最も古い藤堂高虎宛書状は?

藤堂高虎の前半生というものは謎に包まれている。特に一次史料に於いて藤堂高虎が登場するのは 宗及自会記 の天正十二年(1584)十二月九日昼 羽柴孫七郎 秀次 と藤堂与右衛門 次の間に宮部藤左衛門があるという記録が初見である。
2023-02-27

2023-11-23 小野木書状を加え構成を変更

山県長茂覚書に見る天正九年(1581)の高虎

他に時代は下るものの 信頼できる史料として山県長茂が寛永二十一年(1644)に吉川家へ提出した 山県長茂覚書 が存在する。
天正九年(1581) 長茂は経家の側近として鳥取城に詰めた。
その当時の記憶を回顧したものか 当時に書き置いていたものを纏めたのか定かでは無いが 七月五日に 小一郎 を大将とした二 三万騎が丸山へ入ったとある。その麾下に 藤堂与右衛門 と記されるが これが信頼できる史料に於ける最も早い高虎の動向記録となろうか。

天正十二年(1584)・小牧長久手合戦における高虎宛て書状

この記事を書いたのは二月のことであったが そこから数ヶ月経ってようやく三重県が出版した 三重県史資料叢書 5 藤堂高虎関係資料集補遺 藤堂高虎関係資料一覧 三重県史研究 27 を閲覧した。資料集は高虎に纏わる文書が県市町村 編纂物別に纏められ 資料一覧は高虎に纏わる文書を年表にしてまとめたもので非常に利便性が高い。特に史料集にありがちな発給文書オンリーではなくて 高虎宛の書状であったり 文中に高虎が登場する史料も掲載されている。
もっと早くに出逢っておくべきであったが 結局のところ私が得意とする文禄以前の史料は概ね把握済みであった為にそこまで急を要するものではなかったのも事実だ。今回二つの資料を閲覧した目的というのも 史料編纂所で閲覧するも解読に難があった 上坂文書 の高虎宛文書 その翻刻を求めたところによる。

そして二月にこうした記事を書いていた私は同時に 一番古い書状は何か という興味を抱いた。
答えは今回紹介する某年十一月十七日付藤堂与右衛門宛小野木重勝書状写であった。この書状は 宗国史 に収まるもので 私も何度も目にした書状であった。しかし具体的にその年次を考えたことは無く 何れ試みようと思っていた程度のものであった。

十一月十七日藤堂与右衛門宛小野木重勝書状写

態令啓候此表之儀御無事相調去十五日に三介殿被成御参会則十六日に 秀吉様御馬被納候今度御入魂之御仕合中〻不大形儀候天下静謐之段誠以珍重存儀候 家康近日人質可被出候由候間定而其節は各可為御甘 くつろぎ と令察候此中御苦労不及是非候次尾州表為城破拙者可罷越候由被仰出候被成御意候處又御用被仰付罷帰候何篇此方へ御帰之刻傍〻可承候問不能程候 恐〻謹言
小野清
 十一月十七日      重 花押
藤 輿右様
      参人〻御中

内容は秀吉側近の小野木重勝が高虎に対し 去る十五日に三介 信雄 が秀吉と参会し 十六日に 御馬納 すなわち大戦の終結と 家康が人質を出すこと 尾州の城の破却命令を知らせるものである。
この書状について 愛知県史資料編 織豊 2 小野木重次 羽柴秀長の臣藤堂高虎に 同月十五日に秀吉と織田信雄が講和したことを伝える と見出しをつける。

また小林清治氏は 秀吉権力の形成 の第三章 信長 秀吉権力の城郭制作 三 秀吉の城郭政策 にて

十一月十七日 秀吉は直ちに小野木重次に尾州表の城破却のことを命じた

と触れている。小林氏の解説に依れば破却を命じたのは 楽田 尾口 奈良 宮後の四城 小牧の戦いに際して秀吉陣営が築いた砦群の使用停止に伴う破却を命じたものとなる。
この書状からわかることは高虎が秀吉側近から書状を受け取る立場にあったことである。

小牧長久手合戦と高虎

藤堂高虎と小牧長久手合戦については 後々 高虎の前半生 で触れていくつもりであるが ここで簡略に述べておこう。
まず高虎は秀長に付き従い 三月織田信雄が要衝 松ヶ島城攻めに加わり 二ノ門 に真っ先に乗り入れたと編纂史料は述べる。
三月半ばに松ヶ島城の守将滝川三郎兵衛が開城すると その後は小牧へ転戦したらしく 四月に小牧で首を穫ったとか 高山公実録 家譜 新七郎が小槙陣で 高名 実録 新七郎家乗 宗国史は服部竹助が 池田新兵衛 を獲った =討ちとりか としている。

尾州転戦

服部竹助家乗 実録 は詳細な記述があり 尾州小牧陣へ被成御立楽田おくちかうた御合戦の節御供仕候 此城責落其節手負兜付首一取申候 とある。おくちは小口 尾口 大口町 かうたは河田 甲田 一宮市 と見られ 最前線にほど近い楽田から木曽川方面へ西へ移動していたことが窺える。武功については何れの戦であるのか定かでは無い。
堀家の文書を見るに楽田には堀監物に在番し また 角川日本地名大辞典 愛知県 によれば堀秀政は甲田に在番し 後に弟の多賀秀種も在番を担当したとある。大日本史料によれば十二月まで
先に見たとおり高虎が移動したと思しき三城のうち 楽田と小口は破却されることとなった。小林氏に依れば 秀吉は楽田の諸道具は犬山城へ 兵粮は加藤光泰へ 尾口の塀柵は犬山町 兵粮は長島へ移せと指示を与えたようだ。

旗印

閑話休題的なところでいけば 次のようなエピソードが竹助家乗にある。

御陣の前に幕被仰付候に付江州長浜佐々木弥兵衛へ御使に参御幕二走都合仕候御紋付候得と御意被成候に付俄に大釜の蓋を取出則黒餅を付申候其時分の御旗の御紋黒餅にて御座候 高山公実録 服部竹助家乗

この戦に際して高虎は陣幕を急ぎ求め 竹助を長浜の佐々木弥兵衛へ遣わした。佐々木は陣幕の職人なのだろうか ともかく竹助は高虎の 紋付 という要望を伝えた。すると弥兵衛は大釜の蓋を取り出し そこに塗料 墨だろうか を塗りたくり 陣幕へ押しつけたのだろう。
このときの竹助と弥兵衛の働きにより藤堂家の旗印は 黒餅 と定まったのである。
以後関ヶ原では朱餅 大坂の陣でようやっと 白餅 へと推移する。現在では講談 出世の白餅 のお陰で 高虎は無銭飲食をしてそれがきっかけで旗印が定まったとされるが 編纂史料 高山公実録 服部竹助家乗 における旗印誕生の逸話である。
確かに 黒餅 石持 との意味も見出せるが 高虎の突然の発案による竹助と弥兵衛の やっつけ仕事 にも思える部分もある。
尤もこの解釈は誤りで 大釜の蓋を取り出したのは竹助か高虎であるかも知れない

高虎は何処にいたのか

書状からわかることは小野木は最前線にあり 最前線での出来事を高虎へ伝える躰であることだ。
では高虎は何処で書状を受け取ったのか。端的に述べると 此方も定かでは無い。だが検討の余地はあろう。
宗国史 は秀長が紀伊和泉に封じられ 高虎もこれに従うとある。
だが資料が充実した現代 この記述は誤りと言える。実際に秀長が紀伊 和泉へ転じたのは翌年のことである。

大日本史料 によれば秀長は霜月五日 近江蓮華寺への返礼状にて帰陣が近いことを認めている。少なくとも秀長は十一月の初頭には陣中 詳細は不詳 にあった。ならば高虎も陣中にあったと考えるのが自然と見える。
だが小野木は高虎に最前線での出来事を伝えている。すなわち高虎は既に帰陣していたとも考えられるのではないか。

天正十三年(1585)・四国征伐における高虎宛書状

高虎宛書状として古い書状の中であれば天正十三年(1585)の四国征伐のなかで出された書状群は実に興味深い。

宮部藤左衛門書状

高山公実録であれば 後八月二十九日付藤与様宛江孫左親興 江村 書状 宗国史であれば 八月一日付藤與宛宮部藤左秀書状 が最古級の書状となるが やはり の付かない後者が最古級であろう。
次のような書状であるが宗国史賜書録 図書館送信 戦前版 と大日本史料八月六日条では文が若干異なるため 大日本史料に掲載される書状を採用する。

今度者爰元へ御越候つれ共 不懸御目御残多存候 御物語之通久兵具被申候 寔に連々被懸御目給と存義候 此表御無事大略相究□ 候カ やうに相聞候 左候へ者御帰陣程有間敷候 秀次御参会刻者 無御失念折々の御取成偏奉頼候 貴所様御取候故 近日者一段と仕合能候 可御心易候 切々以書状成共 御見廻可申入儀候へ者 共カ 此中者竹□ 筆者注 花カ 彼是不得隙候而 乍存知令無音心外至極候 旁期後音之時候 恐々謹言
  尚々 無指越候へ共 爲見廻以使札申入候 一昨日者未可爲御逗留と存候て不罷出 令迷惑候 以上
   八月一日               秀□花押
                  宮部藤左
   藤與右様             秀□
       御陣所

これは宮部藤左衛門が高虎に対して 秀次への執り成しを依頼したものである。
藤左衛門は宮部継潤の縁者で 前年に行われた宗及 秀次 高虎の茶会では 後の間に控えていた事から秀次に附けられていたと考えられる。
厳密な年次は定かでは無いが 天正十三年(1585)の書状とされている。秀次は秋に少将となっている事から 本文中にあるような家臣による 秀次 表記は同年秋までと絞り込めるかもしれない。
しかしここで高虎に対して 執り成し を依頼しているのは興味深く この半年の間に両者の間で諍いでもあったのだろうか。

秀次書状

さて同時期の高虎宛て書状では 孫七つまり秀次から高虎へ宛てた書状も存在し興味深い。
しかしこの書状は日付が曖昧である。
三重県史資料近世一の第四章に収まる 三好秀次書状 七十三 宗国史賜書録 を出典とするが日付は 閏七日。史料編纂所の日本古文書ユニオンカタログでは □月七日 大日本史料八月六日条では 閏七月 とする。

宗国史・三重県史版

     定而御はらたちと存候
先度者御見廻畏入存候 然者而其表御しより候哉 無御 心脱カ 元存候此表者ちょうそかめ御無事儀申候付而□ 火カ 中候 其表モ御矢とめ可然候 又当城普請申付候 於用子者御可心安候 尚当表之儀気息右事可被入候 恐々不具謹言
                孫七
  閏七日            秀□ 花押
藤与右衛門尉殿御陣所

大日本史料版

  元與御はらたちと存候
先度者御見廻畏入存候 然而其表未御しより候哉 無御 心脱カ 元存候 此表者ちよそうかめ御無事儀申候付而ちゆし候 其表も御矢とめ可然候 又當城普請申付候 於用子者御可心安候 尚當表之儀 尾甚右申可被入候之間 不具 謹言
                     孫七
    閏七月               秀次 花押
     藤與右衛門尉殿
         御陣所

時期の検討

この書状は ちよそうかめ とあることから 四国征伐が行われた天正十三年(1585)であることは間違いない。秀次から高虎に対しての停戦命令である。

実際の停戦時期

大日本史料では同じ八月六日条に 小早川家文書 を載せている。これは総大将秀長が小早川隆景に対し 長宗我部元親の降伏に際し土佐一国の安堵と伊予の諸城を毛利方へ引き渡す旨を通知したものであるが その日付は 閏七月六日 である。

一方で秀長は八月二十一日に溝口秀勝に 一両日中可令帰陣候 近日中の帰陣を伝えている。
また閏八月九日には紀伊国内の検地を国中に通達している。この書状の日付は 壬八月九日 であった。
つまり閏八月には秀長は四国から引き上げていたこと 当時の認識として八月が 閏七月 閏八月は 壬八月 後八月 とされていたことが伺え 高虎宛の秀次書状が発給された日付を 閏七月 とする 大日本史料 に分がある。
依って この書状は閏七月つまり八月のはじめ頃に発給されたとするのが妥当であろう。

翻刻内容に関しても 尚当表之儀気息右事可被入候 と意味が良くわからない宗国史 県史よりも 尚当表之儀 尾甚右申可被入候 としている大日本史料に分があるように思われる。

書状の意味するところ

以上二通の書状を紹介したが 何れにしても当時の高虎の地位を感じる書状に思える。
秀次は元々宮部継潤の養子であったことを考えると 高虎と宮部一族との関連もありそうだ。あくまでも系図によるところであるが 高虎は但馬の長氏の娘を養女として秀長の側近横浜一庵に嫁がせている。この長氏は宮部継潤の側室 継潤の養子宮部木工助が居ることから 高虎と継潤は親戚と言える間柄にあった。
そう考えれば秀次が高虎に停戦を命じるのも 宮部家の一員であるようにも思われる。

高虎は何処を攻めていた?

しかし高虎は何処を攻めていたのかが問題だ。
高山公実録では木津や一宮を攻めていたとされるが 木津城は六月に落としていることが大日本史料 顕如上人貝塚御座所日記から確認される。すると一宮城のことであろうか。

秀次は高虎宛の書状の中で 自らも停戦したことを示しているが 彼は脇城を攻めていたことが七月十九日付小早川隆景宛秀長書状 二十一日付小早川隆景宛秀次書状 いずれも大日本史料 からわかる。

また七月二十七日付美濃守 秀長 宛秀吉書状は 明確に一宮城と脇城を攻めるように通達している。

すると秀次は 脇城も停戦したので 一宮城も停戦してください と指示を与えたのであろうか。

秀長宛という視点

ある程度大きな組織になれば まどろっこしいが実際の宛所の側近に宛てる場合がある。
それに当て嵌めると高虎は当時秀長の配下 与力という立場にあった。つまり宮部藤左右衛門も秀次も 実際は総大将の秀長に宛てたと言えるわけだ。
確かに宮部藤左衛門が秀次の叔父にあたる秀長に執り成しを依頼するのは理に適っている。

しかし秀次が総大将の秀長に対して停戦を命じるのは奇妙だ。七月二十五日付の長宗我部元親家臣江村孫左衛門 谷忠兵衛宛美濃守 秀長 書状からわかるように 長宗我部との停戦交渉は秀長本人が行っており わざわざ秀次が通達するまでも無い。

元親家臣宛書状には 五日間之矢留 とあるが 高虎が秀長のもとにあったのならば 矢留の儀は承知しており わざわざ秀次が命ずるまでも無い。それに秀次が宛てた 閏七月 とは 二十五日の矢留から五日目のことであろう。
つまり高虎は秀長 秀次両将から離れた場所に居り 停戦の行方を知るよしも無かったと考えられる。一宮の支城を囲んでいたのだろうか 定かでは無い。

しかし編纂史料では こうした長宗我部元親の降伏に関して 殊更に高虎の働きによると強調している。
だが今回検討した秀次書状からは 高虎は停戦交渉の場から離れていたようにも感じられ 編纂史料への疑惑だけが残る。

浅井長政書状の検討

通説 最も古い高虎宛書状というのは元亀争乱下で浅井長政が高虎の幼名 与吉に宛てた感状であった。
同書は編纂史料や 浅井氏三代文書集 にも収録されているが 筆者は少々怪しいと感じて今回は敢えて外した次第である。
ここで何故外したのか説明していきたい。

其方雖為躮今月廿日於大手一番に首を打取事無比類者也戦功重累後一遍可取立者也
元亀二年八月廿九日  長政
            藤堂与吉殿

高山公実録にはこのように収まる。
しかしこの文書の少し前には次のような一節が見える。

親筆留書 同二年八月廿日小谷合戦の時於大手首取感状給り候ところ我等其時十六歳にて若年の儀故右感状失却致候事

つまり高虎は感状を紛失していたのである。一応のところ感状が載る 家譜 文言は御覚被遊候 として感状に繋げているが これも怪しいものだ。
話はこれでお仕舞いで 恐らく藩史編纂の過程で浅井長政の感状を創作したと可能性が高いと言わざるを得ない。

東浅井郡志の指摘

この感状が怪しいというのは東浅井郡志で既に指摘されていることで 更には澤田源内の 浅井日記 に収まる 藤堂與助 宛の感状を並べて読者に真偽を問うている。
そもそも澤田源内は江戸時代の歴史創作家であり 多くの作品は史実からかけ離れているので ここでわざわざ引用するまでも無い。
津藩の編纂者は澤田の造りあげた感状に一手間加え 高山公実録に収録したのだろうか。涙ぐましい限りだ。
こうした事情に依るのだろうか。藤堂高虎関係文書拾遺 藤堂高虎関係史料一覧 にて長政感状は収録されていない。

ところで東浅井郡志二巻では 養源院文書に由れば 去年九月廿一日 長政は藤堂九郎左衛門尉を招降 として 高虎も家も 亦その支族たりしならん。さればこの時 高虎父子が 九郎左衛門尉に従って籠城なし居りしとするも 何の困難の感ぜざるべし としているが 先ず以て九郎左衛門宛の長政書状の時代比定には疑問がある。私は永禄年間のことであると考えており この元亀争乱下 それも志賀の陣中のものではないとの考えを持つ。

浅井長政の文体

そもそも浅井長政の文体をも考えると 藤堂与吉宛感状 は異形である。浅井氏三代文書集 にはこの二ヶ月前に長政が島氏に宛てた感状が収録されている。

堀家来之者二人被討捕 首到来 尤珍重候 弥御心賭肝要候 委細脇坂左介可申候 恐々謹言
  元亀二         備前守
    六月七日      長政判
     島四郎左衛門殿
          進之候 島記録所収文書

また翌年閏正月には田中源太夫に対しても書状を発給している。

於其地取合之節 被抽忠節條 庄内指置申候 全違乱有間敷者也 後証仍如件
          浅井備前守
   閏正月十八日    長政 花押
    田中源太夫殿
          参 小堀文書

このように長政の文体では 恐々謹言 如件 と結ばれていることが多い。それは藤堂九郎左衛門 磯野員昌 片桐直貞に宛てられた書状でも 恐々謹言 で結ばれていることから よくわかる。

また長政文書に於ける合戦の日次については 浅井長政と高島について検討する際に用いた 某年二月九日雨森次右衛門宛賢政書状は 今度於西路梅原被及合戦 某年二月十日付伊藤当菊宛長政書状は 昨日八日於打下表 今度 昨日八日 といった書かれ方をしている。

つまり 恐々謹言 で結べるように もう少し謙った文書が 浅井長政的に正しいようにも感じられる

更に 戦功重累後一遍可取立者也 といった文言について 取り立てるのであれば今後の 忠節 を求めて欲しい。藤堂九郎左衛門宛書状では 忠節肝要候 天正元年(1573)四月二日馬場兵部丞宛書状では 彌御忠節簡要候 としているように もしも高虎が通説通り小谷城籠城に加わっていたのであれば 長政は与吉に対しても 忠節 を求めた筈であろう。

最も古い高虎発給書状

ここまでは最も古い高虎宛書状を検討した。
次は高虎から出された最も古い書状について見ていきたい。

天正十四年(1586)八月十二日付岡本権内宛書状

岡本権内は紀州の人で 一揆征伐の祭に道案内をした功で高虎の信頼を勝ち取り 伊予では郡奉行 慶長の役でも戦功がある。
関ヶ原 大坂両陣では留守をよく守り 朧気ながら確か子息は津城の門番を務めた筈だ。

岡本権内蔵書
於今度三番口手柄之高名仕候間為其表褒美知行五拾石遣候猶以忠節簡要候存知斗可致加書候也恐々謹言
天十四八月十二日       藤堂与右衛門
                   御判
               岡本権内殿

このような書状であるが 部分部分で違和感こそ感じるが 於今度三番口手柄之高名 といった書き出し 忠節簡要候 恐々謹言 という結びは 浅井長政の感状を彷彿とさせる文体である。
恐らくは写しが藩史編纂事業に持ち込まれたと考えられるが こうした文体はリアリティが高いため そこまで否定する気にはなれない。

天正十八年(1590)一月八日付藤堂高虎・羽田正親連署状

史料編纂所データベースの日本古文書ユニオンカタログで調べると 明確に時期が示されている書状で一番上に現れるのが この書状である。
この書状は 南部文書 を出典とするが 坂田郡志で読むことが出来る。

天正十六年吉川平助書上申候 長濱與六 手前金子銀子料足 悉相済申候間 其御心得可被成候 恐々謹言
 天正十八
  正月八日   藤佐          羽長
     山対州様
       人々御中

これは天正十六年(1588)に処刑された大和衆の重臣吉川平助が 生前に長浜の與六なる人物に対して金子銀子の料足 費用 を請求していたが 無事に 相済 したことを長浜の城主山内一豊と山内家に報せる内容である。
これよりも前に一豊側から訴えがあり 家中で様々調べた結果を通達したのであろうか。

差出人の藤佐は藤堂佐渡守高虎 羽長は羽田長門守正親だ。

羽田正親は天正十六年(1588)春に発生した三河一向門徒の家康上洛用材木運搬拒否騒動にて 秀長の意を受け本願寺の下間頼廉と交渉を行い 寺への執り成しを依頼した。
その祭に頼廉は寺に対して 羽田長門守墨付を以 岡崎市史六 上宮寺文書七七 門徒への信用信頼を担保する立場を取っている。
こうした部分の詳らかなところは先生方の論考に譲るが 少なくとも正親は天正十六年(1588)には 長門守 を名乗っていた。それは 輝元公上洛日記 からも読み取ることが出来る。

高虎の叙任時期

高虎は天正十五年(1587)の島津攻め後に 従五位下佐渡守に叙されたとされる。

高山公実録では天正十六年(1588)の二月二十五日に盗人共を逮捕したことで 秀吉から朱印状を給わっているが この宛名は 藤堂佐渡守 である。だが書状に具体的年次は記されていない。
また 長崎実録大成 を示してこの年の五月に寺沢志摩守と共に藤堂佐渡守が長崎へ派遣されたとするが 実際のところよくわからない。史料的な裏付けに乏しいが 長崎県史 を読むと 戸田 浅野連署の定書を 高虎と寺沢が実行するために送り込まれたとしている。その根拠も定かでは無いが 後に唐津城主となった寺沢が長崎奉行になった事実を踏まえると あながち間違いでは無いのかもしれない。
2023.1123 追記 寺沢と藤堂宛の朱印状は 豊臣秀吉文書集 の八巻 補遺 年未詳 に収録 六〇七四 長崎略志から されているが 実は 藤堂高虎関係文書拾遺 藤堂高虎関係史料一覧 には見られない。高虎の前半生で三重県両資料に収録が無いのは件の長政文書と この長崎に関する朱印状である。

しかし上井覚兼の弟秀秋が天正十六年(1588)六月二十日に京の伊勢貞世に送った書状 鹿児島県史 旧記雑録 には 藤堂与より と示されている。つまり島津家が佐渡守叙任を知らなかったのか 叙任は少し後であったのかも知れない。
そこで同年夏の 輝元公上洛日記 を読むと ここでは 藤堂与右衛門 遠藤佐渡守 藤堂佐渡守 が登場している。何れも同一人物で高虎を指すが このように表記揺れが発生している。
この表記揺れを その期間の間に叙されたことと考えると 高虎は天正十六年(1588)の七月廿五日から九月五日までに 諸大夫成 を遂げたと考えられよう。

総合すると天正十六年(1588)の高虎は 長崎に於ける定の実行と 島津家の戦後処理のために九州に派遣されていたらしい。
九州を飛び回り 更には輝元上洛饗応の為に急ぎの上洛もせねばならぬ。
むしろ根白坂の戦功以上に 文官吏僚働きに対する褒賞が 佐渡守 であったのかもしれない。