兼右卿記に見る浅井久政周辺(人物解説編)

最後に兼右卿記で気になった人物をまとめてみたい。

佐々木治部少輔

梅戸高実か。
天文三年(1534)九月三日条 ビブリア 154 の騎馬衆にて上野や一色などの奉公衆とみられる人物。同日六角義賢 四郎 や大原高保 佐々木中務少輔 が見られることから 治部少輔が高保の兄弟である梅戸高実である可能性を検討した。

梅戸高実について

梅戸高実は六角家から北伊勢の梅戸家へ養子に入った人物である。津藩の編纂資料では 高虎の曾祖父 にとって重要な人物と物語られている。実際のところ関係性は定かではない。
ただ多賀氏との間で交流があったのは事実で 経家は長享三年の敗戦で 梅津 へ逃走したことが知られているが これは梅戸を指すのが通説だ。梅戸大蔵大輔貞輔と豊後入道宗悦の間では 犬追物 に関して文化的交流があった。1

高実と大蔵大輔貞輔の関係性はよくわからない。貞輔が長享から永正初頭の人であるのに対し 高頼の末子である高実は大永から天文年間の人である。
また文明年間には 梅戸右衛門三郎貞実 四日市市史第 7 が見られる。貞実は高実と名が似ている。養子入りする前代 もしくは二代前となるのだろうか。

この梅戸高実自体も史料が少ない。
そうしたところで兼右の記録 天文三年(1534)九月三日条に 佐々木治部少輔 が騎馬衆に登場する。
これは将軍足利義晴の入洛に関わるもので 彼は上野与三郎と一色式部少輔という奉公衆に並んで見える。

奉公衆の 佐々木治部少輔 では永禄期の京極高成が思い浮かぶ。彼は後に香集斎として京極高次を支えた人物となるが それでは少々時代が合わないように思われる。
一応のところ村井氏は基礎研究本の 史料集 稿 佐々木治部少輔 に括弧で 京極高慶 と付けている。高慶は一般的に 五郎 とか 大原五郎 とされる人物であるが 彼の官名が定かではない以上これが正確であるのかはよくわからない。

一方で梅戸高実が 治部少輔 であったことは 証如上人書札案2から見て取れる。天文七年には 梅戸治部少輔 と称していたらしい。
また大永年間の争乱に関する書状を見るに 仮名は 四郎三郎 であったようだ。遺文 261
彼は実家が六角家であるから 元々の姓は 佐々木 であり 一応 佐々木治部少輔 の条件を満たす。

奉公衆梅戸氏

では奉公衆に 梅戸 は存在したのか。
飯田良一氏の研究ノート 北伊勢の国人領主–十ヶ所人数 北方一揆を中心として/年報中世史研究 (9),1984-05 によれば 文明年間に梅戸氏が奉公衆に加え入れられているという。
つまり 佐々木治部少輔梅戸高実 奉公衆の列に見えるというのはそこまで不自然ではないということが言える。

この日の記述を見ると 義晴入洛には佐々木四郎 後の六角義賢 と佐々木中務大夫も関わっていることが見て取れる。
八日の記録には 同名中務大夫四郎叔父也 と述べられており 彼が定頼の弟大原高保であることが確定する。
そうなると 佐々木治部少輔 も高実ではなかろうか。四郎の叔父で中務大夫と兄弟ではあるが 養子先の梅戸氏が奉公衆であるが故に彼は奉公衆と同じ列にあったと見てみたい。

永田伊豆守清綱

弘治二年(1556)六月二十一日条に興味深い人物が登場する。

江州佐々木長田伊豆守清綱妻五十歳 野狐相付之間 鎮札所望之由申来之間 調遣了 此人予従父兄弟也 以各別之上調者也

永田伊豆守は既に天文七年(1538)の 北郡御陣 で能登殿と共に太尾山に陣しており また永禄五年(1562)十一月の 御礼拝講 義輝の坂本日吉礼拝講 では越中以下七頭の一角として登場した人物である。
今回の 兼右卿記 の翻刻によって この間を埋める記録が発見されたこととなる。
兼右は清綱の妻が五十歳と記しているが そうなると彼は同世代か少し上の世代と考えられる。北郡御陣から御礼拝講までの 伊豆守 は清綱一代の事績と考えるのが自然ではないか。

またこの日の記述で興味深いのは 此人予従父兄弟也 とあり 清綱の妻が兼右の父方親戚に当たることを示している。
父方と言うが吉田家であるのか もしくは兼右の実家である清原家の可能性が考えられる。ところで兼右の姉妹には幕府奉公衆三淵晴員へ嫁いだ娘がおり 清綱は妻を介して三淵晴員と親戚関係にあったとも言える。
この頃には既に二人の子息は出仕している。二男は大原氏の流れを汲む細川刑部少輔晴広の養子となり 細川藤孝 と称したことで知られている。

浅井一家

浅井新九郎/左兵衛

江州北郡の有力者。要は浅井久政のこと。
天文十四年(1545)に越前から帰洛する道中の兼右と対面した。それ以前に兼右 吉田家 と浅井氏 亮政 の間で音信があったのかは定かではない。
天文十八年から様々なやりとりが見られる。天文十九年(1550)十月には新九郎から左兵衛へ改めた旨を兼右が関知している。

とまあ本稿では主人公とも言える存在ではあるが 実は久政自身はそこまで登場しない。
天文二十年(1551)十一月廿一日条では起請文に関する助言を求めている程度だろうか。

浅井母堂

久政の生母とみられる。嶋記録 の叙述を元にすると尼子氏と書くべきか これは今一つ定かではない。
久政の他に左衛門大夫 美濃へ嫁いだ岩松女の三人の子が居たことになるが 左衛門大夫に関しては彼女が母なのか定かではない。

浅井左衛門大夫

久政の弟。
浅井弟 とか 同新二郎 と同一人物なのかは定かではない。
天文二十二年頃に子どもが生まれ 弘治三年(1557)には屋敷が祟られたとして祈祷を依頼している。
兼右卿記からは離れるが天文二十四年の多賀大社梵鐘にも浅井猿夜叉 浅井周勝と共に名を連ねている。長らくその詳細が未解明であったが 今回の天理本の翻刻によって彼が猿夜叉の叔父であることが判明したのは大きな一歩である。

浅井岩松女

濃州へ嫁いだ久政の妹。天文元年に生まれたらしい。
天文二十年に縁談がまとまったは良いが当時既に病を患っており 母から兼右へ祈祷依頼が届いた。

斎藤氏との婚姻について

さて通説 浅井氏の娘が美濃の斎藤氏に嫁いだことは知られており 木下氏の 斎藤氏四代 でも 美濃国諸家系譜 をもとに 龍興 一色治部少輔 の母について久政が妹を養女としたと説いている。
しかし今回兼右の記録を見るに浅井亮政の娘 久政の姉妹が美濃へ嫁いだのは天文二十年のことだ。この 濃州 が具体的に何処の誰を指すのか定かではないが 永禄初頭時点で承禎は 井口 つまり斎藤義龍と つまり浅井の間に 縁篇 があったことを条書 遺文 801 に認めているし 後年浅井氏の娘が斎藤義龍に嫁いだこと伝承は系図にも表れている。この二点から岩松女が嫁いだのは斎藤義龍で相違ないように見える。

最大の問題は龍興が生まれたのは天文十六年か十七年とされている点で この輿入れよりも数年早いのである。
そうなると 美濃国諸旧記 などで龍興の母を 長井隼人正の娘 とするものがあるらしい。木下氏は考慮に入れる必要は無いともしているが 兼右の記録から考えると今一度 長井隼人正娘母親説 も見直す必要があると思う。

ちなみに利尚には永禄三年(1560)に子息菊千代を追うように亡くなった妻一条氏 斎藤氏没落後に壺を廻って信長とトラブルを起こした後室が居るそうだ

さて永禄二年(1559)頃に利尚は近江との関係を見直し 六角氏と結ぶ選択をしていることは承禎の書状から明らかである。承禎は疑っているが
義龍が浅井との義絶を選んだのは やはり岩松女が早くに亡くなったことも想定できるかもしれない。既に嫁ぐことが決まった時点で 煩い のあった彼女であるが 美濃へ嫁いだ後に再発し亡くなった といったところだろうか。

京極高広の関わり

ところでこの岩松女の輿入れにはもう一点の課題がある。誰がこの縁組みを 模索 したのか という点だ。
この時代の久政は京極六郎を推戴させられていた立場にあった。一方でそれまで属していた六角定頼は妻の一人慈寿院が土岐氏の娘らしく かねてより土岐氏の再興を援助する立場にある。

こうしたところで天文十九年六月とされる高広の書状には 彼が美濃へ出張していた旨が記されているし 十一月の中郡出兵には 北郡京極六郎従濃州被差出云々 と美濃から出兵しているように六郎もまた美濃との関わりが深くなっていた。
何の偶然か 六郎が美濃に在ったらしい頃 既に岩松女は煩っており更に 濃州 への輿入れも決まっていたのである。

岩松女が斎藤氏へ嫁いだと仮定すると 京極六郎も斎藤氏を援護する立場にあって 彼の差配により婚姻が定まった可能性もあろうか。

こうしたところで 東浅井郡志 高広 が揖斐光親を援助していたと説く。これは一体何を論拠としたのか定かではない。
美濃国諸旧記 には義龍を支える揖斐光親が叙述されているので 郡志はそれを元にしたのかもしれない。
ただし承禎の条書を読むに 永禄二年(1559)時点で 揖斐五郎 は美濃には居なかった。木下氏は 斎藤氏四代 のなかで 天文十九年(1550)の十月頃に斎藤道三が土岐頼芸 揖斐五郎兄弟を追放したと説いている。
故に 京極高広が揖斐を支援することは今ひとつ考えにくい。

浅井氏と斎藤氏を結んだ存在が京極高広であるとすると その失脚 政治的生命が潰えた後に両者が義絶するのは当然の帰結だろうか。岩松女の健康状態が状態であれば尚更だろう。

こうした情勢を見抜き六角氏と斎藤氏を結びつけようと画策した中郡の諸勢力はなかなか狡猾である。彼らは土岐を復興させんとする定頼 義賢親子を目の当たりにして 近江に滞在する頼芸 揖斐五郎兄弟を間近で見ていたはずなのに。
尤もこうした縁組みが巡り巡って六角方勢力を崩壊させるのだから歴史はわからない。

浅井舎弟僧

弘治三年(1557)に十九歳だった人物。
僧侶ながら心猛気勇で毎度抜刀のうえ人を傷つけるという僧侶にあるまじき行動で母親を悩ませていたらしい。
死霊の祟り ということで兼右に祈祷依頼が届く。四ヶ月後には母からも祈祷依頼が届いており 家中が手を焼いていたと想像できる。

ところで天文二十四年(1555)の多賀大社梵鐘には左衛門大夫の他に 浅井周勝 の名前が見える。梵鐘に見える名前は 多賀与一 のような通称か 多賀豊後守 のような官途名が大半である。この 周勝 という名はどちらにも当てはまらないように思える。
そうしたところ 尼子沙弥宗心 が見える。先頭の尼子宮内少輔賢誉の父か一族であるが 彼は僧籍の人物である。彼の例からすると 浅井周勝 もまた僧籍としての名と見ることが可能なのでは無いか。
浅井姓の僧としては やはりこの乱暴な久政舎弟の僧が該当しそうな気もするが 現状史料に欠けるので推論の域を出ない。

浅井長門守

浅井又二郎 掃部 の父。天文十七年(1548)に隠居した。
東浅井郡志四巻 所収の 徳勝寺授戒帳 には天文二十三年(1554)十一月二日の授戒者に 慶印 浅井長州之御内 が見える。この 慶印 は天文四年(1535) 天文六年(1537)に授戒した 浅井掃部殿御内 慶印 と同一人物のように思われ 三巻 の人物解説では 浅井掃部 浅井長州 の前歴だとしている。
再嫁の可能性もあるだろうが 一応のところ首肯したい。

徳勝寺石塔銘 には永禄二年(1559)三月十一日に没した 徳翁良味居士 前長州大守 とある。どうやら彼は隠居から十年近く生きたようだ。

子息 又二郎は後述するようにその後 掃部 を継ぎ 浅井掃部助 となる。

浅井又二郎/掃部

浅井家で申次を務めた人物。その職責からか兼右の記録にも頻出する。
天文十七年に父が隠居すると表舞台に立ったらしい。
ただ父も名乗ったらしい 掃部 を名乗るまでは間が空き 弘治三年(1557)になってようやく 掃部助 と称した。これは久政の六角離反 京極高広派への転向による南北戦争の影響があるかも知れない。

変わったところで掃部について承禎が能登宮内少輔へ宛てた書状 遺文 1195 に興味深い内容が書いてある。
どうも掃部助は能登宮内少輔高持を通じて六角家へ転出へ希望したが 承禎は今ひとつ不審であるとして掃部助の忠節を望むとしている。蒲生郡志
西島太郎氏は この 能登宮内少輔高持 が高島の有力国衆 西佐々木七人 の一角能登氏嫡流と指摘している。西島国人領主
この書状は年次不明であるが 恐らく浅井賢政 長政 の六角離反後のことではないか。
その後の浅井掃部助の動向は不明である。

磯野氏

伊藤論文の中における主題。伊藤氏は永禄年間に現れる 磯野氏 が同一人物として論を展開している。
しかし天理本の翻刻により 少々変化が訪れた。
初見は弘治三年(1557)九月十七日条の 磯野四郎三郎 となる。この名は永禄二年(1559)に見える 磯野八郎三郎 伊藤氏が員昌とする の名前に似ている。
そして永禄九年(1566)に磯野丹波守が登場する。
員昌の通称は永禄三年(1560)に見られる 善兵衛 が唯一であり 彼が 四郎三郎 八郎三郎 と同一人物であるのか現状で判断する材料に欠ける。

河瀬氏

京極氏の根本被官や多賀大社の神官家と知られる一族である。永正期には河瀬家加や 弾正左衛門の名前が東浅井郡志に見られる。

前史・河瀬家加

このうち河瀬家加について郡志では 上坂家古筆判鑑 をもとに 遠江守 としている。
一方で 多賀大社叢書文書篇 に収まる永正四年(1507)十一月廿八日付 多賀社社家神官中定書 には筆頭として 河瀬右馬允家加 の名が記されている。
ただし同書中では他の神兵衛尉家忠 七郎左衛門尉家成 七郎就方等には見える 花押 が見えない
河瀬右馬允 は永正七年の足利義尹御内書の宛名にも名を連ねているが これも家加であろう。
このように 遠江守 を家加とするのは 上坂家古筆判鑑 のみである。この古筆判鑑の内容は 草野庄料所を藤堂備前守に渡すべき旨 というものであるが 登場する 藤堂備前 は文明十八年(1486)から明応二年(1493)にかけて京極政経 材宗親子に近い存在として活動した人物であるが 永正年間の動向は定かではない。そうなると自ずと古筆の時期は永正四年以前となり 家加は永正四年までに 遠江守 から 右馬允 へ改めたこととなる。考えるに 遠江守 は戦乱期京極政経 材宗権力のもとで使用し 永正二年の高清勝利後もしくは永正四年二月の材宗一派敗死後に 右馬允 へ改めたのだろう。

北郡の河瀬氏

こうした実態の定かではない河瀬氏が今回天理本によって更に収集が可能となった。

注目すべきは河瀬氏が浅井氏に近いように記録される点である。天文十八年(1549)の音信のように 一見すると便宜的に浅井氏と河瀬氏は一緒くたに記録されているように見える。
しかし同年八月十八日条の時点で 河瀬小法師母堂 自江州北郡 その身は北郡の地にあった点からすると 両者が非常に近しい存在であったと言えるのである。
更に弘治三年(1557)には 北郡河瀬左近亮定政 ともあり 兼右と音信を持った河瀬氏が北郡にあった。そうなると彼らが中郡で多賀大社神官を務め 更に河瀬庄に根付いた 河瀬氏 とは別の河瀬氏に見える。

そうしたところで 坂田郡志 には坂田郡八幡庄春照の河瀬氏が載る。この河瀬氏だとしても何故浅井氏に近いのかわからない。ただこの 八幡庄 というのは 兼右が越前帰りに立ち寄った 江州北郡八幡宮 の神領であった。最も傍証に欠けるから結局のところ兼右と関わりのある河瀬氏が どのような流れであるのか 家加の流れを汲むのかもわからない。

名乗りの変化

これらの音信の中で名乗りの変化が確認できる人物が二名いる。

河瀬定政

まず一人は 河瀬橘六 吉六 彼は天文十九年(1550)に久政と共に 左近亮 に改めていることがわかる。彼は弘治三年(1557)三月七日の音信から北郡にあって さらに諱が 定政 であることがわかる。
河瀬氏で の諱を持つ者は天文十一年(1542)三月十一日付の 多賀大社修理所衆議定書 多賀大社叢書文書篇 勘六家政 がある。関連は不詳である。

河瀬筑後守

もう一人は永禄二年(1559)に 筑後守 を受領した 河瀬権右衛門尉 である。彼は天文十八年の音信に見える 源衛門 と同一かもしれない。
多賀大社文書 多賀大社叢書文書篇 の某年正月十二日付磯野員昌書状に見える 土田豹介家より河瀬筑後守買徳候 河瀬筑後守 は権右衛門の事とわかる。年次は永禄六年(1563)以降だろう
永禄以前は北郡にあった彼らも 浅井長政による南侵の過程で多賀の地を回復した といった理解も出来るのだろうか。

単発の河瀬氏

定政 筑後の他に天文十八年の小法師 永禄二年(1559)の河瀬二郎。永禄十二年(1569)の大和守。そして天文十八年から姿を現す小法師の母 小侍従と 永禄二年(1559)に見える河瀬二郎の母が今回見られた河瀬氏となるだろう。

河瀬大和守

このうち 河瀬大和守 は後世 淡海国木間攫 などにその存在が叙述されている。叙述によると大和守は初め甘呂に住み 後に大宇へ移り 大宇大和守 を称したらしい。軍記によれば姉川の戦いでは浅井方に与し 戦後は自らの居城に籠もるも支えきれず小谷城へ退き討死したらしい。実のところは定かではないが 後世語られる人物が兼右の記録によって実在が確認できるのは興味深い。

多賀における河瀬氏

他方 天文二十四年(1555)の 多賀大社梵鐘 では 河瀬嶺夜叉 河瀬□松女 が見られるが 今回見てきた河瀬氏との関連は不明である。

調べていて興味深いのは 多賀大社叢書 論説篇 に収まる 中世の多賀大社 久保田収 よると天文二年に西坊城吉光の子元資 式部大輔 が大神主を相続し 更に弘治二年(1556)に 筑後守菅原元続 がついだとある。前後の文脈からすると つまり弘治三年(1557)以降に二人の 河瀬筑後守 が存在したことになるのだろうか。
すると土地を買徳した 河瀬筑後 この大神主の可能性もあるのではないか。何だかわからなくなってきた。結局 兼右卿記 に河瀬氏が多く登場するものの 彼らがどのような系譜であるのかは不明である。

以上で終いとなる。他にも 狩野氏 狩野勝六 もあるが 彼は立項するほどの事績がなかったのが残念であった。一応多賀大社の梵鐘には 狩野弥一 が見え 永禄十二年(1569)には浅井氏の奉行に 狩野上野守助光 なる人物が登場する。何れにせよ関係は不明として結びとしたい。


  1. 本田洋 多賀新左衛門尉の系譜 淡海文化財論叢第十五輯(2024)

  2. 証如上人日記 石山本願寺日記 下巻から天文七年 天文十年の項。証如の梅戸治部少輔宛文案より