戦国江濃記

近江と美濃が隣り合っていることは一般常識である。そして隣り合っていることは中世両国が濃密な関係にあったことを示している。私は藤堂高虎の先祖や多賀氏を調べる過程で どうやら土岐氏の混乱は避けては通れぬと思っていたが 手を出す余裕に無かったので触れないできた。
しかし城郭文化が定着するなかで 江濃国境の堅牢な城砦たちは 両国間に激しい戦乱があったことを示唆していることに気がついた。
さらに京極六郎と浅井亮政が多賀貞隆を攻めたとされる 下之郷の戦い の年次を再考するにあたり どうやら天文初頭に六角氏の美濃出兵が行われていたことにも気がついた。
これは いよいよ手を出さねばならんなあと思ったのである。しかし美濃のことは何を読めば良いのか 今一つわからない。そこで木下聡氏の 斎藤氏四代 や村井祐樹氏の 六角定頼 を下敷きに近江との関わりを考えてみたい。

参考文献

斎藤氏四代 木下聡 六角定頼 村井祐樹 戦国遺文佐々木六角氏編 村井祐樹 遺文 東浅井郡志 大日本史料 多賀新左衛門の系譜 ―多賀経家の場合― 本田洋 淡海文化財論叢第十四輯

応仁文明の乱

始めに前提知識を簡単に説明する。

応仁の乱が勃発するまで京極氏は持清が当主として君臨していたが その嫡子勝秀の早世と文明二年(1470)の持清逝去に伴って 勝秀の遺児孫童子と持清の末子乙童子 六郎 高清 の間で家督をめぐる争乱が勃発する。これを 京極騒乱 と呼ぶが 応仁文明の乱を悪化させた要因の一つである。

騒乱では孫童子を勝秀の弟政高 政経 と重臣多賀高忠が擁立し 乙童子 六郎 高清 を叔父政光と多賀清直 出雲 が擁立。京極家の主導権争いは多賀家の主導権争いでもあった。東浅井郡志 大日本史料

文明二年・京極家の分裂

そして京極家は東軍の主力であったのに 乙童子派はあろうことか西軍へ奔り 六角亀寿丸派と合流するのである。
六角家は応仁の乱以前から亀寿丸と政堯で家督をめぐる争乱を繰り広げており 勝秀が生前亀寿勢を攻撃するなど京極家も介入していた。
他方美濃の守護土岐氏は西軍に属していた。 東浅井郡志 大日本史料

文明三~四年・妙椿に苦戦する多賀高忠

孫童子派にして幕府の信頼厚い多賀高忠は 主力の将として西軍に転じた乙童子派を攻めるが概ね苦戦を強いられていた。

多賀清直は更に攻勢を強めるべく 西軍陣営美濃を守り抜いた守護代斎藤利藤の叔父妙椿に合力を要請 文明三年(1471)三月に高忠が籠もる如意ヶ嶽城を攻めると高忠は逃亡。さらにこの年 高忠が擁立する孫童子が夭折してしまう。また十一月には高頼征伐の最中 六角政堯が神崎郡の清水城で自害した。
負けが続く高忠はどうやら政高 政経 を擁立したらしく 翌文明四年(1472)九月 捲土重来とばかりに近江を攻略したが 再び斎藤妙椿 六角勢の前に敗れ越前への逃亡を余儀なくされた。この時期亀寿丸は元服し行高を称したらしい。
東浅井郡志 大日本史料

文明七年・高忠の大敗

文明七年(1475)夏 延暦寺と多賀高忠は常習的に押領を繰り返す六角行高の金剛寺を攻める。この攻撃で斎藤氏の対策として背後を突くよう信濃の小笠原氏に協力を依頼し 当初は高忠率いる幕府方の優勢であったが 斎藤妙椿や尾張の援兵 妙椿の養女が尾張守護代織田敏広へ嫁いでいる が駆けつけ 高忠方は一族紀伊守父子や出雲国人三沢氏など百人を失い またしても妙椿の前に敗北を喫した。
こうした頃に出雲で頭角を現したのが京極一族の尼子氏であった。
東浅井郡志 大日本史料

文明十年・両多賀和睦

文明十年(1478) 乙童子は元服し 京極六郎秀綱 となるが 彼は清直と共に幕府へ帰順。翌年に四郎右衛門清直が亡くなると 没年には異説もある その子息兵衛四郎 宗直 と高忠方は和睦に至った。この和睦に際して高忠の嫡男与一 経家 が表舞台に姿を現している。
東浅井郡志 大日本史料

~文明十一年・高忠の失墜

しかし同年秋に高忠が六角を攻めた際 宗直はこれを妨害。高忠は没落し行方知れずとなり 翌文明十一年(1479)二月には足利義政夫人日野氏によって追討命令を出される始末となった。
下之郷古文書撰 桂城神社神輿裏書 には 文明十一年に兵が庄内へ乱入し 兵火によって神輿や神社が焼失したことが記されている。
東浅井郡志 大日本史料

文明十二年・妙椿死後の争乱

高忠が失墜した一年後 文明十二年(1480)二月二十一日に斎藤妙椿が七十歳で死去した。
その後 守護代斎藤利藤と妙椿の猶子となっていた利国兄弟が主導権を争い 利国が勝利し 妙純 と名乗り妙椿の基盤を継承した。この争乱の中で利国は石丸氏に兵を預け 多賀高忠と共に近江へ攻めさせている。その為に六角は利藤を支援せざるを得ない結果となっている。
勝利した妙純は娘を京極高清 乙童子=秀綱 朝倉貞景へ嫁がせ 周辺国との関係を深めた。
東浅井郡志 大日本史料

文明十八~長享元年・両多賀の最期

その後 京極騒乱は混迷を続ける。
文明十八年(1486)に清直の跡を継いだ宗直の専横が国人の反発を招き 江北記 宗直は政経 経秀親子へ転じる。そうして高忠は高清討伐の陣に加わるが 八月十七日に陣没。その死については不可解な部分が多いが 自害とする説が根強い。
戦は高清方の敗北に終わるが 高清は十月に再起している。
その後 宗直は翌長享元年(1487)四月三日に 濃州より入国 江北記 したが 五月一日に国友で一戦の後 月瀬へ敗走し最期を遂げた。
東浅井郡志 大日本史料

長享明応の混乱

長享元年(1487)の出来事としては将軍足利義尚が六角高頼を攻めた 鈎の陣 が有名だ。九月十二日に義尚は坂本へ出陣したが その際に京極政経と高清 土岐成頼 政房親子が参じている。常徳院江州動座当時在陣衆着到
政経 経秀親子と高清との関係は多賀宗直の死を以て和に至ったのか 実のところは定かでは無い。
東浅井郡志 大日本史料

長享二年~三年の騒乱

高清陣営と政経陣営が再び争ったのは長享二年(1488)のことで 八月四日に政経 経家は高清に敗れ 経家は主に先駆け伊勢梅津へ出奔。政経は黄檗 黄和田 へ退いた。江北記 光禄 政経 中郡松尾迄御出張候 とあり 金剛輪寺に攻め寄せたと思われる。

政経は翌長享三年(1489)八月に細川政元 大乗院寺社雑事記 上坂治部 浅見 磯野弾正忠 江北記 の尽力により南から近江へ入国。逆に高清は祇園から余呉へ逃れるも追撃に敗れ坂本より牢人の身となってしまう。
こうして翌年政経は幕府から高清追討令を勝ち取るが 同じ頃に北郡の被官が押領を起こし 更には幕府の番衆を殺害する事件を起こしてしまう。

東浅井郡志 大日本史料

延徳年間・六角高頼と土岐氏の関係

さて鈎の陣が義尚の陣没で幕を下ろした後 延徳元年には高頼の猶子となっていた 土岐の弟 が病で亡くなり 高頼も体調を崩した。大乗院寺社雑事記によれば人々は義尚の怨霊と噂したらしい。
高頼と土岐氏の関係は尚も続き 延徳四年(1492)に足利義材による第二次六角征伐が起きると 高頼自害 の噂と共に 土岐次郎の弟 に跡を継がせるといった風聞が流れたようだ。
なお結局この征伐も失敗に終わる。

明応元年・北郡征伐

幕府は明応元年(1492)七月 六角と北郡の押領被官を誅すべく兵を起こし 諸勢の中には材宗 経秀 将軍足利義材の偏諱 や土岐成頼の姿があった。土岐勢の活躍に浅見 上坂の違乱の徒は没落した。
東浅井郡志 大日本史料

~明応二年・高頼の非道

同年高頼に嫡男氏綱が誕生すると 高頼は三年後に猶子としていた美濃法師 土岐政房の子 を毒殺 表向きには疱瘡による病死 している。
また明応二年(1493)に京極高清は妙純の助力もあり復帰を果たすが 政経は八尾城に退いたとされる。
東浅井郡志 大日本史料

船田合戦と妙純の敗死

明応四年(1495) 土岐氏で内紛が勃発する。木下氏は同年に細川政元が起こした 明応の政変 に関連するものとして論じている。

明応四~五年・船田合戦

これは土岐成頼の嫡男政房 追放された義稙に近い を擁立する妙純方と 末子元頼 政元側? を擁立する利藤方に分かれたもので 先に妙純方として多賀高忠に合力した石丸利光が袂を分かち利藤方に加わり挙兵した。先に政房の子を殺害していた六角高頼も利藤方に加わっている。
しかし石丸は七月に居城船田城を追われ 翌明応五年五月に一家共々自害し果てた。
このとき高清 妙純方 が美濃へ出陣し また利藤方であった高頼も高清の背後を突くためか兵を出したようだが敢えなく妙純の前に敗北を喫した。
これを 船田合戦 と呼ぶ。

斎藤妙純の最期

勝利した妙純は高清と合力し近江へ進軍。
高頼は馬淵に籠もり 妙純は金剛寺に陣を張った。
両軍決め手を欠くなかで十二月三日に和睦。妙純と高清は撤退するが その最中に郷民の蜂起。妙純以下千余人が殺され 妙純 利親親子以下斎藤一族は自害し 高清も逃亡を余儀なくされた。郷民は六角方の馬借とみられる
東浅井郡志 大日本史料

~永正四年・材宗親子のその後

同年政経 材宗は八尾城に居たと思われるが 金剛輪寺下倉米銭下用帳 に多賀経家の動向が見られるため 恐らくは高頼方として活動していたのであろう。
高清が妙純共々敗れたことで政経は返り咲いたが 数年の内に高清が復帰。以降幾度となく高清を攻撃したが 結果的に永正二年(1505)に高清と材宗が日光寺で和睦。更に永正四年(1507)に高清の命で材宗と子息そして多賀経家は自害に追い込まれている。

父政経は翌年 失意のうちに出雲で亡くなった。
東浅井郡志
関連

小括

ここまで見てきたなかでも近江と美濃が密接に関係していることが窺える。しかしこの後 京極高清は安定して近江北郡を 守護 六角高頼親子は畿内への影響力を強めたこともあり争乱とは程遠く それによって美濃が近江へ介入する余地も無くなっていく。
美濃では土岐政房の跡目をめぐって 頼武頼芸兄弟で長きに渡る争乱が繰り広げられることとなる。

戦国時代の江濃国境

既に亮政の項で述べたとおり 高清の跡目をめぐって大永三年(1523)に上坂信光が浅井氏等国人の公事によって京極高清共々近江を追われ 尾張へと逃れた。高清が尾張へ逃れたのは妻 斎藤妙純の娘 のおばに当たる人物 妙椿養女 がかつての尾張守護代織田敏広に嫁いでいた縁に依るのだろうか。

京極高清の復帰失敗

上坂と高清が北郡へ復帰したのは大永五年(1525)のことである。
浅井亮政の助力により両人は尾張から北郡へ 打ち越す この戦いは美濃を巻き込んでの戦いでもあった。

まず大永三年の争乱で上坂 高清 と五郎 に変わって主導権を得たのが浅見貞則と高延 六郎 後者の統治には六角定頼の援助もあったらしい。
そうした構造に対して浅井亮政は尾張より高清と信光を推戴して臨んだが 亮政は居城小谷山を六角定頼だけでは無く越前朝倉氏にも攻められることになる。
東浅井郡志

土岐頼芸の勝利

他方美濃では六月に美濃でも争乱が発生し 六角 朝倉方が支援する土岐頼武 妻は朝倉氏 と高清 浅井方が支援する頼芸という図式で行われた。
端的に結果を述べると近江では高清方が敗れたのに対し 美濃では頼芸方が勝つという対照的な結果となった。この結果により土岐家の家督は頼芸が継ぐことになった。
この戦いで頼芸方に与した長井新左衛門尉が頭角を現したというが 彼は後の斎藤道三の父である。

高清のその後

二年後の大永七年(1527) 管領細川高國と将軍足利義晴は高清をはじめ 多賀豊後守 貞隆 土岐美濃守 頼芸か を介して南北の和睦に動いたが 結局それを上手くいかなかった。しかし一連の流れから 高清が近江に復帰していたことが窺える。
それより先京極高延 六郎 と浅井亮政が近江北部通称北郡を統治するのである。
しかし南の六角定頼との暗闘は続き 享禄四年には箕浦で浅井亮政が敗れている。
その後天文二年になり ようやく南北が和睦に至った。
関連
東浅井郡志

天文五年の合戦

江濃が再び交わるのは天文五年(1536)のことである。
前年に長良川の大洪水が発生し それに便乗したのか中濃から西濃かけて合戦が起きた。

秋の戦い

そして天文五年(1536) 土岐次郎 頼充 の復帰をめぐる争乱が勃発する。頼充はかつて敗れた頼武の息で 此の頃定頼が庇護していたらしい。そして天文四年に元服できる十二歳を迎えたとして 彼の母の実家朝倉氏と合力し頼充の入国を図った。

戦いは長く続き 十月には若宮新右衛門が討ち死したようで定頼は十月二十九日に今井尺夜叉に対し 弟藤八を名代とするように命じている。遺文三四七 若宮文書

戦いの終局と高清の死

結局両陣営は二年後の天文七年(1538)三月に和議し 木下氏によれば頼芸の跡を頼充が継ぐことになったらしい。
この間に近江では六角方へ通じた中郡の盟主多賀貞隆を 京極六郎 浅井亮政が攻め寄せるも今井家中の活躍により撃退されるという 下之郷の戦い が起きている。
時に北郡の覇者京極高清は三月までに七十一年の生涯を閉じていた。
ここから六角定頼の大攻勢 北郡御陣 がはじまり 浅井亮政は敢えなく降伏するのである。
東浅井郡志 大日本史料

六角定頼と美濃

天文十二年(1543) 斎藤道三は大桑城を攻撃し 土岐頼充を尾張へ追放する。その際に頼芸 道三は近江に調略を仕掛けたのだろう 頼芸が 江南北と堅約 と表現したように定頼も浅井久政 天文十一年に亮政は没した 頼芸 道三方であったらしい。
六角家には美濃に縁ある慈寿院なる女性が居たが 木下氏は彼女を定頼の室である可能性を示している。継室になるのだろうか。

頼充の再入国

その後 天文十五年に頼芸 道三方と頼充の間で 頼芸の跡を頼充が継ぐこと また道三の娘が頼充に嫁ぐことを条件に和議が成立。頼充は越前から近江を経て美濃へ帰国を果たす。
ところで天文年間 定頼は岩手弾正に対し書状 遺文 一一〇二 を発給しているが 村井氏が天文五年頃の争乱に関わるものとしているのに対し 木下氏はこの年の頼充帰国に関するものとしている。

近江にいた「とき殿」

こうした頃 金剛輪寺下倉米銭下用帳 に土岐氏の姿を見ることが出来る。

二百文 とき殿様御見物二御出候時御樽之代

明確な年次は定かでは無いが 愛荘町教育委員会版では天文十三年(1544)から天文十五年(1546)の事と推定されている。
但しこの とき殿様 が誰であるのかも定かでは無い。頼芸であれば後年であるが この時期であれば頼充の近江での動向を示す貴重な記録となろう。^

^
加筆/20240518

頼充の死

この頃になると近江北郡では反六角派として京極六郎が蹶起し 浅井久政と抗争を繰り広げている。
他方美濃では天文十六年(1547)に頼充が早世。
弟八郎頼香が跡を継ぎ 翌天文十七年(1548)八月に尾張の織田信秀が頼香の求めに応じてか美濃を攻撃している。
恐らくこの戦いに関してなのだろう 道三 利政 は百々三郎左衛門に対して信秀敗走を伝えている。

百々は佐和山周辺に基盤を持つ有力者であるが この頃は六角方であったと思われるが この頃の定頼の立ち位置は頼芸は保護するものの 畿内情勢への対応もあってか道三を攻撃するまでには至らぬところであった。百々に報告した道三もまた六角方とは敵対することを避けようとしていたのだろうか。
頼香は結局天文十八年(1549)までに道三によって死に追いやられている。

京極六郎と美濃

天文十九年(1550)になると浅井久政は遂に六郎方へ落ち 六角家と敵対する道を選んだ。
東浅井郡志でこの年と比定される六月二十六日付下坂左馬助宛高広書状に 為出張今日廿六於于濃州相働候間 美濃を攻めた旨が記されている。更にこの行動を 土岐 揖斐五郎 光親を援けしことあり としている。
年次比定にしろ揖斐五郎援助にしろ根拠は定かでは無い。

ただし六郎高広がこの年美濃と関わりを持っていたらしいことは 厳助往年記 の天文十九年条に見ることができる。

十一月 江州へ牢人出張 北郡京極六郎従濃州被差出云々 多賀 四十九院等放火云々 即時敗北 静謐也 厳助往年記 天文十九年条

何故六郎高広が美濃で軍事活動を行っていたのか定かでは無いが 現在江濃国境に城郭遺構が見られる点を踏まえると 国境を接する国衆 岩手氏 と抗争を繰り広げた可能性も考えられるだろうか。
なお木下氏に依れば斎藤道三が土岐頼芸と揖斐を追放したのは十月から十月の初め頃で 頼芸は近江へ逃れ揖斐は朝倉を頼ったという。 そうなると六郎は反道三方を支援したように見えてくるが 史料に欠けるのでわからないとする。
関連 1 関連 2

浅井岩松女の輿入れ

翌天文二十年(1551) 浅井氏の女性が濃州へ嫁いだ。

此息女 廿才 岩松女 至濃州令嫁娶 兼右卿記 天理大学図書館報ビブリア 159)

この時期の 兼右卿記 浅井 と目されるのは浅井久政その人であるが この息女は当時二十歳ということで当年二十六歳の久政の娘足りえず 恐らく浅井亮政の娘で久政の妹と考えられる。養女として 濃州 へ嫁がせたのだろう。
岩松女の夫となる 濃州 が具体的に誰であるのか定かでは無い。

一般的に 美濃国諸家系譜 をもとに浅井久政の娘が道三の息義龍 この頃は新九郎利尚 に嫁ぎ龍興を生んだとされている。
しかし龍興は当年既に誕生した後であり 兼右の記述によって龍興の母が浅井氏であるとの説には疑義が生じる事になった。
最も兼右の認識として 濃州 が何を指すのか これは追加調査が必要で出来次第追記したい。

ただし後に承禎 義賢 によって浅井氏と斎藤氏が 縁辺 であったことが明らかにされており 概ね利尚を指すのだろうと思われる。

またこの輿入れが誰主導で行われたかも重要で 可能性を考えるなら京極六郎の影響があったのではないか。

六角義賢(承禎)・義弼親子と美濃

天文二十一年(1552) 六角定頼が亡くなり嫡男の義賢が跡を継いだ。
そして京極六郎と浅井久政は翌天文二十二年に六角義賢の前に敗北。六郎は行方知れずとなり 久政は再び六角家へと帰参した。
東浅井郡志

道三の死

弘治元年(1555)になると天文二十三年(1554)に家督を継いだ義龍 利尚 と道三の関係が拗れ 弘治二年(1556)四月に道三は敗死した。この後 利尚は 高政 へ名を改め 弘治四年(1558)に治部大輔を任官された。

近江にいた「いひ殿」

さて 金剛輪寺下倉米銭下用帳 に揖斐氏の姿を見ることが出来る。

二百文 美濃いひ殿様被成御出候間御樽
    壱荷進上申候代
百文  同肴之代

年次は弘治三年(1557)頃で この後に三月廿二日の記述が見られるため同年三月の記録と思われる。
いひ殿 とは揖斐五郎その人であろう。
永禄三年(1560) 承禎 義賢 は義弼を糾弾する書状に於いて 殊揖斐五郎拘置 遺文八〇一 としているが 弘治三年(1557)には近江に逃れていたようだ。^

^
加筆/20240518

岩手氏の打倒と竹中氏の台頭

さて江濃国境の美濃側には六角定頼とも誼を通じた岩手氏があった。しかし岩手氏は永禄頃に竹中重元によって打倒され 以後同地は竹中氏が治めるところとなった。
その時期については諸説あるが 垂井町では永禄元年(1558)としている。垂井町 菩提山城跡 PDF
また理由について木下氏は 道三存命の頃ならば六角に近い為 義龍期ならば岩手氏が道三方であったという理由によって攻められた 以上二点を示している。

義弼の策

こうした中で六角氏では弘治三年(1557)に義賢は隠居して承禎を名乗り 嫡男の義弼が家督を継いだ。
家督を継いだ義弼は斎藤家との関係改善を図ることで 江濃の関係を一変させたのである。

父承禎は高政の娘 養女か が幕臣伊勢氏へ嫁ぐ際 その荷物を近江で差し押さえ 更には近衛家と高政娘との間であった縁談に横やりを入れ破断させるなど 土岐頼芸を支援する上でも斎藤家に対し強硬的な姿勢を見せてきた。

しかし尚も北郡が不穏であるなかで 土岐頼芸の復帰という非現実的な理想論よりも 強力な美濃の主と通じる現実な選択を義弼が選ぶのは妥当なことではないか。
一方斎藤高政からしても上洛するためには近江を通過する必要があり その為には六角家との関係改善は急務であった。

承禎の怒り

義弼と高政の関係改善は強硬路線の承禎にとって許しがたいことであり 更にその内容が高政の娘を義弼が娶ることで かねて朝倉氏と義弼の縁談を模索していたとみられる承禎の怒りは頂点に達した。

高政の上洛

高政は永禄二年(1559)四月に上洛し相伴衆に列せられ 八月には一色氏へ改姓 更に足利義輝から一字拝領し 一色治部大輔義龍 を称している。
承禎が 異変 を察知したのは この上洛がきっかけであるかも知れない。

肥田城攻めの失敗

そうして永禄二年(1559)夏に こうした関係改善に関わったと思しき肥田城の高野瀬備前守を水攻めする事となった。
しかし肥田城攻めは沖島衆の手疵 栗田小倉両氏が目賀田の夫役をめぐる諍い起こして失敗に終わる。 遺文七九二~七九四 北郡の浅井方はこうした中郡の動きを注視し 九月頃に肥田表の堤が切れ 水が悉く引いた旨を把握していた。東浅井郡志

京極高佳の入郡

同じ頃 京極高佳 なる人物が六角 三好氏によって取り立てられたらしく 坂田郡での内政が史料に残る。ただしそれ以降の動向は不明である。東浅井郡志

義弼の出奔

結局親子の不和は越年し 義弼は永源寺へ出奔した。それによって永禄三年(1560)七月に承禎は宿老たちに弾劾状を発給したのである。
弾劾状の中で朝倉 織田と共に揖斐五郎を美濃へ入国させる支度に触れている。また 先年北郡出陣之時 に道三が矢倉山 不明 へ兵を出したが 緒戦で敗れると即座に退却したことも述べるが これは地頭山の合戦を指すのか。
また土岐一族とみられる慈寿院の前で 義弼と斎藤氏の祝言は 不孝之いたり として厳しく糾弾した。

義弼の復帰

その後 親子は和談し 肥田城で籠城を続けていた高野瀬も甲賀へ退いた。その時期は定かでは無いが 某年十月十六日に義龍が高野瀬備前守へ書状 遺文 八八八 を発給していることから 永禄三年(1560)の秋頃には静まったと考えられる。

浅井長政の離反

そうした六角家の内乱の中で どうやら北郡の浅井家は承禎の懸念通り離反したらしく 十月十九日に若宮藤三郎を勧誘。
十二月には若宮を攻めるべく六角方の中村道心兵衛等が四木へ兵を出し 浅井方の今井家中と交戦。中村道心兵衛が討ちとられた。
この戦いの直前に承禎が出馬するとの風聞 また濃州の兵が境目の かりやす尾 を奪い取るという風聞が流れた。東浅井郡志
何れもこの時には風聞で終わっている。
関連

竹中重元の出兵

明けて永禄四年(1561)三月 六角軍は定頼の弟梅戸高実の援軍もあり北郡へ通じた百々氏が籠もる佐和山城を攻め落とした。百々は切腹し果てた。東浅井郡志
この戦いに関連して義弼は閏三月廿五日に竹中遠江守へ大原口へ出兵したことへの感状 遺文 八二二 を発給した。遠江守は竹中重元のことで 斎藤 一色 家は承禎の懸念に反して盟約通り六角家を助けたのである。
関連

その後の情勢

以上のように応仁文明の乱から永禄初頭にかけて 近江と美濃は密接に関係してきたことを見た。
この後 六角家は観音寺騒動と浅井長政の伸長によって江濃国境との関わりが消失。斎藤家 一色 は永禄四年五月に義龍が没し 跡を継いだ龍興は織田信長との戦いと内訌に手を焼き 此方も近江との関わりが希薄となる。

例外的に永禄六年(1563)の観音寺騒動に関して 龍興は六角親子が無事に帰城したこと等の報告を受け 蒲生賢秀へ返状を認めている。遺文九〇一

浅井長政の美濃出兵説

こうしたところで北郡の浅井長政は 国境を越えて美濃へ攻め入った。

東浅井郡志 では永禄四年(1561)佐和山城合戦の直前としている。一方で軍記 江濃記 では永禄七年(1564)のことして 更に軍記 浅井三代記 では永禄六年(1563)のこととする。

東浅井郡志 は江濃記 武家事紀に加え 寛政譜西尾家項に載る感状を引用する。
これは斎藤 一色 の重臣氏家卜全 桑原直元 が某年二月廿五日に配下の西尾小六へ認めたもので 去る二十一日に浅井備前の出張に対し笠縫表で 浅井方の 稲葉縫殿右衛門 を討ち取り 家中の高名も見事としている。
笠縫表は現在の大垣市で 養老鉄道北大垣駅の周辺にあたる。
しかし重要なのは 野良田同様に美濃出兵に関しても浅井方が発給した感状の類は伝わって居らず その点からして怪しいところがあることを留意して戴きたい。
とかく長政ら北郡勢力は二月の末に国境を越え美濃大垣を攻めたらしい。
その後 江濃記 によれば北郡勢は更に東へ下り 現在の瑞穂市美江寺周辺で斎藤方と戦闘したと述べるが定かでは無い。

木下氏は 義龍が健在な時期に長政が美濃へ攻め込んだとする説に疑義を呈し 同時期の美濃側に西濃から中濃にかけて戦ったような微証は一つも無いと断じている。
また永禄七年(1564)に龍興方が応戦出来る状況にあるとは思えない 竹中重元の息半兵衛が岐阜城を占拠した として 永禄五 八年の可能性を示している。
特に竹中氏の妨害を受けずに美濃へ進出できる点や織田信長との連携など様々な要因から永禄八年(1565)説を論じており 同年が有力なようにも読み取れるが 永禄五 六年を否定する材料も無いことも示している。

考えてみると永禄五年(1562)の二月では六角方が佐和山城を保持している状況 遺文八六〇 美濃へ攻め入ることは不可能であろう。
永禄六年(1563)も同様の状況であり やはり浅井長政が背後を気にすること無く美濃へ攻め入ることができるのは永禄八年(1565)が妥当ではないか。
ただし永禄八年(1565)二月頃には 浅井長政に中郡での軍事行動の可能性があり美濃攻めの時期を推定するのは難しいのである。

乱世の終焉

織田信長が美濃を手に入れたのは永禄十年(1567)のことで それ以降 元亀元年(1570)に浅井長政の離反によって国境が封鎖された例外を除くと 江濃国境は 静謐 となる。
応仁文明の乱から数えると約百年に渡る戦乱であった。