藤堂高刑と妻に関する考察(妻編)

さてここまで高刑について述べてきたが 予想以上に長くなった。ここからが本稿の本題である。
本題は高刑の妻についてだ。

系図の誤謬

まず高刑の妻について 幾つかの系図では誤記が見られる。
特に 公室年譜略 の玄蕃系図が問題で 虎高末娘が 藤堂与三良連室再嫁仁右衛門高刑室 と記されている。
これは可笑しい。

第一由緒書には 松永伊勢守 の娘が妻と記されているから 虎高末娘が高刑の妻とする記述1を真に受けてはならない。

この虎高末娘について 宗国史功臣譜略 は元々藤堂玄蕃の息 与三良連の妻とする。
彼女は良連が早世した後 仁右衛門家の当主となった高刑遺児 高経に再嫁した。

藤堂高刑の妻

さて藤堂高刑の妻について 藤堂仁右衛門家の由緒書は次のようにしている。

織田信長公ノ姪 松永伊勢守江嫁 胎孕之内天正十六年摂州於山崎合戦伊勢守討死ニ付 妊ル子織田常真之元ニ而誕生女子也 秀頼公ノ御母堂淀様御会釈有而彼女子を 高山様江被遣候処 御息女分ニ被成高刑妻ニ被下高経出生也 三重県史資料集近世 2 から樋田文書

この記述は高刑妻の母 以下高経祖母 から解説したものだ。実は宗国史や高山公実録に収められている 秘覚集 なる逸話集にも見える。
要は高経の祖母は織田信長の姪にあたる女性で 松永伊勢守 へ嫁ぎ妊娠するが その最中 山崎合戦 で伊勢守が討死し織田常真 信雄 のもとで女子を産んだ。その後女子は秀頼の母淀様の 会釈 により高虎の元へ遣わされ 高虎の息女として高刑へ嫁いだ。

高刑の妻に関する既存の研究としては江戸時代既に 宗国史功臣譜略 松永伊勢守の妻が 緒田氏犬山候信清女 であることが示されている。
織田信清といえば織田信長の姉を娶り その後離反して武田方に奔ったことで知られる。
それなら高経祖母を信長の姪とするのは理解出来る。

また現代では 藤堂藩の研究 論考編 所収の 藤堂高虎の人脈ネットワーク/齋藤隼人 にて 宗国史内のある記述を元に 高刑の室が一身田門跡と近しいことが触れられていたが さほど深く掘り下げられては居なかった。

高刑妻を考える上での歴史的事項の整理

ここで歴史的事項を整理したい。
由緒書では 松永伊勢守 が討死した 山崎合戦 を天正十六年(1588)としているが 周知の通り実際は天正十年(1582)の出来事だ。

伊勢守について

そして 松永伊勢守 なる人物であるが 一連の明智光秀の変事に松永氏が関わっているとは認めがたい。確かに 大日本史料 が引用するなかでは 松永左兵衛尉秀治 なる人物が見えるが 彼は伊勢守ではない。

一方で 言経卿記 を読むと 同年六月十三日条に光秀の敗北と共に 伊勢守 以下三十余人が 打死 したとある。山崎の合戦に参じた 伊勢守 は存在していたのである。

室町時代 伊勢守 として第一に挙がるのが幕府の重鎮 伊勢家 信長の時代には元亀三年(1572) 伊勢貞興返答書 を著した 三郎貞興 と馬揃えに参加した 伊勢兵庫頭 が見える。

伊勢貞興

このうち 三郎貞興 兼見卿記 に何度か見ることが出来る。
例えば天正七年(1579)十二月二十三日には 伊勢三郎 は兼見 この頃は兼和 以下兼見 方へ 大将軍之鎮札 に関して使者を派遣している。
また二十五日に兼見は明智光秀に会うため坂本へ下っているが その場に 伊勢三郎 が居合わせた。

また天正十年(1582)正月では一日に兼見の元へ新年の礼に訪れた 伊勢三郎 が見え 九日に兼見が礼に訪ねた中には 伊勢守 が見える。

伊勢三郎 が貞興なのは良いとして 貞興が伊勢守であるのかは現状判断に困る。
こうしたところで 伊勢系図別本 を読むと 兵庫頭こと伊勢貞為に 伊勢守 ともある。系図を読むに貞為が兄で 三郎貞興が弟となる。そして系図には貞興が山崎で討死した旨も述べられており 言経のいうところの 伊勢守 伊勢貞興 であるらしい。そうなると天正十年(1582)正月に 伊勢守 に叙されたと考えられるが 現状では史料を鑑みて 三郎貞興 としたい。

ここからすると高刑の妻は織田信清と犬山殿の間に生まれと娘と 伊勢三郎貞興 伊勢守 の間に生まれた女児となるらしい。
伊勢系図別本 によると貞興は明智光秀の婿だという。すると織田信清と犬山殿の間に生まれた娘は 光秀の養女として嫁いだのだろうか。兄である伊勢兵庫頭の妻は松永久秀の娘であるが 信長の養女として嫁いだようだから有り得るのかもしれない。信長と光秀が蜜月だった時代の表れとも言える。

某覚書(伊賀保田文書)に見える高刑の妻とその周辺

そうしたところ黒田基樹氏が二〇二三年に出された お市の方の生涯 朝日新書 には大変有益な記述が見える。
私は元々お市の方の輿入れ時期と京極一族に関する黒田氏の認識を知るために手に取ったのだが 信長周辺の女性を整理する章で思わぬ記述に出会った。

江戸時代の覚書

黒田氏は 某覚書 伊賀保田文書 史料編纂所 織田家雑録 十竹斎手書写 史料編纂所 元禄頃書写 を示して犬山の織田信清に嫁いだ信長とお市の姉 犬山殿 について述べている。
その中で思いがけず藤堂仁右衛門が登場した。
更に黒田氏は有り難く巻末に両史料の完全版を付録として掲載してくれた。
ここではやはり黒田氏の筆致で読んで頂きたいので 私は簡略に示すだけとする。

某覚書

まず 某覚書 伊賀保田文書 は織田信清娘が 伊勢伊勢守 に嫁いだこと。そこで高刑夫人が生まれたこと。その後 伊勢殿後家 織田信雄の妾を経て 家臣 生駒三きう に嫁いだとする。
妾というのは 一応謀反人の妻だから妾という形で保護されたことを示すのだろうか。

織田家雑録

織田家雑録 に依れば 信清の子息津田信益のきょうだいが信雄の妾で 後に 式部方 で二男一女を生んだという。
一男は秀頼に仕えた 宮内 二男は式部の家督を継いだ 図書。そして 藤杢仁右衛門 に嫁いだ女子である。ちなみに信雄との間に長女で佐々加賀守に嫁いだ娘を産んでいたようだ。
この 式部 織田信雄分限帳 続群書類従 第 25 輯ノ上 武家部 の先頭に登場する 生駒式部少輔 であろう。秀頼に仕えたという宮内は 慶長十六年禁裏御普請帳 に大坂衆に数えられる八百石の 生駒宮内少輔 だろう。

両書の相違と一致するところ

某覚書 では伊勢殿の娘が 古仁右衛門殿ないき とあるので 織田家雑録 と相違する部分がある。そもそも雑録には彼女が 伊勢殿 へ嫁いだいた旨は記されていない。
しかし通じる部分もある。それが くない殿ハしきふ殿子 仁右衛門殿母と一ふく という部分で 生駒宮内は式部の子で高経の母親と同じ腹から生まれた との意味合いだ。これは 織田家雑録 と一致している。

どこに伝わったのか

ここで考えたいのは 伊賀保田文書 そのものである。
伊賀で保田といえば やはり上野の城代を務めた 藤堂采女家 である。元は保田を称していた。采女文書 ではなく 保田文書 というのは これは一つの理由があるが端的に言うと持ち主の名字である。要は 上野の重臣藤堂采女家の関係に伝わった文書 として認識を持つことができる。

注釈について

さて お市の方の生涯 に掲示されるなかで 古<こ> とか <一身田>もんせき との表現が見える。
このあたりが気になった私が史料編纂所で同文書を閲覧したところ これは付記であり 例えば いせとの では いせ伊勢守 との注釈となる。

成立時期の検討

覚書の中で 古仁右衛門殿 仁右衛門殿 で分かれている。これは高刑と高経を表している。
ここからして高経の時代に記されたことがわかる。
そして 浅井<あざい>殿御むすめ 大みたいハ 大ざか御ふくろさま わかさの常光院様三人なり との記述から 秀忠の妻が 大御台 と呼ばれていた時代となる。
つまり元和九年(1623)以降だ。大御台は寛永三年(1626)に没しているため 恐らくその三年間に記された覚書と見ることも出来る。
しかし藤堂家では寛永十八年(1641)に高虎一代記の編纂を行っているが 重臣の出自を纏めるとしたら一代記の編纂と関連付けた方が賢明ではないか。

そしてこの覚書が保田家へ伝わった点からすると 恐らく家老の采女周辺が記録していたものと見る。
采女家初代元則は上野城代の印象が強いが 実は高虎の異母弟出雲高清が寛永十七年(1640)に没するまでは津附の重臣 城代を務めており 仁右衛門家の事情を知る機会に恵まれていた。高経が成長するまでの城代との見方も出来る
やはり時代的にも寛永期の編纂に際して 采女周辺が記録していたと考える方が自然に感じる。

某覚書の興味深い記述

ところで この覚書というのは高刑の妻に関する記述以外でも興味深い記述が見える。

たかさこん殿けき殿とハいせ殿のめい子
けき殿ないきハくない殿むすめ 仁右衛門殿といとこ
くない殿ハしきふ殿子 仁右衛門殿母と一ふく
かとうてわ殿御ないきハげき殿ないときときやうだい
くない殿ないきハむらせさま殿むすめ
てわ殿ないき げき殿ないきハむらせ殿むすめ

たかさこん について黒田氏は 高左近 と暫定的にしているが 御存知のように多賀氏を研究する私には一目で旗本にして茶人としても活躍した 多賀左近 とわかる。

多賀氏との血縁

多賀左近は高刑の祖母 高虎の母 と同じ多賀一族で 寛政譜によれば秀長の家臣として名前が見える 多賀吉左衛門 の嫡子であるが この吉左衛門の妻を示唆する記述は珍しい。
いせ殿のめい子 とは高経祖母の夫伊勢貞興から見て の子と解釈出来るように見える。

宗国史の記述

実は似た様な記述を宗国史に見ることができる。

まず 宗国史下巻,1981 外編 諸女傳 によれば

在士父老曰多賀左近及外記松永伊勢姪女之子

とある。

更に高虎の娘が嫁いだ讃岐生駒氏に関して 高俊君曾祖母犬山君信清之女也 として その 欄外

多賀左近及外記松永伊勢姪女之子外記室親正女 親正室村瀬左馬女

とある。
松永伊勢は伊勢貞興のことだと容易に捉えることが出来るが 生駒親正や生駒高俊と織田信清 多賀左近に関係があるというのは 宗国史 にのみ見える記述である。
ただ先に 織田家雑録 で触れたように 織田信清と関係があるのは生駒親正の系統では無く 生駒式部の系統であるから 宗国史 の誤謬であろう。
松永久秀の娘が貞興の兄貞為に信長の養女として嫁いだとされており 津藩の編纂者 宗国史の場合重臣藤堂出雲なのだが は混同起こして高刑の妻を 松永伊勢守女 としたのだろう。それと同じように 生駒宮内 について検討するも史料の制約から合点がいかず 暫定的に同族で藤堂家とも縁のある 生駒親正 の系統を当て嵌めたのではなかろうか。

実は同じ 宗国史 でも次のような記述がある。

高山公属藩政干世子日 賓位有多賀左近 及外記之名 堀君亦當時稱通家也 又父老言曰 多賀左近 及外記母 松永伊勢守姪女 左近女配生駒左門 外記娶生駒宮内女 仁右衛門従母兄弟

これは 宗国史上 系統 高虎の母方多賀氏に関する項の中に記されている。いくつか気になる文言が並ぶが 多賀左近と外記兄弟の母が 松永伊勢守姪女 多賀左近の娘が生駒左門 讃岐生駒氏一族 重臣 に嫁いでおり 多賀外記は生駒宮内の娘を娶って 仁右衛門従母兄弟 とある。
何れも 寛政譜 には見られない記述であるが 多賀左近 外記兄弟の母と外記の妻に関する記述だけは 覚書 と概ね一致している。

こうした記述には何かしらの元がある訳で 恐らくは 覚書 を参考にしただろうと思う。興味深いのは宗国史では 在士父老曰 としている点である。
後年宗国史を記した藤堂出雲は編纂のため 覚書 を読みながら 高刑や多賀氏について触れているから在士で蒐集したものと考えたのだろうか。
逆に考えると 覚書 自体が采女周辺ではなく 在士で記録された可能性があるのかもしれない。
ただ生駒宮内の娘のように 織田家側の話にも詳しいところを見ると在士関係よりも仁右衛門家関係で蒐集されたとするのが妥当かなと思う。

ここからは 覚書 の記述を検討してきたい。

村瀬左馬

ともかくここに見える むらせさま というのは 村瀬左馬 となる。
寛政譜で 外記常勝 の項を見ると 前妻が秀次事件に連座したとされる生田氏の娘 後妻が水戸家の臣村瀬左馬助重治が娘とある。ここで寛政譜と 覚書 で相違する部分が出てきた。寛政譜には 生駒宮内 の娘が外記に嫁いだ旨は見られない。

村瀬左馬助重治は元々織田信雄に仕えており 関ヶ原以降徳川直臣となった人物だ。
村瀬が織田家臣筋であることを考えると いせ殿のめい子 というのは伊勢氏よりも織田方の人物 つまり織田信清の孫という線があるかもしれないが これもよくわからない。

謎の「かとうてわ」

更に かとうてわ殿 も難解である。
何より寛政譜を見ても村瀬左馬の娘に かとうてわ に嫁いだ娘は見られない。一人詳細が不明な娘が見えるが 彼女が かとうてわ に嫁いだのだろうか。
普通に考えると 加藤出羽 に読めるが 該当するように思える加藤出羽守泰興 貞泰の子 の妻は村瀬氏の娘ではない。だが寛政譜を読むに泰興の子女のうち長男泰義以外の子は皆 母は某氏 とある。この某氏が村瀬左馬の娘で 多賀外記後妻の きょうだい の可能性もあるだろうが 現状では何も言えないのが結論だ。

謎の「いせ殿のめい子」

結局多賀左近 外記兄弟の母 いせ殿のめい子 は誰かわからない。伊勢系図でも多賀氏に嫁いだ娘は見当たらないし 多賀氏側でも寛永譜 寛政譜を見たところで定かではない。
だいたい貞興の娘が天正十年(1582)頃に生まれているとなれば その姪も前後の時期に生まれたことになる。しかし多賀左近 常長 は明暦三年(1657)に六十六歳で没したと寛政譜にはあるから文禄元年(1592)に生まれたことになる。十歳前後で子を産むのは少々不自然だ。
こればかりは手がかりも無く誤伝 誤謬なのかもしれない。そうしたところではこの 覚書 の冒頭には

のぶながの御いもうとハあざいとの御ないぎ のちニしばた三さえもんどのへ

と記されているが 此方は黒田氏から誤謬の指摘がなされている。この多賀左近 外記兄弟の母親に関する記述も似たようなものなのだろう。
現状では彼女が 藤堂高刑の妻の縁者らしい とするに留めておくべきだろう。

ただし多賀左近と外記が同じ母親から生まれたとするのは興味深い。
実際寛政譜で吉左衛門子息の項を見てみると 没年がわかるうち二男とされる喜右衛門常貞は左近 外記よりも年長で 所伝にもあるとおり秀長が存命の頃に生まれている。これは喜右衛門が庶子であることを示しているのかもしれない。

伊勢系図に載る高刑

ところで 伊勢系図別本 を覗いたところ 貞興の娘が高刑に嫁いだ旨が記されていた。
どうやら娘は三郎の兄兵庫頭貞為の元に居て助かり貞為の養女となった旨が記されている。この記述の実否は定かではないが 貞為の子どもも大坂に出仕していたから 無くはない と感じる部分もある。ただ 織田家雑録 覚書 にも書かれていない記述だ。
群書解題 によると系図は寛文年に成立したとされるが 采女周辺で記された覚書と似た時期に 伊勢氏側でも一族の娘が高刑へ嫁いだという認識があったというのは興味深い。

一身田と高刑妻

ここまで想像以上に長くなってきた。それほど 覚書 の記述が濃密なのだ。
最後に もんせき について触れたい。
覚書によれば もんせき 御ふくろ いぬ山殿 の娘で 古仁右衛門殿ないきの御ふくろ もんせきの御ふくろ は姉妹の間柄 もんせき 仁右衛門殿母 高刑妻 いとこ 更に もんせき 仁右衛門殿 いとこおい だという。

これは一身田の真宗高田派の本山専修寺の上人と藤堂家の関わりを示す記述となる。
まず江戸時代に高虎の娘 高次の妹 が専修寺の尭朝に嫁いだことを簡潔に示す。彼女は会津蒲生忠郷に嫁いでいたが その死別後に十五世尭朝に嫁いだ。2

十四世尭秀

ここで 覚書 を見てみよう。
まず 一身田の 門跡の母も犬山殿の娘 としている。これは高経祖母に対応するもので 続いて高経祖母と門跡の母が きやうだい としている。そうして門跡と高経の母が いとこ の間柄となり 門跡から見た高経は いとこおい となる。

ではこの 門跡 は具体的に誰なのだろう。
大谷本願寺通紀旁門略傳 大日本仏教全書第 132 によれば 第十四世の尭秀について 母遠江守信清女 とあり 織田信長従子 美濃犬山城主 と付記されている。犬山は美濃ではないが そこは誤差の範囲だろう。
つまり尭秀の父で十三世の尭眞が織田信清娘にして高経祖母の姉妹を娶り 尭秀が生まれた。尭秀は寛文六年(1666)に八十五歳で遷化したので天正十年(1582)に生まれたことになる。
高刑の妻と同い年ぐらいだろうか。

時に [資料復刻] 代々上人聞書 高田ノ上人代々ノ聞書 / 平松令三 高田学報 62 の注釈によると 織田系図 続群書類従 では信清の姉妹が尭眞室であるらしい。
復刻された 代々上人聞書 では 略伝や 覚書 同様に信長の姉犬山殿の子としている。
どちらを採るか。この点では 代々上人聞書 が天正十五年(1587)三月に成立したことを踏まえると 此方に軍配が上がる。

ところでこの 代々上人聞書 では天正六年(1578)二月に輿入れしたとある。姉妹が伊勢貞興に嫁いだのもその頃なのだろうか。

犬山信清のその後

神奈川県史資料編 3[2](古代 中世 3 下) 本編 所収の信長書状 宇野文書 武家事紀 二通によれば 父犬山鉄斎 織田信清 は武田家の滅亡後に土岐美濃守等と居たところを発見され 宇野文書 の信長書状は 執立候 として実質的に保護されたようだ。
兼見卿記 の天正十年(1582)三月二十二日条には 其外生捕 土岐 犬山 佐々木四郎舎弟小原 土岐氏と信清 更に大原高盛 小原こと佐々木次郎 が生け捕りとして京都に連行された旨が記されている。

宗国史の逸話

こうした高刑妻と専修寺の血縁に関して 宗国史に面白い逸話が収まる。
外編の 姻婭小傳上 宗国史下 によれば 高虎が津に入府する道中で一身田を訪れたところ接見した法嗣で寺務の尭眞が大喜びで 仁右衛門は親戚だから あまり他人に見せるな 仁右衛門於俺家 有姻婭之親 願勿外他看了 と語り それに対し高虎は 和尚は恐れすぎだ。これからは喜びや悲しみをお互いに分かち合えるよう親しくしよう 只恐和尚外他看了 爾後休戚相及 親好日厚 と笑って見せた。

これは尭眞が自身の妻と高刑の妻が親戚 姪とおば であることを示した逸話だ。実否は定かではないが ここまで見たようにどうやら親戚であることは確かなので大変興味深い。尭眞夫妻は姪が高刑に嫁いだことを把握しており どうやら妻の実家とも良好な関係であったと推察される。

専修寺再建に関わる藤堂高経

こうした縁に依るものだろうか。
堯秀上人,堯円上人年譜 / 松山忍明 高田学報 56 によると専修寺の伽藍を再建する際 高次は御影堂の普請奉行に藤堂仁右衛門を任命したという。
同論文では高刑と付記しているが 高刑はこの四十三年前に亡くなっているから高経の仕事である。
御影堂は寛文六年(1666)三月に完成し その年の十二月十九日に高経はこの世を去った。
翌年嫡男内蔵助高広が仁右衛門家を継承した。系図に拠れば高広の妻は尭秀の娘だという。

高刑の婚姻

さて藤堂高経は専修寺の再建の一段落を見届けるように 寛文六年(1666)十二月十九日に六十八歳でこの世を去った。逆算するに生年は慶長四年(1599)となる。
すると高刑は前年までに伊勢氏を妻に迎えていた。

時期の検討

慶長四年(1599)という時期だと高刑は壬申戦争に出ていたように思われるが 実は慶長三年(1598)の六月までに藤堂隊は帰国している。
出兵が慶長元年(1596)の秋だから 結婚した時期を推定すると元服した文禄四年(1595)から慶長元年(1596)の間。もしくは慶長三年(1598)の六月から太閤殿下が薨去する八月の間だろう。
自然なのは文禄四年(1595)の元服と同時期か 初陣で活躍した直後 慶長三年(1598)の帰陣以降になるのかもしれない。

淀様の存在

高刑と妻の婚姻について仁右衛門家の由緒書にはこうあった。

秀頼公ノ御母堂淀様御会釈有而彼女子を 高山様江被遣候処 御息女分ニ被成高刑妻ニ被下

高刑の妻は秀頼の母 淀様 おふくろ様 おかみさま 会釈 によって 高虎の養女となり嫁いできた。
淀様 から見ると高経祖母は従姉妹にあたり 高刑の妻つまり高経母は従姪となる。この時点で高経祖母は生駒家にあったと思われるが その娘はひろく 織田家 の娘として扱われていたのだろうか。
その身を 淀様 が差配する立場であったらしいのは興味深い。

婚姻の要因

こうした織田家の女性を藤堂高虎の甥御に過ぎない高刑が何故娶ることが出来たのか こうした疑問を解消する材料は現在のところ皆無である。

要因を考えてみると高虎の羽柴家への忠勤3 徳川家康や毛利家との繋がり 高虎が京極氏を支えた多賀一族の流れを汲むことが挙げられる。4

母方多賀氏の本家が堀秀政と縁戚 養子で後継者候補の一高は丹羽長秀5の三男 更に亡き織田信重6の遺児を保護養育していたという高虎を取り巻く環境は 極めて織田家中に近いと言える。

このように高虎の羽柴家への忠勤に加えて 縁的 な要因も縁組みに作用したと考えることも出来る。

そして 淀様 会釈 を経て その娘を自らの養女としたことで高虎もまた 羽柴―織田家の一員のような立場となったのではないか。こうした忠勤と縁的な要因によって 高虎の政治的な立場は上昇したのだろうか。7

後に高虎が伊勢伊賀へ移封されるが これも単なる 大坂包囲網 の一環では無く 家康にとっても淀様 秀頼親子にとってもある種パイプや緩衝体としての期待を感じる。8
そう考えると偶然にも津城というのは 淀様 や高経祖母のおじにあたる長野信良 織田信包 が築いた城であった。
高虎が高刑に元聚楽第の施設を与え そして城の重臣として置いたのは織田家との縁を意識したのかもしれない。

継承された記憶

残念ながら江戸と大坂の関係は慶長十九年(1614)の方広寺鐘銘事件に端を発する片桐且元退去事件によって破綻し 最終的に秀頼母子等の死によって幕を閉じた。

しかし藤堂家では秀頼母子の記憶が確かに伝承されていた。
家譜9に依れば高経が六 七歳の折に大坂城で淀殿に拝謁し 淀君は高経を膝上に呼び更に宝刀を授けたという。
宗国史 功臣傳 では 宝刀ではなく 賜咒角印斗 とある。宝刀はわかるが これはよくわからない。祓い清めた角印 ということだろうか。

七歳の頃だから慶長八年(1603)や慶長九年(1604)の頃となる。家譜によれば高経の幼名は 六内 河内 とあるが 慶長二十年(1615)頃は 六助 実録 大坂両陣諸士捻捲 を称していたらしい。

何故彼が大坂を訪ねたのかも謎である。ひょっとすると当時 まだ大坂に人質を置いていたのか。この辺は学が浅い故によくわからない。
それよりも 淀様 と秀頼の親子の近くには織田常真をはじめとする織田一族 伊勢氏10や生駒宮内が仕えていたから 単に旧交を温めに行った可能性もあろうか。

勘兵衛と高刑

また今治城などの縄張りを担当した伊賀の重臣渡辺勘兵衛は千姫附の旗本渡辺筑後守 と茶々側近二位局と親戚で 此方も大坂方と縁があるといえばある立場だ。

皮肉にも高刑と勘兵衛が藤堂隊の先駆けとなったことは涙を誘う。
歴戦の猛者である筈の勘兵衛が冬の陣で新宮勢見逃し事件 渡辺掃部との口論といった失敗を積み重ねたのは やはり大坂を対手とすることに躊躇があったように思う。
高刑がどのように考えていたか定かではないが 和睦交渉が大詰めの最中に勘兵衛と共に何やら法度破りを画策していたことが 西島留書 高山公実録 には記されている。
大坂方に縁者が居る二人の将には 何か通じるところがあったのかもしれない。そういえば両者は増田長盛が接点でもある。冬の陣後 勘兵衛は藤堂家を去るつもりであったが高虎の慰留を受けて何とか11残った。
慰留をしたのは高虎だけでは無く 高刑の存在もあったのかもしれない。

その死

無論辛い立場にあったのは男だけではない。宗国史諸女傳に拠れば 高刑の妻は元和元年(1615)正月十一日に亡くなった。家譜によると三十三歳と言うことで 高刑とは一つ下の天正十一年(1583)頃の生まれとなる。
そうなると由緒書にある通り 高経祖母は三郎貞興との子を宿して信雄の妾となり娘を出産したという記述は概ね妥当そうだ。一方で 伊勢系図別本 にある 貞興の娘は兄のもとにあって助かったという記述は少し外れていることになる。

死因は書かれていないが 恐らく病死であろう。体調を崩させる要因は やはり大坂の陣による心労だろうか。12嫁いだ先と実家同様の大坂が敵味方に別れる。思えば生まれる前に父は明智方に与し敗死している。夫の武運を祈りつつも 己の運命というものを悲観したストレスもあったのではないか。

妻を喪った高刑は再び夏の陣で先鋒を務め 激戦の末八尾の地で傅役三塚次兵衛と枕を共に討死した。
父と母がそうであったように 高経もまた元服前に父と母を喪ったのである。

その後

さて 覚書 には次のようにも記されている。

いせ殿ごけ いこま三きう殿へ 仁右衛門殿ないきのためニまゝはゝ

これは生駒家へ嫁いだ緒田氏が 仁右衛門殿の妻にとっては 継母 に当たることを示している。
無論高経の妻藤堂氏のことだが ここで緒田氏が 継母 となるのは妙だ。
考えてみると系図上高刑と妻の間には 高経はじめ藤堂良精室 藤堂兵庫室 西嶋八兵衛室の一男三女があった。

緒田氏 つまり高経祖母が生駒家へ嫁いだ後の事は定かでないのだが 一つ考えてみると織田家 生駒家の面々は父も母も喪った高経たちを不憫に思い祖母を孫の元へ遣わしたのではないか。ただその後の高経祖母の子どもたちについては今回調べたり無かったので ここを加筆スペースとしたい
婚礼の儀にせめてでも親族を側に居させてやろう という篤志だ。
それならば理解は出来ようか。

終わりに

以上藤堂高刑と妻について二年近く温めていた内容を ようやっと記事にすることが出来た。
最初は覚書の条文にそれぞれ加えていく形だったのが 記事にしてみるととても膨れ上がってしまった。

私は元々高刑の妻に関して大変な興味を持ってきた。そうしたところで黒田氏の著書を手に取ったのは 実は高刑の妻に呼ばれたようなものであったのかもしれない。
黒田氏の著書を手に取る以前から 実録や家譜で彼女と豊臣家との縁は感じており 庄九郎や渡辺筑後 二位局の存在を知ってからは 何だか豊臣家へ親近感を覚えるようになった。そうしたところで黒田氏の 羽柴家崩壊 は良い

そうして妻にだけフォーカスしようと思ったが 実は私は高刑について一度たりとも深く考えたことが無かったので 基礎知識として書いてみるか となった。それが長くなった原因だが調べて良かったと思う。

まあ様々ここから色々思うことを書きたいが それをするとまた長くなるのでこの辺りで留めたい。
津にお越しの際は津新町からの登城も良いが 津駅から三重会館までバスに乗るのも良い。健脚なら江戸橋から歩くことをお勧めする。
お城となれば石垣に目がいってしまうが 高虎の街づくり そして戦後津市の都市計画を感じながら歩くのも乙なものだ。
そして仁右衛門屋敷が 津の街のどのような場所にあったかを全身で感じ取っていただきたい。私は幼き日に走り回っていたので庭みたいなものである
それが高刑夫妻たちへの供養となろう。

以下追記 2025-0430

関連系図1
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関連系図2
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  1. 公室年譜略の系図では新七郎家の系図にも誤謬が見られる。一番は松尾芭蕉の主として名高い主計良忠を 初代良勝の子として線を結んでしまっていることだ。良忠が二代良精の息子で 良勝の孫にあたることは昨今ならわざわざ書くまでも無かろう。

  2. 尭朝に再嫁するまでの間 一瞬だけ黒田家へ嫁ぐ話が持ち上がるも高虎以来の不仲によって成立しなかった。また尭朝正保三年(1646)に幕府との折衝の末に切腹 三十二歳の若さで亡くなっている。二度も死別を経験した彼女は出家し 高松院 となった。尭朝の跡目は花山院の子を迎え 十六世尭円となる。高次は娘を尭円に嫁がせている。

  3. 高虎は織豊時代に台頭し 秀長のもとで武功を重ね その後継者秀保をよく支えた。活躍はそれだけにも留まらず 秀次との昵懇 壬申戦争での小吉秀勝軍の監督 渡海先での城砦建築に関する選地など様々な仕事をこなすことで太閤秀吉の寵愛を受けた。秀吉は高虎に秀次事件の後に聚楽第の施設 また蔦の紋や船幕を下賜するなど大変高く評価していた。
    ただの大名では無く 太閤秀吉の甥御を補佐して大和紀伊を治めた実績は 一般的に 持たざる者 である高虎を押し上げる要因になったのかもしれない。

  4. 御存知のように高虎も高刑も 母方は多賀氏である。
    永禄以降に活躍した当主多賀貞能には男児が無く 堀秀政の弟源千代を婿に迎えた。
    堀秀政は織田信長の側近であり 豊臣秀吉からも信頼された名人である。この縁組みが多賀氏ひいては多賀氏の血を引く藤堂氏の格を織豊政権に適応させたのではないか。

  5. 一高は丹羽長秀と杉若氏の間に生まれた。とはいえ丹羽長秀という存在が大きい。彼は織田信広の娘を娶り その嫡男は信長の娘を娶るなど織田家との関わりが深い。
    丹羽長秀は元亀争乱の渦中に磯野員昌から佐和山城を貰い受けているが 永禄年中の一時期に同城南方の権益を有していたのは多賀氏であった。また誉田航平氏は 織田七右兵衛尉信重の基礎的研究 のなかで 丹羽長秀には中郡のみならず高島郡にも軍事識見があったと指摘している。

  6. 淀様 に仕えた二位局は その父が織田信重の重臣渡辺与右衛門であり 高虎とはかねて見知った存在であった可能性も見いだせる。

  7. 慶長期の高虎の政治的立場に関しては解明されておらず 巷間言われているような 鞍替 転身 を当て嵌め続けて良いものかと思う。まだまだわからないことが多い。

  8. この辺りは種村威史氏の研究記事 研究ノート 徳川の城郭政策は大坂城包囲網形成にあらずの影響を大いに受けている。

  9. 林泉 藤堂姓諸家等家譜集より

  10. 伊勢貞興の兄伊勢兵庫頭は子の清十郎貞衡が秀頼に仕えていた。また大上臈の 阿古御局 は系図によると兵庫頭の娘らしい。

  11. 勘兵衛は夏の陣の先駆けを辞退し 名目上嫡男長兵衛を立たせている。

  12. 高虎の妻一色氏は元和二年(1616)八月二十日に亡くなっているが 宗国史 外家傳には 遂得心疾 とある。これが事実かは定かではないものの 今回私が高刑の妻が亡くなった原因を考える上でこの記述が根底にあったのは間違いない。