遠藤直経の考察

遠藤直経という男が居る。
浅井長政を支え姉川に散った武将である。
長政にちょっと囓った人ならば 知らない人の居ない男であろう。しかし いや浅井長政関連は殆どがそうなのだが 概ね軍記をベースに語られることが多い。せっかく戦前から史料が揃っているのに だ。
本ノートでは少し遠藤直経を考察してみよう。

2023-0817

遠藤直経前史

遠藤直経は柏原の須川に生まれたとされる。
遠藤氏については鎌倉時代に下向し土着したと言われる。

戦国期社会の構造とその歴史的特質の研究 宮島敬一 によれば 永享七年勧進猿楽奉加帳 遠藤 が見えるようだ。
また応永の時代に 京極持高の被官 遠藤代官前野入道 が丹生村にて違乱に及んだとある。
更に寛政二年九月十四日の京極家奉行人奉書 醍醐寺文書 には 高宮蔵人 遠藤将監 との宛名が見える。

総合すると遠藤氏は前史京極氏の被官と思われるが 根本被官 と呼ばれるような代表的な被官では無く 中小の被官であったように思われる。

しかし直経の生まれが京極家の本拠地であった柏原であることが重要だ。柏原の地には京極氏の菩提寺である清瀧寺が弘安の頃からあり 名高き佐々木道誉も拠点としていたそうだ。
更に京極争乱で材宗一派を滅ぼした京極高清もまた上平寺に城館を築いている。後に滅びる
このように遠藤氏は代表的な被官では無いながらも 京極本拠地に根付く被官として存在してきたのだろう。

遠藤直経の実像

直経が史料に姿を見せるのは永禄四年(1561)のことである。太尾城合戦に至る道で書状発給を行っている。
大原観音寺へ横山城築城に関する書状であるが ここで長政から同地域での作事を命じられていたようにも思われる。

なお太尾城合戦にて磯野員昌の兵が同士討ちの末に今井定清を討ち取るが 一連の作戦を立案したのは直経と妹婿で今井家中の田那部式部であったとされる。

永禄四年以降の直経

しかし東浅井郡志を読む限り直経が戦事に関わったのは永禄四年(1561)限りであり 以降は竹生島への書状などが専らである。発給書状そのものが少ないため 彼が実際にどのような仕事をしていたのか定かではない。

一方で 島記録 には妹婿の田那部式部が名声を高める様子が叙述されており 小谷城で長政の側近文官として働く義兄と 義兄や今井の威を借り台頭する田那部式部といった構図を見ることが出来る。

変わったところでいくと永禄十二年(1569)十一月に 彼は多賀大社へ 紙本著色三十六歌仙絵 六曲屏風 を納めている。
同作には直経の墨書があり 今に滋賀県指定有形文化財となっている。
直経は文化人としての顔があったと思われる。

姉川の戦い

ここでは佐藤圭氏の 姉川合戦の事実に関する史料的考察 を下敷きに論考を行う。

野村表へ至る道

永禄十三年(1570)二月 織田信長は禁中修理等のために各国の大名国衆に上洛を求めた。
それは 二条宴乗記 の永禄十三(1570)二月十五日条に見ることが出来るが その中に朝倉義景は無く また浅井長政も 京極殿 同浅井備前 と京極氏の下であるかのように記される。
近江の方面では他に 七佐々木 同□子 尼子 同□州南諸侍衆 と記されている。

京極殿とは長政の義兄弟にあたる京極高吉で 一族の晴広 高成は義昭を支える存在であった。^
義昭 信長は京極高吉こそが主であり 更に高島で 七佐々木 甲良は 尼子 が主立った存在である事を認めていたのである。ここに浅井長政の独自性は比定され あくまでも一介の京極高吉を支える被官衆を代表する立場に 戻って しまった。
ただし浅井長政が愛知川以西に侵攻したのは守護京極勢力の復興を想起させるものであり 何処まで不満を抱いたのか近年の研究方向へ些か疑問を抱く部分もある。
それでは何故浅井長政は離反したのか。直接的な引き金となったのは 四月に行った朝倉攻めであるようにも思われる。一説に依れば長政は子息を越前へ人質に出していたとの説もある。

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ただし高吉が義昭を支えたとするのは後年の家譜の記述に依るもので実のところは定かでは無い。また晴広に関しても天正九年(1581)の史料に見えるのみで それ以外の実態は判然としない。詳しくは五郎の記事を参照の事/20240515

遠藤直経の立場

寛政譜に依れば京極高吉は柏原で足利義昭と拝謁した。
同地は浅井長政の右腕遠藤直経の出身地である。信長 義昭の出身地とされるが 両者の拝謁によって柏原の地が元の通り京極家の所領となること 自らの柏原出身国人としての立場に不安を覚えた可能性もあるのではないか。

逸話として有名なのが義昭上洛戦を目前にした八月 信長が佐和山城に赴いた際に ここで信長殺害を長政に具申したと言う。
全く後世の創作と思われる話であるが こうした遠藤直経の事情を考えると なかなか良く出来た話である。
殺したかったのは信長だけでは無く 京極を庇護する足利義昭とも考えることも出来るか。

堀離反の激震

斯くして義昭 信長政権を離脱し 朝倉 六角と結んだ浅井長政であったが 織田信長は無事に京へ帰還し 更に山徒杉谷善住坊の弾丸を避けると五月二十一日に岐阜へ帰城したのである。

朝倉義景は信長を追うように五月十一日に朝倉景鏡等二万の軍勢を近江に差し向け 長政は横山や鎌刃といった境目の守りを固めた。景詮は境目を越え 垂井や赤坂まで進行し村々を焼いたといわれる。
しかし頼みの綱の六角勢が六月四日に野洲河原で敗れ 三雲父子 高野瀬などが敗死したことも影響したのだろうか 景鏡は六月十五日に帰陣したようだ。

信長は足利義昭と共に浅井を掣肘するべく六月十九日には岐阜を出立し あっさりと近江へ入国した。義昭の動座は二十八日と定められていた。
その際に境目の砦 長比城の守将堀次郎とその老臣樋口三郎兵衛が織田方に鞍替えしたのである。長比とは刈安が対になっていたが 刈安の砦も織田の手に落ちてしまった。
嶋記録 によれば 堀次郎は亡き今井定清の妻 小法師丸の母の甥に当たると叙述するが これが事実ならば今井家中を与力に持つ磯野員昌には衝撃が走ったことだろう。
そして直経の妹婿田那部式部と樋口三郎兵衛は従兄弟同士であるとする島記録を信用すると 直経と田那部きょうだいの権威は失墜したと考えてしまう。
既に犬上郡では多賀氏や藤堂氏が入る甲良三郷の首魁尼子氏が独立しており 浅井方は坂田郡一部と伊香 東浅井郡 高島郡の一部だけを支配するだけになっていたと見ても良かろう。

幸運であったのは高島郡に動座するはずであった義昭が摂津守護池田家中で発生した内訌の為に取り止めたことであろうか。
これにより浅井長政は挟撃を免れた。

合戦前夜

六月二十一日 浅井軍は城下に攻め寄せた信長軍に攻撃を仕掛け 弥高の麓へ退却させた。況や弥高は京極氏の由緒ある土地である。

義昭の援護が得られない信長は軍勢を整えると 高坂 上坂 三田村 野村肥後が立て籠もる横山城を攻撃目標とした。
横山城は北に北国脇往還 南に東山道を監視することが出来る街道筋の要衝である。浅井長政はこの城を南郡侵攻の要としたが 織田信長はとにかく岐阜から京都への街道を確保したかったのであろう。そこからしても中郡が既に織田の手にあったと推察することができる

遠藤直経は先にも述べたように柏原の国人とされており 京極高吉や堀次郎 樋口直房が離反した今 横山を奪われると自己の存立が崩壊してしまうのである。
果たして彼の脳内に江濃国境の再奪取構想があったのか定かでは無いが 彼は並々ならぬ覚悟を抱いていたと考えられよう。

そのようにして六月二十七日には三河から徳川家康 越前から朝倉景健が到着し 両軍出揃ったのである。

その死

斯くして姉川の戦いが行われた。野村表 辰ヶ鼻表 三田村表の戦いとも言われる。
浅井軍は果敢に辰ヶ鼻の信長本陣へ突撃し 坂井久蔵を討ち取った。
この激戦で直経と甥で田那部式部の息満牟介は討ち取られた。
直経の死について 甫庵信長記 信長の陣所に紛れ込み信長を狙おうとしたが 見抜いた竹中久作に討ち取られたと叙述する。同様の記述は寛政譜の竹中氏項目にも見ることが出来る。
真偽定かではないが 竹中久作は竹中遠江守の子息とされる。かつて浅井が美濃と義絶した後に 永禄四年(1561)に六角軍に呼応して坂田郡へ打ち入った竹中遠江守の子息である。事実か作話か どちらにせよ境目の国人同士何か因縁めいたものを感じる。

義兄 子息を喪った田那部式部は今井家中を抜け出し 堀次郎と樋口三郎兵衛を頼った。後に今井定清の未亡人を後妻として君臨したらしい。

直経が遺したもの

直経には子息が居た。それは孫とされる遠藤勘右衛門が後年藤堂家に仕えていることから理解出来る。しかし誰を妻とし 何という名前の子が居たのか定かでは無い。
しかし勘右衛門は藤堂家の家臣 南部藤兵衛 の族であることから 直経か その子息は南部氏の女を娶っていた可能性を考えることが出来る。
最も近江の南部氏が何処から出て来た一族なのか定かでは無い。

先にも述べたように多賀大社には直経が納めた三十六歌仙絵が遺る。
そして直経の郷里須川の観音堂には 彼が制作したとされる 十一面観音立像 が安置されているそうだ。
昔物語に知謀勇武の士として語られた直経の実像は どうやら文化肌の出世国人といったところであろうか。