藤堂高虎と元亀争乱(一)姉川へ至る道

ここまでは高虎の生まれる前後から少年時代の近江情勢を中心に述べてきた。
元亀争乱については既に高島郡の記事で触れてきたが ここでは甲良三郷を中心に見ていこうと思う。
さて兄高則の死によって いよいよ高虎が藤堂家の跡取りと相成った。
彼に待ち受けていたのは 更に過酷な運命であった。

京極氏の復興と甲良三郷

既に述べているが元亀争乱の始まりとして まず触れねばならぬのは永禄十三年(1570)二月の 禁中修理 に関する上洛令である。
この中で京極高吉と浅井長政が 京極殿 同浅井備前 と記され 高島の 七佐々木 とともに 同□子 同□州南諸侍衆 などが近江の面々であった。
後者は 同尼子 同江州南諸侍 となるが 高虎にとって重要なのは尼子の存在である。

尼子氏

甲良三郷の中核を担う尼子氏であるが 天文の末に北郡牢人衆への備えとして承禎に取り立てられた 尼子宮内少輔賢誉 の存在は見逃すことは出来ない。
尼子賢誉は多賀大社梵鐘以降 動向が定かでは無いが 明智光秀は前年と思しき書状にて 藤堂兵庫助知行分事 為御料所御代官 尼子殿江被仰付候 と某へ通知している。
恐らく光秀の指す 尼子殿 信長の指す 同尼子 は同じ人物であるように思われる。

藤堂氏との関わり

この尼子氏と藤堂氏の関係であるが 何より藤堂氏の本拠とされる地域 在士 尼子郷 に位置しており 血縁こそ多賀氏と結ぶが 地縁では尼子氏の影響を強く受けた一族とも言えるかもしれない。
天文の初頭に藤堂家忠は 尼子殿御代官 へ未納分年貢に関する書状を認めていたが 藤堂の土地に尼子の代官が関わる構造は永禄になっても存在したこととなる。
そうしたところでは下之郷の多賀氏との兼ね合いも気になるところではあるが 何分両者の関係を示唆する史料は見当たらず判然としない。やはり佐々木一族である尼子氏の威光には逆らえなかったのではないかと考える。

高虎の上洛?

つまり永禄十三年(1570)の上洛の際 甲良三郷の面々は尼子氏 賢誉か を頭として上洛したと考えるのが自然であろう。
高虎没後の伝記 藤堂家覚書 から津藩編纂史料に至るまで 虎高 高虎親子は一貫して浅井長政への従属を示しているが 親子と浅井氏の間に従属関係は存在したとは思われず むしろ天文以来一貫して尼子氏を盛り立てる体制にあったと思われる。
ここからして通史 通説からは大いにかけ離れる。

六角の蹶起

そうした構造を破壊したのは六角父子の蹶起であった。
四月の末に浅井長政が謀反を起こすと それに呼応した六角方は近江へ出張し方々を放火したという。言継卿記 多聞院日記
こうした六角 浅井の蹶起に甲良三郷の面々はどのように対応したのだろうか。

林兵衛三郎

一ヶ月後に朝倉義景の側近鳥居景近が 林兵衛三郎 なる人物に宛てた書状には 於其表無比類御働 とあり 更に 向後飛脚通路等之事 を依頼している。
実はこの 林兵衛三郎 石山本願寺日記上巻 の証如 天文年間の記録 天文七年(1538)六月十九日条にて 先日路次之儀 江州中郡林兵衛三郎へ為音信 三種三荷遣之候。其返事只今到来候 と見られる。三十年の開きはあるが 恐らく林兵衛三郎は天文七年(1538)の林と同一人物もしくは後裔と考えられる
ただこの林が中郡の何方を本拠としたのか定かでは無い。

ところで 高山公実録 には後の津藩御用商人菱屋の先祖の話として 林次郎兵衛家乗 が見られる。彼は高虎の誕生時から付き合いのある人物で どうやら商人 有徳人の類であるようだが ついつい林兵衛三郎との関連を考えたくなる。

朝倉軍出陣

御存知のように朝倉勢は金ヶ崎で織田信長を討ち逃した。それでも彼らは動きを止めなかった。
越州軍記 によれば 五月十一日朝倉式部大輔景鏡を大将として魚住備後守 山崎長門守等二万の兵が江北へ出立した。これは浅井長政の増援要請を受けての出陣である。
彼らは江濃国境の守りを固めると共に 南の群まで打ち入り放火を敢行。これは六角勢との合力を計画した出来事であるらしいが この時に六角勢は出てこなかったという。
国境の守りを固めたことは 戦後信長が毛利家へ認めた書状のなかにも見られる。

信長在京中二越前衆相語 濃江堺目之箇所を拘 足懸二三ヶ所拵 禦支度候き 大日本史料 毛利家文書

六角と信長

何故六角勢は朝倉勢に同調しなかったのか。その謎を解く鍵は他でもない織田信長の動静にある。
四月末に帰京した信長はこの時期未だ帰国を果たさずして 九日に坂本へ出陣。言継
このとき志賀の宇佐山に城を築き森可成を配置。信長記
十二日に勢多山岡 十三日に永原城と移動していた。言継
そして永原城に佐久間信盛 長光寺に柴田勝家 安土に中川重政を入れおいた。原本信長記

また信長はその前後に永原や永田といった六角の蹶起に呼応せず味方した南郡諸将を激励する書状を発給している。
特に永田刑部少輔宛の書状からは 九里三郎左衛門が六角の蹶起に呼応した旨が伝わる。
つまり織田信長が直に南郡まで出張っており 六角勢も再びの蹶起までは至らなかった状況にあったと思われる。更に十二日には承禎が捕らえられたとの風聞を山科言継は記録していた。その実否は定かでは無いが 京都の静謐と自らの不利を払拭するために信長方が敢えて流した可能性もある。

和睦交渉

更に興味深いのは言継が十九日に記したところ 江州より朝山日乗 村井民部少輔が上洛 六角の和与が調わなかったとある。恐らく両名が禁中へ伝えた内容だろう。
つまり永原城に入った信長は一週間近く六角方と和睦交渉を行っていた。その条件は定かでは無いが 南郡であれば六角親子の復権とか 織田方で考えたら承禎を通じた江濃国境の通行が交渉条件になったと考える。
また十二日に承禎が捕らえられたとの風聞も 逆に考えると一撃を浴びせたことでの円滑な交渉を目論んだ承禎自身が信長のもとに出頭したと見ることも出来ようか。
ともかく和睦交渉は没交渉に終わる。一体何があったのだろう。

信長包囲網

時に佐藤圭氏は 江北出兵に際して朝倉義景も敦賀に在陣したとの説を唱えている。姉川合戦の事実に関する史料的考察
その中で五月十八日には浅井長政へ宛てた書状を発給したが その内容は 仍今日敵出城何茂焼払 退散由尤候 浅井勢が織田方の出城を焼き払い退散させた報告を受けた事に対する返報であった。
つまり五月十八日に浅井勢は何方にある織田方の出城を攻めたことになるが これは軍記の 在々所々ヲ放火シテ という記述を裏付ける出来事となるだろうか。さすればこうした軍事行動には永原城に籠もる信長を威圧する朝倉 浅井連合軍の姿も見えてこよう。

また義景の側近鳥居景近が林兵衛三郎へ書状を宛てたのは前日の五月十七日であるが 文中にある林の比類無き働きとは こうした状況下での行動である可能性も考えられよう。

更に浅井長政は十九日には鯰江城へ兵を入れ 永源寺に近い市原野郷に一揆を起こさせた。これにより信長は鈴鹿越えでの通路を封鎖され 岐阜への帰還が難しくなった。

不十分な連携

ともかく朝倉 浅井勢は六角承禎との連合を以てして義昭信長政権に打撃を与えようとした。その思惑に六角親子の復権もあったかもしれないが 当の六角勢は両勢力の思惑に反してか 織田信長との交渉に臨んでいた。
しかし六角承禎の思惑は外れたのか 和睦交渉は不調に終わる。朝山日乗 村井民部少輔がその旨を携えて上洛したのは十九日のことであったが 和睦交渉を台無しにしたのは浅井勢の織田方出城攻撃や鯰江城入城と市原野一揆による通路封鎖だろう。
信長の怒る姿と交渉を台無しにされた承禎の顔色を想像するのも容易だろう。
六角と浅井は互いに足を引っ張り合った。

結局信長は蒲生 布施藤九郎 香津畑の菅六左衛門の働きにより千草越を通り 道中承禎が雇った杉谷善住坊に狙撃されながら二十一日に岐阜城へ帰還することが出来た。信長記

pic

逸話としての出来事

ところで江戸時代の逸話集 常山紀談 には次のような逸話が載る。
柴田勝家の守る長光寺条に六角軍が攻め寄せたが 勝家は水瓶を叩き割り退路を断って撃退した。これを俗に 瓶割柴田 とて 勝家の剛気を伝える逸話である。
だが 実際にこの戦いがあったのかは定かでは無い。
常山紀談は六月の出来事とするが 六月にあったのは後述する 野洲河原の戦い であり 長光寺に敵が攻め寄せたとする事実は認められない。
恐らくこの逸話は越州軍記をもとに創られたと考えられようか。

さて下之郷城に隣接した桂城神社には 城が永禄年中織田軍によって落城したと伝わる。
これも事実か定かでは無いし 多賀氏はその後も健在であることからみても疑わしい話だ。
とはいえ斯様に浅井が織田方の出城を攻撃したとの史料記述を鑑みると 五月十八日に下之郷が襲われたとも考えることは出来ようか。

六角の敗北

さて一向に動く気配すらなく それどころか和睦交渉に臨んでいた六角残党軍が ようやく遂に動いたのは信長が岐阜に帰還してから暫くした六月四日のことである。
この日野洲河原に於いて 織田軍と進藤 永原といった呼応しなかった旧臣と衝突した。

山科言継は六月四日に江州小濱にて承禎 義治親子等二三千人が討死 敗北したと記し 十四日には一巻三百余りの首注文を閲覧したとする。
原本信長記 に依れば六角親子は南郡に一揆を起こし 自らは野洲河原に兵を繰り出した。対する柴田勝家は足軽を繰り出し 落窪の郷へ六角軍を引き付け合戦に及んだ。六角軍は三雲父子 高野瀬 水原 伊賀 甲賀衆七百八十人が討ち取られ 江州過半相静候 と述べられているほどの大敗北に終わった。
戦国遺文佐々木六角氏編 には親子から長束東仏坊への恩賞を記した書状などが収録 遺文 975-977 されているが その中で 笠原表 での出来事と記している。
落窪 乙窪 と笠原表はそれぞれ野洲川を挟み向かい合っているから 合戦はこの辺りで繰り広げられたのだろう。

そして朝倉勢は六月十五日に帰陣した。
あたかも六角残党軍の敗北を見届けるかのように思えるが 越州軍記 は垂井 赤坂にまで放火して攻め込んだのに 日時不明 信長方が打ち出さなかったことを理由とする。
もちろん江濃国境の普請が一段落したことも理由となろう。類推すると 織田軍は 六角動く の報せを受けても 国境を朝倉兵が駐留していた為に岐阜から救援に出られなかった点も大きかっただろう。

高野瀬の討ち死

さてこの戦いで注目したいのは高野瀬氏が討死している点である。
一般的に高野瀬氏は浅井方を経た後に織田方となり 天正二年(1574)越前で自害して果てたと言われている。しかし実際には江州大合戦で討死した 高野瀬兄弟 この合戦で討死した高野瀬のように 浅井方では無くて一貫して六角方として行動していた。
尤も以前も検討したように高野瀬一族の中に南北で敵味方に分かれた可能性もあり 高野瀬氏は幅広いことを想定する必要もあろう。

高野瀬氏は中郡勢力の中で代表的な六角被官であることから かつて六角勢力にあった甲良三郷の如き諸勢力にも影響を及ぼしたと考えることも出来 彼らも高野瀬同様に反織田方の蹶起に加わった可能性も考えられるだろうか。
ここで 越州軍記 の記述を思い返そう。同記にて朝倉勢は 南の郡迄打ち入り とある。五月中に朝倉勢が中郡を制圧していたのなら 高野瀬が六角方として加わるのは可能であるかも知れない。ただし野洲河原の戦いで朝倉勢の介在を史料的に裏付けることは出来ない。

付して述べると 原本信長記 では三雲父子が討たれたとあるが 寛永諸家系図傳 三雲氏の項にて討たれたのは父三雲定持一人で 子息で先に永禄年間浅井長政との戦いで討死した賢持の弟成持は当年浪人となった旨が記されており 信長記の 三雲父子 は認められない。
寛永譜に依れば定持の没年は五十五歳であったという。

pic

出陣計画と動座の延引

斯くして義昭 信長は浅井征伐を目論んだ。

特に佐藤圭氏によれば信長は岐阜帰還後の五月二十五日 郡上の遠藤氏に対して北郡へ出陣するので翌月二十八日までに岐阜へ参上せよと命じている。
更に野洲河原で六角勢が敗れた六月四日には木下秀吉が堺の今井宗久に対して 江北取出三ヶ所に秀吉三千 氏家 伊賀 安藤 稲葉 水野 信元 が配置されるため 火薬の調達を依頼している。大日本史料 岩淵文書
六日には月末に北郡への出陣すること 高島郡へ将軍義昭が動座することを若狭の武田信方へ通知した。

だが義昭の動座は出陣の当日十八日に延引され 翌十九日には二十日へ延引した。
更に二十七日まで延期になると 同日またも延期が決まったという。これは摂津守護池田氏の内訌 阿讃三好三人衆の動きに依るらしい。佐藤圭 言継卿記

信長出陣

先に朝倉勢が江濃国境に要害を構えたことは述べた。原本信長記 たけくらべ かりやす であるとする。
そのようにして守りを固めた浅井であるが 長比に配置した鎌刃の堀 樋口が離反し 十九日に呆気なく織田軍の侵入を招いてしまった。
この長比は現在の柏原で 長政の重臣たる遠藤直経の出身地須川に近く 妹婿田那部式部と樋口三郎兵衛は従兄弟同士であったといわれるから 直経の面子は丸潰れであったことだろう。

調略

六月四日に秀吉が 江北取出三ヶ所 に自らや美濃三人衆等が配置されることを今井宗久へ報告したことは先に述べたが 恐らく同時期には堀たちへ調略は行われていたのか。はたまた計画のみで 当初は境目のみを攻略目標としていたのか定かでは無い。後者であれば朝倉勢が普請の最中に 織田勢は調略戦を仕掛けていたと考えられよう。
そうしたところで 嶋記録 には 今井家中の者が堀の家来二人を討ち捕ったことについて六月九日付の嶋四郎左衛門宛長政感状が見える。この感状は 浅井氏三代文書集 にて元亀二年(1571)と示されているが 今井家中は元亀二年(1571)に磯野員昌が佐和山城を開城すると河内畑へ退去しており 元亀二年(1571)以前のことと推測される。
すなわち この感状が元亀元年(1570)のことであるならば 野洲河原で六角残党軍が敗れ秀吉が江北取出三ヶ所への配置を明言した同じ時期に 堀は織田方へ奔り 更に今井家中を攻めるといった軍事行動を起こしたとも考えられる。
さて 嶋記録 には某年六月十七日の嶋四郎左衛門宛長政感状も収まる。これは今井家中から鮎三百を贈られた事に対する返礼状である。同様に 浅井氏三代文書集 では元亀二年(1571)の可能性を示しているが やはり同年以前と思われる。

敵城四ヶ城落居

何れにせよ境目の守備を任されていた堀の行動が 情勢を一変させたのである。また私見ながら堀 樋口が織田方へ転じた大きな要因として 六角残党軍の敗北を考慮すべきと見る。

斯くして織田勢は十九日に敵城四ヶ所を落居せしめた。七月十日付信長書状 毛利家文書
たけくらべ 長比 かりやす 刈安尾 以外にも長政 景鏡が整備した城砦が存在したのだろう。一説には美濃側の境目にある玉城 松尾山 関ヶ原周辺 もこの頃に整備されたと言われている。

小谷攻め

そうして二十一日に小谷城下へ攻め込み虎御前山に泊まるが 翌二十二日浅井勢の反撃に遭い弥高の下まで撤退している。
この 弥高 とは京極の本拠地であった 上平寺 に近い。そしてまたの名を 刈安尾 と言う。
ここで重要なのが織田勢が弥高まで勢力下としていた点 同時に同地ゆかりの京極家が織田方にあったとも捉えられる点だ。
最も長比と異なり 誰が城を守っていたのか定かでは無い。島記録は中嶋氏と叙述する。

佐藤氏はこの撤退について義昭動座の延引を原因とし これによって孤立した信長は退却せざるを得なかったと述べている。
信長記はこの撤退戦で梁田 中将 佐々の活躍を叙述しているが この戦いで浅井方の誰が活躍したのか定かでは無い。

横山城攻め

さて当サイトでは何度も横山城について触れてきた。
浅井長政の台頭は この城と共にあったと言っても過言ではない中 南郡出撃の拠点となる城である。
織田方は既に長比 弥高という江濃国境の要衝を手中に収めていたが 横山を奪ってしまえば浅井長政を小谷城に封じることが出来る。同時に織田方は此等三ヶ城を抑えることで 江濃の円滑な往来が可能となる。
佐藤氏に依れば織田勢は六月二十四日に横山城を攻撃するため 龍ヶ鼻に陣取ったようだ。

横山城の守将

この横山城は要衝とだけあって 信長記には三名の守将が見える。曰く 横山之城 高坂 三田村 野村肥後楯籠候 とあるので 高坂氏 三田村氏 野村肥後守の三名が籠もっていたのだろう。高坂は上坂であるのかもしれない。何れにせよ彼らの実名は定かでは無い。

上坂氏

上坂は後に磯野員昌の内衆となる八郎兵衛か はたまた元亀四年(1573)に長政より知行を宛がわれた八郎右衛門であろうか。ともかく彼らの一族ではあるだろう。また東浅井郡志四巻の宮部家文書 付人交名注文には 高坂清兵衛 の名が見える。大凡誤字であろうと思われるが 念の為 高坂氏 である可能性を残しておこう。
なお本拠地である姉川南岸の上坂村は徳川勢が陣を取った合戦の舞台でもあ r る。

三田村氏

三田村氏はよくわからない。
根本被官にして 一説に浅井氏の親戚といわれ 浅井蔵屋の叔父が三田村氏に養子に入った 浅井三田村系図 面打井関考 亮政の娘が三田村定頼の妻という説もある。
後者に関して言えば徳勝寺受戒帳にて 性隆 松市御料 浅井備前殿息女三田村殿内 という記録が見られるので 亮政の娘が嫁いだのは確かと考えられる。

史料から考えると大永五年に三田村弾正忠 又四郎が亮政に従っている。東浅井郡志は弾正忠を忠政 又四郎を直政とするが論拠はわからない。
松尾寺 醒ヶ井 には天文五年に三田村平兵衛尉定頼から出された書状が伝わる。
天文二十三年や永禄四年(1561)の阿部文書には 三田村伊予 が見られ 永禄二年の総持寺文書 門池吉信書状にも見える 某年七月十一日の長政書状 竹生島文書 には三田村与介の名が見える。また三田村文書には天文二十四年の用水相論に関する書状が並ぶが 浅井亮頼からの書状の宛名に三田村伊予と大蔵が並ぶ。大蔵に関しては大蔵丞宛月ヶ瀬忠清浅井貞政連署もある。東浅井郡志は三巻の人物紹介にても伊予を定頼 大蔵丞を貞政とするが 此方も論拠は定かでは無い。
また三巻に依れば上坂家古筆判鑑にて永禄十年(1567)の三田村飛騨守光頼と遠藤直経の連署が記録されているらしい。
他に永禄九年(1566)の蒲生野の戦いに於いて 五番狩野 三田村 浅井越中 河毛 と名が見える。

参考程度であるが 甫庵信長記 では上坂が外れ 大野木土佐守が入り 三田村は 三田村左衛門尉 と叙述されている。
信憑性に難は或るものの 三田村左衛門尉は島記録にて室が今井定清の娘とあり また 三田村ハ久政御内方妹ト云 とも叙述されている。井口氏とも関わりがあるのだろうか。また 浅井三田村系図 面打井関考 では 三田村左衛門大夫国定 であるらしいが 何れにしても立証する史料に欠ける。

なお本拠地である姉川北岸の三田村は朝倉勢が陣を取った合戦の舞台でもある。

野村肥後

野村肥後はかつて京極高佳の側近であった野村伯耆守定但の一族だろう。
その本拠地は三田村の東にあり浅井勢が陣を張った野村と思われる。
嶋記録は肥後守が 四郎左内ノメイ婿 とも叙述する。この 四郎左 は同記の主人公とも言うべき若狭守秀安か 嫡男の秀宣であろうか。秀安の事であれば妻 大野木息女 秀宣の事であれば妻 平田同名辻次郎兵衛息女 何れかの姪と肥後守が夫婦であったと考えられる。

朝倉勢・徳川勢の到来

織田勢が龍ヶ鼻に陣取った頃 朝倉の援軍として朝倉孫三郎 景健 が八千の兵を率い到来。大依山に陣取った。ここに長政の兵五千が加わり都合一万三千の兵となった。信長記

対して織田勢への援軍 といっても実態としては幕府側への援軍といっても良いかも知れないが 徳川家康の軍勢も二十七日までに着陣したらしい。その数は 創業録 で五千と言われる。

斯くして織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍が姉川を境に対峙したのである。

pic