った。山の名前がわかれば 甲良側からの 男鬼入谷城 の見え方がわかるので 目的に対する準備が不足していた。それこそ 以前中央本線スーパーあずさ号に乗車した際に利用した 山の名前がわかるアプリが存在するのに だ。

横関

左右後ろの景色を眺めながら歩いていると 正面に新しい小学校と古い施設が見えてきた。この辺りで字 横関に入る。

正面右側が 甲良町図書館 左側が新しい 甲良東小学校 となる。このうち図書館が元々の小学校で 近代化に伴って新しい校舎となったが 地元の人の惜しむ声によって図書館として残されたらしい。水路に関してもそうだが 甲良町の人たちの自治意識の高さには感銘を受ける。こうした住民の意識は古代から中世にかけても礎となるものがあって 地元に根付いた武士たちにも影響を与えたと考えたくなる。

図書館のお目当ては建物を知ること そして国会図書館にも無いような郷土の資料はあるのか というチェックである。
傘立てに傘を立て 昇降口に長靴を預ける。やはり木造の校舎だけあって温かみがあってよい。教室すべてに本が置かれて ジャンル毎に教室が別れている。
既にドラマ関連のコーナーもあって地域の盛り上がりを感じるが まだ藤田達生先生の評伝 藤堂高虎 ミネルヴァ書房 は置かれていなかった。
国会図書館にないような資料では 長寺東字誌 小川原史 が目に留まった。機会があれば遠隔貸出を利用して読んでみたい。

居心地が良すぎて 気がついたら予定時刻が近づいていた。

図書館を出て西へ道なりに進むと 横関の集落に入った。あまり知られていないが 高虎の父虎高が横関で生まれたとする説が 高山公実録 所収の 西島留書 に記されている。
真偽は定かではないし 横関の枝村である古川 在士の東隣でもある の古老が語ったのであれば古川の生まれであるような気もするが ともかく面白い説とみているので是非訪れてみたかった。ただそこまで時間は無いので 通り過ぎる程度だ。歩く中で久しぶりに水路と再会した。横関を流れるのは下之郷へ注ぐ 下之郷川 そう考えると横関で生まれた源助が多賀一族の娘婿となるのは そこまで不自然とは言えない感もある。それにしても川の曲線が美しいとさえ感じる。進行方向左側には 竹の小径 となっているようで興味を惹かれるが 時間が無いのでまたの機会。

法養寺

程なくして進行方向右手にコンクリート工場が見えてくる。ここから法養寺となる。
工場を過ぎると続いて林が見えてくる。これは法養寺の甲良神社つまり上ノ郷の中核的神社である 素戔鳥社 の杜だ。
ここで左側の田園風景を見る。この辺りは字 宮ノ後 という。先に解説したように 整備事業までは 釈門 と呼ばれた小高い遺跡があった。この 釈門 は古墳でもあり 中世には 西方寺 が存在したと言われている。
現在の様子を見る限りでは 釈門 の名残は感じない。この辺りは何れバイパスが通るので 再び大きく景色が変わるのだろう。

間もなく大きな直線に差し掛かる。ここが江戸時代の 高野道 である。果たして江戸以前はどうだったのか 高野道の原型となる直線があったのか定かではない。ここで進行方向右側に曲がると甲良町役場などがある。往古より甲良の中心部であった とも言える地域だ。この日はバイク乗りが気持ちよさそうに走る音がよく聞こえた。

それを尻目にして逆方向 法養寺の集落へ向けて歩き出す。
そのようにして法養寺集落に到着した。
歩いている頃には感じる余裕もなかったが 宮ノ後よりも高くなっている実感はない。実際のところ高野道が一段高くなっている方が印象が残っている。
目的地の 甲良豊後守宗廣記念館 は高野道から遠目でも ああ彼処かあ となるほどシンボリックである。
現在の集落 高畠への道を進むと少し迷った。何度も地図では見ていたが 若干複雑な道筋をしている。気がつくと公園 これは甲良神社 素戔鳥社 の御旅所だという。
そこから西へすぐのところに 先ほど遠巻きに見た建物が見えた。
記念館の敷地に入り 少し写真を撮っていると中から人の気配がした。

甲良豊後守宗廣記念館

挨拶をして観光協会でボランティアガイドを務める N さんの案内で中に入る。外から見るとわからないが 記念館の中は古き良き和風建築であって土間がある。玄関から奥に広い土間というのは 何かの保存施設で見た記憶があったし かつて父に連れられて行った白河のだるま工房もそうであったような気がする。

記念館はコンパクトながら良くまとまっており 藤原姓京極 浅井氏説に始まる系図から宗廣から末裔の仕事ぶりを知ることができた。
やはり話を聞き 目で見て動きながら学ぶというのは 身体で覚える そのものである。彼らが近衛家邸に始まり 時代時代の江戸城図面を保有していたほど これほどまで江戸徳川政権に欠かせない存在であったとは知らなかった。
更に日光東照宮で名高い左甚五郎も甲良の婿ということも初めて知った。改めて自分は何も知らないんだなあと感じる次第であった。
そして法養寺と日光の繋がりは近年まであって 法養寺で育った米を東照宮に納める行事があったそうだ。残念ながら現在は休眠状態ということであるが 記念写真には N さん御自身の名前と写真もあった。

N さんと話したなかでは江戸城再建に向けた話が興味深かったし 他に犬上川の洪水の話は今後の課題であると感じている。

古き良き ということは つまり 寒い ということであり 見学は春や秋頃がお薦めだ。歩き回っていた身体はすっかり冷え アクティブインサレーションを羽織って何とか最低限の熱を確保できた。足が冷たすぎて靴下の汗冷えが要因かと思ったが 履き替えても大差なかった。裏起毛でも体幹が冷えてしまえば意味をなさない。それに持ってきたカイロは 古かったのか大して温まらなかった。この日最も危機感を覚えた現場となってしまった。厳冬期は避けたほうがいい というのが私からのアドバイスだ。

タイムロス・傘を忘れた

記念館を後にして下之郷へ向かう。この時点で 15 時。尼子駅 16 時半だから まだまだ余裕がある。
集落へ水を流すパイプラインの分水工を眺め 水路の向こう側へ渡る橋を渡りたくなった。橋には雪が残ってるから 足元に注意して傘を杖に……。
傘がない!!!
あれどこやった!?
必死で記憶をたぐり寄せる 記念館に置いたままか? いや記念館ではすでに持っていなかった…。
図書館の傘立てや!
一瞬 そんな安物なんやし などと思ったがそれは環境派である自分の流儀ではない。とりあえず慌てて図書館へ急ぐ。片道約 10 分の往復 20 分。大変なロスである。
その道中で横関の集落を通るのだが せっかく再び来たんだから!と見たかった八幡神社沿いの水路 そして先ほど見た 竹の小径 を見て回ることにした。
八幡神社沿いの水路は 神社や諸得寺の外郭を J の字状に通っており 大変見応えがあると思う。ただその形態を見ていると時間が無さそうだったので 神社側をチラ見する程度。
また神社と竹の小径までの間は石が置かれ 歩けるようにもなっているが 流石に雪の住宅地で大人が一人やるには不審すぎるので見るだけ。
そうなると竹の小径は歩いた跡もないからどうしようかと思ったが せっかく長靴を履いているんだから ここだけは歩くことにした。

全長 100m 程度の小径だが 雪が降っていると道と宅地の境界がわからずに 早速後悔した。心の中で ごめんなさい ごめんなさい と謝りながらの道中は非常に宜しくない。
ただ小径の終端で水路がどのようになっているのか これを現認できたのは収穫である。

下之郷

こうしてタイムロスがあって 15 30 分頃に神明社付近へ舞い戻った。
今回の目的であった下之郷巡検 そして高野道から東門を経て在士に入るプランが台無しである。
仕方がないので とりあえず下之郷の北側で館跡 神社を最低限チェックし 北金堂から市場周辺を見て回ることにした。
だが熱が入ると時間を忘れるというもので 水路の形態と位置間隔の喪失を味わっていると時間が刻々と経過。
また寺を見て回ったりしていると もはや東門まで行く時間が無いなと思った。こうなると二階堂から畑藤堂〜城之内と回るのが最短となる。

下之郷集落の感想としては 大変な住宅密集地であり 道幅が満足にないことを実感した。ある意味で大溝や上野 津如き江戸時代城下町とは異質であり 他の寺内町的な事例を調べる必要姓を感じた。

基本的に下之郷の集落は今回歩いたどこよりも宅地が密集している。これは明治初頭の絵図からもわかるもので 恐らく江戸期には同様の状態であったと思われる。
この密集具合によってストリートビューを見ていても なかなか現在地と空中写真が上手く繋がらないのだが 実際に現地を歩いてみても方向感覚が掴めなかった。
これは金屋や横関といった開けた地域を歩いてきたのに 下之郷に入ってからは宅地集合故に視界が半減することで脳にエラーを与えさせているのだと思う。
他にずっと 石塔橋 の場所がわからないことも 位置感覚を失わせた原因でもある。それが長駆と冷気による疲労および時間的な焦りと結びつき 知らないことは怖いという恐怖心が発生してしまったのだと思う。
このあたり下之郷はまたの機会にじっくりと見て回りたいと思う。

とりあえず五十告社 六所社は見たし かつて館があったとされるエリアも眺めた。また北金堂から市場 二階堂は短い時間でもチェックできたので良かったと思う。

在士

ふと気がつくと 西側から数分おきに風を切る音が聞こえる。その正体が東海道新幹線であることに気がつくのは 尼子集落に入ってからであった。
一度二階堂の細道に入るか迷ったが 正直用もないのに彷徨いては申し訳もなく 時間も限られているので北側へ出られる道へ進むことにした。ここの水路がストリートビューでは今一つ理解が出来ていなかったので 最優先で見ておきたかったのも理由の一つである。
なるほどなあ と思いながら 北を目指す。すぐに墓がひろがるが ここは尼子の字畑藤堂となる。しかし墓地を通り過ぎればすぐに在士となる。
この辺りの道筋も 既に崩壊しつつある旅程では考える余地もない。
ただ下之郷=多賀と在士=藤堂の関わりから類推するに 江戸時代高野道とされた街道以外にも行き来するための道があったと考えるのは自然で それが二階堂から 城ノ内 へ至る道なのだろうと思う。
この道を使えば在士の館とされる場所から下之郷の城館 金堂はほぼ道一つとなる。

現在では東西を道路が通っており 下之郷側から在士へ向かうにはここを横断する必要がある。しかしそれなりに往来があるので 途切れるのを待つことになるが歩道は存在しないのでなかなかの難易度でもあった。日没後では事故の危険性もあるだろう。

城之内

往来を眺めながら在士の集落を見る。集落の西側を眺めていることになるが民家の奥 東側 には林が見える。道を渡れば田圃と田圃の間に看板が立つ。
戦国大名 藤堂高虎公出生地跡 とあり 弘治二年 一五五六年 近江国犬上郡甲良庄藤堂村 後の在士村にて出生 と付記されている。高虎が戦国大名であるのか また 尼子郷 が抜けてないか?など余計のことは考えなくて良い。
また道路からの突き当たりには 出生地跡 城之内 と書かれた案内看板もある。だいたいこの辺りが 城之内 なのだろうと思っていたので 確定させることができ大変有り難い。

ここから道なりに沿って出生地跡へ進むのが良いが 見ておきたいのが手前の雑木林と田圃である。見ただけではわからないが 雑木林の中には南北へ一筋の高低差 畝?溝 がある。果たして虎高が掘ったという環濠 もしかすると虎高以前に築かれた中世環濠の跡地なのだろうか。

出生地跡は 言ってしまえば広めの空間に碑が建てられている程度で特段何かあるというわけでもない。そう思って一枚撮ってみたが そこで東側の雑木林が目に入った。これにビックリ。
ちゃんと L 字になっとるやないか
一応は中世城館の定義は満たしていることになるのかもしれない。
そして道を進もうとしたら 敷地内に雪の中から地蔵が見えた。これはもはや高虎の守護神たる地蔵1である可能性もある。
いやはや ちゃんと探せばあるというわけだ。

八幡周辺

水路を眺めながら北へ進む。
すぐに駐車場が見えて 斜向かいに近代化された古民家が見える。法養寺の甲良豊後守宗廣記念館と同じような仕様だ。これが甲良町で話題の 藤堂高虎ふるさと館 和の家 である。この施設は恐らく明治初頭の絵図にも見られる建物ではないか。
大雪で開いてなかったのが残念だったが 遠巻きに眺めていると石造物を視認。なんと軒先の傍らに 数基の小さな五輪塔 一部 と石仏が置かれているではないか!聞いてないぞ!
もう大興奮である。専門的な部分は学識が足りないので断言こそ避けるが これらは高虎も見た可能性もあるのではないか。また和の家の西側 高野道へ出る軒先の細道側に回ると 円形の石が置かれていた。これも五輪塔の一部 水輪であった可能性があろうか。

時間があれば東門から浄覚寺を経て こちらまで来たかったのだが 時間も無いので来た道から今度は八幡側へ曲がる。尼子川 里川 沿いの道は昔 高野道 と言われたが 今は 高虎の道 と言われている。ちなみに川沿いに真っ直ぐ行けば多賀道にも通じるというのは津藩編纂史料に見られる記述である。
水路を見ると 微妙に南側への取水口がが二つある。この口は何処へ通じるのか眺めていると 一つは蔵に沿って流れ もう一つはここで二股に分岐していた。分岐した水は何処へ行くのか定かではないが 来た道にそってクレーチングが見えたからそちらへ注ぐのかもしれない。
二つの水路であれば明治初頭の絵図とも合致する。これこそがフィールドワークの醍醐味だ。

水路の向かい側には八幡がある。普通の人はこちらがメインとなるが 正直なところ藤の季節でもないと普通の社だなあと感じるだけだ。先に金屋や横関の八幡社も見てきたが それぞれなかなかの規模感である。その規模感よりも上を行くのが郷社となる三社だ。

尼子

八幡を出て西へ進む。それまで進行方向左側にあった水路が暗渠となり道をクロス 気がつくと進行方向右側に水路が移る。こうした形態も明治初頭の絵図にある通りだ。
水路はどうやら田圃へも水を供給しているらしい。ただ田圃北隣の畑地は一段高くなっているから 流れは逆なのかもしれない。
その奥には尼子の集落が見えるが 実は尼子館の跡地とされている。面影は見受けられない。ふと足下を見ると二股の分岐がある。流れの向きからすると やはり畑地から流れてきた水が合流する物なのだと思う。
暫く進み最初の民家と水路が接する。民家側から水が出るのか 民家側へ水を供給していたのか 石塀に二ヶ所の穴が開いているのが興味深い。もう少し進むと民家と民家の間から水路へ 水が落ちるようになっている構造が見受けられる。
そこからすぐに道が分岐し 北側へ延びる。突き当たりに尼子の寺である住泉寺と尼子氏ゆかりの玄翁堂がある。また事前の調べで同寺の鐘楼 その足下には石造物が安置されているということを把握していたが 石塀ごしに在士で見たような小さな五輪塔からそれよりも規模のある五輪塔を見ることが出来た。雪のない季節にじっくりと調査したいものだ。ところで書く上でストリートビューを参考に見ているが 寺と水路 高野道の間にある民家は大変立派な門構えであった。

尼子の地というのはそれこそ長屋王の時代の頃には成立していたようで 非常に歴史が深い。だからか住泉寺一体は立派な邸宅が並ぶ。その一角には水路の流れ込みもあるし 気がつくと道路が広くなる。ここでは西側から来た高野道から在士集落を避けるように迂回する道が別れている。自分が歩く方向からすると 道が合流するといった方が正しいのかもしれない。

河瀬へ向かう選択

この分かれ道に隠れるようにして南への道がある。水路側に置かれた看板には ←殿城池 と書かれている。この時点で 16 15 分を過ぎた。尼子駅までは徒歩 20 彦根行きは 32 分だから間に合わせるには急ぐ必要がある。ただ ここまで来て諸々を諦めるのは惜しい。そこで諸々を見ながら河瀬まで行けば?という選択肢が浮上。調べると米原で乗りたい新幹線に間に合うギリギリだ。
忙しないことに変わりはないが 大まかに概況を把握したいので 何の為に鍛えてきたんだ! とテンションを上げる。

殿城池

案内に従って殿城池に向かう。実は殿城池に向かう道から見てみたい景色もあったので 実に都合が良い。
殿城池は尼子の敗戦に伴って姫と侍女が入水した とされる池である。その伝説は涙を誘う者であるが 下之郷の話にも通じるな と感じるところがある。尼子と下之郷に落城秘話があるのに在士では聞かれないのは何故だろうか という疑問もある。
ところでこの池の水は何処から来たのか。これが現在直面している謎である。現地の解説看板や 近江の平城 髙田徹 では堀の跡としているが 明治初頭の絵図では独立した水部として描かれている。しかし現地解説では 池の西 までの堀跡が昭和の初め頃まで竹藪と共に存在したとある。こうした矛盾は遺構が失われて久しい現在では如何ともし難い。
甲良三郷は犬上川が形成する扇状地の扇央故に 水の苦労が絶えない地域であった。扇央部であることからすると湧き水では無いように思う。
今もなおこうこうと水を蓄えているところ見ると 見えないだけでパイプラインから水が引かれているのか 古く井戸であったのか はたまた旧河道の名残なのか。このように考えているが明確な答えは出ていない。

殿城池を眺めていると 近所に住む男性から声をかけられた。遠方から来たと明かすと ここでも大河ドラマそして高虎の話題で盛り上がる。さすが公共放送の威力 そしてここ甲良にて高虎で盛り上げてきた皆さんのお陰でもあるのだろう。
ただ今にして思うと せっかく地元の方と邂逅できたのだから 池の水源について訊ねておけば良かったと後悔している次第である。もう少し時間的余裕があれば もう少し自分自身に社交性があれば といったところだ。

かっとり・松宮大明神

水路に戻るといよいよ見たかった尼子の 割取 かっとり である。
なかなかストリートビューだけではわからない点が多いので 水路がどのようにして道路の下に潜るかを把握できたのは大きい。
特に事前にチェックしていたはずだが 三つに分かれた居たことを確認できた。この辺りは明治初頭の絵図でも三つに分岐しているが 実際の形態を見るに 耕地絵図 の方が水路の実態に即しているのかなと感じる。
下之郷や在士でもそうだったが 今現在では水路が道路の下に潜る部分があるが 絵図では架橋されていたように見える。いつ頃現在のような形態になったのか興味深いし 道や水路が複雑な形態になった理由も気になる。

三つの分流のうち 二つは南側の集落内へ流れる。時間も無いので道路の下に潜った一本を辿る。この道 つまり高野道を進むと丁字路となる。尼子駅へは直進すると良いのだが 高野道は進行方向右側 北へ曲がる。道路の下では水路が別れているらしいが その形態は見ることが不可能である。
高野道を進むと集落から少し離れていく。進行方向右側 曲がったので東側となるが 実はこの辺りは在士の一部であって面白い。どうしてこうなったのか興味を持っている。
そうして神社が見える。ここが 松宮大明神 となり これで三つの甲良神社を回った。概ね達成できた。時刻は 16 30 分である。

河瀬へ

来た道を戻り 今度は尼子駅方面へ進む。だんだんと除雪されたエリアが増えてきたので長靴を脱ぎたい。近くにコンビニがあるので そこで脱ぐかと思った。しかしよくよく進む道を見てみると 歩道はそれなりに雪が残っている。うーんそうなるとまだまだ履くべきだなあ と思った。
結果的にこれは正解であったのだが しかし 10 1km も歩いてくると ちょっと足の関節が限界になる。この辺りで行く手に雪は見えなくなったので ちょうどよく東屋があったのでシューズに履き替えた。
地図で見ると尼子駅は近くなってきたが 河瀬駅はまだ遠い。時折通過する新幹線を見つめながら歩く。
気がつくと太陽が観音寺よりも向こうに消えており 身体も冷える。尼子駅で近江八幡行きの列車を眺めると 次の彦根行き電車を待ちたくなる。さらに尼子駅からすぐバスの車庫が見えると 止まっているバス 土休日は運休 に仕方が無いとは言え 動いていたらなあと感じた。

全行程を通して すれ違う人は数えるほどであったが この河瀬駅への道中で唯一学生とすれ違った。この学生も数年もすれば自家用車で移動するようになるのだろう。
気がつくと彦根市に入った。すぐに 出町 との標識が見える。交差点での信号待ちにヤフー地図アプリを見ると 目の前を横切る道路が旧中山道であることがわかった。ようやく古くからの大街道を拝むことができた。
しかし明治初頭の絵図には この光景は無かった。尼子および甲良三郷から旧中山道へは 道の規模からしても高野道を使い無賃橋で合流していたのである。出町へ出るとしても 畝道を通るのが精一杯であったと思われる。
私事としては旧中山道の日本橋から大宮付近までを自転車で走破しているので ここをずっといけば居住地へ帰れるのだなあと そうした感慨に浸りたいが疲労故に余裕はない。あと二キロ もうしんどすぎてしんどすぎてたまらない。
それでも止まれば帰れぬ 前に進むしかないのだぞと 腕を振る。
しばらく歩いていると 突如として心拍数が下落した。これは一般的に疲労状態を示すものだ。そして道が狭くなると目の前からタクシーが通り過ぎる。

ああ タクシーってこういうときに使うんだよな

と唇を噛んだ。

河瀬駅が近づく左折では 焦りか足がもつれ 手にしていたスマホと開いていたバックパックからドーナツが落下した。限界である。スマホは画面を下に落下したが 何と無事。一瞬地獄に叩き落とされた気分になったが さすが天下のサムスン社製であると感じる。
かくして河瀬駅に到着したのであった。
とりあえず糖分を摂りたい。朝に買ったドーナツを待合室で頬張ったが 良く冷えて染み入る味。長駆歩いた身に大変なご褒美。少し目頭が熱くなる。

帰路

17 26 分発の米原行きに乗る。最後尾の車両は空いており 彦根を過ぎると貸し切り状態となる。米原まで僅か 10 分。ちなみに近江鉄道で尼子から彦根まで 15 分で 余裕があるのなら近江鉄道応援のためにも体力温存のためにも此方を利用するのがよい。ただ JR も近年はシビアなので 結局は公共交通はケチらずに利用して乗車人数の一人になることが将来の自分のためになると思う。

米原に到着すると乗車するひかり号まで 20 分ほど時間がある。とりあえず疲れたのでタンパク質を補給したく 最近気になっていた吸収率が高いというヨーグルト オイコス を購入。
帰りも自由席なので早々にホームへ赴き並ぶとする。
17 57 N700S J27 編成は米原を発車する。つい 40 分前はフラフラで歩いていたのに 不思議なものだ。車内はガラガラでよかった。オイコス を食べ終え スマホを充電ケーブルそしてコンセントに繋ぐ。愛機を充電させるようにして 眠りについた。

東京には 20 15 分。なお夕食は米原駅で駅弁販売が終了したこともあり どうしようか迷っていたが 帰路途中駅の駅ナカに食べたいものがあったので そちらにした。

まとめ・甲良の景観について

甲良町を歩いていて感じたのは 四方の景色の良さ 抜け感の良さである。特に中心部とも言える横関周辺を歩くと 高低差は極僅かで遠方が良く見える。
多賀町は北から東にかけて高い山が連なる。一方で甲良町は東側に鈴鹿山脈が連なるものの そこから離れてしまえば佐和山城から観音寺城 繖山 までを眺めることができる。京極六郎 高広 が拠点とした 男鬼入谷城 も現在では特定が難しいが 恐らくは見えたのではないか。

選地と水環境

なぜ水に乏しいこの地に古人は拠点を築いたか そのような疑問はこの景観が答えであるのかもしれない。四方の程よい景観でも水不足では住むのに難しい。しかし灌漑技術を持っていれば扇央部の水不足を克服し 居住することができる。もっとも水問題は昭和まで続くので完全であったとは言い難い
佐々木氏が尼子氏となったのも 多賀氏が下之郷を拠点としたことも同様なのではないか。また戦国期には下之郷から佐和山 観音寺両城まではそれぞれ 10 キロ前後という中間点であったことも 多賀氏にとって大きかったのではないか。

甲良町内は概ね東から西まで 130m~110m という高低差である。しかし歩いている分には高低差を感じることはなく なだらかな地形と言って良い。
その水路は東から西へ 数メートルおきに落差を設けて水を流していた。この形態は恐らく古来以来の形態だと思われるが 今一つ知識が足りない。
また私の水路のイメージは川から小魚がやってきて 春になれば産卵するといったものを抱いていたが 現在のパイプライン方式は考慮されているのか気になった。集落で鯉が飼われている様子を視認している。
こうしたところ 農村グリーンインフラの実用化に向けた環境整備水路網の多面的機能評価に関する研究,新田将之,[2020] によれば魚の生息はあるらしい。そういえば甲良町図書館には淡水魚の展示水槽があった。その魚種はよく覚えていないが もしかしたら町内水路で生息している魚たちであったのかもしれない。

甲良表の戦い?

そして俗に言われる 下之郷の戦い であるが 天文四年説であれば合戦が起きた頃に京都では雪が降っていた。その条件からすると今回見たような雪景色の甲良が想定され 北郡兵の行軍は至難であったと思われる。
私は今回重ねたメリノウールに最新鋭のアウターで 心拍数を管理しながら歩いていたので 寒かったが極度の冷えに見舞われることは無かった。しかし戦国時代当時の装備であれば 非常に厳しい戦いを強いられたことは間違いないと考える。
例え天文四年でなかったにしても正月に戦闘が起きたことは確かであるから 何れにしても寒さのなかでの戦闘だったことだろう。湖東の冬は西 日本海側からの風が吹き抜ける。体感温度は氷点下を超えるので身体に負担がかかる。
まさに執念とも言うべき行軍であったが 結局北郡兵は返り討ちに遭う。攻め寄せるなかで凍傷もあっただろうし 恐らく逃げ帰る中では厳しい寒さにも襲われたことだろう。多賀兵というより 寒波に敗北した感も否めない。

ただ旧暦の正月というのは現在の すなわちこの記事を書いている二月ぐらいだ。ひょっとすると北郡兵が行軍できた気象条件であった可能性 つまり 降雪 という前提条件から見直す必要があるかも知れない。

また 嶋記録 では敏満寺にいた今井家中の働きが述べられる。ただ今回歩いてみてわかったことだが 敏満寺から甲良 下之郷は少々時間が掛かる。
結局どのような戦いであったのか 現地に行ってもわからずじまいであったが こうしたところは史料上の制約がある合戦の宿命であり これ以上何も言うことは出来ない。
ただ一般的に北から下之郷を攻めようとすると小川原や尼子 さいし 在士 を抜くか 街道筋の四十九院から攻め寄せる必要があるので 下之郷の戦い よりも 第一次 甲良表の戦い とするのが妥当かもしれないと感じる。

今後の展望

今回念願の甲良訪問を果たした。課題としては今回巡れなかった下之郷 在士 尼子 北落 古川 また勝楽寺や池寺 長寺 呉竹や小川原 四十九院といった地区。他に春 秋の風景 祭祀も気になる。自転車2でも走ってみたい。こうしたところはゆっくりと時間をかけて巡ってみたい
それにしても雪の湖東はよかった。ほ場整備によって中世以来の景観が失われたとはいえ 雪が積もる景観は往古以来変わりなかろうと思う。この景色を多賀氏やその内衆たち そして高虎少年も見つめて生きてきたのだ。


  1. 実は高虎 地蔵の化身なのである。こう書いたのは梅原三千翁の 津藩史稿 である。曰く在士の地蔵尊があるときに失せたが 後に高虎が登場し立身出世を遂げたので郷人は これこそ地蔵尊の化身 と噂したらしい。高虎が観音と地蔵を信仰していたことは 西島留書 にもあるが 関ヶ原でも夏の陣でも 地蔵堂 に陣を構えたことでも信仰は伺えるという。大変面白い話で 個人的には逆に地域の地蔵信仰が中世にまで遡ることが出来る記述だなあとも感じる。

  2. それにしても車道の除雪具合 乾き具合からすると自転車だったらだいぶ楽だったろうなあとも感じる。ただ泥除けが無いので 車体と背中が汚れてしまいそうだ