藤堂高虎前史目次
藤堂高虎前史の目次です。これを読めば藤堂氏がわかります。
藤堂氏とは何か
藤堂氏とは何だろうか。
この疑問に対し、 正確に答えることが出来る人は少ないだろう。
実際にこれを記している私でさえ、 全てを答えるのは不可能に感じる。
その一端を探るべく、 今回私は藤堂高虎以前の藤堂氏の解説を試みる。
注意事項
まず扱う藤堂氏は藤堂景盛以降となる。諸系図では景盛以前の中原氏が何人か記されているが、 やや信憑性に欠ける為除外している。
また、 『高山公実録』 や 『公室年譜略』 には以下の藤堂氏が登場する
- 藤堂民部大輔高光 (出典は藤堂記、 頼朝に仕えたとある)
- 藤堂善兵衛 (出典は江源武鑑)
- 藤堂景定、 藤堂東市正景滋 (出典は室町日記。それぞれ尊氏の時代 1339 年、 1344 年)
- 藤堂伯耆入道常景 (出典は室町日記。義満の時代 1368 年)
1 と 2 は、 そもそも津藩の編纂者が 「謹案」 として、 否定するために引用したものである。
また 3 と 4 は年譜略に記される人物であるが、 出典の 『室町日記』 という史料がよくわからない。似たような史料では 『室町殿日記』 という物があるが、 中世日本史の第一人者今谷明氏が痛烈に批判しているので、 信憑性に欠ける代物と判断した。
以上の事から、 この五名は予め除外することをここに宣言する。
更に景盛以降も諸系図に様々な人材が見られるが、 取り扱うのは実在性が高い人物に限る事とする。またこうした諸系図の課題について等は追って考察を行う事とする。
藤堂氏累代目次
累代の並びは基本的に公室年譜略系図準拠としている。なお景高 (景隆) については系図通りであれば曾孫世代に該当するが、 その叙位年をもとに孫世代として解説を行う。
藤堂氏史料年表目録
初代三河守景盛
景盛の子どもたち
右京亮景能(石見守)
景富・三河守景勝・美作守景長兄弟
景盛の孫世代
陽専坊興憲
豊後守景持・因幡守景隆(景高)
→山科家礼記に登場する豊後も此方に記す。
左衛門大夫景敦・右京亮景安
修理亮景家・筑後
景盛の曾孫世代
兵庫亮景兼と長享事件
明智光秀文書に登場する藤堂兵庫助に関することも便宜上此方に
守光公記に登場する藤堂氏
右京亮景元(因幡守)
左京亮景俊(三河守)
→晴富宿禰記に登場する藤堂左京亮も此方に記す
修理亮景永
言継卿記に登場する藤堂氏
右兵衛景任(兵衛大夫)
次郎
孫二郎
又五郎・藤左衛門・與三次郎
→便宜上、 景豊も此方に
久居藩重臣藤堂八座家
景久
平介景政・大蔵景時(今西孫右衛門)親子
藤堂八座家
幕末の地下人藤堂氏
景徳
景員
景恕
景孝
景泰
在地藤堂氏
藤堂九郎左衛門、藤堂備前守と備中、そして高虎の出自
藤堂高虎の先祖はこの家系!?
室町時代にしばしば見られる藤堂九郎左衛門と、 備前守と備中について
系図等編纂史料と藤堂高信への疑問
高山公実録などを読む上で気をつけたいポイントと、 系図への疑問点、 高虎曾祖父への疑問などを纏めました。
藤堂氏と名前が並ぶ京極氏被官について
『将軍義政公大将御拝賀記』、 『碧山目録』、 「足利義澄追討の御内書」 に登場する京極氏の被官について補足、 と銘打ったが、 永正七年(1510)二月の御内書に登場する近江衆の紹介が中心。