元亀四年(1573)の高島

元亀四年(1573)の争乱の特筆すべきは 足利義昭が反織田方に転じた点である。
そのトリガーとなったのは二月までに信長が送りつけた 異見十七ヶ条 武田信玄の進軍 西方の反政権側の動きであろう。
とにもかくにも義昭の離脱が湖西を揺らしたのである。

元亀三年(1572)末の不穏

某年十一月十四日 明智光秀は雄琴の和田秀純 和源 に対し次のような書状を発給している。

今堅田雑説付而 昨夕以折紙申候処 不移時日加勢之由候 誠無比類心懸共不干今始候 其方之儀申付候間 心安思召候処 如案 津内別儀被相抱候事 祝着不扱是非候 毎事憑敷仕合共不申足候 委曲両人可申候 恐々謹言
              明十兵
  十一月十四日        光秀 花押
  和源とのへ
      進之候
明智光秀 史料で読む戦国史 大津市歴史博物館寄託 和田家文書

今堅田 とは本稿の主題の一つであり 元亀四年(1573)二月に兵を挙げた真宗の寺 砦である。その年次は元亀三年(1572)と比定されるが 挙兵の三ヶ月ほど前の話となる。

つまり元亀三年(1572)十一月時点で 明智光秀は不穏を悟っていた形と相成る。

20240727 出典書名の括弧修正 全体の二重括弧とシリーズ名の括弧で窮屈に見えたため半角空白追加

六角承禎と小松伊藤

こうした中で六角承禎の年次不詳十二月十日付書状は興味深い。時に志賀郡の北端 高島との郡境に小松庄はある。この地域の有力者は伊藤氏で 小松伊藤同名中 を構成していたのである。
郡境に鵜川と呼ばれる地域がある。田園地帯の同地を巡り古く小松伊藤と打下衆は対立を繰り広げ 文明十五年(1483)には 打下惣中が耕作を行い 毎年小松に進納する との形が定められた。
しかし天正の初期には打下の百姓は納入を行わない 違乱 を起こした。この違乱への対処に光秀は苦労するのだが 光秀でさえ根本的解決には至らなかった曰く付きの土地である。
小松伊藤は志賀の国人だけあって 古く六角との関わりが深い。その中で年次不詳であるが 元亀争乱下と思しき史料が二通存在する。

自南方至当郡可令乱入風聞付而 用害可然在所相尋候処 和邇之内金蔵坊居所可然之由各申候間 則落合八郎左衛門尉差遣候条 有相談 此度計一所在陣候者 可為祝着候 尚家光可申候也 謹言
    十二月十日      承偵 花押
   小松伊藤殿
遺文 一一九六 伊藤晋氏所蔵文書

これは小松伊藤に対し南方からの敵に備えるように申し付け 更に 和邇の金蔵坊 との協力を指示しているのだろう。落合八郎右衛門家光は 元亀元年(1570)八月十日に志賀の馬場兵部丞宛承禎書状 遺文 九七二 落合 同松原可申候 と登場する人物で 次に見える(1)大塚同様に元亀の承禎を支えた家臣である。依って概ね元亀争乱の頃と判断される。

さて 和邇之内金蔵坊 尋憲記 翌年二月十五日条に見られる ワニノ金蔵坊 を指すのだろう。谷口克弘氏は 織田信長家臣人名辞典第二版 にて同人物を 大和の人物 としたが これは尋憲記の 城州 松永久秀 方へ岩倉ノ山本 山中ノイソガイ ワニノ金蔵坊 という記述と天理の和邇を結びつけたと思われるが 伊藤家は志賀郡であること 六角承禎が近江に潜伏していたことを踏まえると 金蔵坊は紛うことなく志賀郡和邇の人物と言えるのである。時に現在の大津市には 和邇高城 なる地名があり その名の通り同地には 和邇城 があったとされる。この城を収めたのが 金蔵坊 だろうか。

ここで承禎は南方からの敵に備えるように申し付けているが この敵とは明智光秀の事であろうか。また年次を元亀三年(1572)に比定すると 十一月に今堅田の雑説に接した光秀が 今堅田を片付けるついでに志賀に残る敵を退治する事を企てたのであろうか。ともすれば今堅田の雑説を画策した存在は六角承禎である可能性もあろうか。無論根底には武田信玄の西上作戦があったのだろう。更に言えば北郡に駐留していた朝倉義景の存在もあったのだろうが 彼らは十二月三日頃に越前へ帰国してしまった。

(1) 次に見える 加筆/20240907

二月の蹶起と西路

そのように 雑説 が囁かれ 六角承禎が小松伊藤に指示する中で 主立った軍事行動は見られない。やはり朝倉義景の撤退が大きかったのだろうか。
年が明け元亀四年(1573)二月 石山と今堅田に反織田を掲げる兵が起きた。これは足利義昭の蹶起でもある。
石山の兵は光浄院山岡景友 今堅田の兵は明智光秀に附けられていた磯谷 渡邊 山本の三将と慈敬寺を中心とする一揆である。つまり十一月に光秀が察知した 今堅田雑説 とは 慈敬寺を中心とする一揆の動きであったのだろう。彼の雄琴の和田秀純に対する書状を読むに 早くから自らの配下与力に調略の手が伸びていた事も承知していたのだろう。
しかし二月の蹶起で警戒も虚しく与力の三将が光秀のもとを離れてしまった。足利義昭はそうした姿を見て 明智儀無正躰候 牧田茂兵衛氏所蔵文書 二月十九日付某宛て義昭書状 と認めている。

小松伊藤と六角承禎の動向

再び年次不詳であるが 二月に六角承禎が小松伊藤に宛てた書状 また小松伊藤が軍事行動を起こした事に対する浅井長政の感状が存在するので 以下に引用する。

船路用害普請事 数日被申付辛労不及是非候 末無出来由候条 無油断於被急者可喜入候 委細大塚源三申含差越候 馳走肝要候 謹言
    二月二日       承禎 花押
   小松伊藤殿
遺文一一四二 伊藤晋氏所蔵文書

これは 船路 比良の南端 木戸の南にある地域 の用害作りの報告を受けた事に対する返答となろうか。とにかく急に指図を加えているようにも見える。その年代を細かく検討することは出来ないが 十二月に承禎は和邇の金蔵坊と協力する事を求めていた。それから一ヶ月の間に情勢が変化したのか 船路にも要害を求めたのであろう。

昨日八日於打下表 林内 河原崎弥太郎首被討捕候 御高名之至 難尽書紙候 猶以珍重候 彌御忠節簡要候 仍太刀一腰 馬一疋進之候 喜入候 恐々謹言
             浅井備前守
  二月十日           長政 花押
   伊藤當菊殿
       御宿所
東浅井郡志 伊藤家古記録所収文書

東浅井郡志は永禄年間長政の湖西計略の一環として掲載している。しかし明確に小松と打下が敵対関係となった時期を考えると 元亀二年(1571)の二月に打下が織田方に転じた以降ではないかと考え 本稿に収めた。
元亀争乱下 元亀二年(1571)以降の打下の林は織田方で 磯野員昌と協調していたと見られるから 反織田方として攻め込む価値はある。
仮に二月二日の承禎書状と同年であるとするならば その六日後に発給されたことと相成る。

大日本史料で兼見卿記を見ると 二月六日に磯谷等が明智に対し別心したことを記す。そして二月十日に 山本 渡邊 磯谷 近郷在陣了 近江での蹶起籠城を窺わせる記述を見せている。
仮に一連の書状が当年であるのなら 光秀与力の別心から打下攻め 船路要害 近郷在陣と情勢が推移したのでは無いだろうか。

結びつく伊藤と一揆

緊迫する西路の情勢に於いて 具体的に一揆勢が動いたとわかるのは二月十四日の事である。

 又申候 門徒衆忠勤輩をハ 重而可記給候
至伊藤城被手遣処 早々被達本意付而 其表面々此方へ令一味之由 大慶此事候 殊堅田まて属理運 還往由珍重候 是倂佛法のためにハ身命をもおしむへからすといへる事 れん〱ちやう聞せらるゝ故と難有候 猶以法義可被嗜事肝要候 殊更今般働 毎度儀とハ申なから 別而高名誠以無比類事 難及言筆候 仍黄金卅両進之候 旁期後便候 穴賢々々
  二月十四日 顕如 花押
   慈敬寺殿
慈敬寺文書 大日本史料

前日には顕如から伊丹親興内応報告を受けた慈敬寺は この日顕如から更なる書状を得た。その内容を見るに 慈敬寺が顕如に報告をした内容に対する感状であろう。
報告した旨は 伊藤城をはじめ堅田に至るまでの志賀郡の各衆を味方としたものである。
見方を変えると本願寺側は二月十四日頃になってようやく 至伊藤城被手遣処 早々被達本意付而 其表面々此方へ令一味之由 小松の伊藤が従っていたことを知る。無論 二月十日頃には慈敬寺方が把握した可能性もあるだろうが こうした侍 土豪 層と一揆衆が必ずしも一体でなかったことを示すのではないか。

木戸攻めと西路情勢

その頃の織田方の動きとして参考になるのが大日本史料 革島文書に収まる革島市介宛以前の十四日付刑部丞 忠宣 宛書状が収まるが 此方は木戸攻めに関する史料である。

御家来與惣次参候 然者昨日木戸表御働 数ヶ所被致御手候処 當敵被討取之段 御手柄不及是非候 御手養生専要二候 恐々謹言
                   明十兵
       二月十四日        光秀 花押
        河嶋刑部丞殿

つまり顕如が慈敬寺に対して書状を認めた一日前に 明智光秀が木戸を攻めていたことがわかる。この書状は顕如の 其表面々此方へ令一味之由 を裏付けるものでもあるが 木戸が如何に相成ったか定かでは無い。

二月前半の西路情勢

尋憲記 は山岡 山本 磯谷 渡邊に加えて ワニノ金蔵坊 二月十五日条 サツマノ林 二月十六日条 が蹶起 城州 松永久秀方 に加わっていたことを記している。前者は承禎書状に見た和邇の金蔵坊 後者は薩摩浦の土豪と考えられるが その蹶起が志賀のみならず湖東にまで広がっていた可能性があるだろう。また今回の乱の中心に松永久秀 三好義継 があったことが感じられるのである。

日付は降るが月末の二十七日 顕如は信玄に対し 江州西路事 此方当門家中慈敬寺以調略属本意 顕如上人書札案留 と西路全体 志賀 高島 が蹶起に至ったことを報告している。
しかし高島郡の一揆勢がどの程度加わったのか。特に武田信玄の重臣穴山信君から正月二日付書状を受け取った多胡宗右衛門が加わっていたのか 何れにしても定かでは無い。新行紀一氏や山田哲也氏は この記述を鑑み高島からの参戦を述べている事をここに記す。

ただ伊藤や木戸を勘案すると志賀郡の土豪は確実に加担していると見られるので 調略属本意 は事実であろう。
後に記すが高島の多胡宗右衛門は 三月に朝倉義景から 十乗坊 木戸 佐左馬要害 不詳(1)への加勢を勧められている。ここで 調略属本意 に従うのならば 二月時点で多胡は志賀郡への加勢に動いていたと解釈できようか  

(1) 田中か 不詳 へ変更/20240907

織田方の反撃と戦場

織田方は十三日に明智光秀が革島氏などを以て木戸を攻め立てていた。その評価は局地戦というもので 苦戦を強いられていたとせざるを得ない。
織田軍として組織的な反撃に転じた時期を 原本信長記 に求めると 二十四日に勢田を渡り普請が中途半端な石山を攻めると 二日で降参させ二十九日に今堅田を攻めたとある。
その兵力は柴田修理亮 明智十兵衛 蜂屋兵庫 丹羽五郎左衛門で 今堅田を破り 志賀郡過半相静 となったそうだ。
二十九日に今堅田が落ちた旨は兼見卿記にも見られ 千秋刑部をはじめ 明智者数輩討死云々 とあり 大日本史料は西教寺文書を示し十八名が討死したとしている。

次の史料は反撃前夜 木戸を攻めていた革島氏に対し今堅田攻めの開始を伝えたものである。

  猶々明日至今堅田取懸之條 即時遂本意 追而御吉左右可申入候 以上
為御見舞御状祝著之至候 仍爰元之儀 如最前限木戸表一圓ニ申付候 今少今堅田二敵楯籠候 雖然落居可為近日候條 可御心易候 随而其元御雑説候由 無御心元候 御用之儀可承候 将亦刑部丞殿御手被得少験候由 珍重候 猶期後音候 恐々謹言
                    明十兵
       二月廿四日         光秀 花押
        河嶋市介殿御返報
大日本史料 革島文書

大日本史料には信長から細川兵部大輔 藤孝 に宛てられた書状が幾つも載るが 二十三日の書状では 志賀邊之事 一揆等少々就蜂起 とあり 蜂屋 柴田 丹羽に出勢を申し付けたとある。
信長の言う 一揆 とは木戸 田中 小松伊藤 和邇の金蔵坊の蹶起を指すのだろうか。はたまた彼らに呼応して一揆が起きたのか定かではない。

また三月七日の書状では 公方は朝倉を頼りとするが 先年志賀に義景が出勢した時は 高島志賀郡を含め此方の城は宇佐山一城であったが 今は城々堅固に申し付けており たやすく 出馬する事は出来ない と認めている。これは打下 朽木 坂本や光秀に従う土豪の館を指すのだろうか。
また武田信虎が義昭の命を受けて甲賀に居ること 六角承禎への警戒も認めている。

朝倉義景の失敗

こうした蹶起に従った西路の侍 土豪に対し 越前の朝倉義景は三月に幾つかの書状を認めている。
越州軍記 によれば朝倉義景は三月上旬に 田子左近兵衛 の注進を受け三月十一日に敦賀へ出兵したという。
果たして多胡氏の催促か定かでは無いもの 義景が出兵した事は次の史料から確認される。

就 公方様被立御色殿中祗候之旨尤神妙候 殊路次之儀可有御入魂由御誓言之旨得其意候 先以快然候 仍昨日十一令出□ 馬ヵ 浅井与示合子細候 於其上可得 上意候 無異議之様各々被相談御警固肝用候 委細鳥居兵庫助 高橋新介可申候 恐々謹言
  三月十二日                           義景 花押
   佐々木弥五郎殿
         進之候
一乗谷朝倉氏遺跡資料館紀要 2017Ⅱ資料紹介 新出の朝倉義景書状について 宮永一美 より

宛名の 佐々木弥五郎 は朽木元綱の事であり どうやら彼も足利義昭の蹶起に従ったらしく 朝倉義景から 殊路次之儀可有御入魂由御誓言之旨得其意候 先以快然候 と評された。
この時期の西佐々木七人は朽木氏以外動向が定かでは無いもの 後に 横山父子 が処刑されたことを踏まえると 横山氏は呼応した可能性がある。

ただ宮永氏に依れば 朽木氏の書状散逸は低く 何らかの事情で届かなかった可能性 があるそうだ。そうしたところでは三月十二日時点で既に石山と今堅田は敗れており こうした情勢の変化が朽木元綱の翻意に繋がり届かなかった事に繋がるのかもしれない。

参考として翌日に下間頼充から馬場氏に宛てられた書状を引用する。

雖未申通候 以事次令啓候 被対慈敬寺 連々御入魂候故 今度至今堅田御父子御在城 敵取詰 及一戦砌迄も 御両所被尽粉骨 無比類御働共之由 従慈敬寺具被申上候 卽其趣門主に可令申呈候 無御等閑様与乍申 一段大切之御覚悟別而被感申候 無御退屈 彌令示合 被廻御才覚 怨敵可被相滅御調策肝要候 爰元相應之儀可承候 不可有疎意候 恐々謹言
  三月十三日 頼充 花押
   馬場兵部丞殿御宿所
馬場文書 大日本史料

馬場兵部丞は諱が国平と伝わり 志賀郡は小野村の土豪と考えられている。彼は前年八月十二日 浅井長政から送られた書状の通り木戸の 十乗房 と関わりのある者であり 改めて今堅田の蹶起と木戸の蹶起再開は連動して行われたと判断される。
また前年に木戸に籠もった馬場氏が今堅田に参じている点は興味深い。むしろ当年の蹶起に際し木戸には誰が籠もったか興味を抱くが その点は次に解説を試みる。

三月半ばの義景の動き

敦賀に兵を繰り出した朝倉義景が行ったのは 情報収集 である。その証となる書状を以下に引用する。何れも年次不詳であるが福井県史並び 朝倉氏五代の発給文書 に於いても 当年の敦賀在陣期と比定されている。
三月十八日付多胡宗右衛門宛書状の 其表信長相働之由 に関しては 実際にこの時期に信長本人が湖西を攻めた事は無く前年三月が正しいように思えるが 朝倉氏五代の発給文書 を読むと元亀三年(1572)の三月頃に動きは見られない。やはり元亀四年(1573)とするのが良いのだろう。

至其表信長相働之由 切々注進 得其意候 仍而十乗坊江以早船加勢之旨 先以可然候 重而急度合力尤候 佐左馬用害同前候 其方城之儀者此方人数申付 差越候之間 堅固可申談事肝用候 委細鳥居兵庫助 高橋新介可申候 恐々謹言
   三月十八日        義景 花押
       多胡宗右衛門尉殿
尊経閣古文書纂 五代発給文書二五五号

文中の 十乗坊 は木戸城とされるが(1) これは後に引用する浅井長政の馬場氏宛(2)感状にある 今度木戸御籠城付而 竜花途中十乗坊被申談 から理解できよう。
佐左馬 とは 東浅井郡志 佐々木左馬允 と比定され 場所を比良の福田寺 田中坊との可能性を示すが(3)その根拠から諱まで不詳である。
伝承レベルであれば高島郡の五番領には 山崎左馬介 が元亀年間に滅ぼされた説があるし 史料では天文年間には永田氏に 左馬 を称する者が居た。
以上二点を踏まえると 佐左馬用害 は高島郡内の五番領もしくは永田かもしれないが 実際のところは定かでは無い。何れにせよ湖西の何処かなのは文脈から確かだろう。(4)

さてその内容を読むに 多胡宗右衛門が朝倉義景に対し注進を行っていたこと 十乗坊 木戸 と佐左馬要害 不詳(5)への加勢合力を 尤も とし 其方城 に此方 朝倉方 の人数 を申し付け差し越し 堅固 にすることが肝用であるとしている。
つまり多胡宗右衛門が志賀に加勢の兵を出している間 その城を守るべく朝倉方が派兵するとした内容となる。ただ当該の城が多胡氏の本拠新庄城であるのか 代々支える越中家の清水山城であるのか定かでは無い。
ただ朝倉方は前年五月にも周辺に兵を出し 清水山城には朝倉式と思しき 畝状空堀群 が見られるので後者である可能性が高いだろう。

至其表敵相働付而 人数追々被申付候 然者兼々如被申合御実子為人質可給置旨被申候 為其笠松三介被差遣候 無別儀御渡肝用之由 以直書被申候 猶相心得可申入旨候 恐々謹言
   三月十九日         景近 花押
                 景業 花押
   多胡宗右衛門尉殿
           御宿所
福井県史資料編六 水谷幸雄家文書 五代発給文書二五六号

この書状は義景の側近鳥居景近 高橋景業から出されたもので 二五五号から少し進展した様子が窺える。
具体的には人数を追々申し付けること 人質として多胡の実子を要求 笠松三介を遣わすと云うものである。なお五代発給文書の解説は。二五五号には 人質 に関する記述が見られない為に 別に 義景書状 が出され 本書状は其方の 副状 である可能性が強いとしている。

更に義景の注視は続き 馬場氏にも書状を認めている。

封紙上書き
馬場兵部丞殿   義景
就今度敵相働 十乗坊城江楯籠 被抽粉骨由其聞候 尤以神妙快然之至候 弥城主被申談 馳走此節候 委細鳥居兵庫助 高橋新介可申候 恐々謹言
   三月廿一日         義景 花押
       馬場兵部丞殿

封紙上書き
          鳥居兵庫助
           高橋新介
馬場兵部丞殿        景近
      御陣所       
至其表敵相働付而 十乗坊城江被楯籠 被抽粉骨之由其聞候 尤神妙快然之旨以直書被申候 弥城主被申談 御馳走肝要之由 尚得其意可申入之旨候 恐々謹言
   三月廿一日            景近 花押
                    景業 花押
   馬場兵部丞殿
        御陣所

このように朝倉義景は敦賀在陣を続けたまま 注視 を続けたのみであった。確かに高島郡に派兵を行った 可能性 はあるだろうが 打下の林や磯野を駆逐するといった対織田の軍事行動には至っていない。
ところで馬場兵部丞は下間頼充の三月十三日書状にて 今度至今堅田御父子御在城 今堅田に籠もっていた事が理解されるが この書状群では 十乗坊城江被楯籠 とある事から 馬場氏が今堅田の敗北後は木戸へ転戦していた事がわかる。
新行氏は慈敬寺も木戸に籠もっていたとするが これは下間頼充の同書状に 慈敬寺 の名前が見えることに依るのだろうか。

(1) 木戸城であるが→木戸城とされるが/20240907
(2) 馬場氏宛 加筆/20240907
(3) 佐左馬 とは 佐々木左馬允 と比定されるが→ 佐左馬 とは 東浅井郡志 佐々木左馬允 と比定され 場所を比良の福田寺 田中坊との可能性を示すが/20240907
(4) 佐左馬要害について見直し。その用害は北比良の田中城と比定される。現在の同地 福田寺には佐々木源氏の末裔という伝承があり これが に当て嵌まる。伝承では 田中左衛門尉定光 が治めたとする伝承もあるが 実際には 佐々木田中左馬 であった可能性はありそうで 西島太郎氏は高島の田中氏が室町時代中期に志賀郡比良庄へ進出したと述べる。彼がその末であったのかもしれない から変更/20240907
(5) 佐左馬要害 田中 不詳 /20240907

信長の対処・反撃

織田信長が足利義昭の蹶起に 対処 するため上洛したのは 今堅田が片付いた一月後の三月二十九日の事である。
信長が岐阜を動かなかったのは武田信玄への警戒のためと言われるが 二月二十三日に細川藤孝に対し武田方が野田から兵を退いたことを通知しており 武田の脅威が去ったからこそ上洛に至ったのだろう。

対し足利義昭は矛を収めずに居るが これに対し信長は四月二日に上京を焼き祓う事で最終通告を突きつけた。この上京焼き討ちの効果もあり四月七日に和睦と相成り 信長は翌日に帰国の途についた。
その途上で江南には一揆が起こり 鯰江城には六角義治が籠もっていたが 鯰江城は付け城で囲み 十一日に義治を支援する百済寺を焼き討ち 一揆は十三日に市橋長利や吉村氏によって一掃されている。そうして信長は岐阜へ帰国を果たした。

朝倉義景の失敗

そのように信長が上京焼き討ちを行う頃 浅井長政は馬場兵部丞に書状を発給している。

今度木戸御籠城付而 龍花途中十乗坊被申談旨 得其意候 御知行不可有異議候 彌御忠節簡要候 委曲赤新兵 中吉可申候 恐々謹言
                    浅井備前守
       四月二日          長政 花押
        馬場兵部丞殿御宿所
馬場文書 大日本史料

この書状から 同じ時期に木戸城は未だ籠城を続け 馬場が奮戦していた事が理解されよう。
織田軍は木戸のような局所を脇に置いて 何よりも大局としての足利義昭への対処を優先したのだろう。
実際に将軍足利義昭を対処した効果は直ぐに現れたことが 次の史料から窺える。

端裏切封
墨引
就信長上洛 公儀御難儀条可致参陣之旨 雖被 仰下候 江北表普請依申付延引候 仍和邇 打下其外拘切取敵城之間 軍勢并人足等往還不輒之条 彼要害共令一味 如先年此方人数入置候様 急度於才覚者 対 公私可為忠節候 委細申含西楽坊差越候 猶鳥居兵庫助 高橋新介可申候 恐々謹言
    卯月七日         義景 花押
       多胡宗右衛門尉殿
福井県史資料二 大日本史料 尊経閣古文書 五代発給文書二五九号

再び義景は多胡宗右衛門に書状を発給したが その時期は織田信長と足利義昭が和睦した頃である。
その内容は
足利義昭から参陣するよう命じられたが 江北表(小谷城 の普請に加え 和邇と打下等の要衝が敵に押さえられてしまい 軍勢並びに人数を往還する事が困難となったので 彼の要害共を再び味方に付けて 此方の兵を入れ置く事が出来るよう工作せよ
といったもので 情勢の変化に伴い志賀への実質的な出兵中止を示唆している。

特に重要なのは 和邇 を織田方としている点で どうやら金蔵坊の城は四月までに制圧されてしまったらしい。他にも織田方が押さえた要衝があるようだが これは 船路 の要害であるのかもしれない。

さて朝倉義景の失敗とは何であろうか。
一般的には武田信玄が西上の途にありながら越前へ帰国してしまったことがある。これは元亀元年(1570)の際も同じことであったが それが彼らの常識だったのだから致し方の無い部分がある。
本稿に於ける失敗とは 彼が敦賀に辿り着いた頃には今堅田が落ちていた点だ。

何よりも本拠地一乗谷から湖国が遠すぎたのである。
そこから考えると本拠を浜松に移した家康 岐阜に移した信長 甲賀に映した承禎のように 敦賀に本拠を移すことは出来なかったのだろうかと考える。しかし代々一乗谷を本拠地としてきた朝倉家にとって 敦賀というのはあくまでも一族の 敦賀郡司家 が治める土地であり 同家が永禄七年(1564)から元亀元年(1570)にかけて没落し 敦賀が宗家直轄となっても 同地に移転するという合理性が を上回ることは無かったのだろう。無論敦賀が政情不安な若狭と接していることも挙げられるだろう。

さて越州軍記には 四月中旬に山崎長門守吉家と魚住備後守景固の一千が若狭を攻めたとある。
果たしてこの記述は正しいのか 定かでは無い。

浅井長政と船木

ここで後世 十八世紀の正徳五年(1715)以降に 船木の材木座が記されたとされる由来書 従諸侯頭載之御証文数通 新古御検地帖面座役米年用無地高訳并諸手形諸書物其外船木材木座仲間由緒書載之写 山本家文書 を見てみよう。

元亀四年卯月廿二日付備前守長政御判あり
其郡寸別年領之事
去月永禄拾三年当年迄之
分相済候 但貫数両度二七百
本并米三石相越候 雖為少
種々就理如此也 委曲
中嶋又助可申候 謹言
  元亀四     備前守
    卯月廿二日     長政御判
        高嶋
          材木屋中
右者 足利高氏十五代目足利義昭天下之時 浅井三代目之長政
江州之内を知行し沢山に御居城ス 高嶌郡も領地之由

この書状は 多胡宗右衛門を考える 永禄期 浅井長政と高島 にて用いたものであるが こうした時期に長政が船木の材木座に対して永禄十三年(1570)同様にその権益を認めた書状の写しである。
多胡氏は朝倉に頼り 材木座は変わらずに浅井長政を頼りにしていたと思われ まさに高島郡は様々な思惑が複雑に絡み合う状況となっていた。
滋賀県中世城郭分布調査. 8 (高島郡の城) によれば 一乗谷で発掘された木簡の中には 御者多屋どの と書かれたものもあり これが海津の田屋氏を指す可能性もあるようで 彼らも多胡氏同様に朝倉義景を頼りとしていた可能性があろう。

時にこの書状が発給された十日前に武田信玄が没している。果たして当時長政が信玄の病没を把握していたのか定かでは無いものの 劣勢の中で高島船木の材木座の権益を認めることで なおも自らの影響力を保持しようと模索していたことが窺える点で 非常に有意義な書状である。
しかし朝倉義景も浅井長政も これ以上高島郡に介入することは無かった。

湖西総攻撃

元亀四年(1573)七月三日 将軍足利義昭が動いた。無論再び織田信長に挑む為である。
しかしこの蹶起は僅か十五日で制圧され 義昭は若江へ落ち延びる。一般的に足利幕府は ここで潰えたことになる。

その後 織田軍は山城国に残る敵 具体的には先に背いた渡邊宮内少輔や山本対馬守である。
彼らを退けた十六日 織田信長勢は湖西へ侵攻した。

史料に見る湖西攻め

信長公記 大日本史料 池田家本信長記 には次の通り記されている。

七月二十六日御下 直に江州高嶋表彼大船を以て御出馬 陸ハ御敵城木戸 田中両城へ取懸被攻 海手ハ大船推付 信長御馬廻を以て 可被攻之處二 降参申罷退 則木戸 田中 明智十兵衛に被下 高嶋 浅井進退之知行所へ御馬寄られ 林与次左衛門方所に至而参陣 當表悉御放火

また 当代記 には次のように記される。

七月廿六日 信長下給江州 田中 木戸両城被取掛所 城主令悃望 城ヲ相渡間 明智十兵衛二被下

更に 永禄以来年代記 には次のように記される。

七月廿七日信長坂本マテ下向高嶋へ入。国衆降参

以上である。

木戸・田中の降参

信長公記 では先に 高嶋表 と出てくる為 木戸と田中を 高島郡 と誤読する向きがある。
しかしこれまでも述べてきたとおり 湖西に於ける 木戸 田中 とは志賀郡の要害を指すものである。
一論説に 木戸 を越中家の清水山 田中 を田中家の田中 上寺だろうか に当てはめるものがあるが 両城が光秀に与えられていることから この二城が志賀郡である事は明白だ。

興味深いのは両城が如何様に落城したか という点である。
陸からだけではなく 海手ハ大船推付 信長の馬廻りが攻めたとある。
この中で 田中 は湖面に近く 大船で輸送された馬廻りに攻められた可能性があろう。

また何れの史料に於いても総攻撃を受けた事による 降参 としている。
一説に十乗坊は光秀に従い丹波で城を守り 更に後に秀吉に仕え太閤記にその名前が見られるというが 真偽はともかくとして 降参 したことで命を永らえたのではないか。
また 田中坊 は切腹したと福田寺に伝わるそうだが この伝承は 降参 と合致しない事を指摘する。

高嶋、国衆降参

信長公記 から高島郡に関わる部分を抜粋すると 直に江州高嶋表彼大船を以て御出馬 陸ハ御敵城木戸 田中両城へ取懸被攻 海手ハ大船推付 信長御馬廻を以て 可被攻之處二 降参申罷退 則木戸 田中 明智十兵衛に被下 高嶋 浅井進退之知行所へ御馬寄られ 林与次左衛門方所に至而参陣 當表悉御放火 全く以て曖昧な記述表現となる。

しかしこれは時系列にはなって居ないように思われ 南から攻め寄せた場合であれば 真っ先に志賀郡の両城に行き当たる。ただ南から攻めたと明示されている訳でも無い。
高嶋から攻めることで南北から挟み撃ちされた可能性もある。

確かに織田軍が高島郡に確保しているのは志賀郡と隣接する打下のみである。信長公記 では具体的な地名こそ出てこないが 林与次左衛門方 というのは打下一帯を指すものだ。
信長の行動について高島から上陸して志賀の両城を攻めたのか 比良から打下へ移動したのか定かでは無い。

高島に入った織田軍が行ったのは 放火 であることが 信長公記 から読み取ることが出来る。
その対象は 浅井進退之知行所 つまり浅井氏が自由に支配していた場所を指すが 具体的な地域は不詳である。ただ永禄期に浅井長政は今津周辺 酒波寺近辺を確実に支配していたので 同地域が焼かれた可能性はあろうか。

高島放火伝説

高島郡には戦乱の時代に放火された寺社の伝承が遺る。
高島郡誌 によれば 元亀の争乱下に四十程の寺社が 兵火 に罹ったと記されている。更に高島には 信澄 の兵が元亀三年(1572)三月に白鬚神社から酒波寺までの浅井方寺社四ヶ所を焼き払ったとの伝承 また八月には北仰 今津 の津野神社が 信澄 の為に焼かれたとの伝承が存在する。
これらを含めると 元亀争乱下の高島に於いて五十弱の寺社が焼かれた事になる。
こうした寺社の由緒は性質上伝承となり 史実かどうかも定かでは無く曖昧だ。

ただ一つ言える事は 信頼できる史料 饗庭三坊落去に関わる光秀書状 信長公記 に於いて高島郡が放火された事例は存在する事から こうした寺社の兵火に纏わる伝承も ある意味では史実に近いと言えるのでは無いか。つまり 信澄 が焼いたと考えられる伝承も 七兵衛の兵が行ったのでは無く 元亀三年(1572)五月もしくは元亀四年(1573)七月二十六日の高島攻めで焼かれたのが実情と言えるのでは無いか。こうした二度に渡る史実としての放火が 時間に経過により 信澄による 伝承へと推移したのだろう。

高島郡の戦後処理

永禄以来年代記 の記述 国衆降参 は二つに解釈が出来る。
一つは志賀の両城に籠もった 国衆 これは 信長公記 当代記 の記述と合致する。
もう一つは織田軍の総攻撃を前に為す術なく降参した 高島の国衆 である。

最も高島郡に対する攻撃は 放火 のみであり 高島の国衆は火に怯え降参したのだろうか。
何よりも四月に彼らは朝倉義景から見捨てられたも同然な対応をされ 戦う理由が乏しいようにも感じられる。

果たして如何様にして 降参 したか定かでは無い。現実的な折衷案を考えるとすれば 志賀の両城に 高島の国衆 が詰めており 両城の降参が 高島の国衆 の降参とするものが現実的であろうか。
実際 三月には朝倉義景とその側近が多胡宗右衛門に宛てて発給した書状に於いて 志賀両城への加勢を求めている。
それを踏まえると 高島の国衆が志賀両城の 降参 を以て反織田勢力としての活動を終了する点に何ら違和感は無く合理的な解釈と言えようか。

なお 越州軍記 では七月に多胡氏の注進により 山崎吉家らが高島に出陣したとの記述が見られるが これは前年の可能性が高い。
何より織田軍は折に触れて朝倉軍との対決を望んでおり もしも当年に朝倉軍が高島に在陣していたのであれば 信長公記 の記述も 放火 では済まないだろう。結局元亀四年(1573)の高島にて 大きな軍事衝突は見られない。かつて
斯くして湖西は七月二十七日までに制圧された。

国衆の処遇

元亀から天正への改元が行われたのは 湖西制圧直後の七月二十八日のことである。
信長は八月四日に一度岐阜へ帰国するが 八日に山本山の阿閉淡路守が内応したことにより十日には再び近江に出張している。
説明するまでも無いだろうが ここから始まる約一ヶ月の戦いにより朝倉氏と浅井氏が滅んだ。

さて刀根坂の激戦から二日明けた十六日 織田信長は多胡宗右衛門に宛てて次のような朱印状を発給したと伝わる。

一 信長公ゟ多胡家先祖へ被下候御朱印左之通り
 本知 当知行与力 寺庵 被官人 如前不可有相違 新知之義 磯野方ゟ可申付候 井山々破城之状如件
   天正元八月十六日                    信長御朱印
    多胡宗右衛門尉とのヘ
右之御判物有之
信長文書の研究上巻 底本は 田胡家由来書

信長公記 によれば この日信長は敦賀に駐留していたから 敦賀で発給された書状となろう。
果たして磯野員昌と多胡宗右衛門が敦賀に赴いたのか定かでは無いが 可能性はあるかもしれない。

さて書状からもわかるように 信長は多胡宗右衛門に対して知行から与力 寺庵に被官人といった全てを安堵し 更には新知も認め 素晴らしい待遇で多胡を迎え入れている。
また 山々破城 を指示したように あたかも織田方部将のような扱いである。
こうした厚遇は彼がおとなしく降参したことが影響しているのだろうか。

また 大日本史料 天正二年雑載 によれば饗庭三坊の中で 定林坊 が生き残っていた事がわかる。
これは 饗庭昌威氏所蔵文書 饗庭定林坊自分并家中田畠帳 六月吉日 とも記されているから 天正二年(1574)六月のものなのだろう。
他に マキノ町誌 は天正年間に田屋氏が活動していたことを示す。
何よりも朽木氏も健在であった事を忘れてはならぬ。更に言えば 史料の残存度から考えると志賀の陣で活躍した一揆衆も 生き存えたと考えることが出来る。

このように多胡氏 定林坊 田屋氏 朽木氏が生き延びた一方で 命を落とした者も居る。

杉谷善住坊の死

九月十日 三年前の五月に千草峠で信長を狙撃した 杉谷善住坊 なる僧侶が 高島から岐阜城へ移送されたと 信長公記 に見える。
杉谷善住坊について西島太郎氏は 延暦寺大講堂高嶋河上庄給主の二十五人を記した 河上庄地頭廿五房田数帳 という史料の 廿五坊之次第 こちらの二十一番に 善住坊 と記されていることから 山徒 であると指摘されたが
同史料の時代と杉谷善住坊の時代は少し離れており 給主 善住坊 と彼が同一であるかは定かではない。
一説に依れば彼は新庄城に近い 阿弥陀寺 に潜んでいたそうだ。

横山父子の死

永禄以来年代記 によると 霜月十日 江州高嶋ノ横山父子首京へ上 という。
つまり十一月十日に高島の横山父子の首が京に上った という話である。
高島で横山 というと西佐々木七人の横山氏が思い浮かぶ。
考えてみると 京へ上る ほどの身分の人物だ。やはり西佐々木同名中の横山氏だろう。
そうなると十一月に磯野員昌は横山とその息子の身柄を捕らえ処刑されたか 誅殺の可能性が考えられる。
この横山氏は永禄五年(1562)に坂本日吉神社で行われた足利義輝の 御礼拝講 にて名前が見られる 横山三河守 の可能性が高い。

その罪科は定かでは無いが 反織田勢力として活動していた事が原因であることは容易に想像が付く。しかし具体的な活動は定かでは無く 折から反織田勢力として活動していたのか 足利義昭の蹶起に同道していたのか 全く以て定かでは無い。

とかく横山父子の死を以て ここに高島郡の戦乱は幕を閉じたのである。
以降 高島郡は磯野員昌 織田信重親子と朽木元綱によって支配される地域と相成ったのであるしかし天正三年(1575)九月二日に北之庄に於いて打下の林与次左衛門が処刑された事 打下と小松の争論は近世まで続いたことを忘れてはならない。