藤堂右京亮景能

本稿では藤堂景能 右京亮 の解説を試みる。

藤堂景能

景能は景盛の嫡男として知られる人物である。
彼も父と同じように兼宣に仕えていたので 兼宣公記 にその活動を確認することが出来る。

藤堂家史料に見る景能

まず藤堂家の編纂史料ではどのように紹介されているのか見ていこう。公室年譜略 では

将軍義持公に奉仕し応永二拾六年己亥六月七日正五位下に叙す

と記される。高山公実録 も上をそのまま引用すると編者注釈 謹按 にて

歴名土代に景能君の御事を景盛君の四男藤堂石見守とあり

と記されている。しかし近現代に刊行された 歴名土代 にて 景盛の四男として記されているのは 景長 である。
やはり年譜略や系図に景能は嫡男と記されているので やはり景能を嫡男とするのが正しいだろう。

景能の官名

上で記したように高山公実録の謹按には 藤堂石見守 と記されている。これは歴名土代にも 応永二十六年(1419)の六月五日に 正五位下石見守 の位へ叙されている確認することが出来る。

石見守ではなく右京亮?

さて兼宣公記のなかで景能の名前が明示されるのが応永三十年(1423)五月二十八日の南都参詣である。騎馬に景能が名を連ねている。
現在刊行されている同公記のなかで 具体的に景能と明示されるのはこの一件のみである。
だが景能と付記される人物は何度か登場する。詳しいところは次項で述べるが その人物こそ 右京亮 である事を先に記しておこう。

しかし兼宣公記では 藤堂石見守 なる人物を確認することが出来ない。これは由々しき問題だ。
ただ今後刊行される公記の中で確認する事が出来る可能性を ここで期待できるとだけ述べる。

明誉は誰か

さて 大乗院寺社雑事記 の寛正六年(1465)十二月二十七日条には 東堂三川入道明誉 なる人物が去渡状を発行している旨が記されている。
榎原氏は 三会一定記 の長享二年(1488)十二月末に 権律師興意 という人物が登場することに触れ 藤堂参河守中原朝臣景能子也 と記されている事から この 三川入道明誉 景能 であると説いておられる。
大日本史料の同記 また高山公実録の系図では 興憲 と記されている しかし前者の一年前の 綱光公記 寛正五年(1464)九月五日条に

三河守景富 今日前髪 賜盃

と記されている。つまりこの直近に三河守を名乗っていたのは弟の景富であり 景能では無い可能性を考える事が出来る。
ただ高山公実録の御系譜考には景能と景富両人の法号は記されていない。何れにせよ 三川入道明誉 の特定に至る根拠がないというのが実情だ。

景能の妻子

史料を見る限り景能の子は学僧として活躍した興憲 興意 一人だろう。
ただ 三会定一記 に記される興憲の出自は 藤堂参河守中原景能朝臣子也 であるが 御覧の通り景能が三河守を名乗った形跡が見られないため些かの疑問がある。

兼宣公記に見る景能

景能は景盛とは異なり 兼宣公記以外にその動向を見ることは出来ない。確かに 三川入道明誉 を含める事は出来そうだが 上に記したとおりここでは除外する。

応永二十三年(1416)

三月十日・賀茂祭礼男共「右京」(兼宣公記一)

景盛が馬事に名を連ねているのに対し 右京は男共に名を連ねている。
この記録が景能の初出となるだろう。
また男共にある 掃部 速水信景であると付記されている。速水氏の関係は重要で 此の後もしばしば見ることが出来る。

十二月三十日・白馬節会に関しての副状宛名「右京亮」(兼宣公記一)

これは翌正月の条に収録されている。

白馬節会参陣官人散状一紙令進覧候 得御意 可令披露給候 恐々謹言                       十二月卅日 明継請文                        藤堂右京亮殿

明継とは坂上明継である。
宛名の右京亮は景能その人だと考えられる。
このように書状の取次を行える身分である事を踏まえると 家司 の一人として機能した事が窺える。
遡れば応永十一年(1404)六月十三日の 飯尾貞之書状 も藤堂殿と 景盛へ宛てられたものだとされている。

応永三十年(1423)

歴名土代によれば この四年前の応永二十六年(1419)の六月五日に 正五位下石見守 の位へ叙されている。

三月二十三日・参宮(兼宣公記二)

この時期の記録は 義持公参宮記 として収録されている。
どうも将軍足利義持の伊勢参詣に兼宣が同道したので 景能や速水信景も付き従ったらしい。
実際に騎馬として 掃部助信景 右京亮景能 と記されているし 四月一日条には 騎馬輩 としても同じように信景と景能の名前が記されている。
またこの時に 家司 と注釈が付けられているのは興味深い。

五月二十八日・南都春日参詣(兼宣公記二)

この日 兼宣は春日大社参詣を行った。
ここでも掃部助信景と右京亮景能の両人が騎馬として付き従っている。

応永三十一年(1424)

四月十九日・春日参詣(兼宣公記二)

この日兼宣は春日を詣でる。ここで付き従った者のなかに右京亮景能の名前を見ることが出来る。残念ながら掃部助信景の名を見ることはできない。

十二月十八日・南都下向(兼宣公記二)

兼宣 宣光親子の南都下向に 右京亮と掃部らの同道を見ることが出来る。
この日の記録が現在刊行されている兼宣公記の範囲で 景能の動向を見ることが出来る最後の記録となる。
もう数年分の翻刻が刊行された暁には 景能の動向は更に深まるものと思われる。刊行の日が待ち遠しいものだ。