幕末地下人藤堂氏

本稿は幕末地下人藤堂氏についての解説を試みたものである。
様々調べる過程で 江戸時代後期にも広橋家の侍 藤堂氏が存在していた事がわかった。

追記 二〇二三年一月末
本記事を公開した二〇二二年 ツイートで記事を紹介すると当家の末裔に当たる方から御連絡を頂戴した。
ここでとても貴重な情報を提供戴き 更に同時期には国会図書館 次世代デジタルライブラリー の対象資料が広がり 幕末地下官人 広橋侍藤堂氏の実態が掴めるようになった。そして十二月には国会図書館デジタルコレクションの全文検索が実装され これで藤堂氏を調査する体制が整ったのである。
斯くして正月早々に調査を開始したおかげで あっという間に史料が整った。
ここに本記事のリニューアルを宣言する。

藤堂景徳(飛騨守)

熱田神宮文書 宝庫文書 には 嘉永六年(1853)十一月の 熱田宮傳奏代家諸大夫連署書状 なる書状が収められている。
この文書は 孝明天皇が黒船来航に際して各地の社に国体安隠と天下太平等を祈願する際に 伝奏代家の諸大夫から熱田宮に伝達されたものである。
時の伝奏代は広幡右大将 基家 と前大納言広橋光成であり 書状の差出人である 濱路阿波守正民 ならびに 藤堂兵庫權助景恕 の両名が光成の諸太夫となる。

この 藤堂兵庫權助景恕 という名前 私は連署書状を読むより先に意外なところでチェックをしていた。
それは速水氏を調べる過程で その家系を構築するに役だった 地下家伝 である。

事前の調査で 速水氏について同書に記されていると把握していた事もあり 索引から巻号と頁を確認する作業にて 同僚の藤堂氏も記録されているのでは無いか と思い立ち 引いてみると確かに中原の藤堂氏が記録されている事がわかった。

意気揚々と当該頁を開いた私を出迎えたのは 江戸時代の年号と初めて目にする藤堂氏の存在である。
その家系の中に 三代目として記されていたのが藤堂景恕であった。
当初 その実在性に大いに疑問を持っていたが 大日本史料データベースを調べると藤堂景恕が熱田神宮文書に また 新撰京都叢書 に景恕とその孫もしくは二代後にあたる景泰のそれぞれの叙位が記されている事がわかった。

長くなった。
この地下家伝に載る幕末地下人藤堂氏は この藤堂景徳を初代として始まる。
享保十九年(1734)十月二十日に生まれ 安永七年(1778)十月十一日に補内舎人 二十四日に正六位下飛騨守へ叙された人物である。
彼はその後天明六年(1786)十二月十九日に正六位上となり 文化元年(1804)三月二十日に没したらしい。

景徳の子息

地下家伝にて全文検索を用いると 興味深い記述に巡り会う。
どうやら水口 身人部氏の 清嘩 なる人物の跡を継いだ 清廣 なる人物は 藤堂飛騨守二男 であるらしい。彼には元々 清體 という子息があったが 彼は文化十二年(1815)四月四日に十八歳で亡くなった為に 養子として景徳の子息であった 清廣 が継いだとようだ。地下家伝 中から

ここで地下家伝に記載される清廣の略歴を見てみよう。
寛政九年(1797)二月十三日に生まれ 文政二年 1819 十一月十九日に右番長となり 二十二歳 天保十三年四月十四日に従六位下と右府生に叙され 四十六歳 嘉永二年(1849)十二月十九日に従六位上へ叙されている 五十三歳。そうなると彼は景徳が六十四歳のときの子ということになる。亡くなった水口清體は(1798)生まれと逆算されるため 清廣が一つ年上となろう。清廣が誕生した当時既に景員 左兵衛 刑部少 が養子になっていると思われる為 そこで跡継ぎが亡くなった水口家へ養子に出され家を継いだことになるのだろうか。そして 景員が養子に入ったことを踏まえると 景徳も水口清嘩と同様に長男を亡くしていたものと想像ができる。
前後するがスウェン ホルスト氏に依れば この家は随身を務める家柄であることから考えると 広橋家の随身を務めた関係で藤堂家とも親しくしていたのだろうか。こればかりは定かでは無い。
そして彼の子息 清譽は文政五年(1822)に生まれ 天保五年(1834)四月二十五日に十三歳で 右番長 に叙された旨も記載されている。

詳しくもないので多くは触れないが この 身人部 むとべ と読むらしい。また清譽が就いた 番長 という位については スウェン ホルスト氏が 近世近衛府番長の発展 福岡女子大学国際文理学部紀要国際社会研究二〇一三年第二号 にて論考を行っている。
スウェン ホルスト氏によると 清廣が入った家は身人部氏の 水口家 という近衛府官人の家柄らしく また清體の没後清廣が養子に入るまで六年の月日が流れたそうだ。そうなると家を再興した形と見るべきだろうか。
また清廣は地下家伝にもあるように文政二年(1819)十一月十九日に 近衛 番長 へ叙されているが 天保十三年(1842)三月二十日 四十六歳の砌に 今年廿四ケ年 とて従六位下への昇進を申請している。

藤堂景徳の動向

さて 国会図書館デジタルコレクション にて 藤堂飛騨守 を調べると 幾つかの資料に行き当たる。

安永八年(1779)十一月二十五日・以藤堂飛騨守為使(八槐記・帝室制度史)

帝室制度史 という資料によれば 安永八年(1779)の十一月二十五日に醍醐兼潔 経胤に改名 や広橋兼胤 勝胤に改名 ら二十数名の公家が改名する際に 以藤堂飛騨守為使 として働いたそうだ。その出典は 八槐記 らしく 史料編纂所の 広橋兼胤公武御用日記 解説記事によれば兼胤の記録に 八槐御記公武御用部 との書名があるらしい。
そうなれば同資料が引用した史料は 景徳の主である広橋兼胤の記録である可能性が高い。

この日の改名は十月二十九日に崩御した後桃園天皇の跡 皇位を継承した光格天皇が その親王宣下に先立って当初予定した 師仁 から 兼仁 に変更した為に発生した一件である。
つまり 師仁 が花山天皇の 師貞 に触犯 また 諸人 死人 に音が通じることから 別候補の 兼仁 に急遽変更されたのである。
この変更により広橋兼胤をはじめとする の字を有する堂上公家衆 地下官人ら四十三名は 避諱 による改名を余儀なくされたのである。林大樹 近世公家社会における避諱と改名

天明八年(1788)・宗孝日記に登場

前後するが 白山比咩神社叢書 には 藤堂飛彈守 という誤植文字が見えた。そこで この誤植を調べてみると 日本料理法大全 続 に記録が見られた。
つまり 天明八年の 宗孝日記 から高橋家に出入りした人々として 藤堂飛彈守 が登場する。
この 宗孝 なる人物は御厨子所預 今でいうところの宮中料理人を代々務めた家柄の人物だそうだ。
代々宮仕えの広橋家の侍である景徳と関わりがあるのは自然な事だろう。

享和二年(1802)・東本願寺から働きかけを受ける(近世の東本願寺)

次に 近世の東本願寺 という資料を見てみたい。
景徳が見られるのは 宗祖聖人の大師号の願 という章で 享和二年(1802)に起きた親鸞聖人に大師号勅許を請願する運動について説明した論考である。
東本願寺は勅許のために近衛家の齋藤宮内少輔 鷹司関白の高橋兵庫頭 広橋家の藤堂飛騨守といった各有力公家の雑掌に働きかけていたらしい。
結局この大師号勅許請願運動は失敗に終わり 親鸞聖人は明治になってようやく大師号を得たのである。

某年・『白山比咩神社叢書』に見える景徳

これは白山本宮の史料集であるが 一五惣長吏及右典五月十四日状 という速水長門守 河端安芸守宛書状の副状 又雑掌へ の宛名にて 近藤大隅守と並び 藤堂飛彈守 が見える。
これは誤植の類であろうが 紛れもなく景徳を指すものだ。
その年代は定かでは無いが 安永七年(1778)十月十一日から文化元年(1804)の書状となるだろう。

藤堂景員(左兵衛・刑部少)

景徳の跡を継いだのは景員なる人物で 地下家伝によると養子であるらしい。
彼は明和五年(1768)三月十二日に生まれたようだが 実の親は定かでは無い。
寛政四年(1792)十二月十九日に正六位下 左兵衛少に任じられているところをみると この頃には景徳の養子となったであろうか。

その後 享和元年(1801)二月二十三日には正六位上 養父の没後五年の文化六年(1809)四月一日には内舎人 文化十一年(1814)十二月十九日に刑部少と順調に歩んでいるが なぜか文化十四年(1817)三月二十二日に 内舎人終了 と記されている。これは一体何があったのだろうか。
その一年後 文政元年(1818)八月十日に没したとあるから 病を得て引退したと判断できようか。

景員の動向

残念ながら景員の記録はわずか一件で 残念ながら 刑部少 時代の記録は見ることができなかった。それでもわずかな一件というのがなかなか面白い内容であるから ここで紹介してみたい。

文化八年(1811)・景員、白澤圖に書き物を添える(日本随筆大成・筠庭雜錄)

藤堂左兵衛で調べてみると 日本随筆大成 第二期 第四巻 という資料に行き当たる。
景員が見られるのは 筠庭雜錄 という国学者 喜多村信節が記した随筆の中にある 白澤の圖 なる一節だ。
そもそも白澤というのは 古来中国に伝わる想像上の聖獣で その姿を描いた圖は江戸時代には魔除けとして用いられたそうだ。変わったところでいえばアニメ 鬼灯の冷徹 にも登場しており むしろ私はアニメを見ていたので理解は早かった。

これは文化九年(1812)二月に石井伊左衛門なる人物の書付によるものである。
その内容は 文化七年(1810)十二月に品川宿のある旅館で休んだ御勅使広橋大納言が 白澤圖 を賞し 禁中清涼殿鬼之間にある 白澤圖 と比べるためだろうか 京都に 御借持 したという。
品川に戻ってきたのは同年 翌年の誤植だろう 五月のことで 公儀御名代宮原弾正大弼 が持って帰ってきた。
その際に広橋は 御讃御歌 を付けていたようである。

不盡能嶺のとはねどそらにみられけり雲よりうへにみするしらゆき

そして 右懸物 へは 雑掌藤堂左兵衛尉殿 野村将曹殿の 御書物 が差し添えられ 旅館に対し 御懇意 と文言を預けたらしい。旅館はその光栄からか 広橋家よりの書物を表具に仕立てたそうだ。
同年には別の勅使 六条大納言 が図を再び京へ借りていったそうだ。

とにもかくにも不思議な話であるが ここから人物を比定していきたい。
まず 広橋大納言 であるが これは勝胤 兼胤 の子 伊光である。
次に 宮原弾正大弼 とは高家旗本 宮原義周と思われる。この宮原家は鎌倉公方や古河公方の末裔で 初代義照の祖父 足利晴直は上杉家の家督を継いで関東管領に就任していた時期もあった由緒正しき家柄である。

そして 雑掌藤堂左兵衛尉殿 とは 紛うことなく 景員 を指す。
実際に 地下家伝 で見たように この出来事の二十年前に正六位下左兵衛少に叙されている。更に養父景徳は六年ほど前の文化元年(1804)に亡くなって居ることから この時代の広橋家に藤堂氏は景員以外には存在し得ないようにも感じられる。

野村将曹 については 江見啓斎翁日誌 第三 という資料に 文化九年(1812)に 廣橋様御内野村将曹殿 が登場するが 興味深いのは 実上賀茂社中ニ野村摂津守ト云隠居知音也 と記されている点だ。
この 江見啓斎翁 というのは神職 国学者で本居宣長に学んだ人物であるそうだ。
他に 大日本維新史料 第三編 第四 では安政五年(1858)四月一日に 廣橋様書記方 として 築山主税 野村将曹 の名前が見られる。小倉藩京都留守居日記
更に 古事類苑 官位部二十家司 には七年後の 慶応元年都仁志 を出典として 廣橋権中納言胤保卿 雑掌築山左膳 御用人野村将曹 と記述がある。
ただ文化年間の野村と 安政 慶応年間の野村では時代に開きがあるため同一人物であるかは定かでは無い。しかし広橋家に野村氏が仕えていたのは確かなようである。

藤堂景恕

地下家伝によれば 兵庫權助景恕もまた養子として景員の跡を継ぎ 文政から安政の約四十年間を駆け抜けた人物である。諱の読みは かげなお かげよし かげただ かげひろ 等考えられるが これはよくわからなかった。
その代表的な活動が熱田神宮宛の書状に遺るが この広橋光成の諸大夫は如何なる足跡を歩んできたのだろうか。

彼が生まれたのは寛政五年(1793)九月二十二日の事である。
文政元年(1818)十月二十五日 亡くなった景員と代わるようにして正六位下内舎人となった。

彼が特異的であるのが この家で唯一出世を重ねた点だ。
同年十二月十九日に右衛門権大尉 文政六年(1823)十二月十九日に左近衛将監 文政九年(1826)四月七日に正六位上の内舎人 文政十二年(1829)十月十二日に左馬大允である。
天保十一年(1840)三月十八日にも 内舎人 とあるが これは何らかの事情で内舎人から外れていたのだろうか。さすればこの日に内舎人へ復帰を果たしたと考えられよう。

冒頭の書状にある 兵庫権助 は天保十五年(1844)十月五日に得たようである。また書状から四年後の安政四年(1857)十一月二日には従五位下へと昇進している。
然してその没年は記されず 以後の動向は定かではない。

景恕の動向

今回調査したなかで 景恕が最も記録が遺る人物であった。
特に景恕が生きた頃というのは まさに時代が移り変わる瞬間であり 彼は広橋家の侍 家司として時代の目撃者となったのである。

文政十二年(1829)九月十八日・東本願寺側との交渉に登場?

この出典は 東本願寺史料 自文化 14 年至天保 5 達如上人時代 上檀間日記 という史料のようだ。

九月十七日条の 後櫻町院様御忌御廟拝伺 つまり来月 十月 に執り行われる 後櫻町院様御法事 に関するもので 交渉の様子を記録したらしい。

被成候處 何等之御子細も不被爲在候間 早々御差出被成候様との御返答被爲在之 松井権之丞義ハ廣橋家内藤堂左近将監ニ致出会 傳奏方月番之處承合 廣橋家月番ニ候ハヽ 右同人に委曲訳合相咄候様申付 則権之丞左近将監方に罷越候

まず 後櫻町院 とは この十六年前 文化十年(1813)に崩御した後桜町天皇 太上天皇 である。最後の女性天皇として名高い彼女の法事に関して 東本願寺側と広橋光成と何らかのやり取りがあったのだろうか。
ともあれ 左近将監 時代の景恕が記録された貴重な史料である。

天保三年(1832)十月七日・東本願寺側との交渉に登場

これも同じ東本願寺史料に依るもので 盛化門院様御忌御廟拝の伺 に関するものだ。
来る十一日 十二日に行われる 盛化門院様五十回御忌御法事 について執奏家や伝奏家と東本願寺側のやりとりに

猶又藤堂左馬大充へも寺田內匠ゟ及問合候處 彌御法事十一日十二日ニ相違無之旨申越候

と左馬大允となった景恕が登場する。
ところで 盛化門院様 というのは 後桜町天皇の甥 後桃園天皇の女御 近衛維子 である。彼女は安永八年(1779)に後桃園天皇との間に娘 光格天皇の皇后 を生むが 同年に後桃園天皇に先立たれると 天明三年(1783)に二十四歳の若さで崩御した。

天保十二年(1841)閏正月二十七日・騎馬に乗る藤堂景恕

出典は 国史叢書 所収の 浮世の有様 なる見聞記である。

この中で閏正月二十七日条に 山陵使発 遣行列之書 が収まるが 藤堂左馬大老中原景恕騎馬 景恕が行列に入っていることが記載されている。左馬大老 というのは誤植であろう 正しくは 左馬大允 となる。
広橋家からは広橋胤保が 侍従胤保 とて記載される。興味深いのは 関白殿御随身 水口右番長 身人部 清廣 景徳の次男水口清廣の名前が見られる点だ。
ちなみに両者も騎馬らしい。

天保十五年(1844)二月・幕府方への請取状に署名

これは 幕藩制国家における武家伝奏の機能 / 大屋敷佳子 論集きんせい (7)1982 近世史研究会 論集きんせい 編集委員会 編 という論文の注釈に引用された史料である。
宛名は 神尾安太郎殿 武嶋安左衛門殿 杉藤蔵殿 差出人は坊城右中弁 俊克 家の高須縫殿 広橋中納言 光成 家の藤堂左馬大允である。高須 景恕共に押印しているようだ。
大屋敷氏によると杉藤蔵らは蔵奉行ということで これは幕府方への請取状すなわち 伝奏 の仕事の一例であろう。

某年某日・春日祭に関して広橋胤保の内舎人として記載される

春日神社文書第二 一二〇七 春日祭役者交名案 という史料に 廣橋侍従胤保 内舎人藤堂左馬大允中原景恕 として記載されている。
時期は不明だが 景恕が 左馬大允 であった文政十二年(1829)十月十二日から天保十五年(1844)十月五日までだろう。ただ下で述べる事例もあるから それ以降であるかも知れない

弘化三年(1846)十月十四日・署名藤堂兵庫権助

大日本維新史料第一編三 の弘化三年(1846)十月十四日条に景恕を見ることができる。
その出典は 二條往来 内容は勅使が江戸へ下向する間に大納言広橋光成と中納言橋本実久が伝奏の事務を務める旨で 広橋家から藤堂兵庫権助と濱路右京進 橋本家から和田右兵衛大尉 伊藤采女が署名している。

弘化三年(1846)十一月十七日・使者に名を連ねる

同じく 大日本維新史料第一編三 から 勅使徳大寺実堅 同坊城俊明 江戸ヨリ帰京。是日 参内ス という項目である。
出典は徳大事実堅の記録 御用日次 である。
注目すべきは子息の大和介景孝と共に働きが記録されている点 また当時既に 兵庫権助 であった筈の景恕が 左馬大允 と表記揺れが発生している点だ。

唯今 従関東被致帰京候 仍る御届被仰進候也
一三条大納言殿              取次 太田左内
一廣橋大納言殿              同  藤堂大和介

従関東無御滞御帰京 目出度被存候 御歓 且昨日大津駅被致止宿候ニ付 御本陣に辨殿 坊城俊克 御出被進候 且又先刻を為御歓御使被進候 右御挨拶茂 仰進候事
               右御使 藤田縫殿
一三条大納言殿        御使  柳田加賀介
一廣橋大納言殿        同   藤堂左馬大允

弘化四年(1847)十二月十九日・書状発給

石清水八幡宮史史料第八輯 には景恕の書状が収録されている。
これは弘化四年(1847)十二月十九日に石清水八幡宮の徳大寺実堅 坊城俊明へ宛てた書状で 勅使で大納言 三条実万の石清水社訪問を通達したものだ。
その署名は 廣橋大納言殿内 藤堂兵庫権助 である。

熱田神宮文書 宝庫文書 には 嘉永六年(1853)十一月の 熱田宮傳奏代家諸大夫連署書状 なる書状が収められている。
この文書は 孝明天皇が黒船来航に際して各地の社に国体安隠と天下太平等を祈願する際に 伝奏代家の諸大夫から熱田宮に伝達されたものである。
この伝奏代が前大納言広橋光成であり 書状の差出人である 濱路阿波守正民 ならびに 藤堂兵庫權助景恕 の両名が光成の諸太夫となる。

嘉永六年(1853)十一月・熱田宮傳奏代家諸大夫連署書状

先に紹介した書状である。
熱田神宮文書 宝庫文書 の解説に依れば これは二十三日に諸国へ発給されたと考えられているようだ。確かに次の諏訪社宛は二十三日である。
この文書は 孝明天皇が黒船来航に際して各地の社に国体安隠と天下太平等を祈願する際に 伝奏代家の諸大夫から熱田宮に伝達されたもので 時の伝奏代廣幡右大将 基家 と前大納言広橋光成の諸大夫が署名をしている。
廣幡の諸大夫は岸本筑前 濱路阿波守正民 ならびに 藤堂兵庫權助景恕 の両名が光成の諸太夫となる。

嘉永六年(1853)十一月二十三日・広橋家諸大夫署名

中洲村史 には同じ嘉永六年(1853)年の十一月二十三日に発給された異国船退治の御教書と別紙が収録されている。これは諏訪社へ祈祷を命じるものであるが 熱田神宮宛のものとは違い 権右中弁藤長順 の名前が見られる。これは 葉室長順 を指す。景恕の名は別紙にて広幡家の岸本筑前守 毛利采女佑と共に

広橋殿家
藤堂兵庫守権助浜路阿波守

と署名されている。

安政二年(1855)二月・景恕、水無神社の笏木献上に関わる

宮村史 では飛騨一宮水無神社に纏わる記述の中に景恕を見ることができる。
それは安政二年(1855)二月のことである。村史によれば水無神社は 笏木 を朝廷へ献上することが多々あり 嘉永六年(1853)にも献上を行っていたが 翌安政元年(1854)四月に御所が炎上したことを受け神社側は二月に再びの献上を 大宮司大江景審より広橋大納言家御内の二名に願上した。
その二名こそ 藤堂兵庫権助 浜隆阿波守 である。後者は 濱路 の事であることは間違いないだろう。

安政五年(1858)正月・羽仁彦右衛門殿宛東坊城家広橋家諸大夫連署請取状に名を連ねる

鹿児島県史玉里島津家史料 によれば安政五年(1858)正月に出された羽仁彦右衛門殿宛の書状に 藤堂兵庫権助 の名前が見られる。
これは内容を見るに 請取状 であり 東坊城前大納言殿家の宮崎造酒 三上信濃 広橋前大納言殿家の浜路阿波守 藤堂兵庫権助による連署である。また各自名前の下には とあることから 印判が用いられたようでもある。
なお日付は見られないために不明である。

安政五年(1858)四月十五日・景恕、面会の申し出を受ける

大日本維新史料第三編第六 には安政五年(1858)四月十五日条で景恕の名を見ることができる。
出典は 土山武宗和宮御用掛記 という史料で 伝奏広橋殿 へ用があるところに 雑掌藤堂兵庫権助に面会の旨を届け出たようだ。

安政五年(1858)十二月四日・景恕、家茂宣下御礼を賜る

国史大系第五十巻新訂増補 では 昭徳院殿御実紀 を出典として同年十二月四日条にて 濱路阿波守と共に 廣橋前大納言家老 の藤堂兵庫権助が 他の公家関係者等と共に銀十枚と時服二を賜った記録が見られる。
これは新将軍家茂の宣下に関わるもので その御礼として賜ったものだ。例えば景恕の主たる前大納言広橋光成は 銀五百枚 綿三百把 御官位ニ付 銀百枚 綿百把 御養君ニ付 銀百枚 を賜っている。

安政五年(1858)十二月十九日・景恕、取り次ぐ

所司代日記二巻上巻 では第六編に見ることができる。
これは安政五年(1858)十一月から十二月までの記録であるが 十二月十九日条に勅使に関して 一同取次引連出藤堂兵庫権助殿北帯刀殿 と見られる。これも将軍宣下に関わるものであるのだろうか。

安政六年(1859)三月二十五日・景恕、賜る

更に 国史大系第五十巻新訂増補 昭徳院殿御実紀 の翌安政六年(1859)三月二十一日条には年頭祝儀が執り行われた様子が記録されている。例によって公方から公家関係者等に至るまでに下賜が行われ 広橋光成と中納言坊城俊克は 自分之御礼 とて 御太刀目録と紗綾五巻を賜っている。
景恕と濱路は他の使者たちと共に 二十五日になってから銀二十枚と時服ニを賜っている。その記述は 廣橋前大納言家老 藤堂兵庫権頭 濱路阿波守 である。

安政七年(1860)正月・祖式宗助宛坊城家広橋家諸大夫連署請取状に名を連ねる

こちらも安政五年正月と同じ 鹿児島県史玉里島津家史料 を出典とする。内容も似通っており請取状と判断した。
坊城家からは浅野と山科 広橋家からは野村 藤堂兵庫権助が名を連ねる。それぞれは二月の請取状に見られる浅野主膳 山科筑前守 野村主馬である。

安政七年(1860)二月・景恕、判を押す

舊幕府三 /幕府雑誌社 には 安政七年(1860)二月の請取状に印を押す 藤堂兵庫権助 が見える。
これは幕府側と思しき 左谷荘左衛門 木村多宮 に対し 坊城中納言の山科筑前守 浅野主膳 広橋家の同僚野村主馬と共に判を押したものだ。

万延元年(1860)八月二十三日・景恕、有栖川宮熾仁親王が和宮との婚儀を延期した旨を広橋光成へ伝える

熾仁親王行実巻五 は有栖川宮熾仁親王の記録であるが 万延元年(1860)八月二十三日条に景恕が登場する。
そもそも熾仁親王という御仁は 後に家茂に嫁ぐ孝明天皇の妹 和宮内親王の婚約者であった。
この条文は親王が和宮内親王との婚儀を延期したことに纏わるもので この旨を二十三日に武家伝奏広橋前大納言 坊城中納言 俊克 へ伝えたものだ。
その旨は 有栖川宮御内 藤木木工頭 から 廣橋前大納言様 坊城中納言様 御雑掌中 への書状 同記所収 に認められ 光成の雑掌である景恕へと伝達された。この時の様子を同記は次のように述べる。

雑掌藤堂兵庫権助へ面会 御口上申延へ書付差出候處 前大納言殿参内中之間 兵庫権助早速禁中へ参リ申入候處 落手之上猶従是関白殿へ参向可申伺候間 夫迄之處木工頭待居様被命候由 兵庫権助帰来リ申述 前大納言殿帰亭之上木工頭へ出会ニテ唯今殿下へ申伺候處 則御書付御添削被為在候間 猶御添削之通リ被書改 今日中ニ月番へ被差出候様被申之

このように 親王から藤木木工頭 藤木木工頭から景恕 景恕から広橋光成といった順序を踏むのは 凡そ中世から何ら変わりない姿だ。
また添削を行った 殿下 というのは 時の関白 九条尚忠であろうか。
歴史的事件 出来事である 和宮降嫁 の最中に 藤堂景恕の姿があったというのは非常に興味深いが あくまでも彼は己の職責を果たしただけであった。

万延元年(1860)十月十四日・坊城家雑掌と共に知恩院浄福寺を訪ねる

知恩院史 の参考資料章には同年十月十四日に 広橋殿 光成 の雑掌 藤堂兵庫と坊城殿 中納言 俊克か の雑掌 山科筑後介が訪問していた様子が見える。
これは 来酉年勅使御願浄福寺参上 に関わるようで 何レモ参内中 と広橋光成と坊城俊克が参内中ということで雑掌の二人が遣われ 御預置也 したようだ。

慶応三年(1867)四月七日・景恕、兵庫開港を巡る幕府と朝廷の対立に関わる

中山忠能日記第三 には慶応三年(1867)八月二十三日条に 四月七日付藤堂兵庫一件勅答写四十一出ス と見られる。
何故八月の条に四月の内容が紛れ込むのか疑問であるが 便宜上同年中と考える。さてはて どうも安政五年(1858)以来の兵庫港の開港を巡る幕府と朝廷の対立過程で 伝奏に仕える景恕の働きが記録されていたように感じられる。
結局は将軍慶喜が強く勅許を働きかけたことにより 十二月七日に兵庫 神戸 は開港したのである。

某年・白山本宮の史料に見える景恕

白山比咩神社叢書第六輯 は白山本宮 加賀一ノ宮の名で親しまれる同社の史料集だ。
既に景徳の項で触れているが どうやら景恕も登場するらしい。
らしい としたのは多くの書状の年次が不詳で推定に困難が多い。

まず 三二 平田覚書七月九日 にて

  六分五厘包料
一金百疋               藤堂へ認物并萬事心添預置挨拶 以下略

藤堂 が見られる。ご多分に漏れず年次が不詳であり 具体的に景恕であるか判断は難しいが 便宜上本項に留め置く。

次に 三三 平田彦三郎八月十四日状 であるが同日付の書状では無く 十月三日付の 白山社惣長吏宛平田勘解由書状 に見られる。

八月十四日御認之御紙面御別紙夫々拝見仕
一廣橋家之義御書中通り承知仕候以来御両殿様與 国会図書館限定調査 調可申候
一藤堂兵庫権助野村主馬頭以来無名之義も承知 以下略

具体的に 藤堂兵庫権助 の名が見られる。

四八 白光院澄遙三月二十四日状 は白山社の惣長吏 澄遙の書状で 河端弾正大忠 速水豊後守 へ宛てられたものだ。そして同文が 藤堂兵庫権助 濱路阿波守へも出されたようである。

何れも天保十五年(1844)以降の書状だろう。

藤堂景孝

景恕の後裔として歴名土代に記される人物である。
文政三年(1820)の生まれで 景恕の実子だ。

彼は幼いながら文政九年(1826)十二月十九日には正六位下の内舎人に任ぜられ 翌文政十年(1827)六月十日には大和介となる。
彼はその後 天保六年(1835)九月二八日に従六位上 十六歳と付記 嘉永二年(1849)七月五日に刑部少となっている。
記録はここで途絶えている。

景孝の動向

景孝の動向は二件だ。

20240724 に一件追加

天保六年(1835)二月九日・藤堂内舎人大和介口上書

小槻以寧という公家の記録 以寧卿記 文化元~天保六 草稿本 に見える記録である。
史料編纂所 DB Hi-CAT Plus というサービスで全 28 冊の 27 函号 F9-138* その 4 コマめ(00003744)にて見ることが出来る。
藤堂内舎人大和介口上書 と銘打たれているが どうやら 養祖母昨夜死去仕 と読める為に現代風に言えば忌引きの申請書といったところか。
この年であれば数えで十六歳の砌となるが まだ正六位下時代の記録で貴重だ。
養祖母 というのは つまり父景恕の養母となる。恐らくは景員の妻なのだろう。どうやら藤堂景員の妻とみられる女性が この年の二月八日に亡くなったらしい。

ところで 3 コマは 2 14 日右大史 山名 亮功服喪口上書で 彼は外祖母が亡くなったとある。一見すると景孝と親戚か?と思ったが亮功の外祖母は 今日死去 とあるから 見当違いのようである。

20240724 加筆。

弘化三年(1846)十一月十七日・大和介、取次に名を連ねる

これは 大日本維新史料第一編三 で父 景恕の動向を調べていると 偶然にも景孝も記録されていたものである。

なんでも 勅使徳大寺実堅 同坊城俊明 江戸ヨリ帰京。是日 参内ス に関わるものであるが 詳しいところはよくわからない。興味深いのは父景恕と共に働きが記録されているところであろうか。親子で記録されている例は覚えが無く 貴重である。
出典は徳大事実堅の記録 御用日次 三条大納言は三条実万 廣橋大納言は御存知光成である。

唯今 従関東被致帰京候 仍る御届被仰進候也
一三条大納言殿              取次 太田左内
一廣橋大納言殿              同  藤堂大和介

従関東無御滞御帰京 目出度被存候 御歓 且昨日大津駅被致止宿候ニ付 御本陣に辨殿 坊城俊克 御出被進候 且又先刻を為御歓御使被進候 右御挨拶茂 仰進候事
               右御使 藤田縫殿
一三条大納言殿        御使  柳田加賀介
一廣橋大納言殿        同   藤堂左馬大允
※景恕を左馬大允とするが この時代は既に兵庫権助である。

弘化四年(1847)八月十六日・大和介、申し入れる

弘化四年(1847)八月十五日頃 石清水八幡宮で放生会が行われた。このなかで八月十六日に 廣橋大納言 日野辨 東坊城宰相 鷲尾少将が帰京することに関して 藤堂大和介 が申し入れ届けたようだ。これは 大日本維新史料第一編七 の八月十五日条 議奏加勢野宮定祥通達 が出典となる。

藤堂景泰

彼は景孝の子として嘉永元年(1848)に生まれた。
嘉永七年(1854)二月十一日に七歳で正六位下で内舎人となった。

その後の景泰はどうなったのか。
幸いにも国会図書館デジタルライブラリーにて 彼の動向を知ることが出来る。
どうやら明治維新の後に算術を武器に公務員として明治政府 大蔵省に勤めていたようだ。

景泰の動向

次世代デジタルライブラリーにて調べると 明治八年(1875)の陸軍省官員録 職員録 に士族として名を連ねる。
翌明治九年(1876)に刊行された 改正洋算例題 には 陸軍兵學中助教藤堂景泰 とあるため 算学に長けた人物である事がわかる。
明治十一年(1878)には 商用算術 刊行し これは 国会図書館デジタルコレクション で閲覧することが出来る。

転機が訪れたのは同年のようで 翌明治十二年(1879)の 大蔵省職員録 に彼の名前を見ることが出来る。どうやら彼は得意の算術を活かし 陸軍兵学校から大蔵省へ転じたようだ。
大蔵省における景泰の働きは幾つもの史料で見ることが出来る。

まず明治十五年(1882)十二月二十四日には沖縄へ渡る。出典は 沖縄県史料近代四 上杉県令沖縄関係資料 から 沖縄来状綴 沖縄日誌 によるもので 肩書きは 大蔵省五等属 赤龍丸 で同僚の六等属 塚原勇之 と共に沖縄へ渡ったようだ。
二十九日には饗応されたようで

此夜ハ過般渡来セラレシ収税院藤堂塚原ノ二氏御饗応深夜迄酒興御談話頗ル盛宴ニテアリキと記されている。

景泰が沖縄を訪ねたのは職務であり 翌明治十六年(1883)二月十五日条 沖縄県史第十一巻 租税局出張大蔵五等属藤堂景泰へ十四年分貢納 とある。
さらに五月三十一日条には 県から景泰に対し 一四年分租税預リ残品 が送附されている旨が記されている。

他に景泰は宮崎県の収税長も歴任していたことが 宮崎県五十年史 から読み取れるが 具体的な時期は 明治十七年六月四日より 同二十九年十一月一日に至る とあるだけで定かでは無い。一方で明治二十八年(1895) 明治二十九年(1896)の 青森県職員録 には収税部長として藤堂景泰の名を見ることが出来る。明治二十八年(1895)までに大蔵省から出向という形で赴任したのだろう。

そのようななかで明治二十九年(1896)十二月十九日には 東宮沼津行啓 に供奉することを仰せつけられ 二十一日には従五位に叙されている。官報 二十二日付 それまでは正六位勲六等
明治三十一年(1898)に刊行された 大阪繁昌誌 の下巻には 築港事務員として藤堂景泰の名が見える。同年の 大阪府職員録 にも名前が見えるため この頃には大蔵省から大阪府へ転じていたらしい。

以降景泰の動向は定かでは無い。しかしながら 広橋家の諸大夫が明治維新後に得意であったと思しき算術を武器に明治政府で働いていた様子は興味深い。
景泰が得意とした算術は 元々藤堂氏が一種家業のように得意としていたのか 景泰個人が得意であったのかも 興味深いところである。

景泰の没年と西原正

二〇二三年八月二十二日
景泰の没年に関して 孫の誠氏が自分史にて次のように記しておられた。

強いて人の死を考えてみると 弟が生まれて間もなく母方の祖父が亡くなり そのために京都に出かける父母の見送りに新宿二丁目の電車通りまで行った記憶はある。しかし公家武士であったというその祖父に対しては 藤堂という名前を聴いただけで京都の偉いおそろしい人という印象で顔は知らず全然親しさを持たないのだからそれが動機になったとは考え難い わだち 2 自意識の芽生え

わだち 3 小さな自尊心 には誠氏が小学校に入学した大正五年のエピソードも述べられているが その年の夏休みに 母のひざには二歳の誕生日前の弟 とある。更にわだち 4 ふれあい には 弟が生まれる少し前のことだから大正三年夏 との記述もあり 誠氏の弟 西原正が大正三年(1914)の夏以降に生まれたことが推測される。そうなると景泰が没したのも大正三年(1914)と相成る。計算すると景泰は六十六歳でその生涯を終えたようだ。
4 号には西原正氏のその後も述べられている。彼は学生時代にバスケットボールに打ち込み 応召の後に北満の小隊 ハイラル小倉部隊原田隊 へ配属 どうやら昭和十四年(1939)に発生した ノモンハン事件 で戦死したとのことである。最期の言葉は おれの血潮で国境を守れ と当時朝日新聞には掲載されたようだが 戦後に誠氏が友人より聞いた話に依れば ~敵をそ撃中突然の沈黙 弟さんは鉄かぶとをまともに射抜かれていたそうである という最期であったらしい。ノモンハンの塹壕にて二十五歳の若すぎる死であった。

景泰の家族

今回調査を行うと 景泰の子どもについても蒐集する事が出来た。

長男景吉は朝鮮総督府で判事を務め 長女芳子は陸軍中将 有田恕 人物と其勢力 大正四年 三女 道は陸軍中将 西原茂太郎に嫁いでいる。日本人事名鑑昭和九年版下巻
有田 西原については 一九二四年に於ける大日本人物史 : 御成婚紀念復興之魁 大正十三年 にも同様の旨が記されている。

この中で有田恕の士官学校時代の同期には有名人物が多い。例えば出世頭の田中義一は後に首相を務め 満州某重大事件 の際に昭和天皇に叱責され職を辞したエピソードは有名だろう。また岸田庄蔵は孫が有名で 童話作家岸田吟子 谷川俊太郎の先妻 女優岸田今日子姉妹 俳優岸田森 樹木希林の前夫 といった具合である。

ある公家侍の末裔の一生涯ー藤堂景吉ー

景泰の長男景吉は明治十六年(1883)六月十六日に生まれという。これは 昭和十三年(1938)十二月十四日付官報 同月二日条 が出典で 大阪区裁判所で行われた 第二三一一号被相続人亡藤堂景吉ノ財産管理人選任事件ニ付 の項目に記載されたものだ。

景吉は旧制第六高校 今の岡山大学 に在籍したらしいことが 六高同窓会 が出版した 同窓会員名簿 昭和十七年度 などから窺える。明治三十九年(1906)の 第四回卒業生 の名簿 一部乙にて 藤堂景吉 東京法 弁護士 大阪市住吉区天王寺町一九六九 と記されている。
また 第六高等学校一覧 によれば 卒業したのは明治三十九年(1906)の七月二日とあり 現代とは卒業の時期が異なることを知る。
在学中の彼は明治三十八年(1905)度 発足して三年目の庭球部にて委員を務め 重鎮 の一人に数えられたらしい。旧制高等学校物語 第六 六稜外史-六高篇

さて六高を卒業した景吉は 東京法 へ進む。すなわち東京帝国大学の法律学科である。同大学の卒業生氏名録には 明治四十三年(1910)十月卒業に景吉の名を見ることができる。

卒業した彼は朝鮮へ渡り 朝鮮総督府 仁川区裁判所の判事となった。朝鮮紳士録 明治四十四年 によれば 予審掛 であったそうだ。また職に就く際に 従七位 に叙されたらしい。明治四十四年職員録
五年後の大正五年(1916)職員録によれば 景吉は正七位となり 大邱地方法院で判事を務めている。
このように見ると順調に判事として歩んでいるように思われるが その最中に景吉は朝鮮総督府を辞した。同年十月十八日付の官報にある 依願免本官 の項に依れば 十月十八日のことである。

役人を辞した景吉は大正六年(1917)五月十九日に弁護士となったと 同月二十四日付の官報に記されている。景吉は大阪地方裁判所検事局に請求し 弁護士名簿に登録したようだ。
大阪で弁護士として暮らしていたことは電話名簿からも伺い知ることができる。営業別電話名簿 大正十一年用 大阪 神戸 大阪府管内及尼崎 芦屋 御影 西ノ宮

当時の大阪は 大大阪 と呼ばれたほど経済的に繁栄しており 筆者の母方曾祖父 祖母の父 石岡出身 もまた大震災で駄目になった関東を捨て 大阪の紡績会社で働いていたほどである。
恐らく景吉は弁護士資格を活かし 華やかな大阪の実業界で活躍することを目指したのだろうか。
実際に景吉は大阪で活躍した。
昭和三年(1928) 四年(1929)版の 日本映画事業総覧 全国主要映画会社大株主一覧表 にて 松竹キネマ の大株主として名を連ねる。
更に 銀行会社要録 : 附 役員録四十二版 によれば昭和十一年(1936)から十四年(1939)頃にかけて 景吉は 帝国産業 の取締役を務めていたようだ。

しかし勢いというものは そう長く続かなかった。
昭和十二年(1937)八月三十一日 旭安全硝子という会社の商号が 北陽硫黄 へ変更され 新たな取締役が就任した。
その際に五名の取締役が解任されたが その筆頭に記されるのが 藤堂景吉 であった。昭和十三年一月十日付官報

昭和十四年(1939)四月十八日 景吉はそれまで務めていた 日本国防器具株式会社 の監査役を辞任した。同年九月一日付官報
そして同月二十五日に印刷された 東京帝国大学卒業生氏名録 では 景吉の上に死没を表す × が見える。
どうやら景吉は昭和十四年(1939)の四月頃に亡くなったらしい。

没年について

しかし冒頭に生年月日を示すために用いた官報を見てみたい。
これ 昭和十三年(1938)十二月十四日付官報 同月二日条 大阪区裁判所で行われた 第二三一一号被相続人亡藤堂景吉ノ財産管理人選任事件ニ付 の項目に記載されたものであるが ここで記述をよく見てみよう。

本籍東京市麹町区二番町七番地ノ三
最後ノ住所大阪市住吉区天王寺町一千九百六十九番地
出生ノ場所不詳
職業不詳    被相続人 亡 藤堂 景吉      出生年月日明治十六年六月十六日
右当應昭和十三年 第二三一一号被相続人亡藤堂景吉ノ財産管理人選任事件ニ付利害関係人大阪市東区豊後町三十三番地 植田宗治ノ請求ニ因リ右財産管理人ニ大阪市北区真砂町三番地 竹西輝雄ヲ選任ス
 昭和十三年十二月一日   大阪区裁判所

ここで見られる住吉区天王寺町の住所は 六高同窓会員名簿に見られる景吉の住所と同じもので 同一人物であることは確かである。
この記述は亡くなった藤堂景吉の財産に関し 利害関係人植田宗治 景吉の債権者か が申し立て 相続財産管理人として竹西輝雄弁護士が選ばれたというものである。最高裁判所 相続財産管理人の選任より
つまり官報の記述を鑑みる 景吉が亡くなったのは昭和十四年(1939)以前であり 更に昭和十三年(1938)十二月までというのが確実であろう。
日本国防器具の監査を退いた時期が翌昭和十四年四月十八日になった事は 単に公表が遅れたものであるのか 竹西弁護士による景吉の債務整理であるのか定かでは無い。

こうして藤堂景徳を初代とする藤堂氏は ここに途絶えた。が 実は後に再興し 令和の今に私が末裔氏から情報を頂戴し ここまで書き進めることが出来た。
このことについては最後に触れよう。

藤堂氏を考える

ここまで見てきたのは彼ら藤堂一族の一端に過ぎず 結局彼らの全体像を掴む事は出来ない。
なぜ安永の時代になって藤堂氏が現れるのか これは大いなる謎である。
推論を一つ述べるとするならば この一族は文禄年間に藤堂高虎に仕えた藤堂平助とは異なり 広橋家に残り 引き続き仕えていた一族では無いだろうか。また景徳が名乗った 飛騨守 については 福島正則期広島藩分限帳にて奉行 藤堂飛騨守 が現れることから その関係も疑いたくなる。

また諱に の字を用いている事も興味深く 高虎に仕えた平助の家系 久居藩藤堂八座家も系図に の字が見え その関連も考えられるところではある。
景徳が補内舎人ならびに正六位下飛騨守に叙された安永七年(1778)は 既に七代目藤堂八座の時代だ。

官途について

さて藤堂景徳は 飛騨守 であった。古くは家祖藤堂景盛は 三河守 であり 景長は 美作守 である。
しかし景員は 刑部少 景恕は 兵庫権助 だ。
景員の頃になって 官途 に変化が起きた。

この点についてスウェン ホルスト氏は 文化四年 一八一一 初めに公家家来や地下官人から国守の官が奪われ 代わりに国の介が与えられた と変化を指摘する。この変化は実に興味深い。

武家・藤堂氏と公家の接点

突然降って湧いたような話だが この時代に武家藤堂氏と公家には接点がある。
久居藩はこの四年前 安永三年(1774)三月に公儀馳走役を勤めているが この時に八代藩主高朶が接伴したのが時の伝奏で勅使大納言の広橋兼胤と姉小路大納言 公文か である。
なお久居市史によると 高朶は病に倒れ 接伴を生駒監物に託したようだ。この生駒監物は 旗本の生駒親睦の事と思われる。そう 高虎の孫 高俊の末裔の家だ。

また津藩の八代藩主藤堂高悠は 久居藩八代藩主高朶と九代藩主高興の兄弟にあたるが 彼は明和七年(1770)に仙洞御所の普請を命じられている。
なお高悠は明和六年(1769)に藩を継ぐが 普請と同じ年に亡くなった。その時代は勿論七代目八座の時代であり 景徳が壮年の頃合いでもある。

また 廣橋兼胤公武御用日記 に依れば 宝暦十二年(1762)に津藩の重臣藤堂仁右衛門に日野流 豊岡尚資の妹が嫁いでる。
こうした武家藤堂氏と公家の接点を考えると 何れかの藩士から広橋家に仕える者が出ても違和感は無い。
まとめてみると 平助とは異なり広橋家に仕え続けていた一族 平助から連なる久居藩藤堂八座家から広橋家に転じた 藤堂仁右衛門室の伝手で広橋家に転じた 広橋家内で何れかの侍に藤堂を称させ再興せしめた 以上四つの説を唱えることが出来る。

もう一つの藤堂氏のその後

今回筆者に大変貴重な情報を寄せてくださったのは 常磐大学人間科学学部健康栄養学科藤堂景史准教授である。以下藤堂先生と表記
藤堂先生の御祖父様は 藤堂景泰の三女 道と西原茂太郎中尉の間に生まれた誠氏で 景泰から見て孫にあたる。藤堂先生から見ると景泰は高祖父

西原家に生まれた誠氏の御孫にあたる藤堂先生が藤堂姓を名乗るのは 御祖父様が景吉没後に断絶した藤堂家を継いで 再興 したことに依る。誠氏が藤堂家を継いだ時期については 昭和十六年(1941)に生まれた長男 昭和十九年(1944)に生まれた次男 藤堂先生の御父君 の名前に藤堂氏累代の の字が用いられていることから 昭和十三年(1938)末から昭和十六年(1941)までと考えられる。

二〇二三年八月二十二日追記
誠氏が後年記した自分史には藤堂姓を継いだ時期というのも記されている。

我々が正式に母の家を継ぎ藤堂を名乗った昭和十五 六年のことらしい わだち 4 ふれあい

墓所について

藤堂先生に依れば 祖父誠氏の頃まで墓所は京都にあったそうだ。
以前同じように広橋家に仕えた速水氏を調べていた際 広橋家と速水氏が墓所を共にしていた記述を見た覚えがある。藤堂家も同じ寺院であったのかもしれないが ここは筆者の記憶が曖昧であるため再調査が必要だ。確か くろ谷金戒光明寺に眠る人びと という資料であったか 再読を試みねばならぬ。

家系図

藤堂先生からは 藤堂家伝わる系図 についても御教示戴いた。
それによると 景徳 から百五十年ほど途切れているが 景久 へと繋がり 更に景盛まで遡るそうだ。
また高虎から四代遡った 景高 から別れた家だと伝わっている という旨も興味深い。

私が知る中で 景高から分かれる系図は 公室年譜略 子平介景政系有後巻 とされる系図 景久から連なる系図というのは久居市史所収 八座家系図 と合致する。
これは幕末の地下人藤堂氏が久居藩藤堂八座家から分枝した可能性を示唆する。もちろん単に後世に何らかの方法で の字を持つ藤堂氏を探す上で久居藩藤堂八座家に辿り着き 制作された系図の可能性もあるだろう。ただそうした史料へのアクセスを考えると 令和の今でもアクセスに難があるため 個人的には藤堂八座家からの分枝が有力と考えている。
最も確実な史料に欠ける現在では結論づけることは出来ない。

最後に

私は昨年 二〇二二 四月三十日に 幕末地下人藤堂氏 を公開した際 終わりに次のように述べている。

勿論室町時代の末に 家系図に見られない広橋家に仕える藤堂氏が見られることを踏まえると こうした内舎人として名前の残る藤堂氏というのは そうした家系図以外の人間の末裔の姿とも考えられよう。
ところで史料編纂所が刊行する 廣橋兼胤公武御用日記 先に紹介した景徳と同時代の広橋兼胤が記した日記であるものの ここに景徳の名を見る事は出来ない。
このように熱田神宮文書以外に地下人藤堂氏が記された史料を今回見つける事は出来ず これ以上話を広げるのは不可能である。
どうか今後 地下人藤堂氏一族の史料が今後発掘される事を切に願う。

それから六ヶ月 藤堂先生からの御連絡と 国会図書館の技術革新により 本稿は素晴らしく拡充した。
よもやこれほどまでに記録が残っているとは 全く思いもしなかった。もちろん景員 景孝は記録が乏しく この二名に関しては消化不良である。
それでも収集された記録を眺めていると 時代こそ変われども公家社会の儀礼慣例は室町時代以来踏襲されてきたと感じる。動乱の時代 時代の変わり目に差し掛かっても 公家社会は中世以来の儀礼を貫いていた。今回の調査で得た視点を以て また公家社会から見た幕末研究というものをチェックするのも 歴史好きとしては面白いかもしれない。

公家社会で生きる藤堂氏というのは ある種の先祖返りである。広橋家に仕えるというのは藤堂氏にとって家業とも言えよう。しかし藩史編纂時点では 家祖三河守景盛たちは 足利将軍家 に仕えるとされていた。広橋家に仕えていたという事実は津藩内で失われつつあった。実はわずかに広橋兼顕が登場しているが
それは久居市史の藤堂八座家の解説でも同様で 彼らの先祖が広橋家に仕えていた事実は記載されていない。
しかしここで久居藩から広橋家に仕えた者が出たのであれば 編纂では隠したものの八座家では代々伝承されてきた可能性も浮上する。
実に興味深いが これ以上論じるには まだまだ史料が不足しているため この辺で仕舞いとしよう。

こうした中世以来の家司 公家雑掌 地下官人は現在研究が盛んだ。私の拙い文が この記事に辿り着いた諸兄の研究に何か役立つことを願う。

謝辞

最後になりますが 藤堂景史先生には大変お世話になりました。
お忙しい中 筆者の雲をつかむような長文質問に対し 快く御回答賜りましたこと厚く御礼申し上げます。
また国会図書館の全文検索システムを構築された国立国会図書館次世代システム開発研究室 青池亨司書にこの場を借りて深く御礼申し上げます。

令和五年一月三十一日 ひじき 柊凛音