上坂宗菊宛書状から考える六角家重臣池田氏の内紛

地味ながら藤堂高虎が生まれた頃の中郡を実質支配していたのは 六角承禎 義弼親子である。しかし今回は高虎本人は関係ない。
今回は高虎の生涯に大きな影響を及ぼしたと思われる人物である 多賀新左衛門 六角家中の地殻変動に関わったことを考察していきたい。
なお今回の記事は元々多賀新左衛門記事に入れていたものであるが 考察を重ねた結果文字数が嵩みすぎたので別に独立させ 更に関連史料を充実させたものである。

2022-10-29

多賀新左衛門の初見「上坂宗菊宛六角義弼書状」について

織豊時代に活躍した 多賀新左衛門 の初見史料が表題の 上坂宗菊宛六角義弼書状 である。

就昨日池田生害 従浅小井父菅忍 属多賀新左衛門テ 取退及一戦 於太刀下討死 高名至候 無比類働軍功候 次於北郡知行分之儀 最前如約諾 不可有相違候 猶新左衛門尉可申候也 謹厳
     三月八日       義弼 花押
    上坂宗菊殿

これは 戦國遺文佐々木六角氏編 の一二〇九号 年次不明三月八日付で 上坂宗菊宛六角義弼書状 上坂文書 といった史料になる。

要点としては 三月七日に発生した合戦で池田某が生害 また多賀新左衛門に属して戦った宗菊の父菅忍が浅小井で討死。それに伴い遺族の宗菊に知行の相続を認める そのような内容となるのだろう。

年次については 義弼が家督を継いだとされる 弘治三年(1557) 永禄二年(1559)以降で 義治 に改名した永禄八年(1565)五月の間に発行された書状とみる。
伝達者となる 新左衛門尉 も多賀氏かと思われるが 書状の性質を考えると六角重臣の 新左衛門 の可能性も考えられよう。それを満たす重臣とは 恐らく三雲氏だろうか。遺文を読むと義弼の時代に 三雲新左衛門 を名乗ったのは 三雲賢持 であり 彼の初見となるのが 賢持署名で永禄四年(1561)八月十八日 三雲新左衛門尉宛で永禄五年(1562)三月八日のそれぞれとなる。
何れにせよ永禄初期の書状となろう。

この書状は年次以外にも不詳な点が幾つもある。
何よりも多賀新左衛門の存在は曖昧で 彼が後世常則とされる人物なのか はたまた信濃守貞能なのか未だに確証は無い。
そうした中でこの文書は面白いから考察していこう。

池田氏の生害と上坂氏

まずもって池田氏の生害は謎である。
六角家中の中で池田氏と言えば定頼の時代に活躍した奉行の池田高雄が思い浮かぶが 池田氏は戦国時代の後半だけでも複数人見られる事が村井祐樹氏の 戦国大名佐々木六角氏の基礎研究 から理解できる。それでも 生害した池田氏 を特定することは困難だ。
ただ一つ言えることは 池田氏は後年に内紛を起こしている。本書状には 池田生害 とあるから 少なくとも永禄初期にも池田氏に内紛があった もしくは六角家中で内紛が発生したと捉えることが出来る。

宛名の 上坂宗菊 とは かつて覇を誇った京極家中上坂氏の一族と考えられるが 宗菊が登場する史料は本書状一点であり 更に上坂氏自体が浅井台頭後は史料に乏しい為に詳細は不明である。
六角氏の中での上坂氏は 天文七年頃の 六角定頼陣立注文 口分田 上坂 として 村井祐樹氏はこれを上坂定信と比定している。また 言継卿記 の天文十六年(1547)正月二十五日には 足利義藤の上洛を 多賀 高野瀬 上坂 の三千が武装警護を行った記録がある。
六角家中に於いて 京極の旧臣とも言える多賀や上坂は 恐らく 外様 国衆 となるのだろう。
そうした中で 上坂氏が多賀新左衛門の手に属していた。また多賀新左衛門が池田氏もしくは六角家中の内紛にて 兵を出していた点は非常に興味深い。

池田氏の内紛

私は藤堂氏と多賀氏の関係を調べるにあたり 小和田哲男氏の 浅井長政のすべて 宮島敬一氏の 浅井氏三代 大日本史料データベースを参考に天文四年(1535)から永禄十二年(1569)までの独自年表を制作しているが 残念ながらこの書状に見られるような合戦 騒動 事件は見当たらない。最も こうした部分は北郡 中郡に於ける史料の少なさと 研究の未熟さによるところが大きい。

そうなると池田氏に着目する必要が生じるが 幸いにして池田氏の書状も遺文に収まる。
注目すべきは永禄十年(1567)十月十二日 杉山右兵衛尉殿御宿所宛池田景雄真光寺周陽連署書状 九五五 古証文二 である。

今度同名新三郎 九里三郎左衛門尉景雄企謀反 既木村五兵衛尉を始め右両人仁令一見 土田 中村 宇津呂 一井 西庄 籠屋場等道 相構要害 国□屋敷取巻 通路無合期 以無二御覚悟御忠節 於家御芳恩不可相忘候 殊右両人相催人数 及行 数度切崩 被討人 無比類御働共候 悉皆以御入魂施面目候 外聞実儀万々満足不可過之候 然者一謙令配当度儀候へとも 御存知之通候間 不及了簡候 何時も新知於拝領者 不混自余一謙可令支配候 就其島郷令持名士 馬飼一円幷相原小□中跡 一円永代遣之候 向後御知行不可有相違候 次深尾七郎左衛門跡与力 被官事 以目録預ヶ置候 但彼跡目於申付者 各別候 猶木村三郎右衛門 梅原対馬守 北川又三郎 紙面可令申候 恐々謹言
  永禄十年       池田
    十月十二日      景雄 花押影
             真光寺
               周揚 花押影
  杉山右兵衛尉殿
         御宿所

書き出しから 同名新三郎と九里三郎左衛門が景雄に謀反を企み 木村五兵衛尉をはじめ 一味の者は蒲生郡の土田 中村 宇津呂 一井 西庄 籠屋場に要害を構えると 国□ 国領か を取り巻き通路を遮断したといった内容である。

何と池田氏は この年に内紛を起こしていたのである
この頃は 観音寺騒動の四年後で 北側からは八年近く浅井長政の圧力を受け続け 足利義昭の上洛が間近に迫った頃である。
この書状は そのような中で合戦が起き 杉山右兵衛尉が活躍したことに対する功賞が主題であるが 景雄と真光寺周揚は様々知行を宛がっているが 深尾七郎左衛門跡 を宛がっている点は興味深い。大永五年(1526)には黒橋口の戦いで活躍した杉山氏に対し 定頼と池田高雄の伝達者として名前が見られる人物であり 新谷和之氏は池田氏の被官としているが 本人か後裔は池田新三郎方を選んだようだ。
文末は 木村三郎衛門尉 梅原対馬守 北川又三郎 紙面可令申候 とて 景雄と周揚に与する内衆が明示されている。

ところで観音寺騒動の際に交わされた 六角氏式目 に真光寺周揚と景雄 孫二郎 の名前が見える。村井氏によれば 真光寺周揚 は池田大和守景世である可能性があるようで すると彼も池田一族と考えられよう。

池田氏の内訌に関する史料の整理

六角氏の中核を担うべき池田氏で内紛が発生し そこに六角氏との抗争の歴史が深い伊庭氏の被官である九里氏が加勢していたことは興味深い。
村井祐樹氏は 戦国大名佐々木六角氏の基礎研究 の中で 永禄期にも六角氏に謀反を起こした伊庭氏の存在を示したが それは遺文一一八六号の 山中大和守宛承偵書状 山中文書 に依る。

浅小井之儀 種々出入候へ共 大略無異儀相調候間 珍重候 定而池孫 真光寺かたよりも可申候 伊庭働不届儀 無是非候 此砌浅小井一途候て祝着候 為届染筆候 猶青木可申候 恐々謹言
    十月十七日      承偵 花押
   山中大和守殿 俊好
 見返ウハ書
切符墨引
 山中大和守殿        承偵

池孫 は景雄 青木 の諱は正信であるそうだ。この史料は年次不明の史料であるが その推定には対応する史料を探す必要がある。幸いにして対応する史料も遺文に収録されている。すなわち九三〇号の山中文書である

去年以来公私之以御為 山中大和守方間使之事 申付候処 種々竭粉骨 辛労不及是非候 自然以時分柄往還之刻 身上不慮於在之者 息虎菊丸為相続 正成給恩以下無相違可申付 幷次男宮増丸両人共仁令養育可取立候条 可心安候 猶以正成事 誰々悪訴之族雖在之 直ニ相尋 以順路之上 不可有疎略候 弥忠節次第ニ可加褒美候 折紙如件
  永十          池田
    二月廿四日      景雄 花押
              真光寺
               周揚 花押
   間宮善介殿

これは杉山右兵衛尉への感状の八ヶ月前 そして六角式目が発行される一ヶ月半前の書状である。
この連署書状の書き出しは

去年以来公私之以御為 山中大和守方間使之事 申付候処 種々竭粉骨 辛労不及是非候

前年永禄九年(1566)から池田と山中間で往還があったことが見て取れるが 上に示した 山中大和守宛承偵書状 遺文一一八六号 山中文書 に見られる 浅小井之儀 種々出入候へ共 大略無異儀相調候間 珍重候 との記述が合致するのではないか。
池田と真光寺は永禄九年(1566)以来 山中大和守との間で奔走した間宮善介を賞し 往還の際に間宮の身に万が一のことがあれば嫡男虎菊丸の相続と次男宮増丸も取り立てることを約束している。
私の読解が間違いなければ 間宮の諱は 正成 となるだろうか。
間宮は池田氏の使いとして 山中大和守は承禎の使いとして 問題解消に奔走していたと解釈することも出来よう。つまり承禎が述べる 池孫 真光寺かたよりも可申候 とは 間宮善介のことだろう。

このように遺文の 山中大和守宛承偵書状 一一八六 山中文書 の年次は永禄九年(1566)と比定できそうだ。
すると時代の並びからして

永禄九年(1566)十月十七日 山中大和守宛承偵書状 一一八六 山中文書
永禄十年(1567)二月二十四日 間宮善介殿宛池田景雄真光寺周陽連署書状 九三〇 山中文書
永禄十年(1567)十月十二日 杉山右兵衛尉殿御宿所宛池田景雄真光寺周陽連署書状 九五五 古証文二

以上のような順となる。

永禄九・十年の内訌

ここで一つ纏めてみる。
まず永禄九年(1566)十月十七日までに承偵は 浅小井 の不穏と 伊庭の謀反を把握していた。
状況を鎮めるべく 承偵は甲賀の山中大和守を頼った。これは恐らく仲介役を頼んだのでは無いか。
永禄十年(1567)二月二十四日 池田氏の二人は仲介に奔走した間宮正成に対し礼状を認めた。
四月には 六角式目 が発行され 両人も署名している。恐らくこの時期には情勢が落ち着いたのだろう。

しかし その後事態は再び緊迫した状況に陥る。
永禄十年(1567)十月 池田新三郎 豊雄 九里三郎左衛門 深尾七郎左衛門は遂に蒲生郡の土田 中村 宇津呂 一井 西庄 籠屋場等に砦を築き 更に 国□ の屋敷を取り巻いた。
土田から西庄であれば現在でも近江八幡市に地名が残るが 籠屋場の場所は不明である。
これらの要害は九里氏の本拠地本郷から 池田氏が影響力を及ぼす長命寺周辺一帯までの中間地点に位置する。
籠屋場 の場所は不明ながら この近辺にあったものと思われる。また 国□屋敷 に関しては神崎郡の小川に隣接する地域に 国領 を称する氏が居り 彼らとの関連が考えられそうだが こうした地域からは離れすぎているように思われる。
推測ではあるが池田新三郎方が封鎖した地域は現在の近江八幡市内に限定されるのではないか。そうなると同地域に景雄方の 国□屋敷 があり 新三郎方は同屋敷を取り巻いた となるのだろう。

地理院地図に示すと 次のような形になるだろうか。

果たして こうした封鎖線にどのような理由があるのか定かでは無いが 観音寺方は湖に出ることが出来ないという点は ある意味の経済封鎖に繋がるだろう。特に長命寺から近い沖島は六角氏と高島郡の交通で要の地であるため 同地への往来が封鎖される事は重大と思われる。

そのようにした中 場所も規模も定かでは無いが合戦が発生したらしい。
十月十二日 景雄と真光寺周揚は活躍した杉山右兵衛尉の戦功を表した。

杉山氏

杉山氏が伊庭との戦いで活躍するのは これが初めてでは無い。
大永五年(1526) 六角定頼の第一次浅井征伐 小谷城の戦い に呼応した伊庭勢が 八月から九月にかけて謀反を起こした。概ね 黒橋口 での合戦に纏わる書状が中心となるが 唯一九月十三日付の杉山三郎右兵衛殿御宿所宛高雄書状には 今日於島郷口被入一番槍 と書き出されている。

ところで一連の定頼の書状には 池田次郎左衛門 が副状を発行していることがわかるが この高雄書状こそが彼の姓が池田氏であることを比定する史料の一つと相成ると 村井祐樹氏は 戦国大名佐々木六角氏の基礎研究 補論戦国期佐々木六角氏家臣名の再比定 にて解説されている。

どうやら杉山氏は日牟禮八幡宮周辺の有力者のようで 新谷和之氏の 戦国期六角氏の地域支配構造 によれば杉山氏は八幡の神主であるという。池田氏は長命寺周辺一帯に影響力を及ぼした一族であるから 杉山氏が池田氏の騒動にて何方かに加担するのは自然だろう。

上坂宗菊宛書状再考・年次未詳の池田攻め

以上永禄九年(1566)から永禄十年(1567)に発生した池田氏内訌を見てきた。
ここで当初の 上坂宗菊宛書状 を再び考えてみたい。
考える上で まず 観音寺騒動 を説明したい。これは永禄六年(1563)十月に六角義弼が重臣の後藤賢豊 氏豊父子を殺害。これに怒った進藤 三上 三井 平井 楢崎といった重臣は 観音寺の屋敷を焼き払いそれぞれの本領へ籠もったという。無論 池田氏も同様であった。

義弼問題

元来若き当主たる義弼には独断専行のきらいがあり 永禄三年(1560)七月二十一日に承偵は義弼方を叱責する十四ヶ条の書状 遺文 八〇一号 を認めている。その原因は外交施策の違いによるもので 対浅井の為に斎藤氏と結びたい義弼と 土岐氏再興と かねて朝倉氏が希望してきた縁組みを果たしたい承禎の間で齟齬が生じ対立したのである。なお この書状は斎藤道三の出自を知る上で重要な一次史料とされている。
また同書には池田氏に纏わる一文は見られない事を示しておきたい。

承偵と義弼は永禄三年(1560)卯月二十一日には不和を起こしていたことが 遺文 七九八号の 伊庭出羽守殿宛三好長慶書状 塚原周造氏所蔵文書 から知ることが出来る。
特筆すべきは 三好長慶がそれを把握し 不慮の事態になると始末は難しくなる と認めている点だ。
件の義弼方家臣への叱責書状は七月になるため 不和は三ヶ月以上続いた事となる。

父子の不和

探してみると承禎が息子に不満を漏らした史料は他にもあった。遺文 一一五七号 年次不明五月二十二日付木村筑後宛六角承偵書状 木村文書 である。
承禎が義弼に不満を示し なおかつ池田氏が登場するのが此の書状の特徴である。

その年次こそ不明ながら 義弼 とある事から永禄初頭の書状と推定される。

今度右衛門督向顔儀 各不足之由尤候 然処対北人質渡 誓書遣儀 義弼及迷惑既捨一命走入候へ者 不及了簡候 其様子難尽紙面候 菟ニ角頼入外無他候 今更浅井ニ可繋馬事当方恥辱候 伊予守以来忠功之儀候間 此度当家可取立覚悟可為神妙候 池田一家存分次第二遂本意儀候。領知方之儀申含為 新村差越候 猶三雲新左衛門 賢持 栖雲軒可 三上士忠 可申候 謹言
    五月廿二日      承偵 花押
   木村筑後守

この書状を如何に解釈するか。

2023.0420 追記
さて本書状の年次比定と解釈について考察を行った。
承禎は某年五月に 池田一家存分次第二遂本意儀候 遺文一一五七 と認めているが 前後の文脈から永禄七年(1564)の書状と推察される。
そこから類推するに 多賀新左衛門が介入を見せたのも永禄七年(1564)のことではないか。

結論・上坂宗菊宛書状とは何だったのか

結局のところ冒頭書状の時期から 登場する四氏の特定まで 何もかもがわからない。
私は 浅小井父菅忍 について 池田宮内丞定輔 天文年間に見られる人物 の可能性は無いか と考えたことがある。しかし先日史料編纂所で当該の 上坂文書 を閲覧すると くずし字が不得手の私でも 菅忍 と読めた。恐らく上坂宗菊の父が 菅忍 と云う事なのだろう。

池田氏は長命寺周辺一帯に影響力を及ぼすことで 六角氏の中で重きを成した。特に長命寺や浅小井は湖上交通の入り口たる湊があり 更に浅小井深尾氏には湖上交通の力量があったと新谷氏は述べる。また池田氏は深尾氏といった湖上交通に精通した諸氏を被官化することで力を高め その影響力は志賀の小松にまで及んだそうだ。
恐らく池田氏は長命寺 湖上交通に一定の権益を有した 経済的にも力のある六角氏の重臣であった可能性が高いと言えようか。
そうした経済的に力を有する池田氏が揺れることは 六角氏の土台を揺るがせたのだろう。

特に此の時代というのは 対三好の盟主でありながら六角父子は外交を巡る不和を起こし 浅井氏 北郡 は逆心 観音寺騒動と家中が大きく揺れる時期であった。その最中に経済的権益を有する池田氏に問題が生じる事は 泣きっ面に蜂 とでも云うものであろう。
こうした六角家中に於いて家臣間の問題は 進藤氏と後藤氏の間に発生した 安国寺質流相論 が有名であるが 池田氏のように軍事的衝突には至っていない。こうした中で池田氏が二つに分裂し 軍事的衝突に至ったことは特筆すべき事柄である。
その背後に浅井氏があったのかは定かでは無い。

多賀氏の介入

最後に多賀氏が介入に至った経緯を考えてみたい。
後年の津藩編纂史料 高山公実録 に収る梅原家の由緒に依れば 家老梅原勝右衛門の母は 元は多賀新助の未亡人であり高虎の母と藤堂新七郎の父を生む。しかし夫の死後 梅原将監なる人物に嫁ぎ勝右衛門を生んだと伝わる。
勝右衛門は後に池田家で活躍した人物でもあると伝わるから 遺文九五五号に見える 梅原対馬守 の流れを汲んだ人物と見て良かろう。
すなわち多賀新左衛門には一族の子女を生んだ母 菊地氏を守るという大義名分があった。取って付けたようなことを書けば 藤堂氏は源助虎高の妻が菊地氏の娘 おとらであるように 多賀氏と近い関係にあることから 彼らが従軍した可能性は高いと見える また上坂氏が多賀新左衛門に付き従っている点も興味深い。

以上つらつらと書いてきたが 結局は何もわからないのが実情である。

その後の池田氏

なお池田景雄は六角父子が信長に敗れると織田家に従い 紆余曲折を経て秀吉 秀長 秀保を支える立場となる。
名高いのは 池田伊予守秀雄 として 秀次事件で検視を務めた一件だろう。彼は老齢になっても第一線で戦い その最期は朝鮮での客死である。慶長二年(1597)十一月三十日まで 彼は 戦国武将 として戦ったのである。

他方池田新三郎は如何になったか定かでは無い。
しかし 堺市史続編第一巻 によれば 田中の池田家には 池田新三郎豊雄 の関係書状が残されているそうだ。
この田中というのは足利義昭が晩年堺に宛がわれた知行地 草部村 田中村 の後者を指す。
時に六角義弼 義治 は後に 義堯 を名乗り 備後の足利義昭と合流していたことが村井祐樹氏によって明らかにされている。堺市史の記述を信ずるのならば 新三郎は義治 義堯 を見限ることなく支え 秀吉により世が平らかとなると 本人もしくはその子息は義昭に転じて その知行地である田中村を管理したと考えるのが自然であろう。
新三郎もまた 乱世をしぶとく生き存えたのだ。