織田信重の生涯・目次

ここでは庄九郎の父 七兵衛について紹介する。その諱について 通説では 信澄 が定番だが本章に於いては後述の理由から 信重 で統一する。姓も織田姓で一貫する。
幼名は 御坊 とする。

信重年表

信重を名乗るまで 元亀元年(1570)〜天正三年(1575)

1555~1558織田信勝と妻の一人 和田備前の娘との間に誕生
1558.1102父信勝 伯父の織田信長に誅殺される。御坊はこれより柴田勝家に養育されると云々
1571.0224磯野員昌 佐和山城を明け渡し高島へ移送される。御坊 この時養子入りか
1572.0724織田軍 高島を攻める
1573.0726織田軍の湖西総攻撃
1573.09~員昌 杉谷善住坊を捕らえる
1573.1110横山父子の首が京に上る
1574.0203御坊 岐阜城で行われた茶会で津田宗及をもてなす
1574.0327御房 蘭奢待切り取りで奉行を勤める
1575.07丹波余部城攻めに従軍か
1575.08越前一向一揆攻め。また十四日に吉田兼見と勧修寺晴豊が新庄城で一泊
1575.0902越前にて打下の林与次左衛門が粛清される。同日員昌が山境相論を裁定
1575.0925信長の愛宕鷹狩りに付き従う
1575.0927兼見が七兵衛を訪ねるも出頭していたので会えず
1575.1002志賀郡との郡境 打下と北小松 で境目相論発生
1575.1121志賀の明智光秀 郡境の境目相論を裁定 高島不利のもの

台頭の天正中期 天正四(1576)〜天正七年(1579)

1576.0118明智光秀を見舞いに丹波まで出兵する最中 北白川で兼見と会う
1576.1010船木 朽木の商人に材木の独占を承認する判物書状を発行。信重署名の初出書状となる
1576.某月安土城の築城が始まる。蛇石騒動に名前が見える
1576.某月高島郡を今津を境に南北分割し 北を義父 員昌領 南を信重の領としたと云々
1577.L703閏七月 崇善寺の寺領を安堵する文書を発行
1577.10 この頃 家中の藤堂氏が籾井城攻めの先陣で活躍する
1578.0203磯野員昌の引退に伴い信重が高島一帯を支配 高島郡司となる。
1578.0307善法寺の堯清より書状
1578.0404本願寺攻め。
1578.0629万見重元と共に明石界隈で砦造り
1578.0815安土城相撲で奉行を務める
1578.夏頃この時期三木城包囲の跡部山下に陣を張ったか
1578.09 家中の藤堂氏が丹波大山城攻めで大功との説あり
1578.0930信長の津田宗及宅訪問に同行
1578.1118有岡城合戦で中川清秀の守る茨木城の虎口を押さえる
1578.1127中川清秀 織田本陣で歓待を受ける
1578.1211郡山砦の在番を務める。
1578.某月この年に大溝城を築城 新庄城を廃し移転か
1579.0304摂津播州攻めのため七兵衛上洛
1579.0404播州出兵で三木城攻め もしくは支城端谷城を攻め苦戦か
1579.04 末頃能勢方面を攻めた北郡征伐で功説あり
1579.0527安土宗論に立ち合う
1579.1119開城した有岡城に警固入城
1579.某月この年 嫡男が誕生する

華の天正後半 天正八年(1580)〜天正十年(1581)

1580.0117三木城落城
1580.0225三木城支城の端谷城が開城との説
1580.0227花隈に対する砦造りを命じられる。五日後 池田恒興へ引き渡す
1580.0507安土城堀舟入道の普請が完了。丹羽長秀共々休暇を賜り 高島へ帰国する
1580.08 本願寺 大坂 を検視する矢部家定の警固を担当
1580.1126津田宗及 大坂を訪ね信重と蜂屋頼隆を見舞う
1581.0115安土城の左義長に参加
1581.0223大坂で黒奴を見物し十貫文を与える
1581.0225兼見 信重を訪ねる
1581.0228馬揃えに参加
1581.0311フロイスに酷評される
1581.0510槇尾寺始末のため和泉へ
1581.0603内衆の多胡と牛牧が津田宗及を訪ねる
1581.0902伊賀攻め開戦
1581.0908若狭からの塩輸送に関する書状を発行
1581.1009信長と信忠の伊賀検分に同道。この日は甲賀飯道寺へ
1581.冬頃この年の冬 大和拝領を希望するが却下されるとの逸話あり
1582.0101安土城年頭参賀
1582.0319上諏訪の陣に名を連ねる
1582.04 蘭丸や忠興 信長らと富士山の洞窟を探検したという逸話あり
1582.05 まで五月までに家康饗応の準備 宿舎セッティングに奔走する。
1582.0511阿波方面軍の副将に選ばれ住吉へ。
1582.0521大坂での家康饗応役を丹羽長秀共々仰せつかる
1582.0602本能寺の変が発生
1582.0605信孝と長秀の謀により大坂城にて死す

生年について

信重の生年は弘治元年(1555)と永禄元年(1558)の二説にわかれる。
一先ず 折衷案的に弘治元年〜永禄元年の間に生まれた としておこう。弘治二年(1556)生まれの藤堂高虎と世代が近い。

信重の兄弟

さて父信勝の室には春田刑部の娘 和田備前の娘の二人が居る。しかしどちらが正室なのかはわからない。
一般的に信重の兄弟は二人 信糺 信兼 とされてきた。しかし信糺が晩年仕えた徳島藩の史料などを見ると どうやらもう 2 人居るらしいことが理解できた。それが信直と妹である。
彼らについては 徳島大学附属図書館の 蜂須賀家家臣団家譜史料データベース が大いに参考となる。

なお一説に 新八郎信兼 なる兄弟があったことにされているが 筒井家記 系図纂要 以外に見られ無い為に扱わない。
一説には 伊賀平定後に山田郡を与えられた などと記されているが それは信長の弟 長野信包の間違いだろう。

春田刑部の娘を母に持つ3兄妹

これはデータベースにて津田角兵衛家の累代系図が出典である。
家の祖は信秀 そして彼らの父は 信行 信行の妻は春日刑部の娘としている。
具体的に母親を明示しているのは信糺の系図で 信直の後裔 悦三郎家の系図には 母不詳 と記されている。

しかしながら 信行 信勝 の妻を春日刑部の娘とする系図にて 神田氏室と信直が記されているという点から 凡そ彼らが同腹であると判断したのである。
また此等の系図で共通するのは信重 信澄 が登場しない点で 彼らが異母兄弟であるとの判断に至る。

信糺(角兵衛、勝三郎)

信糺は弘治元年(1555)の生まれとされる。信重が同年生まれなら同い年の異母兄弟となり それ以降に生まれたのならば信糺が長者となるだろう。
はじめ従兄弟の織田信雄に仕えると小さいながらも知行を宛がわれる。信雄の改易後は蜂須賀家に転じ千石取りとなった。

彼の妻は 春日与右衛門 なる人物のようで そこから考えると父の没後は母の実家である春日家の庇護を受けていたのだろうか。
また春日氏は今の春日井市の有力者と考えているが 定かではない。

妹・神田氏室

彼女は神田之成という男に嫁いだ。角兵衛家系図では 神田對馬之成室 と記される。
信糺と信直の間に来る点を踏まえると 彼女は信勝と春日氏の間に生まれた二番目の子なのだろう。

さて 松阪市が平成二十年(2008)に発行した所蔵文書目録 神田文書 には 神田之成 の生涯について詳細に記されている。

彼の通称は清右衛門という 尾張出身の男である。生年は不詳だ。はじめは信長に仕えるも 変後 信雄配下へ転じる。
天正十二年(1584)の松ヶ島籠城戦にも参陣しているようで 秀吉直々に脅しの書状を受け取っている。

信雄降伏後は浪人の後に蒲生氏郷に仕え重臣格となる。しかし氏郷の没後発生した内紛により蒲生家を去ると蒲生家時代の同僚本多正重 正信の弟で彼は徳川家に帰参している の執り成しで加藤清正に仕えた。
慶長期には神田修理亮を名乗っていたようだ。
加藤家では清正没後も仕え 忠広が改易される寛永九年(1632)まで仕えて居る。恐らく 織田家に次いで長く仕えたのはこの加藤家時代だろう。
加藤家改易後は蜂須賀家政に誘われると仕えた。蜂須賀家には妻の兄弟が仕えていたから その都合もあったと思われる。

寛永十四年(1637)から寛永十五年(1638)にかけて勃発した島原の乱では 細川忠利へ陣中見舞いを送ったと思われる。というのも 返状が遺されているからだ。
それにしても神田之成という男は長生きである。本能寺の変から島原の乱は五十五年の事であり 例えば本能寺の変当時に二十歳ならば七十五歳となるから驚きであるが 没年は寛永十七年(1640)の十月である。先の計算を当てはめると 七十八で没したことになる。この時代なかなか珍しい長寿の男である。

ただ神田文書の解説には 對馬 は出てこない。彼の後裔が 對馬 を名乗っていた為に そう記されたのだろうか。

信直(三四郎・孫左衛門)

信直は孫左衛門信直と云う。
後裔は 津田悦三郎 という人物で 成立書を読むに最初は 三四郎 を名乗っていたらしい。
また蜂須賀家に移ってから苗字を 津田 へ改めたと読める点から それ以前は 織田三四郎 を名乗っていたのだろうか。

系図

以下に系図を作るとこうなる。
和田備前守の娘 高島局
┗七兵衛信重
春田刑部の娘
┣角兵衛信糺
┣神田之成室
┗孫左衛門信直

父の死

信重の苦難の生涯を代表するのは やはり父の死であろう。
永禄元年(1558) 父信勝は実兄信長により誅殺される。

寛政重脩諸家譜を読むと 信重は三歳の折に信長に謁するとその命により柴田勝家に引き取られ養育されたという。
しかし信勝の没年が現在では否定されつつある弘治三年(1557)である点を踏まえると 果たして信憑性のある記述であるか大いに疑問を抱く。
その後信長に取り立てられたことを考えると確率の高い事だとも考えられるが ここは一先ず 伝説 の類に留めておいた方が良いだろう。

推論を述べるとするならば 兄弟揃って母親の実家に引き取られたのでないかと考えられよう。

信重の名前

彼の名前だと考えられている名が信長公記に登場するのは 父信勝の死から十七年後の天正二年(1574)の事である。

御坊

二月に岐阜城で行われた津田宗及をもてなす茶会記録に 御通 御坊様 殿様ノ御姪子様也 勘十郎殿御子息也 と見ることが出来る。
まさに 殿様ノ御姪子様 勘十郎殿御子息 とあることから ここで信勝の遺児が信長によって取り立てられていたことがわかる。
この 御坊 なる人物は三月の蘭奢待切り取りの記録にも見られる。詳しくは次のページを読んで欲しいが それぞれ 織田御房 織田御法殿 と記録されており 彼が織田姓であった事も理解出来るのである。

両月の記録を総合すると御坊は ** 織田一門内の序列高き若手有力者 **であった。

七兵衛と姓

元服後の通称は七兵衛である。
天正三年(1575)の九月 兼見卿記に 七兵衛 の名前が登場する。信長の鷹狩りに同道した事で記録されている。これが 七兵衛 の初出となろう。
さてこの通称はこれより天正十年(1582)の死後まで 各所で出てくる事になる。

先にも述べたように七兵衛は元服前から 織田姓 であるように思われる。しかし彼自身が自らの姓を記録した史料は皆無であり 一体自身の姓を何と認識していたのか定かでは無い。
その姓について 外からはどのように思われていたのか考えるために それぞれ表に表してみよう。

表記出典
天正二年(1574)織田御房天正二年截香記 大日本史料
織田御法東大寺薬師院文庫史料 大日本史料
天正年間織田七兵衛尉殿善法寺堯清書状
天正九年(1581)津田七兵衛尉浄土宗与日蓮義宗論之記録
天正十年(1582)少田七兵衛蓮成院記録
小田七兵衛家忠日記
織田七兵衛景勝書状

概ね織田姓であるが浄土宗の記録では 一貫して 津田姓 とした 太田牛一同様に 津田姓 で登場する。

津田姓

しかし 津田姓も根強い。
これは太田牛一の お陰 であり 彼は織田一族に関しては敢えて 織田姓 津田姓 を使い分けていたところがあるらしく 信長舎弟 源五郎長益と信重を 津田姓 で表しているとの指摘もある。
また 信長を 上様 という 生前ないし没後あまり時間が経っていない時点で書かれたことを示す 敬称が見られる点から 最古形態 ごく初期の草稿 と目されている 安土日記 金子拓 織田信長という歴史 信長記 の彼方へ でも 七兵衛を 津田 と記しているようで どうやら牛一は信重が健在の頃から 津田姓 であるとの認識を持っていたと思われる。

同時代 信重を 津田七兵衛 と認識していた人物は他にも居り 浄土宗の 助念 もその一人である。
彼は天正九年(1581)十一月に安土宗論で信長の名代として奉行を務めた信重を 津田七兵衛 と記録 浄土宗与日蓮義宗論之記録 している。それは助念自身が信重を 津田七兵衛 と認識していたことに依るだろう。

信重

では諱はどうだろう。
初出は天正四年(1576)に出てくる 十月 高島郡内の舩木 朽木の商人に対し書状が発行された。署名は 信重 であり これが初出となり以降天正十年(1582)までの六年間で三通発行している。
特筆すべきは天正五年(1577)年閏七月に発行された崇善寺宛て書状 高島郡誌より この署名は 七兵信重 となっている。これが確固たる証拠と言えるだろう。

また重臣堀田秀勝もその書状に於いて 信重 と記している事で より一層の強化となる。堀田文書で特に重要なのが 発行年が天正十(1582)五月以前頃と比定されている事だ。これにより 七兵衛は一生涯 信重 という諱を通したことが理解できる。

もちろん 6 月までに信澄を名乗った書状が発掘されれば変わってくる。後年高島の酒波日置神社の社家 布留宮家に伝わる 大江保河上往古中興近代集入雑記 には 元亀三年(1572)の 為村右衛門尉 主人信澄為武威 として 焼き払いから鏡を治めた旨を述べた書状が収まる。ここに 信澄 を見ることが出来る しかしながら信重は天正二年(1574)に 御坊 御房 御法 であったように 元亀三年(1572)に 信澄 を名乗ることは出来ない。依って信重とは別人であるか 江戸時代に山論のため由緒を述べる際に 作成 されたものと思われる。

襲名時期

信重 という名前は七兵衛以前 天正二年(1574)正月以前に信忠が名乗っていた。信忠の改名以降 信重 という名は空いている事となり 御坊の信重を名乗る事は可能となる。
天正三年(1575)九月の兼見卿記には 七兵衛 という名前が二度登場している。そうなると 信重 を名乗るようになったのは 天正二年(1574)の正月以降から天正三年(1575)夏頃まで と考える事が出来る。

信長公記 では同年夏の越前一向一揆攻めに 兼見卿記 の同年九月項にそれぞれ 七兵衛 という表記が見られるので やはりこの時期に七兵衛信重を名乗るようになったと考えられる。
しかし一方で 翌天正四年(1576)の信長公記 安土築城と蛇石騒動の項では 津田坊 という 表記の揺れが発生している。まさしく七兵衛の幼名 御坊 を指すのであるが 果たしてどのような意図で太田牛一が記したのか 編集したのか定かでは無い。
間違えて欲しくないのは天正四年(1576)には既に元服し 七兵衛尉信重 を名乗って居たのである。

信澄という名への疑義

こうして史料と照らし合わせて考えてみると 信澄 という人は一切登場しない ことがわかる。これは父信勝がかつては 信行 と呼ばれた事と似ている。

これに付随して安土城考古博物館の学芸員氏とメールでやり取りをしたが 氏も信澄という名前に謎を感じており 更に信長研究の第一人者も同様に疑問を感じておられる と記されていた。
専門家の先生ですらわからないことを 私のような素人に毛が生えた者がわかる筈もない。しかし 凡そ軍記物の影響か 信重 を音読みした シンチョウ 信澄 に転じたのかもしれない と考えてみるのであった。

また息子の庄九郎が同名 信重 を名乗っていた事も興味深い。ただこれは一次史料には見られず あくまでも 徳川実紀 寛政重脩諸家譜 準拠であるので鵜呑みは禁物である。

下に参考として江戸時代の軍記物に出てくる 信澄 等表記について 雑多ではあるが成立年別に纏めてみたので参考にされたい。
参考も兼ねて家忠日記も並べている

成立年表記出典
1582 小田七兵衛家忠日記
1622 年頃織田七兵衛尉甫庵信長記
1641 織田七兵衛藤堂覚書
1670 年頃織田七兵衛信澄乙夜之書物
1687 磯野七兵衛関ヶ原合戦誌記
1688 年以降織田七兵衛信澄明智軍記

大溝城と織田家

兼見卿記 には興味深い記述を見ることが出来る。
それは天正十九年(1591)五月十八日条にて 近日三郎殿高嶋大溝ヨリ大津へ御座之由 とある記述だ。兼見は 三郎殿 について何度か記録している。それは大閤参内での記録で 文禄三年(1594)や四年に前田利家と並ぶ 三郎殿 が見える。この 三郎 とは信長の孫で 七兵衛のいとこ甥にあたる織田秀信のことである。
残念ながら織田秀信の論考にて 彼が大溝城を領したとするものは見当たらない。
そこで江戸時代の後半 文政七年(1824)に大溝藩士 前田梅園によって執筆された 鴻溝録 を読んでみると 歴代の代官に 織田三郎 が見えるのである。つまり兼見の記録は前田梅園の筆を立証する史料となる。

更に近年では黒田基樹氏が 大溝侍従 織田秀雄 近世初期大名の身分秩序と文書 という論考を発表しており 織田信雄の嫡男秀雄が文禄年間に大溝を治めていたことを明らかにしている。
そのようなところで前田梅園は鴻溝録の中で歴代の大溝城代官に 織田常真 の名を列記しており 此方もまた秀雄が大溝侍従であったことを示唆する史料となろう。

大溝の地は丹羽 加藤 生駒の後に京極高次が入り 天正十八年(1590)の小田原合戦で高次は 大溝侍従 として秀吉の指示を受けていたが 戦功により八幡山へ移っている。
まさに秀信が大溝から大津へ移動したのは翌年のことであり 弱冠十二歳の城主であった。
秀信が何時まで大溝を治めていたのか定かでは無いが 文禄三年(1594)には高次正室の姪 岐阜宰相秀勝の娘 と結婚したようで 岐阜中納言 を称している。
一方で大溝侍従が現れたのは文禄三年(1594)十月のことで 翌年四月にも見られる。黒田基樹氏は文禄元年(1592)に織田常真 信雄 が帰参している点から 同年頃に大溝を拝領したと説く。
兎にも角にも秀雄は文禄四年(1595)七月には越前大野へ移り 大野宰相 となる。秀雄の移封によって大溝城の機能は終焉を迎え 信重以来の天守は長束正家の居城水口城へ移設されたのである。

このように天正の末から文禄年間にかけて 大溝城は次代を担う織田一族のファーストステップとして用いられた。秀信 秀雄と続けて大溝城を治めている点は何か秀吉政権の思惑を感じる部分がある。そして泉下の織田信重主従は 少年領主として大溝に君臨した いとこ甥 たちを温かく見守ったことだろう。