藤堂景俊
藤堂景俊は広橋守光 ・ 兼秀親子の侍 (家僕) として活躍した人物である。
その父は綱光 ・ 兼顕親子のもとで活躍した左衛門大夫景敦で、 景俊はその二男となる。生年は文明九年(1477)と考えられる。
彼は年長の景元、 同族景永と共に戦国時代混迷の室町幕府を駆け抜けた。
編纂史料に見る景俊
景俊の名前は系図でしか見られない。さらに高山公実録の御系譜考内の系図には説明が見られないため、 僅かに公室年譜略の系図 「当家先考之大略」 に簡単な説明が載る程度だ。
三河守仕于将軍義輝公、 天文五丙申年二月十七日叙従五位上、 永禄四辛酉年正月八日叙正五位下
これを見ると景俊が三河守であること、 天文五年二月十七日に従五位上、 永禄四年(1561)正月八日に正五位下にそれぞれ叙された事がわかる。
では歴名土代を参考に検証していこう。
歴名土代に見る景俊
果たして公室年譜略に見られる記述は正確なのだろうか。
大永四年(1524)
九月十三日・従五位下
「三河守景敦次男」 と付記されている。
大永七年(1527)
九月二十四日・従五位上
この日、 景元と揃って叙されている。この記録から公室年譜略の系図にある記述が誤りである事がわかる。
享禄四年(1531)
正月八日・正五位下
この日も景元と揃っての叙位である。また 「藤堂三川守」 と記されている。
天文五年(1536)
二月十七日・従四位下
「六十、 藤堂三川守」 と付記されている。
公室年譜略の系図と年月日までは合致している。しかし官位が異なる。
前史をここまで読んでこられた諸兄ならば、 最早高山公実録や公室年譜略の数字に疑問を持たれるだろう。こうした検証を行うと、 今のように史料に恵まれない時代、 津藩の編纂者が如何に苦慮したのか、 とても頭が下がる。
景俊の妻子
妻は不詳である。
系図を読むと景俊の次代は景任である。
歴名土代を読むと天文十五年(1546)正月五日に 「従五位下右兵尉景任 21 歳」 とある。つまり景任が生まれたのは大永六年(1526)と逆算される。
一方で歴名土代によれば景俊は天文五年(1536)に六十歳であり、 逆算すると文明九年(1477)の生まれとなる。
すると景任が生まれた当時の景俊は五十歳となり、 その年齢差には些かの疑問を抱くところである。
古記録に見る藤堂景俊
ここからは景俊の動向を見ていこう。
まず守光公記には二十七件の記録がある。ただ公記自体が近年翻刻されたものであるから、 その全てを紹介することは差し控えたい。
とりあえず最初に目録として概略を掲載するが、 今回はその中で時代ごとに厳選して景俊の動向を見ていこう。
年月日 | 動向 | 出典 | 番 | |
---|---|---|---|---|
1502 | 文亀二年 | |||
0612 | 廣橋青侍トウタウ左京亮が罷る | 國八 | 1 | |
1508 | 永正五年 | |||
0716 | 大宮時元より申状 | 一 | 2 | |
0904 | 頭中将夾臨之礼遣左京 | 一 | 3 | |
1511 | 永正八年 | |||
1230 | 正実坊の円運分一御要脚注文到来 | 一 | 4 | |
翌年二月九日条内に収まる | ||||
1512 | 永正九年 | |||
0119 | 御服要脚と御神楽について請取 | 一 | 5 | |
0209 | 祭宜土御門有宣代守祐より藤堂殿宛請取状 | 一 | 6 | |
0518 | 松田丹後守宛広橋家雑掌奉書を担当 | 一 | 7 | |
0707 | 七夕立花について 「即以左京亮令申者」 | 一 | 8 | |
0810 | 商人問丸に関する定蔵院への広橋家雑掌奉書を担当 | 一 | 9 | |
0907 | 禁裏御料所紙課役に関する定蔵院宛広橋家雑掌奉書を担当 | 一 | 10 | |
0927 | 朝守光を訪ねる人があり応対 | 一 | 11 | |
1513 | 永正十年 | |||
0103 | 足利義尹の嘉例御扇拝受に参賀 | 一 | 12 | |
0109 | 御服要脚に関し田口右京亮と共に長橋局 ・ 幕府間で働きか | 一 | 13 | |
0620 | 勧修寺家雑掌井家顯家と共に山國庄沙汰人宛雑掌奉書を担当 | 一 | 14 | |
0719 | 速水正益と共に壬生于恆宛広橋家雑掌奉書を担当 | 一 | 15 | |
二十日条内 | ||||
0724 | 嵯峨筏問丸中宛広橋家雑掌奉書を担当 | 一 | 16 | |
二十六日条内 | ||||
0903 | 守光宛の後柏原天皇女房奉書を 「遣丹後許処」 | 一 | 17 | |
1229 | 後柏原天皇女房奉書に関し松田のもとへ遣わされる | 一 | 18 | |
1515 | 永正十二年 | |||
0317 | 入夜以左京令申長橋畢 | 二 | 19 | |
0329 | 葉室家雑掌光泰書状が届く | 二 | 20 | |
四月一日条内。宣下御礼物万疋請取について | ||||
0507 | 午後松田長秀が来訪、 不在の守光に代わり応対 | 二 | 21 | |
0521 | 守光と松田丹後のやりとりに関し 「則遣左京之処」 | 二 | 22 | |
0801 | 松田長秀より書状 | 二 | 23 | |
三日条内 | ||||
0822 | 「左京亮可遣之由令」 | 二 | 24 | |
1517 | 永正十四年 | |||
0903 | 山本播磨宛広橋家雑掌奉書を担当 | 二 | 25 | |
1518 | 永正十五年 | |||
1227 | 田口久秀と共に飯尾近江守貞運宛広橋家雑掌長橋局雑掌請取状を担当 | 二 | 26 | |
二十四日条内 | ||||
1227 | 飯尾貞運より書状 | 二 | 27 | |
1524 | 大永四年 | |||
0913 | 従五位下 | 歴名 | 28 | |
1527 | 大永七年 | |||
0924 | 従五位上 | 歴名 | 29 | |
1531 | 享禄四年 | |||
0108 | 正五位下 | 歴名 | 30 | |
1535 | 天文四年 | |||
0123 | 女院の葬儀に関し東堂参河守の名あり | 継七 | 31 | |
1536 | 天文五年 | |||
0217 | 従四位下、 六十、 藤堂三川守 | 歴名 | 32 | |
0218 | 一昨日廣橋候人東堂参河守勅許之間、 同日申候了、 則勅許候了 | 継七 | 33 |
景俊の初見
景俊の初見と考えられるのが 『言國卿記八巻』 の文亀二年(1502)六月十二日条にて、 鞍馬寺に参詣していた山科言國のもとに広橋青侍の 「トウタウ左京亮」 が罷る、 といった内容である。
この六年後に藤堂左京亮が守光公記に登場する点から、 同一人物と考えた。 景俊が二十六歳の頃である。
ところで藤堂氏のなかで 「左京亮」 を名乗った人物は景俊が初めてでは無い。
『晴富宿禰記』 の文明十一年(1479)十二月七日条に 「藤堂左京亮起請文云々」 とある。
当時景俊は三歳と幼少の砌で、 起請文に関わる事は不可能と思われる。そうなると景俊が幼い頃既に 「藤堂左京亮」 を名乗る人物が居たと考える事が出来る。
念のため 「左京亮」 ではなく 「右京亮」 の可能性を考え、 史料編纂所データベースで 「壬生家旧蔵本」 を閲覧してみると、 やはり 「左京亮」 であったので 「右京亮」 の可能性は低そうである。
右京亮であったならば、 この時代では叔父の景安や景元の可能性があった。
奉書と景俊
永正九年(1512)五月十八日、 松田丹後守 (景俊) への広橋家雑掌奉書を担当。
八月十日、 商人問丸に関する定蔵院宛広橋家雑掌奉書を担当 (十一月二十六日条内)。
九月七日には再び定蔵院宛の広橋家雑掌奉書を担当しているが、 こちらは禁裏御料所紙課役に関するものである。
永正十年(1513)六月二十日条には景俊が勧修寺家の雑掌 「井家顯家」 と共に山國庄沙汰人へ雑掌奉書を担当している。
これは 「広橋家勧修寺家雑掌奉書」 と名付けられるが、 他家の雑掌と共同で職務を行っている点が興味深い。
連名の奉書というものは、 この一点に留まらない。
翌七月二十日条には、 その前日に景俊が今度は同僚速水正益と共に、 「壬生于恆」 へ広橋家雑掌奉書を担当している。
同月二十四日には嵯峨筏問丸中宛の広橋家雑掌奉書を担当している。(二十六日条内)
奉書に関しては九月三日に、 守光宛の後柏原天皇女房奉書を 「遣丹後許処」 したという。
これは幕府奉行人松田丹後守長秀に女房奉書を披露転送するための使として遣わされた事を意味するのだろう。
これに対応するのが十二月二十九日条に左京が後柏原天皇女房奉書関して松田のもとに遣わされた、 という内容だろう。
永正十四年(1517)九月三日、 景俊が山本播磨宛の広橋家雑掌奉書を担当している。
山本播磨なる人物が登場するのは、 この一件のみであり、 更に奉書の内容もシンプルである為に一体何に関する奉書なのか定かではない。
しかし、 この奉書に対応するであろう事柄として七日条内にて、 「新懇望承仕播磨子來、 条々申子細有之」 と記されている。その細かなところは不詳である。
以上七件の奉書と、 奉書に纏わる動向を紹介した。
守光公記以降の景俊
歴名土代の項にも記したとおり、 景俊は大永四年(1524)九月十三日に従五位下、 大永七年(1527)九月二十四日に従五位上、 享禄四年(1531)正月八日に正五位下と段階的な昇進を遂げている。
この時代に具体的な動向がわかるのは言継卿記七にて、 天文四年(1535)正月二十三日の事である。
同日に行われた女院の葬儀に関して 「東堂参河守」 の名前が見える。この人物こそ景俊と考える。
ところで女院とは誰の事だろう。
そこで言継卿記を遡ってみると、 十一日条に准后が崩御した旨が記されている。
この近辺で亡くなった人物は准后のみであるから、 女院とは准后という事になる。同年に亡くなった准后に該当する女性を調べると、 後奈良天皇の母 ・ 勧修寺藤子なる女性が該当する。
この女院の葬儀の場に於いて、 近衛や西園寺をはじめ、 日野、 山科、 廣橋といった各家の青侍たちが 「北面」 として仕事をしている。景俊もまた、 北面の一人になるのである。
ここで山科と広橋の侍を列記すると、 山科家からは大澤長門守 (重敏 ・ 綱家) と同彦兵衛 (綱守)、 広橋家からは景俊の他に速水掃部助 (正益) と同右近将監 (有益) の名前が見られる。
景俊の終見は従四位下に叙された翌日、 天文五年(1536)二月十八日の事である。
『言継卿記七』 にて 「一昨日廣橋候人東堂参河守勅許之間、 同日申候了、 則勅許候了」 と記される。
この前日に景俊は従四位下に叙されてるので、 この記述は叙位に関しての記録となろう。
これを最後に藤堂景俊の動向は途絶える。
藤堂景俊の活動機関は文亀二年(1502)から天文五年(1536)の三十四年である。二十六歳から六十歳まで、 広橋守光と兼秀親子を支えたのだろう。
守光公記の時代は三十代後半から四十代の頃合である。