藤堂家伝来黄金の茶釜考
最近藤堂家伝来の 「黄金の茶道具」 が話題となった。先日茨城県のヒロサワシティがオークションで落札したが、 個人的にも興味深いところがあり研究ノートに書き起こす。
2023-05-30
曖昧な由来・伝承
何よりも興味深いのはその由来だ。
オークションの解説によれば、 朝鮮出兵 (壬辰戦争) で活躍した高虎に秀吉が褒美として与えたとの伝承があったそうだ。しかしこれは史料的裏付けに乏しい。そんなこと初めて聞いた。賜ったのなら公室年譜略や高山公実録に記述があってもおかしくはないのに、 記述は見られない。まずこの時点で疑問が生じる。
秀吉から拝領したもの
確かに編纂史料などをみると高虎は家紋 (賜った桐から葉を抜いて蔦にした、 と江戸後期の甲子夜話にはある)、 猩々緋の羽織 (寛永系譜 ・ 冠山城攻めの武功) 唐冠の兜 (昔からの伝承)、 聚楽第の施設 (宇和島城の施設を経て仁右衛門館の書院になった ・ 宗国史) を秀吉から賜っていることがわかるが、 黄金の茶道具は見たことも聞いたことがない。
郷友という雑誌には、 高虎が天正十六年(1588)頃に盗賊を捕らえた際に黄金無垢の茶釜を賜ったとあるようだが、 これは出典が良くわからない。これは来月国会図書館で閲覧を試みたい。
六月三十日 ・ 追記
『郷友』 の昭和五十六年七月号にある 「草地貞吾 (連盟副会長)」 の連載 『辞世名鑑』 である。まず草地貞吾という人は陸軍の大佐であった人で、 戦後雑誌を発行する日本郷友連盟の副会長になっていたようだ。この号は国会図書館には入っておらず、 九段下の 『昭和館』 の図書室で閲覧した。
彼の文は概ね藩編纂史料を読み解いたもので、 令和の今に出ても通用するコラムであった。
ただし
日本左衛門を捕らえ、 秀吉から 「黄金無垢の茶釜」 をいただいたということが、 大きく取り沙汰されている
という部分の出典は変わらず定かでは無い。
夏の陣褒美説
そこで国会図書館デジタルコレクションで調べてみると、 夏の陣の戦功で掘り出されたものが与えられた、 高虎が金塊を掘り出したのでそれで作った、 このような伝承が藤堂伯爵のもとにはあったようだ。最もこれは伝承で、 詳しい書付も何も残っていないので、 戦前当時には既に由緒が 「誰も知らない」 状態であった。(何れも日本名宝物語 ・ 読売新聞社)
昭和の歴史研究の大家 ・ 高柳光寿氏は 「落城ののち、 家康から焼跡の金銀を与えられた。この金で茶釜以下茶湯台子一式を作った (戦国人名辞典 ・ 送信資料、 登録が必要)」 としている。だが高山公実録下を読んでも、 確かに金銀 (分銅) を拝領したことは元和先鋒録や西島留書に見える。それを茶釜など茶道具にしたという記述は一切見られない。更に高虎の遺品一覧 (実録下 ・ 金谷彦左衛門蔵書 「高山様より家伝御道具書付」) にも見られない。今回調べていて初めて聞いた。実に史料的裏付け ・ 根拠に乏しい由緒である。
同時に戦前時点で徳川家ゆかり、 としか言われていなかったのに、 今回は秀吉ゆかりと伝えられている。これには違和感を覚える。
史料から考える
とはいえ調べてみると、 この茶道具一式は江戸時代後期までには津藩藤堂家に存在していたようだ。
『八水随筆 (日本随筆大成 ・ 要登録)』 なる享保元文(1716~1741)の随筆には 「勢州阿野公に金の臺子あり」 として、 この茶釜の蓋を紛失したときに、 元のまま作らせたという逸話が載る。時期的には五代高敏 ・ 六代高治 ・ 七代高豊 (高朗) の頃だろうか。そうなれば伝来時期は藤堂高虎の没後からしばらくの、 高次 ・ 高久の頃合いであるのかもしれない。しかし 『宗国史』 『公室年譜略』 には見られない。結局は何時伝わったのか定かでは無いとする他ない。
先に引用した 『日本名宝物語』 には、 安政の地震と関東大震災の二度を乗り越えたとの逸話が載る。どうやら運の良い茶釜 ・ 茶道具であったらしい。
津藩も幕末の頃には財政難で、 藩士があれやこれやで凌いでいたし、 御一新後は城の施設から門扉に至るまで売りに出していたぐらいであったと聞いたことがあり、 逆に言えば 「よくもまあ売りに出されず遺っていたものである」 と皮肉の一つや二つ言いたいところもある。
塙保己一ゆかりの品
変わったところでは昭和十年(1936)七月の 『茶道月報 ・ 要登録』 という雑誌に、 南町奉行根岸肥前守と塙保己一、 御存知の無い方のために書けば盲目でありながら学問のために江戸へ下り、 遂には群書類従をはじめた偉人である、 この両者の茶会の様子が記されているが、 そこに 「有名な伊勢津の藩主藤堂家の珍宝金の茶釜」 と一式が貸し出されたらしいことが紹介されている。これは 「参会者の目を惹いたとの事である」 と筆者は述べる。
さてはてこの逸話は真実か定かでは無いが、 筆者の石出帯刀という人物は幕府伝馬町牢奉行を務めた人物であり、 執筆当時八十五歳であった。そうなると彼自身は両者との面識は無いように思われるが、 代々牢奉行の家系であることから祖父や父から聞いた話であるのかも知れない。また 「珍宝金」 という表現は先に紹介した八水随筆に 「勢州阿野公に金の臺子あり、 世々珍宝とす」 よるものである可能性が高い。
するとこの茶釜 ・ 茶道具一式は史料的裏付けに乏しい 「秀吉 ・ 高虎ゆかり」 よりも、 「塙保己一ゆかり」 としたほうが、 まだ史実に近い紹介になるのではないだろうか。
歴史との向き合い方
今回の報道を見て気になったのは、 その伝え方である。
何よりも 「秀吉」 という言葉が先走りすぎていて、 少し加熱していた部分があった。
幸いにも落札後には共同通信 ・ 朝日新聞が見出しで 「秀吉ゆかり?」 と報じたのは、 各社の歴史へのリスペクトを感じなくも無い。
しかし朝日新聞にケチをつけるなら、 藤堂高虎が唐入り (壬辰戦争) でどのように活躍したのか詳らかにして欲しかったし、 何も秀吉と高虎の関係というのは壬辰戦争のみでは無いことも明記して欲しかった。
これはまだまだ藤堂高虎が地味でマイナーで研究が成熟していないことを示すのだろう。
高虎と秀吉の関係
藤堂高虎と豊臣秀吉は早い時期から関係があった。
まず高虎が鎮圧に失敗 (そもそも高虎は鎮圧目的だったのか不明) した小代一揆は、 秀吉直属母衣衆が駆逐している。(鳥取県史ブックレット等)
更に秀長に仕えている筈の高虎に対して、 秀吉が朱印で紀州の材木について指示を与えたこともあります。二次史料ベースでは寺沢志摩守と共に長崎へ奉行として派遣されたこともある。これを以て高虎は秀長の与力であるとする論考が寺沢光世氏の 『大和郡山城代横浜一庵について』 である。
秀長没後、 秀保の具足親となった高虎は、 様々なところで秀吉の指示を受けていたことが駒井日記や秀保宛書状から見ることが出来る。
よく秀保没後に秀吉に取り立てられた時点で両者の関係がはじまったと解説されるが、 それは誤りである。
何なら高虎が三木城攻めで討ち取ったとされる 「賀古六郎右衛門」 は、 実は敵方では無く羽柴秀吉に協力した人物 「英賀本徳寺の寺侍 ・ 加古浄秀」 (兵庫県史第四巻 ・ 要登録) 本人の可能性がある。
英賀城主三木氏の研究と昭和初期の地字と遺蹟 ・ 要登録によれば彼は系図で 「六郎右衛門」 と見え、 その通称が 「加古六郎右衛門」 というそうだ。
高虎の愛馬賀古六郎右衛門の塩津黒 「賀古黒」 というのは、 英賀の加古六郎右衛門浄秀が秀吉に献上したものを、 秀吉が高虎に与えたという可能性もあるだろう。
懸念
懸念することは、 突然降って湧いた 「秀吉ゆかり」 が一人歩きして、 さもそれが事実かのように流布されることである。これはまだ家康ゆかりなら藤堂伯爵が展示に出した際に説明した言葉でもあるので理解は出来る。さらに一式を 「町おこしの目玉に (茨城新聞クロスアイ)」 にする構想もあるそうで、 「歴史が創られること」 に対する懸念は募る一方だ。
ここまで紹介したように、 秀吉ゆかりというのは史料的裏付け ・ 根拠に乏しいもので、 それで町おこしをされては我々史料派の立つ瀬が無い。是非両論併記で展示していただきたいし、 秀吉と高虎の関係は史料が豊富なので、 史料に基づいた展示も行って欲しい。何なら 「偉人塙保己一ゆかり」 も打ち出して欲しいぐらいだ。
とはいえヒロサワシティは個性的な車両保存でも知られるから、 いつか訪問してみたい場所であった。今回落札してくれたお陰で尚一層訪問の意思を強くしたのである。