浅井久政と高島(京極六郎の乱)

前回は浅井亮政の台頭とそれに巻き込まれる高島郡について見てきた。
本稿では晩年の亮政と跡を継いだ久政 そして高島を襲った 京極六郎の乱 について解説を試みる。

その後の高島、六角定頼・義賢と浅井亮政

北郡御陣以降の六角定頼は 細川晴元の舅 幕府の重鎮として格が上がる。同時に嫡男義賢も格が上がる。
それは六角氏が畿内の争乱に巻き込まれる事をも意味しており 自ずと定頼は視線を西へ向けざるを得なかった。

対照的に 北郡へ返り咲いた京極高慶の基盤は脆弱で 亮政 高広連合は戦わずして北郡に於ける権益を回復したのである。
興味深いのは九月二十一日には 亮政による徳政が発行された点であり 定頼が帰陣するや亮政は回復を果たしたと言えよう。

朽木文書に見る高島

天文九年(1540)三月十日 ある奉書 遺文四七四 が高島郡へ発行された。
その宛は 越中大蔵太夫殿 山崎殿 横山殿 田中 雑掌 差出人は 能登 忠行 池田 高雄 である。
内容は 高島郡内から朽木山へ柴木を 盗伐 する盗人に関するもので この時期高島や朽木で 違乱族 が相次いでいたらしい。
このような書状が発行される点から 六角氏は高島郡に大きな影響力を及ぼしていた事が理解できる。

義賢の北伊勢出兵

この年の九月 六角義賢は北伊勢へ兵を出した。
村井祐樹氏によると 少し前の天文五年(1536)には 定頼の弟が養子入りした梅戸氏と同じ北伊勢(1)の有力国人長野氏の間に 桑名の知行をめぐり争いが発生していた。
この天文九年(1540)四月二十二日には六角方の桑名松岡城を 幕府奉公衆の朝倉 横瀬氏 それに一揆が加担し攻めた。それに対し城を守る六角方の大木孫太郎勢が これを切り崩した事について 五月三日に義賢から感状が送られている。遺文四七七

義賢の北伊勢出兵は こうした長野氏を中心とした反六角派を討つための出兵であろう。

(1) 期待背→北伊勢/20240907

亮政最期の戦い

状況が一変したのは天文十年(1541)の事である。
それまで一体となって北郡を運営してきた亮政と六郎高広は 突如破綻した。

四月三日 高広は浅見新右衛門尉に対し 浅井備前守働 連々依無是非 如相働候 此度入魂可為祝着候 万一於在者 末代可不忠候 林文書 亮政を糾弾したする書状を発給。浅見に忠節を求めている。(1)

六月七日 高広は 當目口 に於いて首を捕った上坂助八に感状を発行した。副状は高橋兵部少輔清世である。
東浅井郡志によれば 何の根拠にしたか定かではないが 當目の村山次郎右衛門が亮政に従った事に対する戦であるとする。
長命寺の念仏帳には七月十五日に 四十人北郡死人 八月十七日に 永原衆四十人 とあるが 前者はこの戦いに於ける戦死者と比定されている 永原衆四十人は 何が為か定かではない。

このとき高広方へ加担した人数は 天文日記の六月十一日条によると 箕浦兵部少輔 高橋と同一人物の可能性がある 上坂次郎九郎 ここに浅見新右衛門尉と上坂助八を加えてもよかろう。
対して天文日記に見る亮政方は 一族の五郎兵衛秀信のみである。

浅見は菅浦文書九〇号にて天文七年(1538)七月十二日 亮政から菅浦地下人中への指示を任されていた人物であり 亮政の信を得ていたものとも言えよう。
その彼が 高広から亮政を糾弾する書状を受け取っていたのである忠節を求められた。

(1) 浅井備前守の働きは是非もない 末代までも不忠 から変更。今までは 東浅井郡志 に従っていたが この文面からは今一つ亮政に対する糾弾は読み取れない。/20240907

亮政の死

果たして 高広と亮政の戦いが如何相成ったか定かではない。
そうして 北郡の盟主 浅井亮政は翌天文十一年(1542)正月六日に亡くなった。道号法名は 救外宗護 である。

そこから考えると 六郎高広の蹶起は亮政の病臥に乗じた蹶起とも考えられるが これも定かではない。
ともかく浅井亮政は此の世を去った。
彼の跡目は嫡女の婿 田屋新三郎ではなく 庶子の新九郎久政が継ぐ。

さて 戦国遺文佐々木六角氏編補遺 近江地方史研究 には興味深い史料が見える。
それは某年正月二十一日に定頼が赤尾駿河守へ宛てた書状で 跡目之儀 存分次第仁可被申付旨 得其心候 聊以不可有其意候 猶進藤山城守可申候 とあるものだ。宛名の赤尾氏は浅井の重臣とも言うべき国人で そうした人間に対し定頼が跡目を認めているのは興味深い。補遺五五
進藤は天文十年まで(1540)には山城守となっているから それ以降だろう。同年以降の正月に定頼が跡目を認める事態というのは まさしく浅井亮政の跡目に関わるものではないか。
だが 東浅井郡志 など史書では 北郡御陣以降亮政が定頼に従ったとは明記されては居ない。しかし近年宮島敬一氏は跡を継いだ久政の花押が 定頼の花押と類似していることを指摘。その家督相続に定頼が関わっていることは想像しやすい。

つまり亮政は北郡御陣の終結に際し 六角定頼に降伏し臣従 北郡の統治を認められていた。もしくはその晩年に定頼に臣従する立場へと変化した。その何れかにしろ こうした親六角路線に高広は不満を抱き蹶起に至ったのでは無いか。

このようにして久政は浅井の家督を継いだ。定頼が跡目を認めるのは追認かもしれないが 所謂 生母尼子氏説 なら定頼と同じ佐々木の血筋となるから これも関わっているのかもしれない。また前年八月に命を落とした 永原衆 亮政の援軍として派兵された可能性もあるだろうか。
ここではからは久政期の近江を眺めると同時に 同時期の高島の戦史を見ていこう。

久政の家督相続について史料を交えて加筆/20240907

京極六郎の乱

然るに跡を継いだ久政に重くのしかかったのは京極高広の存在である。
高広は亮政が亡くなるや その勢力を拡大。天文十一年(1542)とされる正月十一日付書状では 下坂四郎三郎に知行を宛行 九月十五日には家臣の清頼 山田彦左衛門 秀信 大津三郎左衛門 を通じ下坂左馬助に知行を宛がう。東浅井郡志は 左馬助は四郎三郎の改名 後としている。

一方で六日後の二十一日 久政も村山侍従に知行を宛がった。その伝達は同名五郎兵衛 秀信 に依るという。
しかし侍従も高広に靡いた事が 翌天文十一年(1543)九月十六日付の菅浦惣中宛書状に見える。これは高広が軍資金を菅浦に催促した書状だ。

そのようにして規模を拡大した高広は 遂に高慶側に居た筈の上坂治部を取り込んだ と東浅井郡志は示す。その為に掲示した天文十三年(1544)正月二十四日付観音寺惣中宛書状を読んでも その論拠は定かではないが この時代の 上坂治部丞 の諱が 定信 である事は理解できる。

対する久政は 五月朔日に垣見助左衛門尉に知行を宛がっている。

北郡牢人

しかし久政は これが限度であった。
東浅井郡志では島記録所収の 六月二十七日付今井権六殿宛進藤山城守貞治書状 を例に 久政が六角定頼を頼った旨を示す。

なお同書状は遺文四〇一号に当たるが 遺文では天文七年(1538)と比定される。しかし同年時点で進藤は 新介 である一方 四〇一号書状は 山城守 を名乗る。
遺文五三一号によると 彼は天文十一年(1543)五月十日には 山城守 と署名しているため 年次比定は東浅井郡志に軍配が上がろうか。

とかく貞治は 北郡牢人出張雑説之儀 に関して 佐和山で話し合いを行う事 人質を取る事などを今井権六に通知した。権六とは尺夜叉の成長した姿であり また佐和山の主は百々氏出ある事を便宜的に記す。
況や 北郡牢人 とは京極高広と 彼に従う者たちを指す。

北郡牢人 の勢力は高島郡の河上庄 今津と海津の境 河上関 にまで及んでいた事が 某年七月廿六日付 越中刑部太輔殿宛種村三河守貞和書状 遺文一三〇七 朽木文書 から見て取れる。
同書状には 浅井新九郎方可申付之由 浅井方へ被仰付候 浅井方於申付許容仁躰者 と記されており 久政が定頼の配下にあったことを窺い知る事が出来ようか。

高広の戦い

八月二十四日に 國友伯耆が 京極方牢人 天文日記 により没落した。
東浅井郡志は これを高広に攻め寄せられたものとする。

九月には高広の軍勢は坂田郡長澤 米原市 の砦を攻めた。
九月五日に高広は下坂左馬助の戦功を賞している。下坂文書

十月には加田口 長浜市 で戦いが起きた。
十月二日 久政は垣見助左衛門尉の戦功を賞する。垣見文書

しかし八日後の十月十日には 高広の側近清良 秀信が下坂左馬助に対し 加田八郎兵衛跡 を宛がっている為 東浅井郡志は高広方の勝利と判断している。

久政の反抗としての海津攻め

翌天文十四年(1545)の動向は定かではない。
次に北郡に動向が現れるのは天文十五年(1546)の事である。

菅浦文書に依れば七月一日 浅井大和守が かい津へ陣立 二日に新九郎と浅見紀伊守が 海津出張入 とある。
そして三日に かい津らつきやうし 久政が海津を攻め落とした旨が記される。
東浅井郡志は長命寺の念佛帳を示し 海津で三百六十人が亡くなったと記す。

果たして浅井久政は誰を攻めたのか。ここで先に示した 北郡牢人 に纏わる種村三河守貞和の書状を見ると 二年前時点で高島郡に 北郡牢人 がたむろしていた。
考えるまでもなく 久政が攻めたのは海津を占拠した高広派であろう。
亮政の頃には 越中 饗庭の軍勢により田屋氏が攻められた。そうなると田屋氏が怪しそうではあるが 東浅井郡志によれば同年の二月には田屋明政が小谷城に居たとする。
ともあれ田屋氏の中で 高広に通じた者も居よう。
また当時の海津は六角の勢力下にあった事から 久政は定頼の命を受け海津出兵を行った可能性も考えられるが 特に記録は残されていない。

栄典授与

西島太郎氏によれば この海津合戦の後に久政は幕府から栄典を授与されたらしい。
詳しくは 室町幕府直臣と格式 補論一 室町幕府の浅井久政の栄典授与 を参照して欲しいが かいつまむと太刀 青銅万疋という多額の援助によって久政は 白傘袋 毛氈鞍覆 御免 が許されたという。
またその際に久政は将軍義晴と対面したらしいから 彼も上洛を果たしたのだろう。

この一件から北郡に於ける浅井の財力と 推挙したであろう六角定頼の幕府に於ける地位を考えることが出来る。更に副次的に浅井大和守が入道し 大和入道 となっていたこともわかるのである。

20240907 立項

高広・久政の和議

しかし浅井久政は ここまでが限界であった。
頼みの綱の六角定頼は 将軍との関わり及び三好長慶との対峙に忙しく 北郡にかまけている暇は無かったのである。
彼は天文十九年(1550)七月までに高広に降ったらしい。
またその名乗りも 新九郎 から 左兵衛尉 へと改められた。

浅井氏が六角定頼に無断かつ勝手な行動を起こすのは 亮政が上坂信光と結び京極高清を復帰させた 大永五年(1525)以来二十五年ぶり二度目の事と言えようか。

中郡出兵

厳助往年記 の十一月条は記す。
この月に三好筑前守の兵が志賀に攻め寄せた。
そして 江州牢人 も出張し 北郡京極六郎は美濃より 多賀 四十九 枝村に火を掛けて攻めた。
しかし高広は 即時敗北静謐也 敗れた模様である。

東浅井郡志によると 六月頃に揖斐五郎土岐光親の為に美濃へ 出張 していたらしい。多くは触れてこなかったが 亮政も土岐氏の内乱に手を介入していた事がある
恐らく そこから直接山を越え中郡に侵入したのだろう。
つまり三好長慶は 六角定頼を揺さぶるべく高広に手を伸ばしていたと考える事が出来る。

幸か不幸か 折からの臨戦態勢によるのだろうか 六角派が多くを占める中郡勢は高広と北郡勢の蛮行を 速やかに鎮めたのである。
そこには 晩年の多賀貞隆の姿もあったのだろうか。

第二次中郡出兵と南侵計画

年は明け天文二十年(1551)二月 三好勢は再び近江を攻めた。厳助往年記七日条 言継卿記二十二日~二十七日条
言継卿記の二十二日条には 江州中郡少々北郡一昨日敵ニ成云々 とある。またしても 北郡と三好が結んだ軍事行動と言えよう。
この蜂起により 義輝 晴元 四郎義賢は湖東から坂本へ避難した。

そして天文日記に依れば 三月十三日に進藤山城守貞治が亡くなったようだ。

この年 三好に苦慮する六角親子を目の当たりにした高広は 遂に南北の決戦を目論む。
東浅井郡志は天文日記六月八日条を掲示し 左兵衛尉を使いに本願寺へ支援を求めたとする。天文日記の文中には 南北之儀 の文字が見える。

更に高広は五月 六角方に与し 佐和山城に人質を求められていた今井氏を誘った。
今井氏は坂田と犬上の境とも言うべき菖蒲嶽を守備していたが 鎌刃の堀氏が降っていた事と 父祖旧領である箕浦への復帰という餌に飛びついたのである。十月十七日付の 今権宛高広書状 に依れば それまでには降ったらしい。
こうして高広は その勢力を佐和山の喉元まで伸ばしたのである。
戦国期機内周辺における領主権力の動向とその性格

高広が勢力を強める最中の天文二十一年(1552)正月二日 守護六角定頼はこの世を去った。

高島に関する定頼期年次不詳書状を考える

遺文の定頼期年次不詳書状の中には 高島郡に纏わる史料も見られる。
此処で紹介する一〇七五号書状は 某年五月六日に 北衆 が多勢で以て取懸かり 音羽表で合戦となり 宛名の 林三郎左衛門 の勢力が敵に槍を入れ追い崩し 頸三つを獲た事に関する定頼の感状である。増野春氏所蔵文書

昨日六日北衆以多勢取懸処 於音羽表及合戦 入鑓敵追崩 頸三到来 尤以高名無比類候 毎々働神妙候 各太刀 矢疵交名到来候 軍忠之旨可被申聞候 猶神崎左京助可申候 謹言
    五月七日       定頼 花押
   林三郎左衛門尉殿

場所と人物の検討

まず 音羽表 であるが 近江で 音羽 と呼ばれる場所は 日野と高島にある。
定頼期に 北衆 が日野まで襲来した記録は見られないため 自ずと高島郡の 音羽 となるだろう。
然るに現在の高島市で大溝の背後を守る山から 麓周辺の地域と見る。
すると 林三郎左衛門尉 なる人物は 後年元亀騒乱で名前が残る 打下の林与次左衛門 の父祖であろう。

年次の検討

まず高島郡を攻める勢力を考えるに 真っ先に高広が如き反六角派が中心と思うのは自然な事だろう。
気になる点として 北衆 という表現に注目したい。

先に示したとおり天文十三年(1543)六月十二日に進藤山城守貞治は 六郎側を 北郡牢人出張雑説之儀 と表現した。一方で 北衆之ハ何も小谷へ被遣候 ともある。これは即ち 浅井側を 北衆 と表現した事にもなるであろうか。

浅井方が六角の敵となり 定頼が存命の頃合いであれば 享禄から天文七年 また天文十九年(1550)から翌二十年までの出来事となるだろうか。
結局 古記録の類にも当該と思しき戦は記録されて居らず 今回この書状を明確に特定するまでには至らなかった。

六角義賢と京極高広・浅井久政

定頼死すの知らせを聞いたのだろうか 高広は十八日までに浅井久政を通し 浅井久政は誓願寺を通じて本願寺に対し 中郡一揆事 中郡の門徒に挙兵を求めたのである。

しかし天文日記の翌十八日条には 中郡一揆中々不成候 とある。本願寺は まだ北郡には靡かなかった。
その大きな要因が 六角義賢と三好長慶の和睦であろう。
両者の和睦により 京兆家は氏綱が継ぎ 足利義輝は無事に帰京を果たす。

四月の軍事行動

そのような中央政界の情勢をものともしない北郡衆は 四月に軍事行動を起こす。
東浅井郡志は 卯月廿日付下坂左馬助宛左兵衛尉久政書状 を引用し 何方で合戦が起きたとして 佐和山での戦いでは無いかと示しているが これは定かではない。

義賢出陣

東浅井郡志は 七月廿一日付下坂左馬助宛奥津周防守秀勝 己牧院正瑞連署書状 を引用し 義賢の出陣を七月二十三日の事と示す。
蒲生郡志は 某年八月廿二日付含空院宛六角義賢書状 遺文一一二七 を引用し 義賢は出陣に際し 巻数 を贈られた事への返礼を認めた。宛の 含空院 は永源寺の一院である。

遺文には この当時に関連すると思しき書状が幾つか見える。

日付内容
0710長々在陣について尼子宮内少輔殿義賢一一二四
0802久徳口守備について尼子宮内少輔殿義賢一一二六
0804太尾後番佐治太郎左衛門尉殿定輔 高雄七二一
0812太尾山入城について佐治太郎左衛門尉殿義賢七二二
0820早船之為舟子長命寺浜下人中忠行 氏豊七二三

その後 この戦がどのように推移したのか 確定的な史料は少ない。
例によって東浅井郡志と蒲生郡志では推移が異なる。

ここでは 両郡志や宮島敬一氏 村井祐樹氏の論を参考にしながら なるべく簡潔に纏めていきたい。

六郎、佐和山攻略か

東浅井郡志では 天文日記内の同年九月二十五日書状案を引用し 本願寺が六郎に対し 御出張之儀 に関し 特属御本意候目立度候 と祝儀が送られたことから 高広が勝利を収めたとする。蒲生郡志は引用こそ無いものの 九月二十三日に本願寺証如が京極六郎高延に対し 出陣を祝し と記すのみである。

とかく古今東西 この九月出兵で北郡牢人が佐和山を攻略したとするのが通説である。

また東浅井郡志では 島記録から 十月六日付島又四郎殿宛久政書状 十一月十四日付の若宮藤三宛に 多良東跡 を宛がう久政書状 若宮文書 を提示している。

太尾の攻防は越年か

更に久政は十月六日 今井左近允に対し 太尾城が落ちた暁には 多良跡 多賀内之助跡 など各所の知行を宛がう旨を約した。東浅井郡志 嶋記録

さて太尾の佐治太郎左衛門は そのまま城番を仰せつかり 天文二十二年(1553)三月四日に義賢より感状 遺文七三九 を受け取った。
その文面から佐治はただの在番に終わる事無く 城の普請にも着手していた事が読み取られる。

この解釈も両郡志異なる。すなわち越年で交戦状態にあったとする東浅井郡志と 北郡本意 の後も在城していたとする蒲生郡志であるが これについては北郡錯乱の項で見ていきたい。

膠着状態か

そうした中で浅井久政は天文二十一年(1552)十二月十七日に若宮藤三郎に対し 坂本二宮 への 運上銭 代官を申し付けている。浅井氏三代文書集 若宮文書
この書状について論じたものは存在しないが 天文二十一年(1552)と比定される書状である。

また翌天文二十二年(1553)六月十一日には 竹生島輪蔵建立について富田大工の太郎兵衛へ書状を出し 阿部文書 六月から七月にかけては 相撲庭分水相論 に家臣を使い差配を行っている。宮川文書 上坂文書

こうした書状から この戦は南北雌雄を決する戦とは言えど 天文二十一年(1552)の末から翌年の夏頃にかけて膠着状態にあったと理解できよう。

北郡錯乱

天文日記 とは 石山本願寺日記 に収まる証如上人時代の記録である。
ここまで見てきたように 近江は真宗の寺院があるため 本願寺側に記録が残るのは当然だろう。

その日記の天文二十二年(1553)十月二十九日条に気になる記述が見られる。

来月二日頭料事 福勝寺門徒衆依北郡錯乱無正躰之間 中郡ニ有之福勝寺衆 為志百疋只今上之也。

つまり 北郡は錯乱で正体が無いため 福勝寺の門徒衆は来月二日の頭料を収める事が出来ないので 中郡に住まう志ある福勝寺衆が百疋納めた といった内容である。

十月に 北郡錯乱 が発生した。
この時期であれば 十月二十四日に浅井久政が小江神社など三つの寺社に禁制を発行しているが 何らかの関係が考えられそうだ。
十一月条にも 北郡錯乱 の記述を見る事が出来る。

二十二日

今日齋者 依北郡錯乱令牢人為躰候間 不勤之

二十三日

今日齋頭事浄願寺 順慶寺国錯乱之間 不可調之由 申之也

二十六日

廿七日非時之頭 湯次金光寺申事ニハ 国錯乱之間 不可調之由有案内

果たして何が起きたのか 詳細は不明である。
しかし前年以来膠着状態にあった戦線が 大きく動いた事となろうか。

今堀日吉神社文書に見る地頭山落城

東浅井郡志は 北郡錯乱 地頭山城落城 と説く。
その論拠は久政が十月二十四日発行した禁制 更に 今堀日吉神社文書 蒲生郡志五巻一六五五号 から 天文廿二年かや 地頭山責落 である。

今堀日吉神社文書 で当該の文書を調べると第五六二号の 保内商人中惣分申上事書案 であった。同書は遺文七八二号としても収録されている これは永禄元年(1558)五月二十三日に認められた書の案文のようで 様々記されている。

なお遺文では 天文廿二年候や 地頭山被責落候年の御事候 と本刻されているが この条文によって 地頭山 が落城した事がわかる。

浅井久政の六角復帰に関する経緯

東浅井郡志は 十一月二十六日付浅井左兵衛尉殿宛平井定武書状 遺文七四七 を示し 久政の一族二人が 逗留 している事から 浅井久政はそれまでに六角家へ降ったと示している。

さて蒲生郡志は天文二十一年(1552)には戦いが終結していたとする。その論拠として 某寺日記 の十二月二十二日条を引用し 左京太夫へ就北郡本意事 平井へ就北郡本意事 進藤へ就同儀 祝いの品を贈られた事を暗に示す。
引用するに 某寺日記 とするが この時代の寺日記では 天文日記 であろう。
同書を当たるに どうやら此は翌天文二十二年(1553)十二月二十二日条の内容であった。

この条文に対応する書状が遺文七三七号 平井加賀守宛 書札案では加賀入道 遺文七三八号 進藤新次郎宛 十二月二十二日付証如書状 である。何れも 今度北郡之儀 属御本意候 七三七 就今度北郡属御本意候之儀 七三八 との書き出しで始まっており その年次比定は天文二十一年(1552)の事である。しかし日記同年同日条には 何か送ったとの記述は見られない。
つまり天文二十二年(1553)の天文日記の記述に対応する書札案が 天文二十一年(1552)と比定される事には疑問を覚える。長らく放置された誤植であろうか。
なお 北郡本意 に関する 左京大夫宛 の書状は 書札案にも遺文にも見当たらない。

村井祐樹氏は 六角定頼 のなかで 天文二十二年(1553)夏に発生した義輝 晴元と三好長慶の騒乱に 六角氏が動いた形跡が見られない点から北郡との対決を指摘し 天文日記の記述を元に十二月には六角氏が勝利を収めた との見解を示している。
宮島敬一氏の浅井氏三代は東浅井郡志を底本としている為 同年説である

終わりに

非常に長くなった。
御覧のように浅井久政は 家督相続から暫く六角派として活動してきたが 天文十九年(1550)には拡大する京極六郎の錯乱に取り込まれてしまった。
それでも二年の錯乱を経て 彼は六角派への復帰を果たした。その一方で北郡牢人の首魁にして 十年以上も乱の中心にあった京極六郎 高広 は消息を絶った。
天文二十二年(1553)の北郡錯乱により 北郡牢人たちの熱は冷めてしまったようだ。

宮島敬一氏は 弘治三年(1557)の義賢北伊勢出兵に久政も関わったとしている。
それは南部文書七号の 卯月十二日付飯福寺宛門池吉信書状に依るもので 勢州御陣に際しての陣僧割当を久政から命じられた旨を伝えている。
六角に属する中で 久政が六角の軍役に従っていた事を示す貴重な資料と言えようか。

しかし六郎に火をつけられた北郡衆は 久政に反して六角と戦う道を選んだのである。
久政は 遂に隠居へと追い込まれ 北郡衆の頭領には嫡男で武闘派の賢政 長政 が祭り上げられた。
その時代に関しては定かでは無いものの どうやら六角側は弘治四年(1558)つまり永禄元年(1558)から永禄三年(1560)にかけて湖上の 米止令 を発布していた事が村井祐樹氏によって指摘されている事から 勢州御陣の後には北郡衆は蹶起していたと考えられよう。

その後の事は 誰もが知るところであるから 説明は省く。
一つだけ書くと 北郡衆にとって幸いであったのは 義賢の後継者が 六角義弼 であったことだろうか。

そのようにして浅井長政の時代になると 高島郡は遂に北郡衆の本格的な侵攻を受けた。
そして六角の衰退と共に 栄華を誇った 西佐々木七人 の存在感も薄れ 主をも凌ぐ力を得た男も現れたのである。