永禄末期の動乱、信長の登場

本稿では永禄十年(1567)から永禄十二年(1569)までの近江の情勢を見ていくと共に 当時の藤堂高虎の様子を考えていきたい。
date: 2023-09-04

永禄十年(1567)

源七郎が十七歳 与吉が十二歳の年である。
当年の近江は概ね平穏で 特段大きな戦闘は見受けられない。その一方で浅井長政には織田家からの縁談が届いたとされ 六角氏は家臣によって式目が制定された。

浅井久政の母

高野山浅井家過去帳には当年の二月三日に逆修を受けた浅井氏の女性の記録が見える。その戒名は 馨庵寿松 とある。
浅井氏で 寿松 を名乗る女性は天文四年(1535)以降度々登場しているが この過去帳で特筆すべきは 浅井鶴千代女 下野守大方殿 と見える点だ。鶴千代は一般的に浅井亮政の摘女とされる女性である。竹生島文書には天文二年二月二十七日に寄進をする 藤原氏女鶴千代 が見られる。この寄進状には 藤原新三郎明政 も名を連ねている。
そうして調べていると どうやら 馨庵寿松 という人は 浅井千代鶴女 であるらしい。その名で調べると東浅井郡志の三巻にて永禄十年(1567)二月三日 つまり自身の逆修と同じ日に 恵濟 なる五年前に亡くなった一族の僧侶の冥福を祈っているそうだ。

そうして下野守大方殿 つまり久政の母が 馨庵寿松 という事となる。一般的に 嶋記録 に久政の母を尼子氏とする記述が見られることから 尼子氏を 馨庵寿松 に当て嵌めて考えられている。
しかし亮政は天文四年(1535)に中郡を攻め 天文末の京極六郎の乱に於いては尼子氏が六角方の最前線として中郡を守備しており 久政の生母を尼子氏とする説については検討の余地があろう。

さて馨庵寿松が登場する史料は竹生島の小島権現の棟札で 当年九月六日に亮政の正室浅井蔵屋と共に馨庵寿松が榑 板材 五拾丁を寄進したというものだ。
蔵屋が亡くなったのは翌永禄十一年(1568)八月二十六日のことである。

池田家の内訌

ところで前年十月から池田家で再び内訌が発生している。
二月二十四日に池田景雄と一族の真光寺周揚は前年十月から音信ある山中氏の間宮善介に対しその奔走を謝する書状を発給した。

この内訌は池田景雄と対立する池田新三郎が長年の反乱分子伊庭氏と結んだもので 山中大和守は前年 推定 十月十七日に承禎から 浅小井之儀 について報告を受けている。山中大和守は奉公衆であるが 甲賀を基盤に持つことから かねてより六角氏と入魂であった。永禄六年(1563)には進藤氏と結んでいるが 池田氏とも結んでいたのだろう。
十月頃には新三郎方によって土田から西庄にかけて要害が築かれている。
結局この内訌が如何になったのか定かでは無い。池田新三郎は生き延びているので 上手い具合に調停が為されたのであろうか。

畠山氏とのやり取り

永禄九年(1566) 能登の畠山義綱は重臣によって父共々能登から追放された。
義綱は承禎の婿であることから その身柄を坂本で保護していた。村井祐樹 六角定頼
承禎は義綱の能登復帰を画策 本願寺の顕如に 義綱再入国 を加賀一向一揆が援助するように依頼。その返事が二月末の承禎宛 義治宛の顕如書状である。遺文九三一 遺文九三二

しかし加賀一向一揆はかねて反義綱派と結んでおり 顕如もそれを重んじて断ってしまった。
それでも義綱は上杉輝虎と結び 永禄十一年(1568)に再入国を敢行。しかしその準備段階で上杉勢が諸要因から兵を引き上げてしまうが 義綱は一人挙兵を強行した。一度は入国に成功するも 七月には反義綱派の巻き返しに遭い 九月にあえなく撤退したそうだ。
出典 能登御入国の乱 能登畠山氏七尾の歴史

三月・磯野員昌の動き

三月二日 吉田兼右は自記に次のように記した。

二日戊午 江州北郡磯丹波守申来云 目賀田城 肥田城 佐和山城 何以鎮守為十禅寺 此内佐和山社号千代宮 丹波守令存知候間 無其祟候様ニ鎮札所望之間 銘々調了 又与南郡衆就調略之儀 立誓言 然共双方相破了 無其祟之様 札之儀所望候間 調遣了

磯野員昌と神社 伊藤信𠮷 にもあるように 磯野員昌はかねて吉田兼右と入魂で 神社にも造詣が深い人物であった。

城の鎮守について

目賀田城 肥田城 佐和山城は何れも 十禅寺 日吉山王社の十禅師社 を勧進し 鎮守社 としていたようである。磯野員昌と神社 伊藤信𠮷
特に佐和山城については 千代宮 が鎮座しており 員昌は両社に関連する祟りが無いように 兼右に 鎮札 を調えるよう依頼している。
伊藤氏によれば目賀田城は十禅師社は鎌倉時代に春日神社に合祀された。春日神社は現在も同地に残るため それが兼右の指す 十禅寺 なのだろう。
また肥田城の十禅寺社は 高野瀬氏の菩提寺崇徳寺に存在した 崇徳寺山王または山王権現社あるいは鎮守堂 である可能性があるようだ。
佐和山城の鎮守 千代宮 は度々遷座が行われ 今は彦根城の南西に座している。

目賀田氏について

さて村井祐樹氏によれば高野瀬氏は前年の江州大合戦以降の動静が不明で 彼らが大人しく北郡方に降ったと考えることが出来る。
その一方で目賀田の目賀田貞遠は 永禄十年(1567)の書状にも見られるため 恐らく本拠地目賀田を去ったと思われる。
後に安土城が建てられた山は それ以前は 目賀田山 と称していたという伝承が残るそうだが 貞遠は本拠地から同地へ退去したとも考えられよう。

南郡衆調略之儀

そのようなところで 又与南郡衆就調略之儀 立誓言 然共双方相破了 無其祟之様 札之儀所望候間 と記されているのは興味深い。
これは員昌が南郡衆を調略して誓言を取り交わしたが 双方が破った際に祟りが無いように札を所望したというものである。
ここで員昌が当時南郡衆を調略していたことが理解できると同時に 情勢いかんでは結んだ縁が絶えることを留意していたことがわかる。
しかしこの記述のみでは 員昌が調略していた南郡衆の具体名はよくわからない。

六角式目の制定

四月から五月にかけて 六角家では重臣たちが義治 承禎に対し式目を突き付けた。
この式目を一から解説するつもりは毛頭無いが 同時に発給された起請文で 依急劇急所相定 就南北都鄙鉾楯 各随分可奉抽忠節 聊不可致油断 然者 万人無御差別 戦功武略共以粉骨輩 被糺其浅深 可被与御恩賞旨忝存事 南北の争乱での反転攻勢が前提である記述が為されている。失った犬上 坂田郡を奪還する目論見もあったのだろう。
このように磯野員昌も六角家臣団も 決して情勢が落ち着いているとは考えず むしろ六角方は尚も争乱が続いているとの姿勢を示していた。

六角・坂本出兵

さて六角方の動向として見過ごせないのは 六月十六日に山門の騒動に関して進藤 永原 高野瀬等が合力し軍事行動を行ったという 言継卿記 の記述である。
これは山門東塔西谷にて 大教坊 福仙坊 の間で起きた事件に 六角方諸将が大教坊に合力したものである。
このとき福仙坊は勝軍地蔵と一乗寺を 持之 とある。現在の北白川周辺で この事件が京都側にも及んでいたことがわかる。最も伊藤正敏氏は祇園を山門の影響力があったとする
こうしたことから 京辺土悉左右方へ合力也 と言継は記す。

結果として一乗寺は焼かれ 勝軍へ六角軍が取り懸かったことで福仙坊は敗れ去ったという。
この一件が六角軍として洛中方面へ繰り出した最後の軍事行動となった。余談であるが山科言継は戦見物に出掛けていたようだ。

ここで高野瀬氏が六角方として活動している点は興味深く 彼らは目賀田氏同様に城を明け渡して観音寺城へ落ち延びたと考えることも出来る。最も高野瀬氏が江州大合戦で討たれた 高野瀬兄弟 とどのような関係になるのかは定かでは無い。

尚も池田家中では内訌が続き 七月には 安国寺質流れ が進藤の勝訴で決着を見せたという。

織田信長と結ぶ浅井長政、そして六角

このように述べてきたが 調べていて永禄十年(1567)の浅井の動きが乏しいことに気がつく。
しかしこの年に大きな出来事があった。それが信長と長政の 縁辺 である。

江濃縁辺

まず当年の九月までに織田信長は美濃の一色 斎藤 を下し その本拠地稲葉山城に入城した。
これによって浅井氏と織田氏は隣国同士の関係となった。その後信長は北伊勢も平定したことで 長政が影響力を及ぼした中郡は峠を越えると美濃 北伊勢の織田領に隣接する要所と相成った。
かねて美濃と義絶していた浅井氏からしてみれば 六角氏と共に北郡を脅かす一色 斎藤 が敗北を喫したことは長政の支配体制には影響は皆無で むしろ北に朝倉 東に織田と強大な武力を楯にすることが出来たのである。
織田信長もまた かねて支援する足利義昭の上洛を実行するためには近江北郡と中郡 高島郡の一部を実効支配し 中郡 高島郡の残り半数にも影響力を及ぼす浅井長政を敵に回す理由は存在しない。

同じ頃六角家では義治が飯高六箇寺の再建に関して 寺領を安堵している。遺文九五四

長政の嫁取り

そのようにして織田信長と浅井長政は美濃の市橋伝左衛門尉長利を通じて 御縁辺 つまり同盟が結ばれたのである。
九月十五日に長政は市橋長利に対して執り成しを依頼し 馬と太刀を進覧すると述べた。文末には 氏家方 伊賀 安藤 への 伝説 をも依頼している点が興味深い。長政と西美濃三人衆との間に何らかの音信があったのだろうか。大家小和田哲男氏に依れば この書状が信長と長政の最初の音信であるという。小和田哲男 戦国三姉妹

また信長と長政の同盟に関し 信長は のお市の方を嫁がせたとするが 婚姻の年次は諸説ある。ただ永禄十一年(1568)とする小和田説がまだ自然であるように筆者は感じる。
ところで長政には当時既に があった。一般的に軍記物を根拠に 平井氏の娘 が長政の最初の妻であるとされているが これは史料的根拠に乏しい。
しかし長政に男児が居たのは後年 信長公記 に見られることから 確かであろう。その男児は一般的に 万福丸 と呼ばれるが 公記に依れば天正元年(1573)の処刑時点で十歳程ということで 永禄七年(1564)頃の生まれと推察される。
長政は対六角の渦中に誰某の娘との間に子をもうけていたのである。

六角家の反応

さてこの縁辺に対し どうやら六角家は不満を抱いたらしい。遺文九五六には幕臣和田惟政が信長は六角へ配慮 気を遣っているとする旨を三雲親子に宛てた書状が見られる。黒田基樹 お市の方

御書畏令拝見候 仍浅井備前守与信長縁変 雖入眼候 先種々申延信長無別儀候 猶以自心切々調略候条 無油断不存候 急度罷上可得御意候 委細山岡美作守 景隆 江申渡候際 此等之趣 宜預御披露候 恐々謹言
    十二月十七日    惟政 花押
   三雲新左衛門尉 成持
   三雲対馬守殿 定持

ここで興味深いのは足利義秋を支える和田惟政が信長と六角家の間を取り持っていたことである。
先に信長の事情を主体に解説を述べたが 実はこの縁辺には足利義昭側の意向があったと見るべきである。
思い返せば六角家は浅井長政に削がれた実情 信長の失敗を鑑みて 三好家との和を選び義秋を追放した。承禎 義治親子にとって美濃一色 斎藤 が西美濃三人衆の離反により稲葉山諸共滅んだことは 衝撃的かつ青天の霹靂であったことだろう。何よりも十二月であれば 六角家の衛星とも言うべき北伊勢があっさりと織田方に降っている。
まさに六角家は窮地に立たされたのである。最も織田の北伊勢侵攻は六角方が反義昭であったことも影響しているだろうし 家中の池田家で内訌が続いていたことも影響しているだろう。

なおこの時期の六角家では 十月十二日に池田景雄と周揚が与力の杉山右兵衛に感状を発給している。この感状によって同月に何らかの合戦があった事が理解出来る。恐らく景雄と新三郎間での戦いだろうが 果たしてその結果両者の勢力が如何になったのかは定かでは無い。
そしてこの感状を以て両者の争乱を示す史料は終見となるが 池田新三郎は尚も六角家の吏僚として活躍を続けるのである。

永禄十一年(1568)

二月に東福寺の煕春竜喜が藤堂九郎左衛門の私宅を訪れ詩を詠んだ。
この年 比較的安定を見せていた近江が大きく揺れた。それは足利義昭の上洛に依るものである。
この上洛戦で戦国大名六角氏は終焉を迎えた。六角高頼以来近江南郡を治めてきた六角氏は 見る影も無く滅び去ったのである。

山中大和守を誘引する長政

二月八日 三好勢に擁立された足利義栄が将軍宣下を受けた。
その月末二十七日 浅井長政は甲賀の国人で幕府奉公衆の山中大和守 俊好 を誘った。山中俊好はかねて六角家に通じ 特に進藤氏とは永禄六年(1563)に結んでいた。
果たして山中俊好は長政の条件を呑んだのか定かでは無いが 長政としても足利義秋の上洛のためにも山中を招きたかったのだろう。

この誘引書状で興味深いのは 野洲 という地名が出てくる点や 甲賀境より上者蒲生堂川 其内諸入方共去々年以誓紙申合筋目不可有相違候事 と永禄九年(1566)に長政と俊好の間に音信があったことが窺える。
また 今度和田伊賀守方以誓紙申談 とあるが 長政が義昭上洛の過程で和田惟政と懇意になっていた。これは先に信長と長政の縁辺に不満を抱いた六角家に 惟政が宥めるための書状を発給した一件からも窺える。

信長の誘引

南郡の国人に誘いの手を伸ばしていたのは浅井長政だけではなく なんと織田信長も誘引を行っていた。
四月二十七日 織田尾張守信長は永原越前守 重虎 へ調略の書状を発給している。遺文九五九
これは信長が 六角氏もまた国人が集合した戦国大名である事を見抜いていたことによるのだろうか。
同日には甲賀の佐治氏が信長により知行を宛がわれたようで その後の流れを踏まえると この時期には既に永原 佐治をはじめとする六角配下等街道筋国人に調略の手が伸びていたと考えることも出来よう。

十五日には越前では足利義秋が朝倉義景を烏帽子親に元服 名を 義昭 と改めている。

藤堂氏と織田方・丸毛氏

時に藤堂家の系図を読むと 源七郎と与吉には 美濃多芸城主丸毛兵庫助 へ嫁いだおばが居るという。
濃州関ケ原合戦の展開 -福東城の戦いと丸毛氏- 山田昭彦 岐阜県博物館調査研究報告第 38 によれば 後年岡山藩池田家に仕えた丸毛次右衛門の奉公書に 次右衛門の養父道和の祖父が 兵庫助 とある。また奉公書によれば秀吉の時代には丸毛三郎兵衛は 福束 に七千石の知行を得た。
この丸毛兵庫助が源七郎 与吉兄弟のおばを娶ったと系図に見られる丸毛兵庫助と同一であるのなら 道和の祖母が藤堂氏となるだろう。

兵庫助には三郎兵衛という息子がいた。この三郎兵衛は池田家 織田 の家臣若原勘解由の娘婿となり 道和は若原氏の血筋を以て生まれたことになる。
関ヶ原の合戦で西軍に属した彼らは所領を失うが 紆余曲折を経て岡山藩士となったようだ。
通説に従えば三郎兵衛が 丸毛兼利 その父は 丸毛長照 と相成るが こうしたところは定かではないとする他ない。

寛政譜は長照について 実は高野瀬備前守某が弟なり と記す。
これも定かでは無いが 高野瀬氏は美濃方との折衝を担っていた形跡があり その一族が丸毛氏の養子となるのは自然に思える。高野瀬の肥田は藤堂氏の甲良三郷に近く 縁組みが行われることに何ら違和感は無い。気になるのは 高野瀬氏の頃に嫁いだのか 丸毛氏に入ってから嫁いだのか という点である。

また奉公書には丸毛兵庫助 三郎兵衛親子が安藤 氏家の西美濃三人衆が 斎藤治部大輔 龍興 に対し別心した際には 氏家からの攻撃に耐え治部大輔 龍興 から感状と加増を受けたとある。このように斎藤氏に忠実であるが その要因に六角氏との盟約があったのかもしれない。

二月十七日・煕春竜喜来訪

前後するが二月十七日に東福寺の煕春竜喜が藤堂九郎左の私宅を訪れ 浴室側にある梅の花に着想を得て詩を詠んだ。
これは彼の詩集 清渓稿 に収まる。

池亭梅花
戌辰二月十七日於藤堂九郎左私宅浴室側有梅
池邊梅發映斜輝 曳履吟遊共忘白反 一朶紅粧何似處 溫泉宮裡浴楊妃
又代人
橫斜蘸影小池頭 吟興悠々西日收 不若春衣宿花去 待看明月照清流

自ら清渓と号した彼は詩文の声誉があり 遠近の学者競って教えを乞うたとも記されている。
ただこの詩集は彼が編纂したのでは無く どうやら門弟が収録した可能性が高いようだ。

さてこの詩文には具体的な年が記されていない。しかし十六世紀の戊辰は永正五年(1508) 永禄十一年(1568)の二回で 煕春竜喜の生年が永正八年(1511)である。
つまり詠まれたのは永禄十一年(1568)と容易に比定される。

この詩文の前後には勝楽寺などで詠んだ詩が並んでおり どうやらこの時期に近江に滞在していたものと考えられる。
煕春竜喜は東福寺の法嗣でもあり そうした人物が私宅を訪れ詩を詠むというのは 藤堂九郎左衛門が永禄十一年(1568)当時に土地の有力者として存在していたこと そして一定の文化的教養を有していたと理解できる。
恐らくこの藤堂九郎左衛門は浅井長政から所領を安堵された藤堂九郎左衛門であろう。
しかし天文期間に見られる藤堂家忠との関係 系図に九郎左衛門を称したとされる高虎祖父や父との関係は定かでは無い。
ただ高虎の血縁の有無にしろ 彼が当時の藤堂一門の頭であることは明白であろう。

また一国人である九郎左衛門の館に 浴室 があったのは興味深い。高島郡では延暦寺の影響強い地域に 風呂 があったとされ 古く山科本願寺にも風呂があったようだ。
そうした宗教色の強い設備が藤堂氏の館にあったことは 彼らの居館が宗教施設に近いことなどを想起させる。
果たして高則 与吉兄弟も入浴したことはあるのだろうか。

足利義昭の上洛

足利義昭が上洛のために越前を出立したのは七月のことである。
多聞院日記 には 公方様去十六日ニ越前ヨリ江州浅井館へ御座ヲ被移 同廿二日ニ濃州ヘ御座被移了 尾張上総守御入洛御伴可申之由云〃 七月二十七日条 とある。

東浅井郡志は細川藤孝と京極高成以下の近習が義昭に随行したとするが 恐らく 永禄六年諸役人附 御供衆 佐々木治部大輔高成 京極弟 として見られることに依るのだろう。ともあれ小谷城で貴人を迎えるには 京極丸 が妥当で 一応の主である京極高吉や小法師が出迎えた可能性もあろうか。なお寛政譜によれば高吉が義昭に拝謁したのは美濃から上洛する際で 柏原にて謁見したとある。同史料には義秋が越前を逃れる際には高吉が護送したとあるが定かでは無い。

太田牛一は信長公記にて 二十七日に美濃立正寺へ入ったとするが 多聞院日記に分があり 五日早い二十二日に立正寺へ御成したと考えた方が良いだろう。

上洛の準備

大日本史料によれば原本信長記 信長公記 は斯くの如く記す。
八月七日 信長は佐和山へ赴き佐々木承禎に対し 入洛之路次 人質を出シ馳走候へ之旨 との使者を出したという。その際に 天下所司代 も提示し 信長は七日間佐和山城で返事を待ったらしい。
総見記 は長政と信長の邂逅 遠藤喜右衛門の信長暗殺計画を叙述するが 実のところは定かではない。

六角への呼びかけ

義昭の美濃入国でもわかるように 太田牛一にも記憶の齟齬はあるように思われる。だが信長と承禎にやり取りがあったのは事実だ。
八月十四日に織田信長は承禎 左京大夫 に対し 上洛軍への合力を要請する書状を発給している。遺文補遺 四六 これは村井氏の六角基礎研究本にも収まる

拒否する六角

しかし六角は信長の圧力に屈することは無かった。
山科言継は八月十七日 早旦に三好日向守 同下野入道釣竿 石成主税助等が江州へ下向し 天下之儀談合云々 不知其故也 と記す。三人衆は六角親子と 来る足利義昭の上洛軍への対抗策を会議したのであろう。

信長の禁制

対して信長は八月日付で柏原の成菩提院 多賀大社に禁制を発給している。時に柏原も多賀も浅井長政の影響下にある地域である。こうした地域に信長が禁制を発給するのは些か不適当なように思われるが 恐らく成菩提院と大社が戦火を懸念し信長に禁制を求めたのであろう。機を見るに敏とも言うべきだろうか。同様の事例は太尾城合戦の際に 未だ六角軍は近江国内であるのに洛中の本能寺へ禁制が発給された一件に見ることが出来る。

いよいよ戦が始まろうとしていた。

上洛軍の江州打ち入り

永禄十一年(1568)十一月には成立していた 足利義昭入洛記 を参考に上洛軍の動きを見ていきたい。
九月七日に岐阜を出立した信長は平尾 垂井 に陣を取った。諸勢は垂井 赤坂 不破 関山に着陣し 翌八日に高宮へ入る。
このとき先陣は既に愛知川境にあり 後陣は摺針峠 小野宿に控えていたとある。
藤堂氏が属する甲良三郷は愛智川以北であることから この時既に大人しく上洛軍に従ったと見るのが妥当だろうか。

六角の抗戦

この時信長は高宮に三日ほど滞在しているが これは佐々木四郎 義治 が道を塞ぎ逆木を山に結い 人馬が通いにくいように仕掛けたことによる。
塞がれた道は愛知川より南郡の街道 逆木が仕掛けられた山は定かでは無い。類推するに観音寺と箕作山の間に位置する街道筋の清水山であろうか。

六角の敗退

言継卿記に依れば九月十日に石成主税助が坂本へ出張するも 翌日には帰洛したらしい。
ともかく十二日に箕作山攻めを開始すると信長が怒るほどの苦戦をしながら 何とか夜には敵を退城に追い込むことが出来た。
明くる十三日に軍勢は観音寺を攻めるが 既に承禎等は落ち延びた後であった。

斯くして戦国大名六角家は滅び去った。最も当時の彼らは 一時的 に国を去っただけで 祖父高頼のように返り咲くことを目指していたのだろう。しかしそれは遂に為し得ぬ夢で終わる。
十三日時点では観音寺城に従い数カ所で蹶起があったが 彼らも一手を差し向けられると主同様に落ち延びたか 降参したという。

言継卿記は十四日条にて 後藤 長田 進藤 永原 池田 平井 九里 勢田山岡以下七人が降ったと述べる。他に日野の蒲生氏が最後まで抗戦していた逸話は有名だ。

そうして信長は二十四日に瀬田を越し 義昭は二十五日に三井寺へ動座した。

下之郷落城伝説

さてこうした上洛軍に対して甲良三郷はどのような対応を取ったのだろうか。
残念ながら それを明確に示す史料は存在しない。しかし尼子も多賀氏も 当年以降も史料に表れることから滅亡は避けられ上洛軍に与したようである。

後世の史料に永禄十一年(1568)四月に下之郷城が落城した というものがある。川並藤堂系図 下之郷古文書撰
更に 桂城神社社伝 古代中世の下之郷 永禄年中に織田信長軍に攻められ落城し 城主多賀土佐守実高はじめ川並 上野 二階堂の三家老ら多くの家来が討ち死したという。だが川並氏には最後の家老とされる人物が元亀三年(1572)に病没したとの説 川並系図 下之郷古文書撰 川並氏の出身とされる西応寺了覚は落城一年後の永禄十二年(1569)四月十一日に剃髪したとの説 古代中世の下之郷 がある。
また六角の姫君が平井氏 鯰江氏 二階堂豊後守の差配によって勝楽寺へ落ち延びたとする伝説 下之郷の歴史Ⅰ もとは淡海古説が出典だそう もある。

ここまで列記した甲良の郷土資料にみられる記述を 史料的に裏付けることは困難に近い。依ってこれらの記述は 定かでは無い とするほかないのである。
現状として把握出来る限りの一次史料を踏まえた結論を述べるならば 足利義昭 織田信長上洛という荒波を甲良三郷の面々は 上手いこと乗り越えたらしい。
ただし甲良三郡の面々が上洛軍に加わり 共に上洛を遂げたかは定かでは無い。

藤堂高虎伝説

さて津藩の編纂史料 高山公実録 公室年譜略 厳密には藩士の編纂である には当年の出来事として面白い記述が見られる。
この年の或る日 小谷の郷に賊 田部熊蔵が立て籠もり 浅井長政は虎高 高則親子に討伐を命じた。それを聴いた与吉は自らの参戦を父に乞うが 父は幼年 十三歳 であることから断るも 与吉は母に懇願して刀を借り無断で出陣。父や兄が表を攻め苦戦するところを裏口から一人攻め立て 見事に賊が討ち取ったという伝説である。
この話は高虎が幼い頃から武勇の士であったことを示す伝説であるが 所詮物語の類である。

高山公実録は話の出処として年譜略を始め諸書を出典とする。
澤田家の家譜 視聴混雑録 十四歳の秋 つまり翌永禄十二年(1569)秋の出来事として 藤堂家近所の小屋へ理不尽に二人を斬り殺した悪党が立て籠もったが 母から父虎高の小刀を借りた与吉が見事に斬殺し 父虎高の怒りをかって誉れが拡がることは無かったとする逸話が見える。最も澤田が藤堂家に仕えたのは慶長年間であり 結局はそれ以降に聞いた話を書き留めたに過ぎない。
結局伝説 物語として楽しむぶんには良いのだが その実否を問おうとすると疑問が残るのである。

疑問

そもそも何故中郡の藤堂氏が小谷の郷に詰める必要があるのか理解に苦しむ。確かに六角時代に重臣屋敷は観音寺城に置かれたと言われては居るが 現状では小谷城に中郡衆が屋敷を持ったという話は八町の赤田氏が北郡八島に屋敷を持ったという話以外皆無であり そもそも古い時代の話なのに 田部熊蔵 とて賊の名前が出る点も作話感が溢れ出ている。
とはいえ田部という地名は北郡木之本に存在しているから 田部から賊が起きることは無くはない。しかし中郡の藤堂氏が討伐を命じられることは噴飯物で 田部であれば近郷には浅井の外戚 井口氏の本拠地があり 更に赤尾や磯野 阿閉など北郡の主戦力が本拠地とする地域であるのだから 浅井長政とて彼らに討伐を命じれば良い話である。

城下で賊が起きるというのは浅井長政の支配力が城下にすら及ばないことを示唆するものであのに 先年まで六角方であった藤堂氏に討伐を命じることは 浅井長政が余程の恥知らずでは無い限り不可能である。ましてや中郡 甲良の藤堂氏にとって北郡衆は天文年間に二度も攻めこんできた不埒者の集団であり 一応従ったとは言え何故きた群衆の為に働く必要があるのか。逆のことは北郡衆にも言え 彼らだって仇敵多賀氏と深い仲の藤堂氏に救って貰う謂われも無かろう。
浅井長政は甲良三郷を自由に扱える支配力は有していたのか まずそこから論じる必要があるのだ。
どうせ高虎の活躍を盛るのなら こうした上洛軍に加わった際の逸話でも作って欲しかったとさえ思う。
一つ想像を働かせると こうした小谷城下での賊発生は事実であるが それを討伐したのは藤堂氏ではなくて 系図に藤堂氏の娘を娶ったとされる北郡の衆 草野氏 であったり 後年藤堂家に仕えた北群衆の武勇伝を拝借したのでは無いだろうか。

正当化・戒め

そして父や兄の許しを得ずに出陣して武功を挙げるというところは 夏の陣で無断出陣を遂げた出雲 内匠兄弟の正当化を感じるところではあるし 澤田家の記述は そうした蛮勇は役に立たない恥である という戒めを感じる部分もある。

永禄十二年(1569)

伊勢御師上部家の記録 願祝簿 には当年に天文二十三年(1554) 藤堂源助以来の藤堂氏が登場する。
それは 藤堂九郎左衛門 浅井長政に所領を安堵され 熙春龍喜を私宅に招いた藤堂九郎左衛門であろう。
そしてこの記録が 藤堂九郎左衛門の終見と相成る。

正月には三好三人衆が本国寺の足利義昭を襲撃し その報せを聞き岐阜の信長をはじめ近江など諸国から八万人が上洛したと 言継卿記 の十二日条に見える 甲良三郷の面々が上洛したのか定かでは無い。
二月には義昭のための御所造営がはじまり 近江からも動員がかけられた。その頃に浅井長政は上洛したと見られ 三月二日に吉田兼右と対面している。

大河内攻め

この年 正月の足利義昭襲撃と並ぶ出来事として織田信長の大河内攻めがあげられる。
これは八月二十日から八万の大軍勢を以て南伊勢の国司北畠家を攻めたものである。
信長公記にて 南の山に進藤 後藤 蒲生等旧六角派 西には堀 樋口 阿閉淡路守 息孫五郎 北者には浅井備前守人数 磯野丹波守と近江国人の名前を見ることが出来る。

甲良三郷の犠牲

津藩編纂史料には高虎 与吉 の兄 源七郎高則と 母の弟新助が八月二十九日に討死したとある。
佐伯朗氏によれば 高虎のおばを娶った箕浦作兵衛忠秀も討死したそうだ。
原本信長記 に見える軍事行動は 九月八日夜にあった西搦手口夜襲のみで この戦いで究竟の侍二十余人が討死したが 高則や新助がこの中に含まれるのか定かでは無い。

公室年譜略 は高則が城を登り進み 敵が大勢の中大いに勇み奮い 重創を蒙り戦死したと述べる。京極六郎の乱の最中に生を受けた高則は二十一歳にして勇壮な死を遂げた。
これを見た新七郎 新助 はその場を去ること無く大いに怒り戦い討死したと述べる。天文初頭 浅井亮政と敵対した多賀貞隆を間近に育ったであろう彼は 五歳になる子を遺し三十歳 年譜略同日条 もしくは三十八歳 年譜略新七郎家系図 二十八歳 藤堂姓等諸家譜 で壮絶な死を遂げた。多賀一門の誉れとも言えよう。

年譜略で興味深いのは 此陣公初陣タルカ魁偉勇力諸人目ヲ驚ス と高虎が初陣を迎えたとしている点であるが 実録の編纂者は 誤伝 としている。ただ十四歳という年齢であれば誤伝とは言えないようにも思える。結局 実のところは定かではない。

これらの実否はともかくとして藤堂氏 甲良三郷の面々が出陣するとすれば 誰の陣に加わったのだろうか。
信長公記には見られないだけで近江など諸国の中小国人も参加していたのか 進藤など旧六角勢力か堀 樋口といった勢力の陣に加わったのだろうか。
信長公記に依れば戦いには先に検討した丸毛氏の丸毛兵庫 三郎兵衛も記されており 縁戚である彼らの陣に加わったとも想像出来よう。

そして甲良三郷の犠牲は将二人のみならず 彼らに付き従った兵にもあったとも推測出来る。或る意味で彼らは義昭 信長政権という変革の犠牲者になったのである。翌年から始まる元亀争乱に甲良三郷 そして与吉は否応なく巻き込まれるが 果たして大河内での犠牲は彼らの心理面どの程度作用したのだろう。