藤堂高刑と妻に関する考察(高刑編)
先に渡辺勘兵衛の親族が豊臣秀頼の母茶々の側近であることを述べた。
しかし豊臣方と縁が深い藤堂家の重臣は勘兵衛一人ではない。
藤堂高虎の甥 (姉の子) という一門衆の重鎮にして安濃津の家老を務めていた 「仁右衛門高刑」 もまた、 豊臣方と縁のある将であった。(以下高刑と表記)
高刑と豊臣方を繋ぐ存在こそ、 他でもない彼の妻である。
本稿では高刑室を探ると共に、 津藩の編纂者も上手く利活用出来なかった史料を、 手探りながら利用を試みるものである。
本題の妻編はこちら
藤堂高刑について
藤堂高刑の逸話として名高いのは、 慶長五年(1600)の乱で大谷刑部少輔が家臣湯浅五助を討ち取った際のエピソードであろう。
諸氏が触れているから、 今更語るまでもないが高刑と叔父高虎の律儀さを物語る話として定着している。
初陣と年齢
『高山公実録 ・ 上巻』 を読むに、 高刑が頭角を現したのが壬申戦争での戦功である。弱冠十六才で藤堂隊の一員として武功を上げた。その年次は文禄の戦役か慶長の戦役か、 判然としない部分があるが、 実録の編纂者は没年齢からして慶長二年(1597)としている。
高刑の没年齢
そもそも高刑の没年齢というのは二説ある。
一つが現在の通説と知られる三十九歳。これは 『高山公実録』 所収の 「仁右衛門延宝家乗」 に依る記述だ。成立としてはこの記述が一番早かろう。
もう一つが三十四歳。これは 『高山公実録 ・ 下巻』 「御系譜考」 の系図をはじめ、 実録や年譜略などの編纂史料での記述である。
『高山公実録 ・ 上巻』 の壬申戦争 ・ 慶長の役の項に見える、 編纂者の注釈 「謹按」 に依れば 「利昌院」 の碑面には三十四で没したと記されているらしい。
利昌院
この利昌院というのは津市の清涼院極楽寺のことで、 寒松院 (もとは昌泉院願王寺) の末寺である。塔頭でもあるから、 同寺の主僧が寒松院の寺務を主管していたという。1
寒松院といえば高虎以来の藤堂家菩提寺ということでお馴染みだが、 実は仁右衛門家と縁がある。
この願王寺の開基とされる清賢は、 実は仁右衛門家の人間である。詳しくは後述するが、 仁右衛門家の人間が寒松院に関わっていたのであれば、 利昌院の碑にある記述は信用出来るのかもしれない。
関ヶ原の逸話の際に家康から 「若いのに律儀な者だ」 (平尾留書) と賞賛されたそうだが、 この 「若い」 をどのように判断するか。
『日葡辞書』 をひくと、 十五歳から二十五歳前後までの者を 「若い」 といったらしい。概ねこの辺りは中世も現代も同じだろう。
高刑の生年
その没年三十四才から逆算すると、 高刑は天正十年(1582)頃の生まれとなる。三十九歳で亡くなった説に従うと、 天正五年(1577)頃の生まれとなる。
そう、 結局どちらの生まれでも慶長五年(1600)の高刑は 「若い」 のだ。
本稿では津藩の編纂者に敬意を表すと共に、 「利昌院」 の性質を踏まえて碑文の三十四歳没説を採用し、 高刑を天正十年(1582)頃の生まれとして話を進めてゆく。
孤児
さて仁右衛門高刑が天正十年(1582)頃、 高虎の姉と浅井氏に仕え滅亡後浪人していた鈴木弥右衛門なる男との間に生まれた子で、 つまり高虎の甥というのは 『三重県資料集近世 2』 所収の 「藤堂仁右衛門由緒書」 (宝暦八年 ・ 樋田文書) に見える内容で疑うまでもない。
高刑の母については 「創業遺事 (実録)」 に高虎の陣幕を用意する際に 「遊里輪」 を紋とした、 という逸話が載る。この陣幕で軍功と勝利を重ねたので、 縁起が良いので小袖の紋としたらしい。弟想いの良い姉である。
ただし高虎の陣幕については小牧長久手の合戦に際して、 服部竹助に手配させ制作者の佐々木氏が釜蓋を押して 「黒餅」 としたとの逸話が同家の家乗 (実録上) に述べられており、 何れが真かは定かではない。
両親の早世
ところで高刑はこの母と父 ・ 鈴木弥右衛門を早くに失っている。
まず 「公室年譜略」 の系図にて、 高則 ・ 高虎の姉が 「天正十三年十一月二十九日卒」 とある。
この本編の十一月二十九日条には次のようにある。
公ノ姉鈴木弥右衛門カ室死去セラル法諡妙盛 (誓) 大姉ト号ス則藤堂仁右衛門高刑カ母ナリ
この辺りで混同が見られる。
実はきょうだいの母 ・ 多賀氏の法号を 「妙清」 とする系図もあり、 娘の 「妙盛 (誓)」 とややこしい。寒松院に位牌があったというが、 現代もあるのだろうか。
ともかく高虎の姉にして高刑の母親は天正十三年(1585)に亡くなっているようだ。この年には父虎高と継室の間に高清が誕生しており、 どうやらきょうだいの母 ・ 多賀氏も同年までに亡くなっていたと考えられている。
そして先の仁右衛門家の系図によれば、 父弥右衛門は天正十八年(1590)九月十八日に亡くなったとある。
実のところはともかく、 二人は長浜に暮らし長浜で没したと仁右衛門家代々の認識しているようだ。何故長浜なのかはよくわからないが、 元々浅井に仕えていたという認識であったらしい。
つまり高刑は三才の頃に母を、 八才の頃に父を失っている。2
養育
孤児となった鈴木某が祖父虎高と叔父高虎に引き取られたのは容易に想像がつく。特にこの頃虎高は老齢にして子育てをしているし、 高虎も高刑より三つ上の仙丸を養子としている。
そして何よりこの頃の高虎は大和豊臣家の宿老の一角にして、 当主秀保を盛り立て豊臣秀吉に期待され、 徳川家康にも面識があった。こうした環境下で叔父や精強の家臣団に鍛え上げられたことは、 容易に想像がつく。
特に 『公室年譜略』 は天正十年(1582)に 「山岡道庵老ノ肝煎」 で高虎に仕えたという三塚次兵衛という男は、 仁右衛門の傅役として死ぬまで支えた旨が記されている。独断専行で血の気が多い藤堂一族のなかで、 高刑だけは問題を起こしていないという点からすると、 三塚は傅役としての大役を見事に果たしたこととなる。
三塚氏は永禄年間六角氏に重用された三塚高徳が名高いが、 次兵衛もその一族だろうか。高虎も幼い頃は六角派国人に属していたので、 そうした縁が繋いだ可能性もあるだろう。
元服以降青年期
こうして苦しい中でも立派に成長した鈴木少年への期待値の表れが元服の逸話に繋がるのだろう。
彼は豊臣政権の要の一人たる奉行増田長盛を烏帽子親として、 さらには長盛の通称仁右衛門を拝領している。由緒書によれば加冠は大坂で執り行われたらしい。
『宗国史』 は彼の元服と藤堂姓の拝領を文禄四年(1595)としているが、 天正十年(1582)に生まれたと考えると丁度良い頃合いだろう。
増田長盛を烏帽子親としている人物には長宗我部盛親も存在する。彼は偏諱も受けているが、 鈴木は受けていない。何故増田が高虎甥の烏帽子親となるのか、 大変興味深いところであるが、 高虎と長宗我部家の縁から派生したのかもしれない。
はたまた高虎の豊臣政権における位置づけ、 すなわちある種の増田一派にあったと見ることも出来ようか。3
ともかく、 こうして彼は藤堂高虎の甥子鈴木某から、 豊臣秀吉に目をかけられた藤堂高虎の一門藤堂仁右衛門として歩み出す。その諱を 「高刑」 とするのは系図などに依るが、 奇しくも高虎の兄源七郎高則と同じ読みをする。
そうして壬申戦争に参陣すると大いに活躍した。
秀吉没後には徳川家康が大坂の不埒者に命を狙われたことがあり、 高虎が警護したという逸話があるが、 高刑は良勝と共に警護を担当したと 「平尾留書」 (実録) にはある。
慶長五年(1600)二月に高虎は板島の留守居たちに様々指示を出しているが、 この覚書は 「仁右衛門蔵書」 (実録) と高刑の後裔に伝わったものである。すると高刑もこの時期は板島で留守居の任にあたっていたのかもしれないし、 そう考えると高虎が若い4ながら重役を担う甥御へ懇切丁寧に指導している表れなのかもしれない。
関ヶ原本戦での活躍は諸兄の知るところなので書くまでも無いが、 「異本関原軍記大全」 では戦後に新七郎良勝や渡辺作左衛門と共に家康の慰労宴に招かれたようで、 その際に高刑は頭部を負傷していたようだ。
年譜略に依れば高刑は五千石の新知を与えられたという。
伊予時代の高刑
ともかく平時の高刑に関する記録は殆ど無い。
こうした中で伊予時代に新七郎良勝へ宛てられた高虎書状に仁右衛門が登場する。
それは新七郎良勝が咎人 ・ 才六の子息を保護していることに対して、 高虎が
子共は我らのためには大小に寄す悪ものに候 さやおうのかたきのやうなる者を其方かばい取立置候
として、 新七郎の行いは我らの為にはならないし、 其方の分別のためには急ぎ成敗すべきだ、 と説得している書状5である。
この中で高虎は文頭
才六めせいはい申付候付て男子は何も成敗仕候へと仁右衛門に申付候
としており、 どうやら才六の子息の処刑の役を高刑に任せていたらしいことが窺える。
結局才六とその子息の生命はどうなったのか現状では定かではない。
この書状の解釈として、 二つ考えられる。一つは高刑が処刑をさせてくれない良勝の所業を高虎に訴えた。もう一つは高刑自身が子どもの処刑に戸惑ったのを、 良勝6が助けたことが高虎に露見した。実のところはどうなのであろうか。
塩泉
慶長九年(1604)七月、 今治の藤堂高吉と松山の加藤嘉明家臣の間で 「拝志事件 ・ 宮内少不相届候儀」 が発生。高吉は佐伯惟定の兄緒方惟照が住まう野村に蟄居の身となった。この高吉の謹慎により、 高刑の序列が上がったと考えてしまう。
慶長十三年(1608)の年譜略によれば、 高虎が今治の城へ移るにあたり良勝が 「塩泉」 の城代となると記されているが、 その際に仁右衛門高刑が塩泉を預かっていたとある。良勝は灘の城を守り、 小湊に移る云々と少し高虎と齟齬があり、 城の請取には良勝の嫡男で僅か八歳の宗徳を代官として長浜より派遣したとある。
つまりこれまでは塩泉の城代を務めていたらしい。なお塩泉の場所に関しては湯築城や由並本尊城など諸説あり判然としない。
伊勢津時代の高刑
この慶長十三年(1608)は移動が多い。
というのも今治へ移動した四ヶ月後に、 高虎は今治の高吉を残して伊予半国と備中から伊賀 ・ 伊勢へ移封となったからだ。
伊勢入国
伊勢伊賀移封に際して高刑は良勝、 奉行の田中林斎と共に高虎の指示を受けている。7
その中で仁右衛門はその地に代官を残し置き、 その他は大坂へ召し連れてくるように命じられている。この頃までは高虎に代わり良勝たち重臣の一角として伊予支配に活躍していたのだろうか。
その後、 某年十月三日には采女、 金七と共に上野入城などについて高虎の指示を受けている。8
また高虎が安濃津へ入城する際には、 右に従っていたと 「鶴屋久左衛門家記」 (実録上) にはある。
こうして安濃津の城代家老格に任じられた、 とするのは林泉氏9の唱えるところである。
普請
『高山公実録』 の慶長十五年(1610)閏二月条には、 丹波亀山城の普請に駆り出される藤堂家の様子を見ることができる。
高刑は渡辺勘兵衛、 菅平右衛門、 佐伯惟定、 藤堂金七など名だたる重臣たちと共に亀山へ動員されたらしい。(馬淵八十兵衛蔵書)
慶長十六年(1611)には高虎より津城の改修について、 金七 ・ 七兵衛、 吉田貞右衛門 ・ 赤尾久右衛門と共に大変細かく指示を受けている。
こうした普請に高刑が動員されるのは技術的な面もあるだろうが、 彼が一隊を率いる藤堂家を代表する将であることも示す。先に亀山城の普請で見た勘兵衛、 平右衛門、 惟定の三名は藤堂家に来る以前から人数を率いる将であったし、 高虎の元で鍛えられた金七もこの頃には人数を率いるのも慣れていたものだろう。
こうした手練れに揉まれながら、 高刑は高虎の指示を忠実に守り、 藤堂七兵衛や吉田 ・ 赤尾など頼れる吏遼に支えられながら津城の政務を担っていたように思われる。
高刑の逸話
こうした津での日々を送るなかで、 高刑が登場する貴重な逸話が 「玉木覚書」 には残されている。
其後伊賀伊勢御家中御馬にて御廻り自分自分の門々にて侍共御目見仕るへしとかねて被仰出御祝儀と仰られ高知小知となくおしなへて八木一俵つヽ御下行被遊捴して八木なくてハ国に力なし金銀ハいかほと在之てもにハかの用にたたす三万俵つヽは定式にして追くり三年米いたしたくわへ可申旨被仰付、 其三年米切米取の内へ米数に応し相わたし其余御おろし米に名をつけ町郷中へ御かし其年中の高値に金子にて被召上候津町中へも三千俵つヽ年々おろし米町人共迷惑かり申候故間口一間にいかほとかかり候とわりかし申候へとも返上成かね申候者に過分にかし申候事も成不申に付又分限役と申身を持申候町人にハ二重にかし付申候二重がりの者共迷惑かりぼら堀のハたにて御直訴申上候へは御城へ可参の旨被仰付御城中のしらすへ御呼目安御よませ候へハ間口がかりか分限かヽりかいつれ成とも一方御免あそハし被下候へと六十三人連判にて訴之候聞召届町人共申分成ほと尤に候乍去これほとの事ハ守護徳分にて候間いつれも堪忍いたし可申候御直に御意被成候へとも口々に是非とも御免あそハし被下候へと右往左往に申上候故にくきやつ共に候残らす太鼓のやくらへと追上番を付置候へと被仰付朝五つ時より七つ時迄御おしこめ置候仁右衛門登城いたし町人共私預り可申と申上候へハ左候へハ仁右衛門に預け候よく〱とぢめ置候へと御意なり不残めし連やしきの前迄参いつれも慥なる者共候の間逃はしりハ仕ましく候をのれ〱かやとへ帰候へと申付其通にて御たつねも無之事済申候由井上十右衛門西島八兵衛かたり申候
これは高虎の移封に関して、 高虎の後期から没後に活躍した井上重右衛門と西嶋八兵衛が玉置氏へ述懐したものだ。
高虎は城館や士共が米を蓄えることを重視しているらしく
「米が無くては国力なし、 金銀が如何ほどあっても役には立たない」
とまで言い切った。
そして大変長い米施策、 町人への厳しい姿勢を発したらしい。
「三万俵づつは定式にして追くり三年米いたしたくわへ可申旨被仰付、 其三年米切米取の内へ米数に応し相わたし」
という文言について専門家の解説を仰ぎたくなる。と私は現段階で学が足りないので割愛する。
学が足りない時点でも、 町人が望んでも無いのに米を貸し、 その年の高値を金子で回収するというシステムが津町人の反感を買うのは無理も無いなと感じる。
何だか奈良貸しに似たシステムであるが、 ここで高虎が町人の訴えを真摯に聞いたのはその反省なのかもしれない。
この話を紹介したのは、 直訴して高虎から 「尤に候」 の言葉を引き出したのに、 それでも収まらず城内で必要以上に騒ぎ太鼓櫓へ軟禁させられてしまった町人達10の処遇に、 高刑が介入することが出来た点である。
高刑が登城したのは日課であるからか、 騒動を聞きつけたからなのかわからないが、 彼は自ら町人を預かると申し出た。高虎もそれなら 「よくよくとぢめ置け」 と命じた。
しかし高刑は彼らを引き取ると、 閉じ込めるどころから
「いつれも慥なる者共候の間逃はしりハ仕ましく候をのれ〱かやとへ帰候」
と申しつけた。
その後、 何も詮議はなく事は済んだと、 井上と西嶋は語る。
西嶋は高刑の娘を娶っているし、 讃岐からの帰国後は仁右衛門家の下屋敷で過ごした期間11もあり、 こうした要素がこの話を真たらしめる。
たまに怒る高虎
実は藤堂高虎という人は怒りっぽいところもあって、 有名な話は家臣落合氏を巡る騒動であるが、 怒っても家臣に説得され冷静さを取り戻すとお咎めなしとすることがままある。これもその一例だろう。
苛烈な<めんどくさい>一族のなかで
藤堂一族では高虎の他に高吉、 父虎高や良勝、 太郎左衛門などの 「人間らしい側面」 が史料12に見え隠れするが、 今回記事を書くにあたり調べた限りでは高刑に関してはそのようなものが見られなかった。
これはひとえに傅役であった三塚次兵衛のお陰では無いか。
菅平右衛門との不和と仁右衛門屋敷
僅かに 『公室年譜略』 には、 菅平右衛門との不仲が述べられている。これは喜田村の父常輔が語ったものであるという。
喜田村常輔は高次期に仕えた水上政明の甥で、 いとこの政勝は子小姓として出仕すると城和奉行、 伊賀奉行を歴任した。政勝の姉妹は藤堂高吉の曾孫長惟に嫁ぎ、 二人の孫娘が年譜略の著者喜田村矩常の妻となっている。更に矩常の姉妹は梅原家にも嫁いでおり、 こうした高刑の逸話を耳にする機会は実際にあったのだろう。
で、 その逸話というものであるが、 慶長五年(1600)の菅平右衛門が高虎に仕えた旨を述べ、 次のように記している。
私ニ曰平右衛門ハ慶長十三年改封ノ上伊勢津城郭内京口門ノ西ニ邸ヲ賜フ (今ノ評定所) 仁右衛門高刑ト不和ニシテ向ヒ同士互ニ塀裏ニ武器ヲ不虞ニ備タリ 公此事ヲ聞玉ヒテ其邸間ニ倉廩ヲ営セラルヽトナリ雑話ナレトモ父常輔予ニ語ルニ依テ爰ニ挙ル
壮大な仁右衛門屋敷
高刑の屋敷は津城二の丸に置かれた。
今昔地図を活用して現在の地図で示すと都 h……パレスプラザ、 国道、 三重会館や津中央郵便局、 裁判所のある辺りで、 津観音より南西側といった感じとなる。京口門はその中で郵便局西側から北に津市中央 4 の辺りに広がっていた。
ストリートビューで見るにかつて 「京口屋」 という店があったが、 まさにその辺りである。仁右衛門屋敷はちょうど都ホテ……パレスプラザの辺り。13私も津に住んでいた頃はアレルギー性鼻炎の治療のために何度も歩き回ったから、 今こうやって書いていることが感慨深い。
先に見た津町人を巡る騒動も、 京口門に近い高刑が引き取り、 そのまま門から返したという事になる。そうなると高虎自身、 高刑が穏便に済ませてくれることを期待した節もあるのではないか。自らの留守を預かる高刑が町人との関係が良好なら、 高虎も安心して津を離れることができるというものだ。
米蔵
そして福井健二氏が著した 『三重の近世城郭絵図集 (研究紀要 ; 5)』 所収の三重県立博物館蔵 「津城 (享保年間)」 には、 見事に仁右衛門屋敷と評定所の間、 京口門を挟むようにして 「御米蔵」 が記されている。これこそ高虎が作らせたという蔵なのだろう。同書に収まる寛永年間の図では、 「御米倉」 とは記されてはいないものの、 勘解由屋敷の東に縦長の設備が見える。これも件の蔵なのであろう。
察するに同屋敷が評定所となった時点で蔵に纏わる噂話が重臣層に浸透し、 重臣である水上政明を親戚に持つ常輔は幾度となく噂を耳にしたのかもしれない。
人間というものは、 どうやら好き嫌いが出てくるのはしょうがないものらしい。それは高虎と加藤嘉明の間でもそうだったが、 大名間の相互監視的な備えを同じ家中、 それも重臣間、 更に言えば京口門 (大手口) を挟むようにお互い武装して牽制し合っているのだから高虎も聞いた時は青ざめたのでは無いか。
平右衛門の事例に見るミスマッチ
平右衛門とて元は淡路の国衆で、 秀吉によって一万石の大名にまで取り立てられた逸材だ。その彼が五千石に甘んじて、 同じ慶長五年(1600)の新参でもたかだか増田長盛の侍大将に過ぎない渡辺勘兵衛が二万石。同じ五千石では高刑も同様だが、 彼は高虎の甥御というだけで同じ五千石、 それでいて街道を睨む外郭の東隅に立派な屋敷を与えられている。鬱憤が溜まるには仕方の無い状況下に平右衛門は置かれていた。
ただしかし平右衛門だけに同情して良いものか。似たような状況でいけば元大名の池田高祐などは、 平右衛門よりずっと身分が低い。それなのに高祐は病になるまで面倒を起こさず、 じっと藤堂家で活躍の時が来るのを待っていた。要は平右衛門は藤堂家にミスマッチであったとしか言い様がない。人事の妙は高虎を称える際に持ち出されるが、 その藤堂家でもミスマッチは起きたのだ。
結局のところ蔵を建てたところで根本的な解決には至らず、 菅平右衛門の鬱憤は慶長十九年(1614)大坂の地で高虎相手の口論、 それも刀に手をかけるという最悪な形で爆発。結局平右衛門の切腹という形で幕を閉じることになる。
冬の陣後に高虎を怒らせ、 平右衛門同様に切腹を迫られた家臣もあったが同情した他の家臣の機転で逃亡に成功していた。平右衛門一人が許されなかったのは、 ただ一点高虎の面前で、 他の家臣の目がある中で刀に手をかけてしまった事のみだろう。
大坂の陣と格
兎にも角にもこうした事績を経て高刑は大坂冬の陣を迎える。
時に 「延宝西島留書」 では高刑が二万石の渡辺勘兵衛と並び一万石として扱われている。しかし 「年譜略」 における夏の陣陣容では五千石である。
一見奇妙に思われるが、 要は自身の五千石分と大坂有事に際して附属として編成された五千石分を合わせた石高だ。
与力
「元和先鋒録」 を読むと家来を加山小左衛門、 鷹山加兵衛、 中西九右衛門として、 与力には三塚次兵衛、 稲葉猪之助、 津野又左衛門等を挙げている。
ただ三塚は高刑の傅役であるから与力の中でも古参、 ほぼほぼ家士のような立場とみる。また稲葉猪之助については林泉氏が金七家信 (式部) の弟として、 高刑が隊下稲葉市兵衛の養子となった、 と記している。14養父の市兵衛を家士か与力か判断するには隊下という文字の解釈によるが判断は保留する。
津野又左衛門は名前からわかるように土佐浪人である。しかし桑名隊に入らず高刑の与力となったのは、 桑名が改易直前まで盛親に従ったのに対し、 姓からすると改易前に津野親忠が粛清されたことの影響かもしれない。
『公室年譜略』 の夏の陣条にある 「隊下馬上与力家士共」 を見ると、 八十嶋四郎兵衛の名前が見える。彼は三成側近として名高く、 慶長五年(1600)に藤堂家へ転じ高虎の信頼厚い側近としても活躍した八十嶋道除の子息である。彼は与力のように感じる。
あくまでも夏の陣の陣容を参考に考えたが、 冬の陣もこうした与力を纏めて高刑は出馬したのだろう。その後のことは諸兄の知るところである。
藤堂仁右衛門家のその後
高刑の生前の活躍、 そして大坂の陣に依る高刑主従流血を以て藤堂仁右衛門家は代々本拠津の城代を務めた。無論高刑一代の武功のみならず、 後裔達の努力によって成し遂げた偉業である。
高経の活躍は次稿で述べるとして、 その孫である四代目高光は三代藩主藤堂高久が柳沢吉保の子息を養子に迎えようとするのを阻止しているし、 幕末の城代家老高泰は戊辰戦争で総帥として津藩兵を率い下総、 江戸、 箱根、 そして磐城を戦い抜き、 仙台へ転じた。15津藩の始まりと終わりに、 藤堂仁右衛門は確とその名を刻んでいる。それは武門の誉れと言えるだろう。 そして明治時代になると高泰は百五銀行の創設に関わると初代頭取と相成った。以来約百五十年にわたり三重県経済を支えている。
更に高刑の娘は伊賀附の重臣二代目藤堂新七郎良精へ嫁いでいる。二人の間に生まれた主計良忠、 その小姓松尾金作は主に倣い俳諧の腕を磨き、 後に松尾芭蕉と相成った。すなわち高刑の血もまた、 文化的に欠かせない、 と言えようか。
付論・藤堂仁右衛門家の城代屋敷について
付論として高刑の屋敷通称 「城代屋敷」 について述べよう。
代々仁右衛門家が君臨したこの屋敷は、 元を辿れば 「聚楽第の便庁」 であったらしい。
これは高山公実録の文禄四年(1595)条に見えるもので、 同年の政変で役目を終えた聚楽第を解体するにあたり、 同じ頃新たに伊予板島へ封じられた高虎へ秀吉から下賜されたという。
板島城中で活用された後、 伊勢伊賀移封に伴い高刑に与えて同家の書院となったようだ。
「今に至て厳然としてあり」 と述べられており、 十九世紀の編纂時点で実在していたらしい。『宗国史』 (文禄四年条) には 「金碧輪煥、 至今𠑊然」 と表現する。
更に文化年間、 高刑から数え九世孫高基の時代に修復したところ、 襖から大量の故紙が見つかったようである。宗国史は石田三成や増田長盛等、 「拙堂文集 6」 では堀秀政を挙げる。
また 「洞津遺聞 (津市史第三巻)」 には永徳筆の絵があったと叙述されているようだ。
絵図に見る城代屋敷
聚楽第から移築されたという仁右衛門屋敷は、 今も 「津八幡宮祭礼絵巻」 で僅かに見ることができる。16
これは祭礼で京口門を活用するためであるが、 そもそもこの絵巻自体を発注した者が藤堂仁右衛門 (高経) であるから描かれたのだろうと菅原洋一氏は指摘17している。
この絵巻に依れば仁右衛門屋敷は 「本瓦葺の門、 檜皮葺唐破風の玄関、 高塀などを含んでいた」 とされ、 平右衛門や勘解由の屋敷で後の評定所は 「瓦葺の高塀が描かれている」 という。18
絵巻に描かれる仁右衛門屋敷は僅かに一部であり、 対して聚楽第を描いた絵図に見える御殿たちは屋根程度しかわからない。しかし 「聚楽第行幸記」 によれば御殿に 「檜皮葺」 が用いられたことが記されており、 絵図に見える屋根にも檜皮葺が描かれている。ちなみに絵図には元菅平右衛門屋敷と米蔵も見える。
また現代聚楽第遺構と囁かれる大徳寺唐門も、 同じ檜皮葺唐破を有している。これら断片的な情報だけでは、 仁右衛門屋敷が聚楽第であったか確実とは言い難い。大徳寺唐門のように、 現物が遺っていれば判断も出来ようが、 廃藩後の行方19は定かではない。
風格
ともかく五千石の臣にしては立派な屋敷である。
現状津城本丸御殿の様相は定かではないが、 ひょっとすると仁右衛門屋敷よりも簡素だった可能性もあるのではないか。
逆に考えると伊予移封直後の高虎は豪勢な御殿を持っていたことになる。板島の衆中はその威容に驚いたことだろう。そうした建物を高刑に与えられた意義は大きい。
位置的に考えると京口門を入ってすぐのところにあるから、 ある種休憩所とか出立前の心を整える場としても機能していたのかもしれない。
「祭礼絵巻」 から考えると、 その威容は祭りに参加する町人も見たはずで、 その重厚感は見る者を圧倒したことだろう。
私も仁右衛門屋敷が置かれた辺りには土地勘があるが、 大変な広さ大きさになると思い書きながら圧倒されている。
高経期の仁右衛門屋敷の役割
高虎がこの屋敷を訪れた話は見当たらなかったが、 『公室年譜略』 には度々高次が仁右衛門屋敷に滞在している様子が述べられている。
元和九年(1623)に松平忠直事件が勃発した際、 高虎と高次親子は江戸にあったが、 先鋒の任を全うすべく高次は急ぎ上国した。その際高次は津城本丸を高虎の居城ということで憚り遠慮し、 仁右衛門屋敷を仮館としている。
高次は寛永二年(1625)正月を同屋敷で迎えており、 高経への信頼と同屋敷の居心地の良さを感じる。
高次の嫡男高久も仁右衛門屋敷を訪れている。例えば万治元年(1658)八月の津八幡祭礼では、 この仁右衛門屋敷で祭りを見物したという。
そして寛文二年(1662)の大火では仁右衛門屋敷周辺は難を逃れ、 留守を預かる高久は 「藤堂仁右衛門カ宅」 を仮館として政務にあたり、 同宅で新年を迎え家中新年の礼を仁右衛門屋敷で執り行ったと 『公室年譜略』 に記されている。(寛文二年十二月、 寛文三年正月条)
この大火が先例となったのだろうか。藩主が不在の折に火災が発生した場合、 城代家老たる仁右衛門の屋敷へ駆けつけるのが通例となったらしい。20
付論・清賢についての考察
先に願王寺 (寒松院) の開基清賢が仁右衛門家の人間であると述べた。
ここで清賢について考えてみたい。
清賢の出自について
まず清賢は仁右衛門家の系図21にて高刑の末子として記される。
そして
江戸昌泉院、 慈眼大師の法弟 後、 願王寺、 開基
とある。
昌泉院とは高虎没後、 高次によって廟所となった願王寺、 つまり現在の寒松院を意味するが、 それ以前は江戸にあったのかもしくは 「昌泉院清賢」 というのが正しい表記になるやもしれないが、 実のところはよくわからない。
「慈眼大師」 とは高虎とも親しい南光坊天海大僧正である。高虎と親しいが、 その親戚を法弟としていたのは興味深い。
一方で 『宗国史』 には次のようにある。
清賢鈴木弥右衛門第二子、 高刑之弟、 白雲外孫也 (私家系図 ・ 祀典一)
これは清賢が高刑の子ではなく、 高刑の弟であることを示している。戦前梅原三千翁が編纂した 『津市史』 では、 この記述を元にした記述を行っている。
更に 『草蔭冊子 (10)』 にある願王寺解説には、 清賢が伊予出身で高刑の 「猶子」 となった旨が記される。これが何に依るのかわからないが、 『東京市史稿 市街篇第四』 にも同様の記述が見られる。
つまり高刑の生年だけでも二説あるなか、 その縁者清賢の出自についても数説出てくることになる。
ただ系図で高刑の子としている点と、 清賢が高刑の猶子となったとの記述は共通しており大変興味深い。
清賢の生年と母
清賢の没年は 『天台宗全書二十四巻』 に記述が見られる。22
曰く寛文十二年(1672)九月十七日に 「寿八十有五」 で没したらしい。逆算すると天正十六年(1588)の生まれとなる。
そうなると鈴木弥右衛門が生きている間ではあるのだが、 その妻である高虎の姉は亡くなっている頃合いとなる。
そう考えると弥右衛門が後妻との間にもうけた子である可能性を見て、 清賢が高刑の異母弟であると考えるべきだろうか。今ひとつ錯綜しており、 一先ずは総合的に 「高刑の弟」 としておこう。
真光寺寺伝から考える年齢
またあくまでも寺伝あるが、 現在世田谷区にある 「真光寺」 の寺伝に高虎と清賢が見られる。真光寺は戦後間もなくまで本郷にあったが、 空襲で被害を受けて世田谷区に移転した。江戸時代、 この寺を再興したのが清賢と高虎だとされている。23
「天台宗東京教区」 の紹介に依れば、 寛永十四年(1637/HP では 1636)の再興とある。これが何を出典としているのか定かではないが、 高虎の没後から五年以内の話であるからその生前から再興の話があったのかもしれない。そう考えると真光寺再興の話も清賢と高虎の昵懇を表す一つとなろう。
やはり一つの寺を再興するにしても修行の段階が必要で、 高虎が没した寛永九年(1632)、 高刑の子息であれば三十代手前で高刑の弟なら五十代手前となる。やはり後者が自然な年齢のように思う。
清賢の活躍
ともあれ清賢は三歳にして父弥右衛門を亡くした。
兄は叔父の高虎に引き取られ、 三塚氏の養育を受けていたものと推測される。恐らく清賢も高虎に引き取られて家臣の養育を受けたのかもしれない。もしくは祖父虎高が後妻との間にもうけた子どもたちと兄弟同然に育てられたとも考えられようか。
ただ彼は荒々しい世界よりも仏門を選んだ。天台宗の僧侶となっているのだから、 何れかの寺院に入ったのだろう。ちょうど清賢が生まれた頃は秀吉公の尽力により、 延暦寺の再興が始まっていた。一つ彼が延暦寺に入ったとするのも案かもしれない。
藤堂氏の故郷中郡には 「湖東三山」 と呼ばれるほど天台宗の寺院が多く、 また敏満寺と呼ばれる地域屈指の規模を誇った山岳寺院も存在した。戦国時代の藤堂氏は敏満寺塔頭福寿院の住持を輩出している。
残念ながら元亀争乱下、 緒田方に焼かれてしまったが、 清賢が天台宗の僧となった要因には若き日の高虎の想いも影響していたのだろうか。
慈眼大師の法弟
先に見たように清賢は慈眼大師つまり天海の 「法弟」 であったらしい。
恐らくは高虎と天海の関係によって、 清賢も関係を持ったのだろう。天海が徳川幕府に参画するのは慶長十三年(1608)のことであり、 清賢が法弟となったのはその後だろうと推測される。
『東京名所図会 [第 10] (本郷区之部)』 の真光寺項によると、 清賢はまず東光院 (小伝馬町、 後に浅草) の僧となった。
「生稟賢貞」 で勤めていたところ、 高虎と懇意になり祈祷を任されるまでになった。そして高虎から 「屋敷の懇意蒙り」 とあるから、 屋敷の世話もしてもらったのだろうか。
そうした話を慈眼大師つまり天海が聞き及び、 東叡山草創の時分に清賢にも 「一寺取立候様仰候故」 と考えて、 清賢に当時廃れていた本郷の真光寺を託した。
東叡山とは寛永寺のことであるが、 草創の時分とは寛永二年(1625)頃のことで清賢が三十八歳の頃の話だ。
ここまで見るに清賢が高虎に信頼されていることがわかる。やはり 「姉の子」 であることに依るのか、 はたまた高刑の弟とか猶子であることに依るのか。ともかく 「叔父甥」 の良好な関係を持っていたらしい。
比叡山涼松院
そうして真光寺の再建が始まった。
のであるが、 実は同時期に他の寺の再建にも携わっていたらしい。
それが比叡山摩尼寳坊である。この坊は室町時代 『言経卿記』 で何度か見ることができる、 東塔南谷の坊である。
何らかの事象で廃れていたのを高次が再建させ 「涼松院」 とし、 更に母長氏が慶安元年(1648)に没すると慶安二年(1649)に法号 「松寿院」 へ名を改めさせたという。(宗国史、 東京市史稿)
この涼松院の第一世が清賢となった。
『天台宗全書』 によれば 「賜院室」 とあるので、 真光寺同様に天海の差配があったのだろうか。
また 「兼武江真光寺」 とあるから、 真光寺の寺伝とも齟齬ない。一応 「入室」 とはあるが、 後述するように叡山に籍を置きながら方々へ忙しくしていたと推測する。
真光寺再建と藤堂家
涼松院にしても真光寺にしても藤堂家との関わりが深い。
高虎の 「甥」 にして天海の法弟となれば、 藤堂家が尽力するのは自然な流れだろう。
特に興味深いのは、 真光寺の再建で用いられる材木が 「大坂陣の小屋の木道具」 とある点だ。24既に十年経った材木だが、 物持ちが良い。
そして兄高刑が活躍し討死を遂げた戦いで用いられた材木が、 十年の時を経て弟清賢の寺に用いられた意義は大きい。
そうした木材が用いられたからこそ、 真光寺が藤堂家の菩提寺の一つと定められたのだろう。
残念ながら戦災によって真光寺は焼けて、 戦後世田谷区へ移転した真光寺であるが、 往時の面影を唯一残しているのが薬師如来である。
消失を逃れた薬師如来像は現代も 「本郷薬師」 として親しまれている。(東京大学本郷キャンパスから程近い)
津藩領内での活躍
さて清賢の活躍は津藩領内でも見ることができる。
その最たる例が願王寺 (昌泉院 ・ 寒松院) や高虎との夜話である。
これらの話からするに、 清賢は江戸と比叡山、 そして津の三拠点を持っていたらしい。
夜話相手
『宗国史』 で清賢についての記述を探すと、 逸話集 「遺事録 (外編)」 の高虎編、 その夜話相手に名を連ねている。
清賢以外では高虎の信頼篤い儒学者三宅亡羊、 父以来高虎の御用商人を務める菱屋忠左衛門、 家臣で文化に精通する能筆家八十嶋道除、 同じく家臣で千石の角田卜祐、 家臣の日幡宗悦 (柳田 ・ 伊左衛門) 等の名前が並ぶ。
高虎が没した頃の清賢は四十五歳であった。先に見たように寛永二年(1625)までには高虎と懇意であった。そうなると三十代の頃には高虎に認められ、 藤堂家に出入り出来るようになっていた。少し若すぎる感は否めないが、 こうした錚々たる顔ぶれに清賢が並ぶのは、 ひとえに修行の成果であり、 その学識が高虎の知識欲を十二分に刺激していたことにもなろう。もちろん彼が高虎の 「甥」 であることも大きな理由だろう。
この夜話が津と江戸、 はたまた京の何れで行われていたのか定かではないが、 高虎が存命の頃に清賢も津を訪れていたことを示唆しているのか。
そう考えると願王寺の起源を高虎入府直後の慶長十三年(1608)に求める 『伊勢名勝志(明 22)』 の記述も、 遠からずといったところなのかもしれない。
昌泉院の活動
さてはて 『宗国史』 で 「昌泉院」 を調べると、 幾つか出てくる。
例えば 「久居千手院」 について 「昔願主主僧清賢」 とあり 「属昌泉院」 ともある。これは清賢の活躍の一端となるだろうか。
この千手院は賢明寺として名高い。『久居市史』 によれば、 寛永年間に時の住職実順法印が再建したとある。類推するに、 実順の賢明寺再建に清賢も手を貸したのではないか。
八幡祭礼
時に寛永九年(1632)、 二代藩主藤堂高次は津八幡宮を垂水から藤方へ移転させた。そして八幡宮の別当は、 どうやら昌泉院の住持が務めるようになったらしい。25
なので寛永十二年(1635)の津八幡祭礼に関する高次の銀十貫寄附については 「昌泉院別当御房」 へ宛てている。26
この当時の住持は恐らく清賢なのだろうけど、 今ひとつ清賢と祭礼の関わりを示す史料が欠けており推測することしか出来ない。
ただこの八幡祭礼は京口門を活用するので、 城代家老高経の叔父である清賢が関わることは自然に見える。
赤目瀧延寿院
また昌泉院は慶安元年(1648)頃には赤目瀧の僧について 「伊賀に天台の坊主がいない」 と取り上げて、 天台の僧侶を入れるべきだと津藩に主張したらしい。
こうして赤目瀧の延寿院は寒松院に属する寺となった。
元々寛永十三年(1636)に高次が祈願所として寄附をしていたのだが、 それから暫くして昌泉院の申し立てによって、 寒松院に属することになったとみるべきだろう。27
時に延寿院に関して清賢と判断したのは
坊主立退候刻昌泉院 御前悪しく
と闕字に見える空きに依る。
一志川上若宮八幡宮
数少ない清賢の動向を示すものが、 一志川上村若宮八幡宮の棟札である。28
同社の 「建立社塔本地大日如来一宇守護所」 の開眼法主に 「清賢 敬白」 の文字が見える。寛永十三年(1636)正月のことだ。
棟札の説明として、 これは高次が建立を命じたものであるという。
そうなると清賢は従弟高次の命を受けて動いていたことにもなる。
高次との間柄
このように見ると清賢は従弟高次を支える僧に見える。
高次にとっても猛々しい時代の空気を吸って育った従兄の存在は頼もしいものだろう。
そうした間柄を想起させる逸話を幾つか紹介したい。
怒らせる
まず承応三年(1654)五月十三日に高次が処刑を行おうとした際に 「昌泉院主僧」 が 「十三日十四日」 の処刑延を申し入れた。高次はこれに対し 「政治に口出しするな」 と不快感を表し、 出入り禁止を言い渡した。院主は陳謝し、 詫びの誓書を提出したという。
この話は 「昌泉院」 の 「主僧」 と表されている。『宗国史』 では瑞泉院の項で 「故昌泉院主僧清賢」 と表現されているから、 高次に申し入れて叱られた主僧が清賢である可能性は高いと思う。親戚同士だからと考えていたのが裏目に出たのだろうか。
鶴の宮
そして長くなるが清賢の風格を示す逸話を見よう。
「大部田」、 これは現在の志登茂川南岸から津駅の北部付近であるが、 この街中に 「鶴祠」 という小さな祠がある。調べると現在は石碑のみが残るという。29
昔、 高次が壮歳の頃、 遊漁のためにこの大部田を訪れたことがある。
当時あの辺りは 「瀉鹵平田」 と、 まあ海に近いから塩分が混ざる地で海鳥が多く居た。
そうした中に白鶴も居たので、 高次は銃口を鶴に向けたが伊勢街道沿いというだけあって人が多い。
草に座りながら側で見ていた清賢は
「もし衆目の中で外したら威厳を損なうから、 私の肩に銃身を架けてみてはどうだろう」
と進言した。
高次はその言葉に従い、 清賢の肩で銃身を安定させ引き金を引いた。すると鶴は音を上げて倒れ、 行く人は感嘆し高次は成功に喜んだ。
そして清賢は高次にこう言ったという。
「鶴をその地に埋葬し、 祠を建てて祀りましょう」
老僧の風格はこのようなもので、 祠は今願王寺に属している。
なお祠は現在、 近鉄と JR 紀勢本線 ・ 伊勢鉄道がオーバークロスするあたりに鎮座する 「小舟神社」 に移転しるようだ。
晩年
さて 『宗国史』 の瑞泉院項にて清賢について次のように述べられている。
故昌泉院主僧清賢老辭寺務、 下東都、 ト居本郷
つまり清賢は年老いて寺務を辞すると、 本郷へ帰ったという。
『天台宗全書』 によれば慶安二年(1649)に真光寺へ帰ったとある。全書の没年齢から逆算するに、 当時六十代の砌である。『宗国史』 の 「老」 とは少し異なるようにも見えるが、 『宗国史』 は単純に敬語として 「清賢老」 としただけなのかもしれない。
さて全書を読むと、 清賢が真光寺へ帰った年、 入れ替わるように二世清海が松寿院を継承している。『宗国史』 の昌泉院項によるとこの清海は 「橋本四郎右衛門子」 とある。橋本は高虎側室長氏の親戚筋を出自とする高次側近で、 高久 ・ 高久の養育係を務めた藤堂宗綱を指す。その子息が松寿院を次ぐのは自然な話だ。特に前年に長氏が没していることからすると、 その意義は大きいものとなろう。
『宗国史』 は、 清海の名に 「海」 が付くために彼もまた天海の弟子としている。
こうして比叡山松寿院の任を終え、 真光寺へ戻ったらしい清賢であるが、 どうやら高次が江戸へ下った際には侍っていたらしく、 明暦二年(1656)二月のものと思われる逸話30に三宅道乙と共に 「老僧昌泉院」 として登場している。
三宅道乙は先に高虎夜話で重用された儒学者三宅亡羊の後継者で、 彼もまた亡羊譲りの秀才であった。そうした三宅二代と並び立つことで、 清賢の学識の深さも薫ってくる。
ともかくこうして老いて本郷の真光寺に戻ったとは言え、 津藩藤堂家とは変わらず親しくしていたことがよくわかる。
寛文七年(1667)には松寿院を継いだ二世清海が四十二歳の若さで亡くなった。三世は 「清賀」 なる僧で、 『宗国史』 によると 「清賀」 は 「橋本兵左衛門子」 とある。兵左衛門は四郎右衛門の弟藤堂玄綱のことで、 その子となれば清海のいとことなる。
無論高次側近の子であれば、 その継承に高次や清賢が尽力したことは想像するに容易である。
斯くして寛文十二年(1672)九月十七日、 昌泉院清賢はこの世を去った。『天台宗全書』 の没年を信ずれば八十五歳というが、 前述のようにもう少し上の可能性も考えられるだろう。
清賢
まとめてみると清賢は藤堂高虎 ・ 高次二代に重用された僧であったと言える。そうした信頼は彼の出自、 津城代家老仁右衛門家初代高刑の弟とか猶子とか現段階では明確な答えは導き出せないが、 そうした城代家老家との縁と共に、 清賢の優れた学識によって生まれたのだろう。
現代では清賢の存在はすっかりと忘れ去られてしまったが……いや、 忘れ去られているのは高虎以外の藤堂家全体に言えることでもあるが。ともかくそうした諸人が津藩を忘却した現代でも、 鶴祠や川上山若宮八幡、 赤目瀧延寿院、 久居千手院賢明寺、 本郷薬師で清賢の足跡を辿ることが出来るのは大変な幸運である。
藤堂高刑について
以上ここまで津藩城代藤堂仁右衛門家初代高刑について述べてきた。
書く中で課題は多かった。特に高刑の生年と仁右衛門家出身の僧清賢の出自は難しいものだ。
兎にも角にも、 これで藤堂高虎の重臣記事は初期重臣 ・ 矢倉秀親、 今井大夫、 渡辺勘兵衛に次いで三本目となった。多賀氏記事の玄蕃 ・ 新七郎、 大和宿老衆(4)の池田伊予守項を入れたら五本目となる。
それでも史料が少ない中で、 よくもここまで書くことができたと思う。ひとえに津藩編纂者の功績に頭が下がる思いだ。
で、 これが本編なのでは無い。本当の主人公は高刑では無く、 その妻である。
本当は一つの記事に纏めようとしたが、 長くなってしまったので分割する。(結局清賢について加筆したので、 更に長くなってしまったのであるが)
おまけとして 2013 年 4 月 5 日に撮影した城代家老 ・ 藤堂仁右衛門屋敷跡の様子を掲載する。12 年経って銀行の建設など少しは変わっているのだろうが、 この時点で私が暮らしていた 2003 年頃と然程の変化はなかった。
もう一つ、 本文中に登場した仁右衛門屋敷などの位置関係図。
4 月 29 日に本郷薬師を訪問しました。(20250430 追記)
日本地名大系第 24 巻三重
⇧藤堂一族の中で早くに親を失った人物としては虎高の孫で、 高刑母と高虎の従弟新七郎良勝も該当する。彼の父は永禄十二年(1569)に高刑母の弟、 高虎の兄である源七郎高則と共に大河内城で討死している。系図には 「時ニ良勝幼クシテ孤、 虎高公引取ッテ養育ス」 とあり、 母である藤堂氏も早くに亡くなっていたことが窺える
⇧増田は秀保没後郡山の主となっているから、 そうした部分も関係していたのかもしれない
⇧実録の編纂者 (関ヶ原条) によれば十九才という。
⇧宗国史遺書録より
⇧新七郎良勝は高虎にとって無二の重臣とも言える従弟だが、 必ずしも従順ということも無く高虎の意に反する逸話が幾つか残されている
⇧九月十四日付書状 (新七郎蔵書)
⇧仁右衛門蔵書
⇧藤堂姓諸家等家譜集
⇧抗議は聞き届けるが、 必要以上に騒いだ点を罰するというのは興味深い。確かに現代でも授業を受ける学生の態度については、 教師が悩むところがある。それぞれが大声を出して収拾がつかない状態にあるというのは、 いつの時代も管理が難しいのだろう。特に中近世の移行期であるこの時代、 騒ぎが騒ぎを呼んで矢玉が飛び交うことにもなりかねない。『三重県史通史近世 2』 を読むと後世 「ええじゃないか」 が流行した際にも、 伊勢諸藩は管理外の 「踊り」 に頭を悩ませている。高虎も為政者として悩んだのだろうか。
⇧西島八兵衛由緒書 ・ 三重県史資料近世 2 所収西嶋文書。仁右衛門の下屋敷というのは、 どうも家士が暮らし 「仁右衛門屋敷町」 とも呼ばれた西検校町らしい。「日本歴史地名大系 第 24 巻 (三重県の地名)」
⇧高吉は拝志騒動で加藤家相手に戦を仕掛けようとし、 また妻溝口氏と離縁するもその侍女と仲睦まじい。
⇧
虎高は老齢に至り子をもうけている時点で大変人間らしいが、 文禄年間 (宗国史に依る。実録では慶長期としている) に太郎左衛門と騒動を起こした良勝を厳しく叱責している。
その良勝も太郎左衛門と騒動を起こしている時点で人間らしいし、 伊予時代は罪人を追ってわざわざ加藤領に侵入し、 城の門前でこれを殺害するなど気性が激しい。また先にも見たように良勝は高虎の言うことを全て聞くことも無く、 なかでも度々高虎の加増を断り続けた逸話は大変人間らしい。(自分よりも多くの家臣を雇え、 ということであるが)。
そして太郎左衛門も良勝と騒動を起こしている時点で、 彼もまた人間らしく、 慶長五年(1600)の争乱で留守居を任されたことに憤慨し退去している大変人間らしい存在だ。それでいくと留守居を任されていたのに勝手に参陣した藤堂外庵も人間らしい。その父少兵衛は多賀秀種と争論を起こし、 此方もまた人間らしい。
高虎は逸話からして、 戦時中なのに喧嘩で同僚を二三人殺害しただの言われ (津藩は顕彰する気があるのか?貶してないか?)、 なぜかさも史実かのように扱われる講談では無銭飲食の徒で若い頃の過ちにしても、 大変人間として気性が激しい。
秀長に仕えた時点で落ち着いたとも言われるが、 根白坂の激戦では軍令を破ったとの見方もある。それはともかくとして秀保期は遅滞が度々見られ、 秀吉直々に叱られたこともある。
壬申戦争でも加藤左馬勢を出し抜き、 加藤と蜂須賀から痛烈に批判されている。ちなみにこのとき加藤は家臣を勝手に帰国させ秀吉に報告させたことも糾弾されているが、 その家臣こそ他でもない藤堂太郎左衛門であった。他にも高虎の人間らしいエピソードを書き連ねたいところだが、 枚挙に暇が無いほど激しいエピソードに富むのが高虎なのである。
こうした 「人間らしい」 一面があったからこそ、 藤堂隊は精強を誇った訳だし、 厳しい面が無ければ激動の時代を乗り越えることが出来なかっただろう。何分藤堂家が特別なのでは無く、 他家でも似たような厳しさがあったのではないか。
基本的には温厚であり、 高虎に対する秀吉がそうだったように一度や二度の失敗にも寛容というところだ。中村勝利氏に依れば 「南北五十四間·東西五十五間·二千七百七十坪」 の規模であったらしい。『藤堂藩(津 ・ 久居)功臣年表 : 分限録』。ただしその根拠は定かではない。
⇧『藤堂高虎公と藤堂式部家』 より
⇧『三重県史通史編近世 2』 第 14 章幕末維新期の支配と民衆第 4 節幕末維新の兵乱 ・ 東北戦争より。その後藤堂豊前が伊賀より来援し土崎で戦い、 また増援として伊賀から渡辺七左衛門が箱館戦争を戦った。先に帰国した仁右衛門は岩田橋で藩主父子の出迎えを受け、 京口門の前で記念撮影を行っている。ちなみに相馬藩降伏後、 今泉で仙台藩と激戦を展開。戦局は仙台藩が有利であったが長州と大洲の兵が来援し、 一転仙台藩を敗走に追い込み後に降伏させている。一連の戦いで津藩兵も犠牲者を出しており、 その名は三重県史資料集に掲載されているようだ。
⇧勢州一志郡八幡宮祭礼 (ニューヨークパブリックライブラリー) は寛永九年(1632)に描かれたとされる。反町茂雄 著 『日本絵入本及び絵本目録 : スペンサーコレクション蔵』 ,反町茂雄,1968. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12402061/1/32
⇧津城跡第五次発掘調査報告書 ・ まつり ・ 祭 ・ 津まつり実行委員会 『まつり ・ 祭 ・ 津まつり ニューヨークから里帰り 「津八幡宮祭礼絵巻」』 2004 年 / 菅原洋一 「「津八幡宮祭礼絵巻」 の世界」 『藤堂藩の研究 論考編』 清文堂出版、 2009 年
⇧津城跡 (第 5 次) 発掘調査報告(三重県埋蔵文化財調査報告 ; 419)に拠る。PDF あり。
⇧中村勝利氏に依れば、 明治維新後に岐阜県海津郡南濃町山崎 (現在の海津市) へ移築されたという。『藤堂家藤堂藩 ・ 諸士軍功録』 (三重県郷土資料叢書 ; 第 83 集)
⇧
しかし残念ながら同地域に現存を匂わせる情報は皆無だ。恐らく濃尾地震などの災害で消失してしまったのだろうと推測している。津市史 3 巻、 また 「阿古木の真砂」 から。何れも戦前の歴史家梅原三千翁の叙述。
⇧
ちなみに藤堂高吉の三男を祖とする藤堂隼人は、 津の番頭を務める家柄であった。この三代目長武は或るとき伊予町での火災で仁右衛門屋敷へ急ぐ中で偶然仁右衛門 (四代高光) と遭遇したので、 馬上から 「火元はどうするか」 と問うと 「勝手にせえ」 と言われたので、 城代家老の仁右衛門を置いて火元へ馬を走らせたという。翌日隼人は普請奉行に呼び出されて前日の振る舞いを問い詰められたが、 彼は毅然と反論した。それが仁右衛門に高く評価され家老の一角に列せられたという。この逸話が出典となる。なおこの隼人、 有事の際は頼もしいが平時は退勤し自宅に戻る度、 衣を脱ぎ捨て全裸で居間を過ぎるとそのまま庭で用を足すという、 極めて無頓着な人物であったらしい。藤堂姓等家譜集
⇧松寿院についての説明。藤堂氏縁と記され、 更に一世清賢以下三世までの解説が載る。『宗国史』 の昌泉院項に見える歴代と一致しているので、 同一と判断した。
⇧世田谷区社寺史料 第 1 集 (彫刻編)より
⇧世田谷区社寺史料 第 1 集 (彫刻編)より
⇧藤堂藩の研究より
⇧唐人踊りの起源とその関係資料について ・ 徳田雅彦 『三重県立図書館紀要』 (5),三重県立図書館,1999-03.
⇧宗国史下より祠寺條所収 「三浦少助、 加納藤左衛門書状」、 伊賀史の研究三十年
⇧宗国史上
⇧ところで 「鶴の宮」 の解説には異説が見られる。『伊勢鄙事記/三村竹清集 7 (日本書誌学大系 ; 23-7)』 によると、 遊漁中にちょうど伊賀少将昇進を告げる使者が通りかかったようで、 だからこそ鶴を縁起物として祀ることになったらしい。この逸話には高次が 「壮健」 であった頃だとか、 清賢の話が出てこない。高次が少将に昇進したのは寛文六年(1666)で亡くなる十年前で、 壮歳とは言いがたい。何より高次はこれより十年以前から体調を崩しがちであったから、 尚更宗国史は 「壮歳」 とて強調しているのだろう。ついでに言えば清賢は慶安二年(1649)には江戸真光寺に帰ったとされる。そう考えると巷間流布している話よりも、 筆者としては宗国史の記述の方が真に近い逸話と言えると思う。
⇧『宗国史下』 の 「高次遺事」 にて 「公帰邸、 告僧清賢三宅道乙等曰」 と見える。『宗国史上』 には明暦二年(1656)の出来事として澤田家家譜 「視聴混雑録」 を引用している。内容は概ね同じであるが、 遺事では清賢と道乙が登場するのに視聴混雑録引用文には見られない。一方で視聴混雑録引用文では遺事に見えない 「伴其嗣君」 の文字がある。この辺り東京大学史料編纂所の 『視聴混雑録 ・ 亨』 を閲覧したところ、 「御帰館有之而老僧昌泉院及三宅道乙等」 と記されていた。紛れもなく清賢のことである。
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