永禄二年(1559)・永禄三年(1560)の争乱
平穏は束の間、 近江は再び戦乱の時代となった。
date: 2023-03-04
六角の内訌、浅井の蹶起
近江で何かが起きたのは、 米止め令が発令された弘治四年(1558)頃となろうか。高虎が二歳の頃である。
しかし具体的に何が起きたのか迄は定かでは無い。
事が動いたのは、 やはり六角親子が伊賀島原諸侍に対し書状を発給した永禄二年(1559)二月だろうか。(遺文七八六 ・ 七八七)
永禄二年(1559)の争乱
遺文七八九は蒲生文武記に収まる佐和山城攻めに関する、 五月六日付の後藤賢豊 ・ 蒲生定秀 ・ 池田定輔の条書写しである。
生憎この書状は 「検討を要する」 とマークされており、 全面的に信用することは出来ないが、 やはり永禄二年(1559)に何かが起きた。藤堂高虎が四歳、 兄源七郎が十一歳の頃合いである。
肥田表の騒動
永禄二年(1559)の書状として遺文には興味深い書状が収録されている。
まず遺文七九二の九月四日付沖島名主中宛て深尾七郎書状には、 肥田表で疵を被った衆へ、 御屋形様 (承禎か義弼か) が馬と太刀を下さり、 堤へ入った船頭の儀は余儀なく迷惑であったから、 その分も馳走するので安心して欲しい、 と記されている。
七九三と七九四は共に九月七日に発給されたもので、 「目加田の夫役」 を巡り、 承禎が栗田修理亮と小倉左近進に 「堪忍」 を求めている。
八月末から九月初旬にかけて、 六角勢は沖島の手も借りて肥田城を囲んだ。「堤」 とあるので、 何か水攻めでも行ったのだろうか。
しかし沖島衆は手疵を負い、 栗田と小倉は諍いを起こした。
肥田の高野瀬
そもそも肥田というのは六角の重臣高野瀬氏の城である。甲良から南西に五キロ弱の地域にある。
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天文二十二年(1553)七月十一日には高野瀬承恒が多賀大社と関わりの深い河瀬藤兵衛 ・ 多賀内介に対し 「犬上の百姓が苗字を名乗り、 神事を緩怠している」 件について書状 (遺文七四六) を発給する程の家である。
野良田戦い?肥田表の戦い
こうしたところで 『江濃記』 という軍記を元に、 浅井賢政の離反をきっかけにして高野瀬も離反し、 六角が攻め寄せ、 浅井賢政が野良田にて六角軍を破ったとする通説が存在するが、 この 「野良田の合戦」 について明確な史料は存在しない。
なお東浅井郡志には総持寺文書の某年某日付如意光坊宛雨森久右衛門景頼書状に 「昨日申刻二、 肥田表之堤切候て、 水悉引候」 とある。この日付は定かでは無いが、 郡志は九月二十日に雨森に宛てた 「請取状」 が収まることから、 雨森の書状も二十日付で、 十九日に肥田表の堤が切られたとの解釈を示している。
こうしたところで総持寺文書を眺めてみると、 八月二十五日に掟書と置目、 九月十日に三種二荷を贈られた事に感謝する書状を、 それぞれ浅井久政が発給している。これは戦に関わるものだろうか。
このように肥田表を巡る争乱の史料は僅かであるのが実情で、 どうやら浅井氏は軍備を整えつつ、 肥田表の情勢を注視していたようだ。
なお肥田の高野瀬は、 その後六角に帰参を果たしている。(遺文八八八)
京極高佳の動き
このような中で東浅井郡志や大日本史料データベースには、 永禄二年(1559)九月十九日に、 京極高佳なる人物が六角三好に取り立てられとする。これは高佳が同日荒尾民部丞に宛てて出した書状によるもので、 「去九日至干江南打越候、 火急出張調儀候」 とある。
この年次は六角と三好が昵懇で、 尚且つ三好筑前守が存在した時期を勘案し、 長慶は十一月に 「修理太夫」 となっている点から、 永禄二年(1559)と比定された。
さて 「去九日」、 つまり九月九日であるが、 遺文を思い出して欲しい。既に肥田表のことが、 どうにも承禎の意のままにならなかった時期のことである。
この承禎の意図は定かでは無い。
京極氏で言えば十年前に北郡で勃起した北郡牢人を率いた京極六郎高広が思い浮かぶ。
しかし六郎高広は天文二十年(1551)以降姿を消し、 彼が煽動した争乱も天文二十二年(1553)十月の 「北郡錯乱」 以降、 浅井久政の降伏で幕を閉じた。その後高広の消息は定かでは無いが、 彼には数名の子息がおり、 Twitter のフォロワーである京極材宗氏がブログ記事 ・ 京極高吉についてで解説を行っている。
高広には足利将軍家に仕えた大膳大夫晴広 ・ 治部大輔高成、 玉英の三名の子息が居るらしい。
この中で治部大輔高成は兼見卿記にて 「京極治部大輔入道 (法名香集齋)」 として、 何度か見ることが出来る。(引用は慶長二年(1597)十一月二日条) どうやら六郎の子息は若狭守護武田家を頼ったそうだが、 高佳は当の六郎について 「今度高廣御進退、 言語道断之趣候」 としている。これは六郎高広の処遇に関するのか、 彼が支配していた領知を示す 「進退」 であるのか判断に迷う。
そのようなところで東浅井郡志は高佳の支配について述べているから、 高佳が記す 「高廣御進退」 とは彼が支配していた京極家代々の領知を指すところが大きいのかも知れない。
九月二十七日には高佳から総持寺へ、 九月二十九日には 「慶加」 が郷伊豆入道へ書状が見える。前者は禁制で 「大津三郎左衛門 ・ 野村伯耆守可申候」、 後者は郷伊豆入道に対し 「田中左京進方之遺跡」」 の代官と、 礼銭百疋を送ったものである。
郷伊豆入道はかつて加州家 (佐々木加賀守家) に仕えていた者である。
また 「慶加」 について坂田郡志は 「慶増加賀守」 としている。慶増氏は京極の被官で、 今の米原市長沢を治めていたという。江戸時代にも松江藩分限帳に 「慶増」 の姓は見え、彼らは長く京極家に仕えていたことになる。
付・慶増氏について
『江北記』 によれば慶増氏は元々 「大原同名、 春極寺殿庶子」 との出自であるらしい。
大原は文明年間末に大原政重が失脚した後、 京極家の支配^であったとされる。大永年間には京極一族の 「五郎 (後の京極高慶)」 が大原氏を継いで支配していた。慶増氏はこの頃までに大原の一族として京極家へ仕える形となっていたのだろう。
さて後に松江藩の分限帳 『京極高次分限帳』 には 「新座」 で五百石の 「慶増安太夫」 が見える。この分限帳は京極高次分限帳とあるが、 松江などの地名が見えることから忠高の時代のものだ。(西島太郎 「松江藩の基礎的研究」 第三章京極期松江城下町図と分限帳から)
これ以前の安太夫はどうやら堀尾吉晴に仕えていたらしい。
慶長期のものとされる 『堀尾吉晴公御給帳 [堀尾吉晴公御給帳とその一族(1) / 瀧喜義/名古屋郷土文化会 ・ 郷土文化 42(2)]』 に五百石として記録され、 『八束郡誌』 には慶長十九年(1614)八月廿六日には他二名と共に安太夫の連署状が収められている。(大庭村伊弉諾社關係文書)
石高は同じ五百石であるが慶長から寛永では間隔があるため、 忠高に新座として仕えた安太夫は後継者なのかもしれない。
堀尾吉晴は天正十三年(1585)頃に佐和山の城主となったようだから、 安太夫はその頃に堀尾家へ仕えたのではないか。それ以前はどのようにしていたのか定かでは無い。
堀尾家は吉晴の孫忠晴が早逝し無嗣により改易。そこで若狭の京極忠高が出雲隠岐へ加増転封となった。安太夫は出雲を良く知る堀尾旧臣として取り立てられたのだろう。奇しくも京極家は先祖が仕えた家であった。
忠高が寛永十四年(1637)に亡くなると、 安太夫は忠高の元領地である小浜へ渡ったようで、 寛永十七年(1640)の小浜藩分限帳 (小浜市史藩政史料編 2) に五百石取りの安太夫を見ることが出来る。
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高佳の目的・定かでは無い動向と諱について
然るに史料の状況だけで鑑みるのであれば、 高佳は御家の旧領を回復させるために送り込まれたこととなる。東浅井郡志や坂田郡志は勇ましく浅井との対決のために送り込まれたとするが、 現状では見えてこない。
実際のところ高佳の書状は永禄二年(1559)と見られる二通のみであり、 その後の彼の動向は定かでは無い。
ただ彼の諱を 「たかよし」 と読むのならば、 京極高次等の父高吉と同一である。
こうしたところで京極氏解説記事も参考にして欲しい。^
- 注
- この時代の京極氏に関しては 2024 年に考察している/20240515
^:安太夫について取り消し線と加筆 (取り消し線から地図画像まで) /20240526
取り消し線位置変更、 見出し設置、 加筆文修正/20240527
^:湯浅治久 ・ 中世後期の地域と在地領主(2002)/20240527
^:参照リンク設置/20240527
永禄三年(1560)の動向
高虎が五歳、 源七郎が十二歳の頃の話である。
通説、 永禄三年(1560)八月に浅井長政の初陣 ・ 野良田の戦いが行われたとされる。
だが既に述べたように、 同合戦に纏わる史料というのは現状存在せず、 軍記 ・ 江濃記に依存するところが大きい。
六角の不穏
こうした中で永禄三年(1560)の四月二十一日、 三好長慶は六角氏の被官伊庭出羽守に対し六角親子の不和を案じ 「不慮之次第候、 始末難計候 (遺文七九八)」 としている。
七月一日には隠岐賢広 ・ 某 (目加田か) 貞遠が、 諸関奉行中諸浦地下人中に対して米止め令と、 堅田に対する特例を通達している。(遺文七九九)
義弼の出奔
七月二十一日、 承禎は平井 ・ 蒲生下野入道 ・ 後藤但馬守 ・ 布施淡路入道 ・ 狛修理亮に対し、 十四条に及ぶ弾劾状を発給した。(遺文八〇一)
要は義弼が朝倉との縁談を破談にして、 美濃の斎藤氏と結んだことで親子仲が拗れ、 義弼が山上つまり永源寺へ出奔して居待ったという事件が発生したのである。
まず承禎はかねて土岐一族の美濃復帰を、 越前の朝倉、 尾張の織田を含めた三国で画策していたが、 義弼の行動はそれを台無しにするものであり、 朝倉などは浅井と手を結ぶだろうと懸念している。
つまり永禄三年(1560)七月時点で、 浅井氏は六角から離反していた事と相成る。
また浅井に関して、 斎藤が浅井と義絶することは愚かで、 更に北郡御陣で斎藤氏は全く役に立たなかった経験、 越前尾張東美濃に敵対勢力を抱えるという根拠を示し、 果たして斎藤が義弼の為に合力するのか怪しい、 とする。
さらに越前 (朝倉) が北辺 (浅井) と 「深重入魂」 となる可能性を示唆し、 また志賀郡に関して京都に雑説があることから、 越前北郡が不通になった際の危機感もにじませている。
ここでは、 六角と斎藤が結ぶらしい、 六角と浅井が敵対したらしい、 元々六角と朝倉織田は土岐氏復帰で協調路線をとっていたらしい、 という三点を留意してもらいたい。
つまり軍記が記すような八月頃というのは、 先ず以て当主親子が親子喧嘩のまっただ中である可能性があり、 果たして大きな戦を起こせるのか甚だ疑問である。
興味深い点は朝倉との縁談について、 「去年宿老衆長光寺参会之時」 とある。この時は全員が賛成したようだが、 八月末から九月にかけて宿老高野瀬氏の肥田城周辺えお攻撃していた出来事を踏まえると、 高野瀬が賛成を反故に蹶起に及んだ可能性があるのではないか。
その場合、 高野瀬を唆したのは通説に言われる浅井では無く、 義弼が唆した可能性を考慮すべきなのかも知れない。
そうした視点に立つと、 佐和山で井口 (斎藤) 方へ誓紙を遣わしたのも高野瀬である可能性があるのではないか。先に示した遺文八八八は、 永禄六年(1563)の観音寺騒動に際して一色 (斎藤) 義龍から高野瀬備前守へ 「御父子」 の無事に安堵した内容で、 ここに高野瀬氏が美濃への取次を務めていた可能性を補強する内容となっている。
三好長慶の書状
このようなところで六角遺文を読んでいくと、 八月四日に三好長慶が左京大夫入道 (承禎) ・ 四郎 (義弼) ・ 永原越前入道 (重興)、 布施淡路入道 (公雄)、 妙観院に書状を送っている。(遺文八〇二~八〇六)
「当年之祝儀」 に纏わる書状と、 「今度被召御相伴候、 誠以面目之至忝次第候、 早々御案内可申候処、 遅々非本意候」 の二通がセットと見える。
「御相伴」 とは、 恐らく室町幕府の 「相伴衆」 を意味するのだろうが、 これは六角父子が相伴衆に列せられた事を意味するのだろうか。
そうした公儀の内容であっても、 長慶の尽力で親子は和談したのでは無いか、 と感じる部分もある。
かねて父子の不和を案じていた長慶が融和に働くことに何の疑問も無い。
とはいえ両者が和解し、 義弼が帰城した時期も定かでは無い。
遺文八〇七は 「文言不審候間」 とあるが、 義弼から幕臣小笠原備前守に対し 「御内書忝」 とて認めた書状である。このように六角父子の不和は、 義輝 ・ 長慶の幕府権力により仲裁された可能性がある。
なお十月二日には左京大夫入道 (承禎) に対し、 細川晴元が坂本法禅寺を出て香西氏と共に兵を挙げた風聞を如何にするかと書状を送っている。(結局この挙兵は失敗したらしい)
浅井賢政の登場
対して浅井氏は六月四日に久政が雨乞いの人足を河合 ・ 古橋地下人中に求めている。
十月十九日には浅井新九郎賢政の初見文書 ・ 若宮藤三郎御宿所宛書状が発給されている。これは 「此方申儀於同心者、 為配当参百石可進候」 と、 自らの陣営に勧誘するものである。
賢政は以後積極的に竹生島や若宮氏に書状を発給しているが、 興味深いのは十二月二十一日に 「新九郎久政」 「新九郎賢政」 親子が揃って飯福寺に書状を発給している点で、 共に 「新九郎」 を名乗って居る点は家督譲渡期故だろうか、 実に興味深い。
四木での争乱
無論、 野良田の戦いに関する史料が見られないだけで、 永禄三年(1560)に北郡で争乱は発生していた。それが十二月の 「四木合戦」 である。
四木とは天野川の河口北岸の世継地域で、 南岸には名高き朝妻筑摩の湊がある。
十月に賢政が誘った若宮藤三郎は世継の東にある宇賀野 (坂田駅付近) の国人で、 この戦いの子細は 「若宮文書」 に残ることで今に伝わる。
戦いの流れ
まず十一月晦日に賢政は藤三の注進を感謝する書状を発給した。文頭には 「磯善兵折紙令拝見候」 とあるので、 磯野善兵衛 (員昌) は若宮方に駐留していたのかも知れない。
その内容は 「明日承禎可有御働旨」 「就其御在所宇賀野可有放火之由候」 と、 承禎御自ら出馬したとの風聞と、 その目的が宇賀野つまり若宮討伐の為であることがわかる。また箕浦を本拠地とする今井定清は、 かつて京極六郎の乱で六角の 「敵」 となった中郡衆と思しき人物であるが、 『嶋記録』 によれば後に今井定清は小谷城へ登城し、 久政 ・ 新九郎親子と参会し具足を送られたとある。こうしたあからさまに六角への敵対行為を見せる境目の国衆を討つことは、 彼らが兵を出す大義名分となろう。ただし何らかの事情により承禎の出馬は実現しなかったようである。
この頃六角は朝妻に在番兵を駐留させていた。その在番兵たちは番替の度に北領 (北郡 ・ 浅井方) へ立ち入り焼き働きに刈田狼藉を働いていた。これは 『嶋記録』 の叙述するところで、 実のところは定かでは無い。
地理的にみると宇賀野 ・ 箕浦は美濃との国境で京極氏の上平寺に通じる路でもあることから、 六角の重要視する地域の一つで、 六角氏は、 この江濃国境を封鎖されてしまうと困る状況にあったとも思われる。
十二月五日の藤三郎宛賢政書状によれば、 前日の四日に小競り合いがあったらしい。
九日には藤三郎の帰参に際し 「新庄遺跡 ・ 寺庵 ・ 被官並筑摩十五條進之候」 と宛がっている。
十二日に賢政は 「其方めつら敷事無之候哉」 とか 「無退屈之儀肝要候」 とて書き送っているが、 この書状で重要なのは濃州つまり斎藤氏が境目の 「かりやす尾」 を一両日中に奪い取るという 「風聞」 があったということである。
かねて六角承禎は、 美濃の斎藤は六角と協調するのか疑問視していたが、 どうやら斎藤は無事に動いたらしい。そして美濃側の堺目を守るのは、 軍師で名高き竹中家である。
そして十四日、 磯野善兵衛尉員昌は、 その日の朝に四木表で起きた 「一戦」 で藤三郎が成した武功を評している。
嶋記録では十七日に今井定清が家中の島新右衛門 (秀淳) の武功を評しているが、 島新右衛門は四木表で中村道心兵衛なる敵兵を討ち取ったという。
中村は五日の藤三郎宛書状の文頭に見える 「中島加勢中村方罷越之旨」 の中村だろうか。
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情勢の整理
ここで情勢を整理してみたい。
まず軍記で語られるような 「野良田の戦い」 というものは、 果たして実際に行われたのかさえ疑わしい。
しかし永禄三年(1560)の十一月から十二月にかけ、 浅井方と六角方が軍事衝突したのは確かである。
京極氏のその後
十二月十二日、 浅井賢政は若宮に対して江濃国境の堺目たる刈安尾に美濃勢が 「城に可申付之風聞」 があるとしている。
刈安尾城と呼ばれる城で、 京極氏の本拠地たる上平寺城の別名でもある。
この時点で賢政が同地へ兵を差し向けることは、 既に浅井が京極を吸収せしめたことを意味しているように感じられる。
実際に小谷城には 「京極丸」 が存在し、 京極高吉に浅井久政の娘 ・ 賢政の姉妹が嫁いでいる点を考慮するならば、 永禄二年(1559)もしくは三年を以て 「吸収 ・ 保護」 されたと見ても良いかも知れない。
さて世継での一戦にて若宮や今井家中が浅井側についていることは説明した。更に東浅井郡志の観音寺文書には永禄三年(1560)十二月二十三日に中島宗左衛門尉直頼が樋口三郎兵衛に書状を発給しているが、 彼は国境の鎌刃城を守る堀家の重臣であり、 こうした若宮 ・ 今井 ・ 堀が浅井に与していることは、 浅井が京極を吸収 ・ 保護したことに依るのかも知れない。
浅井氏にとって京極氏は主家であるから、 美濃斎藤と義絶した状況で国境を守るために力の無い彼らを 「保護」 することは当然の行いであり、 更に京極氏を保護 ・ 担ぎ上げることで自らの権威に正当性が生まれる。まさに一石二鳥であった。
しかし、 このように見てみると何故六角は京極高佳を復帰させたのか疑問が生じる。
ともかく京極高佳は、 寛政譜に見える長門守や剃髪して道安を名乗った京極高吉に改名し、 浅井氏との間に高次 ・ 竜子 ・ 生双らをもうけることとなるが、 史料には僅か永禄十三年(1570)の上洛要請に 「京極殿 (同浅井備前)」 とある程度だ。
一説には義昭に従い信長に仕えた、 とか、 上平寺か清龍寺に逼塞、 はたまた小谷城の京極丸に居た等と言われるが定かでは無い。
その死は天正九年(1581)のことで、 キリスト教への改宗直後に突然亡くなり仏罰が噂されたとらしい。
キリシタンの史料によれば高吉は安土城の立派な屋敷に住んでいたという。
ところで高吉について長らく 「京極高慶」 と同一人物視されてきたが、 材宗氏が指摘されたとおり同一人物であれば長寿で、 その突然の死は寿命であろう。確かに五十代と二十代の年の差夫婦でも、 子を残す例というのは古今東西無い訳でもないが、 キリシタンの記録で 「急死」 や 「仏罰」 とされるのであれば、 もう少し若く高慶とは別人であった可能性がある。
研究者の視点
さて京極高吉に関する研究というものは見られないが、 いくつかの専門的な書や史料の注から、 研究者の視点を伺うことが出来る。
まず京極氏の歴史に詳しい西島太郎氏の 『松江藩の基礎的研究』 によれば、 京極氏の系図は高慶 (高佳) ・ 高吉 ・ 高次となっている。^
六郎高広には括弧に高延 ・ 高明とある。
少なくとも西島氏は高慶と高吉は別人と考えている可能性があり興味深い。
平井上総氏は 『織田家臣と安土 (松下浩 ・ 織田信長の城郭)』 にて、 高吉の屋敷が安土に存在したことを示している。
黒田基樹氏は 『お市の方の生涯』 のなかで、 高吉と浅井氏の婚姻を永禄三年(1560)から四年のことと示している。
筆者が把握している限りではこのぐらいである。
- 注
- ^ : 第四章京極氏領国における出雲国と尼子氏/20240526
六角と斎藤の同盟
さて承禎は義弼と斎藤の同盟に際し、 有事の際に斎藤は動くのか、 と疑問視していた。
だが四木表の争乱に際して、 例え風聞であったとしても美濃勢が国境を越えること、 承禎が出陣することを賢政は把握していた。危機感を抱いていたと考えていても良いだろうか。
浅井の同盟
一方で永禄三年(1560)当時の浅井は後ろ盾が無いように思われる。
三好と幕府、 六角の関係も永禄元年(1558)以来安定しており、 三好は浅井の後ろ盾とはならないだろう。
そうなると浅井の同盟候補には、 六角と手が切れた越前朝倉 ・ 尾張織田が思い浮かぶ。実際に承禎は朝倉と浅井が結ぶ事を懸念している。
果たして永禄三年(1560)当時の状況は定かでは無いが、 後々浅井長政は織田信長の妹を娶り 「同盟」、 また朝倉とも昵懇の間柄となる。
織田は弘治二年(1556)に斎藤道三が討死して以来、 美濃の斎藤を敵としており、 義絶する道を選んだ浅井にとっては共に斎藤を敵とする織田は頼もしい存在であろう。
そして朝倉氏が治める越前は国境で通じる隣国であり、 承禎が指摘するように反斎藤連合の一翼を担う存在である。
つまり斎藤と敵対する道を選んだ浅井にとって、 朝倉 ・ 織田と結ぶ事は合理的であり、 自然な成り行きとも言えようか。
元も子もない話をすれば、 単純に浅井は六角承禎が敷いた包囲網に乗っかった、 取って代わっただけであったとも言える。
すべては六角義弼の若さが招いたとも言えよう。
しかし当時の斎藤氏は足利義輝に認められた存在であり、 永禄二年(1559)には上洛を果たし一色姓で相伴衆にも加えられた。国衆をまとめ上げ織田信長を退ける武威は義弼にも魅力的であった事だろう。
その視点に立てば承禎は現実を直視せずに、 土岐復興の理想 ・ 絵空事を掲げるだけの存在にも見える。
浅井賢政 (長政) と土岐氏に接点は見受けられず、 彼が土岐氏復興に動いた様子は見られない。
あくまでも賢政は北郡の為だけに動き、 北郡を守るために対斎藤の同盟を選んだように思われる。
さて長谷川裕子氏は浅井は朝倉 ・ 織田へ 「両属」 していたとする。(『歴史の中の人物像―二人の日本史―』)
史料に裏打ちされた論考は卓見で、 今後は両属説が主流となるであろう。
朝倉への人質説
黒田基樹氏は 『お市の方』 のなかで浅井が朝倉の本拠地一乗谷へ人質を出していた可能性を示した。
実際に一乗谷には字 「浅井殿」 があり、 その昔 「浅井屋敷」 があったと言われている。
更に朝倉氏遺跡からは 「御者多屋どの」 と書かれた木簡が見つかっており、 浅井久政の義兄弟田屋氏の一族も朝倉に人質を出していた可能性があるだろうか。
磯野員昌の台頭
この四木表の戦いは磯野員昌が表舞台に現れた戦いと考えることが出来る。
しかし伊藤信𠮷氏は 『磯野員昌と神社』 のなかで、 『兼右卿記』 永禄二年(1559)一月十七日条にて、 浅井左兵衛尉 (久政) ・ 同左衛門大夫 (不明、 多賀大社梵鐘にも見える) ・ 同掃部助 (某年能登高持の調略を受ける ・ 遺文一一九五) ・ 狩野勝六 ・ 河瀬次郎 ・ 同左近亮 ・ 同権右衛門筑後守受領 ・ 磯野八郎三郎 ・ 浅井母 ・ 河瀬二郎母が登場することを示す。兼右は鈴鹿近江守を使者に、 彼らに扇子、 二人の女性には帯を贈呈している。
伊藤氏は 「磯野八郎三郎」 が員昌である見解を示し、 員昌と兼右には以前にも交流があった可能性を指摘している。
員昌は大永二年とか三年(1523)の生まれと言われているから、 三十八か三十七歳の頃合いであった。四十手間まで 「八郎三郎」 という若い通称で過ごしていたことは興味深い。