藤堂景元
藤堂景元は広橋守光 ・ 兼秀親子の侍 (家僕) として活躍した人物である。
その活躍の割にはとかく謎が多い。
編纂史料に見る景元
嫡子を因幡守景元と号す。是は初老に及ひ子なきに依て、 宗益か子を義子として家名を譲る。将軍義植公に仕へたり。天文三甲午年正月八日出家す。同五丙申年十二月十九日逝す。行年八十三。景元子孫あり今爰に略す。系図を以て見るへし。
これは藤堂景高に続くもので、 公室年譜略に載るものが高山公実録にも引用されている。
没年と年齢が明確に記されている点は興味深い。逆算すると享徳三年(1454)に生まれたこととなる。
そうなると彼が活躍する永正年間というのは、 五十から六十代頃だ。
歴名土代に見る景元
歴名土代を参考に検証を試みようと思うが、 そもそも編纂史料には叙位年が無い。とはいえ補完ということで記していこう。
大永四年(1524)
九月四日・従五位下
歴名土代に登場するのは、 この日の従五位下が歴名土代に於ける初見となる。没年から逆算すると七十一歳にして初めて官位を得たのだろうか。
また 「藤堂因幡守故宗益男」、 群書版では 「故宣益男」 と記されているが、 守光公記に登場する 「因幡」 とは景元の事であろう傍証となる。
大永七年(1527)
九月二十四日・従五位上
この日は景俊と共に従五位上に叙されている
享禄四年(1531)
正月八日・正五位下
この日も景俊と共に叙された。また景元に 「藤堂因幡守」、 景俊に 「藤堂三川守」 とそれぞれ付記されている。
天文三年(1534)
正月八日・従四位下
さてこの叙位には次のような付記がある。
「藤堂因幡守、 四年八月`日出家、 五年十二月十九日卒、 八十三才」
この付記は出家の年月日を除き、 年譜略の記述と合致している。これは編纂者が歴名土代を読み込んでいたのだろうか。なお年譜略における景元の出家日は、 この叙位日としているのは翌年の出家日が判読不能だったことによるのだろうか。
景元の出自
歴名土代の大永四年(1524)九月四日叙位に景元の出自を見ることが出来る。
まず榎原氏版や年譜略にも引用されているものが 「故宗益男」、 群書類従版では 「故宣益男」 の二つをあげることが出来る。
この二つに共通する字が 「益」 であるが、 藤堂氏に近い家で 「益」 を用いる家柄が存在する。
速水氏か?
速水氏は藤堂氏と共に広橋家を支える侍である。
信景以来、 景益、 信益 ・ 家益兄弟、 宗益、 正益と連なる。
しかし肝心の信益 ・ 宗益親子の生年が不詳であるから、 検討のしようが無い。
よって景元の出自は不詳とする。
景元の妻子
例によって妻は不明である。
その子どももわからない。系図を見ると景元の次代に景俊がくるが、 景俊は歴名土代にて景敦二男と記される為、 景元の子息も不詳としよう。
古記録に見る景元
ここからは景元の動向を見ていくが、 何しろ守光公記だけで五十件の記録があり、 更にいえば公記自体が近年翻刻されたものであるから、 その全てを紹介することは差し控えたい。
とりあえず最初に目録として概略を掲載するが、 今回はその中で時代ごとに厳選して景元の動向を見ていこう。
年月日 | 動向 | 出典 | 番 |
---|---|---|---|
1511 | 永正八年 | ||
0914 | 松田丹後方へ遣わされる | 二 | 1 |
1512 | 永正九年 | ||
0214 | 禁中觸穢神宮奉行職に遣わされる | 一 | 2 |
0224 | 因幡堂参詣に関して動きあり | 一 | 3 |
0323 | 四足役所大經師に関して動きあり | 一 | 4 |
0410 | 藤堂殿宛良椿申状は景元宛か | 一 | 5 |
二十四日条内に収まる | |||
0429 | 右京亮、 新大典侍殿の印物に関して遣わされる | 一 | 6 |
新大典侍とは勸修寺藤子のこと | |||
L0402 | 後柏原天皇女房奉書 (御返事) に関与 | 一 | 7 |
「以景元正印文書幷攝津 (政親) 方 (江) 祭主 (大中臣伊忠) 狀等遣攝津許、 同美濃段錢事 ・ 同衣要途之事申遣者也、」 | |||
L0417 | 斎藤時基より御服要脚萬疋内未進に関する藤堂殿宛書状 | 一 | 8 |
0521 | 伊庭貞隆の賀茂 ・ 森殿 (康久) 宛て書状を預かる | 一 | 9 |
0623 | 齋藤基雄へ遣わされ 「不可申旨候」 | 一 | 10 |
0912 | 護法院に関してか、 使を務める | 一 | 11 |
092? | 諏訪長俊より藤堂殿宛幕府奉行人奉書 | 一 | 12 |
日不詳 | 二十四日条内に収まる | ||
1002 | 万里小路秀房の使者が散状を持ち来訪、 景元が応対 | 一 | 13 |
1209 | 大宮時元より藤堂右京亮殿宛書状 | 一 | 14 |
眞光院の知行分播州香山保に関する | |||
1227 | 灰方の請取に関して四辻大納言青侍某と共に担当 | 一 | 15 |
1513 | 永正十年 | ||
0206 | 御位署の使者として齋藤美濃守基雄のもとへ | 一 | 16 |
0223 | 「木邊僧為礼罷向尊勝院 (光什)、 添遣景元者也」 | 一 | 17 |
0305 | 宛名不詳広橋家雑掌請取状を担当 | 一 | 18 |
0324 | 「以景元内々時局申入処」 | 一 | 19 |
0406 | 薬玉進上に関して一色尹泰、 畠山順光方へ遣わされる | 一 | 20 |
0812 | 永正八年の御服要脚に関して、 幕府奉行人 松田長秀、 齋藤時基に召し出される | 一 | 21 |
0903 | 幕府奉行人松田長秀に召し出され、 灰方奉書令書を進上 | 一 | 22 |
0905 | 山國 (丹波国桑田郡) に関して奉行人松田長秀に召し出される | 一 | 23 |
0927 | 守光宛の後柏原天皇女房奉書を受け取るために遣わされる | 一 | 24 |
1230 | 「以地下人奉書如此由申間」 の地下人が景元を指すか | 一 | 25 |
1514 | 永正十一年 | ||
0128 | 後柏原天皇女房奉書等を受け取りに遣わされる | 二 | 26 |
0315 | 竹内先門主 (蔓殊院良鎮) 勅免に関して 「則遣景元処令来賜」 | 二 | 27 |
0812 | 「納候長橋 (使景元)」 と長橋局の使を務めたか | 二 | 28 |
0903 | 幕府奉行人松田長秀に召し出され、 灰方奉書令書を進上 | 一 | 29 |
0905 | 山國 (丹波国桑田郡) に関して松田長秀に召し出される | 一 | 30 |
0927 | 守光宛の後柏原天皇女房奉書を受け取るために遣わされる | 一 | 31 |
1230 | 「以地下人奉書如此由申間」 の地下人が景元を指すか | 一 | 32 |
1514 | 永正十一年 | ||
0128 | 後柏原天皇女房奉書等を受け取りに遣わされる | 二 | 33 |
0315 | 竹内先門主 (蔓殊院良鎮) 勅免に関して 「則遣景元処令来賜」 とあり | 二 | 34 |
0812 | 「納候長橋 (使景元)」 と長橋局の使を務めたか | 二 | 35 |
1515 | 永正十二年 | ||
0111 | 「事書状景元持行」、 「景元百疋返」 | 二 | 36 |
0130 | 早朝に御撫物と御巻敷を室町殿へ進上 | 二 | 37 |
0202 | 「寺町石見 (通隆) 就天王寺事内ゞ景元有申子細、 仍遣尊院 (尊勝院光什) 相談」 | 二 | 38 |
0221 | 「春日祭散状以景元進殿中、 申次伊勢与一」 | 二 | 39 |
03?? | 某日栗眞に関して白川雅業王から東堂殿へ宛てた書状あり、 景元か | 二 | 39 |
十二日条内に収まる。六月十四日条が対応記事になるが そちらを参考にすると景元か | |||
0614 | 東堂景元、 栗眞に関して松田長秀に官務大宮時元共々呼び出される | 二 | 40 |
0801 | 松田長秀宛ての広橋家雑掌御服要脚請取状を担当 | 二 | 41 |
七月二十九日条内に収まる | |||
伏見宮邦高親王の御太刀に関して景元の働きあり | 二 | 42 | |
0830 | 早朝に行われた御巻敷 ・ 御撫物進上武家 (足利義稙) の使 | 二 | 42 |
1517 | 永正十四年 | ||
0220 | 松田丹後守宛の広橋家雑掌長橋局雑掌 (久次) 請取状を担当 | 二 | 43 |
六月三日条内に収まる。久次は田口久秀の弟 | |||
0402 | 松田長秀から藤堂殿宛の節会御要脚事の書状あり | 二 | 44 |
六月三日条内に収まる。「如此申間、 田口左京亮与景元両人出之」 とあるから景元か。 また田口左京亮は久次か | |||
0602 | 松田丹後長秀より藤堂殿宛の就節会に関する書状。景元と付記 | 二 | 45 |
0603 | 長橋局にて、 「今朝景元 ・ 右京亮 (田口久秀) 五百疋請取、 相調長橋奉書等」 とあり | 二 | 46 |
田口久秀は景元等と長橋局雑掌を務める四辻家の侍、 久次の兄 | |||
1518 | 永正十五年 | ||
1210 | 因幡、 飯尾齋藤松田の三奉行に摂津元直、 某宿祢らと共に守光へ女房奉書を届けたか | 二 | 47 |
1213 | 「則以因幡内々自局申入」 とあるのは景元の事か | 二 | 48 |
1520 | 永正十七年 | ||
0311 | 広橋の青侍として禁裏へ遣わされる | 二 | 49 |
1220 | 広橋家雑掌請取状を担当 | 二 | 50 |
1221 | 長橋局官女うきやう (右京大夫) から 「とうたうとの」 宛に請取状 | 二 | 51 |
二十日条内に収まる | |||
1222 | 広橋家雑掌請取状を担当 | 二 | 53 |
二十七日条内に収まる | |||
1227 | 「請取藤堂可持來」 | 二 | 54 |
1227 | うきやうより 「いなはとの」 宛の長橋局請取状 | 二 | 55 |
1521 | 永正十八年 | ||
0121 | 「以青侍申送之、 則以景元可令進上」 とあり | 二 | 56 |
1524 | 大永四年 | ||
0904 | 景元、 従五位下 | 歴名 | 57 |
藤堂因幡守故 ・ 宗益男、 群書では宣益 | |||
1527 | 大永七年 | ||
0924 | 景元、 従五位上 | 歴名 | 58 |
1530 | 享禄三年 | ||
1002 | 立入幸夜叉丸宛の廣橋兼秀施行状を景元と速水正益が担当 | 立入 | 59 |
一、 綸旨御奉書下知状の (四) | |||
1531 | 享禄四年 | ||
0108 | 景元、 正五位下 | 歴名 | 60 |
景元、 藤堂因幡守 | |||
1533 | 天文二年 | ||
1221 | 散位景元、 春日執行の正預 (今西祐惟) 宛の 「前関白近衛稙家御教書」 を担当 | 大東 | 61 |
春日大社 ・ 大東家文書目録に収まる。内容は臨時御神楽に関する書状 | |||
1534 | 天文三年 | ||
0108 | 景元、 従四位下 | 歴名 | 62 |
藤堂因幡守、 四年八月`日出家、 五年十二月十九日卒、 八十三才 |
注 ・ L は閏を示す
奉書と景元
さて六十二件に及ぶ動向のなかで、 景元が奉書に関与したのは十三件である。
例えば永正八年(1511)九月には幕府奉行人の諏訪長俊から届いた藤堂殿宛幕府奉行人奉書があるが、 これは景元宛と比定されている。
また後柏原天皇女房奉書の受取を担当している点も興味深い。
ただ景俊と異なるのは、 景元が奉書の差出人として見る事は出来ない点である。
請取状と景元
奉書の差出人として見られないなかで、 景元が担当したのは請取状だろう。
まず永正十年(1513)三月五日、 広橋家雑掌奉書を担当。
これは宛名が記されていないが、 「式部少輔使」 とあることから畠山順光方に宛てられたものと推測される。
次に永正十二年(1515)八月一日には幕府奉行人松田長秀に対し、 広橋家雑掌御服要脚請取状を担当。
永正十四年(1517)二月二十日には長橋局雑掌久次と共に、 松田丹後守宛の広橋家雑掌 ・ 長橋局雑掌請取状を担当。
久次とは四辻侍 ・ 田口久秀の弟で田口左京亮と思われる。
永正十七年(1520)の十二月は数件見られる。まず十二月二十日に広橋家雑掌請取状を担当。これも宛名が不明だが本文中に 「近江守方有使」 とあるので、 飯尾貞運方へ宛てられた書状と推察される。
翌二十一日には長橋局の官女 「うきやう (右京大夫)」 から 「とうたうとの」 宛に請取状が届くが、 これは景元宛と比定されている。
更に二十二日には宛名不明の広橋家雑掌請取状を担当しているが、 こちらも飯尾貞運方へ宛てられたものと考えられる。
十二月二十七日には 「請取藤堂可持來」 とあり、 さらに 「うきやう」 から 「いなはとの」 宛に長橋局請取状が届く。これらは景元へ宛てられた書状と比定されている。
以上請取状について八件を紹介した。
栗眞庄と景元
ところで永正十二年(1515)三月十二日条には白川雅業王から東堂殿へ宛てた、 栗眞 (津市) に関する書状が掲載されている。これは抜け落ちが多いためか、 出された日付も、 宛名の諱も不明である。
しかしこれに対応する記事があるから、 大凡推定することが出来る。
つまり三ヶ月後の六月十四日条にて、 景元が栗眞について幕府奉行 ・ 松田長秀に官務大宮時元共々呼び出されたとあり、 白川雅業王が宛てた東堂殿とは、 景元と推定出来る。
果たしてその結末は定かではないが、 大日本史料データベースを見ると同年三月十五日条に
(第一条) 義稙、 勅命に依り、 伊勢長野通藤をして、 御料所同国栗真荘代官職を去渡さしむ、
とある。これが結末なのだろうか。
因幡守景元
景元は因幡守を名乗っていた。これは歴名土代の大永四年(1524)九月四日の従五位下叙位に見る事が出来る。
さて守光公記の二巻を読むと永正十五年(1518)十二月十日の早朝、 守光のもとに御柏原天皇の女房奉書が届く。その内容は延引が続く後柏原天皇の即位に関してのものだ。
届けたのは、 幕府奉行人の飯尾、 齋藤、 松田の三氏に、 攝津元直、 某宿祢 (大宮時元か)、 そして 「因幡」 なる人物である。この 「因幡」 には、 藤堂景元と振られている。
「因幡」 は十三日にも 「則以因幡内々自局申入」 と登場するが、 此方には付記は無い。
永正十七年(1520)十二月二十七日条には 「いなはとの」 宛ての長橋局請取状が存在する。此方は景元と付記が為されている。
景元はそれまで 「右京亮」 を名乗っていた。この名乗りは永正十二年(1515)八月一日の、
伏見殿御太刀被付余之間、 則以右京亮申入之処、 又御返御太刀也、 則令持参之処
という活躍を最後に姿を消す。以降永正十四年(1517)の三件については全て景元表記である。
つまり遅くとも永正十七年(1520)までには 「因幡守」 を名乗っていたものと思われる。
晩年の景元
調べていて驚くのは守光公記以降にも景元の動向を見る事が出来る点だ。
まず立入文書には享禄三年(1530)十月二日に、 立入幸夜叉丸宛の広橋兼秀施行状を速水正益と共に担当している。
これは 『立入宗継文書 ・ 川端道喜文書』 の 「一、 綸旨御奉書下知状」 にて (四) に見る事が出来る。
景元の終見となる書状が天文二年(1533)十二月二十一日、 春日執行正預 (今西祐惟) 宛の 「前関白近衛稙家御教書」 である。これは 「臨時御神楽」 に関する書状で 『春日大社 ・ 大東家文書』 に収まる。
特徴として、 その署名を 「散位景元」 としている点が興味深い。
また歴名土代の没年を参考にすると、 齢八十での書状となる。
激動の時代に広橋家を支えた彼が最後に遺した書状は、 広橋家の主たる近衛家に纏わる書状であった。