藤堂氏史料年表目録
藤堂高虎前史としての年表兼目録です。
本文は殆どが注釈等をカバーしています。
例えば歴名土代では叙された年月日に続き、 細かい要素が記されるますが、 そうした部分を本文中に記載しています。
膨大なのでページ内検索機能で飛んでください。
以下に出典の凡例を示すが、 ここにあるのは登場が一回以上の出典史料です。
表記 | 出典 |
---|---|
兼一 | 兼宣公記一 (史料纂集) |
兼二 | 兼宣公記二 |
歴名 | 歴名土代 (榎原雅治氏) |
百合 | 東寺百合文書データベース |
綱 | 綱光公記 (史料編纂所紀要の収録号) |
礼 | 山科家礼記 |
國 | 言國卿記 |
兼顕 | 兼顕卿記 (データベースれきはくより) |
晴富 | 晴富宿禰記 |
守 | 守光公記 |
立入 | 立入宗継文書 ・ 川端道喜文書 |
言継 | 言継卿記 (デジタルコレクション、 群書版) 発刊年により収録が異なる為、 通し番号を採用 |
蔭 | 蔭涼軒日録 |
遺文 | 戦国遺文佐々木六角氏編(村井祐樹) 補遺は 『近江地方史研究 46』、 続補遺は 『中世史料との邂逅』 |
応永十一年(1404)
六月十三日・藤堂殿宛飯尾貞之書状(兼一・景盛)
応永二十三年(1416)
三月十日・賀茂祭礼「三河」、男共「右京」(兼一・景盛、景能)
十二月三十日・白馬節会に関しての副状宛名「右京亮」(兼一・景能)
応永二十六年(1419)
六月五日・景能、正五位下(歴名・景能)
三川守景盛男、 藤堂石見守
十一月三日・藤堂三河守会尺等料足注文(百合・景盛か)
十一月九日・最勝光院評定引付・家僕藤堂弐百疋(百合・景盛か)
応永二十七年(1420)
二月二日・廿一口方評定引付・藤堂会尺事(百合・景盛か)
応永三十年(1423)
三月二十三日・参宮(兼二・景能)
右京亮
四月二十日・羽田庄と三河下人(兼二・景盛)
五月十五日・羽田庄の代官三河入道(兼二・景盛)
五月二十八日・南都春日参詣(兼二・景能)
右京亮
七月二十三日・藤堂殿宛春日神主大中臣師盛書状(兼二・景盛)
応永三十一年(1424)
二月十五日・三河入道休所で兼宣一家が朝食を食べる(兼二・景盛)
四月十九日・春日参詣(兼二・景能)
右京亮、 騎馬
十一月二十一日・兼宣に代わり三河入道が幕府使者応対、また粥の宴差配を行う(兼二・景盛)
十二月十八日・南都下向(兼二・景能)
右京亮
応永三十三年(1426)
三月二十六日・三河入道休所で兼宣が弔問客と対面(兼未刊・景盛)
兼宣母の葬儀について
永享元年(1429)
六月六日・景富、従五位上(歴名・景富)
永享六年(1434)
十月十五日・景勝、従五位下(歴名・景勝)
嘉吉二年(1442)
十二月二十九日・景富、正五位下(歴名・景富)
藤堂豊後守景盛二男
嘉吉三年(1443)
三月十七日・景勝、正五位下(歴名・景勝)
藤堂三川守景盛三男、 同四年`月`日、 四品、
嘉吉四年(1444)
某月某日・景勝、従四位下三河守(歴名・景勝)
文安六年(1449)
正月十七日・藤堂宿所出向、珍重珍重(綱、紀要二十六号・景敦もしくは景富か)
二月六日・妙法院殿嘉例之御壇供五面拝領について(綱、紀要二十六号・景富か)
藤室 [堂]
六月十七日・景長、正五位下(歴名・景長)
美作守景盛四男
宝徳二年(1450)
正月十七日・豊後宿所、嘉例(綱、紀要二十九号・景富)
景敦カ、 と注
八月二十七日・三河守藤堂景勝が痢病の為に亡くなる(綱、紀要三十二号・景勝)
これは綱光公記三十日条に依る。
八月三十日・入夜雨下、自江州豊後守等上洛、抑三河守(去二十七日)帰泉云々、不便無極、痢病云々(綱、紀要三十二号・景富)
藤堂景富、 上洛し弟景勝の死を伝える。なお紀要では景盛とするが、 これは誤り。
宝徳三年(1451)
五月八日・月次有連歌百韻、頭景長也(綱、紀要三十三号・景長)
景長、 連歌の頭人を務める。これが景長の初見
六月十四日・豊後申盃酒云々(綱、紀要三十三号・景富)
景富、 この日行われた 「風流」 なる行事にて 「豊後申 (申) 盃酒云々、 此風流事御執奏云 (也) 々」 とある。
享徳三年(1454)
十二月二十八日・豊後景富昨日上洛了(綱、紀要二十一号・景富)
康正二年(1456)
五月二十七日・御崎檢校殿宛持清書状に「委細藤堂方可申候」(大社町史・藤堂九郎左衛門か)
島根県史史料七にもあり。年次比定は大社町史史料古代中世上巻から
七月二十六日・藤堂九郎左衛門、佐々木中務少輔京極勝秀隊列の二番目に名あり(将軍義政公大将御拝賀記・藤堂九郎左衛門)
これは足利義政右大将就任拝賀での一幕、 具足黒章、 馬黒糟毛。松江市史史料編三古代中世 594 に収まる。原典は彰考館所蔵典籍 ・ 水戸彰考館所蔵
康正三年(1457)
五月二十六日・隠岐國分寺領に関して持清から書状を受け取る(島根県史史料七・藤堂九郎左衛門)
宛名には他に牛尾左近将監がある。また年次未詳ではあるが、 同年の隠岐国分寺安堵の流れに掲載されている点から康正三年と比定した。
寛正三年(1462)
二月十三日・景敦連歌会頭役(綱、紀要二十二号・景敦)
三月二十五日・景富連歌会頭役(綱、紀要二十二号・景富)
七月二十四日・藤堂某、京極勝秀の東福寺訪問に同道(碧山目録・藤堂某)
九郎左衛門か。下河原某、 一村某、 懸筧某、 済藤某、 長江某らが共に従う
八月二十四日・景敦が放生会の青侍両人の一人、(綱、紀要二十二号・景敦)
もう一人は速水景益
寛正五年(1464)
九月五日・三河守景富前髪、賜盃(綱、紀要二十四号・景富)
十一月二十七日・景敦、安居院坊入室の茶々丸を見送るか(綱、紀要二十四号・景敦)
寛正六年(1466)
二月二十日・景敦、飛鳥井雅親へ御教書を届けたか(大日本史料データベース守光雑記「明金日記」・景敦か)
延徳二年十二月二十二日条内に収まる。綱光から飛鳥井雅親へ、 勅撰和歌集編纂の院宣に関する御教書を届けた旨が 「明金日記」 として記録されている。
十二月十五日・東堂三川入道明誉の去渡状発行(大乗院寺社雑事記・景富か)
第三十一、 十二月二十七日条内に収まる
応仁元年(1467)
三月十三日・景敦、大原野祭で内々騎馬に名あり(綱、紀要二十五号・景敦)
応仁二年(1468)
三月一日・廣橋殿内藤堂美作守あつけのからひつ(礼一・景長)
廣橋殿内藤堂美作守方あつけのからひつ一合とられ候
文明二年(1470)
六月十九日・景持と景隆、正五位下(歴名・景持、景隆)
景持は 「豊後守景富男」。また景隆は 「藤堂因幡守」、 群書では 「播磨守因幡守イ」
文明四年(1472)
七月六日・代官藤堂美作、竹商人より徴収を免ず(礼二・景長)
文明七年(1475)
十月十八日・藤堂豊後守雑任所望(實隆公記一上、景持か)
文明八年(1476)
二月二十五日・景敦、従五位下(歴名、景敦)
藤堂景勝朝臣一男、 左衛門如元、 十一年五月十六日出家
文明九年(1477)
閏正月二十七日・藤堂美作守、見舞い応対奏者(礼三・景長)
寺家新宰相殿が廣橋殿 (綱光) を尋ね病気を見舞う
二月十三日・景長、従四位下(歴名・景長)
藤堂美作守
二月十六日・藤堂左衛門大夫、広橋家の家司として葬礼服を尋ねる(礼三・景敦)
六月十三日・近日因幡上洛之由は景隆か(兼顕・因幡、景隆か)
ちょっと強引
六月十七日・兼顕が終日公卿補任を書写するので、景敦も手伝う(兼顕・景敦)
六月十八日・景敦、この日も兼顕の公卿補任書写を手伝う。また景安が南都より上洛(兼顕・景敦、景安)
六月十九日・景敦、連日の公卿補任書写を補助(兼顕・景敦)
八月七日・藤堂豊後守朝飯まいらせ候也(礼三・景持か)
十二月十五日・景敦、返状の調遣者となる(兼顕・景敦)
以春日局披露仰景敦返状調遣者也
文明十年(1478)
六月十二日・景安、従五位下(歴名・景安)
藤堂右京亮景勝朝臣二男
七月十日・藤堂豊後守、籾井から七夕用具返却請取状の宛先(兼顕・景持か)
送り主は籾井代の森五郎左衛門入道浄満
七月十四日・修理亮景家、禁裏進上盆灯籠制作者として記録(兼顕・景家)
十二月十八日・朝飯に豊後が来ると、朝食後に大沢久守と碁を楽しむ(國三・景持か)
文明十一年(1479)
四月四日・月次連歌会にて脇句後頭景持沙汰也(兼顕・景持)
四月四日・景兼、従五位下(歴名・景兼)
十歳、 藤堂兵庫助景教男、 長享二年三月二十八日横死
五月十四日・景敦、正五位下
翌十五日、 兼顕の薨去に伴い出家。明金 (歴名) もしくは明全 (年譜略) と名乗る
五月十六日・藤堂美作一身居家門之留守(晴富・景長)
広橋兼顕の葬儀に関して
十二月七日・藤堂左京亮起請文(晴富・不詳)
不詳・沢良宜村割注に「給主広橋藤堂豊後」とあり(近衛家領目録・景持か)
戦国期摂津国における近衛家領 (鶴崎裕雄、 湯川敏治)
文明十二年(1480)
正月五日・守光の使・藤堂豊後(礼三・景持か)
十月二十九日・御僧一人とき、藤堂筑後西川殿上下めし御まいり候也(礼三・藤堂筑後守)
藤堂筑後守、 不詳
文明十三年(1481)
正月五日・大沢久守が年賀に参り、藤堂豊後と左衛門が応対(礼四・景持か)
左衛門大夫も応対しているが、 これは藤堂かは不詳も藤堂なら景敦 (明全 ・ 明金) か。広橋左衛門大夫説も
九月四日・藤堂筑後守朝飯候也(礼四・藤堂筑後守)
藤堂筑後守の二例目
文明十八年(1486)
七月二十二日・藤堂左衛門大夫子が出仕。色々出来候て尋候也(礼五・藤堂左衛門大夫子)
景俊か、 不詳の兄か
七月二十五日・藤堂備前、京極政経・材宗の室町出仕に従う(蔭・藤堂備前守)
多賀新左衛門、 藤堂備前、 今井蔵人。
(坂田郡志、 大日本仏教全書一三四から)
十二月晦日・亀泉集証、藤堂備前守宅を訪ねる(蔭・藤堂備前守)
「京極光祿 (政経) 屋形 (一)。等持寺代 (二) 諸老 (一) 引付書(レ) 名。次多賀新左衞門宅。次藤堂備前守宅。皆以 (二) 他出之故 (一) 奏者請 (二) 取之 (一)」 とあり、 新左衛門と備前守は不在であったらしい。
(大日本仏教全書一三四から)
長享元年(1487)
十二月二十六日・藤堂一門及生涯云々(大乗院日記目録)
十二月三十日・一去二十六日、廣橋之内藤堂一門共悉打死、於京都本所也(大乗院寺社雑事記)
以上二件が長享藤堂事件に纏わる記述、 犠牲者の数は不明
長享二年(1488)
三月二十八日・景兼、横死(歴名・景兼)
歴名土代の景兼項による。行年二十歳。『淡海木間攫』 によれば同日速水信益も 「討死」 と。関連は不明
十二月十日・権律師陽専房興憲が維摩会の講師を勤める(三会一定記・興憲)
大日本史料 8 編 24 冊の 90 頁に収まる。「藤堂参河守中原景能朝臣子也、 廣橋家侍」 と記されるが景能は三河守では無い。
長享三年(1489)
四月四日・廣橋殿御使ニ藤堂豊後出来候也(礼五・景持か)
年譜略にて景持は文明十一年に逝去か?とされるなかで、 この時代に景持が生きていたと考えると興味深い。歴名土代では藤堂豊後守は景持以降見られない
延徳三年(1491)
正月十七日・亀泉集証、藤堂備前守宅を訪ねる(蔭・藤堂備前守)
「往 (二) 京極治部少輔殿宅 (一)。伸 (二) 先日來臨之謝 (一)。往 (二) 藤堂備前守宅 (一)。一 (二) 見庭 (一)。伸 (レ) 賀歸」 とあり、 材宗宅を訪れた後に来訪し庭を一見したらしい。
(大日本仏教全書一三六から)
正月二十六日・藤堂備前守、材宗に侍る(蔭・藤堂備前守)
「佐々木治部少輔殿門役。藤堂備前守爲 (レ) 首皆列座。門外少輔殿参侍」
何かしらの行事に参加した材宗に従っている。前日条に 「明日三七日忌拈香勤之」 とあるから、 その行事もしくは関連するものだろう。
(大日本仏教全書一三六から)
九月十六日・藤堂備前守、幕府奉行人・飯尾宗勝(元連)と松田数秀より奉書を賜る(大徳寺文書・藤堂備前守)
彦根市史第五巻史料編古代 ・ 中世の 527 に収まる室町幕府奉行人連署奉書。内容は河瀬梅千代の西今違乱について
明応二年(1493)
五月二十七日・藤堂備前守、材宗の出仕に従う(蔭・藤堂備前守)
「京極治部少輔殿同時出仕。伴衆下河原。藤堂備前守二騎。見 (レ) 之者如 (二) 堵墻 (一)」
これは赤松などが出仕している記録から続くもの。下河原の詳細は不明。
(大日本仏教全書一三七、 島根県史から)
明応四年(1495)
月日不詳・九郎兵衛方(藤堂か?)へ樽持[]談合御出時臨時食(金剛輪寺下倉米銭下用帳・藤堂九郎兵衛か)
九郎兵衛か
明応五年(1496)
十一月十七日・藤堂九郎兵衛方楯のさん木所望、間持行人夫二人食(金剛輪寺下倉米銭下用帳・藤堂九郎兵衛)
船田合戦に関してか
文亀二年(1502)【國八】
六月十二日・言国の鞍馬寺参詣で廣橋青侍トウタウ左京亮が罷るとあり(國八・景俊か)
公卿補任についての伝達か
永正五年(1508)
七月十六日・左京亮、大宮時元より申状(守一・景俊)
九月四日・頭中将夾臨之礼遣左京(守一・景俊)
永正七年(1510)
二月二十二日・藤堂九郎兵衛尉、近江衆に名前あり(大日本史料・藤堂九郎兵衛)
大日本史料 9 編 2 冊の 422P、 正月二十九日条内にある御内書案。十六人中、 十四人目
永正八年(1511)
九月十四日・景元、松田丹後方へ遣わされる(守二・景元)
二巻なので注意
十二月三十日・正実坊の円運分一御要脚注文の宛が藤堂左京亮殿(守一・景俊)
翌年二月九日条内に収まる
永正九年(1512)
正月十九日・左京、御服要脚と御神楽について請取(守一・景俊)
二月九日・祭宜土御門有宣代守祐より藤堂殿宛請取状(守一・景俊)
二月十四日・禁中觸穢神宮奉行職に景元が遣わされる(守一・景元)
二月二十四日・因幡堂参詣について「今日以景元相觸処」(守一・景元)
三月二十三日・四足役所大經師について景元が「披露処、子細何事哉、可尋由、勅答也」(守一・景元)
四月十日・藤堂殿宛の良椿申状(守一・景元)
四月二十四日条内に収まる
四月二十九日・右京亮、新大典侍殿の印物について遣わされる(守一・景元)
新大典侍とは勸修寺藤子のこと
閏四月二日・景元、後柏原天皇女房奉書(御返事)について何らかの関与(守一・景元)
「以景元正印文書幷攝津 (政親) 方 (江) 祭主 (大中臣伊忠) 狀等遣攝津許、 同美濃段錢事 ・ 同衣要途之事申遣者也、」
閏四月十七日・斎藤時基より藤堂殿宛の御服要脚萬疋内未進に関する書状(守一・景元)
五月十八日・松田丹後守(長秀)へ広橋家雑掌奉書を景俊が担当(守一・景俊)
五月二十一日・景元、伊庭貞隆の賀茂・森殿(康久)宛て書状を預かる(守一・景元)
六月二十三日・景元、齋藤基雄へ遣わされ「不可申旨候」(守一・景元)
七月七日・七夕立花について「即以左京亮令申者」(守一・景俊)
七月九日・立阿弥より藤堂修理亮宛七夕と禁裏への花瓶と御盆に関する書状(守一・景永)
七月十五日・右京、早朝殿中に進み「昨宵の御返事の趣、以申次大館」(守一・景元)
八月十日・景俊、商人問丸に関する定蔵院宛広橋家雑掌奉書を担当(守一・景俊)
十一月二十六日条内
九月七日・景俊、禁裏御料所紙課役に関する定蔵院宛広橋家雑掌奉書を担当(守一・景俊)
九月十二日・護法院に関して景元が使を務める(守一・景元)
九月廿□日・諏訪長俊より藤堂殿宛幕府奉行人奉書(守一・景元)
廿□と、 詳しい日付は不詳。二十四日条内に収まる
九月二十七日・朝守光を訪ねる人があり左京が応対(守一・景俊)
十月二日・万里小路秀房の使者が散状を持ち来訪したので景元が応対(守一・景元)
十一月二十三日・定蔵院殿宛ての広橋家雑掌奉書(守一・不詳)
差出人不詳、 十一月二十五日条に収まる
十二月九日・大宮時元より藤堂右京亮殿宛書状(守一・景元)
眞光院の知行分播州香山保について
十二月二十七日・灰方の請取について四辻大納言青侍某と共に景元が担当(守一・景元)
永正十年(1513)
正月三日・左京、足利義尹の嘉例御扇拝受に参賀(守一・景俊)
正月九日・左京、長橋局の返答に対する使者(守一・景俊)
二月六日・景元、御位署の使者として齋藤美濃守基雄のもとへ(守一・景元)
二月二十三日・「木邊僧為礼罷向尊勝院(光什)、添遣景元者也」(守一・景元)
三月五日・景元、広橋家雑掌請取状を担当(守一・景元)
宛名不詳
三月二十四日・「以景元内々時局申入処」(守一・景元)
四月六日・景元、薬玉進上について一色尹泰、畠山順光方へ遣わされる(守一・景元)
六月二十日・景俊、勧修寺家の雑掌井家顯家と共に山國庄沙汰人宛雑掌奉書を担当(守一・景俊)
七月十九日・景俊、速水正益と共に壬生于恆宛広橋家雑掌奉書を担当(守一・景俊)
二十日条
七月二十四日・景俊、嵯峨筏問丸中宛広橋家雑掌奉書を担当(守一・景俊)
二十六日条内
八月十二日・景元、幕府奉行人に召し出される(守一・景元)
永正八年の御服要脚について松田長秀、 齋藤時基に召し出される
九月三日・景元、幕府奉行人松田長秀に召し出され、灰方奉書令書を進上(守一・景元)
九月三日・左京、守光宛の後柏原天皇女房奉書を「遣丹後許処」(守一・景俊)
丹後とは幕府奉行人松田長秀 (丹後守) の事
九月五日・景元、山國(丹波国桑田郡)に関して松田に召し出される(守一・景元)
同じく幕府奉行人松田長秀の事
九月二十七日・景元、守光宛の後柏原天皇女房奉書を受け取るために遣わされる(守一・景元)
十二月二十九日・左京、後柏原天皇女房奉書について松田のもとへ遣わされる(守一・景俊)
十二月三十日・「以地下人奉書如此由申間」の地下人が景元を指すか(守一・景元か)
不詳だが索引の景元項に、 この記録の頁が示されていることから一応
永正十一年(1514)
正月二十八日・景元、後柏原天皇女房奉書等を受け取りに遣わされる(守二・景元)
三月三日・前日の後柏原天皇女房奉書・相添書状について「以修理遣者也」(守二・景永)
相添書状は守光から叔父の尊勝院光什に宛てて出された書状
三月十五日・竹内先門主(蔓殊院良鎮)勅免について「則遣景元処令来賜」とあり(守二・景元)
八月十二日・「納候長橋(使景元)」と景元が長橋局の使を務めたか(守二・景元)
永正十二年(1515)
正月二日・景永、広橋家雑掌請取状を担当(守二・景永)
宛名記載なしも、 本文中にみられる 「伊勢伊勢守貞陸」 方へ宛てられたものか
正月十一日・「事書状景元持行」、「景元百疋返」(守二・景元)
正月三十日・景元、早朝に御撫物と御巻敷を室町殿へ進上(守二・景元)
二月二日・「寺町石見(通隆)就天王寺事内ゞ景元有申子細、仍遣尊院(尊勝院光什)相談」(守二・景元)
二月二十一日・「春日祭散状以景元進殿中、申次伊勢与一」(守二・景元)
閏二月三日・「令一覽、以景永返修理者(奈良元吉カ)也、彼狀兩通遣安樂光院者也」(守二・景永)
三月某日・栗眞について白川雅業王から東堂殿へ宛てた書状あり(守二・不詳も景元か)
十二日条内に収まる。六月十四日条が対応記事になるが、 そちらを参考にすると景元か
三月十七日・「入夜以左京令申長橋畢」(守二・景俊)
三月二十九日・左京亮宛ての葉室家雑掌光泰書状(守二・景俊)
四月一日条内に収まる。内容は宣下御礼物万疋請取について
四月四日・「不出様可申入事景永申」(守二・景永)
五月七日・午後、松田長秀が守光を訪ねるも不在につき左京が応対(守二・景俊)
五月二十一日・守光と松田丹後のやりとりについて「則遣左京之処」(守二・景俊)
六月十四日・東堂景元、栗眞について松田長秀に官務大宮時元共々呼び出される(守二・景元)
八月一日・松田長秀宛ての広橋家雑掌御服要脚請取状を景元が担当(守二・景元)
七月二十九日条内に収まる
八月一日・伏見宮邦高親王の御太刀について景元の働きあり(守二・景元)
八月一日・松田長秀より左京亮宛ての書状あり(守二・景俊)
八月三日条内に収まる
八月二十二日・「左京亮可遣之由令」とあり(守二・景俊)
八月三十日・早朝に行われた御巻敷・御撫物進上武家(足利義稙)の使に景元(守二・景元)
九月十九日・「安楽光院事、以修理申送蓮泉院者也、昨日令申旨同心也、珍重珍重」(守二・景永)
永正十四年(1517)
二月二十日・景元、松田丹後守宛の広橋家雑掌長橋局雑掌(久次)請取状を担当(守二・景元)
六月三日条内に収まる。久次は田口久秀の弟
四月二日・松田長秀から藤堂殿宛の節会御要脚事の書状あり(守二・景元か)
六月三日条内に収まる。「如此申間、 田口左京亮与景元両人出之」 とあるから、 景元だろうか。また田口左京亮は久次だろうか
六月二日・松田丹後長秀より藤堂殿宛就節会に関しての書状(守二・景元)
景元と付記
六月三日・長橋局にて、「今朝景元・右京亮(田口久秀)五百疋請取、相調長橋奉書等」とあり(守二・景元)
田口久秀は景元等と長橋局雑掌を務める四辻家の侍、 久次の兄
九月三日・景俊、山本播磨宛の広橋家雑掌奉書を担当(守二・景俊)
永正十五年(1518)
十二月十日・因幡、飯尾齋藤松田の三奉行に摂津元直、某宿祢らと共に守光へ女房奉書を届けたか(守二・景元か)
十二月十二日・景永、速水家益と共に禁裏御煤拂に参加か(守二・景永)
十三日条内に収まる。速水家益は景元の実父の可能性がある速水信益の兄弟
十二月十三日・「則以因幡内々自局申入」とあるのは景元の事か(守二・景元か)
十二月二十七日・飯尾近江守貞運宛の広橋家雑掌長橋局雑掌請取状を景俊と田口久秀が担当。(守二・景俊)
二十四日条内に収まる
十二月二十七日・飯尾貞運より左京亮宛の書状(守二・景俊)
永正十七年(1520)
三月十一日・景元、広橋の青侍として禁裏へ遣わされる(守二・景元)
十二月二十日・景元、広橋家雑掌請取状を担当(守二・景元)
十二月二十一日・長橋局官女うきやう(右京大夫)から「とうたうとの」宛に請取状(守二・景元)
二十日条内に収まる
十二月二十二日・景元、広橋家雑掌請取状を担当(守二・景元)
二十七日条内に収まる
十二月二十七日・「請取藤堂可持來」(守二・景元か)
十二月二十七日・うきやうより「いなはとの」宛の長橋局請取状(守二・景元)
永正十八年(1521)
正月二十一日・「以青侍申送之、則以景元可令進上」とあり(守二・景元)
藤堂与二郎(顧祝簿)
永正年間か
正月十六日・某から藤堂修理亮宛書状あり(八坂神社文書上・景永か)
これは 『八坂神社文書 ・ 上』 の九〇 「社務執行實壽院顯增書状案」 に収まる。
「一社領廣嶺内ノ公用ヲ納む」 について某 (魚住隠岐守か) から。また 「一守札牛王巻敷ヲ魚住隠岐守ニ贈ル朝倉孝景」 については文頭に 「尚々藤堂修理亮殿可披申入候」 と、 景永の介在が見受けられる。
「一守札牛王巻敷~」 の書状に 「永正 (端裏書) 十五二月、 魚住隠岐守方へ披遣候」 と記される事から、 永正十五年(1518)頃だろうか
大永二年(1522)
十二月二十七日・藤堂修理亮、安楽光院について借銭を返済せざると幕府に訴える(大日本史料・景永)
大日本史料 9 編 17 冊 139 頁に収まる 『賦引付』
大永三年(1523)
藤堂与二郎、駿河守(顧祝簿)
大永四年(1524)
九月四日・景元、従五位下(歴名・景元)
藤堂因幡守故 ・ 宗益男、 群書では宣益
九月十三日・景俊、従五位下(歴名・景俊)
三河守景敦次男
大永六年(1526)
藤堂帯刀(顧祝簿)
大永七年(1527)
九月二十四日・景元、景俊、従五位上(歴名・景元、景俊)
享禄三年(1530)
十月二日・立入幸夜叉丸宛の廣橋兼秀施行状を景元と速水正益が担当(立入・景元)
一、 綸旨御奉書下知状の (四)
藤堂新助(顧祝簿)
享禄四年(1531)
正月八日・景元、景俊、正五位下(歴名・景元、景俊)
景元が藤堂因幡守、 景俊が藤堂三川守
藤堂新助(顧祝簿)
享禄五・天文元年(1532)
九月某日・藤堂九郎左衛門尉家忠から尼子殿御代官宛て請文(革島家文書・家忠)
拾遺七七に収まる。
藤堂新助(顧祝簿)
享禄五年
天文二年(1533)
四月十五日・藤堂兵衛大夫景任、鴨社税殿宛書状を担当(元長卿記裏文書・景任)
岐阜県史資料編古代中世補遺に収まる。
十二月二十一日・散位景元、春日執行の正預(今西祐惟)宛の「前関白近衛稙家御教書」を担当(大東家文書・景元)
春日大社 ・ 大東家文書目録に収まる。内容は臨時御神楽について書状
藤堂帯刀(顧祝簿)
天文三年(1534)
正月八日・景元、従四位下(歴名・景元)
藤堂因幡守、 四年八月`日出家、 五年十二月十九日卒、 八十三才
八月二十日・藤堂備中守、小谷城饗応に参加(天文三年浅井備前守宿所饗応記・備中守)
続群書類従に収まる。進物献上下賜の義、 具足の段取次に名前あり
天文四年(1535)
正月二十三日・東堂参河守、女院の葬儀について名あり(言継七・景俊)
八月某日・景元出家(歴名・景元)
一本中原系図によれば法名は 「道可」 だが信憑性に疑問あり
天文五年(1536)
二月十七日・景俊、従四位下(歴名・景俊)
六十、 藤堂三川守
二月十八日・「一昨日廣橋候人東堂参河守勅許之間、同日申候了、則勅許候了」(言継七・景俊)
八月五日・藤堂弥五郎、七月二十七日の「日蓮宗退治」に於ける武功で定頼から感状(遺文・続補遺一六)
「六角定頼書状写 壁蔵遺珠」 による。
「今度日蓮宗退治、 去月廿七日、 於下口属内堀手、 頸一到来、 神妙候、 猶次郎左衛門可申候也」 とある。下口は荒神口 ・ 今道の下口のことか。次郎左衛門は一見大将 ・ 大原次郎かと思ってしまうが、 彼は 「次郎」 であるし、 同日付で吉田の隊下四条口で戦った木村牛介宛定頼書状写 (遺文三三八) では 「猶定雄可申候」 としている。定雄が吉田であるか定かでは無いが村井氏は 「吉田カ」 と付記している。そして後年弥五郎は 「猶内堀次郎左衛門可申也」 とある義弼からの感状を賜っており、 この文書の 「次郎左衛門」 も内堀次郎左衛門の可能性が高いだろう。
なお藤堂弥五郎は津藩編纂史料にも見えない不詳の人物。
十二月十九日・景元、この日に亡くなるか(歴名・景元)
八十三才
十二月米分・藤堂新介方より頼子事(金剛輪寺下倉米銭下用帳)
天文九年(1540)
藤堂新兵衛(顧祝簿)
天文十三年(1544)
正月三十日・藤堂孫三郎、愚亭和歌會始に名あり(言継九・孫三郎)
三月二十二日・藤堂孫二郎、愚亭月次和歌會に名あり(言継九・孫二郎)
四月二十九日・藤堂孫二郎、愚亭月次和歌會に名あり(言継九・孫二郎)
五月三日・藤堂孫二郎、廣橋庭での蹴鞠に名あり(言継九・孫二郎)
五月九日・藤堂孫二郎、愚亭月次和歌會に名あり(言継九・孫二郎)
閏十一月二十六日・藤堂孫二郎、廣橋庭での蹴鞠に名あり(言継九・孫二郎)
天文十四年(1545)
正月七日・万里小路黄門の禮に来儀として廣橋内藤堂孫二郎の名あり(言継十・孫二郎)
五月二日・藤堂孫二郎、鞠の参加者に藤堂孫二郎の名あり(言継十・孫二郎)
八月二十四日・藤堂孫二郎、鞠會の参加者に名あり(言継十・孫二郎)
八月二十九日・藤堂孫二郎、鞠會の参加者に名あり(言継十・孫二郎)
九月十四日・藤堂孫二郎、鞠會の参加者に名あり(言継十・孫二郎)
藤堂新三郎(顧祝簿)
天文十五年(1546)
正月五日・景任、従五位下(歴名・景任)
二十一歳、 藤堂右兵尉
天文十六年(1547)
七月某日・小島太郎左衛門尉宗重、中西左衛門尉吉長から藤堂右兵衛尉宛書状あり(小野均氏所蔵文書)
古文書ユニオンデータベースにて 『禁裏料所酒麹役朝要分請文案』 として収まる。
この二人は月行事を務めている
藤堂与六(顧祝簿)
天文十七年(1548)
正月三日・藤堂右兵衛尉、禮に訪れる(言継十三・景任か)
藤堂与六(顧祝簿)
天文十九年(1550)【言継十五】
正月二日・藤堂又五郎、新年の禮に訪れる(言継十五・又五郎)
「大澤掃部 (重成) のいとこの者なり」 と付記
八月二十八日・「掃部いとこ又三郎子、腹中悉本服祝着之由申、禮に來」(言継十五・又三郎子
又五郎か
十二月二十六日・景任、従五位上(歴名・景任)
藤堂右兵衛尉
天文二十年(1551)
正月二日・又五郎、禮に訪れる(言継十六・又五郎)
「掃部いとこ」 と付記
二月十九日・藤堂兵衛大夫、禁裏御楊弓に御矢取として名あり(言継十六・景任か)
二月二十六日・藤堂次郎、兵衛大夫、御矢取に名あり(言継十六・次郎、景任か)
天文二十一年(1552)
正月二日・禮者として廣橋内藤堂次郎、右兵衛尉の名あり(言継十七・次郎、景任か)
七月二十七日・藤堂次郎が布衣として名あり。青侍衆に藤堂兵衛大夫(言継十七・次郎、景任か)
八月十九日・「晩天冷泉に罷向、暫雑談、晩飡召寄相伴、中酒有之、藤堂兵衛大夫同相伴了」(言継十七・景任か)
八月二十三日・言継が冷泉方へ向かう際、藤堂次郎が「田楽鈴等随身」とあり、「同右兵衛大夫來了」ともあり(言継十七・次郎、景任か)
十二月十五日・言継が冷泉方で雑談をしていると、「藤堂兵衛大夫被呼」(言継十七・景任か)
天文二十二年(1553)【言継十八】
五月二十二日・藤堂次郎、禁裏御楊弓にて御矢取として名あり(言継十八・次郎)
六月十日・禁裏御楊弓にて「御矢取藤堂二郎一身也」とあり(言継十八・次郎)
藤堂与六(顧祝簿)
天文二十三年(1554)
五月十二日・藤堂次郎、禁裏御楊弓にて御矢取として名あり(言継十九・次郎)
五月十三日・言継が冷泉へ罷り向かうと、藤堂右兵衛大夫が來、暫し雑談(言継十九・景任か)
五月十四日・藤堂次郎、禁裏御楊弓にて御矢取として名あり(言継十九・次郎)
五月十七日・藤堂次郎、禁裏御楊弓にて御矢取として名あり(言継十九・次郎)
五月二十五日・藤堂次郎、禁裏御楊弓にて御矢取として名あり(言継十九・次郎)
六月九日・禁裏御楊弓にて「御庭之時、因幡法師、(廣橋内)藤堂次郎両人也」とあり(言継十九・次郎)
六月十四日・藤堂次郎、「御庭之時」に名あり(言継十九・次郎)
六月十六日・廣橋邸に諸公家が集まった際、青侍に藤堂右兵衛尉と藤堂次郎の名あり(言継十九・景任、次郎)
六月三十日・藤堂次郎、禁裏御楊弓にて御矢取として名あり(言継十九・次郎)
十一月八日・藤堂次郎、禁裏御楊弓にて御矢取として名あり(言継十九・次郎)
藤堂源助(顧祝簿・虎高か)
天文二十四年(1555)
正月三日・禮者として訪れた廣橋亞相の内衆に藤堂次郎、兵衛大夫の名あり(言継二十・次郎、景任か)
五月二日・景任、正五位下(歴名・景任)
弘治二年(1556)【言継二十一】
正月三日・藤堂次郎、禮者に名あり(言継二十一・次郎)
十二月二十七日・景豊、従五位下(歴名・景豊)
編年には出てこない。
また特に藤堂や官名の表記無し
永禄元年(1558)
正月六日・藤堂次郎、此方への禮者として名あり(言継続群書版五巻補遺一・次郎)
正月七日・藤堂右兵衛尉、禮者に名あり(言継続群書版五巻補遺一・景任)
正月二十七日・藤堂右兵衛大夫、鞠にて名あり(言継続群書版五巻補遺一・景任か)
永禄二年(1559)
十一月二十四日・「自廣橋入道使藤堂右兵衛大夫來、烏丸冬袍織事以下可申付之由有之」(言継続群書版五巻補遺二・景任か)
永禄三年(1560)
正月二日・藤堂兵衛大夫、廣橋入道内府の使者を務める(言継二十三・景任か)
永禄五年(1562)
十二月二十八日・立入左京進宛の広橋国光施行状を景任が担当(立入・景任)
一、 綸旨御奉書下知状の (六)、 右兵衛尉景任奉
永禄六年(1563)【言継二十四】
正月五日・藤堂右兵衛大夫、禮者に名あり(言継二十四・景任か)
正月六日・藤堂藤左衛門、與三次郎、禮者に名あり(言継二十四・藤左衛門、與三次郎)
永禄八年(1565)【言継二十六】
正月二日・藤堂與三次郎、禮者に名あり(言継二十六・與三次郎)
年未詳・永禄元年(1558)~永禄八年(1565)【義弼期】
二月十九日・藤堂弥五郎、六角義弼から「同名西跡之事、可申付候」(遺文続補遺四五)
六角義弼書状写。底本は壁増遺珠。
忠節肝要と書かれ、 「猶蒲生左兵衛大夫 (賢秀) ・ 下内太郎左衛門可申也」 と結ばれる。天文五年(1536)の日蓮宗退治にて内堀隊に属し活躍した弥五郎本人か。場所も人物も不詳。
四月朔日・藤堂弥五郎、岩蔵での武功によって義弼から感状(遺文続補遺四六)
これも壁増遺珠の六角義弼書状写。「猶蒲生左兵衛大夫可申也」 としている。
岩蔵は不明だが村井祐樹氏は蒲生郡 (馬淵庄) としている。どのような戦いであったのか不明。
九月七日・藤堂弥五郎、前夜の長野夜襲の武功によって義弼から感状(遺文続補遺四七)
同じ壁蔵遺珠の義弼書状写。宛名は見えないが村井祐樹氏によって弥五郎宛と比定されている。
「昨日六日之夜、 長野江込入、 敵首討捕」 とあり、 前夜長野を攻めたらしい。長野は愛知郡の長野か。どのような戦いであったのか不明。
「猶内堀次郎左衛門可申也」 としており、 先に属した 「内堀手」 とはこの次郎左衛門の隊だろうか。
十月十六日・藤堂弥五郎、伊庭表での武功によって義弼から感状(遺文続補遺四八)
同じ壁蔵遺珠の義弼書状写。
「於伊庭首一討捕、 到来、 祝着候、 毎度之働、 高名無比類候、」 としている。場所が推測できる貴重な書状であるが、 他に関連する史料が乏しいためどのような戦いであったのか不明。先に村井祐樹氏は 『六角定頼』 のなかで義弼と弟の間で諍いが起こり、 そこに伊庭右京亮が介入したことに触れていたが (遺文補遺七一 ・ 池田新三郎宛承禎書状 ・ 池田文書)、 この戦いの場所が 「伊庭表」 であることからすれば関連付けることも可能だろうか。
ここでも 「尚内堀次郎左衛門可申也」 としているが、 続補遺四九は弥五郎の武功について義弼から内堀次郎左衛門へ宛てたもので、 蒲生左兵衛大夫を介しているものである。どうやら弥五郎は内堀氏の内衆であったと考えられようか。
永禄十一年(1568)
二月十七日・煕春竜喜が藤堂九郎左私宅を訪れ、「池亭梅花」を読む(清渓稿・九郎左衛門)
年未詳も戌辰とあるので、 この年と推定。
九郎左とは高虎の父か祖父だろうか
永禄十二年(1569)
藤堂九郎左衛門(顧祝簿・九郎左衛門)
高虎の父か祖父だろうか
天正五年(1577)
十二月十日・景久、従五位下(歴名・景久)
藤堂。系図によれば駿河守
年未詳・永禄~元亀年間
九月二十一日・浅井長政、藤堂九郎左衛門尉に知行宛行(養源院文書・九郎左衛門)
浅井氏三代文書集に収まる。永禄四年(1561)から元亀元年(1570)まで
八月二十七日・藤堂兵庫助の知行を没収し、御料所へ(光秀書状・兵庫助)
『織田信長文書の研究下』 『明智光秀 (八木書店 ・ 史料で読む戦国史)』 に収まる。
光秀から某へ宛てた書状で、 光秀の動向から逆算すると、 永禄十二年(1569)か元亀二年(1571)~元亀三年(1572)だろう