甲良庄下之郷について・中世甲良の景観に関する試行的考察
在士から画面下 (南) に目をやると見えるのが 「下之郷」 という地区である。
甲良町のホームページで紹介される 「三大偉人 (道誉 ・ 高虎 ・ 甲良宗廣)」1には名を連ねてはいないが、 この下之郷地区を本拠地としたのが多賀高忠など 「豊後守系」 の多賀氏である。
本稿ではこの下之郷地区を題材として、 中世甲良の景色を追い求めてみたい。
*下之郷では 「甲良三郷」 の区分としての 「下之郷」 が思い浮かぶが、 本稿は三郷の中心である 「下之郷村」 に重点を置いたものである。
下之郷川
一ノ井のなかで最も灌漑面積が大きいのは下之郷地区へ注ぐ 「下之郷川」 である。
この川を現代の地図で見ること出来ない。ただ 「甲良町観光 MAP」2には、 金屋から横関にかけて町立図書館を掠めるようにして 「下之郷川」 の文字が見える。
国土地理院の 「地図 ・ 空中写真閲覧サービス」 で最も古い大正十三年(1024)発行の地形図 (1920 測量) を見ると、 金屋と横関の間を流れる河川が法養寺を通り、 下之郷へ流れている様子を見ることができる。これが大正期の 「下之郷川」 なのだろう。この河川は 「1987 年測量 (1988 年発行)」 までの地形図に見え、 それ以降は見えない。
『条理と水利 (布野修司/2009)』 によると、 圃場整備以降は暗渠となったらしい。圃場整備によって現状の姿になったのだろう。

扇状の下之郷集落
この 「下之郷川」 が流れ着く下之郷地区は甲良町の中心部に集落が密集し、 南から西にかけて田園地帯が広がる。偶然なのか必然なのか集落を要として扇状に広がっている。
本稿では旧河道について既に触れたきた。下之郷ではどうだろうか。
土地条件図では下之郷集落に旧河道の痕跡は見られないものの、 集落の北側や東側、 また西側にかけて田畑は複雑な地形をしている。桂城神社の南側は長方形で均整のとれた、 条里を想起させる地形であるのに、 西側はそうではない。こうした点からすると下之郷の集落もまた旧河道に囲まれた集落、 もしくは旧河道に発展した集落と言えるかもしれない。扇状なのも旧河道による地形なのだろう。
時に 「下之郷遺跡」 の発掘事業のなかで 1987 年に発掘された区画は現在の集落から南側のエリアとなるが、 宮崎幹也氏3に依ると 「7 世紀中葉集落跡」 という。
一番の要を何処に置くか迷うところであるが、 丁度集落の北東端に桂城神社が存在する。多賀氏が本拠とした居館は神社から見て南の至近距離にあった。本拠の館については後述する。

二階堂~知られざる下之郷の中心~
多賀氏概略
多賀高忠は京極持清の重臣として守護代や所司代を歴任、 有職故実に通じた室町時代を代表する文化人の一人で、 彼も甲良町の偉人に数えるべきだ。
その息子の経家も有職故実に通じ、 また京極争乱の政経 ・ 材宗方として活躍し、 最期は材宗と共に敗死している。
経家の後、 六角方として京極六郎と戦った豊後守貞隆、 六角方から織田信長に転じ最後は裏切った信濃守貞能の親子が歴史に名を連ねるが、 現状で経家との関わりは曖昧である。貞能の後裔に当たる加賀藩多賀氏では、 貞隆が経家の後裔であるとする系図を所有していた。4
多賀豊後守内衆・二階堂小四郎
多賀貞隆の時代、 北郡京極六郎 ・ 浅井亮政方との戦いで戦功を挙げた人物に 「二階堂小四郎」 なる人物がいる。
定頼の感状の中で 「多賀豊後守可申候」 と結ばれていることから、 小四郎が多賀貞隆に関連する人物と思われ、 北村圭弘氏は 「被官」 としている。
同じく北村氏は多賀氏の本拠地となる下之郷に字 「二階堂」 の存在を指摘しているが、 この字 「二階堂」 については橋本道範氏の興味深い指摘 (以下橋本氏) がある。5
字・二階堂
まず下之郷には字として 「二階堂」 が残されている。
地元の郷土史では、 この二階堂の由来を鎌倉幕府の重鎮二階堂氏に求めている。
この話は江戸時代の地誌が元であり 『淡海温故録』 には
此河原ノ庄ノ内ニ建武ノ昔二階堂出羽入道道雲領ヲ得テ下リ下之郷村ニ居住ノ由代々相続シテ近キ天文ノ比迄二階堂左衛門伝記二見ヘタリ永禄乱ノ記二は見ヘズ処二蟄居スト云道雲ハ鎌倉ノ二階堂ニテ誉アル士也太平記処々二出ヅ
(近江史料シリーズ 2 本編/1976)
とある。天文の頃に現れる 「二階堂左衛門」 は室町幕府に仕えた二階堂氏とみられるが、 近江との関わりは定かではない。
次に 『江左三郡録』 の記述を見よう。まず温故録から二階堂左衛門までの記述を引用し、 続いて 「村西在士村領界二町程の字を二階堂」 として 「二階堂」 の屋敷との可能性を示している。
また 「六所権現社」 の項では 「松宮の境内にて二階堂の鎮守也と云傳ふ 二階堂氏屋鋪の鎮守か又二階堂と云寺をたる歟 (国書データベース ・ 江左三郡録、 甲良町史所収の同書)」 とする。
ここで編者によって、 二階堂という寺が存在した可能性が示唆されている。
六所権現・六所大明神
この 「六所権現社」 は延徳二年(1490)の 「神輿裏書」6にて登場する 「三郷総社」 の 「六所大明神」 と思われるが、 雨乞いの際に 「往古之賀例」 として神木が 「宝蓮院」 へ御幸したと記されている。この記録によって甲良に 「六所社」 と並ぶ 「宝蓮院」 が存在したことが理解できる。
二階堂宝蓮院の誕生
この 「宝蓮院」 に関する有力かつ数少ない記述が明徳二年(1392)の 『西大寺末寺帳 (広島県史 古代中世資料編 5)』 であり、 近江の筆頭末寺として 「二階堂宝蓮院」 が登場する。
つまり 『三郡録』 の編者の 「二階堂と云寺」 との記述は的を射たものであった。
宝蓮院:鎌倉時代の開山
西大寺は律宗であり、 二階堂宝蓮院も同様に律宗寺院であったと考える。
その創建は定かではないものの、 嘉暦二年(1327)に 「宝蓮院第二長老」 で 「成仏寺開上 [山カ] 也」 の 「行忠」 が神輿裏書に記録されていることから、 「第二」 を二代目とすると鎌倉時代の嘉暦年間以前に開かれたと思われる。橋本氏は類推し 「十三世紀後半から十四世紀初頭、 律宗の最盛期と考えられよう」 としている。
橋本氏も触れているが 『江州中原氏系図』7には、 甲良氏の一族の中に 「宝蓮寺律僧、 開山長老、 仁和寺西谷僧」 と附記されている 「暁空行智」 なる人物が記されている。その父である 「景成」 が 『平戸記』 の仁治元年(1241)、 寛元元年(1243)に見られる 「中原景成」 と同一であれば、 行智も広く十三世紀の人間と推定されるため、 橋本氏が説くように 「宝蓮院」 が創建された時期と相違は無いように思える。
宝蓮院開山以前に成立した二階堂
ところで安土の浄厳院に丈六の阿弥陀如来像がある。これは台座の銘に 「此尊像者、 雖為弐階堂本尊、 従信長殿様被下候」8とあり、 元々は 「二階堂本尊」 であったことが窺える。
この阿弥陀如来像は平安時代後期の 「十二世紀二十~三十年代」 に制作されたと推定されているため、 それを本尊として安置した下之郷の二階堂もまた十二世紀に成立したと考えたい。
地域の拠点・二階堂
そうして成立した寺院二階堂は地域の拠点として君臨し、 祈雨の際には三郷惣社の 「六所大明神」 と共に祈祷を行うこともあった。
鎌倉時代に入ると律宗寺院である 「宝蓮院」 が創建される。元々の 「二階堂」 の宗派は定かではないが、 何らかの事象によって衰微したのか、 或いは 「第一長老」 が律宗へ転じたことが理由なのかもしれない。
こうして鎌倉時代には二階堂と宝蓮院が一つとなった。宝蓮院は勅願所として 「宸翰」 も存在したが、 永禄年間の兵火で消失したとされる。9
二階堂宝蓮院の場所
では 「二階堂宝蓮院」 は具体的に下之郷の何処に位置していたのだろう。
現在の下之郷で 「二階堂」 と呼ばれる字は甲良中学校から西に 200m 地点から法専寺が置かれた地域である。ちょうど L 字状になっている。10
甲良中学校に近い地点は北に在士と接しているが、 在士側も 「二階堂」 という字であったのでそれなりの規模を持つ。
寺に関係する下之郷の字
一方で下之郷の字には寺に関係するものが幾つかある。
法養寺側から 「南寺側 ・ 北寺側 (てらご)」、 「金堂 ・ 金堂口 ・ 北金堂 ・ 金堂水」、 「経蔵」、 「高座」、 「烏堂 (北烏堂 ・ 東烏堂 ・ 西烏堂)」 となる。南に 「東蔵寺 ・ 西蔵寺」、 西側に 「寺ノ内」 もあるが、 後者については後で述べる。
また神社の北側正面、 甲良中学校の周辺は在士の字 「永藤」 といい、 ここに置かれた 「かっとり」 は 「えーふのかっとり」 と呼ばれたようなので 「えいふ (えいふじ」 と読んだのだろうか。11
寺側(てらご)
この中で地元下之郷では六社権現 (六所大明神) や桂城神社のある字 「宮前」 の東隣に 「北寺側」 や 「南寺側」 という明確に寺を示唆する字があることから、 この地を宝蓮院跡地と比定し現在は石碑が建てられている。12
この 「寺側」 という地名をどのように捉えるか、 何かしら寺院があったことは確かなのだろうが、 やはり少し西に村を跨がる 「二階堂」 という字がある以上、 寺側が二階堂宝蓮院とする説には今一つ首肯しがたい。
中小路
二階堂周辺の字を見てみたい。
まず二階堂の道を面して南側に 「中小路」 がある。この字は神社のある 「宮前」 の北面からほぼ西に伸びる。ちょうど現在 「えーふのかつとり」 で二つに分かれた水路の間が 「中小路」 と言うことなのかもしれない。
「小路」 というのだからそこまで大きな道では無かったのだろう。とはいえ二階堂の西側が L 字に折れているように中小路も折れ曲がって、 ここは多少膨らんでいる。
この L 字に曲がった中小路の南側に、 北金堂 ・ 金堂 ・ 金堂口 ・ 金堂水が南へと広がる。
金堂・北金堂
明治四年の絵図を見ると、 北金堂は西を頂点にして五角形になっている。この形態は概ね現在も同様であるが、 絵図と地図を見比べると多少の改変があるように思われる。
ともかく 「北金堂」 と言いながらも、 何か寺院との関連がありそうな地勢となる。
もちろん 「金堂」 は 「北金堂」 よりも面積が広く、 此方も古く何かしらの施設が置かれていたように感じる。
さて辞書で 「金堂」 の意味を調べると
・ 日本の寺院の伽藍配置の中心をなす建物で、 本尊を安置する堂。本堂。(デジタル大辞泉)
・ 伽藍の中心で、 一寺の本尊を安置した堂。平安中期頃までは、 本尊を安置する銅を一般に 「金堂」 と称していたが、 以降は 「本堂」 と呼ばれるようになった (精選版日本国語大辞典)
・ 寺院で、 本尊を安置する仏堂。伽藍の中心をなす。一般に古代寺院のもの。堂内を金色にすること、 または金色の仏像を安置することからの名という (広辞苑第 7 版)
・ 寺院で, 本尊を安置する仏殿。伽藍配置の中心。本堂。堂内を金色に装飾したことから, あるいは仏を金人ということからこの名があるという。(大辞林 4.0)
(広辞苑 ・ 大辞林は一太郎内蔵のものを使用)
と、 このように核心に迫る意味を持っていることがわかる。
つまり、 この字 「金堂」 は何らかの古代寺院の本尊を安置していた名残であった。
これは下之郷の地に 「二階堂」 以外の古代寺院が存在することを示唆するようにも見えるが、 現状で 「二階堂」 以外の古代寺院は推測でしか無く、 尚且つ字 ・ 二階堂の至近であることを踏まえると、 この 「金堂」 は二階堂内の主要施設で指すと考えるのが自然である。
また金堂水の南には字 「経蔵」 がある。この意味は釈迦の教説であったり、 そういった経典を納めた蔵というものである。金堂との関わりを考えると、 やはりそうした蔵があったと推測したい。
この字に沿って流れる水路が 「金堂川」 である。
高座
中小路の西側には南西に字 「高座」 が広がる。
「高座」 を現代では落語寄席の席を指すことが多いが、 古代寺院を抱える当地であれば僧侶が説法のために座るという意味合いが妥当であろう。
そうなると字 「高座」 は講堂か、 高僧の住居があったのだろうか。
烏堂・大道
高座の北西側には 「烏堂」、 その西に 「東烏堂」 そのまた西に 「西烏堂」 その北に 「北烏堂」 が広がる。これも寺院に附随する施設なのだろう。
その視点に立てば、 烏堂の北、 北烏堂の北東に位置する字 「大道」 というのも、 単に大きな道というのでは無く仏教用語としての 「大道」 であるように思えるのは穿ち過ぎだろうか。
市場・南市場
そして二階堂、 中小路、 高座、 烏堂、 大道に面しているのが字 「市場」 と 「南市場」 である。
この場所に市場が存在したことは非常に興味深い。この辺りが寺院 「二階堂」 の内と外を隔てる境界であったのか、 それとも 「境内市場」 なのかは定かではないにして、 寺院と思しき地点から至近の距離に市場があったことは大変意義深い。
甲良に於いて 「市場」 の字を持つのは下之郷において他なく、 古代寺院に附随する市が自ずと地域の中心となりうる、 庄内に於いて規模のある市が開かれていた可能性13はあるだろう。
「下之郷再発見ウォーク」14によれば昭和 20 年代まで商家が軒を連ねていたという。
出口
ところで明治四年の絵図には市場の西側に 「出口」 の文字が点在する。ここが二階堂の出口を示していたのかもしれない。
舞台・堂地・寺ノ内・蔵寺
なお烏堂の西には字舞台から北西に 「堂地」、 「寺ノ内」 との字が並ぶ。一見するとこの辺りも 「二階堂」 に関連するのかとも思うが、 近年 「寺ノ内」 で行われた発掘調査で縄目瓦が出土。白鳳期から奈良時代までの寺が存在した可能性が指摘されている。15
もちろん有力者の館の可能性も指摘されているので、 今後の調査に注目が集まるが、 二階堂が建つ以前から下之郷には有力者層による開発の手が及んでいたと考えられる。
また集落の南側にも 「(東 ・ 西 ・ 下) 蔵寺」 という字があり、 何らかの寺院が存在したことを示唆している。
字二階堂には何があったのか
結局、 字 「二階堂」 は何があったのだろう。
本尊となる阿弥陀如来像を納めるために 「二階建ての堂を建てた」 というのが現在の定説であるが、 本尊を安置する 「金堂」 が別に置かれていたことを踏まえると成立しづらい。
字 「市場」 に面していることを考えると、 字 「二階堂」 が寺院 「二階堂」 の入口であったか。はたまた伽藍配置として何かしらの施設があったのだろうか。

律宗寺院・二階堂「宝蓮院」について
ここからは二階堂を継承した律宗寺院 「宝蓮院」 について考えたい。
先に紹介した明徳二年(1392)の 『西大寺末寺帳』 であり、 近江の筆頭末寺として登場する 「二階堂宝蓮院」 であるが、 その明確な場所についてはわかっていない。地元下之郷では先に触れたように、 桂城神社の東側、 甲良中学校の南側の 「寺側」 と呼ばれる地域にあったと推測されている。
だがこの地は二階堂の本尊を安置したと思しき金堂と離れており、 二階堂宝蓮院の地にはならないと私は考えている。
橋本氏の説に則る形となるが、 「二階堂」 を継承した以上は、 その寺地も同じ場所を継承する必要があろう。
宝蓮寺の場所
ところで現代下之郷には 「宝蓮寺」 という真宗寺院があった。ヤフー地図では現存しているように見えるが、 Google ストリートビューで見ると駐車場になっている。わずかに寺 (道場) があったことを伝える石碑が残されているようだ。
この寺は永禄二年(1559)に開かれた寺とされるが16、 念称寺の南に隣接していた。ここは字で行くと 「高座」 の辺りだと思われる。17
だが 『こうら民話』 によれば、 明治八年(1875)に下之郷で発生した大火以前は、 現在地から約 300m ほど東の竹藪にあったという。この資料は 1980 年に刊行されたものであるから、 近い時代の航空写真で該当地点から 「竹藪」 を探すことになる。
竹藪を探す
しかし航空写真で東に 300m の土地を見ても、 字 「寺側」 の田畑が広がるのみである。同地を宝蓮院の跡地に比定したのは、 この記述に依拠するのだろうが、 「竹藪」 という条件に合わないとやはり首肯しがたい。
そもそも明治八年(1875)の大火以前に明治四年の絵図にも 「寺側」 の辺りに 「屋敷」 の表記は見られず、 同地に 「宝蓮寺」 があったとは考えにくい。(最もこの絵図上で寺院は屋敷として内包されている)
一方で 「竹藪」 との条件であれば、 航空写真上で現在地から 50m ほど南東部に見受けられる。
写真上で竹藪とは認めにくいが、 実は明治四年の絵図に 「竹藪」 を見ることができる。特筆すべきは屋敷地とも接している点であり、 大まかな絵図 (『近江国犬上郡百二十八ヶ村之内耕地絵図』) では屋敷地を示す赤と共に 「竹藪」 の文字が視認できる。
そうなると浄蓮寺はこの辺りに存在した可能性が浮上する。
字で示せば 「北金堂」 のあたりである。

(北)金堂=二階堂宝蓮院所在説
まったく結論先行型となるが、 同寺の名がかつて地域に君臨した律宗寺院 「宝蓮院」 を模したものであるからこそ、 更に前身の 「二階堂」 に由来する 「北金堂」 に位置していたと考えるのが理に適う。
宝蓮院の時代
宝蓮院が史料上見られるのは明徳二年(1391)の 「西大寺末寺帳」 である。それから延徳二年(1490)の 「神輿裏書」 ぐらいだろうか。裏書には嘉暦二年(1327)三月八日の大乱18で三郷神社などが悉く焼失した際に、 宝蓮院第二長老の行忠が尽力した旨が記載されている。
興禅寺史料に見える宝蓮院
また明応七年(1498)頃のものとされる 「近江国甲良庄内興禅寺領年貢帳 (大徳寺文書三二八六)」 には 「二階堂方」 や 「宝蓮院」 が見える。二階堂と宝蓮院がイコールであったと考えられる以上、 二階堂方は人名を差すのだろう。実際に 「二階堂どの (二三六四)」 が見える文書もある。
興禅寺は尼子郷内に存在したと思しき大徳寺塔頭養徳院の寺で、 京極政経や多賀経家と関わりが見られることでも知られる。
この頃には寺領のうち一町一段三百歩から八石二斗八升を興禅寺へ納める立場にあり、 それは明応 7 年(1498)十一月に納められた年貢のなかで最大のものであった。
もう一つの寺・成仏寺
さて神輿裏書きには第二長老の行忠について 「成仏寺開上 (山カ) 也」 と記されている。この 「成仏寺」 は橋本氏も指摘しているように 『東寺百合文書』 に登場する。
それは応永十三年(1406)のもので 「近江国甲良庄成仏寺長老明義書状」 と題された書状である。ここで明義という人物について調べてみると東寺の荘園である近江三村庄の代官を務めていた人物で、 年代がわかるものでは嘉慶 2 年(1388)のものが古い。しかし変わったところで応安七年(1374)の 「近江国守護六角高詮遵行状案」 は 「近江国甲良庄成仏寺長老明義書状包紙の紙背を利用したもの (史料編纂所データベース)」 とされており、 その登場はもう少し早いのかもしれない。
先に触れたように明義は応永十三年(1406)まで、 その動向を見ることができる。
宝蓮院の時代
神輿の裏書から類推するに鎌倉時代の嘉暦二年(1327)までに宝蓮院は成立していたことがわかる。つまり鎌倉時代の終わり頃から宝蓮院の時代が幕を開けた。
ただし宝蓮院がどのように地域社会で活動していたのか定かではない。
明徳二年(1391)には 「西大寺末寺帳」 で近江の筆頭末寺として二階堂宝蓮院は登場する。
その間に成仏寺 (=宝蓮院第二長老行忠が開いた) の長老を務める明義は、 真言宗東寺の荘園三村庄の代官としても活動していたことが応安七年(1374)の 「近江国守護六角高詮遵行状案」 から窺い知ることができる。
今回調べていて初めて知ったが、 西大寺は 「真言律宗」 であり真言宗の祖空海を高祖としている。こうした繋がりから明義が東寺の代官として活動していたのだろうか。ただし明義と宝蓮院の関わりは定かではない。
以降百年の動向は定かでないが、 明応七年(1498)には尼子郷の興禅寺へ年貢を納める立場にあった。
多賀氏と下之郷
さて興禅寺に関する事項で、 ようやく多賀氏が登場する。
ここからは下之郷と多賀氏周辺の関わりを見ていきたい。
既に述べているように多賀氏は下之郷を本拠地としている。その論拠は文正二年(1467) 「多賀大社所務渡算用状 (多賀大社文書)」 に 「下郷多賀豊後守殿」 とある点、 後裔多賀貞能の隠居分に 「下郷」 がある点、 そして数々の伝承から確実であろうと思われる。
多賀氏は文正二年(1467)の段階で下之郷に根付いていたらしい。
伝承と京極氏の甲良進出
下之郷の伝承として桂城神社の社伝 (下之郷古文書撰) を見ると、 応永四年(1397)に 「京極高員」 が築いたとある。これは多賀高忠の出自を京極氏に求めるものであるが、 現在では京極出身説は否定されており19、 こうした伝承も鵜呑みにはし難い。
道誉入部
坂田郡の京極氏が甲良に進出したのは、 京極道誉が勲功によって甲良荘の地頭に任ぜられた康永四年(1345)九月のことである。20この縁もあってか道誉自身も建武四年(1337)に甲良へ入り勝楽寺を創建し隠居している。
北村圭弘氏によると孫の髙詮が父高秀21の遺領を相続した際は、 甲良庄内尼子郷と多賀庄が含まれていたらしい。ここに 「下之郷」 は含まれないと思われる。(髙詮の弟高久が尼子を称するようになるので、 尼子郷を支配したのは高久となる)
まだこの時期は下之郷が二階堂 ・ 宝蓮院の影響力が強かったことによるのだろうか。詳しいことは何もわからない。
応永初頭の変化
しかし応永四年(1397)という時期は大変興味深い。下之郷の北隣在士にある八幡は、 応永二年(1395)に広橋家に仕える中原三河守景盛によって勧請されたと伝わる。
こうも応永初頭に伝承が重なるというのも興味深く、 やはりこうした時期に何かしらの変化が甲良に訪れたものと推察される。
中原氏の存在
ところで多賀氏は実際のところ中原姓説が有力であるが、 ここで先に触れた 『江州中原氏系図』 を見直したい。
系図には宝蓮院を創建したと思しき 「行智」 が中原氏、 更に言えば甲良氏の一族であった。
行智は中原氏のなかで 「入婿」 として甲良に入った 「薩摩大夫中原仲平」22の、 更にその子息となる西太郎中原某から五代後の人物となる。
甲良信仲の系譜
仲平の嫡男となるのが 「甲良中太信仲」 で、 信仲の長子 ・ 太郎信忠の二男に 「多賀左近左衛門信景」 が見える。
また信忠の弟 ・ 中八兵衛某の四男に 「多賀中九郎右衛門真永」 が見える。二人は信景と真永は従兄弟同士となる。
つまり系図に見える多賀氏の始まりは仲平の曾孫にあたる 「信景」 と 「真永」 の両人と言えそうだ。この 「多賀」 は彼らが多賀庄へ進出したことを示すのか、 多賀氏へ入婿したのか定かではない。
また信忠の長子 ・ 甲良刑部丞信宗の系譜では、 五代後の二階堂北左衛門刑部信正の娘に 「多賀修理亮妻」 がいる。ちなみに信正の父信永の妹は藤堂弾正の母であるから、 彼らの世代が室町時代応永以降となるのだろう。
この系図を鵜呑みにすれば多賀氏は甲良氏の中から派生した家となりそうだが、 詳しいところはよくわからない。
久保田収氏は 「多賀荘に居住していたところから出たものであろう」 としている。23
二階堂・金堂
そう考えると甲良太郎左衛門尉信高の子息 ・ 甲良左衛門太郎信継から始まる 「二階堂氏」 というのは、 彼らが甲良の中でも 「二階堂」 に住んだことから始まるのであり、 その子息信永は東に住んだから 「二階堂東太郎左衛門」、 その又子息である信正は北に住んだので 「二階堂北左衛門刑部」 となるのかもしれない。
また先に見た 「甲良刑部丞信宗」 の末子六郎左衛門信義の子 ・ 仲兵衛、 その末子 ・ 真信は 「甲良右衛門太郎」 でありながら 「金堂」 と号す。
更にその子息信直も 「二階堂掃部助」 を称しながらも 「金堂」 と号したとある。
この二人以降、 中務丞信家と刑部四郎信卿も 「金堂」 であり、 どうやら甲良二階堂氏の一族24は 「金堂」 に住んだことが窺える。
『近江愛智郡志』 は甲良や多賀、 二階堂までを 「以上犬上」 として金堂を省いているが、 甲良に二階堂、 そして 「金堂」 とくれば下之郷の字金堂、 つまり阿弥陀如来像が置かれた堂に因む地名と考えるのは自然だ。
また先に二階堂が 「二階堂屋敷」 に因むと地誌にあることを見たが、 こうした中原流甲良 ・ 二階堂氏の存在を見ると、 間違いとは言えない記述にも思えてくる。
中原系多賀氏にとっての下之郷
暫し脱線したが、 このように多賀氏にとって下之郷は一族が住まう縁の地であり、 彼らが下之郷に居館を構えるのは自然にさえ感じられる。
ここまで述べたことを踏まえると 「二階堂小四郎」 は中原系図に見られる甲良系二階堂氏の可能性がある。25
そして 『江北記』 に見える京極家根本被官の 「二階堂」 というのは、 小四郎を輩出した中原流甲良二階堂氏を指すものと考えることができる。
ただし、 これら甲良二階堂氏の流れを汲む 「多賀氏」 と、 京極氏の被官として名を馳せ豊後守高忠を輩出する 「多賀氏」 はどのような関係にあるのか、 まだまだわからないことが多い。
ここではそうしたことを保留として先に進める。
下之郷の城
下之郷の字、 いや甲良町の字の中で唯一城館の痕跡を示唆するのが字 「城」 である。
その名は村の名前をとって 「下之郷城」 と現在は呼ばれているが、 他に 「元来葛城」 が 「古来犬上郡下之郷多賀豊後守高忠之城名二御座候」 とする説もある。26
「葛城」 は現在神社名で 「桂城神社」 が、 また法養寺に接する形で字 「葛城」 が見られることで残る。ひろく下之郷のなかで、 元来周辺一帯は 「葛城」 という地区であった可能性もありそうだが今一つよくわからない。「葛城」 で一つの城名なのか、 「葛城城」 とするのか。それなら 「葛城館」 とする向きもありそうだし、 同様に 「下之郷館」 とも言えそうである。ここでは便宜上 「城」 とのみ表現する。
城の位置
その場所は神社地 (宮前) の南側、 北金堂 ・ 金堂の西側である。
ここが多賀豊後守家の本拠地下之郷で、 記録からわかる限りでは文正二年(1467)から約百二十年近く本拠地としていた城だ。(『嶋記録』 によれば八ツ尾の山にも城があったとされる)
明治四年の絵図にも 「多賀豊後守高忠城跡」 と記されていて、 「定納地」 として桃色に塗られている。
現在は福祉施設や住宅として活用されている。字としては城の南に 「堀之内」、 「堀端」 と連なる。
城の範囲と遺構
『滋賀県中世城郭分布調査 5』 によると、 字 「城」 を地元では 「殿城」 と呼び、 その調査では 「北金堂」 と 「金堂」 の藪には池跡と伝えるところが何カ所があって、 古老の証言によれば堀であったところに水が溜まったものであるという。また調査当時には土塁の高まりも見られたようで図版には北金堂内に L 字状の土塁が描かれている。
またこの図版には描かれていないが、 ゼンリンの 『住宅地図』 で福祉施設建設前の様子を見ると、 神社側に向いた L 字状の畑地を見ることができる。これが土塁の痕跡なのかは定かではないが、 今回の調査で得られた情報として記しておこう。
ただ神社側に向いているのなら、 其方の守りとしての土塁であるようにも思える。一応のところ明治十一年(1878)二月廿七日付の 「下之郷邨村誌」 には桂城神社 (六所社) を 「文明年中多賀豊後守高忠居城」、 五十告神社の説明にも 「多賀豊後守高忠居城ノ旧跡ナリ」 とある。城と六所社の境界は曖昧であったのかもしれず、 L 字状の畑地が 「城」 の痕跡であった可能性は無きにしも非ずといったところか。
立地と神社仏閣
この場所が城郭となる以前、 未開拓であったのか二階堂金堂 ・ 宝蓮院に附随する施設であったのか興味を引くところであるが実情は定かではない。
更に言えば六所社の敷地を利用したような近さでもある。
しかし室町時代以降に二階堂宝蓮院が衰微したと仮定した場合、 多賀氏が拠点を構えた事による影響を考慮する必要がある。
というのも 『中世城郭分布調査』 が指摘しているように、 本来寺地であったはずの北金堂と金堂に城郭を構成する土塁 ・ 堀跡が残っていた点は武家の伸長を感じさせる。最も両地に残っていた痕跡が城郭のものではなく、 二階堂 ・ 宝蓮院のものである可能性もここで指摘しておきたい。
ついでに記すと城の鎮守は元より存在する六所社を用いたものと思われるが、 東隣の法養寺には字 「大将軍」 が見える。これが城の鎮守たり得るか確証は無いが、 念のため記しておこう。

*城域と南寺側を隔てるように 「鹿垣」 という字がある。この字がいつからあるのか定かではない。ところで湖西には明神崎から鵜川 ・ 北小松、 勝野 ・ 伊黒へ石垣が続く景観があるという。白井忠雄氏によるとこの石垣を 「シシ垣」 といって、 江戸時代の害獣対策であるらしい。27
この例を踏まえると下之郷の字 「鹿垣」 も同様に江戸時代の成立とも考えられそうである。
本領
ところで多賀豊後守家の本領については、 「多賀信濃守隠居分」 をもとに北村圭弘氏28が分析している。それによると甲良荘を中心に、 犬上川右岸の石灰荘 ・ 一円荘から愛智郡までが本領と考えられるようだ。
多賀氏の動向は愛智郡にある金剛輪寺の史料にも現れるが、 金剛輪寺は北我孫子や西明寺、 八ツ尾山に近いため頻出するのは少し納得がいく。
また藤堂氏も同じ愛智郡で我孫子の西に位置する蚊野に私領29があったと考えられるが、 やはり多賀豊後守との関連が想起されよう。
一説に依れば尼子氏は我孫子の北に位置する円城寺にも拠点が存在した伝承30もある。こうした甲良庄有力者の愛智郡領というのは、 前史同郡が京極氏の領地の一部であった関係であろう。

*金剛輪寺は湖東三山 SIC のあたり。
家臣伝説
結局下之郷の館がどのような形態であったのかは定かではない。字 「城」 が 「殿城」 だとすると地元伝承を鑑みると、 この地に館が置かれたのだろう。
字 ・ 地割を見るに、 こうした館を中心として南北に一族や内衆の居住地があったと見られる。なお一族の一部は後年、 北隣 「さいし」 の藤堂氏へ婿入りすることで移住している。
虎高出生伝説・川並氏説
一方で地元の伝承として藤堂高虎の父虎高は、 実は多賀氏の家老と伝わる川並氏の生まれで、 その出生地は北金堂地内であるともされる。31
もちろんこの伝承は曖昧で、 実際のところ川並氏が多賀家中でどのような立ち位置にあったのかさえも定かではない現状では、 慎重にならざるを得ない。
ただし北金堂地内に家臣の館があったとするのは興味深い伝承で、 先に触れたように北金堂地内の土塁 ・ 堀の痕跡が存在したことを踏まえると同地にも城に関連する施設が置かれた可能性はあるだろう。
その場合、 武家が二階堂 ・ 宝蓮院側にも伸長し、 寺院地を 「活用」 したとも考えられる。
与力・寺井又三□
江戸時代、 下之郷には酒店を営む 「寺井十左衛門」 なる人物がいた。
十左衛門の先祖は 「寺井又三□[郎カ]」 といい、 多賀豊後守が与力であったいう。
これは 『淡海古説 (坤)』 に記された逸話である。
この後に寺井の功績として、 「北野」 での武功が挙げられるが、 この戦いは天文 16 年(1547)十月に京都 ・ 西の京周辺で勃発した細川国慶迎撃戦であろう。32
そうして 「大勢」 と渡り合い 「高名せし」 寺井に対して感状が発給された。
だが感状を発給した人物に少々疑問がある。
すなわち 「佐々木大膳太夫義資」、 「佐々木修理太夫晴元」、 「佐々木六角四郎定頼」 の三将から感状をうけたことになるが、 「佐々木大膳太夫」 なる人物は六角高頼以降存在せず、 「佐々木修理太夫晴元」 が細川晴元であるのなら彼は 「細川右京大夫晴元」 となり合致しない。
更に六角定頼は大永元年(1521)には 「弾正少弼」 へと叙されており 「四郎」 には当たらない。
つまり 『淡海古説』 に見える三名というのは少々怪しく33、 感状そのものにも疑念を抱きそうである。
最も 『下之郷古文書撰』 に感状は収録されておらず、 『淡海古説』 の編纂以降に失われたものと思われる。明治の大火で焼失したのだろうか。
とはいえ多賀氏の与力を名乗る家で、 加賀藩士多賀家の系図と同じ 「北野」 の地名を大切にしていたように見えるこの逸話は大変貴重である。由緒として代々受け継いできたのか、 はたまた加賀との交流がどこかであったのか想像は尽きない。
史料に見える高忠と二階堂
今回綿密な調査を行ったところ、 意外なところで下之郷に関する記述と出会うことが出来た。
実澄記
『実澄記』34は室町時代、 湖東の国人小倉左近将監実澄が手掛けた書物である。
彼は巻末にて 「多賀豊後守高忠弟子」 と記すほど、 高忠を師と仰いでいたらしい。それだけに 「多豊物語」 の語句が多く、 この書物の性質は高忠の故実逸話書といった具合だろうか。
甲良庄在国時の弓矢逸話
この中で興味深い話がある。私は故実に関しては詳しくないが、 「多豊甲良庄に在国の時 (17 コマ)」 と高忠が在国していた頃の話らしい。
其頃日甲良庄[カ]二階堂の本堂にて日記のおもて濃矢を沙汰して見せて
『實澄記』 (筑波大学附属図書館所蔵) 出典: 国書データベース,18 コマ https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100271848/
*NDL 古典 OCR lite を用いて翻刻
と叙述されている。(OCR の精度はまだまだ課題なので翻刻を再考する価値はあるだろう)
似た内容は江戸時代の随筆 『塩尻』 にて 「犬追物検見矢沙汰の事」 としても載る。
更に 『塩尻』 では 「文明十八年正月十四日」 の事として、 「甲良座下郷宝蓮院」 ともしている。年月日の根拠は定かではないが、 ここで二階堂を 「宝蓮院」 と判断しているのは興味深く、 編者の尾張藩士天野信景が何を参考としたのか気になるところである。
二階堂本堂
ここで述べたいのは、 高忠の時代にも 「二階堂の本堂」 として扱われていた点と、 高忠がその庭を用いて 「日記のおもて濃矢を沙汰」 と、 何やら弓矢の沙汰をしている点である。
恐らく 「城」 には弓矢の沙汰を満足に行える施設 ・ 広さが無かったのか、 二階堂の本堂で行うことが父以来35の通例となっていたのだろうか。
下之郷が多賀氏の本拠地となった後も 「二階堂」 は地域に君臨していたが、 その実態は多賀氏が庭で弓の沙汰を行い、 更には土塁が築かれた可能性があるなど多賀氏が優位に立っていたように思える。
下之郷と戦禍
多賀高忠は京極家の中心的な立場となったが、 その栄達は下之郷に戦禍を招いた。
神輿裏書を見る限りでは文明十一年(1479)、 延徳二年(1490)の二度被害を蒙ったようである。延徳二年(1490)は高忠の没後であるから、 息子新左衛門経家の為に攻撃されたことになる。
高忠や経家たちは八尾の山に詰めの城があるとしても、 二階堂の建物や本尊阿弥陀如来像は逃げようがなかったと思われ、 本尊を護るために下之郷の民が奔走した姿が目に浮かぶ。
戦国期の戦禍
多賀経家が敗死した後も後継者の多賀貞隆が京極六郎と対立したことで、 天文四年(1535)正月に北郡兵によって夜襲を受けている。
この後、 京極方は六角方に転じた貞隆を誅すためか、 中郡を見下ろすことができる男鬼入谷に城を築く。
そして天文十九年(1550)十一月に多賀 ・ 四十九院 ・ 枝村を放火した。
その後永禄七年(1564)までに北郡 ・ 浅井長政の勢力に収まるが、 地域が北郡勢力と六角勢力の境目にあることを考えると、 その過程で浅井長政と六角の戦乱に巻き込まれた可能性も無きにしも非ずというところか。36
地元の伝承では永禄十一年(1568)の信長襲来によって下之郷は多賀氏が城を枕に討死したことになっているが、 貞隆の後継者である 「多賀新左衛門尉貞能」 がその後織田方として活動していることを考えると真実とは言い難い。
多賀氏支配の終焉
下之郷における多賀氏支配に変化が訪れたのは、 天正十年(1582)の明智光秀の乱に貞能が加担したことだろう。一乱終結直後、 下之郷は貞能の隠居領と定められていたものの、 結局彼が羽柴秀長の麾下に加え入れられたことで大和へ移住したらしく、 ここに約百二十年ほど続いた多賀氏の支配は終わりを迎えたようである。
貞能は天正十五年(1587)、 九州征伐中に病死した。
下之郷の地は蔵入地となったようで、 天正十九年(1591)には石田三成が代官となった。[^石田]
石田の敗死後は井伊家領 (=彦根藩領) として明治を迎えることになる。
多賀氏と下之郷・二階堂
結果として多賀氏の立ち位置が二階堂の衰微 ・ 破損を招いたと考えられる。だが批判だけでは少々申し訳ない気もするので、 何か多賀氏の存在が二階堂宝蓮院に好影響をもたらしたことを考えたいのだが、 現状では何も言えない。
気になるのは多賀一族にどの程度二階堂への崇敬があったのか、 という点である。わかっている限り高忠 ・ 貞隆は禅宗で、 特に貞隆の供養は同じ甲良でも勝楽寺で執り行われている。
真宗の浸透
現在の下之郷には西応寺、 法専寺、 念称寺と三つの寺がある。何れも真宗だ。
「下之郷邨村誌 (下之郷古文書撰 ・ 明治 11 年二月廿七日)」 によると、 西応寺は寛弘七年(1010)に心覚が創立、 法専寺は永享五年(1433)に舜願が中興、 念称寺は明応七年(1478)に行心が創立とある。何れも 「本村中央」 にあったそうだが、 これが宝蓮寺同様に 「北金堂」 を指すのかはよくわからない。
しかし真宗が室町時代に隆盛したことを考えると、 西応寺や法専寺は創立当初は別の宗派であったはずだ。
戦後刊本 『近江輿地志略(1976)』 の註に依ると、 西応寺 (本) は文明四年(1472)の改宗、 法専寺 (大) は元々永観二年(984)に開かれた天台寺院であり、 舜願の時に改宗したというから永享五年(1433)の改宗となる。また念称寺 (大) は室町期に天台寺院として開かれ明応頃改宗とある。
この戦後刊本の 『近江輿地史略』 の註は何を元にしているのか定かではないが、 大変興味深い記述である。
西応寺は改宗までの九代は時宗の寺であったそうだが37、 それ以前の宗派は定かではない。
こうしたところで律宗寺院 ・ 宝蓮院が時代の流れで真宗寺院宝蓮寺となったのは、 宝蓮院が下之郷の有力者多賀氏の崇敬を集められなかった点が大きいように思う。
その点真宗は室町時代後半には近江で一大勢力となっていたし、 門徒に商工人が多く居た点からすれば 「甲良市場」 を抱える下之郷に真宗が浸透するのは自然なことであったと思う。38
ちなみに街道筋の四十九院の地名は行基の造寺活動に因むようだが、 中核寺院の唯念寺は永正三年(1506)に改宗している。
番方講
こうした下之郷の真宗門徒と多賀氏の兵は同一なのか、 別の層であるのか、 多賀氏の内衆は大多数が不明なので如何ともし難い。地元の伝承では川並氏の倅が西応寺の門徒を率い大坂石山本願寺へ馳せ参じた 「番方講」 の逸話が残されている。39
一つ言えることは、 多賀貞能は自らの本拠地下之郷から、 民の離反 ・ 門徒の一揆挙兵を許してしまったのである。織田方から貞能がどのように見られたのか定かではないが、 後に堀秀政の弟を婿に迎える点からすると、 罰するほどでは無かったようだ。
本尊移転
そうした中で天正六年(1578)、 二階堂の本尊である阿弥陀如来像が安土の浄厳院へ移転し、 本尊として安置される。
これは台座真柱の墨書によって知られるところであるが、 江戸時代の 『淡海古説乾』 には 「宝□寺退転」 の際に本尊は安土の寺へ移ったと述べられており、 それなりに知られた話であったらしい。40
二階堂と浄厳院
なぜ二階堂の本尊が浄厳院へ移されたのか。これは浄厳院の前身が 「慈恩寺」、 つまり 『西大寺末寺帳』 にて二番目に記された 「佐々木慈恩寺」 であることが大きいように感じる。また寺の楼門の造営、 楼門に仁王像安置造作を担当したのは隣村法養寺の甲良氏であったことも理由になるのだろう。甲良氏の系譜 「甲良番匠代々相伝之事」41によれば二階堂宝蓮院が破壊などを受け傷んでいたので、 甲良三郎左衛門宗貞が曳き移したとある。
真偽はともかくとして信長肝いりの寺へ本尊を移した、 もしくは送ることになった経緯というのは大変興味深い。多賀貞能の関与が思い浮かぶのは自然だろう。
葛城不動
ところで明治三年の 「乍恐以書付御歎願奉申上候 (下之郷古文書撰所収)」 には葛城の 「不動橋」 の由来について、 天正年中織田信長公が下之郷宝蓮院の恵心僧都作の如来を 「安土金勝山」 へ移した際に、 同所護摩堂の不動尊を如来の旧跡へ迎えたことから 「葛城不動」 となったとしている。また昔から 「御改帳」 には 「不動堂壱軒」 の記載もあるという。
同様の記述は桂城神社の社伝にも見られる。
この 「葛城不動」 について明治四年の絵図を見ると、 下之郷側には 「不動」 を見ることは出来ないが、 実は法養寺村の絵図に字 「不動」 や 「堂前」 を見ることが出来る。類推すると両村の境目に存在した可能性もあるのだろうか。ただしその場合 「如来」 の旧跡に迎えたとする記述とは矛盾してしまう。
『広報下之郷第 129 号』 によると不動橋は下之郷の東端、 高野道から東に延びる道を指すらしい。明治四年の絵図に字 「ノカミ」 の辺りに橋が見えるので、 これが 「不動橋」 と思われる。
また 『広報下之郷第 126 号(2019.12)』 「下之郷のお不動さん」 によると、 村の庄屋が不動明王を夢に見たのでお告げに従って橋の下を掘ったところ 「大きなお不動さん」 が出てきた。それが 「不動橋」 の由来とある。
どうやら 「不動」 についても二つの説があるようだが、 ともかく現在 「不動さん」 は桂城神社の鳥居横に存在しているとのことであるから、 不動尊像は健在と思われる。
二階堂の石塔
最後に二階堂に関する逸話を一つ紹介したい。
織田信長が観音寺の六角氏を攻落としたとき、 取り残された佐々木氏一族の御台所たち約五十名が 「下之郷あひこ宝□寺」 へ懸込み、 二階堂の衆徒として匿われたと 『淡海古説』42には述べられている。
二階堂宝蓮寺が 「下之郷あひこ宝□寺」 とされているのはよくわからないが、 衆徒として隠したのは興味深い。
その内訳を読める範囲で列挙すると、 梅戸、 伊庭、 平井、 鯰江、 三井、 建部の女性たちのようだ。
その後彼女たちが亡くなると塚を築き手厚く葬ったそうだが、 慶長の乱で失われ編纂当時は既に田地で僅かに 「石塔地」 の字が残るのみと云う。また当時既に由来を知るものは減って、 墓石などは村の石橋などに利用されていたらしい。
とはいえこうした縁によってこの辺りの村々には、 「佐々木重宝」 を保有する百姓もいたという。
このような話で史料的裏付けに乏しく史実とは言い難い。
だがしかし、 下之郷のサイト記事によると用水路掃除の際に 「石塔橋」 付近から 「宝篋印塔などの石造物がたくさん出てきた」 そうだ。これは在士の塔同様に鎌倉時代のもので、 確かに 「石塔」 の地に 「石塔」 は存在していたことになる。(最も 「石塔橋」 の場所は不明である)
そうなると由緒が失われた石塔の由来を、 六角氏の女性たちに求めただけ、 というのが話の真相なのかもしれない。
もしも話が真であるならば、 永禄十一年(1568)織田方に与した多賀貞能の心中には幾らばかりか六角氏に対する想いというものがあったのだろうし、 六角氏の女性たちにとって貞能は信頼できる存在であったのかもしれない。
宝篋印塔は現在は念称寺に保存されているらしい。
終わりに
以上、 下之郷について長々書き連ねてみた。
結局のところ史料からわかるところはごく僅かで、 地元の伝承と字から類推するので精一杯だ。
それでも朧気ながら二階堂宝蓮院を中核とした町の景色が浮かび上がり、 多賀氏累代や高虎の母がこうした環境で生まれ育ったことを知ることができる。
特に藤堂高虎の素養を考える上で、 古く寺院を中核とした規模を持ち多賀氏の本拠地となった当地の存在は重要であろう。
多賀氏の台頭と共に、 二階堂の寺としてのプレゼンスは低下していったのは皮肉にも感じるが、 実情はよくわからない。
戦国時代の末には兵火の伝承が地元に残る。ただこれらも何処まで信じれば良いものか。何かしら遺物遺構が発掘 ・ 発見された時に判断したいものである。
現在では城館の遺構らしいものも残っておらず、 そもそも多賀氏の存在というのも史学的、 マニア的にもあまり重要視されていないので、 甲良を訪れても在士や勝楽寺を訪ねて下之郷に見向きもしない人が多いのは大変に勿体ない。
今後とも史実と顕彰を上手い具合に両立させて、 少しでも古代から中世、 そして近世近代と歴史を刻んだ下之郷の町を盛り上げるたいという決意を結びとしたい。

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『こうらぐるり散策ナビ (甲良町役場産業課,2018.11)』
⇧「犬上川左岸扇状地における律令期集落の発生と展開 (滋賀県埋蔵文化財センター紀要 2,1988)」
⇧「多賀家文書」 の幾つかの系図を指す。
⇧天文七年(1538)と推定される三月二十七日付定頼書状写 (古証文四 ・ 遺文三九五) の宛名が 「二階堂小四郎」 であり、 彼は佐和山城の戦いに於いて北郡方の若宮弥左衛門を討ち取ったらしい。
⇧
北村圭弘氏については 「多賀氏の系譜と動向 (滋賀県立琵琶湖文化館研究紀要第 40 号,2024/3)」 を参考とした。
橋本氏の指摘は 「中世における犬上川扇状地左岸の再開発についての基礎的考察–水利復元を中心とした景観分析による地域史研究に向けて (琵琶湖博物館研究調査報告 8,1996/3)」 である。橋本氏の論文内で引用。原典は下之郷古文書撰
⇧『近江愛智郡志 巻一』、 『続群書類従 第七輯上』。ところで中原氏がこの時代既に官人であったことは興味深く、 室町時代広橋家で活躍する中原流藤堂氏はこうした流れにあるのか、 とも考えられる。
⇧『重要文化財浄厳院本堂(阿弥陀堂)修理工事報告書(1967)』、 『近江路の彫像 : 宗教彫刻の展開 (宇野茂樹,1974)』
⇧橋本論文から。原典は 『下之郷古文書撰』。
⇧広報下之郷 39(2002)掲載の字図から
⇧『古代 ・ 中世の下之郷 (川並稔男,1989)』 から。なお筆者の川並氏は鎌倉二階堂の 「永福寺」 に因むとするが、 実際のところはよくわからない。
⇧「二階堂道薀と二階堂宝蓮院」 2025-1221 閲覧
⇧甲良市場に関して、 中世の 『今堀日吉神社文書』 には 「甲良市奉行」 が差出人の一人となった貞和元年(1345)三月二十日付の史料が存在する。最もこれは応永年間に発生した相論の際に制作された偽書である。(『五個荘町史第 1 巻』) とはいえ応永の末頃には甲良に市があったらしいことがわかる。
⇧
他に応永三十四年頃とされる書状案に 「甲良四十九院の市」 への野々河の塩売り (保内商人) は洗礼によって商売をしたことがない旨が記されている。この 「甲良四十九院の市」 というのが、 「甲良」 と 「四十九院」 を一緒にしているのか、 はたまた 「四十九院」 も当時は甲良であった (高山公実録) の為なのだろうか。
そのようなところで仲村研氏は甲良市を 「甲良四十九院市」 と附記しており (『中世地域史の研究』)、 甲良市が下之郷だった可能性と四十九院であった可能性の二説ができる。四十九院は街道筋だから、 やはり此方の方が下之郷よりは格上だったのだろうか。
また享禄二年(1529)には四十九院市や高宮市など 「従愛智川北市」 に達子とができる 「相物商人」 に 「小甲良」 が四十九院や高宮等と共に指定されている。 「小甲良」 という地名は 『多賀大社叢書』 の記録編で十六世紀末から十七世紀にかけ何度か見られる。しかし天正十九年(1591)の目録に 「小甲良」 は見られない。ある筈なのに無いというのは奇怪である。しかし 「甲良」 というのは 「かわら」 とも読むことがあたるので、 これは恐らく 「小河原村」 のことだろう。すると 「小川原」 に商人が居たことになる。この辺りはよくわからない。出典は https://shimonogo.under.jp/saihakken/list1.html から 「20 市場筋」 2025-1221 閲覧
⇧下之郷西遺跡の発掘調査(甲良町の埋蔵文化財 ; 1) 2025
⇧「下之郷邨村誌 (下之郷古文書撰)」 より。ただし宝蓮寺は江戸時代の宝暦四年(1754)に唯念寺道場となっている。(『近江輿地志略,1976 刊本版』 頭注より。なお同じ頭注では永禄四年に開かれたとされる)
⇧『古代中世の下之郷 (川並稔男)』 は高座について 「中世専修念仏の道場が設けられたところ」 としている。これは宝蓮寺を指すと思われるが、 具体的なところはよくわからない。
⇧この大乱の詳細はよくわからない。
⇧二木謙一氏は 『中世武家儀礼の研究(1985)』 のなかで、 多賀高忠が京極氏出身では無いことを明らかにされている。
⇧南北朝期 ・ 室町期の近江における京極氏権力の形成 (北村圭弘,滋賀県文化財保護協会紀要第 31 号,2018)
⇧『荘園制社会と身分構造 (竹内理三,1980)』 に依るところ 『尊卑分脈』 で高秀には 「甲良」 と振られており、 この系統は 「甲良」 を号していた、 と指摘されている。
⇧薩摩は下之郷から西に、 宇曽川 ・ 愛知川の河口のちょうど中間地点に位置する地域を指すのだと思う。仲平の父季仲は日吉下庄の 「新宮氏」 を継ぎ、 その二男に当たる仲平が犬上郡薩摩 (滋賀県史 3 巻) を領した後、 婿入り先の甲良へ移り住んだと考えたい。
⇧
橋本氏は仲平が婿に入った先を甲良の開発者 「秦氏」 と推測している。
薩摩に関しては仲平の二男盛家に 「薩摩太夫」 とあるから、 盛家が継いだらしい。「中世の多賀大社 (『多賀大社叢書論説編』 ,1977)」
⇧かつて四十九院に音通寺という真宗寺院が存在したが、 この寺は永正三年に甲良左兵之助によって天台法相の寺として創立された。この開基甲良左兵之助は 「下之郷居城二階堂出羽守長男」 とある。実際のところは定かではないが、 今回見たように中原氏の系図上で甲良氏と二階堂氏が同族であることが理解できる以上、 有り得そうな話である。
⇧二階堂氏といえば江戸時代の地誌 『淡海温故録』 に 「河原ノ庄ノ内ニ建武ノ昔二階堂出羽入道道雲領ヲ得テ下リ下之郷村ニ居住ノ由代々相続シテ近キ天文ノ比迄二階堂左衛門伝記ニ見ヘタリ永禄乱ノ記ニハ見ヘズ処ニ蟄居スト云」 とあり、 この一部は 『江左三郡録』 にも引用されている。
⇧
これは地名 「二階堂」 の由来を寺院 「二階堂」 ではなく、 中世名のある 「二階堂氏」 に求めたものだ。
「伝記」 というのは確かに天文の時代 「二階堂左衛門」 を 『言継卿記』 に見ることができる。彼は奉公衆で他にも一族が足利将軍家に仕えている。しかし彼らと甲良の関わりは史料上わからない。
これは木下聡氏 『室町幕府の外様衆と奉公衆(同成社中世史選書 ; 24)』 でも同様で、 二階堂氏と近江の間に接点は認められない。
ただし 「常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到」 に見える 「二階堂山城判官」 には 「江州」 と振られている。
米澤洋子氏は 「二階堂政行 (山城判官)」 が 「近江評定衆」 の一人であると説くが、 この付記との関連は定かではない。(『山科家の記録にみる中世後期の贈答に関する研究』 2021)
参考までに述べると寛政譜所収の京極氏系図は京極道誉の妻を 「三河守時綱」 の娘だとする。つまり二階堂時綱が道誉の舅となる。字二階堂の由来を彼ら二階堂氏に求めたのは、 江戸時代地誌の編纂者がこの系図を把握していたことに依るのだろう。下之郷古文書撰より 「乍恐以書付御歎願奏申上候 (明治三年)」
⇧「団塊の世代」 の囁き (白井忠雄) 『淡海文化財論叢 第一輯(2006.3)』 より
⇧北村前掲論文(2024)
⇧永禄年間九月二十一日付付藤堂九郎左衛門尉宛浅井長政書状 (養源院文書)
⇧甲良町尼子地区 「土塁公園」 の掲示板にある 「京極 ・ 尼子系図」 に依ると、 二代目の氏宗が正長元年(1428)円城寺に城を築いたとあるそうだ。(Google マップ画像) ただこれもどのような史料に依拠する記述なのか定かではない。しかし築城云々の真偽が定かではないにしても多賀氏 ・ 藤堂氏が円城寺周辺で領地を有していたことを考えると、 尼子氏が領地を保有していたことはそこまで不自然とは言えない。
⇧出生地については 『広報下之郷』 No9 (1995 年 9 月号) 「藤堂氏系譜 (下之郷古文書撰)」 によれば、 川並氏は佐々木泰綱の流れを汲み六角に仕え神崎郡川並北荘佐野 (東近江市五個荘) に住んだことで 「川並」 を称したらしい。その後、 六角氏の不興を買い京極氏を頼り坂田郡船﨑 (米原市舟崎か) へ移住。京極高員が下之郷に居城していたときに家老となって下之郷へ移ったとある。その後、 文明の時代に八尾 ・ 平野に敵が乱入した際には、 同じく家老とされる上野氏と共に高忠の馬の前で一番槍の活躍を見せたらしい。この活躍した川並基守の二男が高虎の父虎高となる。大変興味深い伝承であるが、 実のところは定かではない。
⇧この戦いは 「京都合戦 (大徳寺文書 ・ 二二五三 ・ 弥首座禅師宛半隠軒宗三 十月九日付書状)」 とか 「大将軍口合戦 ( 遺文六二二 ・ 細川晴元書状写 ・ 永原太郎左衛門宛の感状)」 と呼ばれ、 加賀藩多賀氏が所有した系図では 「北野合戦 (多賀文書 ・ 寛文六年版)」 や 「小野合戦 (多賀文書 ・ 慶應年間版、 多賀氏世系 ・ 文化年間版)」 と呼ばれる。
⇧
他に軍記 『細川両家記』 では 「内野西の京にて」 と叙述されている。
地名が混在しているが 「大将軍口」 と 「北野」 は概ね一つの地域と言え、 「内野西の京」 とも地続きなのである。(小野はよくわからない)
このようにして同一と判断した次第である。要は沢田源内 『江源武鑑』 の影響を感じさせる
⇧『實澄記』 (筑波大学附属図書館所蔵) 出典: 国書データベース, https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100271848/ 2025-1221 閲覧
⇧同記には高忠の父について 「月洲法名宗円物語(22 コマ)」 と見える。父である多賀高長のことだ
⇧こうしたところは弊サイトの 「高虎年表」 シリーズを一読のこと
⇧『下之郷の歴史- 人々の信仰』 より 2025-1221 閲覧
⇧「近江湖西地域における蓮如教団の形成と展開 (山田哲也 ・ 講座蓮如第 5 巻)」 では高島郡のような湖西を例としているが、 五箇商人の本拠地とも言われる薩摩の善照寺門徒が高島郡でも確認できることから、 甲良も同様に商人が門徒をしていた可能性もあるだろう。
⇧『甲良町史』
⇧東京国立博物館所蔵 ・ QA-4407 淡海古説 ; 乾坤 野津基明/著、 舟橋昇誠/写江戸時代 ・ 天保 9 年 閲覧はこちら 2025-1221 閲覧
⇧恵心僧都が丈六の仏像を作らせ、 同時に御堂も建立させるのだが、 その際に奈良中の大工上匠、 彫刻の上手を召し寄せている。そして恵心の没後、 治安二年(1022)に恵心の弟子にあたる定朝が法橋上人の位を授けられた際に甲良大工は藤原姓を賜り、 甲良番匠はその流れを汲むという。この系図は 「甲良略系」 とは異なる部分があり、 同族別家の系図であるかもしれない。(下之郷古文書撰 ・ 甲良番匠代々相伝)
⇧元は 『石塔橋秘話 ・ 番方講』 より。大元の 『淡海古説』 については東京国立博物館所蔵 『淡海古説乾 (QA-4407)』 の 18-19 コマを閲覧。2025-1221 閲覧
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