浅井亮政の台頭と高島

五月からブログの研究ノートにて浅井亮政 久政親子が如何に高島郡と関わってきたのか 東浅井郡志をベースに考察を試みた。本稿は研究ノートの亮政編をまとめたものである。

勝者高清

前史 京極氏は高清派と材宗派が争うところであった。
その争乱も両者の和睦で終結し 永正四年(1507)二月に 京極治部少輔材宗 その子息 重臣多賀豊後子ら十四名は 死を命じられた。
ここに京極中務少輔高清は内訌を制したのである。
材宗派であった国人も 瞬く間に高清の下についた。例えば浅井氏や磯野氏である。

高清の時代は 同年六月に発生した 永正の錯乱 に端を発する争いに巻き込まれた時代であった。
例えば永正七年(1510)には 足利義尹 義稙 から配下とも言うべき近江国人に宛てた 義澄追討の御内書 が発行された。
当時義尹方には細川高國や大内義興といった有力者が与し 対する足利義澄は六角方にあった。
ただ これらの騒乱では西国勢の武勇が目立つところで 高清たち近江勢には然したる武勇は見られない。

伊庭氏の乱

序でに記すと義澄は永正八年(1511)夏に亡くなっているが その際に彼を支持してきた六角高頼は 義澄を保護した九里氏を攻めて義尹 義稙 派へ鞍替えしている。
時に高頼は領する南郡に 守護代伊庭氏という内憂を抱えており九里氏は伊庭の被官であった。

先に京極家の争いでは 材宗は高頼の婿であったらしいから(1)高清にとって六角は敵に等しい。すなわち彼が伊庭に与するのは自然なことで 永正十一年(1514)二月に伊庭貞説父子が没落すると どうやら彼らを支援したらしい。
永正十三年(1516)の八月には伊庭は北郡より攻め寄せるも 見事返り討ちに遭ったようだ。何れも長享年後畿内兵乱記が出典のようである
東浅井郡志には関連する書状として 嶋郷での退き口にて活躍した赤佐彦兵衛尉へ宛てた九月十八日付宛感状が掲示される。ここで特筆すべきは差出人が 承亀 というところで 彼は高頼の次男にして当主氏綱の弟に当たる僧である。
これは当時既に氏綱が病床に在ったことを示し 彼は永正十五年(1518)七月九日にこの世を去った。
そして後継者である弟の承亀は還俗し 六角定頼 を名乗った。

(1) あるらしいから→ あったらしいから に変更。詳しいとことは良くわからない/20240905

細川高國

永正十七年(1520)四月六日 争乱の渦中にあった細川高國は形勢逆転を狙うべく 多賀長童子を通し高清をはじめとする近江衆の増援を乞うた。
その二ヶ月前の二月二十二日にも 佐々木尼子殿 へも高清の介入を求める書状を送っている。

結果として高國は五月に兵を率い入京 見事に敵対する勢力 三好ら に逆転勝利を遂げるが 高清方が何処まで影響を及ぼしたのかは定かではない。
大日本史料によるところ 永正十七年記 厳助往年記 の五月三日条に 両佐々木合力 と記されており 高清も遂に兵を出したと見て取れる。その一方東浅井郡志では 拾芥記 の記述から六角武将の存在に着目し 京極兵は 少許 と断じている。
こればかりは わからないことである。

上坂氏の代替わり

こうした高清を支えた人物こそ上坂治部入道 大釣齋政道である。
しかし彼は大永三年(1523)までに亡くなったらしい。

長享年後畿内兵乱記には 大永三年(1523)に北郡の上坂治部信光が没落し 閏三月には京極宗意が出奔した旨が記されている。
つまり後継者は上坂信光といったらしいが 彼は呆気なく没落してしまった。
彼の没落に伴い 宗意つまり京極高清も同時に没落の憂き目と相成ったのである。
ここまでが 東浅井郡志一巻の内容である。

蜂起する北郡勢力と浅井亮政

そしてここから東浅井郡志二巻の内容となる。
江北記 が曰く大永三年(1523)三月九日に大吉寺梅本坊で行われた 公事 により 根本被官の浅井 三田村 今井や牢人衆が浅見と申し合わせ 小野江 今の湖北町尾上か の城に籠もった。
この 梅本坊公事 こそ 天正元年(1573)に至るまで長きにわたる 北郡一揆 その着火点と言っても過言ではない。

跡目争い

京極高清は応仁の乱が起きる数年前 つまり寛正元年(1460)に生を受けた。当時既に六十四の高齢で或る。
彼は自らの後継者に その長男六郎高延 高広 ではなく 族弟の大原五郎高慶を定めた。

親孝日記 大永元年(1521)八月二十七日条には 京極小原殿 が登場する。これは高慶の事であろう。
ところで この条文は足利義晴政権の発足に伴うものであるが 義晴は義澄の遺児である。紆余曲折を経た後に 細川高國によって擁立されたのである。ちなみに足利義稙 義尹 この少し前に出奔していた。

北郡衆が突如蜂起したのは 言うまでも無く高清の長男六郎高延に継がせるためで 同時に父以来京極氏を傅支えてきた上坂信光に対する反発にあったと 古今東西の先生は説く。

上平寺炎上

浅井ら北郡衆が籠もった小野江 尾上 周辺は 有力者の一人浅見貞則が支配する地域である。
北郡衆は上坂信光に対抗するべく 浅見貞則を盟主に行動を始めた。
三月十二日 北郡衆は上坂に与する安養寺を攻めたて 一気に今浜まで勢力を広げた。

斯様に北郡衆が蜂起に成功した要因には 六角定頼とも誼を通じていたところが大きいらしい。

上坂は不利を悟り 中務入道宗意 高清 が居城 上平寺へ逃げた。
しかし北郡の勢いは止まるところ知らず 遂に上平寺を攻める。島記録に依れば このとき島氏が防戦に努めた旨が記されているが これは後年の記述であるから定かではない。しかし記述を信ずれば 今井はこの時点で北郡衆から離反していた可能性がある。

そのようにして閏三月 遂に高清 五郎高慶は城を捨て尾張へ逃亡した。上坂信光の行方は知れず 東浅井郡志では共に尾張へ逃れたと推測している。
勝った北郡衆は 上平寺に火を放った。ここに二十年来の 高清の栄華は灰燼と化したのである。

六郎高延は苅安尾に留まった。勝者となった彼は 北郡衆により無残にも焼かれた上平寺をどのような気持ちで眺めたことだろう。

浅見貞則の時代

京極氏当主の座を勝ち取った高延は 浅見貞則に庇護され尾上城に入城した。
彼の書状では 翌大永四年(1524)三月二十六日 勝楽寺の自仙侍者に宛てた禁制が初見と相成る。つまり彼の覇は 中郡の犬上甲良にまで及んでいた事となる。

浅見対馬守貞則も精力的に活動し 大永三年(1523)十一月晦日には菅浦惣庄中に 牢人衆 上坂派 の所領を没収することを発令し 翌年十月四日には竹生島年行事御坊中へ 尾上城修築について寺社領にも夫役を課すと命じている。
更に多賀長童子は後に 貞隆 を名乗っているが これは貞則の影響を受けたと考えられる。
まさに貞則の権力は絶頂にあった。

また六角定頼も 大永三年(1523)十二月二十日奉行の某高祐と池田高雄の両人を通じ北郡は南北郷や相撲保にある永安寺領について 磯野安養寺両人に警護させていることを伝えている。
また十月十三日の進藤貞治と池田高雄の飯高永源寺住持宛奉行奉書には伊香高月が 翌年八月二十六日の永源寺納所禅師宛両奉行奉書には 上坂と榎木 加納といった坂田郡の地名が見える。
このように六角定頼の覇は江北にまで届き 六角の権力があってこその浅見時代であったことを認識する必要がある。

亮政蹶起による高清・上坂治部の復帰

その頃 北郡衆の蜂起で活躍した浅井亮政は 着々と小谷城の増築に勤しんでいた。

そして大永五年(1525)六月二十六日と比定される 長尾殿宛越前守昌綱書状 上杉古文書 によれば 浅井と上坂治部以下牢人が出張し 京極中書も尾張より打越した との旨が記されている。

つまり 突如浅井亮政は追い出したはずの上坂信光と結び 京極高清をも復帰させたのである。
そう亮政が小谷城の増築に勤しんでいたのは この日の為にあった。
これはまさに 高延や浅見貞則に対する蹶起と言えよう。

以後 浅見貞則は歴史から姿を消している。一説に依れば 北郡を追われ高島郡へ奔ったようだ。

小谷城の戦い

果たして高延と浅見貞則が援軍を乞うたのだろうか 先の書状には去月 つまり五月二十四日には六角殿 定頼 が出陣し 北郡の磯山に布陣したとある。

定頼は草野 当目を攻め小谷城に迫る。
当目の言い伝えに依れば 村人は山に上がり難を逃れたそうだ。

七月十八日付朽木殿宛永田備中守高弘書状に依れば 定頼は十六日に小谷城麓の尊勝寺に在陣。
また同じ十六日には 越前の朝倉勢が小谷を責めたと 宗滴記 には記される。

定頼の苦戦

しかし 二水記 の七月二十九日尉に 城堅固也 と記されるように 定頼は小谷城を攻め落とすことは出来なかった。
何故公家日記に記されるか それは 国中一揆蜂起 の為に細川高國に援軍を求めた為である。

何と定頼の留守を狙い 南郡で一揆が勃発した。
八月五日の杉山殿感状に依れば 前日の四日に 黒橋口合戦 が勃発したことがわかる。
それに対し高國が援軍を集め 出陣させたのは月末の二十九日の事であった。
この頃には亮政方は盛り返し 八月二十日には当目の村山次郎右衛門は宗意 高清 より感状を賜っているそうだ。

南郡制圧

現状を打破したきっかけは 自らの本拠地である南郡で勃発した一揆の鎮圧にあった。
九月三日付の杉山藤三郎宛定頼感状によれば 前日二日に再び黒橋口で合戦があり 杉山勢は九里宗忍を討ち取ったとある。

この感状により一揆を起こしたのは 先年高頼に敗れた伊庭の一党であることがわかる。
また 寺院雑要抄 の九月四日条に依れば 九里は親子共々生害とあるので 黒橋口では宗忍親子が討たれたと考えられよう。

さて定頼の小谷城攻めと時を同じく勃発していることを踏まえれば 永正十一年(1514)に敗れた伊庭党は 北郡へ落ちぶれたとも考えられようか。

北郡降参

同じ 寺院雑要抄 九月四日条によれば 浅井は 朝倉太郎左衛門 宗滴 手え暖而取之 また上坂は降参したようだ。
朝倉と 手え暖而取之 とは 和睦を意味するのだろうか。

二水記の九月十九日条には 南北が和睦と相成ったが 京極中書二家は没落したと記す。
東浅井郡志では亮政も没落 出奔したと判断している。
かくして北郡衆の蜂起は 結果的に六角定頼の侵攻を招き 遂には定頼が南北を一統する事に繋がったのである。

北郡を得た定頼は 早速竹生島に政令を出している。

高國と義晴の近江避難

二年後の大永七年(1527)二月 将軍足利義晴と管領細川高國は 近江に避難した。

これは前年夏に香西元盛の自害事件を端を発する出来事で かつて高國に敗れ失意の内に病死した細川澄元の遺児六郎擁する阿波の三好元長勢は 十月に打倒高國を掲げ挙兵した。
その勢いは凄まじく 香西元盛の兄弟と合流すると二月十二日に桂川原で高國勢を破ったのである。
敗れた高國は 将軍から奉公衆に至るまで 多くの幕府機構を抱えて近江に避難した。
対する晴元方は足利義維を擁立し 堺公方 と称した。

南北和睦の企図、失敗

そのようにして管領と将軍は 七月から十月頃に六角と京極の 和輿 を画策した。

彼らは高清をはじめ 多賀豊後守 土岐美濃守を介し和睦に動いた。
しかし南北の和睦は上手くいかなかった と東浅井郡志にはある。

定頼からすると 北郡は既に自らの支配下にあった。その為 和睦を果たす意義を感じられなかったのではないか。

さて一連の書状群から高清が近江に帰国していたことが理解でき また東浅井郡志には亮政の帰国も示唆されている。
こうした畿内の動乱に紛れ 帰国を果たしたのだろうか。

上坂信光と高慶の蹶起と内保河原の戦い

享禄元年(1528)八月 上坂信光は京極高慶を擁立し挙兵した。
それは八年前と同じ後継者同士の盟であり 元の通り高慶を後継に据えるべく信光は立ち上がったのである。
時に高慶の動向であるが 彼は大永六年(1526)までに帰国し 大原五郎 として梓河内を拠点としていた。湯浅治久 中世後期の地域と在地領主
八月十三日 高延勢と高慶勢は内保河原で激突した。
その結果 高延方は多賀四郎右衛門と浅見新右衛門を失いながら 高慶勢を追い払った。

かくして 八年来の騒乱は高延の勝利によって終わりを告げた。
これにより北郡勢は京極宗意と高延親子を中心に そして浅井亮政を盟主に歩み出す。
しかし 北郡に安寧が訪れるまでは もう暫く時間が掛かる事は 誰も知るよしも無かった。

他方 六角定頼は畿内に争乱 手元に将軍 北に浅井亮政と懸案を抱えながらも歩む。

高島を攻める経緯

内保河原の戦いは 第二次京極騒乱 とも言うべき近江北郡の騒乱で 勝利した高延を支えた有力者こそ浅井亮政である。

同時期の畿内は細川晴元と管領高國の騒乱が続く。
前年には晴元方が足利義維を擁立し 一気に晴元が形勢を逆転。
この中で江南の雄六角定頼は高國の与党であることから 同年九月 坂本に避難させていた足利義晴を 更に高島の朽木谷へ避難させた。

享禄三年(1530)八月末になると 高國は播磨赤松氏の助力により盛り返し 遂には大山崎を手中に収める。

高國と晴元 双方入り乱れる中 晴元が目をつけた存在こそ北郡で力を伸ばす浅井亮政の存在である。

長々と述べてきたが 要因としては次のようなものとなる。

定頼との敵対

まず亮政が擁立した京極高清であるが 彼は六角氏の縁戚である同族京極材宗と敵対していた。
そうした中で義晴と高國は江州南北の和睦が必要と考えたようで 時に大永七年(1527)には高國が 高清 亮政と定頼の和睦を仲介していたようだが すぐに決裂したらしい。
冒頭で示した内保河原合戦では 高慶と上坂氏の背後に六角氏が存在した可能性を東浅井郡志は述べている。

以上の理由から 自ずと浅井亮政は六角定頼と敵対する立場と相成り 細川晴元に組する道を選んだのは当然の事である。

北郡衆、不慮打入

繰り返しになるが亮政の高島侵攻は 細川晴元の要請によるもので 晴元の意向に沿って足利義晴を攻めた形と相成る。
さて東浅井郡志は二水記を次のように引用した。

二月朔日 朽木武家今夜葛川へ御動座候。其子細者 江州北郡衆 不慮打入于高島之間 被移御動座云々

つまり享禄四年(1531)二月朔日 足利義晴は北郡衆が打ち入ったために 朽木から南にある葛川へ逃れた。若狭記は堅田へ逃れた とも記している。
北郡衆とは浅井亮政等を指すのであろうが 彼らが高島のどの辺りまで攻め込んだのか その詳細は不明である。
高國陣営を脅かす事が目的であるのなら 義晴を追い出した時点で成功したと見ても良いだろう。

ただ この作戦で高國陣営が動じることは無かった。
東浅井郡志によれば 亮政は二月二十一日以前に渡辺右衛門尉 小之江右馬尉 安養寺三郎右衛門尉を晴元方へ援軍として派遣したものの 活躍には至らず帰国したらしい。小江神社文書三月七日文書

東浅井郡志は北郡衆が派遣された戦いを 伊丹城の攻防戦と比定する。大日本史料総合データベースによれば 伊丹城は二月二十八日に高國方に攻め寄せられ落城している。

箕浦合戦

高國方の勢いは凄まじく 三月七日には木沢長政の撤退に乗じて遂に京を手中に収めた。
その流れになるのだろうか。
四月六日 六角定頼は箕浦で浅井を撃ち破った。

東浅井郡志は様々な観点より検証を行うが ここでは同書が引用する 長享年後畿内兵乱記 を引用したい。

四月六日。箕浦合戦 浅井敗北 定頼得勝

だが亮政は敗れながらも 勢力を維持し続けたのである。

大物崩れの余波

逆に高國方の快進撃も長くは続かなかった。以降は阿波守護細川持隆と三好元長が有利に進める。しかし五月末までは膠着状態が続いていた。

事態を動したのは 高國方の筈であった播磨守護赤松政祐の存在だ。
六月二日に摂津へ着陣すると 四日に突如高國方を襲った。
同時に晴元方も攻め寄せ 挟撃された高國勢は壊滅。
高國の主将浦上村宗は討死 高國は翌日捕縛され六月八日に自害し果てた。
これを 大物崩れ と呼ぶ。

先に亮政が勢力を維持し続けたと述べたが その要因は定頼が与した細川高國の死による部分も大きかろう。亮政はかねて反高國の晴元に与していたため 自ずと立場を逆転する事が出来た。
高國が没してから六角氏の動きは 翌年八月の山科本願寺攻めまで見当たらないと村井祐樹氏は示す。
そうした空白を 亮政は勢力の拡大に利用したと考えても良かろう。

山科本願寺焼亡

高國が滅んだ後の畿内情勢は更に複雑なものとなる。
享禄五年(1532)六月には高國攻めで活躍した三好元長は 敵対する木沢長政と細川晴元 六郎 の意を受けた一向一揆勢に襲撃され滅んだ。これは晴元派 そして三好家の内訌に依るものであった。
だが年号が天文に改まった八月になると 一向一揆衆と晴元の関係が破綻。両者は敵対する関係となった。

このような本願寺の蹶起に反応したのが法華宗で 八月二十四日に六角定頼と共に山科本願寺を滅ぼすに至った。
これ以降も畿内では騒乱が繰り広げられるが 今のところ(2024-0227)は割愛したい。

江州南北和睦之儀

天文二年(1533)正月 坂田郡の有力者で京極家の 根本被官 である今井左衛門尉が神明寺で自ら果てた。彼の諱は秀俊とも秀信とも言うが 京極殿の勘気を蒙り浅井亮政の命によって生害させられたという。
概ね六角に通じた廉で不興をかったとするのが通説だろう。
今井の遺児 尺夜叉と家中は箕浦を退去し 六角を頼り敏満寺に住んだと 島記録 は叙述する。彼らは定頼から 堪忍分 として 平田跡 を与えられている。遺文三二〇

それから暫くした頃 若狭に六角と京極 浅井が和睦した旨が伝わった。
これは 羽賀寺年中行事 福井県史 資料編 9 近世 7 小浜市 遠敷郡 大飯郡 という若狭国小浜の羽賀寺に伝わる戦国時代の年代記に依るもので 次のように記述される。

江州南北六角殿 京極殿 天文二年春有和睦之義 浅井南へ出頭スト云々 六郎殿御舎兄 五郎殿ハ 出雲国へ御下向ト風聞アリ
福井県史 資料編 9 (中 近世 7 小浜市 遠敷郡 大飯郡),福井県,1990.9. 国立国会図書館デジタルコレクション

つまりこの春に六角定頼と京極 高清か? が和睦し 浅井亮政は観音寺城へ出頭した。そして 六郎殿 高延 舎兄 もしくは 舎弟 である 五郎殿 は出雲の尼子経久のもとへ下向した と解釈出来る。

このように六角定頼によって湖国に束の間の平穏が訪れ 天文三年(1534)夏には浅井亮政が居城小谷城で京極親子 高清と高延とされている を招いての 小谷城饗応 が行われた。

北郡御陣

だが平穏であったのは湖国だけの話で 天文四年(1535)から五年かけて美濃では土岐氏の内紛が発生していた。
これは朝倉家に保護されていた土岐次郎 頼充=頼純 の復帰を目論んだもので 六角 浅井勢は土岐次郎 斎藤宗雄方として美濃へ遠征したという。結果的に守護土岐頼芸 斎藤道三に敗れ 土岐次郎は再び越前へ撤退したようだ。六角定頼 村井祐樹

美濃攻め

この土岐次郎を擁した美濃攻めにて 近江方は若宮新右衛門を失ったらしいことが遺文三四七から窺える。但し蒲生郡志や遺文では天文五年(1536)に比定されており 村井氏は 六角定頼 のなかで この時か あるいは翌年の戦いのものと思われる という定頼感状 遺文一一〇二 岩手弾正忠宛 を掲示している。
何れも十一月に発給されたもので 個人的には天文四年(1535)のものではないか と考える。

一方で蒲生郡志は同じ長命寺記録 結解米下用帳 を用いて 天文四年(1535)に 高島出陣 が行われたとする。
その期間は準備も含め 八月四日から九月二十七日までのようだが どのような規模で 高島の何処に攻めたのか定かではない。
ただ同時期に美濃攻めが行われている事を踏まえると それに関連した動きであるようにも感じる。

下之郷の戦い

なぜ美濃攻めについて触れたのか それは京極六郎と浅井亮政が多賀貞隆を攻めた 下之郷の戦い の年次を絞るためである。
通説 東浅井郡志 が述べるように下之郷の戦いは天文四年(1535)正月十一日夜に発生したとされる。
しかし年次比定の論拠は定かならず 更に見てきたように同年秋には 定頼と亮政が合力して美濃に派兵を行っている。この点を踏まえると 亮政と京極六郎が多賀貞隆を攻めるのは 同年以降ではないかと思われる。

戦国遺文佐々木六角氏編 では 東浅井郡志で天文四年(1535)とされる 某年二月十八日付今井尺夜叉殿宛六角定頼書状 遺文三九三 某年二月二十一日付今井藤兵衛殿宛て六角定頼書状 遺文三九四 を何れも天文七年(1538)と比定している。
蒲生郡志では大胆にも天文七年(1538)の事としている。

一方島記録所収の貞隆文書には 天文六年ヨリ前 とある事も示しておきたい。
こうした曖昧なところは同年中の六角氏の動向が乏しい事にも依るだろう。

このように具体的な年次を絞り込むのは困難で 便宜上天文五年(1536)から天文七年(1538)までの正月十一日夜のこと とする他ない。
ともかく京極六郎は浅井亮政と共に多賀貞隆を攻め 今井家中の働きもあって返り討ちに遭ったのである。

天文四年夏の高島出兵(説)

こうした北郡の攻撃に定頼がどのように対処したのか。こちらも見解が分かれている。
東浅井郡志 は二月に定頼が北郡へ兵を出したとする一方 蒲生郡志 では出兵は行われなかったとする。
蒲生郡志は長命寺記録 結解米下用状 を参考に論じているが これはよく分からない。

天文七年の北郡侵攻に付随した海津攻め

蒲生郡志の説を採るにしても 東浅井郡志の説を採るにしても 六角定頼が浅井亮政を再び征伐に動くのは 天文七年(1538)の京極高清の没後の事である。

その間の出来事として天文五年(1536)に法華衆を打倒し 更に本願寺と和睦を果たしている。
また天文六年(1537)には細川晴元に娘を嫁がせた。これにより亮政と晴元の縁は遂に切れてしまったと言ってもよい。
同年であれば七月に北郡にて一揆を煽動 その翌月には近江守護職に任ぜられた。

そのようにして 天文七年(1538)を迎えた定頼は 肩書きと 京極五郎 という御輿を以て 北郡へ攻め寄せたのである。
なおこの 五郎 なる人物について 一般的に先に高清によって後継者に指名されるも国人の反発を受けた 高慶 天文二年春に南北が和睦した際に出雲への下向を噂された 五郎殿 であろうと思われるが 個人的には何れが同一であるのか若干疑問を覚える部分もある

天文七年北郡御陣概覧

日付合戦人物史料遺文
0221天文四年説あり..
霊仙方面攻め今井藤兵衛島記録三九四
0327...
佐和山攻め二階堂小四郎 若宮弥左衛門 多賀豊後守定頼書状三九五
0428...
定頼出陣定頼義晴御内書三九六
0505...
上坂表上坂助八 高広上坂文書東浅
0518...
六角出陣証如 弾正 四郎 中務天文書札三九七~三九九
0523...
高山落去佐和山のこと 定頼注進親俊日記.
0604...
カマノハノ城落居十日 翌月八日に高慶書状あり親俊日記.
0619...
梅戸出陣か証如 治部少輔宛回報天文書札四〇〇
0706...
鎌刃出候者今井殿宛定頼書状島記録四〇二
夏頃...
太尾城攻め永田左馬丞死す長命寺念仏帳東浅
0804...
鳥羽上合戦荒尾新七郎宛高広感状 淵本又八死す百々文書東浅

なお太尾攻めの結果に関しては 遺文四〇四号の 六角定頼陣立注文 朽木文書 にて永田伊豆守と能登殿が 太尾 に陣している事から 六角勢が攻め落としたと判断して良さそうである。なおこの文書は年月日が不明であるが 永田左馬丞ではなく永田伊豆守である点から 少なくとも左馬の討ち死後に製作されたとみられる。(1)

(1) なおこの文書は~追記/20240904

國友河原の戦い

斯くの如し三ヶ月近くかけ 鎌刃と太尾を落とした。これにより今井一族は旧領回復に向け 大きな一歩を歩んだ事となる。

さて定頼は五郎高慶を擁しての戦である。その為には 彼も再び江北を回復させねばならぬ。
彼らは遂に姉川沿岸の國友と呼ばれる地域にまで兵を出す。先の陣立注文によれば 口分田に陣した上坂氏 神照寺に陣した五郎高慶が先鋒となろうか。

鹿苑日録の九月十六日条によれば 種村が十二日の勝利を伝えたようだ。また六角勢は勢いに乗じ 小谷の里を放火したとある。
一方で浅井は小谷城へ退き いつものように城に籠もったようだ。
かくして五郎高慶と上坂冶部は 遂に旧領に返り咲く事が出来た。
また これにより口分田の上坂氏が 上坂治部 と相成る訳だ。

こうして 北郡御陣 は五郎 高慶 上坂治部 今井一族の復帰という素晴らしい成果を残した。
鹿苑日録によれば 定頼と四郎義賢親子は 間もなく帰陣したそうだ。

海津攻め

鹿苑日録には続きが見える。
それは

高嶋河上七頭之衆 饗庭 十四日仁取懸 所々放火 田屋者山城江引退也 饗庭者海津之西浜江居陣ト 越中殿同 饗庭観音寺江注進云々

このような内容である。
つまり國友河原で浅井勢を打ち破った翌々日 高島でも合戦が起きていたのである。
三年前の高島出兵では 全く他の記録が見られないが その一方で今回の戦は 鹿苑日録 に幾つか記録を見る事が出来るので紹介したい。

十一日条

自饗太有狀狀 海津江可出陣云々

十二日条

早天收藏主高嶋江下 海津江陣立變太返事遣也 與百錢 與迎者廿片也

饗太 なる人物は 相国寺鹿苑院に出入りの出来る饗庭氏の関係者だろうか。

尊鎮法親王書状案に見る

そうしたところで遺文四〇三号 八月廿日付佐々木弾正少弼宛尊鎮法親王書状案 には興味深い記述が見える。

門跡領海津東浜嶮熊野庄事 旧領異地之処 今度就北郡錯乱 有違乱之族之由候 此在所事 従往古有当知行無相違之者 厳重被申付候者 可悦入候 猶給主可申候也
    八月廿日
   佐々木弾正少弼殿

尊鎮法親王は御柏原天皇の皇子で 天台座主を務めた貴人である。
その親王から北郡衆は 北郡錯乱 違乱之族 と糾弾されている。
逆に言えば 定頼は大義名分を得た事になるが これは攻撃に際し幕府を通じて諸権門への根回しをしていた事にもなろうか。

戦いの特徴

特に重要であるのは この軍事行動は高島の衆中で完結したと思われる点である。
鹿苑日録に見られる 高嶋河上七頭之衆 は俗に 高島七頭 と呼ばれる面々であるが 此には少し注釈が必要である。
饗庭 は後に三坊の名が残る饗庭氏だろう。

田屋者 は先に見た高島北部に勢力を持ち 浅井亮政の娘婿 明政が存在 田屋氏 であろう。
そこから類推するに國友河原の戦い 小谷城攻めと連動していると考える事は自然でもある。

北郡に居た七頭・永田氏について

ここで北郡御陣における 七頭 を考えたい。
まず北郡御陣の死者で死者では 永田左馬丞 の名前が 長命寺念仏帳 東浅井郡志 に見える。八月十七日とあるので この日かそれ以前に命を落としたのだろう。
永田氏は死落命した左馬丞の他に 永田伊豆守 なる人物を見ることが出来る。遺文四〇二 六角定頼陣立注文 朽木文書
一見するとこの人物が高島の永田氏の一族であるのか 同族 庶流で六角直臣の永田氏か判断に迷う。後者であれば楞厳院 坂田郡 に陣した 永刑 景広 が当たる。
また箕浦に陣した 田中殿 横山殿 山崎殿 太尾に陣した 能登殿 それぞれには敬称が付けられているのに 伊豆守だけは敬称が見えない。この注文で敬称が見えるのは他に京極 五郎殿だけである
つまりこれだけでは永田左馬丞も伊豆守も 一体どの永田氏か判断に迷う。

少々時代を進めると天文十二年(1543)七月十日の六角家臣連署奉書 遺文五三三 朽木文書 の宛名に越中大蔵大輔 田中四郎兵衛尉 永田左馬助 横山三郎左衛門 山崎下総守殿雑掌を見ることが出来る。
ここで 永田左馬助 が登場するが 供養された 永田左馬丞 とは名乗りが似通っており 左馬丞が高島の有力者の一人であると考えることが出来る。

また永田伊豆守については 兼右卿記 天理ビブリア 弘治二年(1556)六月二十一日条に 江州佐々木長田伊豆守清綱妻五十歳 と見える。どうやら諱は清綱というらしい。なおこの妻と兼右は 父従兄弟 とあり 清綱が清原氏を娶った可能性を示唆している。
さらに永禄五年(1562)十一月の 御礼拝講 義輝の坂本日吉礼拝講 の記録には越中大蔵大輔 山崎三郎五郎 能登 永田伊豆守 横山三河守 朽木民部少輔 田中兵部大輔の名を見ることが出来る。越中以下 七頭 の面々であり ここでようやく太尾に陣した永田伊豆守が高島の有力者の一人であることが理解出来るのである。
清綱の妻が弘治二年(1556)で五十才となれば 清綱は同世代から上の年齢と考えられる。北郡御陣で三十代半ば 御礼拝講で五十代から六十代の年齢となるだろうか。

わからないのが左馬丞と伊豆守清綱 左馬助の三者の関係性だ。名乗りからすると左馬丞と左馬助は親子かもしれないが 清綱との関係が良くわからない。ある時期に分枝し その中の一人が伊豆守を受領し清原氏 を娶ったのだろうか。
むしろ受領し清原氏 を娶り 義輝の坂本日吉礼拝に参加している点からすると清綱が本流で 左馬丞 左馬助は庶流なのかもしれない。

本稿 20240905 に大幅加筆

高嶋河上七頭之衆

既に触れたように 陣立てからは永田の他の高島の有力者も北郡御陣に従っていたことがわかる。
それが箕浦に陣した 田中殿 横山殿 山崎殿 永田伊豆守と共に太尾に陣した 能登殿 である。
朽木が見えないが西島太郎氏によれば 朽木氏は当時在京していたようであるから不在であったのだろう。坂田郡志は五郎を朽木五郎としているが

さて鹿苑日録には 高嶋河上七頭之衆 饗庭 十四日仁取懸 所々放火 田屋者山城江引退也 饗庭者海津之西浜江居陣ト 越中殿同 饗庭観音寺江注進云々 とある。この海津攻めの主体は七頭と饗庭であると読み取れるが 高嶋河上七頭之衆 のうち田中 横山 山崎 能登 永田は太尾攻めの陣にあり海津攻めに加わっていたか疑問が生まれる。しかし依拠史料も月日が未詳であり 永田左馬討死後だろうが 今一つ裏付けるには薄弱だ。
つまり 現状では饗庭と越中の両氏が海津攻めの主体となった とするのが妥当であろうと思われる。(2)

(1) 太尾には 永田伊豆守 と名前があるが 敬称が付けられていない点から高島の有力者と断じる事は出来ない から変更。この永田伊豆守について兼右卿記 天理ビブリア 弘治二年(1556)六月二十一日条によれば 江州佐々木長田伊豆守清綱妻五十歳 とあり どうやら諱は清綱というらしい。/20240904
(2) 朽木氏は当時在京していたようであるから 自ずと海津を攻めた高島の有力者は 筆頭と言うべき 越中氏 のみと言えよう 削除。/20240904 本稿 20240905~に改変

海津御厩御料所

一週間後の九月二十二日 大館常興はその日記にて次のように記した。

早朝二海老備来臨 江州海津事 まへ〱ハ北郡よりもち候て敵也 近日六角方手に入候 仍御厩御料所分事 進藤新助に被仰て 御公用取沙汰させられ候て可然哉と存候 其たんかうの為に来入候由被申間 尤いかにも可然旨申之也

つまり定頼は海老名備前守を通じ 幕府に進藤新介 貞治 の海津御厩御料所代官職就任を依頼している。

マキノ町誌 内閣文庫所蔵文書 を引用し 天文七年十月十四日付当所名主沙汰人中宛幕府奉行人連署奉書 松田盛秀 飯尾貞廣 を以て 海津西濱庄の御厩御料所が 佐々木弾正少弼の手に属する者に代官職に預けた と記されている。

この書状は蜷川家文書之三にも収まるが 幾つかわかる事がある。
まず書き出し 御厩御料所江州海津西濱庄事 近年従当国北令横領云々(1)とて 海津西濱庄が北郡つまり浅井亮政方の押領に遭っていた事がわかる。
また 伊勢守貞孝代 とあるのは 進藤が伊勢貞孝の代官となった事を示す。
元々高島の有力者たちは伊勢氏の影響を受けており 寬正から文明期には饗庭や田屋といった海津の衆中は伊勢氏の重臣蜷川親賢の 頼子 であった事が西島太郎氏によって明らかにされている。

(1)透谷→当国へ変更/20230904

高島出兵の目的

以上の事から 天文七年九月の六角定頼による高島出兵は 浅井と彼らに靡いた田屋氏に押領された 海津西濱庄及び海津東浜 嶮熊野庄を解放するための戦争 との構図を見出す事が出来る。
次稿では晩年の亮政と後継者久政 そして高島を襲った 京極六郎の乱 について見ていきたい。