高虎と信仰

大河ドラマで一向一揆が話題を攫った。
ここでは一つ高虎を中心に 藤堂氏の信仰と宗派を考えてみたい。2023-02-25

藤堂の信仰

藤堂氏というのは その姓氏の誕生からして信仰とは切っても切り離すことは出来ない。
何より応永年間に広橋兼宣に仕えた侍 三河守景盛が 甲良の地に八幡宮を勧進し藤の花を植えたのが 全ての始まりで或る。
藤の花咲く八幡の堂が転じて 藤堂 と相成った。
しかしこうした公家侍藤堂氏の信仰は定かでは無い。

久居市史に依れば後裔の藤堂八座家は久居の浄土宗寺院 天然寺を菩提寺としているそうだ。
主である広橋家は京都の金戒光明寺塔頭 龍光院が菩提寺であることを踏まえると それに仕える公家侍藤堂氏も浄土宗であるのかも知れない。公記要チェック

藤堂氏と神社

藤堂氏は甲良の八幡宮からはじまったことは先に述べた。いまの在士八幡神社である。

宗国史や高山公実録には伊勢御師上部家記録 願祝簿 が収まる。
これは藤堂氏が御使の上部家の勧進に 藤堂氏が定期的に応じ寄付していた記録である。
興味深いのは中郡には多賀大社という代表的な神社があるにも関わらず 藤堂氏は多賀社の梵鐘勧進には寄付せずに 伊勢神宮に寄付していたと見られる点だ。
藤堂氏は神道で考えると 伊勢信仰があったのかもしれない。

また高虎は紀州を治めたとされるが 同国では熊野抜きに語ることは出来ない。
伊予時代には慶長十二年(1607)六月に現伊吹八幡神社を中興し 浅井郡小谷住人 藤原朝臣藤堂和泉守 奉行江州坂田郡小野荘住人 藤原朝臣矢倉大右衛門尉 の棟札が残る 。これも神社との関わりで重要な史料だ。

地蔵信仰

高虎の逸話として 地蔵 観音信仰 というものがある。
これは津市史のなかで梅原三千翁が紹介している 木旦子集書 に依るそうだが 粉河 伊予出石観音 津観音が挙げて観音信仰である としている。
似たような話で 高虎は地蔵の化身で 生誕は地蔵のお陰であり 夏の陣でも地蔵堂にて勝ちを得た とする逸話を見たことがある。出典は覚えていない。
概ね強引で 史料的裏付けに欠ける逸話であるが いちおう信仰に纏わる話として掲載する。

天台宗

さて高虎の逸話して外すことが出来ないものが 家康の今際の際に天台宗へ改宗したという逸話である。
実際に宗家の菩提寺は天台宗の寒松院であるから これは事実であろう。

高虎が生まれた中郡には湖東三山のうち 金剛輪寺 西明寺 が存在し 磯野 織田時代を過ごした高島の地も天台宗の影響力が強い地域であった。
また高虎の先祖と思しき藤堂備前守の三男は 正受坊秀仙 として 敏満寺福寿院の三代目住持を務めていた。
さらに大名となった当時に本拠していた粉河の地は その名からわかるように精強を誇った粉河寺の地である。そして粉河寺は天台宗である。

このように高虎は幼年の頃より 天台宗を見知っていたと思われるため 改宗に何ら違和感は感じられない。

日蓮宗

それ以前の宗派は日蓮宗で これは虎高 高虎 高清等の墓が上野上行寺にあることから理解できよう。
その縁起は高虎が粉河に入った天正十六年(1588)ということで どうやら天正十六年(1588)当時には藤堂虎高 高虎親子が日蓮宗であった事は確からしい。
なお巷説虎高は三井氏出身とされるが 三井高利の三井氏は天台宗を菩提寺としているらしい。

広橋家と日蓮宗

20220911 追記
なお広橋家では 広橋兼秀の娘が同宗と関わりの深い松永久秀に再嫁し 国光の子息は本國寺十六世の日禎として名高い。
在地の京極被官系藤堂氏と広橋家は関わりが見られないが 虎高 高虎親子が日蓮宗であったことは こうした縁に依るのかと考えるが 実のところ定かでは無い。

真言宗

高虎と寺社の関係を語る上では外せないのが真言宗だ。
高虎は但馬大屋時代に過ごしたのが 現在の真言宗 蓮華寺とされる。
秀保の没後に高野山へ入ったが 高野山は真言宗である。
また高虎の側室長氏 松寿院 と次男左兵衛高重の墓は 谷中の真言宗 西光寺にある。

臨済宗・曹洞宗

高虎も虎高も現代に伝わる話では 臨済宗や曹洞宗ではない。
しかし立地や縁から 一定の関わりを持っていたものと考えられる。

臨済宗との関わり

まず京極道誉ゆかりの甲良の古刹勝楽寺は臨済宗である。
その縁も相まってか多賀高忠は臨済宗であった。
最も勝楽寺は建仁寺派である一方で 高忠は大徳寺派であったことが 飯塚大展 大徳寺夜話をめぐって ー駒澤大学禅研究所年報 から理解できよう。

煕春龍喜

また臨済宗東福寺派の僧 煕春龍喜の門弟が後年に記した 清渓外稿 には 天正九年(1581)に多賀貞能が勝楽寺にて前豊州太守の法要を執り行った旨が記されている。この記述を信ずれば 貞能の父である多賀貞隆は臨済宗東福寺派であったと思われる。
また諸史料や金沢藩多賀氏の文書によれば 貞能は晩年を東福寺で過ごした。紛れもなく臨済宗に帰依していたと言える。

さて煕春龍喜の記録 清渓稿 には 彼が藤堂九郎左衛門宅を訪れた様子が記されている。
藤堂氏は元来多賀氏と同じ京極氏の有力被官の一つであり 彼らが臨済宗であったと推測することも容易であろうか。

高虎周囲の臨済宗

そうしたところで高虎の周囲の臨済宗を考えてみる。
まず母おとらは多賀氏であるから 臨済宗であることは疑いようが無い。
更に同じ多賀氏 おとらの弟を祖とする藤堂新七郎家の墓所は 上野の山渓禅寺という臨済宗東福寺派の寺である。また同寺は高虎の異母弟内匠正高の墓もあるという。

高虎のおじ少兵衛を祖とする旗本藤堂氏は 少兵衛自身は浄土宗の総本山である知恩院に信重院を開いたものの 孫の将監からは江戸の臨済宗寺院 祥雲寺を菩提寺としている。
少兵衛もまた多賀氏の出身であるから 臨済宗を菩提寺とするのは自然であろう。

また高虎の正室一色氏 久芳院 の一族とされる金地院崇伝は臨済宗の僧である。

曹洞宗との関わり

一方で高虎の周囲には曹洞宗の者も目立つ。
正室一色氏 久芳院 の墓は津の曹洞宗寺院 四天王寺にある。
更に宮内少輔高吉は名張の真言宗寺院徳蓮院を菩提寺としている。

また高虎の母おとらと近しいと思われる多賀新左衛門 常則 を祖とする多賀氏は 常則の孫とされる左近常長まで京都の曹洞宗寺院 宗仙寺を菩提寺としている。後に同族とみられる旗本藤堂氏と同じ江戸渋谷の臨済宗寺院 祥雲寺を菩提寺としたようだ。

浄土宗

先に述べたように公家侍藤堂氏の主広橋家は江戸時代に浄土宗の光明寺塔頭 龍光院を菩提としていた。公家侍藤堂氏の後裔で或る久居藩藤堂八座家は 久居の浄土宗寺院天然寺を菩提寺としている。

幕末地下人藤堂氏を調べる中で 思いがけず藤堂氏と浄土宗の意外な接点に行き当たった。
先に紹介した信重院は藤堂少兵衛を開基としているが これは少兵衛の妻 旭峯院 が天正十七年(1589)五月一日に亡くなったことをきっかけに 天正十九年(1591)に開創したと記されている。
なお歴代住職によると 慶長十五年(1610)六月六日に初代稱蓮社名誉重信が示寂すると 将監が臨済宗を選んだことに起因するのかしばらく廃れたようで 元禄三年(1690)十二月に示寂した専運社行譽感了が 中興 とある。

藤堂玄蕃家

さて藤堂少兵衛の子息玄蕃を祖とする玄蕃家の墓所は 何と浄土宗の大超寺である。
どうやら元は関ヶ原で討死した玄蕃を弔うために今治で創建されたようだが ここで浄土宗であったことは 玄蕃が父少兵衛と同じく浄土宗であったか 創建の際に少兵衛の差配があったことの何れかを示唆するのかも知れない。

中郡の一向一揆

このように高虎に関係する宗派を連ねていった。
他に当時盛んであった宗教の一つとして一向宗 真宗本願寺派 を避けて通ることは出来ない。

西応寺

まず高虎が生まれた甲良には 多賀氏の本拠下之郷に 西応寺 が存在する。元は時宗の寺であったらしい。
この西応寺では五世了覚が元亀争乱の最中に門徒を率い戦ったとされる。了覚は土地の言い伝えとして 多賀氏に仕えた川並氏の子息で 下之郷城が落城し父親が亡くなると一年後に仏門へ入ったとされる。ただし下之郷城が落城したとされる伝承は そもそも多賀新左衛門や貞能が織田方として生き延びている点から 少々眉唾なところがある。

四十九院

さて下之郷の西側には 四十九院 と呼ばれる地域が存在する。今でこそ豊郷町であるが 神社を基準とする 甲良三郷 という地域観でいけば 同地も 下之郷 に入るそうだ。
この四十九院には 照光坊 と呼ばれる道場があり 北郡十ヶ寺の福勝寺宛浅井亮親書状には 多新之儀 について 照光房 が十ヶ寺や浅井長政を頼りにしたことを伺い知ることができる内容が記されている。
この 多新 とは やはり高虎の親族で下之郷の有力者と思しき 多賀新左衛門 のことでは無いか。

なお当代記によれば照光坊は志賀の陣にて六角親子に呼応し蜂起するも 数百の一揆勢と共に討ち取られたそうだ。信長公記によれば十月頃の話であるらしい。
また地名辞典に依れば この時に討たれた照光坊は 巧空 なる僧侶であったらしい。後に同坊は 唯念寺 となり 巧空は二十七世に数えられている。
また下之郷には唯念寺の道場たる念称寺が存在するが 同寺が照光坊巧空に従っていたのか定かでは無い。

甲良三郷では反織田方として尼子氏が存在するが 尼子氏はこうした一揆勢と協調して活動をしていた可能性も考えられるだろう。

左女谷道場

他に多賀町の山間部 犬上川の上流に沿い鞍掛峠を越える道中には 佐目 と呼ばれる地域にも道場があり 左女谷道場 として本願寺からの密書も送られたそうだ。
一説には後に信長直々に焼かれたそうだが 定かでは無い。

高宮氏

中郡の武士のなかで本願寺の門徒と考えられているのが高宮氏である。
彼らの菩提寺とされる 高宮寺 は時宗の寺であるが 元々 一向 というものは時宗であることを考えると 高宮氏は本来の意味での 一向門徒 であるのかもしれない。
しかし天文日記に本願寺を訪れた高宮三河守が見られることから 高宮氏も時代の流れに従い本願寺の門徒として活動していたのかも知れない。

四十九院と同じく街道に面する高宮というは 高宮布 の一大生産地で こうした布を商う人々が往来していたと考えられる。
湖西の事例からわかるように こうした商う人々もまた門徒であることが多く 高宮氏が門徒となるのも自然であろうか。

しかし高宮氏は門徒であったことが命取りとなった。信長公記によれば 元亀二年(1571)の秋に佐和山城で殺害された理由に野田福嶋の戦いでは最前線から本願寺へ奔ったことがあげられている。
最も高宮氏は長く隣接する久徳氏と対立しており 元亀二年(1571)の正月早々に前月結ばれた和睦をいち早く破るように 織田方の支援を受けて旧領復帰を果たした久徳氏を攻撃している。
直接的な原因は久徳氏との因縁だと考えているので 彼らが本願寺側にあったことは間接的な理由の一つに過ぎないであろう。
中郡でも一向門徒に対する虐殺の事例は 寡聞にして存じない。

高虎の娘

津を語るうえで重要なのは真宗の高田派総本山が 城からほど近い一身田に存在することだ。高田本山専修寺として今もなお三重県屈指の寺内町が残り 伊勢木綿は工芸品として名高い。
彼ら高田派は加賀の一向一揆で 本願寺派との政争に敗れた後は 反本願寺派として本願寺と敵対する武家と結んだ。
そのお陰もあり高虎の時代にも栄え 遂には高虎と長氏の娘 つまり高次妹の再嫁先 元は蒲生忠郷室 として一身田専修寺門主尭朝が選ばれている。
ついでに記すと長氏は元々宮部継潤の側室とされるが 継潤は元々延暦寺の僧であったという。山徒だったのかもしれない。
また長氏の姉妹は高虎の養女として横浜一庵に嫁ぐが 一庵も何方の僧であった。
非常に高虎は仏の道というものに近い立場にあった訳だ。

まとめ

以上粗雑ではあるが 高虎 藤堂氏と信仰について書き上げてみた。
高虎が生まれた時代は 各宗派が最後の輝きを見せていた頃であろう。
しかし高虎の成長と共に 攻撃力はどんどんと小さいものとなっていく。
それでも高虎が近江で培った仏教観というのは 大屋 粉河と寺に居を構えたことに繋がり 後に大和豊臣家を差配する上で大いに役立ったのではないか。
特に高虎は能を好んだが 能の源流である猿楽は近江でも盛んで 敏満寺には猿楽座が存在するほどであった。
文禄三年には秀保が奈良町での能興行を催しているが ここに高虎の関わりがあったのかもしれない。

また経済を考えると 仏教の力で栄えた近江や和州での知見 経験は役だったことであろう
彼が今治 安濃津 伊賀を任されたのも そうした両国で養われた経済観を家康が評価していたことによるのかもしれない。
更に言えば高虎は彼方此方で将軍に供奉し 彼方此方で築城に携わっている。こうした行動を 媚びへつらい と言う御仁も居るだろうが 財力が無ければこのように多くの行動をすることは出来ない。藤堂家の経済力を考慮する必要がある。
西国で商う人々に信仰された法華宗を 藤堂父子が信仰していたのは そうした経済的な理由も一つであるのかも知れない。

そうした点から考えると高虎を支えた御用商人菱屋林家の信仰も興味深い。林家も商う人々に数えられる以上は 何かしら利益のある宗派を信仰していたのではなかろうか。
とはいえ彼らの前歴や信仰 菩提寺は現段階では定かでは無いため これ以上は何も言えない。

確かに現代的価値観から考えると 商売から武力までを扱う中世の寺社というのは 生臭坊主 と見られても仕方が無いかも知れない。
しかしこれは平安時代以来の深い因縁があり 単純に 生臭坊主 と断じるのは乱暴で 或る意味 武士史観 武家中心主義 に陥っている。詳しいところは伊藤正敏氏の 寺社勢力の中世 神田千里氏の 戦国乱世の生きる力 を読んで欲しいのであるが いささか乱暴に纏めてしまうと こうした寺社勢力のありかたも 中世の生き方 であることを我々は留意する必要がある。
私たちの御先祖様は こうやって逞しく生きておったのだぞ!