多羅尾光信(玄蕃)

久政茶会記 光豊公記 に見られる人物である。
その諱を 光信 と言い 父は細川氏綱や三好長慶のもとで活躍し後に 若江三人衆 として名を馳せた 多羅尾綱知 である。
立/2024-0628

光信の出自

多羅尾氏といえば甲賀信楽の多羅尾氏が名高く 一見すると玄蕃もまた甲賀ひいては近江の国人に見える。(1)
しかし近年の研究によって三好被官であった 多羅尾綱知 の実像が明らかにされたことから その子息である光信も信楽の人では無く 広く 畿内の人 と見た方が良いのかも知れない。(2)

この多羅尾綱知は元々細川氏綱配下にあった人物で 左近大夫や常陸介を称した。
特筆すべきは妻が三好一族で 一説には三好長慶の弟十河一存の娘とされているらしい。その説に従えば長慶の後継者で 元亀争乱で滅んだ三好義継とは義兄弟にあたる人物となり 光信は同様に三好 九条家 の血をひく人物と言える。

(1) 茶道古典全集でも甲賀多羅尾氏として扱われている。
(2) 戦国武将列伝 畿内編下 に収まる嶋中佳輝氏の稿が手っ取り早い。また志末与志氏のブログ 志末与志著 怪獣宇宙 MONSTER SPACE にある以下の記事もわかりやすいので 両方ともおすすめである。
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何れも 20240628 閲覧

前歴

まず初めに光信の兄弟について触れる。
綱知には三名の子息があったようで 光信と三好家を継いだ生勝 他に元亀二年(1571)に辰市で筒井勢相手に討死した松永久三郎が居た。(3)

光信の初見は天正七年(1579)の判物 遺文一九〇八 とされ 多玄光信 と署名している。これによって後々現れる 多羅尾玄蕃 の諱が 光信 であることがわかる。
翌天正八年(1580)の 宗及他会記 には 五月二十日の晩に宗及が若江を訪ね佐久間甚九郎 信栄 等と共に 多羅尾玄蕃会 に参加した記録が見られる。
その後 馬揃え には 多羅尾父子三人 つまり綱知 光信 生勝の三名が参加したとされる。兵庫県史史料編 中世 9 古代補遺 土林証文 天正九年 1581 正月廿三日付惟任日向守宛織田信長朱印状写

信長滅亡後の天正十年(1582)には秀吉から書状を発給されているが 三好遺文 一九四三 その際の宛名は池田丹後守 多羅尾玄蕃 野間左吉の順番である。
池田と野間 そして綱知の三名を 若江三人衆 と呼ぶが 実はこの面々は縁戚関係にある。
まず池田丹後守 教正 は光信の舅であり 野間左吉 康正(4)は教正妻の兄弟つまり光信の妻のおじにあたる人物だ。また野間の弟左馬は松永久秀の養子として 元亀二年辰市の戦いで光信の兄弟久三郎と共に討死している。
先に宗及の記録を見たが 光信の会に参加した翌朝には 野間左吉会 同日巳之刻 午前十時頃 池田丹後興行にて能有 と記録されているし 馬揃えにも多羅尾父子につづいて池田と野間が参加が記録されている。

天正十一年(1583)十一月には 此比大坂ニテ野間 多羅尾以下レキ〱分国二不可叶トテカンタンウト 凶事悲心細者 多聞院日記 同月二十日条 と述べられる。
野間と多羅尾に何かしらの変化が起きたらしいが 学が足らないためよくわからない。一方池田が見えないのが気になるが これは彼が 三好孫七郎信吉 に附けられたこと依るのだろうか。

某年 豊臣秀吉側近の宮木長次へ宛てた書状 三好遺文 二〇〇二 多常陸入道 が亡くなったことを告げている。
同書状は 孫入道善元 との連署であるが 光信と共に名を連ねる 孫入道善元 は三好生勝と考えられており 恐らく生勝の仮名孫九郎が入道した姿 孫九郎入道善元 なのであろう。父の冥福を祈るために出家したものと思われる。
綱知の没年については天正十八年(1590)以前と考えられているようだ。

(3) 多聞院日記 は久三郎について 金吾若衆山城ノタラヲ息 と述べる。金吾は久秀の嫡男久通。
(4) 野間左吉 左馬 池田教正室の母は松永久秀妹で 光信室から見れば久秀は大伯父となる

多羅尾光信の動向

ここまでは光信の前歴をかいつまんで見てきた。ここからは大和における光信の動向を見ていきたい。
といっても光信が何か秀長 秀保の治世で政に関わったという記録は見られず 一件の茶会と数件の勧修寺光豊との交友の記録程度である。

まず天正十七年(1589)正月十日 松屋久政の記録 久政茶会記 茶道古典全集九巻 に見ることが出来る。即ち久政が郡山の尾崎喜助を訪ねた後に 多羅尾玄蕃殿へ と見える。
ここでこの頃には光信が郡山 つまり秀長に属していたことがわかる。

秀長が没した一年後の 天正二十年(1592)。光信の姿を勧修寺光豊の記録 光豊公記 に見ることが出来る。
まず光信は正月四日に 池田丹後 多羅尾玄蕃 三好助兵衛出来也 大御酒有 と光豊を訪問しているが(5) 特筆すべきは池田丹後や三好助兵衛が同行している点だ。
先に述べてきたように池田丹後は光信の舅教正であり この頃豊臣秀次に仕える立場にあった。

三好助兵衛 は誰なのであろうか。
一説によれば広島藩三好家は生勝は 助兵衛 を称したとされる。その一方で三好生勝はこれまで孫九郎や入道して善元と称していた。
恐らく父の喪が明け 孫九郎入道善元から還俗すると同時に 助兵衛 へ名乗りを改めたのでは無いだろうか。

二月十七日に勧修寺光豊は春日大社を参拝し 奈良を見物した。その後 十八日に跨いで郡山を訪れ 多羅尾玄番殿へ参也 と光信を訪ねている。
この時期壬辰戦争の開戦直前であり 光豊は 大和中納言殿へも出陣ノ御見舞二参也 と秀保に会った旨を記している。
また 氷山玄蕃殿出陣ノ見舞参也 ともあるから光信も名護屋へ遠征したものと思われる。

文禄三年(1594)正月二十八日には 多羅尾玄番より吉野料帋 拾束出来也 と光豊は記す。この頃までに光信が帰国していたことがわかる。文禄二年(1593)十月の秀保 高虎の帰国に従ったのだろうか。
さてこの時光信は紙を持って上洛したらしく 二月四日に 多羅尾玄番出京 二月五日に 玄番留□也 二月七日 玄番被下也 と光信の様子を気にしている。

残念ながら多羅尾光信の動向は調べた限りでは 一連の記述を持って終見となる。
時に文禄四年(1595)に秀次事件が勃発すると 秀次に娘を嫁がせた信楽多羅尾氏も失脚したとされる。また光信と親しい池田教正も 秀次に重用されたことから失脚している。
光信もまた彼ら同様 秀次事件に巻き込まれたのか 定かでは無いが気になるところである。

(5) 光豊公記引用加筆。また生勝は天正の末頃に勧修寺光豊と親交があったようで 天正十九年(1591)六月二十日には 三吉助兵衛 山崎左馬允御茶有ナリ 天正二十年(1592)三月六日には 焼物合也 三吉助兵衛所へ音信有之也 と記録している。/20240629

池田伊予文書に見る光信

て池田伊予守の文書が収まる 池田伊予文書 には気になる人物の書状が収まっている。
何れも 多玄蕃 から 池伊 池豫州 へと宛てられたもので これは池田伊予守へ出したものと判断されよう。

中でも某年六月十九日付けの書状には花押が見える。
同文書は 国立国会図書館所蔵貴重書解題 第 8 巻 (古文書の部 第 3) に翻刻が収まるが 同書では 多玄蕃 多賀玄蕃 としている。
しかし池田伊予守とやり取りが出来る身分の多賀氏に 玄蕃 を称する人物は見当たらず むしろ多賀氏を当てるよりも 多羅尾玄蕃 光信 の可能性があるのではないか。

先に見たように光信は 多玄 三好遺文一九〇八 多玄蕃 三好遺文二〇〇二 と署名している例がある。
国会図書館デジタルコレクションで公開されている同文書の写真 池田伊予文書 7 6 コマ に見える 多玄蕃 の花押と 光運寺文書 (叢書京都の史料 9) に収まる 多羅尾玄蕃 遺文二〇〇二と同じもの を見比べてみると 素人目には同じように見えるため この書状は光信から池田伊予守へ宛てられた書状とすることも可能ではないか。なおその年次は判然としない。

他に池田伊予守宛の書状には 竿釣斎 から宛てられた書状が見える。似たような名前では 釣竿斎三好宗渭 が思い浮かぶが 彼は池田伊予守の時代には没していたとされるので これは別人であろう。

他に 池田伊予文書 には 随而親入道事共御退屈 と述べる 三孫九 からの書状が収まる。10 6 コマ
三孫九 は間違いなく 三好孫九郎 であろう。すると 親入道 は父常陸入道綱知の事となる。そうしてみると花押も 生勝 に見えるような気もする。(6)

(6) 他に 道賀 からの書状 4 7 コマ があるが これは信楽の多羅尾光俊を差すのだろうか。また 道和 なる人物からの書状 4 17 コマ も収まるが 解題の翻刻では 多新介 とも記されている。写真ではよくわからないが 彼も多羅尾一族となるのだろうか。今一つ良くわからない。/20240629

平蜘蛛

光信に関する記述で興味深いのは 松屋名物集 茶道古典全集第十二巻補遺第二 多羅尾玄蕃 平蜘蛛ノ釜ツキ集メ持ナリ とあることで 平蜘蛛の釜といえば松永久秀の所有した名物として知られている。だが平蜘蛛の茶碗は天正五年(1577)十月に松永久秀が自害した際 共に壊れたと言われる。
焼け跡から光信が探し出し 復元したのだろうか。
後に宗及は多羅尾常陸会で平蜘蛛の茶碗を目の当たりにしており 光信が自発的に集めたと言うよりも父綱知に命じられたと言えるかもしれない。

附論一・豊臣期の旧三好被官を考える

綱知や久秀と共に三好家を支えた人物に 松山重治 という人物が居る。
彼の詳しいところは諸兄の解説に譲るが(7) 重治の息は 鈴木兵三郎 として粉河に暮らし藤堂家に属したと 紀伊続風土記 の猪垣村の項に見える。
津藩側の編纂史料には見られないが 大変興味深い記述だ。

また池田家の重臣梅原武政の妻は奥田三河守忠高の娘とされているが この奥田忠高も松永久秀に属した経歴を持つ。
特に元亀三年(1572)の交野城攻めでは三好 松永方の寄せ手として山口六郎四郎と共に三百の兵を以て付城に詰めるも 同城の後詰めに訪れた織田勢に包囲されながら脱出したこともあった。原本信長記(8)
どうやら多羅尾光信 松山重治息 奥田忠高のような旧三好被官系統の人物は秀長 秀保の大和支配に必要とされたらしい。
松永久秀から秀長の間で大和を支配したのは筒井順慶であったが 彼の晩年から死後にかけて大和国人の大粛清が行われ その後継者である定次自体が伊賀へ転封されたことが旧三好被官系統の人物が用いられた理由として挙げられるかもしれない。

そうなると福智政智 政直の三河守二代に関して 大和大納言秀長公家士福智三河守宇陀郡人也 とする 大和志料上巻 の記述は 俄然興味深い記述であると言える。(9)
時に元亀二年(1571)辰市の戦いでは綱知の子息松永久三郎等の他に 福智一承 が討死している。尋憲記
この 福智一承 福智三河守 の前代である可能性を提起するのも良いかも知れない。

(7) これも志末与志氏のブログ記事 松山重治―境界の調停と軍事(2019-03-28) が詳しい 20240628 閲覧
(8) この後詰めには多賀新左衛門もいた
(9) 松永久秀は永禄年間宇陀に侵攻し 沢城に高山右近の父親が入っている。最も宇陀の国人宇陀三人衆の沢氏はかねて北畠派であり 城を追われると北畠氏を頼っている。なお沢源六は後に秀吉に仕え 文禄四年(1595)九月に高市郡二千石を領していたことを秀吉朱印状に見ることが出来る。その息は高虎に仕えた隼人満廉である。
また高虎に仕えた野依清右衛門も宇陀の人とされ それ以前の経歴は定かでは無いが秀長 秀保に仕えていたとされる。
他に宇陀の人では無いが 高虎に仕えた野崎家次は河内野崎村の人とされる。野崎村が三好長慶の本拠地飯盛城に近い野崎城の付近であれば 彼も三好被官に連なる人間と言えるかもしれない。最も家次自身は賤ヶ岳の戦いの頃には秀長に付き従っていたと伝わるのであるが。藤堂高虎家臣辞典 佐伯朗

附論二・信楽多羅尾氏について

ところで多羅尾氏と言えば甲賀信楽の多羅尾氏が名高い。
綱知 光信親子が信楽の多羅尾氏とどのように関わりがあったのか現在でも定かでは無いが 光信の諱に見える の字は信楽多羅尾氏が代々用いた字であることを踏まえると 親子は傍系なのかもしれない。

さて信楽多羅尾氏も松永久秀と関係を持っていたことは既に明らかになっており 永禄年間には久秀は 多四兵 =四郎兵衛光俊か へ書状を認めており 大阪城天守閣所蔵文書 永禄十三年(1570)二月には久秀の重臣竹内秀勝の娘が多羅尾氏へ嫁いでいる。二条宴乗記
更に光俊の子息光広は山口長政の養子になったとされるが 多羅尾代官家系図 この山口氏 甚介秀景 は久秀の重臣山口秀勝 六郎四郎 の一族と目されている。宇治田原の土豪 松永久秀被官に関する一考察/中川貴皓
こうしたところで綱知と信楽多羅尾氏に関係があったのかもしれない。(10)

(10) 秀勝が六郎四郎であることを括弧で加筆。光俊は後に出家し 道賀 を称したとされるが 先に触れたように 池田伊予文書 にも 道賀 の書を見ることが出来る。ただ光俊=道賀の花押を存ぜぬ為に 同文書の 道賀 が信楽多羅尾光俊であるのか確証がないことを此処に記す。/20240629

藤堂氏と多羅尾氏の関係

後に藤堂氏も後に多羅尾氏と関係持つ。
多羅尾光尚 四郎左衛門 は高虎に仕え大坂両陣に従軍。藤堂高虎家臣辞典
二代目高次の側室で三代目の高久 久居初代高通の生母は多羅尾氏の出身であり 彼女の一族光誠は藤堂姓を賜い 藤堂数馬家 の祖として知られている。藤堂藩功臣年表 それぞれ光尚が光俊の子 光太の子息 光誠が光太の弟とされ 高次側室は光誠の娘とされる。
一方で 藤堂御家譜井雑書三 三重大学ふびと 6 に収まる多羅尾氏の系図によれば光誠と高次側室はきょうだいで その父は光太の弟光量の子息と記されている。
また 多羅尾氏ガイドブック 甲賀市 所収の 多羅尾氏家系図 代官家 によれば光太の弟光時 光太の子息光尚が 藤堂和泉守家家臣 とある。光尚はその通りだとして 数馬光誠 高次側室の父は 光時 なのかもしれない。
こうした曖昧なところは後考を待ちたい。

また上野城に配された藩士 落合左近の三代目の妻は光太の嫡男光好の娘であった。
後年彼は故あって妻の実家信楽へ出奔。この件で津藩は義兄にあたる信楽代官 多羅尾光忠 実は小堀新介の孫 遠州の息 と交渉して三代目落合左近の処遇を定めている。(11)

このように甲賀の多羅尾氏と藤堂家は関係を持ったが そこに豊臣政権下での関わりがあったのか定かでは無い。
どちらかといえば信楽は高虎が領した伊賀に接しており 隣り合(12)有力者同士として親しくしたようにも思われるし(13) 外戚である小堀氏を接点とした関係と言えるかもしれない。

(11) 多羅尾氏ガイドブック所収代官家系図 永保記事略 に依る。ちなみに落合左近の末裔にあたる HN 落合左近氏 SNS で自家の歴史をはじめ藤堂高虎 城郭について発信する傍ら 関ヶ原の地で甲冑を纏って活躍されている。信楽多羅尾氏に関しても氏の発信を読んでいたことが調べる取っ掛かりとなった。
(12) 誤字訂正/20240630
(13) 同様に津藩は隣接する柳生とも関係を持っていたことが佐伯朗氏によって指摘されている。

紀伊国人

小山式部大夫

安宅庄の隣 久木の小山氏。
唐入りに際して高虎から軍役の指図を受けている。
日置川中流域の山間部を本拠として 材木の調達搬送にも関わり 紀伊半島沿岸域にも広く所領を有していた。

小山助之丞

西向の小山氏。
古座川の河口を本拠地とし経済的に発展した。
助之丞は天正十九年(1591)九月十六日に高虎から唐入りの軍役の指図を受けている。後にも先にも高虎が 秀長様御置目のことくたるへく と述べているのは この一通のみで大変貴重ありがたい。
ちなみにここで高虎が 秀長様御置目 に触れていることから 秀長が生きていた当時から唐入りは具体的に計画されていたとする論考もある。

堀内氏善(安房守)

紀伊国を代表する海賊大名。
新宮を本拠地として熊野社の影響を強く受けた熊野を代表する国人とも言える。
早くから秀吉に従い 天正十四年(1586)の反秀吉方一揆掃討では活躍しその後は新宮の要として活躍。
土地柄材木にも関わり 秀吉からもちょくちょく書状があるようだ。宿題

壬辰戦争では藤堂高虎の麾下に入り活動し 杉若伝三郎とは入魂であったらしい。また江戸時代の 和州北山一揆次第 によれば 羽田と高虎が壬辰戦争へ動員された後は 堀内が北山の代官を務めたらしい。最も堀内自身は渡海していたので 留守居の者たちが担っていたのだろう。

末っ子の妻は横浜一庵妻の姉妹で 高虎とも関係があると言える。

色川三九郎

色川惣中の人。
壬辰戦争では藤堂高虎の指揮下のもと唐入りを戦ったとされる。
一次史料に乏しい。

保田繁宗(花王院快翁、栄西)

保田庄の人で家は代々畠山家に仕えた名門。彼自身は高野山へ入り 花王院快翁 として活動していたようだ。
寛政譜に依れば佐久間氏と結んだ兄知宗が討死すると高野山を下り還俗し跡目を継ぐ。後に大和にも加増があったという。
一次史料に乏しいが伊賀国人とも結んだらしい。縁は後に高虎を助けることになる。
また孫 の妻は桜井家一の娘とされる。

湯川氏

紀伊を代表する国人。幕府奉公衆 畠山氏を支える勢力でもあった。直光は三好との戦いで討死 子息直春は秀長に抵抗したことで名高い。
直春は天正十三年(1585)十一月に降伏後 翌年正月には郡山に滞在していたようだが 程なくして病死したとされる。一説には秀長直々に毒殺されたとも言われている。
和歌山県史は直春子息 次郎太郎 や庶家 式部大輔家が生き存えたとしている。

玉置氏

堀内氏や湯川氏と並ぶ紀伊を代表する国人。
湯川直春の姉妹は玉置直和に嫁いだとされるが 直和は湯川に与せず秀長に降るも 減封に憤り隠居という伝承がある。
後に一族は藤堂高虎に仕え活躍。寛永十八年(1641)に玉置角 かく 之助が著した覚書は 豊臣政権の紀州征伐の一端を知る上でも欠かせない史料である。

白樫氏

湯浅の人。畠山に従った名門。
玉置や堀内のように早くから秀吉に従い湯川と対立したという。
和歌山県史は堀内 玉置 白樫を秀長に従った紀伊国人の代表として述べている。
豊臣秀吉文書集第二巻には秀吉から白樫左衛門尉へ宛てられた書状が何件も収録されており 秀吉からの信頼を感じるところもある。
このように白樫氏が伝える史料は豊臣政権の紀州征伐の一端を知る上でも重要である。