言継卿記の時代の藤堂氏

本稿はは広橋兼秀 国光の侍として仕えた藤堂氏について解説を試みたもので 藤堂景任がメインとなる。

本稿の登場人物

この稿では藤堂景任を中心に 言継卿記に登場する藤堂次郎 孫二郎 又五郎 藤左衛門 與三次郎の六名を紹介する。
なお言継卿記には 藤堂兵衛大夫 藤堂右兵衛尉 藤堂右兵衛大夫 の三名が登場するが 彼等の人名比定はただ一人 藤堂景任 である。
根拠とするところは岐阜県史にある 藤堂兵衛大夫景任書状 歴名土代の当該項 立入文書の 広橋国光施行状 に見える 右兵衛尉景任奉 である。ただし 右兵衛大夫 なる人物の書状を見ることが出来ない。こうした部分は乱暴ではあるが 言継の表記揺れ として片付けてしまった。

藤堂景任

彼は 藤堂兵衛大夫 藤堂右兵衛尉 を名乗った人物である。
公室年譜略の系図を見ると
右兵衛尉 仕于義輝公 天文十九庚戌年十二月廿六日叙従五位下 翌亥年正月叙従五位上 とある。
まず仕えたのは広橋兼秀 国光親子で その叙位年も歴名土代を読むとやや異なる。

歴名土代によると天文十五年(1546)正月五日に従五位下に叙されたという。その付記には 二十一歳 藤堂右兵尉 とある。
更に歴名土代を見ると 天文十九年(1550)十二月二十六日に従五位上に叙されたとある。年譜略系図の説明は ここが誤って伝えられたのだろう。
そうして天文二十四年(1555)五月二日には正五位下へと叙されている。

景任の生年

天文十五年(1546)正月五日に従五位下に叙されたという旨が歴名土代には記されるが その付記に 二十一歳 藤堂右兵尉 とある。
そこから逆算すると 景任は大永六年(1526)の生まれとなる。

さて公室年譜略や久居市史の系図を参考にすると その父は三河守景俊と相成る。
景俊は言継卿記七の天文四年(1535)正月二十三日条 女院の葬儀について記される 東堂参河守 の事である。
ただ景俊が五十歳時の子となる点には些かの疑問を抱く。
また歴名土代の年齢表記に関しても 岐阜県史資料に見られる 兵衛大夫景任書状 の時期には弱冠八歳の頃合となる為 此方も違和感を抱く。

景任の妻子

景任の妻子は 例によって妻不詳 系図を読むに景豊と景久の二人へ連なる。
この二人は公室年譜略の系図を読むに兄弟のようであるが 関係性にかかわる史料が皆無である為によくわからない。
更にいえば景豊と景久は言継卿記には登場しないようであるから 謎に包まれた存在に近い。

言継卿記以外での景任

この時代の藤堂氏でその活躍が言継卿記以外でも見られるのが この景任である。
まず先も述べたが岐阜県史資料編の古代中世補遺にて 天文二年(1533)四月十五日の鴨社税殿宛書状を 藤堂兵衛大夫景任 が担当している。
これは 元長卿記裏文書 として紹介される。
この書状から景任が 兵衛大夫 を名乗っていたことがわかる。また年齢についての疑問も生じる訳だ。

次に史料編纂所データベース 日本古文書ユニオンカタログから 天文十六年(1547)七月某日の 藤堂右兵衛尉宛文書 である。この時代の藤堂右兵衛尉とは景任その人であろう。
これは 小野均氏旧蔵文書 差出人は月行事の小島太郎左衛門尉宗重と中西左衛門尉吉長。その内容は 禁裏料所酒麹役朝要分請文案 と題するところ 広橋家が代々の家領とする 酒麹役 に纏わるものと見る。

最後に紹介するのは永禄五年(1562)十二月二十八日の立入左京進宛の 広橋国光施行状 である。
これは宛名の通り 立入文書 に収まるが ここには 右兵衛尉景任奉 と記されることから景任が担当したことがわかる。実際に国光は花押のみであり その文面も景任が記したものと見ている。また 雑掌奉書 の一種とみても良かろう。
そうなると景任もまた累代の如く広橋国光の雑掌を務めていたと考える事も出来るが 他に奉書は見られないので実態は不詳である。

内容は立入左京進宗継に 禁裏御倉職をそのまま申し付けるものである。
立入家は初代加賀守宗康の代より禁裏御倉職を務める家柄である。同書は 綸旨御奉書下知状 として収まるが 下知状には永正八年六月十四日の宗康について記された女房奉書が ひろはし中納言とのへ つまり守光へ宛て発行されている。
さて 戦国期京都の町組 六町 の地域構造 高橋康夫/日本建築学会論文報告集第二七四号 昭和五三年一二月 によると 宗継の兄がある事情で罷免されるまでは禁裏御倉職を務めていたのが 罷免後は弟の宗継が永禄五年 一五六二 以前から禁裏御倉職を務めていたそうだ。

また立入文書では享禄三年 一五三〇 の兼秀施行状を藤堂景元 速水正益が担当しているが その際の宛先で或る 立入幸夜叉丸 について 宗継文書の系図では宗継と同一人物であると記されている。一方で高橋氏は国光施行状にある 同名修理進替 という部分などから種々検討を行うと 修理進イコール幸夜叉丸と論じている。
この施行状は兄が許されても 禁裏御倉職には弟がそのまま務める事が適当であると禁裏が改めて示した書状と相成るだろう。

私情を挟めば この文書を見つけたのは偶然のことであった。
たまたグーグルで何か無いか調べていると 高橋康夫氏の論文に行き当たった。
この論文に出会わなければ当奉書も探すに至らず むしろこの論文を切っ掛けにして景盛から景任までを一挙に纏めようと思いついた次第である。

藤堂又五郎

言継卿記に登場する藤堂氏のなかで 出自がわかる人物は景俊と景任 そして又五郎である。

その初見は言継卿記十五の天文十九年(1550)正月二日条の 藤堂又五郎 新年の禮に訪れる という記録である。
その付記に 大澤掃部のいとこの者なり とある。
八月二十八日条には 掃部いとこ又三郎子 腹中悉本服祝着之由申 禮に來 とある。言継卿記十六の天文二十年(1551)正月二日条には 又五郎 禮に訪れる とあり 此方に 掃部いとこ と付記されている。

八月二十八日条には 掃部いとこ又三郎子 とあるが これは 掃部いとこ 又三郎子 が同一であると解釈し 又五郎は掃部いとこで又三郎の子と考えている。

大澤掃部と藤堂氏

さて 高山公実録下巻 御系譜考 に収まる 一本中原系図 は信頼できない系図である。
しかし大澤氏との関係を考えると 一定の価値は見られるのである。
前提として大澤氏が代々山科家に仕える侍である事をここに記す。

景安の項でも述べたとおり 一本中原系図にはその孫娘が大澤綱家に嫁いだと記される。
歴名土代で調べると 綱家は元の名を大澤重敏といい 永正十七年(1520)に従五位下左衛門大夫 大永六年(1526)に従五位上 享禄二年(1529)に長門守綱家へ改名し 享禄四年(1531)に正五位下と叙任されている。

同時に景安の孫娘は 大澤綱守の母だとも記されている。この綱守も歴名土代に見ることが出来る。
すなわち天文六年(1537)正月五日に従五位下検非違使如元 翌三月八日に下野權守とある。次に天文十三年(1544)正月十七日もしくは三月十九日 従五位上出雲守に任じられ 天文二十年(1551)の正月六日には正五位下 永禄二年(1559)の二月六日に従四位下へ昇進している。
言継卿記には 大澤出雲守 としても その名を見ることが出来る。
つまり出雲守綱守と重成は兄弟と相成る。
その いとこ が藤堂又五郎という事であれば 次のような系図が思い浮かぶ。大澤兄弟の母が藤堂氏によって いとこ 関係が形成されたと考えた系図である。

藤堂景盛
┗ 景勝
 ┣ 景敦
 ┃ ┗ 景俊
 ┗ 景安
  ┗ 景親
    ┣ 又三郎
    ┃ ┗ 又五郎
    ┗ 大澤綱家室
     ┣ 大澤綱守
     ┗ 大澤重成

つまり景安の孫には女子と男子がいたと考え 又三郎 又五郎を当て嵌めた。この仮説から考えると 言継卿記の記述は 信憑性に難がある 一本中原系図 を裏付けると考える事が出来る。
また いとこ の関係であれば 反対に又五郎の母が大澤氏 兄弟のおば とする系図も思い浮かぶ。

大沢重致
 ┣ 大沢氏 又三郎室
 ┃ ┗ 又五郎
 ┗ 大澤綱家
   ┣ 綱守
   ┗ 重成
※大沢重致は山科家礼記で名高い久守の子息である

さて 景安と大澤重敏 綱家 では 四十年の開きがある。その期間であれば孫娘が嫁ぐのは容易であろう。

さりとて景安の子の諱が 一本中原系図以外で見ることが出来ないのは残念だ。
例外的に 尊卑分脈 の大澤氏項には綱守の母が 式部丞中原景親女 と記される。此方も 景親 と表記される。繰り返しになるが一次史料や歴名土代には 式部丞景親 の存在を確認することは出来ない。
そうした部分で一本中原系図と尊卑分脈では その成立は何方が早いのか興味深いところではある。

藤堂次郎

家系が定かではない廣橋の侍だ。
彼は天文二十年から永禄にかけて幾度も姿を現す。その登場回数は景任を上回る。
また景任と並んでの記録も見られる点から 景盛後裔の可能性が考えられるし 時代を踏まえると景豊や景久の前歴とも考えられるが何方も定かではない。

藤堂次郎の経歴の中で特筆すべきは 禁裏御楊弓 への参加頻度だろう。むしろ登場回数が多くなる要因が 禁裏御楊弓 なのである。

孫二郎・孫三郎

天文十三年(1544)正月三十日 言継邸で開かれた 和歌會始 にて藤堂孫三郎の名が見える。
更に三月二十二日 四月二十九日の 月次和歌會 には藤堂孫二郎が参加している。孫二郎は五月三日に廣橋庭で開かれた蹴鞠 九日の月次和歌會 閏十一月二十六日の廣橋庭蹴鞠にも名を連ねている。

さて正月の和歌會に顔を出した孫三郎と以降に名が出る孫二郎は熟す役割が同一である事から 同一人物の可能性が高いと見え 誤植の疑いも考えられる。またここに出る廣橋とは兼秀と息子 国光の両人である。

藤堂孫二郎は翌天文十四年(1545)にも登場する。正月二日に万里小路黄門 惟房 の祭へ顔を出すと 五月二日 八月二十四 同二十九日には廣橋辨 国光 と共に鞠會に参加。また九月十四日には藤中亭 公卿補任によると国光の舅 高倉永家 での鞠會に廣橋辨 国光 と共に参加している。しかし以降に孫二郎の動向を見ることは出来ず ここで途切れる。

藤左衛門、與三次郎

彼らが登場するのは永禄六年(1563)の正月である。
正月六日に藤堂藤左衛門と與三次郎が禮者として訪れた事が記録されている。
この與三次郎は永禄八年(1565)正月二日にも禮者として名が見えるが この記録が 言継卿記 における藤堂氏の終見である。

藤堂景豊

歴名土代には 弘治二年(1556)十二月二十七日に従五位下に叙された 藤堂景豊 が登場する。ただその官途は不明であるが 一本中原系図 を参考にすると 能登守 であるらしい。

公室年譜略の系図には景任の息として
仕足利義輝公 弘治二年丙辰年十二月廿四日叙従五位下
と記される。

何れにせよ彼は言継卿記では見られない人物であり その詳しい動向などは不詳である。
ただ言継卿記に見られる次郎や孫二郎 孫三郎等の また又五郎等の諱が 景豊 である可能性はあるかもしれない。

言継と藤堂氏

藤堂次郎が御楊弓に勤しむ天文二十年代前半には 他にも面白い記述が見られる。

日付内容
1552天文二十一年
0819晩天冷泉に罷向 暫雑談 晩飡召寄相伴 中酒有之 藤堂兵衛大夫同相伴了
0823言継が冷泉方へ向かう際 藤堂次郎が 田楽鈴等随身 同右兵衛大夫來了
1215言継が冷泉方で雑談をしていると 藤堂兵衛大夫被呼
1554天文二十三年
0513言継が冷泉へ罷り向かうと 藤堂右兵衛大夫が來 暫し雑談

計四度 山科言継の冷泉家訪問に藤堂氏が随伴 もしくは同じタイミングに冷泉家を訪問している。冷泉家は和歌に秀でた家で 当時の当主は 冷泉為益 という人物だ。彼に関してはインターネット上に情報が少ない。むしろこの時代有名なのは 天文十八年(1549)に亡くなった冷泉為和だろう。
言継も和歌に精通した人物であるから そうした和歌に関するところで為益へ会いに行ったのだろうか。
ただ言継卿記に現れる藤堂氏の中で次郎と景任が 和歌会 に参加した記録は見られない。孫二郎や孫三郎は和歌会に参加している。
ただ景任も次郎も基礎教養として嗜んでいた可能性は考えられよう。

面白いのは天文二十一年八月二十三日の記録に藤堂次郎の 田楽鈴等随身 とある点だ。次郎が田楽鈴の一団を率いてきたように読み取れるが これは言継の依頼による物なのだろうか。
また言継の冷泉家訪問に この時期だけ景任が同道しているように見えるのは何故なのだろうか。疑問が尽きない。

言継卿記の時代の藤堂氏概覧

ここで紹介する時代を元号で示すと 天文年間から永禄初期にかけてである。
なお景元と景俊は既にそれぞれの稿で紹介しているので 諦めて年表ページかそれぞれのページで読んで欲しい。
また藤堂兵庫助に関しては別稿にて解説を行う。

用語などは此方を参照のこと。

景俊参河守
景任右兵衛
景任兵衛大夫
景任右兵衛大夫
又五郎又三郎
岐元岐阜県史資料編古代中世補遺
元長卿記裏文書
L 日付閏月
年月日動向
1533天文二年 岐元
0415藤堂兵衛大夫景任 鴨社税殿宛書状を担当
1535天文四年
0123東堂参河守 女院の葬儀について名あり
1536天文五年
0218一昨日廣橋候人東堂参河守勅許之間 同日申候了 則勅許候了
1544天文十三年
0130藤堂孫三郎 愚亭和歌會始に名あり
0322藤堂孫二郎 愚亭月次和歌會に名あり
0429藤堂孫二郎 愚亭月次和歌會に名あり
0503藤堂孫二郎 廣橋庭での蹴鞠に名あり
0509藤堂孫二郎 愚亭月次和歌會に名あり
L1126藤堂孫二郎 廣橋庭での蹴鞠に名あり
1545天文十四年
0107万里小路黄門の禮に来儀として廣橋内藤堂孫二郎の名あり
0502藤堂孫二郎 鞠の参加者に名あり
0824藤堂孫二郎 鞠會の参加者に名あり
0829藤堂孫二郎 鞠會の参加者に名あり
0914藤堂孫二郎 鞠會の参加者に名あり
1546天文十五年 歴名
0105景任 従五位下
二十一歳 藤堂右兵尉
1547天文十六年 小野
07??月行事小島太郎左衛門尉宗重 中西左衛門尉吉長から藤堂右兵衛尉宛書状
禁裏料所酒麹役朝要分請文案
1548天文十七年 十三
0103藤堂右兵衛尉 禮に訪れる
1550天文十九年 十五
0102大澤掃部いとこ藤堂又五郎 新年の禮に訪れる
0828掃部いとこ又三郎子 腹中悉本服祝着之由申 禮に來
1221藤堂右兵衛尉景任 従五位上 歴名
1551天文二十年 十六
0102掃部いとこ又五郎 禮に訪れる
0219藤堂兵衛大夫 禁裏御楊弓に御矢取として名あり
0226藤堂次郎と兵衛大夫 御矢取に名あり
1552天文二十一年 十七
0102禮者廣橋内藤堂次郎 右兵衛尉の名あり
0727布衣藤堂次郎 青侍衆藤堂兵衛大夫
0819晩天冷泉に罷向 暫雑談 晩飡召寄相伴 中酒有之 藤堂兵衛大夫同相伴了
0823冷泉へ向かう際 藤堂次郎が 田楽鈴等随身 同右兵衛大夫來了
1215冷泉方で雑談をしていると 藤堂兵衛大夫被呼
1553天文二十二年 十八
0522藤堂次郎 禁裏御楊弓にて御矢取として名あり
0610禁裏御楊弓にて 御矢取藤堂二郎一身也 とあり
1554天文二十三年 十九
0512藤堂次郎 禁裏御楊弓にて御矢取として名あり
0513言継が冷泉へ罷り向かうと 藤堂右兵衛大夫が來 暫し雑談
0514藤堂次郎 禁裏御楊弓にて御矢取として名あり
0517藤堂次郎 禁裏御楊弓にて御矢取として名あり
0525藤堂次郎 禁裏御楊弓にて御矢取として名あり
0629禁裏御楊弓にて 御庭之時 因幡法師 廣橋内 藤堂次郎両人也
0614藤堂次郎 御庭之時 に名あり
0616廣橋邸に諸公家が集まった際 青侍に藤堂右兵衛尉と藤堂次郎の名あり
0630藤堂次郎 禁裏御楊弓にて御矢取として名あり
1108藤堂次郎 禁裏御楊弓にて御矢取として名あり
1555天文二十四年 二十
0103禮者廣橋亞相内衆に藤堂次郎 兵衛大夫の名あり
0502景任 正五位下
1556弘治二年二十一
0103藤堂次郎 禮者に名あり
1227景豊 従五位下
1558永禄元年 群書版五巻補遺一
0106藤堂次郎 此方への禮者として名あり
0107藤堂右兵衛尉 禮者に名あり
0127藤堂右兵衛大夫 鞠にて名あり
1559永禄二年 補遺二
1124自廣橋入道使藤堂右兵衛大夫來 烏丸冬袍織事以下可申付之由有之
1560永禄三年 二十三
0102藤堂兵衛大夫 廣橋入道内府の使者を務める
1562永禄五年 立入
1228立入左京進宛の広橋国光施行状を景任が担当
右兵衛尉景任奉
1563永禄六年 二十四
0105藤堂右兵衛大夫 禮者に名あり
0106藤堂藤左衛門 與三次郎 禮者に名あり
1565永禄八年 二十六
0102藤堂與三次郎 禮者に名あり
15??不詳
0827藤堂兵庫助の知行が没収 御料所へ

永禄年間の景任と広橋家

永禄元年(1558)正月六日 言継を廣橋内の速水越中入道と藤堂次郎が礼者として訪れた。そしてこの記録が天文の末頃に多く見られた藤堂次郎の終見となる。
また速水越中入道とは守光公記に登場する速水正益の老後の姿だろうか。地下家伝によると正益は弘治三年(1557)九月五日に落髪したとある。

翌七日には同じ廣橋内の藤堂右兵衛尉 二十日後の二十七日には藤堂右兵衛大夫が鞠に参加している。何れも景任と思われる。

永禄二年(1559)十一月二十四日には右兵衛大夫が廣橋入道の使として言継を訪ねた。
廣橋入道とは兼秀の事だ。彼は弘治三年(1557)に広橋家として初めて内大臣に昇進し 更に同年に出家したようだ。越中入道が落髪したのも 兼秀の出家に伴うものなのかもしれない。
またこの永禄二年という年は 国光が正二位に叙されている年でもある。

藤堂氏の次なる動向は 永禄三年(1560)正月二日の条に見える。
自廣橋入道内府使有之 補歷被借用之間遣之
この使者が 藤堂兵衛大夫 とあるが景任の事だろう。廣橋入道は兼秀である。

補歷 とは 公卿補任 ならびに 歴名土代 の総称のようで 広橋家では兼秀の曾祖父兼顕 守光の祖父 の代から書写を行っている。
同じように山科言継も 公卿補任 の書写を行っている事が卿記から読み取る事が出来る。中世後期の 補任 系図 /上嶋康裕

その際に言継は兼秀から広橋家蔵の補任を借用しているので この日兵衛大夫が言継を訪ねた事もその一環だろう。兼秀は若い時分より武家伝奏の傍ら 補任をはじめとする有職故実の研究に精を出していた。言継が借りたのは単に蔵書に留まらず 兼秀が整理していた事も大きいのだろう。広橋兼秀の有職研究/渡辺滋

ところで兼秀の娘 保子は三好長慶の重臣松永久秀に再嫁している。
この縁から 兼秀は永禄十年 一五六七 八月八日に多聞山城で亡くなる。保子は永禄七年(1564)に先立っているので その死後も松永久秀と昵懇であった事がうかがえる。

その後の広橋国光

永禄八年(1565)から天正五年(1577)までの間に天下は大きく様変わりする。それぞれのトピックスや詳しいところは 既に皆が知るところなので割愛する。
広橋国光について補足すると 言継卿記では永禄八年(1565)五月十九日に発生した義輝殺害事件の直前 五月十一日条にて
申次廣橋大納言在南都之間
とある。国光は偶然にも難を逃れたようである。

南都とはやはり義弟松永久秀の居城多聞山城を指すと考えられ 兼右卿記には同年国光が多聞山に在ったと記されているようだ 松永久秀と下剋上
また 大日本史料第十編之一 永禄十一年(1568)十月十四日条には 言継卿記から国光が南都より上洛した旨を引用すると更には
國光 奈良ニ赴クコト 八年
と記され 永禄三年(1560)頃から活動の拠点を松永久秀の居城多聞山城に移していたものと推察できる。

前年永禄七年(1564)春には妹保子が亡くなっているが 同時期に久秀と国光は甲子改元を要請している事から猶も昵懇であったと見受けられる。
更に永禄十年(1567)八月五日に父兼秀は多聞山城で薨去している。どうやら広橋一家は揃って久秀の世話になっていた模様だ。

広橋国光が足利義栄政権に加わらなかったのは このように松永久秀と深い関係にあった事が大きな理由として考えられる。また同時に藤堂氏が言継卿記から姿を消した理由としても 彼らが国光に相従い南都へ赴いていた事も考えられるだろう。

永禄十一年(1568)十一月 彼は足利義昭の入京を見届けると 四十二歳でこの世を去った。
長男は日野家を継いだ輝資 次男は江戸幕府草創期に武家伝奏として苦難の日々を過ごした広橋兼勝である。
しかし それぞれに藤堂氏が侍る記録は見当たらない。