渡辺勘兵衛の一族

渡辺氏は近江に多い。一説には八町の赤田氏も同族とされる。
自分のなかで渡辺氏は一に二位局 筑後守姉弟と その父渡辺与右衛門が思い浮かぶ。二番目に思い浮かぶのが渡辺勘兵衛 三番目が渡辺 藤堂 内膳家だろうか。
また高島郡を調べるなかで永禄七年(1564)に浅井長政から六石を宛がわれた渡辺甚助も興味深い。

実は調べてみると 内膳家を除く渡辺氏には少なからず関わりがあったらしいことがわかる。
2023-0319

阿閉氏と渡辺氏

渡辺氏を語る上で まず阿閉氏について論じる必要がある。
阿閉氏と言えば浅井長政を見限り 更には本能寺の変で京極高次らに呼応したことで族滅した家柄として名高い。
一般的に淡路守貞征 孫五郎 長政は万五郎とする 貞大が有名で 姉川の合戦では嫡男五郎右衛門を失った甲斐守 他には某年三月三日に飯福寺へ書状を発給した与三兵衛尉直秀 某年六月十日に勝明寺へ長政が宛てた書状に土佐守の名前が 古くは永正初頭に竹生島へ書状を発給した三河守貞俊 文明七年卯月九日に寄進を行った蔵人忠俊が存在する。

この中で阿閉貞征の妻は系図により井口経元の娘とされ 浅井久政とは相婿の関係であり 貞大と長政は従兄弟でもある。貞大は更に母の姪つまり井口経親の娘を娶ったと東浅井郡志にはある。

さてはて今回扱う渡辺氏というのは長浜市湖北町速水周辺を拠点とする一族である。
阿閉氏が入った山本山城は同地に於ける拠点の一つであり また磯野員昌が生まれ育ったとされる高月磯野山は 山本山城から北に二キロの距離にある 速水は文字通り速水甲斐守や広橋侍速水氏を産んだとされる地域で 二位局 筑後守の母 渡辺与右衛門の妻 もまた速水氏であることから結びつきは強いと思われる。磯野氏を突然出したのは員昌の側近に速水喜四郎が見られることに依る。もしかすると渡辺与右衛門というのは七兵衛に仕える前は員昌に仕えており そこから七兵衛附へ転じた可能性もあるだろうか。如何せん与右衛門は殺害された以外に記録が残っていないのでどうしようもない。近さからすると速水喜四郎は二位局 筑後守の母方一族である可能性もあろうか。

渡辺周防守・甚助兄弟

さて高島に六石を宛がわれた甚助は諱を という。

周防守任

その兄は周防守任で 彼は貞大の婿にあたるという。しかし貞大の生年がわからないので よくわからない。貞征の娘婿である可能性も視野に入れるべきでは無いか。
任は姉川 辰ヶ鼻 の戦いで武功を上げ長政から感状を発給されているが その際に 委曲阿閉万五郎尉可申述 とされている。また長政の小江彦六宛感状では 委曲阿閉万五郎 渡辺周防守可申述 共に取次を担っていることがわかる。
しかし任は天正元年(1573)八月二十八日に小谷城で討死とあるが この日は浅井久政が自害した日である。茶々の追善に依る
恐らく久政今際の時を稼ぐべく 奮戦したのでは無いか。ただし嘗ては信長公記を元に二十八日が長政の命日とされてきたが 現在では茶々の追善や史料から九月一日が長政の命日である。もしも系図がそちらを元にしているのであれば 任の命日も九月一日になるのかもしれない。

統は詳細な事績は定かでは無いが 落城後は秀吉に仕え妻は高島万木出身の娘で 慶長四年(1599)七月十五日に八十一歳で亡くなったらしい。逆算すると生年は永正十六年(1519)となる。考えると任はそれよりも二歳以上は上であろう。そうなると亡くなったのは少なくとも五十代で 貞大の婿というのは疑問である。また浅井久政よりも年長であったと見られる。

新右衛門寛

統の子息は新右衛門寛で中村一氏や増田長盛に仕えた後 池田輝政に転じたという。妻は増田氏という。
中村一氏から増田長盛に転じるところは渡辺勘兵衛の事績と似ている。恐らく一族として勘兵衛と共に行動していたいのだろう。池田輝政は郡山城開城の際に 重臣伊木氏を遣わしている。勘兵衛は藤堂家 寛は池田家とそれぞれ寄せ手の隊下へ加わっている点が興味深い。

渡辺勘兵衛の一族

調べてみると勘兵衛の一族が興味深いことがわかる。
勘兵衛の一族として一番に思い浮かぶのが 甥の渡辺作左衛門だ。彼は冬の陣の負傷で片腕を切り落とした逸話でも有名で 夏の陣では母衣衆を務め討死した。跡は子息が継ぎ 勘兵衛の藤堂家退去後も仕えている。

勘兵衛の出自から考える周防守任

まず系図は渡辺右京亮の実子で 後に周防守任の養子となったとしている。
一方で勘兵衛の三男不誰 堀田家に仕える 父を周防守 母を井口氏としている。

岡本勇氏の 渡辺勘兵衛 という資料に依れば誓願寺には実の両親 養父養母の墓もあるという。その中で養父周防守の法名は 広禅寺弘山常永居士 とある。
これは 東浅井郡志 に見られる法名と同一であるから 勘兵衛は任の養子となったと思われる。然して興味深いのは任の妻が井口氏とされている点だ。すると任 久政 貞征 もしくは貞大と相婿であったのかも知れない。

つまり任の妻が阿閉氏の娘 という説は排除されても良いだろう。むしろ養子の勘兵衛と混同されてしまった可能性も考慮されるべきで 貞大の婿なのは勘兵衛なのかもしれない。
なお養母は慶長十八年(1613)に没したという。

勘兵衛の一族・渡辺佶の一族

まず東浅井郡志によれば周防守 甚助兄弟の父を勘解由 周防守 孝という。彼は永禄元年(1558)に亡くなる。その父 祖父 は甚介佶という。
この渡辺甚介佶が本稿の中心人物である。佶の二男を右衛門尉 又右衛門 兵衛允 秀という。東浅井郡志によれば永禄元年(1558)六月十日に細川晴元から書状 南部文書 を送られた 渡辺右衛門兵衛尉 この秀であるとする。
秀の子が右京介高で 信長に仕え慶長十年(1605)に亡くなった。この高の子が勘兵衛であるらしい。
つまり勘兵衛は父のいとこ いとこおじ の養子となった訳だ。

筑後守の祖

そして佶の三男が監物晃である。何と東浅井郡志によれば渡辺筑後守の祖であるらしい。晃の子が 清亦監物 とされているが これが二位局 筑後守の父である与右衛門重当人であるのか その祖父であるのか定かでは無い。
前に引用した 渡辺勘兵衛 では筑後守を再従兄弟としている。再従兄弟かどうかはともかく どうやら勘兵衛と二位局 筑後守姉弟は縁者であることは間違いないらしい。

渡辺文書の秘密

東浅井郡志で甚助宛の長政書状が収まるのは 渡辺文書 であるが その中には筑後守の息子 正から甚助へ送られた書状が収まっている。今回の渡辺氏記事を書くきっかけは 別で小野木氏の書状を探していたら 偶然この書状が目に入ったからというものであった。
この件は次のような系譜によるものであるらしい。

佶には左京亮記という弟が居た。その子は久右衛門晴で 孫は隼人祐式という。
式には久右衛門豊と小兵衛保の二子が居て 保は統 周防守弟 の娘を娶ったらしい。更に監物晃の跡を嗣ぎ藤堂高虎に仕え二百石を食み 慶長十六年(1611)九月十四日に三十六歳の若さで上野で没したという。ただ功臣年表や家臣辞典では監物晃も小兵衛保も見られない。

この小兵衛保の子が甚介俊で 伯父の久右衛門豊に代わり与右衛門正に仕えていた時期があったという。そうなると久右衛門豊は筑後守家に仕えていたという事になるだろうか。
その後は父祖の地速水に帰ると 伯父新右衛門寛の屋敷 母の実家か に住んだらしい。

つまり佶の弟の曾孫は 佶の曾孫を妻とした。その子息は伯父に代わり親戚の筑後守家に仕え 後に佶の曾孫 孫の子息 の家に住んだ。これにより統宛の書状と 与右衛門正との書状が共に収まったのである。

渡辺勘兵衛と井伊直孝

藤堂家で渡辺勘兵衛は今治城築城で作事家として活躍した 大洲の 臥龍山荘 は彼の屋敷跡と伝わる。
一般的に武勇の強者として語られることの多い彼ではあるが 文武両道の良き将であったともいえる。

冬の陣での問題

しかし勘兵衛は大坂の陣で気難しい高虎が満足するような結果を出すことが出来なかった。
何よりも堺から引き上げる新宮勢逃した一件は重たい出来事であった。
尤も西島留書は 霧の最中の出来事として次のように述べる。
何れの衆か と問えば 新宮にて候 と答え 先手の将たちは もしかしたら浅野勢なのかもしれない と一瞬思ったが いやあれは敵であると気がついたときには 既に逃げられていたという。
冬の陣で高虎は特に機嫌が悪く 新宮を取り逃がしたことに 軍神の血祭りに首を上げたかった 胸が苦しい と西島は記している。
高虎も勘兵衛も大坂方に知己が多く かつての同士を討つことに若干の抵抗があったのだろう。仁右衛門高刑も妻が大坂方の出自であるから 藤堂家自体が幕府から睨まれていたとも考えられる。更に新宮勢討ち逃し事件の一月後には秀頼から高虎宛の黒印状が発給されている。概ね大坂方の策謀 偽書の類とされているが 大坂方に高虎を知る人間が多いことを踏まえると 個人的には本物であろうと考えている。
こうした状況で高虎は心労から体調を崩すが 何とか幕府方に誓紙を出して潔白を示した。

後に高虎は伊予に出張中の新七郎を召喚しているが 勘兵衛は自記にて堺での渡辺掃部 近江の渡辺氏では無いらしい との確執を記しており この重臣間の争論を鎮めるために呼び出した可能性が高い。

なお城攻めの段にいたって 勘兵衛は仁右衛門と申し合わせ高虎 新七郎を出し抜いて 城乗 を敢行している。
一説に仁右衛門は勘兵衛と相性がそこまで良好では無く わざわざ屋敷の間に蔵を建てたと伝わる

こうした豊臣家を敵に回す冬の陣は家中に動揺を与え 戦後に菅平右衛門は堀の埋め立てでの緩怠を咎められ切腹 浅井左馬之助 竹田与右衛門らが藤堂家を退去。他にも小姓の沢隼人と堀小伝次に思うところがあり 沢を叱責 堀には切腹を命じるほど 高虎は自分を見失い家中は大きく混乱していた。

堀小伝次の死罪などは 伊藤吉左衛門と細井主殿が機転を利かせ逃亡させるなど とても高虎の威信と求心力は低下していた。この細井主殿は伊予時代を支えた細井久助の遺児で 重臣である式部 勘解由の義弟でもある。主殿は改易で済んだ。
沢隼人もまた伊藤吉左衛門の機転と 幕臣成瀬正成に執り成しにより処分を免れた。
この伊藤吉左衛門は徒から知行取に昇進した叩き上げで 石高こそ四百石と中堅であるが 家中の人望があった男と思われる。また高虎の癇癪持ちという気性を理解していたようにも思われる冷静さで かなりの古参であったとも考えられる。

さて渡辺勘兵衛も冬の陣を巡る藤堂家中の内訌に乗じて 高虎に暇を乞うたらしい。

こうしたところで高虎の意のままにならない家中というのは 六角氏崩壊の過程を彷彿とさせる。まだまだ藤堂家が 戦国時代 を引きずって 高虎の集権 統制が浸透していなかったとも言えようか。家臣団は高虎の指示よりも 自らの自律的な判断で行動していたとも言える。そうした家臣 思い思い の行動というのは 夏の陣でも現れる。

夏の陣での問題

結局勘兵衛の退去は流石に高虎も認めずにいた。
夏の陣になると 勘兵衛はしぶしぶ嫡男長兵衛の隊に属して砂の陣に至る。そこで高虎は冬の陣同様に 勘兵衛に先手の大将を仰せつけた。しかしながら勘兵衛は仁右衛門 新七郎に配慮して これを辞退したという。

かくて八尾 若江の戦いを迎えることになるが 勘兵衛は八尾の地を死守し 前年の反省を活かし城へ逃げ帰る敵を悉く討ち取る天下無双の働きをした。

穴太神社

八尾の戦いに参じた勘兵衛は 敵勢の多さと先手の崩壊に接し 穴太神社に陣を構え 動かなかった。
このとき高虎は 前線にいては勘兵衛もやられてしまう と思ったのか八尾を焼いて撤退しろと命じた。
しかしここで勘兵衛が穴太神社を捨てれば 川を挟み見合っていた長宗我部勢が追ってくるとこは必定で動くわけにはいかない。また前線に残っていたのは勘兵衛のみならず 八尾に宮内少輔隊 某所には梅原勝右衛門の隊が残っていた。

勘兵衛はただ穴太神社に留まっていたわけでは無く 散らばった勢力の結集を目的としていたのだろう。
勘兵衛のもとには萱振からの転戦組 母衣衆 国分口へ進出していた鉄砲足軽衆 思いのまま自由に戦っていた主殿 高清 正高等無断参陣組 更には夏の陣で対立した掃部宗も集結した。
主殿は晩年 この所には鉄砲が多く参った と記している。

こうした勘兵衛と高吉の八尾死守は長宗我部勢の足を止め その後の逆転勝利に結びついた立派な行動である。
しかし勘兵衛に戻れと下知したのであれば 同じように最前線に出ていた梅原 高吉や国分口の兵にはどのように下知をしたのだろうか。残念ながら高山公実録の記録には他の家臣への指示は見られない。勘兵衛だけに戻れと指示をするのは不審で 高虎の意図は全く理解出来ない。むしろ高虎は四国征伐で秀次によってようやく 矢留 を指示されている程の好戦的な人物であり 彼が前線に居たのなら八尾を捨てることは無い。こうした言動の原理は 折からの大坂方への内通疑惑が影響していたのだろうか。

久宝寺の戦い・追撃戦

斯様に八尾に兵が集まり 更に懸案であった若江の木村勢が敗れたとの知らせが入ると 高虎はようやく重い腰を上げた。
木村勢敗退により長宗我部勢は久宝寺へ退き木戸を閉めるも 藤堂勢の数に圧倒され壊滅する。

その追討戦で藤堂勢は首を取りまくり 渡辺勘兵衛の部隊も多く首を上げた。
その勢いは凄まじく遂に大坂城にも至らんとの最中 高虎の撤退命令により勘兵衛たちは八尾へ引き上げた。
西島八兵衛は 勘兵衛は再三高虎の意に背いたとする一方で 年譜略は少し異なる部分がある。
勘兵衛は平野に旗本を詰めると 道明寺の敗残兵を皆殺しに出来るとと勇んだが 他の大将たちは高虎の撤退命令を重んじたという。一説にはこの案には居合わせた幕府の監視 永井監物も同調し高虎に言上したが 高虎の強い意志に屈服したという。この日の高虎は些か慎重 悪く言えば消極的であったようにも感じられる。
結局勘兵衛も撤退命令に従った。それは朝より三度の合戦 皆寡兵ながら敵と戦ったことによる疲労が大きかったようだ。
このとき勘兵衛は梅原武政 中村重久等 二人は鉄砲足軽大将 と談し 平野の町屋を放火し諸兵を纏め八尾の本陣へ引き取ったという。
何も勘兵衛ただ一人が突出したわけでもなく 鉄砲足軽隊がそこに居たとする記述は重要である。
特に公室年譜略の著者喜田村矩常の姉は梅原氏に嫁いでおり 梅原勝右衛門の隊があったのは確かであるように思われる。

浪人と対井伊直孝

一説に井伊直孝は平野での勘兵衛の働きに感称したという。しかし喜田村は 直孝は平野に来ていないから とする。
しかしながら この逸話を真たらしめるのもまた井伊直孝なのである。

勘兵衛の退去

さてはて高虎は論功行賞と共に 軍紀に背いた将士の処分も行った。
すなわち無断参陣の舎弟高清 正高 側室の兄弟長氏の禄を取り上げ蟄居 そして渡辺勘兵衛は改易の 御せつかん 九月六日付梅原勝右衛門宛梅原竹雲書状 渡辺勘兵衛 と相成った。
なお細井主殿は武功と義兄勘解由の討死を以て赦免となり 元の二千石に復帰。堀小伝次は陣借りから武功を以て帰参。沢隼人は夏の陣で討死している 一説には主殿たち同様に 高虎は勘兵衛も赦免しようとしたが 勘兵衛の暇乞いの意思は変わらずにいて 家中への対面から処したとされている。

勘兵衛は暇乞いが認められず 改易処分になった抵抗から鉄砲に火縄を挿み 沢田家譜 視聴混雑録 上野を出た。これにより奉公構を出されてしまったが 既に勘兵衛は井伊直孝の保護下にあった。

仮想敵・井伊直孝

ともあれ勘兵衛も寛永年間には浪人生活に飽きたのか 幕府に復帰を窺ったが 提示される条件が藤堂家縁の蒲生家 生駒家であったことから結局拒否している。
高虎の没後にも復帰を窺うも 跡を継いだ高次は甘くは無く 勘兵衛も遂に復帰を諦めたという。

ここではそうした浪人時代の暮らしはどうでも良い。
むしろ余りにも手際よく井伊直孝を頼っている点を論じたい。
つまり渡辺勘兵衛は 早くから井伊直孝に誘われていたのでは無いか。井伊直孝は勘兵衛が改易されてしばらくした九月十四日 小倉氏に対して あまりの事にあきれ申候 と綴っている。

西島八兵衛は晩年 三代目の高久に祖父高虎が如何に現在の津藩を築いたのかを覚書に記している。
その中で井伊直孝について 過分の大名 夏御帰陣以後 井伊掃部殿ハ早々江戸へ御くだり 我ひとり手柄之やうに御申なし じまん被成候 と痛烈に批判している。逆に言えば高虎を分相応 自慢もしない謙虚な御仁と神格化しているとも言えようか 藤堂藩成立と伊賀 : 藤堂高虎 高次 高久を素材にして 東谷智

井伊家といえば家康から共に先鋒を務めるべしと遺された家である。何故八兵衛は井伊直孝を糾弾したのであろう。
寛永九年(1632)七月十七日に細川忠興は忠利に対して 伊掃部頭を藤堂跡へ少御加候 幕府右筆大橋重保から聞いたらしい話を認めている。これは家光が信頼する井伊直孝と松平忠明を加増し 大身にならるへき 八月二十八日付忠利宛忠興書状 という風聞に対応しているらしい。
彦根二十五万石の井伊直孝を藤堂跡 三十二万石 郡山十二万石の松平忠明を井伊跡という国割である。江戸幕府老中制度形成過程の研究 藤井譲治

どうやら高虎の没後に藤堂家の求心力が低下する出来事があったらしい。
此の頃であると高次の舅である酒井忠世が中風で臥せっている。反忠世派は 彼の病臥を利用し藤堂高次払い落としを画策したのだろうか。
しかしながら藤堂高次はこうした奇々怪々の幕府政争を乗り越え三十二万石を守り抜いた。

夏の陣での一件 渡辺勘兵衛 国割。こうした積み重ねが西島八兵衛の糾弾に繋がったのだろう。
特に渡辺勘兵衛は二万石の大身であり それを引き抜くことは高虎の対面も藤堂家の軍事機密をも引き抜くに近い。
高虎が温厚でなければ 下手をすると幕府を揺るがす火種になっていたのかもしれない。
むしろ家康が遺した言葉というのは 最期の懸案に対してどうか両者自重し争う勿れという遺言という側面もあろう。

なお八尾若江の戦いは 殊更に井伊隊の活躍が強調されている。しかし藤堂隊はただ一方的にやられたこともなく あくまでも左右の先手が崩壊したのみであり 高虎の怒りと執念 粘り強く士気の高い現場将士の活躍により攻勢に転じることが出来たのである。
戦が終わり幾百年 未だに藤堂家は井伊家と長宗我部家の活躍の舞台装置 踏み台として語られることが多い。しかし それは違うのである。これでは亡くなった将士も報われないのだ。フェアに評価しましょうよ。長宗我部盛親だって藤堂勢の精強さを言い残しているんですよ!!!!

その後の渡辺氏

なおこうした勘兵衛の行動 井伊家との緊張に胃を痛めていたのは嫡男の長兵衛守であったのかもしれない。
彼は高虎の異母弟 高清 正高の妹 を娶っていたが 元和四年(1618)に三十四歳という若さで亡くなる。

妻は元は山岡直則の妻で 源助直広という息子が居た。高清の義子として育ち 後の久居藩家老である
彼女は再嫁した長兵衛との間に子があったが 長兵衛が亡くなったとき僅か六歳であった。そのため長兵衛の遺録は収公され 家士は直参に取り立てられて 彼は僅か蔵米五百石の身分となってしまう。
寛永十二年(1635) 彼は二十三歳の砌に藩を辞去し坂本の祖父勘兵衛を頼る。
すると翌年の島原の陣に参陣するも 帰国後に 一揆如きの籠城 に参陣したことを 未熟者の行い と叱責 勘当されてしまう。
とはいえ寛永十七年(1640)に勘兵衛が没すると その二年後に幕府の執り成しで藩に復帰。後に藤堂姓を許され藤堂守胤と名乗った。

まとめ

以上うだうだと書き連ねてきたが 渡辺勘兵衛は浅井家との結びつきが強い周防守の養子となり 更に自らも浅井家との結びつきが強い阿閉家の婿となることで確固たる地盤を築いた。
また藤堂高虎と渡辺勘兵衛には阿閉家時代という接点の他に 高島時代に恐らく上司であったと思われる渡辺与右衛門という接点があったことがわかった。
与右衛門は七兵衛と共に亡くなるが 遺児は母方の速水氏が秀吉側近として栄達していたことで生き存え 二位局は茶々の側近として 筑後守は千姫附として活躍をしている。
一説に依れば高虎は七兵衛の妻子を保護しているが こうした行動が許された背景には 渡辺与右衛門の遺児が秀吉側近の一族であった点 与右衛門の親戚である勘兵衛の武功があったのかもしれない。

しかしこうした豊臣家との結びつきは 徳川家との関係破綻により藤堂家を苦しめる結果となり 冬の陣での最古参大木長右衛門の負傷 家中の崩壊 夏の陣での先手崩壊という最悪の結果を招いた。
それでも藤堂家が生き残ったのは皮肉にも先手崩壊が 名誉 華やかなる討死 =徳川のために命を落とした と捉えられたこと 反転攻勢で敵勢力を撃滅した事による。
なお二位局は早くから家康の覚えめでたく 落城の寸前に召し出されて 秀頼主従の正確な人数と装束を報告した功績により助命され 出家し高台院に隠棲 筑後守も庄九郎も落城後に千姫への忠節からか旗本に取り立てられている。一説に庄九郎は高虎の口添えがあったと言われている。姉弟はそれぞれ父と同じ六月に亡くなっている

またそのような土壇場の状態にあっても高虎と勘兵衛の間の溝は埋まることはなく 堀は埋めたのに! 最終的に概ね最悪の形で破綻した。
以後 藤堂家は彦根の井伊直孝の圧力に怯むことなく冷静に徳川家への忠節を重ね 生駒騒動 二度にわたる名張家の独立騒動でも咎めを受けず 倒幕まで三十二万石を守り抜いたのである。

令和の今 今治城の勘兵衛石は彼の威厳を伝え 大洲臥龍山荘は北郡武士の粋が薫る。是非両地を訪れた際には勘兵衛の生き様と 乱世に生きた渡辺一族に思いを馳せて欲しい。それが勘兵衛や一族 彼らに関わった全ての人たちへの良き追善となろう。