永禄四年の争乱、永禄五年の動静

本稿は永禄四年(1561) 永禄五年(1562)の六角そして浅井の動向を見ることで 高虎の前半生を考え直していくものである。
date: 2023-03-11

永禄四年(1561)の争乱

永禄四年(1561)は南北境目の城を巡る大規模な攻城戦が展開された画期的な年である。時に藤堂高虎六歳の頃合いである。
南北争乱は永禄二年(1559)の肥田騒動に端を発し 前年に世継での軍事衝突 そして本年の太尾 佐和山を巡る攻防という段階を踏んで再開したと言えよう。

佐和山城合戦

話は前年に遡る。
世継での争乱の最中 六角承禎が攻め上がり それに呼応した美濃兵が国境を越えるとの風聞があった。
結局のところ六角承禎は北郡まで攻め上がる気配なく争乱もその後落ち着いたと思われるが 美濃と接する北郡にとって美濃兵が国境を越えることは重大なる存立危機事態であった。

矢銭

東浅井郡志によれば 賢政は十二月二十一日に飯福寺へ矢銭一万疋に対する礼状を認めているが 重ねて諸寺へ 年内に御調 が肝要であるとしている。
時期的に世継での争乱 承禎との対決に関わるものであるようにも思われる。
賢政は中村道心兵衛を討ち取るだけでは満足せず 更なる戦を想定していたようだ。

今井家中の調停

この項も東浅井郡志の焼き直しになり恐縮であるが 見出しの通りである。
要は今井定清の老臣 島若狭入道は少し思うところがあったらしく 賢政は二十八日に赤尾美作守清綱に調停と奉公の相違なきを命じている。
赤尾が若狭に書状を認めたのは晦日の話で 浅井家中は慌ただしいまま年を越した。

永禄四年(1561)初頭の動向

さて永禄四年(1561)の賢政の動向を見ていこう。
既に高島の歴史でも見たように 菅浦文書を読むと菅浦と高島今津の新保で何かしらの相論が行われている。菅浦の裁判権を担う浅井家はこれに介入しているが その際に正月に喧嘩 某年二月九日付の賢政書状が当年であれば 今津梅原で合戦が行われている。その際に 委曲磯野丹波守 とあることから 善兵衛は二月までに受領名を得ていた。

二月十一日 賢政は多賀大社へ両種一荷を贈っている。一見すると既に多賀大社を含む犬上一帯が浅井の配下のように思うだろうが これは梵鐘以来の大社に対する音信であろう。ただそれでも多賀大社への信仰という観点から見れば これより始まる争乱への戦勝祈願であったのかも知れない。

東浅井郡志の四巻 史料集 には 大原観音寺に伝わる書状として二月十日に遠藤喜右衛門尉直経が同寺に発給した書状が掲載されている。

二月十四日に賢政は総持寺へ掟 禁制を発した。

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佐和山城・百々の切腹

それからしばらくした頃 中郡でも大きな動きがあった。
醍醐寺の僧侶が遺した記録 厳助往年記 が曰く

永禄四年三月 江州佐和山城自南取之 百々切腹云々

村井祐樹氏は 戦国大名佐々木六角氏の基礎研究 のなかで この戦いに関する承禎の感状を掲載している。これは刊行されている遺文には未収録で 東大史料編纂所で閲覧の出来る補遺にも収録されている。西村文書 遺文補遺三十三
その内容は承禎が三月二十八日 河瀬官兵衛に対し 先夜の佐和山落城の際に敵首一つ 不知名字 の被官西村十介を捕らえたことは高名であると称えているものだ。

つまり三月二十七日に六角軍は佐和山城を攻め あっという間に陥落せしめた。城主の百々氏は腹を切った。
この百々氏は六角氏にとって少々厄介な存在で 天文十八年(1549)に京都で奉公衆一色式部少輔を殺す大喧嘩を起こし 更に弘治元年(1555)には 覚悟相違 を起こし義賢によって征伐を受けている。
前年の承禎条々から永禄初頭の佐和山城が六角方であったことは確かであるから 百々氏は浅井の離反 再びの北郡蜂起に乗じ 佐和山に兵を挙げたのだろう。なお百々氏は元亀争乱の際に屋敷を呆気なく織田勢に明け渡している。境目の国衆はこれぐらい逞しい方が良い。

寺倉表合戦

六角勢は佐和山城を奪取するだけに留まらず 閏三月末には今井勢と交戦している。
これは定清が閏三月晦日 井戸村小次郎に宛てた書状よるもので 昨日 中村方と渡り合い中村方を討ち取るも井戸村の 親父 が討たれたことに哀悼の意を示している。
東浅井郡志は井戸村氏の系図から 討たれたのは井戸村清光で 寺倉表合戦で討たれたことを示している。
寺倉は天野川の流域で 現在の北陸自動車道米原インターチェンジに近い地域だ。かつて 京極六郎の乱 で北郡 六郎方と六角方の最前線となった 地頭山城 の北麓に位置し 同地から東へ一キロ弱に東山道が通っており 寺倉を抑えることによって東山道支配の強化 樋口から番場 摺針峠を越え佐和山城下へ出る 北郡勢力に取り込まれた坂田郡を牽制するために兵を出したものと思われる。

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六角方兵力について

この戦いで河瀬菅兵衛や 世継での争乱で討たれた中村道心兵衛の族と思われる 中村方 が見えることは興味深い。北郡方は四ツ木表の争乱から一貫して境目最前線の主力であったようにに思われるが ここで史料から類推出来る六角方兵力を考えてみたい。

河瀬菅兵衛

河瀬菅兵衛は中郡の名族 河瀬一族である。
この名前で調べてみると少し興味深いものがあった。
まず文明十五年卯月廿五日の 多賀社家連署起請文 多賀神社文書 には 河瀬菅兵衛が歳次第の御法に背いたことについて 菅兵衛に同心するものは神罰を蒙り 合力した者を末代まで社家出入り禁止とする厳重な制裁が課せられている。
今回活躍した菅兵衛は この菅兵衛の末裔であろう。

その後河瀬菅兵衛は蒲生家関連の史料に見られることから どこかの時期に蒲生氏郷に仕えていたことがわかる。
蒲生郡志巻三 にある天正十五年(1587)の日野綿向神社奉加帳には拾疋寄進した河瀬菅兵衛の名が見える。承偵から感状を受けた人物の後裔か もしくは本人であろう   会津若松史第八巻 には文禄二年五月十一日に蒲生家家臣が 長井村百姓中へ入会山の掟を通達しているが その中に 河瀬菅兵衛兼治 も署名している。先に寄進した河瀬菅兵衛が この河瀬兼治であるのかも知れない。
さらに 近江日野町志巻上 にある 蒲生家支配長 には 蒲生秀行の時分として河瀬菅兵衛の名が見える。九百石であったらしい。兼治かその後裔だろうか。

中村氏

中村氏もまた中郡 それも坂田郡の士なのだろうか。
嶋記録は中村道心兵衛について 長野の住人中村道心兵衛といふくせもの 浅妻の加番つとめて帰し時 と叙述するが あくまで参考程度で実情は定かでは無い。長野とは調べると愛荘町に長野が見えるが 此方であろうか。また嶋記録には新右衛門秀厚の妻が サツマ村の住人中村娘 三男三郎右衛門は サツマノ中村養子ニナル との記述が見られる。サツマ とは中郡を代表する湊の一つである 薩摩 であろう。

梅戸高実

江戸時代中頃 宝暦十三年代(1763)に成立した 三国地誌 という地誌によると 六角定頼の弟 梅戸高実は永禄四年(1561)四月十日高宮で頓死したという。これは 高山公実録 にも何故か引用されている。
この三国地誌は藤堂元甫の企画で制作された。元甫は藤堂采女家の祖元則の曾孫にあたる人物であるが 彼は全巻の完成の前年 宝暦十二年(1762)に亡くなった。
この伊賀城代家の調査によって梅戸高実の死は 高宮で頓死 とされた。その根拠は定かでは無い。遺文にも高実の死を悼む内容の書状は見られない。

それでも伊賀に本籍を持つ筆者は元甫たちに敬意を表し 信頼してみる。
考えてみると四月十日というのは佐和山落城から一月経った頃だ。
何故高宮で亡くなったのかは定かでは無いが 土地の名士である高宮氏に挨拶か交渉 はたまた連歌の心得のある彼らと連歌でも嗜んだのであろうか。高宮町史では一貫して反六角の高宮氏であるが 史料には六角の勢力下でのびのびと過ごし 天文十三年(1544)十月には連歌師宗牧を迎え入れたり 天文二十三年(1555)三月には河瀬勘兵衛と共に有馬湯治と石山本願寺寺内町を訪れた様子が記録されているので 彼らもこの時は六角方として佐和山を攻めたと考えられる。先に有馬や石山本願寺で旅を共にした河瀬勘兵衛は 佐和山城合戦で活躍した同名河瀬菅兵衛本人か 一族であろう。

そもそも梅戸が佐和山城合戦に関わっていると思われることは興味深く こうした対北郡の戦争に北伊勢衆が動員されていた可能性を見ることが出来る。
ここまで全く藤堂家要素が無かったのだが こうした六角方として高虎の父や祖父 多賀一族が従軍していた可能性もあるだろうか。

太尾城合戦

通説では軍記をもとにして 美濃より取って返した浅井勢が佐和山城を取り返したとしている。
しかし史料が充実した今では違った姿を見ることが出来る。
まず浅井賢政が帰国した時期であるが 閏三月九日に薬神社 称名寺 何れも現在の長浜 へ禁制を下していることから この時期までには近江へ引き返していた。

横山入城

こうしたところで浅井を中心とする北郡勢力は 郡の境に位置する横山城を最前線の砦と定めたらしい。
閏三月十三日に赤尾清綱が中島日向守 宗左衛門直頼と言われている 大原観音寺が 横山入城衆より濫妨 を受けていた事について謝したという。大原観音寺文書
大原観音寺は横山城の東側にある 坂田郡の古刹である。そういえば美濃出兵を直前にして遠藤直経は同寺に書状を発給しているが そこには 縄之義其寺へ申懸らせ とあり 東浅井郡志は横山の修築城の 縄張り に関わる内容としている。

竹中氏の越境在陣

あたかも坂田郡を巡り北郡と六角が対決を強めているように思えるが 実のところは違う。

遺文を読むと閏三月十七日に 承禎 義弼親子は本能寺に対し 在陣について三種三荷を贈られた事への感謝状 遺文八一九 八二〇 を認めている。同日同寺へ右近大夫 隠岐賢広 右兵衛尉 平井定武 の禁制も出されている。
村井祐樹氏は五月の細川晴元 細川晴元の和睦に端を発し 七月の末に京へ出張したとの見解を示す。厳助往年記によれば 法華宗払 とて どうやら六月には上洛の風聞が流れていたらしい。結局本能寺への禁制はよくわからないが 閏三月には法華宗払の六角上洛の風聞はあり 危機感を覚えた本能寺側が先手を打ったのだろうか。
承禎は長慶と和睦をしていたけれども 永禄二年(1559)に伊賀諸寺に対三好を念頭に置いた合力要請を行い 前年の条々でも三好を警戒視していた。村井祐樹氏は和睦状態にあったとしても 裏では様々な政治的駆け引きが行われていたのであろう 六角定頼 との見解を示す。

話が逸れた。
そのような緊迫感が漂う中で 閏三月廿五日に義弼は竹中遠江守に対し 今度者至大原口在陣 尤祝着候 合力を謝して 猶建部日向守 忠利 種村大蔵丞 貞和 可申候 としている。遺文八二二 建部種村に関しては本筋と何ら関係が無いが 単に筆者が入れておきたい気分であった
竹中遠江守は竹中重元 重高 とされる人物で 一般的には半兵衛重治 久作重矩の父として知られる人物であるが 竹中氏は遂に国境を越えて坂田郡の大原口に兵を出した。具体的な地名は定かでは無い。
承禎は前年に美濃勢が自分たちに援助するのか疑問を抱いていたが 美濃勢は確かに同盟を守り兵を出したのである。
六角勢が寺倉での合戦に至ったのは こうした竹中勢の大原口在陣と対応するのかもしれない。

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賢政の終見

観音寺文書には某年四月四日に浅井越中守井演 伊吹因幡守政家 野村伯耆守定但が連署した書状が見られる。大原観音寺の山林に関して 當城麓之儀 であることから注意するように堅く申し付けると誓したものである。
年次は東浅井郡志が 此年の前後にや とするが 便宜上ここに記す。なお野村は永禄二年(1559)九月に京極高佳が総持寺へ制札を出した際に 猶大津三郎左衛門尉 野村伯耆守可申候 高佳の配下であった人物である。

京極を吸収した今 本領たる坂田郡南部は浅井の守りし土地であり 特に南に六角東に美濃勢と敵に囲まれる状況にあっては 土地の者を何とか北郡勢力へ引き入れる必要がある。
その中で四月十四日 賢政は光汲房の長岡郷の知行を安堵している。

また四月二十五日には竹生島が 京之八幡 郡志 石清水八幡 の再建のために納付すべき用脚三千疋を納めている。そういえば藤堂も村内に八幡を有するが 藤堂諸氏も納めたのであろうか。
そしてこの竹生島年行司宛の備前守賢政書状が 賢政 の終見である。
六月二十日の書状では 備前守長政 を名乗る。ここに六角義賢からの偏諱 を捨てたのである。
なお受領名 備前守 は二月十四日の総持寺宛禁制が初見である。磯野員昌も同月に 丹波守 と称しており 同時期に両名が受領名を称しはじめたのは興味深い。
長政に関しては父久政が 左兵衛尉 から 新九郎 へ戻していたことで親子揃って 新九郎 が並立しており その煩わしさから祖父亮政の 備前守 を称したとも考えられる。なお父久政が 下野守 を称したことがわかるのは 永禄十一年(1568)の朽木元綱宛書状である。

時代の変わり目

五月六日 細川晴元と三好長慶は和睦し 晴元は摂津普門寺へ幽閉された。これにて三好と細川晴元の因縁に終止符が打たれた。
そして十一日 父道三を討ち果たし 代々悪逆 の名を欲しいがままにしながらも その武勇と国衆をまとめ上げる統率力が幕府に評価され一色姓と相伴衆 更には左京大夫に任じられた 一色義龍 が亡くなった。
四月に梅戸高実が亡くなったらしいことを踏まえると まさに時代が動く年でもあったといえようか。
この時代の変わり目 浅井長政の主役の一人であった事は間違いない。

六月四日 遠藤直経は三田村伊與に対し書状を発給している。これは折からの竹生島東蔵坊の造作が延引している事に関する書状であるが 文中に 昨夕太尾ヨリ被申越候条 則備州へも其由申上候 とある。
これに関連した六月五日付の富田大工太郎兵衛へ宛てた長政の書状には 令在城 とある。いずれも東浅井郡志 阿部文書
ここで 太尾 という地名が見える。
太尾城は天文七年(1538)の定頼北郡御陣以来六角方の最前線で 京極六郎の乱では父久政が攻めた城でもある。
このとき遠藤が 太尾ヨリ被申越候条 としていることは 六角方と何らかの交渉があったのか 既に北郡勢力が囲んでいたかの二択であろうか。
なお長政は 在城 とてあることから 東浅井郡志は小谷城に居たとする。

問題だらけの太尾城合戦

年次のわかる史料 先の阿部文書は年次不明 で長政の初見となる書状はとても興味深い。
永禄四年(1561)六月二十日 浅井備前守長政は垣見助左衛門に対して書状を発給した。
その内容は垣見助左衛門は与力である筈の同名 新次郎が赤尾新兵衛 清冬 に与力に取られてしまったので 此方へ帰せと訴えた。それに対し長政は 此表一途之間拙者え被預置候 だの 不及申此一陣相済候者 如前々可返進之候 終結後の返還を約し当座の我慢を頼んでいる。
すでに六月二十日時点で浅井方が戦闘状態になっていた様子が窺えるが 先の遠藤直経書状を見ると これが 太尾城合戦 に於ける史料の一つとなろう。
東浅井郡志は 兵力の不足を憂い としているが このようなところで天文年間に活動した京極六郎とつい比較をしてしまう。
まだまだ十七歳と若き長政に 通説言われるほどの求心力は未だ無かったのか はたまた美濃と中 南郡の六角方に囲まれる情勢がそうさせたのか定かでは無い。
六角勢が太尾城の後詰めに兵を出した様子も 関連する書状は見られないのは 最初から浅井 北郡勢力の兵力が恐るるに足らずと判断していたのかもしれない。

六角の動き

なお遺文一二一六の某年七月二十日付檜山左衛門尉宛義弼書状は関連するものであるかもしれない。というのも文中で義弼は六角軍が六月十六日に守山へ進発 京表為可及行 来廿八ハ出勢候 とあるが 村井祐樹氏が基礎研究に附編した編年記録史料集を読むと七月二十八日に六角軍は軍勢を以て上洛していることが窺える。すなわち義弼の記述は概ね永禄四年(1561)の記録と合致しており これは永禄四年(1561)のものである。
さて文中冒頭で 其表御働 于御延引如何儀候哉 としているのは何であろうか。そもそも檜山左衛門尉が良くわからない。調べてみると 高野合戦雑記 なる軍記に 永禄六年(1563)三月に畠山高政軍と高野山軍の間で行われた戦いでの一幕に 檜山左衛門尉久範 が見える。どうやら畠山高政の配下にあったら人物であるらしい。
畠山高政はかねて三好長慶と敵対する人物で 前年秋に高屋城を失っている。
どうやら この書状は高政方との連絡で 六角父子は彼らと連携を図ることで三好長慶を攻め立てようとしたらしいが 高政方は少し出遅れたようだ。

またも本筋から逸れた。こうした畿内の兵乱は それを得意とする諸兄がいらっしゃるので諸兄に譲る。
すなわち六月十六日に六角勢は観音寺を出立し守山を目指した。その四日後までに長政は太尾城攻めの為に出陣していた。
果たして六角勢は守山でどのような一ヶ月を過ごしたいたのか。太尾城の攻防について情勢を見極めていたのか ただ諸郡から兵を集めていたのか。

今井定清事件

浅井勢は兵力に欠け 太尾城攻めは苦戦した。
その中でいち早く北郡勢力に呼応した今井定清は 本丸に舎兄 二の丸に舎弟の吉田氏が射手二百人の厳しい用心のなかで 如何に攻めるか考え込んでいた。
そこで定清は夜襲を思いつく。小谷城から加勢を乞い 更に伊賀衆を城に忍ばせ 城中に火の手を上げさせ それを合図に本丸二の丸を攻めるべしとの策である。
七月一日の夜に作戦は決行されたが 忍び入り太尾に火の手が上がるまで時間がかかった。
今井家中の嶋若狭守は 夜もようよう明るくなれば 早々引き取ろう と言われて後ろ髪を引かれる思いで引き返した。
しかしタイミングが良いのか悪いのか そうしたところで太尾に火の手が上がったとの注進が入る。
定清は さればこそ小谷の勢に先を越されては口惜しい次第 とて引き返してしまった。
しかしまだまだ暗がりの時間で 勢いよく城へ走るので 小谷の勢は敵と思ったのだろうか 定清は鑓に突き通され 絶命し馬から落ちた。
今井勢はあまりのことに呆然とし ただただ定清の遺骸を 城に攻め上がる小谷勢からのけるのが精一杯であった。
結局この夜襲は 太尾城大手の火の手は打ち消されて守兵たちがせいぜい 用心せよ と厳命される程度の 音も出ない失敗に終わった。

以上 滋賀県中世城郭分布調査 伊香郡 東浅井郡の城 に収まる嶋記録から 今井備中守定清の最期に纏わる叙述を意訳した。

嶋記録について

しかしここまで書いておいて元も子もないが 嶋記録は所収文書にこそ価値はあるが その他の叙述に関しては一段二段信憑性が下がるところがある。
それでも定清と筆者は 天文の下之郷合戦以来の仲 であり ただ 太尾城合戦で定清は同士討ちで死んだ とするよりは こうした叙述で偲びたいものである。

赤尾の謝罪

今井党は境目のなかでも大きな勢力であることから もはや北郡勢力 浅井方は城攻めなどやっている場合ではない。
赤尾美作守清綱は 七月三日に今井家中 今井藤九郎 今井中西 岩脇筑前守 嶋若狭入道 今井藤介 嶋四郎左衛門 へ平身低頭の謝罪文を認め 遠藤直経が発案し自らの妹婿田那部式部 今井家中 に定清へ意見させ 夜襲を実行させたことについて 両人に嫌疑は無いと陰謀説を否定している。
つまり同書状から 定清は夜襲を思いついていないこと 太尾城の大手を浅井方は 吉田御在所 と認識していたことが窺え 太尾城の守将が吉田氏であったことを知る。
嶋記録には射手が二百人とはあるが 弓道に長けた吉田一族のものであろうか。また定清の舎兄と舎弟が守るというのは 定清自身も弓術に通じていたのであろうか。

下手人、謹慎

嶋記録には七月五日に磯野員昌は今井家中 今井中西 今井藤九郎 岩脇一介 嶋若狭入道 嶋四郎左衛門 へ起請文を提出した。
この起請文から定清を殺した 小谷勢 とは磯野員昌の兵であることが察せられる。
員昌の兵で無いにしても 前年からどうやら北郡勢力 浅井方の先駆けとして員昌は活動しているようなので 現場責任者としての謝罪もあるだろう。
員昌は 天道如何なる神仏の罰を受けてもかまわない 世上が静謐になっても二度と人様に顔向けすることは出来ない と罪を認め なんと 一先山中のすまひ仕候 山中 故郷磯野山か で謹慎していたのである。

またここで員昌は 霊社起請文 を提出しているが 員昌は吉田兼右と親しい神道の理解者であり 起請文の効力は有効であったことだろうか。

六角の上洛

かくして太尾城合戦は境目の大将今井定清を最悪の形で失い 更に先手の大将磯野員昌は謹慎という 何も為し得ぬまま終結したようだ。浅井家自体も書状の発給は年末まで行われず 更に東浅井郡志などは一気に永禄六年(1563) へ飛んでしまう。これは太尾城を奪えぬまま 兵を退いたと考えるのが自然であろう。恐らく横山城からも兵を退いたのでは無いか。
だからこそ六角父子は中郡 北郡境目に何の憂いも無く腰を据えて 七月二十八日堂々と京都へ上洛 打ち入ったのである。

永禄四年(1561)のその後

六角軍は京都で越年したようだ。
一説 長享年後畿内兵乱記は十一月二十四日に 白川口の合戦で永原安芸守が討死とするが定かでは無い。
在陣しながらも観音寺の統治機構は機能しており 十二月には竹生島日御供米を高島の多胡権助が押領したことに布施淡路入道公雄 遺文八四九 深尾民部丞賢治 遺文八五〇 が対応している。
また年次不明ではあるが遺文一一八一の河瀬菅兵衛宛承禎文書は 某年十月十日に度々注進する河瀬の油断無き行動を 尤祝着 とする承禎の書状である。簡単な内容で年次の比定は困難であるが 一応便宜的に当年の出来事に入れておく。

浅井長政は十二月四日に 飯福寺に対し伊賀衆へ釣銭を渡すべきであると命じ 二十一日には竹生島の買得田地などを安堵している。

永禄五年(1562)の動向

六角勢は越年し戦闘を続け 六月に帰国した。五月五日には義弼賢永兄弟が賀茂社での競馬を見物したらしい。
遺文八六〇は三月十日に但馬守 後藤賢豊 が多賀久法軒へ宛てた書状を 多常陸 久法軒多賀常陸入道^ が米原平内兵衛^へ書写して送ったものである。
久法軒多賀常陸入道が書写したのは 賢豊から送られた 御屋形十六条 小野庄近辺儀付条々被仰出事 であるが どうやら承禎 義弼の時代であるが承禎は一貫して御屋形であり続けた が中郡の支配について指示したらしい。

^:多賀常陸入道に関して 淡海温故録 諱は 以仙 息に後に信長に仕えた 新左衛門賢永 が居るとする。実のところは定かでは無い。/20240511 注釈加筆
^:米原平内兵衛は出雲尼子家臣の米原綱寛のこと。出雲への音信を想起させる。/20240511 注釈加筆

御屋形十六条

この十六条については牧原成征氏が 江北の土地制度と井戸村氏の土地所有 以下牧原 湯浅治久氏が 戦国期 荘園制 の収取構造と侍 村落 中世後期の地域と在地領主 以下湯浅 で言及している。ここではそれらを参考にしつつ 個人的に気になったところを見ていきたい。

各被相拘知行分并草大訴訟申五人衆 其外今度被成御対面候衆跡職年貢米之事者 如前々可有納所 草大知行分之事者 去々年迄百々与被立相候時之可為所務事
百々跡仁不相紛様仁古帳ヲ被出 急度両四人立会可有用事
礒畠 坂田郡 年貢米之事 始新蔵当一所務之儀者 伊賀銭二被仰付段 無異議御請被申 庄内仁在之他納之分者何茂□□納所 於磯畠者 縦草大雖為被官人 無別儀様に可相理 自然菟角被申候者 今度之検地帳面一段可穿鑿事

一条目の 草大 は定かでは無いが 牧原氏は次のように述べる。

小野庄近辺にもともと勢力を有し六角方に付いたと考えられる 草大 小野の土豪草山氏と推定 宛所の多賀常陸入道らの知行を安堵し 百々旧領はそれらと弁別して六角氏が接収し 蔵入地に準じて支配したと考えられる。その際 一部地域では検地を実施していることが 今度之検地帳面 の存在に言及していることから知られ 注目される。

一方で湯浅氏は 多賀氏を この地に派遣された代官 米原氏を 現地で六角方として活動する武士 とする。
また湯浅氏は三条目について 小野 庄内 における年貢納入規定であり 磯畠年貢米 の所務を伊賀銭なる人物に仰せ付け さらに 庄内 にある 他納 の分の処置について述べている としている。

多賀氏に興味を抱く私としても この久法軒多賀常陸入道は興味深いのであるが 他に登場する事例を知らないので解明は不可能に近い^。持っている知識を総動員させると 坂田郡の多賀氏であれば多賀出雲守家の人間である可能性もあろう。既に大永八年(1528)の内保河原合戦で四郎右衛門政忠が討死しているが 常陸入道は政忠の後裔かもしれない。
もちろん六角に頼りとされる点をみると下之郷の多賀豊後守家一族に連なる人間である可能性 多賀内介の一族の可能性も考えられる。他に永禄三年(1560)末の竹生島文書に見える瑠林坊への書状 賢政公事について を発給した三郎右衛門尉公清も居る。
何れにせよ多賀氏が幅広くあったのは事実で 全てを解明するのは困難であろう。

敏満寺正寿院預之事 検地帳面不審在之 被官持地与在之分者 不及沙汰可有納所 院領之事者 穿鑿せられ順路仁可被申付事
彦根密蔵坊并松原新三郎知行跡 百々知行不相紛上者 急度可有納所候 未進分納次第吉田方江成次第仁可被相渡 欠米之儀者 惣別可為御料所並事
磯之川橋之儀者 如前々米原平内仁支配被仰付候 御軍役之節 船之出入仁相構不申候様二 猶又可被申渡之事

恐ら く彦根密蔵坊や松原新三郎も同様に没落したのであろう。特に松原新三郎は通説として 六角の将として佐和山を守備したとするところがあるが ここで 松原新三郎知行跡 が取り沙汰されていると 通説とは異なる姿が見える。
久法軒多賀常陸入道が米原平内兵衛に写し送ったことは 以前より米原平内兵衛が 磯之川橋之儀者 の支配を仰せつけられていたことによるようだ。^
磯ノ川とは定かでは無いが 佐和山に面する松原内湖が琵琶湖へ注ぐ磯山麓の辺りを指すのだろうか。
軍役の際は船の出入りは構わないとしていることは 米原は船の様子を逐一観音寺へ報告していたのだろうか。

中山鍛冶之儀者 可為如書物事
庄内失人之儀者 能々草大江可被相届事
麻畠之事 当座之立毛者 草大江被遣候 年貢米之事者可被相理事
犬上郡仁在百々家来共知行分 以案内者可被相尋 於訴人者可被加扶持事
庄内田畠作職之事 先作人仁可被申付候共 御年貢米御損仁不成様仁被入御念可被申付事

一番上について 庄内の失せ人に関する処置 湯浅
一番下について 庄内の作職安堵に関する規定で 作職は先の作人に優先的に安堵する 湯浅 田畠作職を先の作人に認めるとしても 六角氏の 御年貢米 御損 にならないよう勘案するよう指示されている 牧原

小野 平野其外庄内辺対百姓等非分之儀於申懸者 則注進可被申 順路可被仰付事
篠尾田斗代之事 幸坊領之並在之間 如其可被申付事
原田畠 坂田郡 之事 六斗公方年貢之外内徳分限リニ悉可有納所 不依多少隠主族者一段可被仰付由之事
山林之事 先如前々山手与相定可被申付事
奉行衆可被加御扶持由事

一番上について 百姓に非分を申し懸ける者を注進すること 牧原 庄内 あるいはその周辺の百姓への非分停止と注進奨励の規定である 湯浅。真ん中の原田畠~からはじまる条分について 公方年貢 加地子 内徳 の配分規定が六角氏領国において生きていることを照明する規定 湯浅 注三十三
牧原氏は次のように論ずる。

篠尾と原の両村では斗代が規定されている。中略 六斗の公方年貢のほか 内徳分 を有るかぎり収納するよう命じている。こうした規定が原村のみに見られる事情は不詳だが 隠し置 いた族は六角氏が処断するとしているので 六角氏が公方年貢だけではなく 加地子などの 内徳分 をあわせて収取する意図を有していたと考えられる。この条々には 名主などに対する規定は現れず 六角氏が百姓=作人を支配し 局所的ではあれ 内徳分 を掌握 吸収しようとしていることが注目される

一番下について 山林に山手を賦課することも指示されている 牧原

百々の文字が目立つが これは佐和山城で敗死した百々氏の跡職 知行など に対する処遇措置を指示するものであろう。
また 敏満寺正寿院預之事 も興味深く 中郡支配の幅広さを実感する。
このように佐和山城は永禄五年(1562)時点でも六角方であり 磯野員昌が駆けつけ取り戻したとする通説は全く異なるのである。

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^: 淡海温故録 は新左衛門賢長 多賀常陸入道以仙 の息としている/20240512
^:宛所の米原平内兵衛綱寛は当時出雲にあったので支配は不可能である。考えるなら綱寛に近江国内の所領があったか 彼の近江に残った一族が支配を担っていたのであろうか。/20240511 注加筆

浅井方の動き

こうしたなかで浅井方の動きというものは僅かである。
特に軍事行動も存在せず 落ち着いた淡々とした一年と言える。こうしたところで翌年の出来事に関し 周辺国人を浅井方に引き入れたとする解説もあるが さてはて。

浅井氏三代文書集 東浅井郡志四巻をもとにして長政 家臣の動向を探ると次のようになる。

四月二十四日に長政は光汲房の鏡新田の知行を安堵している。この件に際して三月二十八日には磯野員昌から書状が発給されているが 光汲房側は員昌に申請したらしい。また員昌は此の頃までに復帰したものと思われる。郷野文書
八月十四日に長政は嶋四郎左衛門に対し 諸事置目は討死した故備中守 今井定清 の際と変わらぬ事を示している。嶋記録所収文書
十二月二十八日に長政はは石田伊賀守の知行 岩女分儀は亮政の折紙の通りであるとして安堵している。石田文書

全体でこの程度であり 北郡勢力 浅井家は大人しく過ごしていた。逆に言えばこの程度の沈黙は 天文末から弘治年間を思い出すところがあるが 何か南北で和睦をしたとか そのような形跡は認められない。

今回改めて浅井長政の足跡を追うと 六角離反後の彼は通説のような活躍から程遠く 様々な苦労をしていることがわかる。
そして浅井氏の最盛期までは まだまだ時間がかかるようである。
津藩藤堂家の編纂史料では 父祖は華々しい浅井家に従うことで武勇の名を轟かせたとするが その印象を永禄の前半期には得ることが出来ない。
高宮や河瀬同様に 彼らは未だ六角配下の国人 土豪であった。