小堀新助(秀言・正次)
小堀新助は検地奉行等で活躍した秀長無二の腹心である。
近江から出た人物で諱を 「正次」 という。
小堀氏の解説本としては太田浩司先生の 『テクノクラート小堀遠州』 が詳しい。また小竹文夫氏の論考 『但馬播磨領有期の羽柴秀長』 も参考になる。
二つの文献を紹介したのは新助が大和以前から秀長 (長秀) の側近として活躍していた点を示す為である。
新助は天正十年(1582)頃から天正十二年(1584)まで、 但馬や播磨で書状発給が見られる。
播磨での書状に依れば天正十二年(1584)頃に 「秀言」 を名乗って居たらしいが、 郡山の史料では 「正次」 に戻っている。
秀長期
天正十三年(1585)、 秀長が紀州に入った頃、 四国出兵に伴う鳥取浦 (阪南) の浦役負担について新介に訴えたと江戸時代の口上書に見られるようである。(和歌山県史中世)
その後秀長が大和に入ると、 十津川の玉置山神社は秀長に従うと共に、 神領の検地赦免を新介へ嘆願。新介はこれを秀長へ取り次ぎ、 赦免を実現させた。(十一月三日付玉置山庵主 ・ 篠坊宛書状 ・ 十津川宝蔵文書)
こうして十津川一千石は赦免されたので、 北山郷も新介や紀伊国に残留した青木紀伊守 (にう山城)、 杉若越後守 (はやの城) を通して赦免を要請したようだが、 秀長はささの坊に対し 「北山の者は悉く首を刎ねる」 と徹底的な成敗を宣言している。(十月二日付ささの坊宛秀長書状)
青木紀伊守は天正十四年(1586)以降紀伊を離れており、 これは天正十三年(1585)のものと思われる。この年の春、 反秀吉の紀伊国人たちは秀吉勢の猛攻に耐えかね熊野へ逃れており、 秀長は北山も同類と見なしたのであろう。
なお秀長がこの書状を出して暫くした頃、 本願寺は同年の反秀吉方最大の勢力であった湯川氏が降参し、 秀長の与力として大和に居たことを把握している。(貝塚御座所日記 ・ 十月十五日条)
斯くして翌年秀長は熊野に籠もった反秀吉方国人勢力と過酷な衝突を繰り広げるが、 小堀新介は関係ないので割愛する。
天正十六年(1588)十二月には藤堂少兵衛が同族多賀出雲守を小堀新介へ訴えている。先に鳥取浦の浦役負担について、 小堀新介へ訴え出たという江戸時代の記述を見たが、 実際に新介は訴訟の窓口となっている点を見ると、 口上書は正しいのだろう。
秀保期
秀長が没した天正十九年(1591)になると検地が実施されるようになり、 新介も奉行としての活躍が見られる。「田勝介」 なる人物が新助の家臣 (内衆) だろう。
天正二十年(1592)までの新介は横浜一庵と共に内政に活躍し、 茶人や能でも才能を発揮した。
天正二十年(1592)、 森半介が狂死した直後の五月十二日には体調を崩し、 症状が重かったのだろうか (大事之間)、 死後には西大寺で孝養せよと伝えていたらしい。(多聞院日記)
この記述以降、 新介は多聞院日記に見られなくなるが、 六月十日には一庵と共に郡山への禁制 (優遇措置) を担当している。(春岳院文書輯成)
以降奈良町で金商人事件が起きるが、 新介がどのように関わったのか定かでは無い。
文禄二年(1593)五月二十九日に一庵との連署が見られ (紀伊続風土記)、 金商人事件の影響などは無く政務に専念している。
文禄三年(1594)十二月に青蓮院の門主が下向した際には、 横浜一庵と共に両樽を献上されている。(華頂要略)
文禄四年(1595)四月、 秀保が没すると葬礼に参加。(駒井日記)
その後と一族
その後は独立し、 その後は検地に強い人材として徳川時代にも重宝されている。
妻は磯野員昌の娘であるようで、 すると磯野家からの転籍組かもしれない。
側室は横浜一庵の娘とされ、 彼女の母が高虎養女であったのならば、 新介の義理の祖父が藤堂高虎となる。
嫡男作介は 『輝元公上洛日記』 に見える 「小堀龍助」 であろうか。
文禄三年(1594)十二月に青蓮院の門主が郡山を訪れた際には、 四日に作介が種々進上し、 翌日には小袖を進上されている。(華頂要略)
また秀保没後、 生母のもとに詰めた大和衆として駒井日記に登場する。
作介は後に小堀遠州として名を馳せ、 妻は藤堂高虎の養女 (実は少兵衛孫娘) である。
また文禄二年(1593)に生まれた息正春は、 その母が側室 ・ 横浜一庵の娘らしい。
小堀三右衛門
新介の兄らしい。
天正十二年(1584)に書状を発給しているが、 『兵庫県史』 の翻刻に依れば諱には 「直」 の字が入るらしい。(1)天正十六年(1588)五月四日、 郡山町から二貫文を進上されている。
しかし同年八月に京都で病死している。(春岳院文書輯成)
(1) 加筆/20240720
小堀次右衛門政長(中島信濃守政長?)
天正十五年(1587)または文禄元年(1592)もしくは文禄二年(1593)の五月十一日、 郡山町人は九州の秀長もしくは名護屋の秀保を見舞い鎖帷子を届けた。
郡山町中への礼状の一通を渡辺彦右衛門尉政□と小堀次右衛門尉政長が連署し、 もう一通は羽田正親が担当している。(春岳院文書輯成)
北堀氏は文禄年間との見解を示している。
小堀政長はよくわからない人物であるが、 新介の一族だろうとは思われる。
文禄三年(1594)八月には秀保家臣の中島政長が諸大夫となり、 中島信濃守となっている。ただ単に同名であるかもしれないが、 念の為小堀政長の可能性も示しておく。
井上源五
井上源五は奈良の代官として君臨し、 その名を轟かせた。
その台頭は羽田と時を同じくして天正十三年(1585)のことで、 和泉下二郡の代官として歩みを始めた。
秀長が大和へ入ると、 奈良町の奉行となり、 その代官所が 「中坊 (椿井)」 に置かれたことから 「中坊源五」 とも記されることがある。(和歌山県史中世)
井上源五の奈良での軌跡は 『奈良市史通史 3』 が詳しい。
秀長期
中坊は筒井順慶のもとで代官をしていた中坊氏を指すが、 筒井氏が転封されると中坊氏もそれに従っている。しかし椿井の元中坊屋敷を代官所としたことで、 変わらず源五も 「中坊」 と呼ばれることとなる。秀長と源五は筒井のやり方を踏襲した形でもあった。
秀長は奈良の寺社 (興福寺) と奈良町の結びつきを断たせるという施策を敷き、 更に源五を配すことで寺社の権限を奪い、 郡山城下で行わせていた町人自治制度 「箱本制度」 と同様の制度を奈良町行わせていた。
だが秀長 ・ 源五のやり方は歪みを生じさせることとなる。
天正十五年(1587)の十月の北野大茶会では、 松屋久政 ・ 久好等奈良の有力者や僧侶たちと共に源五も参加している。筒井氏の頃から中坊には松屋らが集っており、 源五もそれを踏襲した形である。つまり入部から二年もした頃には、 すっかり源五も奈良に飲まれていたのだ。
天正十八年(1590)に秀吉一家は青岸渡寺へ鰐口を寄進したが、 多聞院日記の六月七日条によればここに井上源五も関わっているらしい。この鰐口は如意輪堂 ・ 日本一の大鰐口として現存している。
金商人事件
さて秀長は奈良の商人たちに強制的に貸し付けを行い、 その利息を回収する施策を行っている。奈良町、 ひいては寺社勢力が溜め込んだ益を攫う目的もあったのだろうか。
これにより晩年の秀長は積み上がる程の莫大な資産を手にしたが、 その弊害は秀長没後に借金苦による入水自殺 ・ 無理心中や一揆の噂という事態を巻き起こした。
秀吉は八月に貸し付けた金銀米銭の破棄を認める徳政を発布し、 十月には源五も金商人 (高利貸し ・ 銀の吹き替えで利益を得ていた) を逮捕し家を差し押さえた。
しかし当の源五も秀長の貸し付けに便乗し過分に利息を手にし、 更に自らも秀長の名を騙り奈良中へ貸し付けを行い、 ここでも過分に利息を手にしていた。それに加え源五は金商人の行動を黙認していたらしい。(河内 ・ 落日の豊臣政権)
翌天正二十年(1592)に秀保が名護屋へ出立すると町民たちは源五を弾劾すべく結集。
こうした動きを察知した横浜一庵は八月三十日に奈良町人へ郡山へ下るよう発し、 訴えに来た彼らを郡山の牢に送ったのだ。そして町人の女房たちは中坊の源五が預かり、 奈良町は番によって封鎖された (多聞院日記)
しかし同じ頃、 町人たちは秀吉にも直訴を敢行しており、 それにより源五と一庵 (法印) は秀吉に召喚させられている。(多聞院日記)
直訴は当然町人の勝訴となり、 秀吉は金商人の逮捕のために一庵と源五を奈良へ返し、 両人に桑山杉若の二名を副えている。
そうして奈良中は再び封鎖されたのである。
金商人を捕らえた一庵たちが十二日に中坊を出たことで、 封鎖は解除された。十五日に奈良中の月行事が呼び出され、 それまでに逮捕されたと思しき両替衆 (金商人) と蔵本衆を今夜京都へ連行すると申し付けられた。
そうして夕方に一庵 ・ 桑 (重晴) ・ 杉若の三名が先駆けて上洛し、 源五も遅れて夜に上洛している。
先に郡山で捕らえられた町人が開放されたのは二十二日のことである。
その後源五の動向は定かでは無いが、 二十四日に一庵が奈良借金銀の帳を筆写させられているので、 これを手伝っていたのかもしれない。
次に源五が多聞院日記に現れるのは文禄二年(1593)七月のことで、 二十八日に名護屋の秀保のもとへ下り三千石の失墜となった。(多聞院日記)
一連の騒動で井上源五は一切処分を受けなかったと言われるが、 名護屋で 「三千石之失墜也」 と、 秀保もしくは当時現地にいた秀吉によって処分を受けたと考えるのが妥当である。
また桑山重晴と杉若無心の両名は、 この時期に出家したと思われるため、 彼らも処分を受けたと捉えるべきであろう。
その後源五が多聞院日記に現れるのは文禄三年(1594)の吉野花見の直前で、 関白秀次が中坊源五の屋敷を宿とする旨が記録されている。
その後
皮肉にも翌年の秀次事件の中で、 高野山へ送られる秀次が逗留したのも 「中坊」、 まさしく井上源五が屋敷である。(愛知県史)
秀次は同所で 「そんなに見舞いに来られると立場が悪くなるから控えてくれ」 と認めている。井上源五の目が光っていそうだ。
源五は慶長五年(1600)に亡くなるまで奈良を支配したらしい。
吉川平助
姓は 「よし川」 と読む。
寺沢光世氏 『紀伊雑賀城主 吉川平助について (歴史手帖 1992-08)』 が詳しい。
その初見は天正九年(1581)六月八日付城崎郡竹野浜宛判物写 (東浅井郡志 ・ 豊臣秀吉文書集第 1 巻三一九) で、 地元の水軍竹野浜衆を水夫として動員するべく、 秀吉は 「よし川平助」 を派遣している。
『東浅井郡志』 は吉川三左衛門の一族としているが、 この吉川氏は元々早崎に住まう仁で、 今浜築城の過程で 「吉川人夫百人」 が動員されている。(東浅井郡志 ・ 豊臣秀吉文書集第一巻九二八)
この天正九年(1581)は鳥取城攻めの最中であるが、 秀吉は長浜の水夫をも動員しており、 平助はその代表者と言えようか。
寛文頃に制作されたという千代水村 (鳥取県) 秋里の図には 「秀吉公御舟大将吉川平助陣所」 が記されているという。勿論江戸時代のものだから鵜呑みは禁物であるし、 平助が舟の大将なのかもわからないのだけれど、 彼が鳥取城攻めに参加したことは確かであると思うので一応紹介しておく。(千代水村誌)
軍記が元となったのだろうか。
その後の平助の動向は不明である。
紀伊国ノ大将
彼は(1)紀湊 ・ 雑賀を拠点としたらしいので、 天正十三年(1585)には秀長のもとにあったのだろう。更にその後熊野と関わりを持ったようであるから、 同年から翌天正十四年(1586)の二年間に行われた紀州 ・ 熊野攻めにも参じたと考えるのが自然であろう。一連の紀伊攻めを天正十七年(1589)頃まで続いたとする説もあるが、 ここでは 『鵜殿村史通史』 の二年間説を踏襲する。
『紀伊続風土記』 によれば、 平助と三蔵兄弟は新宮の堀内安房守と共に寺谷 ・ 多尾城に籠もる一揆勢を攻めるべく辛怒田城に入ったという。その数は三千四五百人であったそうだ。
戦後、 『和州北山一揆次第』 によれば平助 ・ 三蔵兄弟は北山の代官として置かれたらしい。
北山の代官をしながら 「サイカニ城拵 (多聞院日記天正十六年十二月七日条)」 と居城を整備していたようでもある。
また熊野那智大社の山上不動堂には、 天正十六年(1588)九月に秀長が精舎と大梵天王を寄進した際の奉行に吉川平助と書かれた銘があるそうだ。(那智勝浦町史上)
(1) 彼は、 加筆/20240720
長浜とのつながり
天正十六年(1588)には長浜の與六との間での金子銀子料足に関して書上をしていたらしく、 没後天正十八年(1590)正月八日に藤堂高虎と羽田正親は長浜城主山内一豊へ連署を発給している。(藤堂高虎関連資料集補遺 ・ 南部文書)
どうやら平助は出世した天正十六年(1588)時点で、 長浜の人間と関わりを持っていたようであり、 その出自が近江で長浜に縁のある人間ということを示していようか。
吉川平助事件
吉川平介は山奉行とされる。
山奉行とは黄金に変わる材木の伐採から製材、 搬出を管理する役柄のようで、 吉川平介はそうしたところで私腹を肥やした。
この時代畿内洛中では大仏造営などで材木需要が高まっており、 秀吉が弟を大和紀伊に配したのは厳密な管理を求めたのだろう。
吉川平助は港町雑賀が拠点と 『多聞院日記』 に見えるから、 切り出しの管理から搬出までの全てを、 舟手の扱いに長けた平助に託されたと考えられる。
古今東西、 湊はよく儲かると言われるとおり吉川平助も儲かったようで、 天正十六年(1588)に熊野材木二万本の売り上げを過分に着服したことで弾劾されたのである。
平助は 「富貴シテアリ」 とあり着服した金を活用して良い暮らしをしていたようだ。(多聞院日記)
しかしそもそも材木は平助のものでもなく、 秀吉のものであるから、 着服を知った秀吉が怒るのは当然である。そうして十二月五日、 西大寺に於いて処刑されたのである。
寺沢光世氏は平助が罰せられた件について 「諸大名への見せしめ」 としている。確かに島津義弘は国許へ 「吉川が処刑された」 と認めており (旧記雑録)、 見せしめとしては充分機能している。
そうなると 『多聞院日記』 に平助の暮らしぶりが伝わるのは、 或る意味で政権側の喧伝であるような気もしなくはない。
翌年平助の跡を継いだ藤堂高虎と羽田正親は、 山の奉行が定めるまで勝手に伐採 ・ 製剤をするなと禁止事項を示している。そこから考えると、 平助はどんどん秀吉が定めた数以上に伐採 ・ 製材をさせたか、 黙認して、 その売り上げで富を得たとも考えられよう。
結局のところ事件は平助一人の処刑で済んだ。
しかし秀長は面目を失い、 翌天正十七年(1589)正月の大坂城年賀行事への列席が認められず、 平助が着服して得た利益分だろうか、 金子七百枚を携え、 釈明や謝罪の意も有りながら大坂へ向かったにもかかわらず、 とぼとぼと大和郡山へ帰城したようだ。
子孫
平助が治めた雑賀のその後は不明だが、 和歌山が近いから、 桑山重晴が接収したのだろうか。
その後、 孫の庄兵衛は京に暮らし、 曽孫は京商人 「松屋庄太夫」 として成功を収めた。最も彼は曽祖父を大湊の人としている (譜牒余録) が、 これは時代が下ると平助と長浜とのつながりが伝承されず、 その出自を同姓同名で家康縁の大湊船奉行吉川平助に求めたのかもしれない。(岡崎市史) ともかく子孫が商人として成功したところを見ると、 平助の商才も確かであったのかもしれない。(2)
(2) 出典譜牒余録加筆/20240511、 「最も彼は曽祖父を大湊の人としている。(譜牒余録) 時代が下ると長浜とのつながりは消え、 混同が起きたのか定かでは無い。(岡崎市史) ともかく平助の商才は確かであったらしい。」 から変更/20240720