織田信重の生涯・華の天正後半

気がつくと信重は堀秀政や矢部家定 長谷川秀一らと肩を並べるか それを上回る存在へと成長していた。勿論信長の贔屓もあるだろうが 期待に応えたからこその地位ではないだろうか。
天正全体で見れば 八年から十年という期間はまだまだ前半である。しかし運命の歯車というのは残酷で 織田信重にとっての天正は十年で終わってしまう。
まさに花と散った生涯である。

天正八年(1579)

この年一次史料で見る信重の動向は二件のみ 八月の大坂本願寺下向と十一月に宗及が大坂へ訪ねてきた際の記録である。
また二次史料の信長公記では三月と五月の二件だ。

一月十七日・三木城落城

さてこの年の一月十七日 二年にわたる籠城の末に三木城は落ちた。
この籠城戦を大きく動かしたのは秀吉直々による敵要害の攻撃で 六日に宮ノ上砦を落とすと続いて十一日には鷹ノ尾を攻め落とし 守兵が三木城本丸へ落ち延びるのに付け入り 遂に三木城内への侵入に成功。
敗北を悟った敵将別所長治らは 一命を以て城兵を救いたもうと願い出て十七日に見事に切腹を遂げた。

二月二十五日頃・端谷城開城

話を信重に戻すと 彼は三木城合戦で支城の端谷城攻めに失敗している。
前年に起きた平田合戦に端谷の兵が関与していたとする説が正しければ 彼の失策が大変な騒ぎを起こしたとなる。信重にとって非常に苦々しい城である。

さて三木城が落城した後に端谷城はなんと一ヶ月も持ち堪え 二月に総攻撃を受けると二十五日に落城したとされる。
この端谷城の落城と城主衣笠範景について 幾つかの逸話が遺されている。
まず 別所記 によると 衣笠範景は三木城で討死したという。次に 赤松諸家大系図 によると衣笠範景は落ち延び帰農し 領民と共に百姓として暮らしたという。
また地元の伝承では衣笠範景は端谷で討死したとされる。

逸話では以上のようになるが さてはて新修神戸市史ではどうだろうか。
要旨をかいつまむと 忽然と消え去る また端谷の支城 城ヶ谷砦では焼土が確認されており 高島時代に寺社を焼いた経験と 川西多田院に焼き討ちの伝説を持つ信重の関与を疑うのは当然と言えよう。

ところで神戸市は平成十六~十七年頃(2004-2005)に端谷城の発掘調査を行っている。
調査結果資料を読むと 本丸物見台に瓦葺の建物の存在が確認されたこと 物見台の付近に瓦葺きの建物が検出されたこと その建物から甲冑の一部 胴丸 が発掘された事が挙げられている。
城跡から形として残る甲冑が出土したのは全国的に見ても稀であるそうで 端谷城は名実共に神戸市を代表する歴史的城郭と言えるだろう。

二月二十七日・砦普請

二日後の二十七日 信重は山崎で信長と対面し丹羽長秀と塩川長満と共に 花隈出兵と花隈城に対する砦の築城を命じられる。花隈城はまだ荒木方として健在であった。
この普請は五日ほどで完了し 池田恒興と元助 荒尾古新親子三人に砦を引き渡した。

五月七日・安土城下普請完了

次に信重の名前が出るのは五月七日安土城下普請完了の事である。
ただその二日前の五日に安土城内で相撲が行われ 一門衆がこれを見物とあるので 信重も同行している可能性が考えられる。
さて五月七日 それまで普請を行っていた安土城下の堀や舟入 道の作業が完了した。
これを受け信長は監督者として差配していた丹羽長秀と信重に暇を与え 在所へ帰り諸事を申し付け戻れ と命じた。
これにより丹羽は佐和山へ 信重は高島 大溝だろう への帰還を果たした。

六月一日・堀田弥次左衛門秀勝書状

頂妙寺文書 京都十六本山会合用書類第一巻 には某年霜月朔日付けの信重書状が収録されているが その文末に 猶堀田弥次左衛門尉可申入候 と記されている。
それに付随した内容なのか 某年六月一日付の堀田秀勝書状も収録されている。
いずれも 諸寺代大雄房 に宛てたもので堀田秀勝書状には 鵞眼 弐千疋 と記されている事から 法華衆から信重への贈物に対する返礼状だろう。

天正七年(1579)の項にて信重書状を同年と推定したが 堀田秀勝書状は何時だろう。
既に調べ掲載したとおり 六月に在陣していたのは天正十年(1582)のみである。天野氏の記述をもとにすると 天正十年(1582)は有り得ないだろう。
ただこの年の六月であれば 信重が信長より休暇を賜っているので その間に重臣である堀田が書状を認めるのは容易な事だろう。
そうした事から天正八年(1580)の項に挿入する。

八月三日・大坂入城

兼見卿記の八月の項を読むと 八月三日に教如の退場と七兵衛下向云々と記されている。
元亀元年以来 織田との敵対を続けてきた大坂本願寺の顕如は 四月に退去。なおも長男の教如は本願寺に籠もり抗戦していたが 八月二日に遂に退去している。
これにより本願寺は接収と相成る訳だが この接収作業には近衛前久と矢部家定が関わっている。
信重が大坂に入ったのは何時だろうか。この細かい部分は不詳だ。しかし吉田兼見が退去と下向を知ったのは三日であるから 信重が下向したのは一日~二日頃だろうか。

さて教如の退去と同じ頃 本願寺は突然の失火によりその敷地の多くが焼失した。これ教如が最後に見せた抵抗との説が有力ではあるが 火攻めを得意とする信重の関与も疑える。真実は如何に。

大坂の司令官

本願寺の決着が付いた頃 大坂の司令官として君臨していた佐久間信盛 信栄親子が追放された。
後述するが 翌年二月二十三日付けイエズス会日本年報にて信重は 大坂の司令官 と記されている。
これは佐久間親子の後任として信重が据えられたのだろうか。
信重が大坂に駐留していたと考えられる一次史料が 津田宗及の他会記である。

十一月二十六日・宗及見舞い

十一月二十六日 霜月 宗及は大坂を訪ねると信重と蜂屋頼隆を見舞った。
この一件に留まるのが惜しいところである。

天正九年(1581)

この年一次史料で見られる動向は二月と六月そして九月の三件 二次史料の信長公記では四件見られる。

一月十五日・安土での行事

一月十五日 安土で左義長 爆竹 と馬揃えが行われる。
この中で信重は連枝衆として加わり 信雄 信包 信孝 長益に続いて馬上姿を披露した。
この安土城下でのイベントを気に入ったのだろうか 信長は洛中でも馬揃えを執り行うことを提案した。

二月十三日・大坂の指令官、弥助と会う

記録上日本人が初めて会ったアフリカン 黒人として名高いのが 弥助 だろう。
彼は信長公記の二月二十三日項に 黒坊主参り候 と記され その年齢は二十六か二十七。剛力の者で 十人相手にも勝る逸材という。
イエズス会日本年報 には次のように記されている。

其色が自然であつて人工でないことを信ぜず 帯から上の着物を脱がせた。信長は又子息達を招いたが 皆非常に喜んだ  今大阪の司令官である信長の甥も之を觀て非常に喜び錢一萬 十貫文 を 與へた

後にも先にも 信重が 大坂の指令官 と記されたのは この時の記録のみである。
この時 信長もその子息も弥助の肉体パフォーマンスを見て喜んでいる。恐らく信重も同じように喜んだのだろう。
何かを与えたのは信重のみだ。十貫文となれば 現在の価値で約百万円となるはずなので 相当な評価をした事になる。この評価は純粋な肉体への評価か。それとも 母国から離され遠く極東の島国に連れてこられた事を不憫に思っての同情なのだろうか。
ちなみにこの出来事の場所は 京ではないかと見ている。

ところで 耶蘇会日本年報 の天正九年三月十一日(1581.04.14)付けフロイス書簡には勝家や高山右近 羽柴秀吉らの動静が記されているが 信重についても記されてる。

大阪には信長の部将が三人居り 其中の一人は彼の甥で甚だ勇敢であるが 酷なことはネロ Nero に似て 数日前二人の罪人を刑に処する時 手足を縛り 人を食ふ激しい馬に乗って 其処で両人と噛殺させた

七兵衛と名指しでは無く秀吉の次に来るため 秀吉の甥御であるとも考えられるが フロイスは翌年の書簡で殺害された信重について 此人は残酷で諸人から暴君と見られ と記し 上の記述と合致する為 信重についての記述であると判断した。
フロイスは罪人処刑について 古の暴君王ネロを引き合いに出している。全くボロクソな評価であるが 悪名もまた評価である。

二月二十五日・馬揃え直前の信重

二月二十五日 吉田兼見は信重を訪ねた。この時 兼見は当番として二条御所に仕えて居たので 信重もまた洛中に居たのだろう。恐らくこれは三日後に控えた馬揃えに備えて上洛していたのだろう。
この時兼見は信重に対して ユカケ二具 裏付也 を贈ったらしく 堀田弥次兵衛が披露したと記されている。
この堀田弥次兵衛とは信重の重臣たる堀田弥次左衛門秀勝と同一人物だろう。堀田もまた兼見より 五十疋遣之 とあるので 織物か銭でも贈られたのだろう。
また同日兼見は森御乱 その家人青木又介 猪子兵助といった信長の側近をも訪ねているようで 彼の記すところ馬揃えの日程が三日後の二十八日と定まったのも二十五日のようである。

二月二十八日・馬揃え

そして迎えた二十八日 洛中での馬揃えが挙行された。
この時も信重は連枝衆として参加し 信忠 信雄 信包 信孝に続き馬乗り十騎を従え京の民衆に馬上姿を披露した。
三月に禁中からの要望を受け再度馬揃えが行われているが ここで信重が参加したのかは不詳である。

五月十日・槇尾寺始末

五月十日 信重は宮内法印松井有閑や堀秀政 丹羽長秀と蜂屋頼隆と共に和泉へ入った。
これは四月の堀秀政による和泉指出 検地 槇尾寺という寺が反発した事件を受けての下向で或る。
結局四月の末には堀秀政の兵に寺は囲まれ 二十日の夜に寺の衆は弱々しく寺を退去したという。しかし退去前にはその処遇が定められていたらしく 坊舎の検分が終わると建物は没収の後に建材として再利用する為か壊されてしまった。また伽藍や寺庵 僧坊に加え経巻は堀秀政の検使のもとで焼き払われたようだ。
またしても寺が焼かれた事になるが その場に信重が居たか迄はわからない。

六月三日・七兵衛の御内衆

六月三日の朝 津田宗及を信重の内衆 多胡左近兵衛と牛牧与二兵衛が訪ねてきた。
二人が宗及を訪ねた理由は定かでは無い。しかし可能性としては信重が大坂に駐留していた 大坂へやってきた 大坂を離れる そうした事の挨拶として内衆二人が使わされたのでは無いかと考えられるだろう。この月の末 羽柴秀吉は鳥取へ出陣した。最近の研究では信長の動座も考えられていたらしい。
これは結局実現しなかったものの 信重も信長の側近として 調整に奔走していたのだろうか。

九月二日・第二次天正伊賀の乱について

九月二日 伊賀攻めが行われ信重は滝川 丹羽と共に伊賀国北方より攻め寄せた。と これは兼見卿記の同月六日の項に記されたものである。
これは俗に言う 第二次天正伊賀の乱 というものだが 多聞院日記 蓮成院記録や信長公記に信重の名は見られない。

伊賀攻めに関しては伊賀生まれの菊岡如幻が著した 伊乱記 に於いても その名 信澄 が登場している。
信澄 は信雄率いる伊勢地口軍一万の副将として九月二十七日に攻め寄せたとある。

阿保口に発向 先柏尾村本田の要害を打ち破り 郷士百人を討ち死させり。残党男女波般若寺に隠れる。七兵衛 先登して別府や岡田の両郷を焼き払う。別府の住人新金七 福森喜平治 城八太夫 家の子数千人相添切て出きらびやかに討ち死す。寄せ手はそれらの妻子を生け捕りにして往国に渡す。
その後 両将は小波田の郷 馬塚を始め弓手左手に幕を打 所々番手役人を伏置 厳敷守護しけると也。伊乱記巻四
十月五日 信雄と信澄は阿保谷の所々を討取 柏原へ押し寄せ北出村に本陣を構える。伊乱記巻五

柏尾 別府 岡田は何れも現在の近鉄青山町駅周辺で 小波田は桔梗が丘駅の周辺だが 両駅間は距離がある。
伊賀という国で考えると東部に位置する地域である。

しかし近年では 伊乱記 の記述は信頼性が低くなっている。それは日付の問題もあるが 信重を取り上げる以上は彼がこの乱に参加していたのか といった点から考えねばならぬ。
結果的には信重は天正伊賀の乱の軍には加わっていないのではないか。

九月八日・川原林文書と天正伊賀の乱

この日信重は若狭からの塩荷輸送権について 今津も新庄と同様に安堵する旨を今津の地下人に対して発行している。川原林文書
これは若狭から高島を通る塩荷があった事を示す書状である。新庄馬 という部分から 大溝城に中心機能が移された後も新庄は要地であった点 馬で運ばれていた 以上二点を読み取れる。
福井県史 によると今津や新庄から船荷として積み出していたようだ。
また新庄については海津と若狭の境目にある三方郡の新庄を指す説もあるそうだ。

この書状は少なくとも近江国内で発給されたと思われ 信重が伊賀の乱に従軍していないことの傍証となろうか。
従軍していないのであれば多聞院日記 蓮成院記録 信長公記に七兵衛が見られないことは納得が出来る。
一方で兼見が誤った情報を得たことも興味深く 菊岡は兼見卿記を閲覧した可能性も考えられよう。

十月九日~十三日・伊賀検分

さて信長公記では十月九日に信重の名前が登場する。
つまり終戦後の信長 信忠親子による伊賀検分に同道した形となる。
まず九日に甲賀へ入ると飯道寺に登り そこから景色を一望したという。調べてみると飯道寺からは湖国が一望できるということで 一行は安土城を眺めていたのかもしれない。そして この日は飯道寺で一泊したのだろう。

信長 信忠親子と信重が伊賀へ入ったのは翌十日の事で 一宮を訪ねると国見山に登り伊賀国内を一望した。
ここでは滝川一益が御座所や軍勢の駐留場所を用意しており 戦勝という事もあってか素晴らしい饗応となったようである。
十一日は雨となり一宮に留まったようで 十二日に信長一行は信雄と丹羽長秀 筒井順慶が陣所を構える小波多を訪れ将兵を見舞った。
そうして十三日に一宮を出ると安土への帰路についた。これにて天正伊賀の乱は終結と相成ったのである。

大和を欲した信重?

この年の一次史料 二次史料における信重の記録はこれで終いとなる。しかし翌天正十年正月六日の 蓮成院記録 旧冬の話として信重が登場するので少し記しておこう。
曰く 或人物語 によると旧冬に小田七兵衛殿 信重 大和拝領 を直訴した。
しかし信長 大和は神国で古くから子細ある として退けられてしまった。
この話は 或人物語 というぐらいなので逸話の類いと判断するが 興味深い噂話である。

多聞院日記 によると この前年の七月に筒井順慶が神戸信孝を猶子とするという風聞が奈良に流れたらしい。結局のところ これは風聞で終わったが またしても大和の相続を巡り風聞が流れた形となる。
蓮成院記録 或人物語には 信長が 大和は縁起が悪い と感じていた旨も記されているようでもある。というのも本願寺攻めで斃れた塙直政が大和の守護をしていた事 更には松永久秀の一件もあり 織田家にとって悪縁と感じるのは当然とするのが通説である。
では信重は実際に大和を欲したのだろうか?それは定かでは無いというのが結論である。考えてみると高島は約六万石といわれており 筒井順慶が十二万石の主といわれているので 二倍の増加しか見込めない。
さらに信長も 大和は神国で古くから子細ある としているように 大和は歴史ある寺社が強固な権益を保持している。筒井順慶は寺社の出であるから 信長としても面倒を起こさずに済む謂わば無難な領主として置いていたとも考えられる。
信重は少年時代から寺社焼きを得意とするので 万が一彼が大和の国主となった暁には歴史ある寺社仏閣は今に伝わらず 多くが焼き払われ 大和は灰燼の地になっていた可能性があるだろう。

天正十年(1582)

この年一次史料では五月までに書状が一件 一月に蓮成院記録で三件 六月に宗及や多聞院 家忠日記などでその名前を見ることが出来る。
また信長公記には二件記されている。

正月の信重

正月 安土城で年頭参賀が行われた。蓮成院記録によれば 信重は信忠 信雄 信孝に続いて記されている。しかし馬揃えなどの序列を踏まえると その次の信包が四番目であると推測され 信重は五番目だろうと思われる。

三月十九日・上諏訪の陣

三月十九日 信重の名を信長公記の上諏訪 法花寺 陣の項に見ることが出来る。
信長が甲斐を目指し安土を出たのは三月五日の事である。
時に甲斐の武田勝頼は三月十一日に滅び この信長動座は戦勝の検分と言えるだろう。ところでこの時 光秀が信長の怒りを買ったという逸話が今に伝わるが 果たして真実なのだろうか。定かでは無い

四月十二日頃か・甲州入りの逸話

この信長甲州入りでは信重が登場する逸話が一つ。
四月十二日 信長は富士山を見物した。
富士の雄大さに気を良くしたのか 小姓たちと馬を走らせたり 白糸の滝 上井手の人穴を見物したと信長公記には記されている。
さて細川家記 綿考輯録 には この人穴見物に纏わる話が記されている。
信長は側近に穴の中に入るよう薦めると 細川忠興と長谷川秀一 森乱と信重がそれぞれ前後二組となり見物したという逸話だ。
奥に進むと松明は消えてしまい これは危ないと 4 人は引き返すと信長より 日頃思ってたよりは臆病 とからかわれたらしい。
忠興はその言葉に発奮し再び穴へ突入したが 慌てた信長に引き戻された。

四月~五月・家康饗応

次に信重が登場するのは五月の家康饗応についてである。
まず卯月 四月か に遡る。卯月三日 信重の重臣堀田弥次左衛門秀勝は保子勘左衛門という男 商人か に対し 安土大宝坊の材木をそちらの浜へ送りました。大宝坊については信重様に断ってあるので 間違いの無いように取り扱ってください といった内容の書状を送っている。山本家文書
大宝坊というのは五月に家康が宿所とした寺である事から 安土考古城博物館はこの書状を同年と比定している。
この時期信重は信長に付き従い甲信駿を訪れている。すなわち堀田は近江で留守を守っていたことが理解でき さらに信重自身も遠征中も領国支配を行っていたとも推測できる。

五月二十一日・信重、大坂入り

五月二十一日 信重の姿は丹羽長秀と共に大坂にあったと信長公記には記されている。
これは信長より大坂で家康を接待すべしとの命によるもので 同時に四国攻めの準備も兼ねていたのだろう。公記によれば五月十一日には住吉に四国方面軍の渡海船手配が完了していたらしい。

副官織田七兵衛信重

さて四国方面軍の司令官は信孝で 副官に丹羽長秀と信重そして蜂屋頼隆。また軍監は矢部家定となっている。
この四国方面軍の兵には丹波の浪人も動員されたらしく 一種寄せ集めの側面もある。
この時点での信重の兵力は不明である。

六月五日・大坂城事変

六月二日 舅明智光秀の乱心が為 本能寺にて信長死す。同日二条城にて信忠死す。他に菅屋長頼ら吏僚 小姓衆数多討死。
同月五日 信孝と丹羽長秀は疑心を抱き大坂城を襲撃。
織田七兵衛信重とその家中 渡辺与右衛門と堀田秀勝を殺害し その首を堺に晒す。
後年九鬼広隆 信孝配下 の記録 大坂城城門にて一番槍 と武功あり。
また丹羽長秀家臣上田重安は信重を討ち取ったとも 果てた遺体から首級をあげたとも伝わる。

信重の死について多聞院英俊は 一段逸物 と記す。
また育て親柴田勝家は魚津攻略後の十日以降 丹羽長秀に対し
七兵衛生害の儀 確かに承りました。ともかく最善の判断だと思います
と返書に記している。泰巖歴史美術館

信重が再建に尽力した 大善寺 では 毎年六月五日 令和四年は前日の四日 に彼を供養する 信澄忌 が行われているそうだ。