藤堂景富・三河守景勝・美作守景長兄弟

本稿では藤堂景富 景勝 景長兄弟についての解説を試みる。

藤堂景富

景盛の次男として知られ 高虎たちの祖父忠高の直系先祖として系図に記されるのが 藤堂景富という男である。
ただし系図は怪しく 様々勘案するに直接的な繋がりは見られないと考えておくことが重要だ。

津藩藤堂家編纂史料に見る景富

彼についての説明は高山公実録も公室年譜略の抜粋のみであるので ここでも一つ抜粋しよう。

父は景盛君。足利将軍義政公に奉仕し 嘉吉二壬戌年十二月廿九日正五位下に叙し豊後守に任ず 高虎公行状従五位下とあり是なるべし原註

以上である。

歴名土代に見る景富

では年譜略にある嘉吉二年(1442)十二月末の叙位について 歴名土代 を参考に検証していこう。
それが永享元年(1429)の六月六日の叙位である。どうやら景富はここで従五位上に叙されたようだ。つまり年譜略の記述よりも前に景富は叙位を受けたこととなる。
残念ながら官途は不明だが 年譜略に従うと 豊後守 と推定するべきなのだろうか。

こうした疑問を解くヒントが 綱光公記 に記されている。
まず享徳三年(1454)十二月二十八日 豊後景富昨日上洛了 と記される。
その十年後 寛正五年(1464)九月五日には 三河守景富 今日前髪 賜盃 と記されている。

つまり永享と嘉吉の叙位では 豊後守 であったと推定することが出来るだろう。

一方で興味深いのは 十年の間に景富が 三河守 を名乗っている点だ。
この時代に三河守を名乗っているのは歴名土代を参考にすると 嘉吉四年(1444)に従四位下へ叙された弟の 三河守景勝 である。
少し推理してみると 十年のうちに三河守景勝が亡くなったが 三河守 というのは父景盛が名乗った由緒ある官名である。そこで忍びないと考えたのか 景富が継いだのではなかろうか。

また景能の項に記したとおり 大乗院寺社雑事記 の寛正六年(1465)十二月二十七日条に登場する去渡状を発行した 東堂三川入道明誉 なる人物が景富の事だと考えられるのは 以上の事が根拠となる。

景富の妻子

例によってその妻は不詳である。
子息については 公室年譜略の系図で景持一人 高山公実録御系譜考所収の一本中原系図では景持の他に 右兵衛景俊 なる人物が記されている。
後者に関しては江戸時代から信憑性に疑問があるとされているので その存在は非常に怪しい。
両方で共通している 景持 歴名土代にも登場していることから実在していたものと思われる。

景隆?景高?

さて榎原氏の論文の中にある系図には 景持の他に 景隆 が記されている。これは歴名土代から文明二年(1470)六月十九日の正五位下叙位にて 景持と景隆の名を見ることが出来る事が根拠であると推測する。
実録の一本中原系図では彼は景持の次男とされ 年譜略の系図では同じく景持の子 景高 として記されている。
年譜略では彼が後年に 景隆 と改めた旨も記されている。恐らく同一人物と思われるが 景高の諱は歴名土代に見ることは出来ない。
よって景高から景隆に改めたという記述を立証することは出来ず この記述は凡そ信じるに足りない。

そうなると歴名土代での同日叙位を尊重すべきであり 榎原氏がその系図に記したとおり景富の子息は景持と景隆の兄弟であると考えても面白いだろう。

綱光公記に見る景富

さて景富の動向を垣間見ることが出来るのが 綱光公記 である。これは兼宣の孫である広橋綱光の記録で 翻刻が史料編纂所が紀要として公開する中に収録されている。
その期間は文安六年(1449)から寛正五年(1464)の十五年に及ぶが 実際の登場回数は僅かである。従って歴名土代の叙位や大乗院寺社雑事記もここに収める事とする。

永享元年(1429)

六月六日・叙位

早速歴名土代からであるが この日従五位上に叙されたようだ。

嘉吉二年(1442)

十二月二十九日・叙位

この日正五位下に叙されたようだ

文安六年(1449)

正月十七日・藤堂宿所出向、珍重珍重(綱光公記、紀要二十六号)

景敦もしくは景富か。特に比定されていないので此方にも記す

二月六日・妙法院殿嘉例之御壇供五面拝領について(綱光公記・紀要二十六号)

藤室 方へ二面 とあるが 具体的な人名は不詳である。しかし綱光公記に登場する藤堂氏を鑑みると 景富が多いために景富の項に含む。

宝徳二年(1450)

正月十七日・豊後宿所(綱光公記・紀要二十九号)

この日 嘉例に関して綱光は豊後宿所へ向かったようだ。
この豊後について注釈にて 藤堂景敦カ とされているが 四年後に 豊後景富 と記されている事から 景敦ではなく景富であるとの判断に至る。

八月三十日・上洛し弟が二十七日の他界を報告(綱光公記・紀要三十二号)

入夜雨下 自江州豊後守等上洛 抑三河守 去二十七日 帰泉云々 不便無極 痢病云々
景富は近江の所領から上洛し 綱光へ 三河守 つまり弟の 景勝 が亡くなったことを報告した。

宝徳三年(1451)

六月十四日豊後申盃酒云々(綱光公記・紀要三十三号)

この日行われた 風流 なる行事にて 豊後申 盃酒云々 此風流事御執奏云 とある。
どうもこの時期は祭りの季節であったらしく 前日には 吉田祭 が行われている。
この 風流 は室町殿 将軍 や女房たちが見物するものであったようで 恐らく 風流踊り なのかもしれない。
文脈からすると景富は東面で見物していた女房たちに 酒などを提供する仕事に従事していたのだろうか。

享徳三年(1454)

十二月二十八日・上洛(綱光公記・紀要二十一号)

この日の条に 豊後景富昨日上洛了 と記されている。
つまり前日の二十七日に景富が上洛したという事だ またこの条から景富が豊後であった事を読み取ることが出来る。

寛正三年(1462)

三月二十五日・連歌会頭役(綱光公記・紀要二十二号)

この日景富が頭役を務めている。
またこの一月前には景敦が頭役を務めている。
時に藤堂景敦とは景富の甥にあたる人物だ。

寛正五年(1464)

九月五日・前髪、賜盃(綱光公記・紀要二十四号)

三河守景富今日前髪 賜盃 と記されている。
景富が三河守と記されている事が興味深い。ただ 前髪 との意味が浅学故によくわからない。
辞書で調べると元服前の男子を示す意味合いはあるようだが この時代の景富はそのような年齢ではないと思われるので違うだろう。
ただ次に示すように 翌年に 三川入道明誉 なる人物が登場している点を見ると その意味合いは 剃髪 とか 断髪 そして 出家 に近いものだと考える。

寛正六年(1466)

十二月二十七日・東堂三川入道明誉の去渡状発行(大乗院寺社雑事記)

大乗院寺社雑事記 の同日条に登場する。
この日に去渡状を発行した 東堂三川入道明誉 なる人物は 既に述べているように景富の事だと私は考えている。

国会図書館デジタルコレクションで閲覧するならば三教書院版の第四巻 第三十一章に収まるので参考にされたい。

藤堂景勝

景盛の三男とされるのがこの男である。
残念なことに歴名土代以外の一次史料でその名前を見ることは出来ない。

2023.0420 追記
一次史料に見られないと思っていた景勝の動向が思わぬ形で見つかった。それも彼が他界した記録である。

公室年譜略に見る景勝

公室年譜略には次のように記されている。

三男を藤堂右京亮と号す。永享六甲寅年十月十五日従五位下に叙し 嘉吉三癸亥年三月十七日正五位下 同四月八日従四位下に昇進す景勝 文明十一己年従五位下左衛門大夫に叙任す。足利将軍義尚公に奉仕す。兼顕卿薨去の時。故有て出家し法名明全と号す

さて 歴名土代によると永享六年(1434)十月十五日に従五位上 嘉吉三年(1443)三月十七日に正五位下 嘉吉四年(1444)に従四位下三河守にそれぞれ叙されたとある。
従四位下昇進について公室年譜略と誤差が生じるが 景勝の昇進は間違いないだろう。
景勝と文明十一年についての説明には 広橋兼顕の名前が登場するから興味深いが これは景勝の息子景敦についての説明である。

歴名土代に見える景勝

歴名土代を読むと景勝は三河守を名乗り 順調に出世していたことがわかる。

永享六年(1434)

十月十五日・景勝、従五位下

嘉吉三年(1443)

三月十七日・景勝、正五位下(歴名・景勝)

藤堂三川守景盛三男 同四年`月`日 四品

嘉吉四年(1444)

某月某日・景勝、従四位下三河守(歴名・景勝)

景勝の妻子

妻は不明。
その子息は公室年譜略の系図を見るに景敦と景安の兄弟である。彼らの存在は歴名土代はじめ 綱光公記や兼顕卿記に見ることが出来る。
他に 高山公実録御系譜考所収一本中原系図 には速水景益に嫁いだ娘が記されているが その実在性は確かでは無い。
しかし実在したとなれば 景勝の孫にあたる速水信益の子息に景元が生まれる事となり 景勝の曾孫が藤堂家に入るのは自然なことに見えてくる。

わからない景勝

残念ながら藤堂景勝について これ以上の情報を見つけることが出来なかった。依ってその動向は不明である。
ただその子息景敦が綱光公記の寛正三年(1462)二月に記録されている事を踏まえると その以前に亡くなっていた可能性が考えられる。特に兄景富の官名が寛正五年(1464)に豊後守から三河守に代わっている点からも 彼が従四位下に叙された嘉吉四年(1444)から寛正の約二十年のうちにこの世を去った可能性があるだろう。

綱光公記に見られないところを考えると 景勝が仕えたのは綱光の父である広橋兼郷 宣光 の可能性も考えられよう。

綱光公記に見る景勝

宝徳二年(1450)

八月二十七日・痢病により他界(綱光公記・紀要三十二号)

これは三十日条の 入夜雨下 自江州豊後守等上洛 抑三河守 去二十七日 帰泉云々 不便無極 痢病云々 に依るものである。
景勝は痢病を患い二十七日に他界した。綱光は景勝の死を 不便極まりない と悼んでいる。

上でも述べたように 本ページ執筆時点で 息景敦が綱光公記の寛正三年(1462)二月に記録されている事を踏まえると その以前に亡くなっていた可能性が考えられる。特に兄景富の官名が寛正五年(1464)に豊後守から三河守に代わっている点からも 彼が従四位下に叙された嘉吉四年(1444)から寛正の約二十年のうちにこの世を去った可能性があるだろう と推測していたが それが見事に当たってしまった。
綱光は 不便無極 と認めていることから 景勝が兄同様に綱光に仕える侍であった事が窺える。

ところで当該の紀要には 三河守 について初代景盛とする記述や注が見られるが これは誤りである。
藤堂景盛は綱光の祖父兼宣が生前の応永三十年(1423)時点で 三河入道 であり それから二十七年後の当年に 三河守が亡くなった とするのは違和感を覚える。更に二十一号の享徳三年暦記の六月五日条に綱光は 速水越中入道 を見舞っているが この例からすると亡くなった三河守が 景盛 であるのなら 三河入道 と記すのが妥当である。
依って当年に亡くなった 三河守 は景勝以外に有り得ない。こうした指摘は既に編纂所へ問い合わせを行った

藤堂景長

景盛の四男が景長である。彼の動向は意外な形で見ることが出来る。

公室年譜略に見る景長

年譜略には以下のように記されている。

四男を景長と云 文明九丁酉年二月十三日従五位下美作守に叙任す。四子倶に将軍家に奉仕すと云に 景長文安六年六月十七日正五位下に昇進すとなり

この記述は誤りが含まれている。まず文明と文安では 文安年間の方が早い。
歴名土代を見てみると 文安六年(1449)六月十七日には正五位下叙任が記され 文明九年(1477)二月十三日従四位下に昇進とあるので 公室年譜略の景長説明は概ね正確と言えるだろう。
また官名は一貫して 美作守 である。

美作守

ここまで見てきたとおり景長の官名は 美作守 のようだ。時に山科家礼記には応仁二年(1468)に 藤堂美作守 なる人物が登場するが 高確率で二人は同一人物だろう。
古記録を並べていくと活動期間の長さに驚かされるが 歴名土代の叙位だけでも活動期間の長さを読み取ることが出来るので不審点は皆無である。

景長の妻子

ご多分に漏れず妻は不詳。
年譜略の系図では景長の後裔は記されて居ないので子息も不詳に思える。しかし高山公実録にある 一本中原系図 には 景長の後裔として景家なる人物が記されている。ただ問題なのは景長が 修理 と記されている点である。
年譜略及び歴名土代では美作守と共通しているのに だ。こうしたところで一本中原系図は信用が出来ない。

ただ後裔とされる景家は兼顕卿記の文明十年(1478)七月十四日条に広橋家禁裏進上盆灯籠制作者 修理亮景家 として登場している。確かに実在した人物である。つまり修理を名乗ったのは景家であり 景長ではない。
現状では景長と景家の関係を実証するものは皆無であるから 安直に一本中原系図を信用して結論づける事は避ける。あくまでも一つの説として 景長には景家という子が居た可能性があるとするに留めるべきだろう。

諸記録に見る景長

さて先に 山科家礼記 藤堂美作守 なる人物が登場すると説明した。同記の他に 晴富宿禰記 にも藤堂美作の動向を見ることが出来る。
ここでは二つの記録に加え歴名土代での叙位も見ていく事とする。

文安六年(1449)

六月十七日・正五位下(歴名土代)

この日に正五位下へ叙された。それまでの叙位年月日は不明である。

五月八日・月次有連歌百韻、頭景長也(綱光公記・紀要三十三号)

景長の初見は連歌の頭人を務めたという記述である。

応仁二年(1468)

三月一日・あつけのからひつ(山科家礼記一)

廣橋殿 綱光 内藤堂美作守方あつけのからひつ一合とられ候 子息ニ渡也 又中の物も少しとられ候 からひつ在之

この様に山科家礼記に登場するのが美作守の初見である。ここにある子息とは十年後に登場する 修理亮景家 の可能性も考えるべきだろう。

文明四年(1472)

七月六日・代官藤堂美作、竹商人より徴収を免ず(山科家礼記二)

この日の条によると 小河坊城俊顕構口にて雑分料を召す際に藤堂美作が代官を務めたが 竹商人よりの徴収を免じたという。

小河坊城殿今月雑分料構口ニテ被召候 竹うりニ可被召之由を 以代官藤堂美作申之 今日御免 先規無之間如比候也

文明九年(1477)

閏正月二十七日・見舞い応対奏者(山科家礼記三)

この日 寺家新宰相 が綱光への見舞いに訪れた。その際に奏者として応対したのが藤堂美作守である。
寺家新宰相 なる人物は誰であるのか 浅学故に特定するには至らなかった。

二月十三日・従四位下(歴名土代)

この日従四位下に叙された。
なお翌十四日に広橋綱光が薨去している。

文明十一年(1479)

五月十六日・藤堂美作一身居家門之留守(晴富宿禰記)

綱光の薨去から僅か四年 広橋兼顕は五月十四日に三十歳という若さで薨去した。
兼顕の死に関して晴富宿禰記には興味深い記述が見られる。その中の一つに藤堂美作の名前を見ることが出来る。

以盛俊弔広橋黄門伝奏事 盗出百万遍寺 家僕等皆在寺 藤堂美作一身居家門之留守 其様相語云々

浅学故に細かく読解することは出来ない。しかし 盗出百万遍寺 とは些か物騒である。

総括

以上ここまで景富 景勝 景長の兄弟を見てきた。
残念なことに景勝の動向は一切不明であるが それでも彼の家系はこれから細かく説明していく事になるので 忘れずに覚えていて戴きたい。
また藤堂家編纂史料を鵜呑みにすると 高虎は景富の後裔と相成るが これには些か疑問を抱いている。そうしたところも追って解説していこう。