藤堂九郎左衛門や藤堂備前守ら公家侍では無い藤堂氏

本稿は藤堂高虎との関係が疑われる藤堂九郎左衛門累代についての考察と解説を試みたものである。

九郎の名を持つ藤堂氏

藤堂九郎左衛門なる人物を初めて目にしたのは 藤堂家編纂史料 高山公実録 公室年譜略 である。
高虎の祖父忠高が名乗っていたり 実録 西島留書 年譜略 父虎高も始めは九郎左衛門を名乗っていたらしい 年譜略
他に藤堂玄蕃家や旗本藤堂氏の祖といえる藤堂少兵衛も名乗っていた と寛政重脩諸家譜には記されるが これは俄に信じがたい。

更に浅井長政の文書として 藤堂九郎左衛門に対し内存を評し知行を宛がったものがある 養源院文書
どうやら戦国時代に 藤堂九郎左衛門 なる人物が実在していたことは確かなようだ。

こうした状況を一変させたのが多賀氏を調査する過程である。
私は康正二年(1456)七月二十六日 義政右大将拝賀について京極殿隊に 藤堂九郎左衛門 の記述を見つけたのである。

藤堂九郎左衛門

藤堂九郎左衛門という人物が登場するのは 時代を考えると景富や景長の頃合いとなる。しかしながら景盛系統から構成される系図をはじめ 藤堂家編纂史料にその名前は見られない。
当然忠高や虎高とは時代が合わない。

諱でいけば 近江輿地志略 に見られる 藤堂九郎左衛門政長 淡海木間攫 にある 藤堂九郎左エ門尉政良 なる人物の可能性が考えられるが この人物の実在性や生きた時代 更に掲載の媒体自体の信憑性も非常に疑わしいものであるから ここでは扱わない。

また 甲良町史 には 元禄八年(1695)大洞弁天阿弥陀堂 彦根市 の建立に際し 四代藩主井伊直興が領民の無事繁栄を祈るために 古記を調べ 古老に問い 吟味を遂げ候而 祭った物として 諸士の戒名が記されている。
その中に在士村屋敷主藤堂家先祖として 徳雲院江月宗漢居士 なる人物が見られるが 彼が生前に何と名乗っていたのかは不明であり検討のしようが無い。

ともあれ纏めると景盛たちが公家侍の藤堂氏であるならば 藤堂九郎左衛門はその活動実態を見るに 在地の藤堂氏 京極被官の藤堂氏 として分類する事が出来よう。

康正二年(1456)

五月二十六日・御崎檢校殿宛持清書状に「委細藤堂方可申候」

これは島根県史史料七と大社町史に掲載されている史料である。
年次未詳史料であるが 大社町史史料古代中世上巻では同年と比定されている。島根県史史料でも同年の流れに掲載されている点から 概ね支持できる比定となろう。

就御崎社領支證事 千疋到來令悅喜候 委細藤堂方可申候 恐々謹言
      五月廿七日        持清 花押
        御崎檢校殿

すなわち この年次比定が正しいのなら京極持清配下の藤堂氏初見と相成る。ただこれだけでは 藤堂九郎左衛門 とは断定しにくいが その後の流れを考えると九郎左衛門を指すと思われる。

七月二十六日・義政右大将拝賀について京極殿隊

この日 足利義政の右大将就任の拝賀が行われた。
佐々木中務少輔京極勝秀は侍所頭人 父持清の代理として兵を従えている。
隊列の中で勝秀の次に 揆副 に名前が上る人物が多賀豊後守 高忠だろう 被官列の一番目に多賀四郎右衛門尉 清直 その二番目に名を連ねているのが藤堂九郎左衛門と相成る。
彼は具足黒章 馬黒糟毛とも付記されている。

川岡勉氏は 尼子氏による出雲成敗権の掌握 に於いて 藤堂氏を旧来からの有力家臣と位置づけておられ 非常に興味深い。
私は応永三十年(1423)に広橋家領の羽田庄が京極氏より返還され その代官を三河入道景盛が務めている。現状ではこれが両者の初めての交わりだと考えている。

二ヶ月前に彼は隠岐に居たとすれば その二月の間に上洛していたと考える事が出来よう。

松江市史史料編三古代中世 五九四 将軍義政公大将御拝賀記 彰考館所蔵典籍 水戸彰考館所蔵 より

康正三年(1457)

五月二十七日・隠岐國分寺領に関して持清から書状を受け取る

こちらも島根県史史料七に見える年次未詳史料である。その年次比定は同年の隠岐国分寺安堵の流れに掲載されている点から推定した。

隠岐國分寺領此度十分一段銭事 於京都申子細之間令免許候 可被止國催促候恐々謹言
     五月廿六日          持清 花押
       藤堂九郎左衛門尉殿
       牛 尾 左近将監殿

さてこの書状は隠岐国分寺に纏わる史料であるが 国分寺については二つの研究で僅かに論考が行われている。
まず角田文衞氏の 国分寺の寺院組織 にて 持清が同年六月十八日に出した寄進状は 隠岐国分寺への安堵を示す事が指摘されている。角田文衞著作集第二巻 法蔵館

そして中世諸国一宮制研究会の 中世諸国一宮制の基礎的研究 では隠岐国分寺について次のように記している。

室町期には 康正三年 1457 六月十八日に守護京極持清が国分寺住持に対し 国分寺の領掌と寺領 諸末寺領の段銭免除を認めると伝える一方 国分寺文書 家臣の藤堂 牛尾両氏に国分寺領の十分の一段銭の国催促を止めるように指示している

つまり飴と鞭でいくと 鞭に当たるのが藤堂九郎左衛門と牛尾左近将監の書状だろう。

寛正三年(1462)

七月二十四日・京極勝秀の東福寺訪問

碧山目録 によるとこの日 京極勝秀が東福寺を訪問したという。
勝秀に従った衆として藤堂某 下河原某 一村某 懸筧某 済藤某 長江某らの名前が連なる。

ここでは 藤堂某 と記されているが 六年前にも勝秀に従っていた例を踏まえると 九郎左衛門と同一である可能性は高いだろう。

京極の被官か

その中で下河原氏は 大館常興書札抄 にも記されるように京極氏の被官として名高く 先の拝賀でも三番目に 下河原周防守 が名を連ねている。
その例を踏まえると本稿の藤堂氏というのも 近江に根付いた京極の被官として活動していたものと考えられる。

ただ京極の被官を紹介する中に藤堂氏は登場しない点が気に掛かる。
藤堂氏が治めたと考えられる八幡周辺は多賀豊後守の本拠地 下之郷が近いので 多賀氏の配下として活動していたとも考えられそうだが その実態は不明である。

一時的に姿を消す藤堂九郎左衛門、そして藤堂備前

東福寺訪問を最後に京極の藤堂九郎左衛門は姿を消す。
しかし室町時代に活躍したのは どうやら九郎左衛門だけではないようだ。

文明十八年(1486)

七月二十五日・藤堂備前、政経・材宗親子に従い出仕

文明十八年(1486)七月二十五日に 藤堂備前 が政経 材宗に従い室町に出仕している事が 蔭涼軒日録 に記されている。
この記録が 藤堂備前守 の初見と相成るが 彼と共に出仕したのが多賀新左衛門と今井蔵人である。
並びで行けば多賀新左衛門 藤堂備前 今井蔵人といった並びである。またこの多賀新左衛門は 経家 の事と思われる。

さて政経とは持清の四男 材宗は政経の子である事をここで触れる。
なお材宗は十代将軍義材からの偏諱であるから この時代は 経秀 とするのが正しい。ここでは便宜上 材宗 としている。あしからず。

この出典は坂田郡志と大日本仏教全書一三四である。

十二月晦日・亀泉集証、 藤堂備前守宅を訪ねる

こちらも蔭涼軒日録に見られる記録である。

次鹿苑崇壽相國等持寺某往京極光祿屋形。等持寺代諸老引付書名。次多賀新左衞門宅。次藤堂備前守宅。皆以他出之故奏者請取之

つまり経家も備前守も出払い それぞれ奏者の応対があったという事である。また 光祿 とは政経の事である。
この時代日録を書いていたのが 亀泉集証 である事から 備前守宅を訪れたのが彼であると理解した。

この出典は大日本仏教全書一三四である。

延徳三年(1491)

正月十七日・亀泉集証、藤堂備前守宅を訪ねる

往京極治部少輔殿宅。伸先日來臨之謝。往藤堂備前守宅。一見庭。伸賀歸

同じく蔭涼軒日録に見られる記録である。
京極治部少輔 とは材宗で 彼の宅を訪れた後に来訪し庭を一見したらしい。

この出典は大日本仏教全書一三六である。

正月二十六日・藤堂備前守、材宗に侍る

佐々木治部少輔殿門役。藤堂備前守爲首皆列座。門外少輔殿参侍

こちらも蔭涼軒日録に見られる記録である。
備前守は何かしらの行事に参加した材宗に従っている。前日条に 明日三七日忌拈香勤之 とあるから その行事もしくは関連するものだろう。
こちらも大日本仏教全書一三六が出典となる。

九月十六日・藤堂備前守宛幕府奉行人奉書

同年藤堂備前守に対し 河瀬梅千代の西今違乱について幕府奉行人の宗勝 飯尾元連 数秀 松田 から奉書が発行されている。
これは彦根市史第五巻史料編古代 中世に収まる五二七 室町幕府奉行人連署奉書 大徳寺文書 に依るものである。

さてこの時代河瀬梅千代が養徳院領 西今村買得地諸入免幷寺庵等 河村跡 について押坊を起こしていた。
彼は京極被官河瀬九郎左衛門清定の息子であるが 幕府はその対応に苦慮していたのである。
彦根市史の解説を読むと この書状の一月前八月十一日に幕府は養徳院領を安堵し この書状と同日には近江守護細川政元の守護代 安富筑後 元家 や當所名主沙汰人中にも書状を送り 河瀬梅千代の押坊停止に奔走していた。備前守に送られた書状はその一環である。

河瀬も河瀬で 先祖伝来の地 下知を賜って安堵されていると正当性を主張していために 非常にややこしい展開になっていたと市史通史は説明する。
この騒動の帰結は市史通史では不明としながらも 史料編では明応元年(1492)十二月二十九日に西今村が御料所を免除され養徳院に返付されたことで解決との見方を示している。

彦根市史の問題点

さてここで彦根市史の解説に少し指摘をしたい部分がある。
藤堂は高頼征伐で将軍に従った伊勢党だろう
これは幕府有力者の安富と遠征軍の両ルートから河瀬を揺さぶる という説明であるが藤堂を 伊勢党 とする説明はおかしい。藤堂家が伊勢に入ったのは江戸時代の話である。

恐らく 武功夜話 の影響を受けたのだろう。彦根市史は大いに役立つ資料集であるが 唯一この部分だけが残念なのである。

明応二年(1493)

五月廿七日

京極治部少輔殿同時出仕。伴衆下河原。藤堂備前守二騎。見之者如堵墻。

一年の空白は その前の年に足利義材による六角征伐 延徳の乱 によるもので 戦が終結して 五月になり再び登場する。
しかしながら この日の記録が 蔭涼軒日録 に於ける藤堂備前守の終見と相成る。
具体的な年次がわかる史料という範囲であれば これが全体での終見ともなろう。

大日本仏教全書一三七による。

総括・ 藤堂備前守とは

藤堂備前守もまた家系図には見られない人物である。
恐らく持清に仕えた藤堂九郎左衛門の類縁 近しい人物である可能性が考えられるが 実態は不明である。
なお九郎左衛門と同一人物の可能性も考えられるが 三十年近くの開きを見ると有り得ないだろう。

政経が持清の四男である事を考えれば 備前守と九郎左衛門の関係が親子であると考えるのが自然だろうか。

藤堂備前守は政経 材宗親子に仕えたと見える。それは内衆といった括りになるのかは浅学の自分には判断し辛い。
ともあれ洛中に館を設けていた記録を見るに 多賀新左衛門尉経家と並ぶ有力者の一人と言っても過言では無かろう。

敏満寺は中世都市か に収まる勝田至氏の 戦国期の敏満寺 という論考に興味深い旨が記されている。
曰く 福寿院由来記 には 永正二年に遷化した敏満寺福寿院の住持 秀仙 の出自は藤堂備前守の三男と記されているそうだ。
彼は同年に遷化すると 正受坊 と号したようだ。

さて同論文を読むと 秀仙以降の住持の出自についても記されている。高野瀬氏の子息が次代 敏満寺廃絶時の住持は赤田氏であったという。
何れも中郡の有力者で 藤堂氏も敏満寺の影響力を受けていたことが考えられる。

永正頃にも活動していたかもしれない備前守

次世代デジタルライブラリーにて 何か藤堂備前守の手がかりがないか探していると 東浅井郡志三巻 に興味深い記述が為されていた。

村山下総守
村山下総守 初め次郎右衛門と稱す。實名詳ならず。當目の郷士なり。邸址今尙同地に存し 殿屋敷と稱す。
永正の初めにや 京極家の奉行河瀨遠江守家加より 草野庄料所を藤堂備前守に渡すべき旨の奉書を受けたり。上坂家古筆判鑑

これは 人物志 に掲載される内容であるが 村山下総守とは小谷城にほど近い草野庄は 当目 と呼ばれる郷の士である。
どうやら藤堂備前守は永正初期も活動しており その範囲は湖北にまで及んでいた可能性があるようだ。
しかし彼の動向は永正七年(1510)には見られない。この永正の初めの記録は その終見と考えられる。考えるに備前守は京極材宗と近しい存在であるから 永正四年(1507)二月三日に材宗親子や多賀経家共々刑死した十四名に含まれる可能性がある。

明応五年(1496)

十一月十七日・楯のさん木所望

湖東三山として名高い金剛輪寺の史料に 金剛輪寺下倉米銭下用帳 というものがある。そこには室町時代 中郡で活動した人々の様子が収められているが 何と藤堂氏も見ることが出来る。

藤堂九郎兵衛方楯のさん木所望 間持行人夫二人食

藤堂九郎兵衛が金剛輪寺に対し 楯に用いる さん木 を求めたという。同書内では九郎兵衛について 忠高 と注釈を付けているが 高山公実録や公室年譜略によれば高虎の祖父は明応七年の生まれであるために成り立たない。

さて九郎兵衛という名前は前年明応四年(1495)の記録にも見ることが出来る。
それは月日不詳条にて

九郎兵衛方へ樽持 談合御出時臨時食

とあるものだ。

具体的に藤堂氏とは比定されていないものの 念のため藤堂氏の可能性を考え ここに載せる。

謎の多い藤堂九郎兵衛は次の史料にも名前が遺る。

永正七年(1510)

二月二十二日・義澄追討の御内書

この日 将軍足利義尹 義稙 は近江の有力者に対し 敵対する足利義澄追討の御内書を発行した。

就江州敵退治事 早速令出陣 抽忠節者神妙 依其功 可有恩賞候也
二月廿二日
佐々木五郎とのへ 佐々木尼子刑部少輔とのへ
佐々木黒田四郎左衛門とのへ 佐々木鏡兵部大輔とのへ
佐々木岩山四郎とのへ 多賀四郎右衛門とのへ
佐々木高橋兵部大輔とのへ 若宮左衛門大夫とのへ
多賀豊後入道とのへ 下河原宗九郎とのへ
箕浦又四郎とのへ 河瀬右馬允とのへ
河瀬弾正左衛門尉とのへ 藤堂九郎兵衛尉とのへ
市村備後守とのへ 
上坂治部入道とのへ

総括・藤堂九郎兵衛

以上のように この御内書には京極の一族 重鎮をはじめとして北郡 中郡の幾つか領主が名を連ねている。
その中に藤堂九郎兵衛の名が記されているのは大いに興味深い。
恐らくこの時代 京極氏の被官若しくは京極氏を支える有力領主として活動していたのだろう。

九郎 の名を冠している部分を考えると 彼もまた藤堂九郎左衛門の流れを汲む人物と考えられ 同時に備前守との関連も考えられよう。

そして永正の初め頃に 藤堂備前守の動向を匂わす記述に出会うと 自ずと備前守と九郎兵衛の両者で活動時期が被っていることになる。
果たして両者の関係性は如何にと思うが 史料に乏しいため論ずることは困難である。

天文元年(1531)

九月某日・革島家文書

   条々
一 不足□成 弐石弐斗宛 切符 相調 進上可申候 雖為少事不足於過 切者 先規□ 文代任請文可披仰付候
一 百姓名之事 悉切可進候
一 十月廿日以前 悉可致皆済候 於無沙汰者 任御成敗之旨 以現米 文之状如件
           藤堂九郎左衛門
   天文元年九月 日 家忠 花押
 尼子殿□□ 御代

これは 革島家文書 の拾遺七七に収録されている書状である。
脱落が多い文書故 翻刻文には数カ所注釈で補われている。ここでもそれに倣い括弧内で補っている。
なお史料編纂所データベースの花押データベースには 備考として気になる指摘がされている。

宛所 尼子殿御返報 とするが 古文書目録データベース 定本管理 尼子殿□□官 とする。

更に日本古文書ユニオンカタログデータベースでは 天文九年 となっている点も興味深いが 概ね誤植だろう。

さて家忠の右横には 藤堂九郎左衛門 と記される。つまり藤堂九郎歴々のなかで その諱がはっきりしている者が 藤堂家忠 と相成る。

尼子殿には 詮久 と付記されているが 高名な尼子晴久の事である。彼は出雲の人間であるから近江に関わる事はほぼ無いだろう 例外的に竹生島文書で見られる
すなわちこの尼子氏は近江に残った尼子氏と考えるのが自然である。
天文年間であれば 天文二十四年の多賀大社梵鐘銘文に見られる 宮内少輔賢誉 その父か縁者と思しき 尼子沙弥宗志 の何れと考えられる。

この書状 家忠 尼子氏の存在のみならず 内容も興味深い。
不足□成 とは 不足物成 を指すと思われ すなわち未納分年貢に関する書状と考えられる。
中世の経済文化を語る上では 切符相調 との語句を見逃すことは出来ない。

また 悉切可進 とか 任御成敗之旨 など 少し物騒な言葉が並ぶ点も興味深いだろう。

尼子郷

さて藤堂と尼子はその領地が隣同士である。

どうやらこの時代の甲良は 永禄六年(1563)十月二十五日の勝楽寺宛浅井長政書状にて 甲良三郷 とあるように 三つの郷に分かれていたようだ。
すなわち現在でも名の残る 下之郷 貞能隠居料に見える 上郷 上之郷 そして 尼子郷 である。それぞれの区分は郷の総社によって区分されるが この中で上ノ郷に関しては総社となる法養寺 甲良神社に慶長移転説があるため 現在の地域と同一と断言し得ない。

この中で藤堂の所領が何れに入るのか思案すると 何よりも尼子川が流れている点から 尼子郷 であると推定される。
現在残る小字を見ても 大字尼子に 畑藤堂 なる小字が見られる点でも推測は可能だ。
そうした推定推測を補強する一次史料こそ 尼子殿御代官 へ宛てた同書状と相成る。

天文三年(1534)

八月二十日・小谷城饗応

浅井亮政が京極親子 高清 高延もしくは高延 晴広^ を招いて行われた饗応は 浅井備前守宿所饗応記 として 今に記録が残る。

その中で 進物献上下賜の義 具足の段取次として藤堂備中守の名が記されている。

この僅かな語句から類推される事は 藤堂氏はまだ京極の配下や その影響力を受けながら活動していた といった事だろう。
また饗応記を読むと 永正七年御内書 に見られる近江有力者の名前を見ることが出来る。つまり加賀五郎に黒田四郎左衛門 高橋兵部大輔や下河原宗九郎である。無論彼らが同一人物であるとは限らない。
他に共通する姓氏であれば 多賀氏 岩山氏 民部少輔宗呑 河瀬氏 九郎左衛門 新六 が挙がる。

さて藤堂備中守が登場するのはこの一度である。彼もまた九郎左衛門の流れを汲み 更には備前守との関連も考えられよう。

^
高延 晴広とするのは京極材宗氏の である/20240515

永禄四年(1561)~永禄十年(1567)

次に紹介する書状は具体的な年度が不詳である。東浅井郡志などでは元亀元年(1570)と推定されているが ここでは違った側面から推定を行う。
用いるのが浅井長政の署名である。
彼が 長政 を名乗るようになったのは永禄四年(1561)六月頃なので 同年以降の書状であると判断が出来る。

某年九月二十一日・養源院文書

某年九月二十一日 藤堂九郎左衛門の内存を評した知行宛行状が浅井長政より発行された。

内存申入通 御内心本望候 然上者 蚊野常学坊跡
安食弾正跡 御内将監入道跡職申談候 可有御私領候
乍恐八幡大菩薩不可有異議候 随分御忠節肝要候 恐々謹言
 九月二十一日         浅井備前守
                 長政 花押
  藤堂九郎左衛門尉殿
          御宿所

これより前に藤堂九郎左衛門尉は浅井長政に頭を下げたようで その対価として蚊野常学坊 安食弾正 御内将監入道の跡職が宛がわれた そのような内容だろうか。

知行地推定

蚊野常学坊と安食弾正の両者は姓から地域を推定することが出来る。
蚊野が藤堂から南へ四キロの現 愛荘町蚊野 安食が西へ三キロの現 彦根市と豊郷町に跨がる安食地域と考える事が出来る。安食は下之郷から近く 西隣の四十九院を挟む位置関係となる。

御内将監入道跡職は 滋賀県に 御内 という地名が存在しないために不詳だ。
ただ近江八幡市には 御所内 なる地域が存在する。同所は六角の領内であるから長政が宛がう事は不可能である。一方で藤堂家の系図では高虎の大叔父 讃岐守重高が八幡山住人と記されている。御所内から八幡山は西へ五キロと 遠いわけではない。讃岐守の八幡山が近江であるならば 多少は気にとめる必要があるだろうが 今となってはわからない話である。

尤も 蚊野 安食 も藤堂の周辺に位置しているから 御内将監入道跡職 というのも 犬上や愛知川の近辺であったと考えるのが自然であろう。
さらに言えば 御内 という言葉は 朝倉始末記 にある 織田殿御内三人衆 のように 誰々の身内 内衆 配下 といった用途で用いられることがある。そうなると 某の御内 と考える事が出来る。

では とは誰なのだろう。
安食弾正の御内であるならば 同名 とか 同将監入道 といった書き方になるだろう。
ここには とある。この書状で の対象となるのは 宛先の 藤堂九郎左衛門尉 その人であり そうなれば 御内将監入道 なる人物は 藤堂氏 藤堂将監入道 と考えるのが自然ではないだろうか。

浅井氏と藤堂氏

結論づけるとするならば 藤堂氏は浅井長政の中郡侵攻を受け 永禄四年(1562)から永禄十年(1567)までの何処かで藤堂九郎左衛門が浅井長政に臣従。蚊野常学坊や安食弾正 将監入道の跡職を宛がわれるというなかなかの待遇を受けた。
藩の編纂史料には 虎高と妻おとらの婚姻について 浅井亮政の養女として嫁いだ旨が記されている。おとらの推定生年や長男源七郎高刑の生年からすると 亮政が没した天文十一年(1541)から天文十八年(1549)までの話であるから 計算上は久政の養女と解釈するのが良さそうではある。

だがここで紹介した 養源院文書 の存在は 藤堂氏が永禄年間に浅井へ降った事を示し この逸話を否定するものになるとも言えよう。
勿論 天文二十二年(1553)に久政は六角に降っているので そこで藤堂氏も六角派となっていたが為に永禄年間再び浅井の圧迫を受けての養源院文書という可能性も考えられるだろう。

永禄十一年(1568)

二月十七日・清渓稿「池亭梅花」

池亭梅花
戌辰二月十七日於藤堂九郎左私宅浴室側有梅
池邊梅發映斜輝 曳履吟遊共忘白反 一朶紅粧何似處 溫泉宮裡浴楊妃
又代人
橫斜蘸影小池頭 吟興悠々西日收 不若春衣宿花去 待看明月照清流

清渓稿 とは室町時代に活動した東福寺竜吟庵の住僧 煕春竜喜の詩集である。
群書解題によると 熙春竜喜は永正八年(1511)に生まれ文禄二年(1593)に没したという。
自ら清渓と号した彼は詩文の声誉があり 遠近の学者競って教えを乞うたとも記されている。
ただこの詩集は彼が編纂したのでは無く どうやら門弟が収録した可能性が高いようだ。

さてこの詩文には具体的な年が記されていない。しかし十六世紀の戊辰は永正五年(1508) 永禄十一年(1568)の二回で 煕春竜喜の生年が永正八年(1511)である。
つまり詠まれたのは永禄十一年(1568)と容易に比定される。

この詩文の前後には勝楽寺などで詠んだ詩が並んでおり どうやらこの時期に近江に滞在していたものと考えられる。
煕春竜喜は東福寺の法嗣でもあり そうした人物が私宅を訪れ詩を詠むというのは 藤堂九郎左衛門が永禄十一年(1568)当時に土地の有力者として存在していたこと そして一定の文化的教養を有していたと理解できる。

永禄十二年(1569)

月日不詳・上部家記録「願祝簿」

高山公実録 には 宗国史 からの引用として伊勢御師として高名な上部家の記録 願祝簿 が掲載されている。
この記録は永正十八年(1521)から永禄十二年(1569)まで何人もの藤堂氏を見ることが出来る。

この記録に 藤堂九郎左衛門 が登場するのが永禄十二年(1569)で これが藤堂九郎累代全体の終見となる。
もちろん通説では浅井長政からの書状が元亀年間とされている事も忘れてはならない。

藤堂高虎と藤堂九郎左衛門

以上つらつらと藤堂九郎左衛門累代を編年で見てきた。
藤堂九郎左衛門は持清の時代に出雲支配を担当したが それ以降は一貫して近江中郡に根付いた。
そこには大乱の時代から永禄年間までの連続性を見出すことも出来る。

東浅井郡志 は藤堂氏について次のように解説している。

さればこの時 高虎父子が 九郎左衛門尉に従って籠城なし居りしとするも 何の困難をも感せざるべし

執筆した黒田惟信は 九郎左衛門は虎高 高虎を従えていた立場 との認識を抱いていたのだろうか。

冒頭で示したとおり 九郎左衛門は高虎の祖父もしくは父虎高が名乗ったとされる。
また藤堂家の編纂史料では 小谷城に籠城したのは虎高と高虎 与吉 の親子のみとしている。
すなわち黒田が示した 小谷城に籠城した藤堂九郎左衛門 とは 虎高とする事も出来よう。

何れにしても 藤堂家覚書 をはじめ編纂史料にて 小谷合戦で籠城したと伝わる高虎少年は 永禄年間に数度記録に現れる藤堂九郎左衛門の流れにあったと考る事は自然だろう。

藤堂家忠と高虎たちの関係

まず天文二十三年(1553)に 藤堂源助 が見られる
これは高山公実録や宗国史にて 上部家記録 願祝簿 として列記される中にある。

この記録の時期は 天文十八年(1549)に誕生した虎高の長男源七郎高則が五歳の砌である。
そのような時期に 藤堂源助 を名乗ることが出来た人物というのは やはり父虎高以外には考えられない。
つまり虎高は家忠ではない。

さて高虎の祖父 虎高の養父は 忠高 と伝わる。ここで という字が合致している事がわかる。
しかしこれだけでは論じることは出来ない。やはり高虎祖父が記した書状の類が発掘され 花押の比較を行わなければ先に進まないのである。

参考程度に忠高の年齢を考えてみたい。

実録や年譜略によれば天正九年(1581)に八十四歳で没したと記される。
逆算すると明応七年(1498)生まれで この時代に三十四歳と壮年の頃合いだ。
そのぐらいの年齢であれば こうした書状を発行するのは自然な事であると見える。

結論を述べると 傍証史料に欠ける現状では藤堂家忠と高虎の父や祖父の関係は不明であると言わざるを得ない。

藤堂氏の諱を考える

さて藤堂九郎左衛門の諱は一次史料にて 天文元年の 家忠 が見えるのみである。
源助虎高が永禄期の九郎左衛門であれば その諱に加え入れることも出来よう。しかし現段階で これに見合う史料は存在しない。

一方江戸時代の地誌にて 高虎の先祖は次のような諱で記されている。
近江輿地志略 藤堂九郎左衛門政長 淡海木間攫 藤堂左エ門尉政良 といったものだ。

何れも高虎の祖を 藤堂九郎左衛門 としている点 足利義政か京極政経との関連がありそうな諱は興味深い。
しかし諱から時代を推定すると 祖となりそうな九郎左衛門とは時代が合わなさそうである。

足利義政から考える祖・九郎左衛門

諱に の字があるのは 前述の通り足利義政もしくは京極政経の影響によるものと考えられる。
しかし政経の影響を受けたのなら 彼らに仕えていた藤堂氏が偏諱を受けた場合 初名政高の を用いた諱になる筈であろう。そうしたところで この時代に を名乗った人物は六角政堯等が居るが 彼らは何れも義政の偏諱を受けたと言われる。

実際 足利義政がその諱を用いるのは享徳二年(1453)であるから 歴史上に初めて登場する康正頃の藤堂九郎左衛門の諱に の字が含まれるのは 将軍の改名から三年後である事を踏まえれば 自然な流れに感じられる。

ただ九郎左衛門が 足利義政から偏諱を受けるのは理解に苦しむ。
彼は京極持清 勝秀親子に仕えていた。依って政経 政高 の偏諱を受ける点も違和感を覚える。

藤堂九郎左衛門の課題

課題では永禄以降に 藤堂九郎左衛門 が現れずに途絶えている点だ。
例えば藤堂虎高が 藤堂九郎左衛門 であったのなら その子息である高虎が名乗っていないのは不可思議である。
また藤堂高虎の家臣に 藤堂九郎左衛門 は見られない事も重要で これでは九郎左衛門と高虎系が同系統か 別系統なのかすらもあやふやになる。

冒頭に示したとおり 寛政重脩諸家譜によると藤堂玄蕃家や旗本藤堂氏の祖といえる藤堂少兵衛も同じ九郎左衛門を名乗ったと記される。しかし一次史料に見られる彼の名乗りは 少兵衛 勝兵衛 のみで 彼が 九郎左衛門 を名乗った史料は存在しない。
対して彼の後裔に藤堂九郎左衛門が存在している事は寛政譜から理解できる。

今後そうした課題に纏わる史料が見つかれば嬉しいが 残念ながら可能性は低いだろう。