藤堂氏と名前が並ぶ京極氏被官について

ここでは藤堂九郎左衛門累代にて引用している 将軍義政公大将御拝賀記 碧山目録 足利義澄追討の御内書 に登場する京極氏の被官について補足したい。

下河原氏

まず最初に紹介するのが 何れの史料で共通して登場する人物が今回紹介する下河原氏だ。
この下河原氏は情報が乏しい。
一体何処を本拠地とした一族であるのか定かではない。しかし犬上川や芹川流域に 下川原 なる小字が存在した事を踏まえると 多賀氏と藤堂氏や尼子氏のように 犬上郡から発生した一族なのかも知れない。

様々な手段で調べると意外なところで下河原氏を見つけることが出来た。
それは 國學院雑誌 1977-04 本願寺の坊官下間氏 横尾國和 という論文である。

下間氏とは戦国時代に活躍した一向一揆の幹部で 織田信長を苦しめた下間頼廉が名高い。
その下間氏と下河原氏というのは どうやら室町時代の半ばに縁戚を以て結びつきが生まれていた事が論文で紹介されている。
以下が下間家系図より下間丹後玄英一家について 下河原に関係する者を抜き出した抜粋である。

下間氏
玄英下川原五郎右兵衛尉
四男頼永下河原周防守幸盛
五男慶秀下河原宗左衛門尉盛房

まず文明三年(1471)に本願寺の蓮如は越前吉崎に道場を造ったが そこに下間玄英も随行している事を示す。

四男頼永の家系は刑部卿家となり その曾孫が高名な下間頼廉である。
五男慶秀の舅である下河原宗左衛門尉は寛正六年(1465)京極持清に仕えていることが 京極家譜 大日本史料第八編之三 680 に見ることが出来るそうで 同年には下河原宗八なる人物も見ることが出来るようだ。
松江市史通史編二 の第三章第三節によれば 文明元年(1469)八月四日に尼子清貞勢により下河原宗左衛門尉が討ち取られたと記されている。彼が玄英五男の舅である可能性が高いだろう。

他に下河原氏は尼子氏と共に山陰へ渡った一族も居るようで むしろ尼子氏同様に近江に残った一族以上に記録が残っているものと思われる。ただ弊サイトは そうした雲州尼子は扱わないのであしからず。

また永正七年(1510)二月二十二日の御内書に見られる 下河原宗九郎 更に天文三年(1534)に行われた小谷城饗応 浅井備前守宿所饗応記 には 下河原宗兵衛尉 が名を連ねているが それぞれここまで紹介した下河原一族の近江に残った後裔だろう。

御内書に出てくる近江衆・京極被官について

大日本史料の永正七年(1510)正月二十九日条は 将軍足利義尹 義稙 が江州の敵 つまり足利義澄を討つように細川高国や大内義興 佐々木中務少輔入道 京極高清と比定される をはじめとする各地の大名に御内書を発行した旨が記されている。
その中には二月二十二日の御内書も収まるが この御内書には藤堂九郎兵衛をはじめ近江国内の様々な人物が宛名として記される。

ここで二月二十二日の御内書に記される近江衆を箇条する。

佐々木五郎とのへ.
佐々木尼子刑部少輔とのへ.
佐々木黒田四郎左衛門とのへ.
佐々木鏡兵部大輔とのへ.
佐々木岩山四郎とのへ.
多賀四郎右衛門尉とのへ.
佐々木高橋兵部大輔とのへ.
若宮左衛門大夫とのへ.
多賀豊後入道とのへ.
下河原宗九郎とのへ.
箕浦又四郎とのへ.
河瀬右馬丞とのへ.
河瀬弾正左衛門尉とのへ.
藤堂九郎兵衛尉とのへ.
市村備後守とのへ.
上坂治部入道とのへ.

佐々木五郎 佐々木尼子刑部少輔をはじめとして 佐々木の名前が目立つ。見るとわかるとおり佐々木でありながら尼子 黒田 岩山 高橋はそれぞれ姓を持つ一族でもある。彼らは鎌倉や室町の早い頃に佐々木氏から分枝した一族である。

佐々木五郎

佐々木五郎は不詳であるが 東浅井郡志 坂田郡志 には 加賀政勝 と記される。
佐々木氏で五郎を名乗る人物としては 京極高清の子息である 五郎高慶 が思い浮かぶ。しかし高清の子息が表舞台に登場するのはこれより十年後の事であるから この 佐々木五郎 京極五郎高慶 は別人であろう。

天文三年(1534)の記録 浅井備前守宿所饗応記 には 加賀五郎 という人物が登場し次のように解説されている。

加賀守政數甥也

また加賀守政數は同饗応記にに 永徳院 として名が有り

京極加賀守政數法體。一枝軒と云加賀守殿是也。加賀守高數孫也。加賀守教久子也。

以上のように記される。つまり加賀氏も京極の一族に数えることが出来 佐々木を名乗ることに何ら違和感は無い。
坂田郡志によると 加賀五郎 の諱は 勝成 とされているが 実際のところやその年齢は不詳である。また 加賀守政數 について坂田郡志には 政勝 であるとしている。これらは饗応記と相違し 結論づけるには早急だ。
ただ 佐々木五郎 なる人物は東浅井郡志や饗応記にあるとおり 京極加賀守 加州家 の人間である可能性が高い。

教久

京極教久は 碧山目録 によると土岐一族の生まれとある。浅井氏三代 江北記 によると 実は揖斐の池尻氏であるらしく 京極高数の養子として跡を継いだようだ。

高数

ちなみに高虎前史で 京極高數 が登場するのはこれが二度目である。
一度目は景盛の項 広橋家領羽田庄を返還した事についてで 高數から返還されたのである。後に高數は嘉吉の変で足利義教と運命を共にしている。

さて高数は本来京極氏の家督を継ぐ人物では無かった。兄高光 その長子持高が早くに亡くなった。高光には次男つまり持高の弟には 持清 なる人物が存在したが 何らかの理由で高数が後見もしくは名代としてだろうか 京極氏の長たる立場と相成った。家督を継いだとする説もあるが ここでは特段触れることはしない。
高数は その死からもわかるように足利義教に信頼されていたのだろうか。

教久の養子入り

さて池尻氏である教久は 子の無い高数の養子になった。
その時期ではあるが という字を用いている点 これが足利義教の偏諱であると考えれば高数の生前であろう。

ところで一般的に多賀高忠は高数の子とされる。
しかし高忠は佐々木姓を用いなかった点から 二木謙一氏は京極出自説を一蹴している。実際 高数に高忠という子が存在したのであれば 池尻氏から養子をとる必要は無い。読者諸賢も簡単に理解できるだろう。

さて教久の出自に関わる碧山目録の記述は 長禄四年(1469)三月六日に 賀州大守綱公 が亡くなったという項目で登場する。
教久の記録は僅かに存在する。
古文書フルテキストデータベース には 益田家文書 として 殿中祗候人數記録 が収録されている。これは康正二年(1456)七月二十五日の足利義政大将拝賀に関する記録のようだが 帯刀の中に 佐々木加賀守 が見える。この加賀守は教久比定されているが 亡くなる十三年前であるから教久である可能性はやはり高いと見える。

政宗

さて 坂田郡志 には京極の一族として加賀守家も説明が為されている。
数久の次代を政宗とし 政数 政勝 勝成と連なる。

政宗は 親基日記 寛正六年(1465)八月十五日条の 石清水八幡神幸一帯刀御車前十番 にて 左佐々木六郎政高 右加賀四郎政宗 として登場する旨も郡志には記されている。
また文明十年(1478)十二月十二日条には 佐々木加賀 左馬助政宗 が公方や御所へ糸や太刀を献上した旨が記されている。

政数

坂田郡志によると政宗に子は無く 弟の政數が跡を継いだようだ。
一枝軒 とは饗応記にも見られるが 郡志によるとその出典は 江北記 のようである。また系図によると五郎も名乗っていたようだ。

政数も幾つかの古記録に見ることが出来る。
永享以来御番帳 の文明十二三年条の外様衆 親長卿記 文明十八年七月二十九日に行われた室町殿右大将拝賀にて帯刀に黒田や朽木 尼子宮内少輔長綱といった佐々木一族九人とともに 同加賀守政數 以上が坂田郡志で紹介されている。

なお長享元年正月二十五日にも記述があるとされるが 長享元年は八月以降の為に正月は存在しない。
翌長享二年の同日には 唐橋在数 の名前を見ることが出来るので 恐らく 政數 在數 を誤読したものと思われる。
また 山科家礼記 では年月日条にも佐々木加賀守政数の名を見ることが出来る。

一方で木下聡氏は 室町幕府外様衆の基礎的研究 東京大学日本史研究室紀要第十五号 二〇一一年三月 にて 政宗と政数が同一で 政宗とは政数の初名である可能性を示唆している。また政宗について 系譜上高数の子とされている と記しておられ 非常に興味深い。

政勝、勝成

政勝 の存在は 江北記 のみに現れ 長岡に隠居していた身のようである。
一方で永正の佐々木五郎を政勝と同一にしているのが郡志であるから ここは慎重になるべきである。
また政勝について 東浅井郡志 では 清忠 とも記される。

政勝の跡を継ぎ 最後の加州家当主とされるのが 勝成 である。
政勝と勝成は何れも 五郎 を名乗っていたと系図にはあるが 政勝の実状は不明である。

勝成の書状

さて勝成は坂田郡志の古記録編 郷野文書 に某年十月廿八日の吉祥坊宛勝成書状が収録されている。

當郷鏡新田之儀爲粮悉雖勘落候向後彌可有入魂之由候間無別儀所務之儀可被申付候猶江伊豆守可申候 恐々謹言。
 十月廿八日                    勝成 花押
     吉祥坊

この書状は加州家が治めていた長岡 今の近江長岡周辺 にある 鏡新田 に関しての書状である。署名は勝成で 五郎 が見られないのがやや残念なところだ。
その文末に 猶江伊豆守可申候 とあるのは 加州家の重臣郷氏で長岡の庶務を担った人物のようである。その名前からすると書状を伝えた 郷野氏 の先祖になるだろうか。

加州家の没落

坂郡志では 近江志新開略記 を出典として 加賀氏は美濃に浪人したと記している。郷野文書を読むに天文十九年頃には郷伊豆守が書状を担っている様子が見て取れるので 加州家はその頃には美濃へ落ちぶれていた可能性が考えられる。

美濃の具体的な地名は定かでは無い。
同時代 天文四年(1535)の多賀貞隆離反に端を発する南北騒乱が発生している。
その騒乱で勝成もしくはその一族郎党が近江を追われ 揖斐の池尻氏を出自に持つ教久の縁から その郷へ逃亡したのだろう。

加賀五郎の課題

しかしここで問題がある。それは饗応記にある 加賀守政數甥也 という加賀五郎についての記述が成り立たない点である。
郡志の説明では政数の子息が政勝とされるが 政数の甥が 加賀五郎 であるならば 政勝が政宗の遺児などで無ければ成り立たない。やはり 東浅井郡志 にあるように 続群書類従の記述が怪しいと言わざるを得ない。

結論としては やはり 佐々木五郎 加賀五郎 は京極の一族 加賀家 加州家 の当主である可能性が濃厚だが それぞれ個人の特定は現状では難しいとするべきであろう。
ところで上平寺を描いた 上平寺城下絵図 滋賀県教育委員会発行 京極氏遺跡群より には 加州 という表記が見られる。解説によると上平寺城下にはこうした加賀守一族の屋敷も存在したようだ。

佐々木尼子刑部少輔

佐々木尼子刑部少輔もよくわからない。
大日本史料では雲州尼子一族の 国久 と比定されるが 此方は近江の話であるから雲州尼子は関係ないようにも思える。
さらに国久であったとしても十八歳の折で 諱も 国久 ですらなく幼名 孫四郎 の頃合ではないだろうか。

そうしたところでかつて尼子清貞 経久の父 が刑部少輔を称している。しかし清貞は西島太郎氏は清貞は永正以前に亡くなっており 西島太郎氏は近江尼子氏との見解を示している。松江藩の基礎的研究

尼子政高

さて 山科家礼記六巻 の索引を読むと佐々木尼子刑部少輔について 尼子政高 なる人物が引き当たる。^
彼が登場するのは家礼記四巻にて文明四年(1472)六月九日の 出雲国鳥屋郷 伊志見郷についての書状の差出人である。
御内書の三十八年前の書状であるが 書状の種類を見るに雲州に纏わることなので近江とは関係が無いように思われる。
しかし文明年間に出雲へ出ていた京極氏が上洛した例を考えると ここに登場する 佐々木刑部少輔 が同一人物である可能性は残る。

また 尼子政高 とする点も興味深い。この名前は 親基日記 の寛正六年(1465)八月十五日条に見ることが出来る。
つまり 石清水八幡神幸一帯刀御車前十番 にて 左佐々木六郎政高 右加賀四郎政宗 とある点だ。
政宗は加州家の人間であるが 六郎政高はよくわからない。ただ後年秀吉の配下に 尼子六郎左衛門 が現れる事から 六郎政高が尼子である可能性が無いとは言えない。

同時代に 佐々木 政高 では 騒乱を巻き起こした一人 京極政経 も思い当たる。しかし政経は同時代既に 佐々木治部少輔政高 であった事が大日本史料から読み取れるので 政経と佐々木刑部少輔は別人だろう。

そもそも佐々木刑部少輔で名高いのは 尼子の祖 高久である。
史料編纂所データベースを探すと 応永二十九年五月四日に尼子郷について 佐々木刑部少輔秀久 の名前が 大日本史料七編人名カードデータベース に見える。
すると御内書に見える 佐々木刑部少輔 なる人物は この人物の後裔と考える事も出来るが実のところはわからない。

結論を述べるとすると 文明年間出雲に在国していた佐々木刑部少輔政高本人かその縁者 もしくは近江尼子氏の人間であると考えるに留める。

^:知識を深めた今 この 尼子政高 項は全くの誤りとしたい。消し去りたいが 新編集方針として本項はこの注釈を以て指摘し 新解釈を次項に立てる/20240511

尼子刑部少輔と佐々木六郎政高は別人

以上は令和六年(2024)五月までの見解である。
しかしこの記事を書いてから約三年経ち 理解を深めた結果として 尼子政高 という表現を改めたいと思う。
つまり 山科家礼記 続群書類従完成会 史料纂集 の人名比定に於ける誤りを 知識に乏しい時代の自分は鵜呑みにしてしまい 尼子政高 と言う人物を錬成してしまった。

さて 尼子刑部少輔 は応仁から文明にかけて頻出する人物で かつては 清定 近年は 清貞 として知られる人物で 尼子経久の父としても名高い。
出雲尼子家資料集 でも 清貞 としている。諱の由来がわかったら追記するスペース
すなわち文明四年(1472)に 出雲国鳥屋郷 伊志見郷 に介在できる 尼子刑部少輔 まさに尼子清貞に他ならない。

して 親基日記 の寛正六年(1465)八月十五日条に見える 佐々木六郎政高 であるが 文明元年(1469)に赤穴氏へ軍勢を催促している 政高 が存在する。佐々木六郎政高が登場してから僅か四年後で 同一人物の可能性が高い。
この 政高 は以降度々書状を発給しており 文明五年(1473)に近江国守護に補任された 京極治部少輔政高 と同一人物とするのは自然であろう。
つまり京極政高 政経 の仮名は 六郎 と比定することもでき 尚且つ文明年間に 政高 として活躍するのは尼子氏では無く その主筋たる京極政高 政経 その人であり 尼子政高 等とするのは誤りと結論づけることが出来る。

20240511

尼子宮内少輔長綱

時に大日本史料の文明十八年(1486)月二十九日条には足利義尚の拝賀に関して 近衛政家の記録 後法興院政家記 の八月五日条が収まるが その中の帯刀に 尼子宮内少輔長綱 なる人物を見ることが出来る。
長綱と刑部少輔の関連は不明であるが 可能性を考えると近江尼子は長綱の宮内少輔家と刑部少輔家の二系統であったのかもしれない。

尼子宮内少輔賢誉

尼子の中に宮内少輔を称した人物が居ることがわかると 天文二十四年(1555)の 多賀大社梵鐘 にある 佐々木宮内少輔賢譽 が尼子氏であると考える事が出来る。
梵鐘には 尼子沙弥宗志 の名前もある。
天文二十四年(1555)の 佐々木宮内少輔賢譽 は諱の通り 六角義賢 の影響を受けている事が見受けられるが 元の名は 宗譽 とでもいったのだろうか。先祖の 京極道誉 を意識した可能性もあるだろうか。

実は六角義賢は某年八月二日 尼子宮内少輔 に対して書状を発行している。
これは戦国遺文や東浅井郡志などに収録されていて 東浅井郡志や浅井氏三代では久徳口の守備を命じている内容から天文二十一年(1552)の対京極高広に関するものと推定している。
そうなると久徳口を守備した尼子氏は 宮内少輔賢誉本人である可能性が高い。また遺文一一二五では甲良庄内の水路に関して分木の管理を六角氏の奉行人から指示され 更に六角義賢からは 多賀庄一円 多賀庄全体か 一円と呼ばれる地域 の水利に関わる争いについて その裁定結果を通知されている。遺文一一二三 ※参考 松江藩の基礎的研究 西島太郎 から第四章京極氏領国における出雲国と尼子氏 第三節
尼子氏は甲良のみならず 多賀にまで権利を有していたことが窺える。戦国大名尼子氏の伝えた古文書 によれば 一円庄は道誉以来の領地のようだ。

またこの時期の尼子氏でいけば 浅井亮政の側室で久政生母の馨庵寿松が尼子氏とする説がある。
これは 島記録 の一節が元となっているようだが これ以外に久政生母の出自に纏わる史料は僅かであるので 慎重に考える必要があるだろう。
この戦で浅井久政は京極高広に合力しており 母親の実家とは敵対したことにもなる。これを乱世の常と捉えるか 違和感を覚えるかは人によるだろう。

出雲尼子氏と交流があった可能性

時に浅井久政の家督相続には出雲の尼子氏の力もあるとする説も出ており 確かに の字は晴久や祖父経久のように尼子累代の字と同じであり興味深い。最も近江の尼子氏は 宗志 からわかるように 天文年間には久 を使わなくなった可能性が高い。
この説の真贋は定かでは無いが 尼子経久 晴久の時代に栄えた大大名尼子氏が 近江の尼子氏と関わりを持っていたのはどうやら事実のようだ。

長谷川博史氏は 戦国大名尼子氏の研究 によれば天文の末から弘治三年(1557)までに 尼子晴久は 宮内少輔 なる人物に対し 公方の入洛や畿内と南北の情勢について尋ねている書状を紹介している。
長谷川氏は公方の入洛や 南北 の情勢に精通する 宮内少輔 とは近江の尼子氏とするが 私も相違ない。賢誉が六角氏で台頭したのは この大大名尼子氏との血縁が大きかったのかもしれない。むしろ義賢自身が 三好との関わりの中で出雲の尼子氏と結ぶために 国内に居た同氏の本家格というべき近江尼子氏に白羽の矢を立て 後継者に偏諱を行った。そのようにも考えられるだろうか。

出雲の尼子晴久はこれ以前 詮久時代 にも近江と関わりを持っていて 天文九年(1540)の竹生島造営の勧進にも参加している。東浅井郡志四 八月十九日付竹生島造営奉加帳
西島太郎氏は 松江藩の基礎的研究 の中で 竹生島信仰に深く帰依した寿松による 近江と出雲の同族としての関係によるところが大きいと考えられる とする。一方宮島敬一氏は 戦国期社会の構造とその歴史的特質の研究 のなかで 浅井家 亮政 が計画したものとする。
つまり亮政は竹生島造営のために側室の血筋を頼り 飛ぶ鳥を落とす勢いの大大名尼子氏に勧進を依頼したものと考えられる。この頃は浅井亮政も六角定頼に従属していた時期であるが 六角氏との関係はどうなのだろうか。

まず尼子氏はかねて幕府からの上洛要請に応えるとして播磨に侵攻していた。奉加帳が出された天文九年夏の情勢を大日本史料データベースでみると 播磨の守護赤松晴政 当時は政祐か は七月三日に幕府に愁訴したとある。この当時 六角定頼は足利義晴政権を構成する一人であったから 両者の間柄は敵対と言えるだろうか。
結果的に尼子氏は大内軍 毛利元就 に敗れ撤退 竹生島造営の勧進もままならず 天文十一年(1542)閏三月二十九日には浅井久政に対して 隣国依錯乱 で勧進の不首尾を詫びる書状を発行している。宮島氏 東浅井郡志四
晴久は永禄三年(1560)に急死し 跡を継いだ義久も永禄九年(1566)に毛利元就に敗れ ここに守護大名京極氏 政経 材宗 吉童子親子から出雲隠岐支配を受け継いだ大大名尼子氏は滅亡した。

久政の母 寿松は永禄十年(1567)に亮政の正室 浅井蔵屋と共に竹生島小島権現へ寄進を行っている。彼女は同年までは健在であった。
西島太郎氏はそうした寿松について斯様に評す。

この年の十一月 出雲では月山富田城が落ち 尼子義久は毛利元就に降伏する。寿松は 出雲尼子氏の盛衰と 少し遅れて経験する浅井氏勢力の伸長を見た女性だったのである。松江藩の基礎的研究 第四章京極氏領国における出雲国 Ⅱ京極氏と出雲国/20240526 出典加筆

尼子氏の没落

梵鐘以降では永禄十三年(1570)に信長が禁中御修理に際し 上洛を呼びかけた勢力の中に 京極殿 同浅井備前 □子 以下省略 と記されるが この □子 尼子氏 と考えられている。
そうなるとこれは賢譽を指すか 後述する宗澄の若かりし姿考える事が出来る。
しかし尼子氏は同年を最後に記録が途切れる。信長公記にも見ることは出来ない。

答えは六角遺文の中に見える。元亀二年(1571)八月十七日 六角義治は石谷の倉垣勘八郎に対し 為尼子 河瀬差越候処 対両人度々造作由 祝着候 との書状を送っている。遺文九八一 つまり元亀争乱の最中 尼子氏は六角承禎 義治親子と行動を共にしていた。
石部家清善隆寺法名掛軸 石部町史 は慶長三年(1598)三月に 主君六角承禎をはじめとする六角遺臣を弔うべく 石部家清が納めた掛け軸である。これは石部家清が最期の力を振り絞り認めたもので その中に 尼子宮内少輔宗澄七月二十六日 の名を見ることが出来る。
どうやら慶長三年(1598)までの某年七月二十六日に 尼子宮内少輔宗澄 は亡くなったらしい。しかし宗澄と賢誉が同一人物であるかは定かでは無い。ただ尼子氏は元亀二年(1571)時点で義治に従っているから 石部の掛け軸に遺臣として登場することに違和感は無い。
そして尼子氏が再び世に姿を現すのは信長の死を待たなければならなかった。

尼子氏の復活~尼子六郎左衛門・宮内少輔宗澄~

秀吉の配下を示す 秀吉公小牧陣御備之図 尼子六郎左衛門 が現れる。これは天正十二年(1584)のもので 尼子氏はここに復活したことになる。
尼子六郎左衛門は同年十一月の 江州蒲生郡今在家村検地帳及百姓名寄帳 大日本史料 にも石田左吉等と共に名を連ねており 奉行としても秀吉に重用された人物のようである。

他に 歴名土代 には翌天正十三年(1585)七月十一日に 源宗澄 宮内少輔 に叙されている旨が記される。なお下村効氏は 日本中世の法と経済 にて お湯殿の上の日記 を出典に天正十四年(1586)正月十八日に叙されたとしている。第二編戦国 織豊期の法と制度 第七章豊臣氏官位制度の成立と発展 諸大夫成と豊臣授姓
姓こそ源であるが 天正年間に石田三成や大谷吉継らと並び立つ 宗澄 といえば 近江蒲生郡志七巻 に見られる某年九月十七日惣見寺宛書状 松茸について の差出人 尼子宮内少輔宗澄 の事だろう。
すると ここに 尼子宮内少輔 が見事に復活した事がわかり 尼子宮内少輔宗澄 とする事が出来る。

補足として某年九月十七日惣見寺宛書状に対応する書状として 九月某日の長大蔵正家差出 尼宮少輔宛 惣見寺寺領山野安堵通知状 が存在する。
また日本古文書ユニオンカタログによれば 天正十五年(1587)三月晦日に出された光源院侍者御中書状の差出人が 尼宮宗澄 という。これは尼子宗澄の事であろう そして 光源院文書 に収まるようだが未翻刻らしく詳細な内容まではわからない。

そもそも 尼子六郎左衛門 の名は尼子氏初代の高久が名乗ったとされる名で 明徳年間の書状には 六郎左衛門 の名前を見ることが出来る。戦国大名尼子氏の伝えた古文書
そのような由緒ある名前を尼子氏の生き残りが名乗った事に何ら違和感は無く 更にそうした由緒ある名乗りを継いだ彼が 天文末に活躍した 宮内少輔賢誉 と同じ官途を踏襲したことは理解が出来る。更に 沙弥宗志 と同じ を継いでいることは 宗澄が宗志と同じ家系である事を示唆するものではないだろうか。
もちろん 宮内少輔賢誉 が後に表舞台に返り咲く際 六郎左衛門 を名乗り 秀吉の諸大夫として正式に 宮内少輔宗澄 なった可能性 同一人物も考慮すべきであろう。

尼子三郎左衛門、壽千寺

秀吉の時代に見られる尼子氏では他に 尼子三郎左衛門 尼子壽千寺 が代表的であろうか。

尼子三郎左衛門は天正十九年(1591)二月二十八日に切腹した千利休の検視を務めた一人で 同年八月二十一日に秀吉が発給した地下人町人百姓等の移動を禁ずる触書を受け取っている。更に文禄四年(1595)に計画された 実施されなかった 草津湯治にも名を連ねた。
同名の人物は後年藤堂家にも仕えており 佐伯朗氏の 藤堂高虎家臣辞典 によれば福島家改易後に仕官したらしい。そうなると秀吉が没し 関ヶ原の後は福島正則に仕えていたのだろうか。もちろん時代の流れを考えると 天正から文禄期の三郎左衛門と福島家改易後に仕官した三郎左衛門は同一人物ではなく 子息の可能性を考えるべきだろう。

後者尼子壽千寺は駒井日記や秀次に関する書状で見ることが出来るように 秀次の馬廻りとして知られる人物である。浅井久政生母 寿松と同じ 寿 を名乗る尼子氏ということで 宗澄の一族で間違いなかろう。しかしその出自から秀次の滅亡後の行方は定かでは無い。

尼子氏と藤堂氏

藤堂氏の書状には尼子氏が登場するものも存在する。
まず両氏の関係は 何と言っても地理的要因が大きいだろう。つまり藤堂氏が領したとされる今の在士地域の北隣に尼子地域が存在する。
甲良は古く 甲良三郷 と呼ばれる 下之郷 尼子 法養寺の神社の氏子圏で地域により構成されていた。それぞれ下之郷 松宮大明神 現桂城神社 尼子郷 松宮梵天王社 現甲良神社 上之郷 素盞烏社 現甲良神社 である。
この中で藤堂氏が勢力を持った地域 在士 尼子郷 に数えられ 謂わば尼子の下にあるような一面がある。そうした部分は次の二つの史料にも表れる。

尼子氏が現れる書状の初出は天文元年(1532)九月某日に藤堂九郎左衛門尉家忠から 尼子殿御代官 に宛てて出された請文である。革島家文書 拾遺七七
その内容は私の無学につき 詳しく解説することは出来ないのだが 不足 切符 百姓 現米 などの言葉が並ぶと 恐らくは年貢に関連する請文と考えられる。
請文とあるように力関係では 尼子殿御代官 が藤堂家忠を上回る。

次に尼子氏が現れるのは明智光秀の宛名年次不明の八月二十七日書状である。これは書状の中に藤堂氏と尼子氏が登場するもので 早い話が報告書の類だ。
その内容は 藤堂兵庫助の知行が御料所となり その代官に尼子殿を仰せ付けた といったもので 年貢諸公事并切符以 と続く。

それぞれの尼子氏が一体誰にあたるのか定かではないが 天文年間の近江尼子氏であれば 名が残る沙弥宗志や宮内少輔賢譽が該当しそうだ。
また内容を見比べると 代官 切符 といった語句が共通している。こうした点も無学故によくわからないが 光秀書状で 尼子氏に戻った といった印象を受ける。

一方で藤堂氏は三郷外の蚊野や安食にも私領を有し 更に高虎の出自からわかるように下之郷の多賀氏と血縁であった。藤堂氏は尼子 多賀と上手に渡り歩いていたことになるだろうか。

佐々木黒田四郎左衛門

黒田氏も佐々木氏の庶流にあたるが 何時誰から分枝したのか確固たる史料に欠ける。その姓を見るに黒田という土地から取ったと考えられ 通説では伊香郡の黒田村 今の長浜市 が起源とされる。つまり彼らは北郡の衆となる。
一説には後世の黒田官兵衛 長政の先祖を佐々木黒田とするが 現在では信憑性に欠け通説ではない。しかし江戸時代の黒田家出自のお陰で佐々木黒田は有名だ。

史料編纂所データベースを叩いても黒田四郎左衛門は登場しないので 全くよくわからない一族である。
ただ黒田四郎左衛門は確かに存在していて 天文三年浅井備前守饗応記 にも 黒田四郎左衛門尉 の名前が見える。恐らく御内書に見える四郎左衛門と同一人物か その後裔だろう。

東浅井郡志では黒田宗清としているが 天文年間に 宗清 なる人物は天文七年九月十六日付の上平寺文書の宛名に見ることが出来る。坂田郡志によると上包に 黒田宗清 と記されているらしい。
次に提示する記事を読むと黒田家の先祖は 黒田宗清 というらしい。

すると室町時代に再び 黒田宗清 が現れる事は若干不思議だ。
天文七年の書状では 宗清 の他に 連署で 沙彌昌運 の名前も見られる。彼は多賀氏であり 坂田郡志では 多賀勝直入道昌運 と記される。彼は多賀出雲守家の末裔と考えられるが 沙彌 とは未熟な僧を意味する。つまり多賀の法号である。
この書状は 環山寺殿 の菩提を弔う旨を記したものであるが 環山寺とは同年一月に亡くなった京極高清の事だ。つまり多賀は高清が亡くなってから出家したと考えられる。

すなわち黒田宗清の 宗清 もまた法号とも捉える事が出来る。その場合読みは そうせい だろうか。
最も上平寺文書の 黒田宗清 と黒田四郎左衛門と同一であるのか これらの確証は持てない。

佐々木黒田氏

さて佐々木黒田については渡邊大門氏の記事に要点がまとめられている。
この記事を参考に調べてみると該当する記録に当たった。

まずは 黒田伊豆守 であるが これは 古文書フルテキストデータベース にて 益田家文書 として康正二年(1456)七月二十五日の足利義政大将拝賀に関する記録 殿中祗候人數記録 の中に見ることが出来る。その中で 佐々木黒田伊豆守 は信秀と付記されている。
大日本史料の長禄二年(1458)七月二十五日条にある 報恩寺文書 には 帯刀として 佐々木黒田伊豆守信秀 の名前を見ることが出来る。

また 黒田左馬助 中世記録人名索引データベース にて 親長卿記 の文明十八年(1486)七月二十九日条に見られることが判る。これは足利義尚の拝賀に関しての内容で 大日本史料の同日条には近衛政家の記録 後法興院政家記 の八月五日条に帯刀として 黒田左馬助貞長 の名前を見ることが出来る。なお同日条には親長卿記も収まるが 黒田の名前は見当たらない。

そうなると黒田四郎左衛門なる人物は こうした黒田伊豆守や左馬助貞長の後裔に当たる人物と考えて差し支えなかろう。

ところで上平寺を描いた 上平寺城下絵図 滋賀県教育委員会発行 京極氏遺跡群より には 黒田 という表記が見られる。解説によると上平寺城下にはこうした黒田氏の屋敷も存在したようだ。

佐々木鏡兵部大輔

鏡氏は鎌倉の末期から南北朝の時代に佐々木氏から分枝した家で 一説に蒲生郡の竜王にて星ヶ崎城を構えたという。
しかし先に述べたように加州家が治めた長岡には 鏡新田 なる地がある事から 此方も鏡氏ゆかりの地と考えられるが詳しいところは定かではない。

鏡兵部大輔の記録は僅かに存在する。古文書フルテキストデータベース には 益田家文書 として康正二年(1456)七月二十五日の足利義政大将拝賀に関する記録 殿中祗候人數記録 が収録されている。その帯刀の中に 佐々木鏡兵部大輔 が記されている。彼は 教秀 と付記されるが 他に見ることは出来ない。
とはいえ五十四年の長い時を考えると 御内書に見られる 鏡兵部大輔 は彼の後裔だろう。

佐々木岩山四郎

彼は 尚宗 と付記されている。
佐々木岩山氏も佐々木氏から分枝した家である。
この時代の岩山氏といえば文明年間に歌人の 岩山道堅 が高名のようだ。
その諱は 尚宗 である。近衛政家の記録 後法興院政家記 の文明十八年(1486)八月五日条には帯刀に 佐々木岩山四郎尚宗 の名が記されている。これは大日本史料の同年七月二十九日条内に収まる。また 山科家礼記 の索引を読むと 佐々木岩山四郎 が尚宗だとされている。

また 親孝日記 の大永元年(1521)八月二十七日条にて 岩山四郎 足利義晴の将軍任官に関し大原五郎と共に 翌大永二年の 祇園會 に関する記録 祇園會御見物御成記 にて 岩山殿道堅 の名が見える。

こうして見ていくと御内書に記される岩山四郎は道堅尚宗その人か 縁者と考えられよう。

岩山美濃守

史料編纂所データベースで 岩山美濃守 を調べると幾つか見ることが出来る。すべてを紹介するのは長くなるので割愛するが 応永年間の 秀定 の後裔として永享年間から姿を見せる 持秀 政秀 が存在するのだろう。
美濃守と尚宗の関係は不明である。諱から が消える。 とは足利義尚の偏諱だろう。そして美濃守を名乗った様子も無い。縁者であろうとは推測できるものの子息の類とは言い切れない。

康正二年(1456)七月二十五日の足利義政大将拝賀に関する記録 殿中祗候人數記録 益田家文書 には 帯刀の中に 佐々木岩山美濃守 が記されている。彼は 持秀 と付記される。この 岩山美濃守 尚宗と同じく 後法興院政家記 の帯刀に 岩山美濃前司政秀 として記されている。これは大日本史料の同年七月二十九日条内に収まる。
持秀も政秀も同一人物と考えられ 持秀 は京極持清 政秀 は義政もしくは政経から偏諱を受けたのだろう。その変遷の表れと考えられる。

改名の時期を考えると 大日本史料の長禄二年(1458)七月二十五日条にある 報恩寺文書 が参考となる。同条の帯刀には 佐々木岩山四郎左衛門尉政秀 と記されている。
つまり彼は二年の間に 美濃守持秀 から 政秀 へと名を改めた。その際に彼は 美濃守 も退いて 四郎左衛門 に改めたこともわかる。

しかし前述の通り文明十八年(1486)には尚宗が 四郎 を名乗っている。そうなると政秀はもう一度名前を改めたと考えるべきだ。
岩山政秀 で調べてみると二年後の長享二年(1488)十月六日に 岩山美濃守政秀 が申次衆に加えられたとある。これは大日本史料の同年五月末条に収まる 長禄二年以来申次記 に記されている内容だ。
長くなったのでまとめてみる。

  1. 康正二年(1456)七月二十五日
  1. 長禄二年(1458)七月二十五日
  1. 文明十八年(1486)八月五日
  1. 長享二年(1488)十月六日

つまり政秀が文明十八年(1486)八月五日に一体何と名乗っていたのかが問題だ。しかしそれを解決する手立ては全く以て見つからない。謎である。

岩山民部少輔

さて 天文三年浅井備前守饗応記 には 岩山民部少輔殿 を見ることが出来る。彼もまた岩山道堅尚宗や 御内書に見られる岩山四郎の縁者や後裔だろう。

また大永二年(1522)の 祇園會見物 に関して 岩山民部少輔祗候也 と記録が残る。佐々木中書入道 の名も見られるから これは高清に付き従ってのものだろう。祇園會御見物御成記
饗応記に見られる岩山民部少輔より十二年前の人物であれば 同一人物の可能性が高かろう。

佐々木高橋兵部大輔

史料編纂所データベースで 佐々木高橋 について調べると 大日本史料七編人名カードデータベース に行き当たる。つまり 報恩寺文書 の長禄二年(1458)七月二十五日条に 佐々木高橋参河守高久 が記されているという。
例によって大日本史料の同日条を調べてみると この日は義政が内大臣に任命されたという。本文は稿本で読解に難があるが 同日条に収まる 報恩寺文書 には参内の帯刀に 佐々木高橋参河守高久 の名がある。

しかしインターネットで 高橋三河守 で調べても戦国時代の 高橋鑑種 が有名なようで 他を探すのも至難の業だ。

東浅井郡志 の四巻は史料集である。その中には 金剛輪寺下倉米銭下用帳 も一部が収録されているが 明応五年五月三十日には 高橋民部少輔殿より兵糧米懸ニ來殿原中間飯酒 と高橋民部少輔なる人物が登場している。この人物を史料編纂所データベース調べると 永正年間に出雲の益田宗兼へ宛てた 高橋元光 なる人物の書状に行き当たる。
しかし 金剛輪寺下倉米銭下用帳 に登場する高橋民部少輔は明応年間の人物で 更には近江の人物であるから無関係の他人ではないかと考えられる。

天文年間であれば 天文三年浅井備前守饗応記 には 高橋兵部少輔 を見ることが出来る。同じ人物は東浅井郡志の二巻第九章第二節にて 天文十年(1541)六月七日 上坂助八 に宛て書状を発行している。幸いにも諱が 清世 と示されている事はありがたい。つまりは 高橋兵部少輔 とは 高橋清世 の事と相成る。

さてインターネット上には高橋氏を 三州家 とする解説が存在する。しかしながら三河守を名乗った事が確認できるのは 佐々木高橋三河守高久 のみで 加州家とは異なり兵部大輔や兵部少輔 民部少輔らが三河守を名乗った形跡を確認することは出来ない。

若宮左衛門大夫

史料編纂所データベースで 若宮左衛門大夫 を調べてみると 天文七年十月九日 翌天文八年四月二十七日に証如から書状を受け取っていたことが 日本古文書ユニオンカタログ から判る。これは 証如書札案 として 大系真宗史料 文書記録編四 に収まる。
これは永正の若宮左衛門大夫と同一人物か その後裔と考えられるだろう。

左衛門大夫の諱を考える上で 永正二年頃のものとされる京極家奉行人施行状の差出人 秀種 が若宮氏と比定されている事は興味深い。すると 秀種 若宮左衛門大夫 である可能性も考えられる。

他に大日本史料データベースで若宮氏を調べると 文明十八年九月十三日に多賀宗直から書状を受け取っていた 若宮藤六 が目に留まる。また天文から永禄にかけては浅井方に 若宮藤三郎 なる人物が存在する。恐らく藤六の後裔だろう。

変わったところでは六角定頼の感状に登場する若宮氏も存在する。天文七年(1538)三月二十七日の二階堂小四郎宛て感状にて 今朝卯刻 於佐和山麓及合戦 若宮彌左衞門被討捕之 首到来候。高名之至 この日の朝に 若宮弥左衛門 が討死したという内容である。
浅井氏三代 宮島敬一 によれば この戦いは京極氏の家督相続に関し京極高慶と高広の間で発生した合戦の一環のようで 六角定頼は高慶に合力していた。この中で若宮藤三郎が高慶 定頼 若宮藤左衛門が高広に従った。弥左衛門は高広方だろう。一族が分裂したのは若宮氏に限らず 上坂氏や下坂氏も分裂している。
またこの感状には 多賀豊後守 の名前を見ることが出来る。彼は高慶 定頼に従っていたようだ。

藤三郎は後に浅井方へ転じたことが 若宮文書 から読み取ることが出来る。果たして藤六 左衛門大夫 藤左衛門 藤三郎の関係性はどのようなものであったか定かではないが 浅井台頭後も生き延びた点は 佐々木一族 尼子を除く とは異なる点である。

上平寺を描いた 上平寺城下絵図 滋賀県教育委員会発行 京極氏遺跡群より には 若宮 という表記が見られる。解説によると上平寺城下には若宮氏の屋敷も存在したようだ。

多賀四郎右衛門尉、多賀豊後入道

多賀四郎右衛門 は既に説明したとおり 多賀出雲守家の後裔と思われる。諱では 勝直 号では 昌運 と伝わる人物だろう。

多賀豊後入道 こちらの記事で解説した 宗悦 なる人物であろう。
かいつまむと 彼は某氏から多賀氏へ養子に出された人物で 高忠同様に武芸の才を磨いた。そして高忠の子息 新左衛門尉経家を支え 自らも豊後守として多賀大社護摩堂 不動坊舎造営に関わる。
この御内書の三年前には 何事かの理由で材宗陣営から高清陣営に移り 親ヨリ令生害 とて経家を処断した。
恐らく御内書当時は 多賀一族の御曹司 長童子 後の豊後守貞隆 を養育していた頃合いだろうか。
ここで長童子ではなく豊後入道が出張るという事は まだ彼が幼かったものと推測される。

箕浦又四郎

箕浦庄の有力者だろう。
後年藤堂氏は箕浦氏に娘を嫁がせ 縁戚関係としている。

河瀬右馬丞、弾左衛門尉

河瀬氏は中世多賀大社の神職として活動した関係で 中郡でも名高い一族である。

延徳年間には河瀬九郎左衛門 清定 の子とされる 河瀬梅千代 西今の養徳院領を押妨している。これは河瀬の 先祖が下知を賜って安堵された伝来の地 と主張のうえでの行動で 養徳院からの訴えを受けて幕府の奉行人が頭を悩ませていたことが 当時の幕府奉行人奉書から読み取ることが出来る。
なお河瀬梅千代と養徳院の係争がどのような結末を迎えたのか 彦根市史によれば定かではないそうだ。

また永正二年頃のものとされる京極家奉行人施行状では 差出人の一人 家加 が河瀬氏と比定されている。そうなると 家加 が河瀬右馬丞 弾左衛門尉の何れかである可能性も考えられるだろう。
更にいえば 両者のどちらかが 河瀬梅千代 の成長した姿である可能性も考えられるが 実態は不明である。

天文三年浅井備前守饗応記には 河瀬九郎左衛門尉 河瀬新六 が記される。前者は河瀬梅千代の父と同名であるから後裔と考えられるだろう。
更に 戦国遺文六角氏編 には 天文二十二年の七月十一日に 高野瀬承恒書状 の宛名として 河瀬藤兵衛 が登場する。高野瀬は当時六角氏の奉行である。
この書状は犬上の百姓が多賀神社の社役を怠っていたことを六角義賢が咎めたものだ。

また彦根市史史料には某年二月四日には浅井亮政から援軍を命じられた 河瀬刑部少 も存在する。

上坂治部入道

上坂氏は京極の重鎮として名高い家であると同時に その存在感の高さが京極騒乱を引き起こす事となる。

上坂冶部入道については永正年間に幾つかの書状が見られる。

月日内容
1506永正三年..
1102上坂冶部政道上坂冶部入道政道書状竹生島文書
1511永正八年か..
1111政道陶中務少輔宛宛書状益田家文書
1518永正十五年..
0409大釣齋 政道伊勢六郎左衛門尉殿宛大釣齋書状 切紙蜷川家文書
1521永正十八年..
0609大釣齋政道上坂政道置文総持寺文書

このように眺めると 大釣斎上坂治部入道政道 と呼ぶべきであろうか。
彼の諱については 上坂家信 とするのが有力であるが 傍証には至らなかった。

さて永正年間であれば 東浅井郡志四巻 菅浦文書 にて 閏二月廿五日に 上坂式部丞宗信 菅浦惣庄中 に宛てた書状が収録されている。彼は治部入道の縁者だろう。

なお上坂氏の名前を 天文三年浅井備前守饗応記 に見ることは出来ない。それは永正以後に 彼の後継者信光が国人衆の反発を招いたからであろう。こうした国人衆の反発の中で台頭したのが浅井亮政である事もまた重要である。
ただその後も上坂氏が活動していたことは 上坂文書をはじめとして様々なところで知ることが出来る。しかし同文書の翻刻は一部が東浅井郡志 坂田郡志 戦国遺文六角氏編 愛知県史で翻刻されるのみであり 不十分と言わざるを得ない。
また研究も 現状では末代というべき上坂八郎兵衛に関する小竹文生氏の 羽柴秀長の丹波福知山経営- 上坂文書 所収羽柴秀長発給文書の検討を中心に のみであり 始まってすらもいない。
まさに研究の発展を望むところである。

市村備後守

市村備後守について調べるとどうやら愛知川の在地領主で 市村城という館を構えていたようだ。
史料編纂所データベースで調べると 嘉吉二年(1442)八月二十七日に 市村備後守数信 からの請文 長禄二年(1458)九月十四日に 市村備後守殿 宛の奉書 寛正三年九月六日に 市村備後守 宛の注文状がヒットした。この中で長禄二年の 市村備後守 は数信と付記されている。
すなわち永正の市村備後守は 数信本人 数信の後裔の何れかだろう。

まとめ

以上が京極氏被官についての補則解説である。
興味深いのは佐々木中務少輔入道以下 多賀豊後守と上坂治部が 入道 となっている点だ。何故入道なのだろうか。

また調べていると拝賀などの行事で 帯刀 を務める佐々木一族を見ることが出来る。
これは佐々木一族が幕府でポジションを有していたことの表れなのだろう。ただの一有力国人ではなく幕府にも顔が効いた存在と言えよう。木下聡氏は 室町幕府外様衆の基礎的研究 東京大学日本史研究室紀要第十五号 二〇一一年三月 によれば 外様衆 奉公衆 とも言えるようだ。
同時に このように隆盛を誇った佐々木一族は 見る影も無く歴史から姿を消した。栄枯盛衰は世の常とはいえ 寂しいものである。

また今回は極力伝えられている諱ではなく一次史料の名を尊重した。諱がわからないと釈然としない向きもあるが 二木謙一氏は 中世武家儀礼の研究 のなかで多賀氏について 一次史料の名を尊重した系図を掲載しておられる。
私が今回大いに影響を受けたとすれば 織田信重公と二木謙一氏の御両人と胸を張って答える。また今後のサイト運営に わからないこと を無理矢理 わかった にしないという意識は 大きく役立つことだろう。