藤堂兵庫助景兼と長享事件

本稿では藤堂兵庫助景兼 長享事件についての解説を試みた。また永禄末期に登場する 藤堂兵庫助 についても解説を試みた。

兵庫助景兼

公室年譜略や高山公実録の系図や家伝で高虎の先祖として名を連ねるが 歴名土代に残る記録を読むと系図から外れる人物が この景兼である。

編纂史料に見る景兼

公室年譜略や高山公実録では次のように説明されている。

景兼君景持君の子にして兵庫助と号す。文明二庚寅年江州に生る。文明十一己亥年四月四日従五位下に叙す時に十歳。長享二戊申年三月廿八日夭ス。行年十九歳。継子なくして弟を以て継しむ

藤堂氏歴々の中で ここまで克明に遺されているのは景兼ぐらいなもので珍しい

歴名土代に見る景兼

文明十一年(1479)

四月四日・景兼、従五位下(歴名・景兼)

十歳 藤堂兵庫助景教一男 長享二年三月二十八日横死

ここで重要なのは景兼の父に関する部分で 景持の子とする編纂史料とは違い 景教一男 としている。景教は系図に現れない男で ここで景持の子息とされる景兼は系図から外れてしまう。
またその死を 横死 具体的に表している点も差異となり興味深い。
残念ながら景兼の動向を諸記録に見ること出来ない。ただ文明年間は先に述べたように 景盛の孫世代が活躍した時代である。その状況から 若き当主を景敦たち兄弟が支えていたという姿が思いつくが 実情は定かでは無い。

いくつかの景兼

さて高山公実録下の御系譜考には いくつかの景兼を見ることが出来る。
まずは一本中原系図に 景敦の後裔として登場する景兼。同系図によると 彼は兼景なる別名を持ち大蔵丞景俊や景治という子孫が連なる。
また景教の後裔として 兵庫兼景と大蔵 参河守景俊の兄弟 景俊の後裔に大蔵景治という系図も登場する。

これらの系図は信憑性に乏しく 鵜呑みにする事は出来ない。当然 兼景や大蔵景俊も景治という人物も実在性を見出すことは出来ない。景俊では実在するのは 三河守景俊 だけだ。

津藩の編纂者も次のように記している。

一本中原系図によるに兼景といふ人あり。兼景ハ文明十一年四月四日叙爵にて長享二年三月廿八日十九歳横死の由しるす。景兼と兼景と叙爵並横死の事符合せり。されと系譜には景兼を景持の子とけり系図には兼景を景勝の孫とせり。景勝は景富の孫なり
自ら別人なるへし 今系譜に従ふ。又按一本系図に兼景の名の下イに景兼に作るとありされは 景持ハ兼景を養ひ子となし給へるにやふるき事なれは 今考える処なし

横死 と記されている事から 高山公実録の編纂者も歴名土代を参照した事を推察する。
現状では景兼の父を 景教もしくは景持だとするのが最善だろう。

その生年は文明二年(1470) 没年は長享二年(1488)三月二十八日。その死は横死とあり 前年末に発生した長享の族滅は景兼の死を以て終結したのだろうか。その跡は弟が継いだ と公室年譜略には記されているが実のところは不詳である。
ただ翌三年に景持と思われる豊後守が記録されている事 養子景元 景敦の二男景俊 景長の孫と思しき景永と 藤堂氏は広く活動が記録されている。

長享の族滅

長享元年(1478) 一四八七。この年の大きな出来事として足利義尚による長享の乱が挙げられる。長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到 には 公家として 廣橋延尉佐守光 の名前が記される。
守光も義尚に従っていたのだろう。

その最中の十二月二十六日 ある事件が発生する。

 廣橋之内藤堂一門共悉打死 於京都本所也 大乗院寺社雑事記
 藤堂一門及生涯云々 大乗院日記目録

更に 歴名土代 の藤堂兵庫助景兼について 文明十一年 一四七九 四月四日の従五位下叙任項には

 長享二年三月二十八日横死

と記されている。また信頼性は薄いが 淡海木間攫 には 同日速水信益が討死したと記されている点も興味深い。

この尋常では無い記録を見るに 十二月の事件と三月の事件は関連があると考えるのが自然だろう。
しかしこの事件が起こった経緯や始末 犠牲者の数など不明な点は多い。

ただ 三会定一記 は長享二年末の維摩会の講師を務めた権律師興憲が 藤堂参河守中原景能朝臣子也 であると記し 更に 山科家礼記 では長享三年 一四八九 四月に藤堂豊後が守光の使者を務めている記録が見られる。この記録が家礼記に於ける藤堂氏の終見となる

また文亀二年(1502) 言國卿記 の六月十二日条に 廣橋青侍トウタウ左京亮 が登場する。これは鞍馬寺に参詣している言国に 公卿補任についての伝達で訪ねたようだ。この左京亮は二十七歳となった藤堂景俊と考えられる。
つまり大乗院の記録では 藤堂氏が滅んだように見えるが 全てが滅んだ訳では無い。

大乗院寺社雑事記に見る族滅

尋尊は一条兼良の子であるが 彼が遺した 大乗院寺社雑事記 には先に引用したように族滅についての記録がある。
まず長享元年(1478)十二月三十日の当該項を見てみよう。
 廣橋之内藤堂一門共悉打死 於京都本所也 仍慈恩院上洛也
ここで 慈恩院 なる人物が登場する。索引によると彼は 律師 という事のようである。大日本史料データベースで調べると 延徳二年に見ることが出来る。どうやら 修南院光俊 という人物のようだ。彼はその後も姿を見せる。

翌年長享二年(1479)正月四日条には次のように登場する。
 慈恩院一昨日下向 自江州云々 廿九日賽上洛 藤堂事故也
とある。
これは慈恩院が二十九日の上洛に引き続き という事なのだろうか。また二十九日の上洛した理由を記したのだろうか。

正月二十二日条に慈恩院は登場しないが藤堂氏について次のように記されている。
 興憲律師之里藤堂一門旧冬及生涯了 營尊律師 五師也 近日大中風 兩讀師如此蒙神罸事 併去年衆中講衆珍事 兩人致帳本故也云々 誠以希代事也云々
要は律師の身に 神罰 が降りかかるとは 珍しいことだと尋尊は思ったのだろう。

続く二十六日条は興味深い。
 兩堂修正事 自來月晦日可始行之 手水所可成廻請之由 仰遣慈恩院 得其意云々 明日可上洛 自廣橋申下云々 公方御料所預申處 藤堂事代官無之間 御代官職事可辞退 此等条々可申合用上洛云々 自此方辞退事不審也 違時宜歟且如何 或説 今度藤堂生涯ハ慈恩院所行也云々 傍以彼上洛非無不審者也

これは寺院の何かしらが幕府の御料所となり 広橋家が管理を担当 藤堂氏が代官をしていたことが示唆される。何かしらは 手水所 だろうか 兩堂修正 修正会 の事と思われる。
時の当主広橋守光は こうした代官の職事を辞退した。それはやはり 族滅 の余波だろう。
尋尊は三日前に 神罰 と評しているが ここで事の重大さに気がついたようで 不審也 と記している。
また慈恩院の行動も 不審 として ついには ある説には今度の藤堂生涯は 慈恩院の所行なり云々 と記してた。
ただ事件が律師慈恩院が引き起こされたとするには証拠が足りない。一介の律師が同じ律師の実家 それも広橋家の家司を死なせる事が出来るのか疑問が生じる。

以後 慈恩院に関する記述は頻出するが 彼と事件の関係を含めて事件に纏わる記述は見られなくなる。景兼や信益の死についても特に触れられては居ない。
斯くして事件は闇に葬り去られてしまった。

備考・大乗院寺社雑事記に見る藤堂氏

さて大乗院寺社雑事記を読むと興味深い記述に出会う。
長禄四年(1460)五月二十五日条にて 去る十日に紀州円福寺で畠山衆が水樋相論の末に 打死 した旨である。
その死者は七百名を越え 名のある死者が列記されるが遊佐被官の三人として 藤堂 井戸 カヤフリ の名を見ることが出来るのだ。

恐らくこの藤堂氏は在地の者と思われ 何かしらの縁で遊佐氏に仕えたとみられる。討死した名前の筆頭が 遊佐豊後守 とあるから 藤堂某は彼に仕えて居たと考えられる。
巷説 藤堂高虎を 渡り奉公人 であったとする説が散見される。私自身そうした俗説には否定的な立場であるが 遊佐氏に仕えた藤堂氏というのは まさしく渡り奉公人であったと言えようか。

永禄期・藤堂兵庫助考察

変わったところでは明智光秀の書状として 某年八月二十七日に 藤堂兵庫助知行分事 為御料所御代官 尼子殿江被仰付候 とした内容の書状が存在する。
宛名が不明である点が残念だが 差出人は光秀で 藤堂兵庫助の知行を没収し 御料所 とし その代官を尼子殿に仰せ付けた という内容だ。

奧野説

この書状について大家 奥野高廣先生は二種類の論説を立てている。
まず昭和五十四年(1979)七月に 史林 六二巻四号に寄せた 織田政権の蔵入領 という論説では その時期を磯野員昌の降伏後 丹羽長秀の佐和山入城後とするも 志賀城を与えられていた光秀が この件に関与しているのは たまたま指示を受けたからであろう としている。

十年後の平成元年(1989)に刊行された 信長文書の研究 に於いて奥野氏は 光秀の坂本入城に際し 藤堂兵庫助の坂本周辺にあった知行分が没収されたとしている。

奧野氏は元亀末から天正初期頃と比定しているが 光秀の天正年間八月というのは概ね戦の最中であったり 病で倒れていた時期と重なっている事が多い。また天正七年(1579)以降であれば 丹波の統治で忙しい。

光秀が発行できそうな時期

僅かに可能性があるとすれば 元亀二年(1571)と翌三年(1572)ではないか。両年の八月は空白の月間で 書状を発行するのは可能である。
また遡ると永禄十二年(1569)の同時期も空白であり発行は可能だろう。

更に 尼子殿 の観点を見ると 永禄十三年(1570)の禁中御修理に伴う上洛要請に 尼子殿 を見ることが出来る。
一方で慶長三年(1598)の石部文書には 六角承禎の没落に付き従った者の名前が記されるが 尼子宮内少輔宗澄 も含まれている。
すると彼は永禄十一年(1568)の第一次没落時は大人しく義昭 信長方に付き従ったが 元亀元年(1570)の第二次没落時に承偵方に合流したと考えることも出来よう。
そのようにすれば 私は永禄十二年(1569)頃に発行された書状。

藤堂兵庫助は誰だ

さて ここまで見てきたように広橋家の侍では 代々官名の再利用 継承 踏襲 が行われている。
例えば 景盛の三河守を景勝と景富 そして景俊 景能の右京亮を景元 景富の豊後守を景持 景隆の因幡守を景元が それぞれ名乗っている。また系図上の親子に依る継承では 修理亮を名乗った景家と景永が挙げられる。

ではこの 兵庫助 とは誰なのだろう。

藤堂兵庫助は歴名土代のみに見える景教と 長享二年に若くして敗死した息子景兼の親子が思い当たる。すると兵庫助は景兼の死後も 隠れた遺児が居て光秀が現れる時代にまで生き長らえていたとも考えられるが 景兼が十七歳という若さで亡くなっている事を踏まえると限りなく僅かな可能性だろう。

長享以降 特に天文から永禄年間にかけて 系図には見られない広橋家に仕える藤堂氏の活動を見る事が出来る。
恐らくはそうした中の一人が 兵庫助 を名乗り 何らかの理由により知行分を没収されたのだろう。
そして代官が 尼子殿 であることは 没収された知行地は近江で それも甲良と考えるのが自然であろう。公家侍藤堂氏と甲良の結びつきを唯一見出すことが出来る史料が この光秀書状となるのである。