藤堂修理亮景家、藤堂筑後
本稿では藤堂景家、 藤堂筑後守についての解説を試みた。
修理亮景家
兼顕卿記で藤堂氏を調べていると、 文明十年(1478)七月十四日、 禁裏へ進上した盆灯籠を 「藤堂修理亮景家作之」 として登場するのが藤堂景家である。
彼は歴名土代や山科家礼記に彼は登場しない。しかし調べると意外なところでその名前を見ることが出来た。
それはすっかりお馴染みの 『高山公実録下』 の 「御系譜考所収一本中原系図」 であり、 藤堂景長の後継者として景家が連なる。
景長の項でも述べたように、 景長と景家、 そして景永の三人にそれぞれ修理が付記されている。これは 「藤堂修理家」 と理解するべきだろうが、 景長が 「美作守」 である事を踏まえると疑問が残る。
他に景家を知る手立ては無く、 生没年から正確な両親に子息も不詳である。ただ一本中原系図によると後継者に 「景永」 なる者が記されるが、 彼の記録は数があるので別に紹介したい。
古記録に見る修理亮景家
文明十年(1478)
七月十四日・禁裏進上盆灯籠制作者として記録(データベースれきはく・兼顕卿記)
これは七夕行事で使用した盆燈籠を景家が 「作之」 とする記録である。
この記録について桑島禎夫氏は、 『研究風流燈籠の考察 ・ 藝能史研究 (四) ・ 一九六四年三月』 にて
部下に燈籠作りを得手とする者が居たので作らせたか、 職人を雇って費用を支払わせたのか
と論じている。
また 『家司と呼ばれた人々』 には、 年中行事に尽力する家司や、 家業を持つ家司が紹介されている。すると景家の分類は 「家業」 とも考えられよう。
七夕行事では、 七月十日条には、 藤堂豊後守が七夕用具返却に関する請取状の宛先として登場している。この豊後守は景持と思われる。
藤堂筑後守
藤堂筑後は山科家礼記に見られる人物である。しかし歴名土代や編纂史料の系図にその名を見ることは出来ず、 出自から諱まで詳細は一切不明である。
古記録に見る藤堂筑後守
一覧といっても僅か二例だ。
文明十二年(1480)
十月二十九日・御僧一人とき、藤堂筑後西川殿上下めし御まいり候也(山科家礼記三巻)
文明十三年(1481)
九月四日・藤堂筑後守朝飯候也(山科家礼記四巻)
何れも筑後が山科家もしくは大澤家で食事をしたという内容である。同じ様な例であれば、 藤堂豊後守が家礼記や言國卿記で食事の様子が記録されている。二人は山科家で一定の信頼を得ていたと考えられる。