福智長通(三河守)
大和衆を代表する外交官。九州国分けで活躍した。 国分けの際に島津家から賄賂など所領安堵の為の活動に苦慮しながら、 何とか秀長に裁定を求めている。
輝元上洛記や久政会記などにも登場する。
『大和志料』 には宇陀の人とて説を載せるが実のところは定かでは無い。
それが正しいのなら、 元は伊藤掃部与力かもしれない。(1)
また 『尋憲記』 には元亀二年(1571)の辰市の戦いで討死した松永方の人物の一人として 「福智一承」 が見える。この人物と三河守長通は何らかの関係があったと見るのも面白いかもしれない。(2)
天正二十年(1592)の聚楽第行幸や茶会に見られる 「福留三河守」 は一見すると長通のようにも思えるが、 『豊臣期武家口宣案集』 には同年一月に 「福智政直」 が三河守に叙されている。恐らく長通の息で、 彼は同年までに隠居もしくは亡くなっていたと考えられよう。
ところで多聞院日記には天正二十年(1592)九月二十五日条にて 「福智堂因幡ハ七月廿六日ニ高麗ニテ討死了」 という記録が見られる。福智堂氏は今の天理の国人と見られ因幡は天正九年(1581)に春日大社へ灯籠を寄進している。福智堂と福智、 結びつけそうになってしまう。
高麗から大和まで二ヶ月掛かるのか。
(1) かもしれない→かもしれない。/20240628
(2) 福智一承について加筆/20240628
福智政直
恐らく長通の子息とされる諸大夫。
天正二十年(1592)一月、 三河守に序されるが、 これは御成に列するための叙任であろう。
同年名護屋で行われた茶会に、 多賀 ・ 羽田 ・ 小川と共に参加しており、 秀保の信頼を感じるところがある。
その後の動向は定かではない。
疋田九兵衛
疋田九兵衛は吉川広家や大友氏を担当した。その諱は就長や就言と言われるが、 黄薇古簡集の正月十七日書状には 「九兵衛就言」 とあるから後者が彼の諱だろう。
子息に 「疋田半吉」 が居る。(輝元公上洛日記)
疋田右近
疋田右近も大友氏を担当した。彼は他に取次の仕事は見られないが、 変わったところで天正十七年(1589)九月十七日には、 鞍馬百姓中に対する秀長折紙を、 加藤光泰と共に担当している。同書状に 「右近大夫就茂」 とある。一方同年十月大友義統へ宛てた福智三河守との連署には 「就義 (茂カ)」 と記されている。
同時代の疋田右近は史料に乏しいが、 後年慶長十年(1605)に宗湛日記に現れるほか、 藤堂高虎に家臣を紹介した人物にも名を連ねる。また西嶋八兵衛と共に疋田右近も派遣されたとある。彼らは恐らく天正年間に活躍した就茂 ・ 就義の子息だろう。
元和三年(1617)に寺町氏を高虎に紹介している事から、 同年以降に自身も高虎の家臣となったのだろうか。
中嶋政長
文禄三年(1594)八月二十二日には中島政長が信濃守に任じられた。
先に小堀政長なる人物が見えるが、 単に同名なだけであろうか。
その動向は秀保没後、 生母のもとに詰めた大和衆に 「中島信濃守」 が見えるのみである。(駒井日記)
奉加帳には中島源介が見えるが、 政長との繋がりはあるのだろうか。
ところで 『大阪の陣豊臣方人物事典』 には 「中島信濃」 なる小姓が見える。彼は二十二歳で城と共に討死したそうだが、 これは政長の子息と捉えるべきだろうか。遺児は太秦安井門跡蓮華光院へ蟄居した(1)らしい。
(1) 蟄居らしい→蟄居したらしい/20240628
渡辺豊前守
秀保が高虎に対して傳八 (羽田) と 「渡邊須 (次もしくは彦) 右衛門両人」 の諸太夫成を秀次へ申請するよう依頼した書状は、 某年卯月五日である。桑田忠親翁はその年代を文禄三年(1594)と比定した。
こうしたところで 『豊臣期武家口宣案集』 に渡邊が載っていれば良かったのだが、 残念ながらわからなかった。
ただ秀保没後 『駒井日記』 に載る大和衆には横浜、 羽田、 藤堂等と並び 「渡辺豊前守」 の名前がある。これが 「渡辺」 の 「諸太夫成」 した姿であろうか。
『豊臣期武家口宣案集』 によれば文禄三年(1594)七月十七日に叙任された 「豊前守重吉」 が見える。一般的に彼は 「戸田豊前守重吉」 と目されているが、 念の為渡辺の可能性を考慮しておきたい。
なお秀保に関わる渡辺氏では、 秀保の書状に 「渡辺彦左衛門」 が見られる。(春岳院文書輯成)
この彦左衛門は天正十五年(1587)一月二十四日、 興福寺塔頭最福院と松屋久政を招いて茶会を催している。(松屋会記)
豊前は彼の後の姿か、 もしくは子息かであろう。
福嶋兵部少輔(大之助)
秀長 ・ 秀保に仕えた諸大夫。
天正二十年(1592)の聚楽第行幸では 「福嶋兵部太輔」 である。
詳しいことは不明だが天正二十年(1592)に諸大夫となったらしく、 伏見に屋敷を構え、 某年某より歳暮の到着黒印状を賜っている。(駒井日記増補解説)
また同年には薬師寺に鰐口を寄進している。(奈良県銘文集成)
同官途を後年福島正則の甥御が名乗るが、 やはり正則の一族と見るべきであろうか
野田半左衛門
秀保の側近と思われる。秀保が郡山町人へ宛てた黒印状で登場し、 その没後に大和衆として駒井日記に載る。同じく野田右衛門九郎は一族だろう。
ところで身延山久遠寺に伝わる 『会合所位牌録』 なる史料には秀保の位牌も収まり、 その 「裏書奉営造」 には 「安芸忠左衛門尉 ・ 野田半左衛門 ・ 戸田源左衛門尉 ・ 高崎半右衛門」 の名を見ることが出来る。( 望月真澄 「宝蔵并中央之間廊下拝殿一切経堂 古仏堂録 ・ 会合所位牌録 ・ 方丈位牌堂録 ・ 書写并摺写経録」)
この四名は駒井日記にも見える名前で (戸田→富田、 高崎→高島)、 ここで彼らが位牌を整えたらしいことが理解出来る。
安芸忠左衛門
安芸氏は土佐の国人で、 長宗我部氏に滅ぼされたことでも知られる。
秀保の位牌を調えたとなれば、 秀保の側近であったと思われる。
後に山内家で大仏再興造営用の材木搬送に携わる安芸忠左衛門は、 彼のその後か後裔であろう。
富田 (戸田) 源左衛門、 高島 (崎) 半右衛門は不明である。
某伝左・神辺傳左衛門
天正十六年五月四日郡山惣町分日記に登場する。詳細は不明。
春岳院文書輯成もお手上げである。
ところで輝元上洛日記に 「諸大夫神辺傳左衛門」 が見られるが、 彼が郡山惣町分日記の 「某伝左」 である可能性は(1)ありそうだ。
(1) 可能性が→可能性は/20240628
尾崎喜介
茶人として親しまれているが、 『華頂要略』 によれば 「大和亜相馬廻尾崎喜介」 とあり、 元は秀長の近臣であったと見られる。
とにかく茶会の記録に出てくるので小堀の嫡子作介とも親交がある。多聞院日記にも出てくる。『輝元公上洛日記』 に 「尾藤喜介」 が見られるが、 これは 「尾崎」 の誤りであろう。
どうやらその後は奈良に居着き、 町人として暮らしたらしい。
子息に天正十六年(1588)六月十日に手習いのため寺に入った 「源介」 が居る。(華頂要略 ・ 何れも同日条)
鈴木殿
天正十六年(1588)五月四日 「郡山惣町分日記 (春岳院文書輯成)」 に登場する。詳細は不明。
春岳院文書輯成は寛政譜から元徳川家家臣の鈴木重吉として紹介している。秀長に仕え郡山城二之丸を預かるも没後に奈良で閑居という。
実際のところは定かでは無いが小堀、 横浜と並ぶ秀長の側近となるだろうか。
曲音
郡山城に茶堂を有した茶人。和歌山県史は彼を秀長の茶頭としている。
圭音とか養花曲庵、 老音とか名前が多い。
高林寺
謎の人物。茶会に名前が見られ、 駒井日記では秀保没後に秀保生母大上様のもとに集まった大和衆六十名の中で、 横浜一庵を差し置いて筆頭に位置する人物。
北野大茶会にて井上源五と共に参加している 「高坊」 が高林寺であると奈良市史はしている。今現在も奈良には同名寺院が有ることから、 同尼寺の関係者なのだろうか。
堀田弥右衛門
大和衆として生母のもとに詰めた面々に 「堀田弥右衛門」 がある。
太閤殿下にかじったことがある人間なら、 堀田氏が自ずと津島の人間であり、 木下藤吉郎の時代に 「堀田弥右衛門」 への書状発給があることは容易に想像がつくだろう。(豊臣秀吉文書集第一巻 ・ 九二四)
ただし藤吉郎から書状を受けた 「堀田弥右衛門」 と、 この 「堀田弥右衛門」 が同一人物である確証は無い。なお祐徳文庫版では 「堀田勝右衛門」 となるらしい。