打下集落と一揆

2022-07-09

大溝城と打下集落

大溝城を考える上で 城の東側を囲む砂州 砂嘴は重要だ。
近世 分部期には西近江路が通り 現在のような としての発展を遂げた。

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その一方で 織田期には砂州がどのような形態であったかを述べた論文は皆無である。同期の大溝城を知る上では 大溝城織田城郭絵図面 が広く用いられるが 同図に於いて砂州は描画されていない。
それならば周辺から歴史を探る事になる。

打下の戦史

古代であれば恵美押勝の乱で 大溝のある勝野の地名が登場する。彼は同地の 鬼江 で敗死を遂げるが この鬼江こそ大溝城を包む水域であり 江戸時代には 洞海 鴻溝 と呼ばれ 現代では 乙女ヶ池 として親しまれている。
戦国時代打下では天正三年(1575)に死罪となった林与次左衛門の存在ばかりが取り沙汰される。

確かに林氏は戦国時代 歴史の表舞台に登場する。
例えば六角定頼は某年五月七日 攻め寄せた北郡衆を 音羽表 にて追い崩した 林三郎左衛門尉 に感状を発給。音羽表 というのは大溝 勝野の西に位置し 横山氏が治めた横山地域との中間に位置するから 定頼期の林氏は打下から同地に至るまでの南北を広く領していたと考えても良かろう。しかし高島町史の 本願寺宗主下付物裏書一覧 によれば 打下は 音羽庄 であるから 北郡衆が攻め寄せたのは後述する 打下表 と同一で在る可能性も考えられる。

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永禄五年(1562)以降の二月九日に浅井長政が発給した伊藤當菊宛の感状から 前日の八日に打下表で戦いが発生している事がわかる。伊藤はこの戦いで 林内の河原崎弥太郎を討ち取っている。この打下表の地点は不明だが 定頼期の 音羽表 と同一であるか現在の大溝城周辺 または砂州の部分か根元に見えであれば 湖面からの攻撃も考えられようか。

以上二つの合戦から永禄以前の打下というのは 六角の影響を受けた林氏という国人が治めていた地域である事が窺える。元亀争乱では堅田の侍衆と共に海津等を船上から攻撃しており 林には湖族 水軍力を有していた事もわかる。
しかし次の書状から 打下にあったのが林与次左衛門をはじめとする侍 国人層に留まらないことが分かる。

磯野員昌移送に関して

磯野丹波方高嶋へ被相越ニ付而 当所舟之事申越候 林与次左衛門尉方儀 当所衆無心元可被存候歟 然間磯丹一札林かたへ遣候 可披見候 此分之旨少も不可有異議候 次一揆衆万一此方之儀無心元候者 明智十兵衛へ被申 人質被預 舟之儀廿日以前ニ百艘之分 至松原浦可有着岸候 雖不可有疎略候 惣分之御馳走専一候 委細鈴村兵四申含候 惣中へ磯丹一札在之由候 可被入魂候 恐々謹言
        丹羽五郎左衛門尉
  二月十七日   長秀 花押
 堅田
  諸侍御中

これは読んで字の如く 元亀二年(1571)二月に降った磯野員昌を高島へ移送する際に丹羽長秀から堅田の侍衆へ出された書状である。
この中で長秀は 当所衆 一揆衆 無心 である事を示すために 人質を出すとしている。
当所衆 一揆衆 について一見すると宛所の堅田諸侍に見えるが 堅田諸侍は前年秋の志賀の陣で織田方に与しているため当たらない。すなわち これを 林与次左衛門 に連なる衆中 一揆衆であるように見える。
この 林与次左衛門 とは 後に信長公記で 打下の林 として登場する人物その人であり 彼は打下の侍 その責任者として移送に当たっていたものと考えられる。

すると打下には 一揆 が存在した事が分かり 彼らが 舟手 を構成していた事も理解できるだろう。

打下一揆の存在

この時代の 一揆 では 一向一揆 が思い浮かぶ。
実際に打下には二つの真宗寺院が存在する。

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入り江の根元に 浄照寺 山側に 最勝寺 である。
この中で 最勝寺 については 永正年間には記録に見られるらしい。また天文年間の山科本願寺焼亡に関する 堅田慈敬寺への籠城戦には最勝寺の二代目とされる 明誓 打下明了 が記録される。
しかし二代目の 明誓 に関しては 南市 に在った 妙琳寺 を冠し 妙琳寺明誓 と記される。更には天文十一年(1542 十二月二十七日に 証如から 高島郡田中郷小目代の明誓 に下付された親鸞影像の裏書きが現存するそうで 明誓は二足の草鞋を履いていた可能性が山田哲也氏に指摘されている。

浄照寺 に関する情報は少ないが 室町時代には存在していた。高島町史によれば明応三年(1494)四月に 実如により阿弥陀絵像を下付されているが これが高島町内では最古の下付物であるそうだ。その際の願主は 他力堂妙光寺 と記され 若狭小浜の妙光寺門徒であることが 此方も山田哲也氏に指摘されている。

総合すると新行紀一氏が指摘するように 林を頭とする侍衆 国人衆とは別に二ヶ寺による一揆が存在し 彼らが舟手を担っていた可能性が高いと見える。

打下の構造

まず琵琶湖の舟手に関する構造を纏めると次の通り。
堅田
┣打下
┃ 
┣沖島など諸浦

なぜ打下に関して 堅田諸侍 に通達をするか それは以上のような構造に依る。こうした構造は 湖上関 に依る部分も大きい。
鍛代敏雄氏は打下に 湖上関 が設置されていたとし 打下はじめ大浦 小松 比良の 諸浦 から堅田へ 勘過料 本来は船舶の入港に課された関銭 が治められていたと述べる。

もう一つ構造を述べるならば 堅田では 諸侍 地下人 一揆衆 の二つに分かれる構造があった。それは前年秋に発生した堅田の戦いにて 諸侍が幕府 織田方 地下人が朝倉浅井 高島三浦一揆方に分かれて戦った事でわかる。
堅田の戦いでは諸侍が壊滅的な被害を受けたが それでも二月には一定の回復が見られる事が分かる。一方で勅命による和睦の後 地下人がどのように過ごしたのかは定かでは無い。

対して打下の侍 林は その処刑の際に志賀の陣での敵対を咎められたと言うから 信長公記 打下の侍と一揆は敵対する事無く 一体として行動していた事が推察される。

打下の暮らし

打下集落の地下人の生活は その伝承から推察する事が出来る。
まずは内陸部では農耕が行われたという。この内陸部には古く 西近江路 が通っており 今では湖西線と乙女ヶ池の間に広大な田園風景が展開されるが 戦国時代にもそのような農耕が行われていたのではないか。

舟を操る人々は 普段は漁を行うほか 湖面の物流 流通に従事していた可能性が考えられる。
先に 最勝寺 と南市の 妙琳寺 に同じ 明誓 の名前が見られるとしたが 恐らくは天文年間には南市の商人たちは打下を湊に商売を行っていた可能性も考えられる。
打下と南市は 西近江路 で繋がっているし 打下から南の比良にかけては今でも狭い明神崎の先端部であり 舟による輸送の方が捗るようにも思える。

そして何よりも 湖上関 の運営が大事であろう。

その信仰は浄土真宗に依るが これは他地域に広大な規模を持つ宗教と 地下人の舟手による流通 物流の合点による結合が大きいだろう。真宗は物流 流通によって 地下人たちは信仰によって その版図を拡げたと考えても面白そうだ。

打下城について

こうしたところで 林与次左衛門に代表されるような打下の侍衆の暮らしぶりは定かでは無い。
一般的に大溝城の背後の山に 打下城 と呼ばれる山城が知られるが 同城に林が入っていたとする確証は存在しない。
しかし痕跡からは元亀から天正初期の痕跡が見られるとし そこから彼が入っていたと考えるのは自然だろう。

ただ論として 詰めの山城 平時の平城 というものがあり それに則れば平時は砂州の周辺に林の館が在っても不思議では無い。そうしたところで丸山竜平氏は 砂嘴の基部に堀切が設けられていたと指摘し 同地か大溝城の周辺が相応しいとする。残念ながら丸山氏が述べるような堀切の痕跡は ストリートビューや航空写真では認められないが 私も概ね同じような考えを抱いている。

ところで江戸時代から明治時代にかけては 打下城のある山を 長法 寺山 と呼んでいたようだ。その名の通り山寺が由来となるが 高島郡では同様に上寺を田中家 清水寺を越中家が城郭化した事例が存在しており この城も同様に寺を城郭化したものと思われる。
なお伝承によれば元亀三年(1572)に信長によって焼かれる事で廃れた と言われる。すると元亀三年(1572)までは寺としての機能を維持していたのだろうか。しかし同年 林は既に織田方であるから攻める事に意味を感じない。更に言えば翌元亀四年(1573)七月二十六日には 信長自身が 林与次左衛門所 信長公記 に参陣して作戦の指揮を執っている。これはまさしく 打下城 を指すのであろう。

すると 長法寺 が廃れた時期に関しては再考が必要だ。
天正元年(1573)に山城の破却が命じられ 天正三年(1575)には林与次左衛門が処刑される。
恐らくはこうした時期に廃れていったと考えるのが自然だろう。

その後の打下

高島町史によれば江戸時代末の記録 鴻溝録 には 長浜築城の際に 当浦船持漁師へ船三艘命せられ 水主共七十餘日相詰と云 とあるそうだ。長浜市史によれば築城の時期は天正二年(1574)から一年間とあり 天正二年(1574)の出来事と考えるべきだろうか。
この 当浦 とは大溝の漁師と捉えられているが 打下地下人の可能性も考えられるだろう。

林亡き後 大溝城が築城されると 砂州に 大善寺別院 が置かれる。これは新庄に在った寺を大溝城の 城下 に建立されたものだ。現在は城の西側の山際に置かれているが 高島町史は分部期まで 勝野の浜辺 現日吉神社御旅所 にあったとする。この御旅所こそ 砂州の上に位置する。

また別の記事で述べるが 大溝城の東側に延びる砂州は守りの要といっても過言ではなく 湖面を見張る何かしらの設備があっても良いように感じられる。
同様に砂州上の 打下集落 湖面から見た場合 城の表 となる。そうした彼らの軍事力があったからこそ 大溝に城が置かれたと考える事も出来る。
また発掘調査により 天守と水面が接する部分が段状となっている事がわかり 天守からの乗船も考える事が出来る。
大溝城織田城郭絵図面 では天守と琵琶湖が接しているように見られるが 実際は砂州が阻んでいるので 砂州で乗り換えねば湖上へ出る事は出来ない。確かに航空写真やストリートビューで見ると砂州は水路を以て二分割 更に高島町史の 古代推定復元図 第二章第二節勝野の鬼江 勝野の鬼江周辺略図 によれば三分割することが出来る。この砂州の分け目に船を通す事が出来たのなら湖上へ出る事は容易であるが 当時の規模が定かでは無い以上は何も言えない。

何れにせよ彼らは武装を解除し それぞれの生業に専念したのか。時には 城から直接もしくは砂州で積み替えて 信重の軍勢や兵粮の輸送に従事した事もあったのだろう。また湖上関の運営も担っていた可能性もあるのではないか

打下ゆかりの京極忠高

信重が滅んだ後に暫くしてから京極高次が入城するが その際に手をつけた山田氏の出自は打下集落 更には最勝寺の関係者と伝わる。即ち松江を治めた京極忠高は打下集落をルーツに持った人物であり 打下が生んだ傑物とも言えよう。
余談であるが高次の正室 初は このお手つきに強く憤ったと言う。忠高は或る家臣に養われたが 初はその家臣にも憤り 遂に家臣は浪人となってしまった。その名を 磯野善兵衛 と云い 磯野員昌の一族 子息と言われる人物である。
幸い忠高は祖母マリアや叔母龍子の執り成しもあってか 文禄四年(1595)に初との対面を遂げたが 磯野は初が亡くなるまで浪人を余儀なくされたという。

参考文献

東浅井郡志 高島郡誌 高島町史 マキノ町誌 新旭町誌
戦国遺文佐々木六角氏編
親鸞聖人と真宗 千葉乗隆 幡谷明編 第三章真宗教団の推移 石山合戦期の湖西一向一揆 新行紀一
講座蓮如第五巻 近江湖西地域における蓮如教団の形成と展開 山田哲也
戦国時代の関所についての一試論–近江国沖嶋の湖上関をめぐって 鍛代敏雄 日本歴史五〇七 一九九〇年
江州高島郡における中世城館址の諸問題 丸山竜平 立命館文学第五二一号 一九九一年六月号抜刷
戦国期室町幕府と在地領主 西島太郎 松江藩の基礎的研究 : 城下町の形成と京極氏 松平氏 西島太郎

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