陽専坊興憲
本稿では藤堂氏が生んだ名僧についての解説を試みる。
藤堂氏が輩出した学僧
興憲という人物は、 高山公実録下の巻末にある御系譜考内 「一本中原系図」 にて、 景盛の子息として登場する男である。
一方、 大日本史料の 「長享の族滅」 に関連する項目として、 十二月某日 「三会一定記」 が引用されている中に 「藤堂参河守中原朝臣景能子也、 廣橋家侍」 と記されている。
こうしたところを勘案すると一次史料に利があると見て、 興憲が景能の子であると理解でき、 景盛の子だとする一本中原系図には疑義が生じる。
尤も一次史料の三会一定記は景能を 「参河守」 としているが、 景能が 「三河守」 を名乗ったとする形跡は見られない。現状景能が名乗ったのは 「右京亮」 のみである。
興憲の地位
この興憲という人物はどのような者なのか。同系図には次のように記されている。
「探題法印権大僧都
興憲清浄院
碩学名誉人ナリ」
探題とは僧侶の学術試験を司る機関で、 大僧郡というのは僧侶の身分制度の中で比較的上位に位置する。つまり興憲なる人物は、 仏僧及び学者として高位にあり、 学問を修めた名誉ある人物であるようだ。
興憲の記録
さて史料編纂所のデータベースで興憲を調べると、 幾つか該当する。
まず古文書ユニオンカタログに文明三年(1471)十月十六日、 文明七年(1475)十月八日、 十四日の四件が登場する。(十四日に二件)
大日本史料では、 文明三年(1471)十一月十六日、 長享二年十二月十日 (権律師を務めた旨)、 延徳二年(1490)正月晦日、 六月三日、 十三日、 七月一日、 二十一日、 八月十一日、 十二日、 十九日、 晦日、 九月二十七日、 十月一日、 六日、 十日、 二十六日、 十一月四日、 六日、 八日、 十二日、 十七日、 十八日、 二十日、 二十一日、 二十五日、 二十六日、 十二月十七日の記録が残る。
該当する興憲という人物が、 景能の子息と同一人物なのか定かでは無い。しかしその内容を詳らかにしていくと、 学術の分野で共通する部分が見え、 データベースで該当する興憲が藤堂景能の子息である事は間違いないだろう。
その中で興味をひくのは、 大日本史料所収の 「政覺大僧正記」 延徳二年(1490)十一月八日分で 「興憲一人の儀により、 大会違乱に及」 という内容。また 「尋尊大僧正記」 の同月十二日分に記されている 「徳政への対応で探題の仕事が出来ず」 という内容も興味深い。大日本史料には興憲が高位の学僧として奮闘が収録されており、 室町時代中盤の学僧を知る上では非常に有意義だろう。
大日本史料の索引では、 その表記についても知ることが出来る。この場合、 「興憲僧都」 という表記が多数を占める中で、 少なからず 「陽専房僧都」 「陽専房権少僧都」 という表記が見られる。これを踏まえると、 興憲は 「陽専房興憲」 という表記をするのが正しいのだろうか。
大乗院寺社雑事記など古記録に見る興憲
さて大日本史料では 『大乗院寺社雑事記』 も引用される。そこから考えていくと、 どうやら興憲は同書に登場しそうである。
試しに大乗院寺社雑事記の索引でひいてみると、 一巻から十二巻にかけて幾度となく登場する事がわかる。
するとその全てを紹介するのは困難に近い。かいつまんで紹介しよう。
享徳二年(1453)二月十八日(大乗院寺社雑事記一巻)
「新論匠參賀、 宗藝 ・ 營尊 ・ 定寛 ・ 貞海 ・ 俊算 ・ 賢弘 ・ 清源 ・ 胤繼 ・ 好円 ・ 經算 ・ 興憲、 各付衣 ・ 五帖也」
これが興憲の初見である。景盛の時代から三十年後で、 孫と呼ぶに丁度良い頃合では無かろうか。
なお柱の年月表記と本文中に齟齬がある為、 本文の流れから年月日比定を行った。
文明三年(1471)七月四日(大乗院寺社雑事記五巻)
「興憲法師爲供目代、 於公文所大納言律師仰付之、 當年四十六歲也、 希有若年者也」
便宜上、 二番目にこの項目を置くが、 これが二番目という訳ではない。
二巻、 三巻、 四巻にて興憲の動向を捉えることが出来る。本来であれば全て紹介したいのだが、 私自身が学僧についての知識が乏しいため断念した。
さて此の日の記録を取り出したことには、 表現が平易である事と年齢表記が見られる点の二点があげられる。
「當年四十六歳也」 とあるから、 自ずと興憲の生年は応永三十三年(1426)と定まる。祖父景盛は既に入道し広橋兼宣の母 ・ 老堂が亡くなった年である。
また 「希有若年者也」 と筆者の尋尊は記している。それは広橋綱光の威光によるものなのか、 興憲本人の優秀さに依るものなのだろうか。
この大納言律師仰付に対応する話題が同月二十八日条で
「興憲參申奉行之、 出世奉行大納言律師」
と記される。
文明三年(1471)十一月十五日(大乗院寺社雑事記五巻)
「興憲參申、 供目代職事辞退之由云々」
この日興憲は 「供目代」 と呼ばれる職を辞退する旨を伝えたようだ。
その後、 五巻では興憲の 「得業」 に関する記述が増える。そうした部分に対応する記述が次のものである。
文明六年(1474)八月十二日(大乗院寺社雑事記六巻)
「興憲得業了、 仍興憲得業可知行云々」
約三年の 「得業」 がここに終結したようだ。
文明六年(1474)十一月十日(大乗院寺社雑事記六巻)
この日の条には 「興憲ハ故光胤律師弟子也」 と記されている。
果たして 「光胤律師」 が如何なる人物か定かではないが、 今後調べる上で役に立ちそうである。
文明十一年(1479)四月八日(大乗院寺社雑事記七巻)
「一昨日野田御領住人与東鄕住人喧嘩事出來、 定使力者遣之撿封了、 七鄕ハ自寺務沙汰云々、 兩人共ニ興憲擬講披官人也、 於清浄院坊中□害畢云々、 希有重過也」
□内は 「𠂉ヨ攵」 だが該当漢字なく意味不明。「殺」 の異体字か。
つまり興憲の被官人が諍いを起こしたので、 坊中で殺害した、 との見立てとなる。
文明十七年(1485)八月二十三日(大乗院寺社雑事記七巻)
この日の条文を紹介するのは、 彼の肩書きが 「興憲律師」 に変わった事を示す為である。
内容は無学につき理解できず割愛させて戴く。
長享二年(1488)正月二十二日(大乗院寺社雑事記九巻)
「興憲律師之里藤堂一門舊冬及生涯了」
ここで興憲の出自が藤堂家である事がわかる。そして旧冬に何やら変事が発生したらしい。
この条に対応するのが前年十二月三十日条である。
「去廿六日廣橋之内藤堂一門共悉打死、 於京都本所也」
これが 「長享の族滅」 に関わる記述である。九巻には他にも関連する記述が見られるが、 同事件については別稿で述べる為ここでは割愛する。
長享三年(1489三月十六日(大乗院寺社雑事記九巻)
「興憲僧都以下修學者二十余人來、 兒共同道、 花見之次庭所望了」
実家の事件に興憲が巻き込まれることは無かった。
そして興憲の肩書きが 「僧都」 へと変化した。その初見がこの条文である。
長享三年(1489)六月十八日(大乗院寺社雑事記九巻)
「御八講衆上洛、 東院僧正、 東北院僧正、 松林院律師、 修南院權律師、 興憲權少僧都」
京都で行われる 「御八講」 なる行事に興憲が参加したことを示す。
延徳二年(1490)四月二十七日(大日本仏教全書一二四)
『禁中御八講記』 の二日目 ・ 二十七日、 朝座で講師を務める興憲の姿を見ることが出来る。
その年次は同記に 「延徳二年」 と記されている事に依るが、 正直言って自信は無い。
こうしたところで大乗院寺社雑事記の九巻を参考にしたいが、 これも四月九日から六月まで記録が抜け落ちているため裏付けが出来ない。
しかし十二巻の補遺には記されている。
四月二十四日条にて 「禁裏御八講衆今日上洛、 一座七鄕人夫申請之、 東院 ・ 東北院 ・ 西室 ・ 興憲僧都」 とある。
延徳二年(1490)六月七日(大乗院寺社雑事記九巻)
「他寺探題事、 猶以興憲辞申」
この日の条に気になる記述が見られる。「他寺探題」 と呼ばれる職を興憲が辞するとの旨である。
さらに読み進めると 「現病之間難奉行之由」 とあり、 興憲が病で患っていたことが読み取れる。
また十三日条には次のようにも記される。
「大會探題事、 興憲僧都懃仕勿論也」
延徳二年(1490)七月一日(大乗院寺社雑事記九巻)
「講堂仁王講、 大頭權少僧都興憲」
その後体調は回復したようで、 この日には仁王講で講師か何かを務めたようだ。
延徳二年(1490)八月七日(大乗院寺社雑事記九巻)
この日の条には何やら不穏な語句が並ぶ。
「興憲腹立」 「失興憲面目」
やはり私は無学で、 いったいどういった内容なのかよくわからない。
八月十九日条にも気になる語句が並ぶ。
「大會事珍事也、 興憲僧都進退迷惑」
更に八月晦日条。
「會式及違乱事、 併興憲僧都之所行也、 彼僧都御教訓可有之歟、 於會式違乱事、 覺悟之前事也云々、」
果たしてそれぞれがどのように推移したのか、 今の私には検討がつかない。
しかし大日本史料の十一月廿五日条によれば 「吉田御経納所ノ事」 に関することらしい。
さらに興憲が他寺探題職を 「勤仕せず」 ともあるから、 これは病に関係するのだろうか。
興憲の 「失面目」 については十巻の翌年六月十八日条にも記されている。これは 「去年」 と見える為、 この八月七日条に対応するものであろう。
延徳二年(1490)十一月八日、十二日(大日本史料・政覺大僧正記)
大日本史料所収の 「政覺大僧正記」 延徳二年(1490)十一月八日分で 「興憲一人の儀により、 大会違乱に及」 という内容が見られる。
また 「尋尊大僧正記」 の同月十二日分に記されている 「徳政への対応で探題の仕事が出来ず」 という内容も興味深い。
何れも大日本史料では同年十一月廿五日条内である。
延徳三年(1491)六月二十四日(大乗院寺社雑事記十巻)
さて面目を失ったとされる興憲であるが、 この日に出世の旨が記されている。次の通り。
「権少僧都興憲轉權大僧都、 五月廿八日宣下、 上卿中御門大納言、 弁左少弁宣秀、 今日到来了」
つまり前月に興憲は 「大僧都」 の宣下を受けて、 この日に中御門親子が伝達の使者として訪れた、 と言うことになろう。
なお中御門大納言 (宣胤) の娘つまり宣秀の姉妹には、 女傑 ・ 寿桂尼と山科言継の母が存在する。
以上の条文に対応するのが翌々日二十六日条の 「口宣遺興憲方」 だろう。
延徳三年(1491)十月十三日(大乗院寺社雑事記十巻)
「當年大會方出仕躰 (中略) 他寺探題權大僧都興憲」 先に 「他寺探題」 を辞めようとしていた興憲ではあるが、 この日の条文を読むと再び就いたか、 継続してその職にある事がわかる。
これに対応するのが翌十一月六日条の 「興憲僧都他寺探題長者宣到來、 爲住侶被付寺務了」 で、 ここで他寺探題職を再任されたと推測することが出来る。
明応三年(1494)二月二十二日(大乗院寺社雑事記十巻)
「公請衆今日上洛、 自廿四日可被始行云々、 東院 ・ 廿三日東北院 ・ 東院得業 ・ 興憲法印」
興憲たちが上洛する旨であるが、 ここで重要なのが 「興憲法印」 と記されている点である。
十一巻の明応五年(1496)五月廿日条には 「三礼法印權大興憲」 と記され、 八月一日条には 「大頭法印權大僧都興憲」 と記される。
明応八年(1499)八月一日(大乗院寺社雑事記十一巻)
「講堂仁王講、 大頭法印權大僧都興憲 (略)」
これが興憲の行事参加動向としては終見である。
明応八年(1499)十月十四日(大乗院寺社雑事記十一巻)
「神南院御油事、 興憲法印方ニ催促畢」
そしてこの記録が興憲自体の終見となる。
明応九年(1500)五月二十四日(大乗院寺社雑事記十一巻)
「興憲法印百个日也」
私はこの記述が 「没後百日」 を示すものと解釈している。
これは興憲の亡くなった日が次のように記されている事による。
十二巻に収まる 『大乗院日記目録』 によると明応九年(1500)二月十四日条に 「興憲法印權大入滅、 七十七」 とある。
十二巻の補遺には年次不明分も収まる。某月十五日条 「二﨟法印權大興憲入滅 (後聞十四日入滅云々) 七十五云々」 と記される。
没した年齢がバラバラであるが、 先に応永三十三年(1426)生まれであると定めたからには年次不明分に記される 「七十五」 が正しいだろう。
永正三年(1506)二月十四日(多聞院日記一巻)
「今日清淨院興憲法印權大僧都七年遠忌」
七年後、 興憲の七回忌が執り行われた。
実は多聞院日記には他にも興憲を見ることが出来る。
それは五巻に収まる 『蓮成院記録』 で、 延徳二年(1490)卯月条だろうか 「禁裏御八講」 の為に上洛する清浄院僧都 (興憲) たちが記されている。
また延徳三年(1491)十二月条には 「他寺探題興憲 (陽専房権大僧都、 清浄院)」 と記されている。これは件の宣下に関するものだろう。
論文などに見る興憲
さて興憲の名前は幾つかの論文で見ることが出来る。
まず 『大乗院寺社雑事記ーある門閥僧侶の没落の記録ー (鈴木良一)』 では、 「権少僧都興憲は凡人出身 (三会定一記に住呂○○房と肩書のある者)」 として紹介される。
また 『座の研究 (豊田武)』 には 「紺座の名主」 として東林院に続き清浄院の名が出る。
これは文明には持宝院だったものが、 長享以降には清浄院へ移ったとの見立てとして紹介される。
さらに注釈によれば、 清浄院の興憲擬講は持宝院の院主を兼ねていたとある。
これは雑事記の文明十二年四月六日条にあるそうで、 「興憲陽専坊 (清浄院坊主也、 持宝院兼家之分也、 次第二申置子細在之故也云々)」 と記されている。
なお多聞院日記の永正三年三月二十日条に 「清浄院被官朱雀院郷青屋」 が見えると記される。しかし興憲は既に没しているので、 そこまで関係は無いように感じる。
興憲総括
藤堂家の流れの中で特筆すべきは、 興憲は景能の子息ながらも長享の族滅を乗り越え、 その後も学僧として活躍している姿が見える点だ。僧侶であるから災難を免れたのか、 はたまた学僧の地位が命を救ったのか定かでは無い。
しかし藤堂高虎の先祖に、 学僧として活躍した陽専房興憲が居たという事実は、 揺るぎない事実である。それは津藩の編纂者も感知していたのである。
そして彼らは興憲を次のように評した。
「碩学名誉人ナリ」