伊勢御師上部家願祝簿にみる藤堂氏

本稿は伊勢御師上部家願祝簿にみる藤堂氏についての解説を試みたものである。

願祝簿に見る藤堂氏

高山公実録 には 宗国史系統録 からの引用として伊勢御師として高名な上部家の記録 顧祝簿 が掲載されている。
しかし現在閲覧が可能な上野町教育会版の 宗国史 には 上部家記録を見ることが出来ない。ここは追っての調査が重要である。

この記録は永正十八年(1521)から永禄十二年(1569)まで何人もの藤堂氏を見ることが出来る。それも在地の藤堂氏の幅広さである。

人物
永正十八年(1521)藤堂与二郎
大永三年(1523)藤堂与二郎 駿河守
大永六年(1526)藤堂帯刀
享禄三年(1530)藤堂新助
享禄四年(1531)藤堂新助
享禄五年(1532)藤堂新助
天文二年(1533)藤堂帯刀
天文九年(1540)藤堂新兵衛
天文十四年(1545)藤堂新三郎
天文十六年(1547)藤堂与六
天文十七年(1548)藤堂与六
天文二十二年(1553)藤堂与六
天文二十三年(1554)藤堂源助
永禄十二年(1569)藤堂九郎左衛門

人物推定

ここからは人物推定を行いたい。

藤堂源助

この中で特定が容易なのが天文二十三年(1554)の藤堂源助だろう。
これは紛うことなく藤堂高虎の父虎高その人だ。その根拠としては長男の源七郎の生年が天文十八年(1549)と逆算される為で 既に源助は藤堂氏であるからだ。

藤堂九郎左衛門

一方で判断に迷うのは 永禄十二年(1569)の藤堂九郎左衛門である。
公室年譜略では虎高と祖父について どちらも 始九郎左衛門 初は九郎左衛門 と記される。つまり以後に名を改めたことになるが明確な時期も不明で どうしようもない。
また寛政重脩諸家譜では藤堂玄蕃の父 少兵衛について 九郎左衛門 と記されている。
つまるところ 高虎の父か祖父 または叔父の可能性が存在する。

既に述べているように永禄期の史料には 養源院文書の某年浅井長政知行宛行書状 そして清渓稿の戊辰 永禄十一年 池亭梅花 と二度に渡り藤堂九郎左衛門 藤堂九郎左 が姿を現している。
恐らく永禄十二年(1569)の藤堂九郎左衛門と彼らは同一人物であろうと思われ 時代の移り変わり激しい中で生きた藤堂氏の動向が覗える。

藤堂新助

また享禄年間に姿を見せる 藤堂新助 という人物にも興味がある。
新助 を名乗った藤堂氏では 新七郎の父で高虎生母の弟 新助良政を思い浮かぶ。
しかし彼の生年は享禄五年(1532)であるから 新七郎の父以前に藤堂氏に新助を名乗る人物が存在したことになる。

一つ仮説を述べるならば 新七郎の父は 藤堂新助 を継いだ事になるだろうか。何れにしても実状は不明である。
なおアデアック版の 高山公実録 には願祝簿について ママ とされるが 元の画像や上野市古文献刊行会本の何れも享禄であるから 特段差し障りはないだろう。

金剛輪寺下倉米銭下用帳に見る藤堂新助

湖東三山で名高い金剛輪寺の史料に藤堂氏は登場する。
既に九郎左衛門の稿で触れているが 明応五年(1496)十一月十七日に 藤堂九郎兵衛方楯のさん木所望 間持行人夫二人食 と記されている。

藤堂氏はこれ以外に登場する。
時代は下り天文五年(1536) 次のような記述が見られる。

天文五年十二月分米 藤堂新介方より重 頼子事
天文五年十二月分銭 藤堂新介方へ勧進 出畢

つまり天文年間に 藤堂新介 が現れている。

既に述べたように 新七郎の父が幼年の砌である事から新七郎の父は別人となろう。
また享禄年間から時が経っていない点から 金剛輪寺下倉米銭下用帳の藤堂新介と願祝簿に記される藤堂新助は同一人物ではないかと考えている。
藤堂九郎兵衛もそうであったが このように互いの史料で補う事が出来るという点は 願祝簿を真たらしめるものではないだろうか。

藤堂駿河守

似た事例であれば大永三年(1523)に見られる藤堂駿河守も気になる。
藤堂氏では天正五年(1577)に従五位下に叙された藤堂景久が 一本中原系図や 久居付藤堂左平太先祖左之通 藤堂御家譜并雑書三 にて 駿河守 と記される。

だが大永三年の藤堂駿河守は景久ではなく 同官途の別人とみる。
何より景久は在地衆と一線を画す公家侍であるから こうした願祝簿に名前を見せることは無いように感じられる。
他に公家侍と思しき名前が見られないのも証左の一つだ。

さらには時代も異なる。四十年の空白が存在する。ただ此方に関しては 景久も駿河守も叙位と願祝簿でそれぞれ一件のみであること 景久の生没年が不詳であることから厳密に断言することは出来ない。

幅広い藤堂氏

気が向いたら 高虎を支えた系図に出て来ない同名衆をここに書こうと思います。ちょうど文字数が空いているので。