主要な人物
但馬 ・ 播磨期に活躍した上坂、 桜井。また 「年寄」 では無いものの和州でかなりの地位にあった杉若 ・ 宇田 ・ 本田 ・ 池田 ・ 小川の紹介です。
上坂八郎兵衛
上坂氏は京極被官の中でも上位にあった家柄である。しかし京極家の内訌によって大永年間には没落し、 その一族は永禄初頭多賀新左衛門の配下として戦うほど落ちぶれていた。
この八郎兵衛は天正五年(1577)、 秀長に附けられた 「五人給人衆中」 に名を連ねたらしい。この五人給人衆中は不明だが、 上坂八郎兵衛は但馬支配に活躍している。
その前歴は不明だが磯野員昌の書状宛名に同名の人物が居り (東浅井郡志)、 員昌の隠居に伴い北郡へ戻り、 羽柴家に仕えたのだろう。
天正八年(1580)からの三年間、 長秀からの書状による指示を受ける立場にあった。但馬時代の長秀の史料は貴重で、 また天正十年(1582)頃には福知山の支配を示す史料は重要だ。
上坂は長秀初期の吏僚として活躍したらしい。
(<論考> 羽柴秀長の丹波福知山経営– 『上坂文書』 所収羽柴秀長発給文書の検討を中心に / 小竹文生)
しかし天正十二年(1584)以降、 上坂が何をやっていたのか定かでは無く、 文禄四年(1595)の秀保没後に 「上坂八右衛門」 が大和 ・ 紀州に千石を宛がわれている。(豊臣秀吉文書集第七巻 ・ 五三四一)
この八右衛門は一見八郎右衛門の後裔のようにも思われるが、 八郎兵衛と八郎右衛門の関係が曖昧であるため、 八右衛門との関係もよくわからないとするほかない。
上坂文書
ところで彼ら上坂一族に伝わった文書群は 『上坂文書』 と呼ばれているが、 同書状群には秀長や豊臣奉行の書状以外にも、 某年賀内膳正 (賀須屋真雄) が羽田正親と高虎へ宛てた書状や、 某年高虎が某に対し 「この屋敷内藤堂佐渡抱え以上」 と簡潔に宛てた書状、 また草野庄当目村山氏に纏わる書状が収まりとても興味深い。(藤堂高虎関係資料集補遺 ・ 東浅井郡志)
どのようにして上坂へ伝わったのか、 上坂八郎兵衛が秀長に仕えていた縁に依るのだろうか、 興味は尽きない。
桜井家一(左吉・和泉守)
天正五年(1577)と比定される小一郎長秀書状の宛名にて 「加野金十郎」 と共に 「桜井左吉」 が見える。草創期からの家臣である。
賤ヶ岳の戦いで武功があり、 九人目の七本槍として語られることが多い。
彼は賤ヶ岳の戦いで功を上げたとされるが、 その後の動向は僅かである。
天正十六年(1588)の 『輝元公上洛日記』 にて 「櫻井和泉守」、 文禄三年(1594)十一月四日に青蓮院へ樽二荷を進上した旨 (華頂要略) が見られるのみである。
その他動向は一切不明で、 その享年も良くわからない。
保田氏との関係
ところで後年藤堂家の重鎮として活躍した藤堂采女に関しては、 藤堂家研究を長くリードしてきた故久保文武翁が著した 『伊賀史叢考』 が詳しい。その中で初代藤堂采女の兄 ・ 保田則宗の妻が桜井家一の娘という。これは 『寛政重脩諸家譜』 にも掲載されている。保田氏は元は畠山被官の紀伊国人である。
久保翁によれば、 どうやら家一が亡くなった後に妻子は秀吉が引き取ったらしい。また家一の娘が則宗に嫁ぐ際、 藤堂高虎の養女として嫁いだとも記されている。なかなか面白い説である。
久保翁の説は 『保田系図 (続群書類従)』 が元となっている。
そこには、 何処まで真なのか判断に困るのであるが、 秀吉から丹波に三千石を宛がう感状 (この秀吉文書は大日本史料に 「松下長智氏所蔵文書」、 兵庫県史に 「瓜生祐次郞氏所蔵文書」 としてそれぞれ掲載されている。) や 「大和中納言秀俊卿」 からの書状が載っている。当然秀俊は間違いなので論ずるまでも無く江戸時代の製作と思われる。
ともかく二人の間に生まれたのが幕閣として活躍した 「保田宗雪」 である。
宗雪は慶長十八年(1613)に生まれたと思われるが、 父は翌年に四十六でこの世を去った。つまり永禄十二年(1569)の生まれとなろうか。
どうやら宗雪は若狭守であったらしい。公室年譜略に見られる 「保田若州」 とは宗雪のことだろう。
村山久介
天正十年(1582)本能寺後、 福知山が羽柴家領地となった期間に上坂八郎兵衛と共に支配を担当した奉行。
その名字から草野庄当目村山氏と思われる。
同族の与介 (矢倉大右衛門秀親) は木下助兵衛 ・ 宮部次兵衛 (秀次)、 右近は前野長泰に仕えていることが上坂文書からわかる。
杉若無心(藤七・越後守)
元は朝倉氏家臣 ・ 杉若藤左衛門の一族であろう。
諱は不明だが藤七の頃より 「無心」 を名乗って居る。
天正十年(1582)までには羽柴家にあり、 本能寺直後は松井康之とやり取りがあり、 その後桑山と共に丹波支配の一翼を担う。
また同年には孫の仙丸が秀長の養子となるが、 彼の格も上がったのだろうか。
秀長期
天正十三年(1585)の紀州征伐では 「はやの城 (芳養)」 に入ったとされる。(高山公実録 ・ 玉置覚書)
その後田辺に本拠を構えている。
同年の末には北山郷の面々が杉若や青木紀伊守、 小堀新介を通じて赦免を要請したようだが、 秀長はささの坊に対し 「北山の者は悉く首を刎ねる」 と徹底的な成敗を宣言している。(十月二日付ささの坊宛秀長書状 ・ 十津川宝蔵文書)
変わったところでは 『本能寺本堂勧進帳』 に米百石を寄進する惣檀那の 「杉若越後守」 を見ることが出来、 彼が法華宗であったことがわかる。本能寺は天正十七年(1589)三月に本堂上棟が再興されたとあり、 天正十四年(1586)か天正十五年(1587)のものと可能性が示されている。(日蓮宗宗学全書 ・ 本能寺文書)
結局彼が藤七から越後守へ改めた時期は定かでは無いのだけれど(1)、 天正十五年(1587)までには改めていたらしい。
天正十六年(1588)には孫の仙丸が秀長養子から外され、 藤堂高虎の養子となった。
一見高虎とは関係が薄いように思われるが、 杉若も高虎も丹羽長秀に関係があると見え、 また羽柴家へ転じたのも同じぐらいの頃ではないかと推察する。
(1) 無いけれど→無いのだけれど(20240611)
秀保期
秀長没後、 高虎とは天正十八年(1590)から天正十九年(1591)に、 羽田と共に材木絡みで秀吉から連名の朱印状が発給されている。(豊臣秀吉文書集第五巻 ・ 三五九七、 第八巻 ・ 六一三四、 年次では後者が十八年とされる)
事例が二通だけなので何ともしがたいが、 吉川平助失脚後に材木の管理を託された藤堂と羽田の両氏を杉若が補佐したとも考えられるか。また湊のある田辺を治めていたから、 自領で切り出し、 田辺から海路輸送をしていたとも想像できよう。
壬辰戦争には参加せず、 子息杉若伝三郎が六五〇の兵を率い参加している。
天正二十年(1592)九月には金商人事件に関連して、 金商人を逮捕するべく横浜 ・ 桑山と共に奈良町へ派遣されている。(多聞院日記)
文禄三年(1594)のものと推定される堀内安房守宛書状の署名は 「杉越入道無心」 であり (松平年一 ・ 戦国武将杉若無心の生涯)、 この頃に出家していたと思われる。桑山重晴は文禄二年(1593)までには出家していたことを踏まえると、 一連の金商人事件の責任を取ったと見ることも出来る。
その後
秀保の没後は他氏同様独立したのであろう。
慶長五年(1600)、 彼は子息主殿 (伝三郎) は始め西軍に属す。『北野社家日記』 によれば、 無心も大津城攻めに加わっていたらしい。
その後主殿は東軍へ転じ新宮の堀内氏を攻撃。しかし紆余曲折あって逐電し、 その後は不明という。
一方無心は京都に在ったらしく 『北野社家日記』 には度々登場しているが、 慶長年間のうちに没したと思われる。一説には京都市中京区越後町は、 無心の屋敷があったことに由来するらしい、
妻子
妻は不明。
子息に主殿 (伝三郎)、 彼は文禄二年(1593)の帰朝の後、 程なくして文禄三年(1594)再び番替で渡海している。その間に跡を継いだのだろう。
娘が数人居るが、 注目すべきは彼の婚姻戦略で、 一人は丹羽長秀の側室となった藤堂一高の母。もう一人は旧畠山被官筋の神保氏へ嫁ぎ、 更に広橋総光にも娘が嫁いでいる。
総光の子 ・ 兼賢は文禄四年(1595)に生まれたとされ、 それ以前には嫁いでいたのだろうか。またこの娘は総光の伯父日野輝資の記録 『輝資卿記』 の慶長十一年(1606)五月十七日条にて、 輝資より贈物の礼を受けている。
関ヶ原後にも京都で健在だったのは広橋家との繋がりに依るのかもしれない。
また孫の養父藤堂高虎は、 中世広橋家の侍藤堂氏が祖とされており (実際の関係は不明)、 文禄年間にはその子孫を称する者が仕えている。後年高虎は広橋兼勝と面識を持っているが、 杉若の娘が嫁いだことに少々の関係はあったやもしれぬ。
杉若無心の人物を考える上でも父親としての顔は大事で、 新宮の堀内が音信を送ってきた際には上方の情勢に加えて、 嫡男伝三郎と入魂である事への感謝も認めている。非常に子煩悩な性格とみえ、 そうしたところは孫の藤堂宮内少輔一高 (高吉) にも遺伝しているようにも感じる。
宇田下野守(尾藤・二郎三郎)
詳細な動向は不明だが大和宿老衆として名高く、 江戸時代には 「小川下野守」 として下野部分が今に遺っている。また石田三成の舅としても有名だろう。
「宇田下野守」 は文禄四年(1595)四月二十三日の秀保葬儀の準備で、 本田因幡と共に 「幕あら垣」 の準備をしている。(駒井日記)
大和豊臣家での動向はこれだけだ。
だが大和豊臣家に 「下野守」 は他にも見られる 。『高山公実録』 の天正十三年(1585)の紀州攻めの項には 「ひろの城」 に入った 「美藤下野守」 が見える。(寛永年間成立の玉置覚書)
確かなところでは天正十六年(1588)の 『輝元公上洛日記』 に 「諸大夫尾藤下野守」 が居る。
これが宇田下野の前歴とみられる。すなわち彼は秀吉重臣として名高く、 高虎とも面識ある 「尾藤知宣」 の一族であろう。
そういえば 『竹生島奉加帳』 には天正五年(1577)正月に 「尾藤二郎三郎」 が見られる。二郎三郎と下野守の関わりは定かでは無いが、 奉加帳には知宣や、 桑山重晴 (重勝) など後の重臣が見られる。尾藤下野守は城を預かる身分であったり、 諸大夫として輝元をもてなす場に居る立場にあり、 更に秀保の葬儀の準備で横浜 ・ 藤堂 ・ 羽田 ・ 杉若に次いで見られる序列の高さからして、 奉加帳の尾藤二郎三郎と下野守が同一人物である可能性は高い。
その後多賀秀種等と共に独立したと思われ壬辰戦争に参戦。
本田因幡守、 多賀出雲守、 小川左馬助と共に 「宇多下野守」 が連名で正月十七日付の秀吉朱印状を賜っている。(豊臣秀吉文書集第七巻 ・ 五七三二)
また天正十六年(1588)から文禄四年(1595)の間に姓を変えていることも重要で、 これは天正十八年(1590)に尾藤知宣が処刑された影響を受けたのだろう。なぜ彼が 「宇田 ・ 宇多」 を称したのか定かでは無い。
一説に三成の妻を 「うた」 と呼ぶのは、 父の改姓に依る可能性もあるか。
宝永頃に制作されたという 『大和名勝史』 は、 高取本田因幡の妻が 「尾藤下野守」 の娘とされている。実のところは定かではない。
本田武蔵守・因幡守
高取城を治めたとされるが、 宇田下野同様に史料にあまり見られない。
天正十六年(1588)の 『輝元公上洛日記』 に 「本田武蔵守」 が登場する。
その後壬辰戦争にて天正二十年(1592)五月十四日に対馬や壱岐の御座所普請を命じられる 「本田因幡守」 が登場するが (豊臣秀吉文書集第五巻 ・ 三六二七)、 彼は文禄二年(1593)には壱岐勝本で奉行となっていたことが秀吉の書状に見える。(豊臣秀吉文書集第八巻 ・ 六二一八)
そこには大和衆の小川土佐守も共にいたらしく関連が想起される。(豊臣秀吉文書集第八巻 ・ 六二一六)
文禄三年(1594)十一月一日には青蓮院へ 「芳野紙三拾束」 を届けているが (華頂要略)、 ここで因幡守が大和吉野と関連することがわかる。
そして文禄四年(1595)秀保葬儀に関して宇田下野と並び 「本田因幡」 が見られ (駒井日記)、 ここでようやっと彼が大和衆が確定となり、 天正十六年(1588)に桑山、 羽田や福智、 池田に小川、 多賀等と共に諸大夫として見られる 「本田武蔵守」 と、 秀保の葬儀に関して宇田下野と共に見られる本田因幡は同格とみられ、 恐らく一族であろう事がわかるのである。
一万石の大名であったらしく、 八月三日には 「紀伊国之内藤堂佐渡守分五千石」 を加増され、 一万五千石となっている。(豊臣秀吉文書集第七巻 ・ 五二五五)
正月十七日には多賀 ・ 宇多 ・ 小川左馬と共に渡海を命じられている。(豊臣秀吉文書集第七巻 ・ 五七三一)
『池田伊予文書』 には某年六月十七日付の池与州 (伊与守秀雄) 宛の 「本半右利朝」 は後世高取城主として語られる 「本多俊政 (因幡守)」 の別名と合致する。(壷阪寺)
文禄年間には本田因幡守が現れることを考えると、 半右利朝 (半右衛門か) と名乗ったのはそれ以前であろう。
宝永頃に制作されたという 『大和名勝史』 は、 本田因幡の妻は 「尾藤下野守」 の娘とされている。実のところは定かではない。
池田伊予守(孫二郎、景雄・秀雄)
池田氏は浅小井 (近江八幡) を本拠として、 六角定頼の時代は池田高雄が活躍している。その後永禄年間に一族で内訌を起こし、 永禄十年(1567)には孫二郎景雄が承禎側近の新三郎豊雄と争い六角家を更に弱体化させたと言っても良いだろう。新三郎は承禎親子と共に流浪の道を選んだようだが、 景雄は信長に降り、 本能寺の変では明智光秀に与したとされる。
天正十年(1582)十月二十一日、 秀吉が小出甚右衛門等へ宛てた書状 (豊臣秀吉文書集第一巻 ・ 五二三) には山崎源太左衛門 ・ 池田孫二郎 ・ 山岡の何れにも 「城之儀堅申付候」 と、 東福寺へ蟄居の身となった多賀信濃守とは異なり、 この頃には許され秀吉方の最前線に配されていたと考えられる。
和州以前の池田孫二郎
天正十一年(1583)十二月九日には堺天神別当安楽寺の社僧舜盛と共に宗及の茶会に参じている。(宗及自会記 ・ 池孫次)
そして天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いには多賀新左衛門等と参戦したらしく、 陣立てに多賀新左衛門と共に 「池田孫次郞」 が見え、 更に八月十五日付の秀吉文書には、 船橋のことは山崎源太左衛門と池田孫次郞、 多賀新左衛門へ申し遣わしているとある。(豊臣秀吉文書集第二巻 ・ 一一七三)
十二月七日の朝には山崎源太左衛門と共に宗及の茶会に参加しているが、 これは帰陣した後の慰労であろうか。(宗及自会記 ・ 池田孫次)
翌年天正十三年(1585)四月二十七日にも山崎源太左衛門、 木下半右衛門と共に三度宗及の茶会へ参加している。(宗及自会記 ・ 池孫次)
また四国攻めに参じたようで、 秀吉が七月六日に発給した書状の宛名に山崎源太左衛門 ・ 多賀新左衛門と共に 「池田孫次郞」、 そして小川孫一郎と共に見ることが出来る。(豊臣秀吉文書集第二巻 ・ 一四八四)
ここまで何れも 「池田孫二郎 (孫次郞)」 を名乗って居る。
池田伊予守の登場
さて天正十五年(1587)以前の某年十一月十九日、 秀長から出馬をせず普請にのみ専念せよ (「年内者何之表へも無出馬之条可有其意候其表之普請専一候」)(1)、 と池田伊予守 ・ 多賀信濃守 ・ 小川壱岐守が厳命されている。(奥村哲 ・ 豊臣期武将の軌跡多賀秀種の場合 ・ 北陸史学 27)
その時期は自ずと天正十三年(1585)から天正十四年(1586)までと絞られる。
十一月という時期に出陣を禁じられている点は興味深く、 十三年であれば熊野へ逃亡した反秀吉勢力、 十四年であれば九州征伐だろうか。
(1) 「」 追加/20240429
天正十四年(1586)十月三十日には、 中坊の井上源五と松屋久政が 「郡山池田殿」 の茶会に参じている。この頃には郡山に屋敷を構えていたようだ。
『多聞院日記』 に依ればこの数日後に一揆の首魁山本等内衆十一名が殺害され、 大和大安寺に首が晒されている。(多聞院日記 ・ 十一月四日条)
だがそれ以前に行われた 「一揆成敗」 については 「そこね申由風聞候」 と、 芳しい結果ではなかったとする噂が流れていたらしい。(熊野川町史 ・ 部門史)
これは 『池田伊予文書 (国立国会図書館所蔵貴重書解題第八巻)』 にある書状で、 本文を読むと風聞を書いた主は当時 「江州二在」 とあるから、 近江にそういった噂が流れていたのだろう。
池田が熊一揆成敗に参加したかは定かではないけど、 時に堀存村 (秀村) の家譜に依れば、 「切部谷」 に一揆が蜂起した際には、 池田伊予守は共に一揆掃討に活躍したらしい。(寛政譜)
なお同文書群には 「秀雄」 と署名された書状があり、 これは伊予守がかつて六角時代に署名した 「池田孫次郞景雄 (戦国遺文佐々木六角氏編 ・ 九四三)」 の諱に酷似しており、 何時頃か改名したであろうことがわかる。
天正十六年(1588)九月十八日にも中坊の井上源五と松屋久政は郡山で 「池田殿」 の茶会に参じている。(松屋会記)
小田原攻めに関して、 六月二十一日に加藤遠江や斎村 ・ 別所等と共に池田伊予守も秀吉から小田原より京都までの町送人足余人を用意するよう命じられている。(金松誠 ・ 中近世移行期における宇陀秋山城主の変遷について、 豊臣秀吉文書集第四巻 ・ 三二七三)
七月十六日にも斎村等と共に池田伊予守は秀吉から伝馬について指示されており、 恐らく池田は小田原には行かず、 生まれ育った近江で後方支援を行っていたのではないか。(豊臣秀吉文書集第八巻 ・ 六一三一)
天正十八年(1590)十月十一日には郡山で曲直瀬道三 (玄朔と注) と宗凡を招いて茶会を催している。(宗凡他会記 ・ 池田伊与殿)
伊賀検地説
ところで天正十七年(1589)の秋頃、 伊賀の筒井家で騒動 (家中確執) が発生した。この騒動を鎮めるため秀吉側近の浅野長吉が奔走するが、 十二月二十八日に多聞院英俊は 「伊賀国、 大納言殿被遣了」 と記している。その後年明けには浅野長吉の奔走によって筒井定次と対立した家臣を切り離すことで、 国替えすることなく決着したようだ。筒井旧臣で高名な嶋左近は、 天正十八年(1590)七月には佐竹氏との間で折衝を担当している。『和州諸将軍伝』 は天正十六年(1588)に去ったとしているが、 この確執の結果として石田三成へ転じたと見ても良いかも知れない。
しかしどうやら秀長が伊賀支配に関わったことは、 秀長を見舞った秀吉が命じたなかに 「和泉と伊賀は余人に遣わし、 (『多聞院日記』 ・ 天正十八年十月二十日条) にあることから、 事実のように感じられる。
さて伊賀に遺る 「寛永十七年(1640)正月二十八日付山論文書 (中馬野村区有文書)」 によれば、 池田伊予が山論を裁許したとの記述が見られるらしい。また 「下柘植区所蔵文書」 によれば池田伊予守は文禄三年(1594)に山年貢を定めるために四方書を作成したという。
ただし文禄三年(1594)であれば伊賀は余人に遣わされた後なので、 伊予守が関われるのか微妙である。逆に言えば伊賀の一部が伊予守に与えられた可能性もあるだろうか。後に伊予守の子息や重臣梅原氏は藤堂家に転じ、 子息は上野城二ノ丸に 「伊予殿丸」 と屋敷を構え、 更には円徳院村に 「伊予殿森」 なる墓が伝わっている。この伝承は津藩の上野城代家が制作した 『三国地誌』 に載るが、 興味深いことに 「豊太閤の時、 本国検地の役となり六万石を領す」 とも述べられている。
「伊予殿森」 のある円徳院村は現在の関西本線佐那具駅周辺で下柘植も近い。一方で中馬野村は円徳院から南、 近鉄伊賀上津駅から 2 号線を北上した地にある。こうした広い範囲を伊予守は支配するところであったのだろうか。
なお 『三国地誌』 は 「伊予殿」 を 「池田忠知」 とするが、 「忠」 の字は江戸時代岡山を治めた池田輝政後裔に見られるため、 誤伝であるように思われる。ともかく円徳院村の 「伊予殿森の墓」 は、 伊予守本人か子息、 または親子二代の墓であるかもしれない。
出典は 『伊賀史叢考 (久保文武)』 『大山田村史上 (久保文武 ・ 前者とほぼ同文である)』
20240720 立項。
秀保期
天正二十年(1592)の聚楽第行幸には、 福智三河や福嶋兵部太輔、 桑山式部太輔と共に池田伊予守も列に加わっている。
また二月二十五日には名護屋へ向かうため、 多賀秀種と共に出立している。(多聞院日記 ・ 郡山池田并多賀)
文禄二年(1593)の閏九月には帰国 (上洛) したらしく、 閏九月二十四日の朝には茶の湯で秀次か駒井重勝をもてなしているが、 この時期秀次は湯治で熱海に在ったから駒井をもてなしたと思われる。(駒井日記)
その後
文禄四年(1595)に秀保が没した後は独立したと思われ、 七月には福島 ・ 福原と共に高野山の秀次への使者 (検死) を務めている。大和豊臣家関係者では、 桑山 ・ 羽田 ・ 藤堂 ・ 井上源五と五名が関わったこととなる。
その後、 慶長二年(1597)に高虎と同数二千八百の兵 (豊臣秀吉文書集第八巻 ・ 六二四九) を率いて壬辰戦争に参じ、 翌年渡海先で生涯を終えた。
一族
『豊臣秀吉文書集 (文禄三年二月晦日条六巻四八八一、 八巻六二三二)』 から喜兵衛という弟が居ることがわかっており、 秀吉は山崎左馬允に対し、 番替に喜兵衛を差し遣わすとしている。山崎は源太左衛門の息である。
江戸時代に津藩士喜田村如常によって編纂された 『公室年譜略』 の大坂夏の陣に参戦した将士の中で、 小姓組に 「池田喜兵衛」 の名前を見ることが出来る。
彼が池田喜兵衛本人もしくはその一族であるか確証は無い。だが伊予守の子息が後年津藩へ招かれ上野城に屋敷を構え、 その家臣であった梅原勝右衛門が津藩の重臣となっている点からして、 伊予守弟 ・ 池田喜兵衛の子孫が高虎の小姓に名を連ねることに違和感は無い。(2)
妻については定かでは無いが、 秀吉から某年七月五日付朱印状 (豊臣秀吉文書集第八巻 ・ 六五五三) を賜っている。
子息は孫二郎秀氏で薩摩藩の 『旧記雑録後編 3』 には島津又ハ郎へ宛てた慶長三年(1598)四月の書状 (孫次郞□□ ・ 島津家文書で高祐) があり、 同年五月には秀吉から知行を宛がわれている。(豊臣秀吉文書集第七巻 ・ 五八一四)
また 『川角太閤記』 は秀次に殉じた東福寺の僧 ・ 玄隆西堂は、 秀吉正室の側近孝蔵主そして池田伊予の 「甥」 と述べる。実のところは定かでは無いが、 宇田と小川が秀吉重臣の縁者であることからすると、 池田も同様であったとするのは自然であり、 頷けるところがある。
また幾つかで引用している 『池田伊予文書』 は国立国会図書館が所蔵するが、 これは池田家中の書状類がどうやら福島家へと渡り、 その前後で襖の内側などに用いられたものらしい。
断簡が多く、 また収まる史料に登場する人物も今では名も知れぬ人物が多いが、 その中にも多羅尾光信の様に僅かながらも名が残る人物に関連する史料も収まっており、 大変貴重な史料であることには間違いない。(3)
(2) 藤堂家の池田喜兵衛について加筆(20240611)
(3) 池田伊予文書について加筆。他に 「源五が郡山に居ない旨」 を記した 「源五留守居書状 (井上源五のことだろう)」 や、 「はね忠 (羽田忠兵衛 ・ 忠右衛門か)」 について触れた 「徳重書状」 も興味深い/20240629
高虎との関係
高虎との関係は池田の臣梅原勝右衛門の母が、 高虎の母方祖母とされる。勝右衛門の姿は 『池田伊予文書』 には見えないが、 遺文や同文書には池田家中の梅原氏を見ることが出来、 藤堂家中の梅原氏と池田家中に縁があるとするのは頷けるものだ。(4)
また多賀新左衛門は永禄年間池田家の内訌に加担していたが、 その後も本能寺の変や小牧長久手の戦い等で行動を共にしている。そうしたところで常則を 「伊予守」 とする寛政譜の記述は、 池田との縁を想起させる。
(4) この梅原勝右衛門は妻が奥田三河守の娘という/20240720
小川土佐守
一般的には関ヶ原の戦いで高名な小川祐忠だろうか。
大和豊臣家関係で行くと、 江戸時代に創造された家老 「小川下野守」 の小川部分である。
彼もまた宇田下野同様に動向が掴みづらい人物で、 江戸時代の史家はよくもまあ小川と下野守をくっつけて一人にしてしまったものだ。賞賛半分恨み節半分である。
小川氏の前歴
さて永禄九年(1566)頃になると浅井長政は南侵が容易となり、 六角家中でも長政に靡いたのか六角家へ反旗を翻す者が居た。それも布施氏というなかなかの家のもので、 その征伐の為に動員されたなかに神崎郡の国人 ・ 小川孫三郎という若年の人物が居て、 彼は五月二十三日に鉄砲疵で此の世を去った。(戦国遺文佐々木六角氏編 ・ 九一八) また家中の国領孫九郎は小川孫三郎の死に追い腹を切って殉ずるのだが、 六角家重臣三雲賢持は父の国領孫左衛門に対し、 殉死した子息を讃えている。(遺文 ・ 九一九)
その文面に 「今度理氏於布施山討死」 とあり、 亡くなった孫三郎が 「小川理氏」 であることがわかる。
小川孫一郎の前歴
小川氏はその後元亀争乱で六角親子の蹶起に従い、 元亀二年(1571)九月に一揆を起こして居城小川城へ立て籠もる。しかし同時に蹶起した志村城で凄惨な攻撃が行われ、 城主 「小川孫一郎」 は人質を差し出して降伏したのである。(大日本史料 ・ 原本信長記)
その後安土城での左義長に池田や多賀たちと参加し、 本能寺の変では明智光秀へ与したとされる。
その後一説に柴田勝豊に仕えたとされるが、 実否はともかく天正十一年(1583)には秀吉方にあったのだろう。
天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いの陣立てには、 二百五十人を率いる小川孫一郎が見える。(大日本史料 ・ 大日本史料第二巻)
天正十三年(1585)には四国攻めに参じたようで、 秀吉が七月六日に発給した書状の宛名に山崎源太左衛門 ・ 多賀新左衛門 ・ 池田孫次郞等と共に 「小川孫一郎」 を見ることが出来る。(豊臣秀吉文書集第二巻 ・ 一四八四)
その後の孫一郎の動向は定かでは無い。
秀長期
天正十五年(1587)以前の某年十一月十九日、 秀長から出馬をせず普請にのみ専念せよ (年内者何之表へも無出馬之条可有其意候其表之普請専一候)、 と池田伊予守 ・ 多賀信濃守 ・ 小川壱岐守が厳命されている。(奥村哲 ・ 豊臣期武将の軌跡多賀秀種の場合 ・ 北陸史学 27)
その時期は自ずと天正十三年(1585)から天正十四年(1586)までと絞られるが、 この 「小川壱岐守」 は孫一郎の一族であろう。
天正十六年(1588)の 『輝元公上洛日記』 に池田と本田武蔵守の間に挟まれて諸大夫 「小川土佐守」 が見える。また 「土佐守子」 の 「小川城丸」 も掲載されている。
池田孫二郎が伊予守となっている点からすると、 小川孫一郎が小川土佐守となったのだろうか。
秀保期
秀長の没後は秀保に従ったと思われ、 壬辰戦争では天正二十年(1592)十一月十六日に開かれたと思しき秀吉の茶会に 「やまと中なこん (秀保) ・ たかのいつも (多賀秀種) ・ はねたなかと (羽田正親) ・ ふくちミかわ (福智政直) ・ おかわ」 が見られ、 土佐守がその後壱岐へ派遣されたらしいことからすると、 「おかわ」 は土佐守で相違ないだろう。(豊臣秀吉文書集第五巻 ・ 四三二四)
文禄二年(1593)六月一日付の秀吉書状にて、 壱岐勝本の奉行であった 「本田因幡守」 と共に 「小川土佐守」 も見ることが出来、 どうやら本田の補佐として遣わされたと思われる。(豊臣秀吉文書集第八巻 ・ 六二一六)
その後
秀保没後は独立したと思われるが定かでは無い。
一族の小川左馬助は壬辰戦争へ出兵したらしく、 正月十七日には本田 ・ 多賀 ・ 宇多と共に渡海を命じられている。(豊臣秀吉文書集第七巻 ・ 五七三一)
その後慶長三年(1598)には小川土佐守は伊予に転じたらしく、 慶長四年(1599)七月廿日には竹の用を求める書状 (須田武男 ・ 豊臣時代の伊予領主の史料研究 ・ 東予松木文書 ・ 土佐守署名) を発給している。恐らくこれが現在わかっている限りで唯一の発給文書と思われ、 写本でも良いから彼の花押を拝見したいものだ。
慶長五年(1600)のことは語るまでもないが、 小川氏は没落したとされる。
小川氏について
小川氏についてはわからないことが多いのだが、 それでも 『神崎郡志稿』 は参考になる部分が多い。
まず先に出た孫三郎理氏は、 弘治二年(1556)に六角義賢の命で木を伐った 「小河孫三郎」 との関連が想定され、 神崎郡志稿は 「土佐守の先代」、 「壱岐守」、 「孫三郎理氏」 の養父か、 と三説を示す。
つまり孫三郎理氏に養子説があるが、 これは国領孫左衛門 ・ 孫九郎親子の後裔の系図 「国領系図」 に依るもので、 理氏は孫左衛門の長子であったという。
結局孫一郎 (土佐守か) が、 一体誰であるのか定かではない (通説言われる祐忠だろう) けど、 「国領系図」 には土佐守の諱を 「宗氏」 として、 実子も無いとされているらしい。
また小川氏の後裔の 「由緒書」 には、 元亀に降伏した先が柴田勝家であったので、 その縁で柴田勝豊に仕えたとされるらしい
その後、 由緒書に郡山へ越した旨、 国領系図に時代こそ信長の頃とするも 「郡山邊で三万石」 を賜ったとある。わかっている限りで羽田 ・ 藤堂 ・ 多賀が二万石、 本田因幡が一万石であるが、 小川にそれを越えるだけのものがあったのか疑わしい。一方で江戸時代には 「小川下野守三万五千石」 とされているから、 成立が何方が早いか定かでは無いものの、 ともかく小川が三万石という認識は流布していたのだろう。
血縁関係
してどうやら土佐守の妻は秀吉重臣一柳直末の姉妹らしく (寛政譜)、 それならば史料に見えない彼がそれなりの地位にあったことは、 一柳との血縁に依るのだと考えることが出来る。それでいけば江戸時代に合成させられたもう一人の男 「宇田下野守」 は、 兄が尾藤知宣で婿は石田三成で、 彼も血縁が後ろ盾としてあったように見え、 こうした共通点から 「小川下野守」 として創造されたと思うと、 江戸時代の史家には、 やられたな、 と思うものである。
そういえば本田因幡の妻が下野の娘とする説 (大和名勝志) もあり、 彼らもまた藤堂高虎のように婚姻戦略で繋がっていたのだろう。
小川左馬助について
さて天正十六年(1588)時点で 「城丸」 という子息があり、 秀保の没後は小川左馬が登場している。
それから暫くして慶長六年(1601)九月七日に 「小川左馬助」 は日田郡に二万石を宛がわれている。(中野等 ・ 史料紹介 東京大学史料編纂所所蔵 「徳大寺文書」 ・ 『豊後國内御知行方目録』 ・ 大分県立先哲史料館 編 『史料館研究紀要』 (3))
左馬助は慶長初頭に大和諸将と共に秀吉から朱印状を発給された人物で、 時期的に関ヶ原の恩賞 ・ お目こぼし ・ 一柳直盛の嘆願によって日田二万石の 「代官」 となったのであろう。
翌慶長七年(1602)六月の片桐且元書状には来島氏と共に 「小川外記」 の名が見られる。
また年次不明ではあるが中嶋村に関して 「壱岐」 なる人物の書状が見える。(石松文書 ・ 大分県史料第 13)
中嶋村は先に 「小川左馬助」 が宛がわれた村の一つで、 かつて大和衆の中に 「小川壱岐守」 が居たことからすると、 小川氏を想起するのは自然だ。
中野氏は左馬助から外記、 壱岐を同一人物とみている。
参考に 『神崎郡志稿』 を見ると、 土佐守には壱岐守と左馬助に瀧本坊實乗の三名があったらしい。郡志内では前者二人の何方が長子、 どちらが二男か諸説別れるが、 實乗について述べる 『石清水社僧記』 は彼を次男としている。
中野氏が説くように壱岐守と左馬助が同一人物であれば、 自ずと實乗が次男となるから確かに自然である。すなわち城丸が後の左馬助と、 現状では考えられる。
小川土佐守の数寄
小川氏は何もわからないのだが 「国司茄子」 を所持していたとされる。名物を所持し、 更に子息實乗が江戸初期を代表する文化人松花堂昭乗 (彼の兄の妻は藤堂少兵衛の孫) の師である点からすれば、 土佐守も数寄がわかる人物だと思うのだが 『茶会全集』 に小川氏は見られない。
唯一 『豊臣秀吉自筆茶会組合せ (秀吉清正記念館蔵 ・ 名古屋市指定文化財)』 に 「おかわ」 が見られるのみである。
そうしたところに着想を得て小瀬甫庵は想像を働かせたのか、 はたまた実際にあったことなのか、 甫庵太閤記には醍醐花見で秀吉をもてなす 「小川土佐守」 の姿が描かれている。
青木紀伊守(勘兵衛)
秀吉 ・ 秀長兄弟の一族とされあるが竹生島奉加帳には見られない。
出石の城主になったとする説があり、 天正十三年(1585)の紀州征伐後は 「にう山の城 (入山 ・ 玉置覚書)」 に入ったとされる。
同年には杉若 ・ 小堀と北山赦免を提案するが秀長に却下されている。
天正十五年(1587)には越前の大名に抜擢されて紀州を離れた。
母親は秀保の葬儀に参列している。(駒井日記)