守光公記に登場する藤堂氏
藤堂氏を構成するうえで、 最も比重を占めるのが 『守光公記』 で、 その数は八十件を越える。
なお 『歴代残閥日記』 という影印本内には永正五年(1508)七月一日 「室町殿御昇進」 に際して景元 ・ 景俊 ・ 景永の三名が、 同僚の速水正益 ・ 家益と共に、 守光に同道している様子が記録されている。室町殿というのは足利義稙の事だ。
辛うじて読めた内容であるが、 同日の内容は史料纂集として刊行された公記には掲載されていない。よって、 ここでの紹介に留め目録には掲示しない。また初出も変わらずに、 史料纂集版を基準とする。
番 | 年月日 | 表記 | 諱 | 巻号 |
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永正五年 | ||||
1 | 七月十六日 | 左京亮 | 景俊 | 一巻 |
2 | 九月四日 | 左京 | 景俊 | 一巻 |
永正八 | ||||
3 | 九月十四日 | 景元 | 景元 | 二巻 |
4 | 十二月三十日 | 藤堂左京亮殿 | 景俊 | 一巻 |
翌年二月九日条内 | ||||
永正九 | ||||
5 | 正月十九日 | 左京 | 景俊 | 一巻 |
6 | 二月九日 | 藤堂殿 | 景俊 | 一巻 |
7 | 二月十四日 | 景元 | 景元 | 一巻 |
8 | 二月二十四日 | 景元 | 景元 | 一巻 |
9 | 三月二十三日 | 景元 | 景元 | 一巻 |
10 | 四月十日 | 藤堂殿 | 景元 | 一巻 |
二十四日条内 | ||||
11 | 四月二十九日 | 右京亮 | 景元 | 一巻 |
12 | 閏四月二日 | 景元 | 景元 | 一巻 |
13 | 閏四月十七日 | 藤堂殿 | 景元 | 一巻 |
14 | 五月十八日 | 景俊 | 景俊 | 一巻 |
15 | 五月二十一日 | 景元 | 景元 | 一巻 |
16 | 六月二十三日 | 景元 | 景元 | 一巻 |
17 | 七月七日 | 左京亮 | 景俊 | 一巻 |
18 | 七月九日 | 藤堂修理亮 | 景永 | 一巻 |
19 | 七月十五日 | 右京 | 景元 | 一巻 |
20 | 八月十日 | 景俊 | 景俊 | 一巻 |
十一月二十六日条内 | ||||
21 | 九月七日 | 景俊 | 景俊 | 一巻 |
22 | 九月十二日 | 景元 | 景元 | 一巻 |
23 | 九月二十□日 | 藤堂殿 | 景元 | 一巻 |
二十四日条内 | ||||
24 | 九月二十七日 | 左京 | 景俊 | 一巻 |
25 | 十月二日 | 景元 | 景元 | 一巻 |
26 | 十一月二十三日 | 不詳 | 不詳 | 一巻 |
27 | 十二月九日 | 藤堂右京亮殿 | 景元 | 一巻 |
28 | 十二月二十七日 | 景元 | 景元 | 一巻 |
永正十年 | ||||
29 | 正月三日 | 左京 | 景俊 | 一巻 |
30 | 正月九日 | 左京 | 景俊 | 一巻 |
31 | 二月六日 | 景元 | 景元 | 一巻 |
32 | 二月二十三日 | 景元 | 景元 | 一巻 |
33 | 三月五日 | 景元 | 景元 | 一巻 |
34 | 三月二十四日 | 景元 | 景元 | 一巻 |
35 | 四月六日 | 景元 | 景元 | 一巻 |
36 | 六月二十日 | 景俊 | 景俊 | 一巻 |
37 | 七月十九日 | 景俊 | 景俊 | 一巻 |
38 | 七月二十四日 | 景俊 | 景俊 | 一巻 |
二十六日条内 | ||||
39 | 八月十二日 | 景元 | 景元 | 一巻 |
40 | 九月三日 | 景元 | 景元 | 一巻 |
41 | 九月三日 | 左京 | 景俊 | 一巻 |
42 | 九月五日 | 景元 | 景元 | 一巻 |
43 | 九月二十七日 | 景元 | 景元 | 一巻 |
44 | 十二月二十九日 | 左京 | 景俊 | 一巻 |
45 | 十二月三十日 | 地下人 | 景元か | 一巻 |
永正十一 | ||||
46 | 正月二十八日 | 景元 | 景元 | 二巻 |
47 | 三月三日 | 修理 | 景永 | 二巻 |
48 | 三月十五日 | 景元 | 景元 | 二巻 |
49 | 八月十二日 | 景元 | 景元 | 二巻 |
永正十二年 | ||||
50 | 正月二日 | 景永 | 景永 | 二巻 |
51 | 正月十一日 | 景元 | 景元 | 二巻 |
52 | 正月三十日 | 景元 | 景元 | 二巻 |
53 | 二月二日 | 景元 | 景元 | 二巻 |
54 | 二月二十一日 | 景元 | 景元 | 二巻 |
55 | 閏二月三日 | 景永 | 景永 | 二巻 |
56 | 三月某日 | 東堂殿 | 景元か | 二巻 |
十二日条内 | ||||
57 | 三月十七日 | 左京 | 景俊 | 二巻 |
58 | 三月二十九日 | 左京亮 | 景俊 | 二巻 |
四月一日条内 | ||||
59 | 四月四日 | 景永 | 景永 | 二巻 |
60 | 五月七日 | 左京 | 景俊 | 二巻 |
61 | 五月二十一日 | 左京 | 景俊 | 二巻 |
62 | 六月十四日 | 東堂景元 | 景元 | 二巻 |
63 | 八月一日 | 景元 | 景元 | 二巻 |
七月二十九日条内 | ||||
64 | 景元 | 景元 | 二巻 | |
65 | 左京亮 | 景俊 | 二巻 | |
三日条内 | ||||
66 | 八月二十二日 | 左京亮 | 景俊 | 二巻 |
67 | 八月三十日 | 景元 | 景元 | 二巻 |
68 | 九月十九日 | 修理 | 景永 | 二巻 |
永正十四年 | ||||
69 | 二月二十日 | 景元 | 景元 | 二巻 |
六月三日条内 | ||||
70 | 四月二日 | 藤堂殿 | 景元 | 二巻 |
六月三日条内 | ||||
71 | 六月二日 | 藤堂殿 | 景元 | 二巻 |
72 | 六月三日 | 景元 | 景元 | 二巻 |
73 | 九月三日 | 景俊 | 景俊 | 二巻 |
永正十五年 | ||||
74 | 十二月十日 | 因幡 | 景元か | 二巻 |
75 | 十二月十二日 | 景永 | 景永 | 二巻 |
十三日条内 | ||||
76 | 十二月十三日 | 因幡 | 景元か | 二巻 |
77 | 十二月二十七日 | 景俊 | 景俊 | 二巻 |
78 | 十二月二十七日 | 左京亮 | 景俊 | 二巻 |
二十四日条内 | ||||
永正十七年 | ||||
79 | 三月十一日 | 景元 | 景元 | 二巻 |
80 | 十二月二十日 | 景元 | 景元 | 二巻 |
81 | 十二月二十一日 | とうたうとの | 景元 | 二巻 |
二十日条内 | ||||
82 | 十二月二十二日 | 景元 | 景元 | 二巻 |
二十七日条内 | ||||
83 | 十二月二十七日 | 藤堂 | 景元か | 二巻 |
84 | 十二月二十七日 | いなはとの | 景元 | 二巻 |
永正十八年 | ||||
85 | 正月二十一日 | 景元 | 景元 | 二巻 |
内訳
景元五十一件、 景俊二十六件、 景永七件、 不詳一件
ここまで膨大であると、 全てを紹介するのは不可能に近い。さらに三氏の紹介として歴名土代での叙位記録、 守光公記以外での記録が加わるので、 最早手のつけようがないほど膨大で、 紹介するのは困難である。
特に景元と景俊に関しては厳選した動向を紹介する。
藤堂三氏の関係
景元、 景俊、 景永の関係性は複雑である。
藤堂家の編纂史料では養子の景元の次代が景俊、 景永は景長景家の三代目と相成るが、 歴名土代を参考にすると違った面が見える。
つまり 「景俊は景敦二男」 という点である。
景敦は綱光、 兼顕の二代に仕え活躍した侍で、 その二男である景俊が守光の時代に活躍することに違和感はない。
また 「景元は誰の養子になったのか不明」 という疑問も提示せねばならぬ。
ただ言える事は、 編纂史料では景富系統の一系統のみを前面に押し出すが、 守光公記だけでも景勝系統 ・ 景長系統の存在が確認できるので、 景富一系統説という認識から離れるべきだ。
藤堂氏と長橋局
景元と景俊の動向を見ると 「長橋局」 が数回登場する。
「長橋局」 とは個人名では無く、 「勾当内侍」 に就いた女官を指す通称である。「勾当内侍」 が住まう場所が宮中の長橋に位置していたことから、 こうした通称になったようだ。同職は宮中女官の中でも最上位で、 その仕事は天皇の側近として渉外をはじめとする政務のほぼ全てを司るという大変な重役である。
こうした重役の仕事を支える雑掌として、 四辻ならびに広橋家から侍が派遣された点は興味深いものである。同様に藤堂氏は広橋家の仕事と並行して宮中 ・ 長橋局の仕事を熟していた事となるだろう。
広橋守光には、 朝廷と幕府の間を取り持つ窓口機関としての役割があり、 天皇の女房奉書や勾当内侍の奉書は守光を通す事となる。守光の侍が長橋局の雑掌を兼ねたのは、 利便性や効率を考えての事だろう。
湯川氏の論文 『戦国期の女官と女房奉書』 を参考にすると、 この時代に 「勾当内侍」 を務めていたのは 「東坊城松子」 である。その甥には紀伝道を再興せしめた東坊城和長が居る。
ここで永正十四年(1517)を例に見てみよう。
まず二月二十日に発行された幕府奉行人 ・ 松田丹後守 (長秀) 宛の広橋家雑掌長橋局雑掌請取状を景元が担当している。これは六月三日条内に記される。その日に景元は、 長橋局にて、 「今朝景元 ・ 右京亮五百疋請取、 相調長橋奉書等」 といった具合だ。
二十日付の請取状に長橋局雑掌は 「久次」 とあるが、 彼は田口右京亮久秀の弟にあたる。なお田口久秀は四辻家の家僕でもある事を、 湯川敏治氏は 『戦国期の女官と女房奉書』 のなかで指摘されている。すると田口久次もまた、 四辻家の侍なのだろう。
また永正十七年(1520)には気になる点が見られる。十二月二十一日に長橋局官女の 「うきやう」 から 「とうたうとの」 へ宛てた長橋局請取状が発行された旨が二十日条に記される。前後の文脈によると 「扇代五十疋」 に関する請取状のようだ。
湯川敏治氏は 『戦国期の女官と女房奉書 (女性史学 ・ 二〇〇五)』 のなかで、 「うきやう」 が四辻家の雑掌田口久秀であると指摘されている。ただ、 先に紹介した永正十四年二月二十日の請取状に於いて、 雑掌田口久次は署名を 「久次」 と諱で記している。この例を則ると、 兄の久秀は 「久秀」 と署名するべきであり、 平仮名の 「うきやう」 とするのは些か疑問が残る。
即ち、 守光公記 ・ 二にある通り、 この請取状を記したのは 「右京大夫」 なる長橋局官女と見るべきだ。
二十二日には、 今度は景元が広橋家雑掌請取状を担当している。宛名が記されていないが、 文脈を捉えると前年同様に 「御服要脚」 に関し、 飯尾貞運に宛てて出されたものだろう。なお、 此方は二十七日条内である。
同じ二十七日条には、 「請取藤堂可持來」 とも記され、 景元と付記されている。景元が 「可持来」 した請取とは、 「うきやう」 から出された 「長橋局請取状」 だろう。既に述べたとおり、 その宛名は 「いなはとの」 であり、 後の叙位に因幡守として記録されている景元へ宛てられた請取状と思われる。
その内容や、 文脈を捉えると、 二十二日の飯尾宛請取状に対応する 「御服要脚」 に関する請取状と推察される。